【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
「では――先帝陛下が、まだ御健在であられた頃よりお話しいたしましょう」
そう告げたバフォメットの声から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。
賜血式を終え、人払いされた部屋には静けさが戻っている。つい先ほどまで広場を揺らしていた歓声も、分厚い石壁を隔ててしまえば聞こえてこない。
オレは椅子に座ったまま、目の前に立つ黒山羊を見上げた。
カイゼン・フォン・ゲルマニア。
今の身体にとっては父親であり、先代の第六真祖でもある。
第三次吸血鬼大戦の勝敗をひっくり返した、世界でもっとも有名な裏切り者。その後、自らの行いを悔い、広大だった支配領域を手放し、最後には一人娘であるリリーシャへ真祖の座を譲って死んだ男。
知識としてなら知っている。
けれど、それは全部、歴史の中にいるカイゼンだった。
父親としてどんな人間だったのか。
皇帝として何を考え、何を見ていたのか。
オレは何も知らない。
「……バフォメット?」
「は」
「そんなに構えなくても大丈夫だよ。聞きたいって言ったのは私なんだから」
「構えておりますでしょうか」
「いつもよりちょっと怖い」
「私には山羊の顔しかございませんが」
「それ、便利だからって何度も使わないでね」
「失礼いたしました」
少しだけ空気が緩んだ。
バフォメットはそのまま話し始めるのかと思ったが、部屋の奥にある戸棚へ向かうと、一番下の引き出しから古びた一冊の帳簿を取り出した。
黒い表紙はところどころ擦れ、角も丸くなっている。
「それは?」
「先帝陛下の御代より、私が保管しているものにございます」
「バフォメットの?」
「はい」
「日記?」
「そのような可愛らしいものではございません」
「ちょっと残念」
いつもなら何か返してきそうなところだったが、今日はそれ以上続かなかった。
バフォメットは帳簿を机の上へ置く。
「ご覧ください」
「開いてもいいの?」
「そのためにお持ちいたしました」
表紙をめくった。
最初に目へ入ったのは、日付と名前だった。
一人、二人、三人。
次の行にも名前があり、その横には年齢と居住区が書かれている。次のページも、その次のページも同じだった。
「これ……何の名簿?」
「飢えによる死亡者にございます」
めくろうとしていた指が止まった。
「戦死者じゃなくて?」
「はい」
もう一度、ページを見る。
百歳を超えた名前もあれば、十代もいる。その中に、八歳という数字を見つけた。
「……子供もいたんだ」
「おりました」
「この子は?」
名前を指すと、バフォメットは少し身を寄せて確認した。
「覚えております」
「本当に?」
「この帳簿へ名を書いたのは私ですので」
そう言われて、何も返せなくなった。
オレにとっては生まれる前の話でも、バフォメットにとっては違う。
この男は、その時代にいた。
「最初から、名前を記録してたの?」
「いいえ。当初は数だけでございました」
「数?」
「前日に何名が死亡したか。それを毎朝、先帝陛下へ報告していたのです」
バフォメットが帳簿の古いページを指でなぞった。
「ある朝も、いつものように申し上げました。昨日は三十一名でございました、と」
「うん」
「すると、先帝陛下が私に『誰だ』と尋ねられました」
「誰?」
「私もそう聞き返しました。何をお尋ねなのか分かりませんでしたので」
その光景を想像する。
今より少し若かったバフォメットと、その前に座っているカイゼン。
「先帝陛下は大変不機嫌な御様子で、『三十一人とは誰だ。名前を聞いている』と仰いました」
「…………」
「私は答えられませんでした。人数しか調べておりませんでしたので」
「怒られた?」
「ええ。『二度と数字だけ持ってくるな』と」
バフォメットが帳簿へ視線を落とした。
「それからです。亡くなった者の名を、一人ずつ記すようになったのは」
ページをめくる。
名前が続いている。
「毎日、お父様に読んだの?」
「可能な限り」
「嫌にならなかった?」
「なりました」
即答だった。
「そんなにはっきり言うんだ」
「三十一という数字だけであれば、三十一で終わります。しかし名を調べれば、その者がどこで暮らし、誰と暮らしていたのかも分かる。母親が亡くなれば子が泣き、子が亡くなれば親が泣きます」
バフォメットは淡々としていた。
だからこそ、その言葉が重かった。
「名を知れば、簡単には終わらなくなる。それでも先帝陛下は、名を聞かれました」
「何のために?」
「さあ」
「分からないの?」
「先帝陛下は、何もかも臣下へ説明されるような御方ではございませんでしたので」
「……面倒くさそう」
「たいへん面倒な御方でございました」
そこは即答するんだ。
少しだけ笑ってから、もう一度帳簿を見る。
八歳。
さっき目に止まった名前が、まだそこにあった。
「この子は、どうして?」
「母親と二人で暮らしておりました。父親は大戦で亡くなっております」
「母親も死んでるね。この子より三日前」
「はい」
「……何があったの?」
「当時の配給は、一人分では身体を維持できないほどまで減らされておりました」
「…………」
「母親は、自らの配給分を娘へ与えております」
帳簿へ視線を落とす。
母親が死んだ三日後。
娘の名前にも、同じ記録が残っていた。
「……この子、自分の分とお母さんの分で、ぎりぎり生きてたんだ」
「左様にございます」
「それで、お母さんが先に死んで……」
「娘も、自らの配給だけでは持ちませんでした」
「……三日」
「はい」
今日、広場で見た親子を思い出した。
『あなたが今、お腹いっぱい食べられるのは――陛下のおかげなのよ』
あの母親の言葉を聞いたときは、オレが領土を増やしたから食糧が安定した、くらいにしか考えていなかった。
でも。
腹いっぱい食べられないというのは、こういうことだったのだ。
「珍しくなかった?」
「何がでございましょう」
「親が、自分の分を子供にあげること」
「珍しくはございませんでした」
バフォメットは、それ以上何も付け加えなかった。
それで十分だった。
「お父様は、何をしてたの?」
「手を尽くしておられました」
「例えば?」
バフォメットは少し考えた。
「騎士団の食糧庫を開くよう命じられたことがございます」
「軍の分を民間に回したの?」
「はい。私は反対いたしました」
「何で?」
「有事の際、兵が動けなくなりますので。当時の私は、『すべて民へ回せば一週間も持ちませぬ』と申し上げました」
「お父様は?」
「『一週間あるなら、一週間食わせろ』と」
「…………」
それは。
何となく、好きな答えだった。
「結局、開けたの?」
「命令でございましたので」
「その一週間のあとは?」
「また足りなくなりました」
「じゃあ次は?」
「貴族の蔵を開かせました」
「絶対揉めたでしょ」
「ええ。たいへんに」
「どうしたの?」
「食糧を隠していた者は斬りました」
「さらっと怖いな」
「飢えた民の横で食糧を隠す方が悪いかと」
「それは……まあ、そうだけど」
たぶんオレでも同じことをする。
なので、あまり強くは言えない。
「それで足りた?」
「いいえ」
「じゃあ?」
「配給を減らしました。それでも足りず、最後には新たな賜血も止めました」
そこで、今日の式典へ話が繋がった。
一人を吸血鬼にする。
それは今日一人分の食事を用意すれば終わりではない。
明日も。
その次の日も。
百年後も。
生きている限り食べさせ続けなければならない。
「昔は、今日みたいなこともできなかったんだ」
「はい。功績ある者であろうと、忠義ある者であろうと、国がその後の生を支えられぬ以上、血を与えることはできませんでした」
「それでも、死ぬ人は減らなかった?」
「はい」
帳簿が答えていた。
ページが何枚もある。
「食べ物って、そんなに急になくなったの?」
「いいえ」
バフォメットは首を横へ振った。
「少しずつでございました」
「少しずつ?」
「昨日まで来ていた荷が、今日は届かない。一本の街道が使えなくなり、一つの牧場が焼け、次は輸送隊が戻ってこなくなる。それが何度も続きました」
そこでバフォメットは一度言葉を切った。
「戦後のアフリカは、先帝陛下を許しませんでしたから」
「……まあ、そうだよね」
カイゼンはアラストルと人類を裏切った。
勝利目前だった戦争を、たった一度の裏切りでひっくり返した。
その張本人の支配を、戦争が終わったからといって素直に受け入れるはずがない。
「人間の反乱が起きて、輸送ができなくなった」
「はい」
「それで、お父様はアフリカから撤退した」
「はい」
そこまでは知っている。
原作の設定資料にも載っていた。
ただ。
その先は考えたことがなかった。
領土を失った。
地図から色が消えた。
国力が落ちた。
ゲームの設定として見れば、それで終わる。
でも現実では、地図から色が消えるたびに、その土地から運ばれていた血や肉も消えていく。
最後には。
この帳簿へ名前が増える。
「……それなら」
疑問が浮かんだ。
「取り返せばよかったんじゃない?」
バフォメットがこちらを見る。
「アフリカを?」
「全部じゃなくてもいいよ。食べ物が足りないなら、また外へ出ればよかった。お父様は真祖だったんでしょ?」
弱体化していたとしても、第六真祖だ。
軍も残っている。
食わせるために領土が必要なら、奪えばいい。
少なくとも。
オレなら、その選択肢を考える。
「私も、同じことを申し上げました」
「バフォメットも?」
「はい。何度も」
「お父様に直接?」
「無論にございます」
「何て答えたの?」
「最初は、何も」
「無視?」
「無視というより、お答えになりませんでした。私もしつこく申し上げましたので、最後にはお怒りになりましたが」
「怒らせたんだ」
「地図を投げつけられました」
「結構ちゃんと怒ってるね」
「私も腹が立ちましたので、拾って机へ戻しました」
「強いなあ」
「当時は若かったもので」
今も十分強いだろ。
「それで?」
「私は申し上げました。『民を飢えさせるくらいなら、もう一度戦うべきです』と」
「うん」
「先帝陛下は、『分かっている』と」
「じゃあ、どうして」
「私も同じことを聞きました」
バフォメットの声が、少しだけ低くなった。
何十年も前に聞いた言葉を、今でもはっきり覚えているらしい。
「『もうたくさんだ』」
「…………」
「それだけでございました」
「何が?」
「私も尋ねました。何がでございますか、と」
「答えた?」
「はい」
バフォメットは少し間を置いた。
「『勝つたびに何かを失うのは、もうたくさんだ』と」
部屋が静かになった。
勝つたびに。
何かを失う。
おかしな言葉だった。
第三次吸血鬼大戦で、カイゼンは勝った側だ。
アラストルは敗れた。
人類も敗れた。
ゲルマニアは戦勝国として広大な領土まで与えられた。
なのに。
「お父様、大戦の前からそんな人だったの?」
「いいえ」
バフォメットは即答した。
「先帝陛下は、戦場へ出ることを好まれる御方でした。止めても聞かれませんでしたし、一度など『皇帝が前にいれば兵も前へ出る』などと申されまして」
「それ普通に駄目でしょ」
「私もそう申し上げました」
「何て返された?」
「『ならば、お前も来い』と」
「何それ」
「そのような御方でした」
「面倒くさいね、お父様」
「たいへん面倒な御方でございました」
バフォメットが、ほんの少しだけ懐かしむように言った。
「ですが、何かを失うことを恐れて足を止めるような御方ではなかった。少なくとも、大戦以前は」
「大戦のあと、変わったんだ」
「はい」
「裏切ったことを後悔したから?」
「それも、あったのでしょう」
その答えが引っかかった。
「それも?」
「私は先帝陛下ではございません。あの御方が何をお考えであったのか、そのすべてを知っていたとは申し上げられませぬ」
「じゃあ、バフォメットにも分からないことがあるんだ」
「ございます」
「何でも知ってる顔してるのに」
「山羊の顔にございます」
「それ今日二回目」
「失礼いたしました」
少し笑った。
でも、すぐに別の疑問が浮かぶ。
「そもそもさ」
「は」
「お父様は、何でアラストルを裏切ったの?」
バフォメットの動きが止まった。
ずっと引っかかっていた。
第三次吸血鬼大戦。
カイゼンはアラストルの最も信頼されていた盟友だった。
そのまま戦えば勝てた可能性が高かったのに、勝利目前で突然ジブラルタルを開いた。
なぜ。
原作でも、そこだけは最後まで語られなかった。
「知ってる?」
「存じません」
「本当に?」
「はい」
即答だった。
少し意外だった。
「聞かなかったの?」
「一度だけ」
「お父様本人に?」
「はい」
「何て言ってた?」
「『お前が知る必要はない』と」
「…………」
何だそれ。
「いや、あるでしょ。バフォメット、大将軍だよね?」
「当時の私も同じことを申し上げました」
「だよね」
「執務室から追い出されました」
「…………」
「その後、二度と聞いておりません」
「お父様、思ってたよりかなり面倒くさいな」
「先ほどから申し上げております」
でも。
妙だった。
世界を裏切るほどの理由があった。
それを、自分の大将軍にも言わなかった。
何を隠していたのだろう。
何を得るために。
何を失ったのだろう。
「最後まで教えてくれなかった?」
「少なくとも、私には」
「そっか」
また一つ。
分からないものが増えた。
カイゼンなんて、死んだ設定上の人物だと思っていた。
リーシャの父親。
先代ベルゼブブ。
裏切り者。
その三つを並べれば、それで足りる人間だと思っていた。
でも実際は、死んだ国民の名前を毎朝聞き、軍の食糧庫を開け、貴族を斬り、それでも国民を食わせられなくて。
もう一度戦えばいいと言われても。
もうたくさんだと答えた。
そして、何かを隠したまま死んだ。
「この帳簿、どこまで続いてるの?」
「先帝陛下の御代の終わりまでにございます」
後ろの方を開いてみる。
最初のページより名前は減っている。
けれど、なくなってはいない。
「お父様も、最後まで見てた?」
「はい」
「死ぬ前まで?」
「ご自身で文字を読むことが難しくなってからも、私に読ませておられました」
「…………」
死にかけた父親の横で、バフォメットが一人ずつ名前を読む。
その光景を想像すると、妙に胸が詰まった。
「最後に、この帳簿について何か言ってた?」
「ございました」
「何て?」
バフォメットが黒い表紙へ手を置いた。
「『捨てるな』と」
「それだけ?」
「理由も尋ねました」
「答えてくれたんだ」
「珍しく」
少しだけ間があった。
「『次の皇帝が、自分は正しいと思い始めたら見せろ』と」
「…………」
今。
見せられた。
「私、そんなに調子に乗ってた?」
「そのような意味ではございません」
「じゃあ、何で今日?」
「ベルゼブブ様が、ご自身から先帝陛下の時代を知りたいと仰ったからです」
そうだった。
今日の賜血式のあと。
オレから言った。
先代の頃の飢えを、もっと聞かせてほしい。
お父様の時代に何があったのか、ちゃんと知っておきたい。
だからバフォメットは。
これを出した。
「……八年も持ってたんだ」
「命令でございましたので」
「真面目だね」
「臣下にございます」
そういうところは、本当に変わらない。
オレは帳簿を閉じた。
「ねえ、バフォメット」
「は」
「お父様は、間違ってたと思う?」
聞いてから。
ずるい質問だったかもしれないと思った。
バフォメットはカイゼンの臣下だ。
今でも。
簡単に悪く言えるわけがない。
「思います」
「え?」
予想していなかった。
「どこが?」
「民を飢えさせました」
あまりにも、はっきりしていた。
「皇帝として、それは失敗にございましょう」
「…………」
「ですが、私は先帝陛下を間違った皇帝だったとは思っておりません」
「同じじゃないの?」
「違います」
「どう違うの?」
「人は間違えます」
バフォメットは、それだけ言った。
「皇帝も?」
「当然にございます」
「現人神でも?」
「特に、ベルゼブブ様は」
「何で私だけ強調したの?」
「日頃の行いでしょうか」
「ひどいな」
思わず笑った。
でも。
少しだけ救われた気もした。
間違える。
皇帝でも。
お父様でも。
オレでも。
「でも、皇帝が間違えたら人が死ぬんだよね」
「はい」
そこは。
優しくしてくれなかった。
「ゆえに」
バフォメットは帳簿を指した。
「忘れてはなりません」
「何を?」
「正しかったことではなく、間違えたことを」
窓の外から、大きな鐘の音が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
「何?」
「入港の合図にございます」
「輸送船?」
「おそらくは」
窓から港は見えない。
でも、何が運ばれてくるのかは分かる。
オレは少し考えてから立ち上がった。
「バフォメット」
「は」
「港、見に行こう」
「今からでございますか」
「うん」
黒い帳簿を見る。
「たぶん、今見た方がいい気がする」
◇
ヨコハマ港は、昨日見た市場とは比べものにならないほど騒がしかった。
何隻もの大型輸送船が岸壁に並び、その周囲を兵士や作業員が忙しなく行き交っている。荷揚げ用の機械が軋み、船倉から樽や木箱が次々と運び出されていた。
「血液樽は第三倉庫へ!」
「そっちを先に下ろせ!」
「食肉は保冷庫へ運べ!」
「番号札を確認しろ! 積み先を間違えるな!」
「すごいね」
「本日は複数の輸送船が重なっておりますので」
「どこから?」
「台湾方面と南方外地にございます」
血液を詰めた樽。
布で覆われた食肉。
普通の食料や香辛料もある。
そして。
人間もいた。
若い男女が、船から次々と降ろされている。
首には番号の刻まれた札があり、そのまま兵士に誘導されて鉄格子のついた移送車へ乗せられていった。
畜人。
昨日も見た。
嫌悪感は、やっぱり消えなかった。
人間を番号で管理して、遠くの土地から運び、血と肉にする。
前世の感覚なら、どう考えても間違っている。
「…………」
でも。
今日は。
さっきの帳簿が頭に浮かんだ。
三十一人。
名前を聞け、と言った皇帝。
自分の分を子供へ渡して死んだ母親。
八歳。
その三日後。
「バフォメット」
「は」
「あの帳簿」
「はい」
「今も増えてる?」
「飢えによる死者、という意味でございましたら」
「うん」
「ほとんど」
「……そっか」
胸の奥から、少しだけ息が抜けた。
よかった。
本当に。
そこだけは。
「……私が外から取ってきたからだよね」
「はい」
バフォメットは誤魔化さなかった。
台湾。
マダガスカル。
スリランカ。
ヨコハマ。
この八年間で、オレが増やした領土。
そこから。
今、目の前の船が来ている。
「人間を取って」
「はい」
「血と肉を持ってきて」
「はい」
「それで、ゲルマニア人が飢えなくなった」
「左様にございます」
最悪だ。
本当に。
人間から見れば。
こんな国は地獄だろう。
目の前にいる人間を助けるなら、この輸送を止めればいい。
でも、その先に何があるのか。
もう知ってしまった。
帳簿が増える。
「…………」
鉄格子の中で、一人の女がこちらを見た。
目が合った。
女はすぐに視線を逸らした。
オレも何も言えなかった。
「止めないよ」
気づけば、声が出ていた。
バフォメットがこちらを見る。
「この輸送」
「…………」
「私は止めない」
それ以上、立派な理由を探す必要はなかった。
「私の民が死ぬから」
バフォメットは静かに頭を下げた。
「御意」
正しいとは言わなかった。
オレも。
正しいなんて言うつもりはなかった。
「お父様は、これができなかったんだね」
「…………」
「もう一度外へ出て、奪うことが」
勝つたびに何かを失うのは、もうたくさんだ。
カイゼンはそう言った。
オレは。
逆だった。
失ったものを無駄にしたくなかった。
今いる民を飢えさせたくなかった。
だから外へ出た。
領土を取った。
人間を取った。
「私、お父様とは違うのかな」
「さて」
「そこは分からないんだ」
「親子とは、似ているところだけを探すものでもございますまい」
「そういうもの?」
「私に親子の経験はございませんので、適当に申し上げました」
「適当なんだ」
「はい」
「急に信用なくなったなあ」
少しだけ笑う。
港から街へ向かって、一台の移送車が動き始めた。
鉄格子の中には人間がいる。
その向こう。
港の外の道では、小さな吸血鬼の子供が母親と手を繋いで歩いていた。
子供が何かをねだり、母親が笑って頭を撫でる。
昨日なら。
ただの平和な光景だった。
今日は。
その二つが繋がって見えた。
「バフォメット」
「は」
「明日の御前会議」
「はい」
「あの帳簿、持ってきて」
「何にお使いで?」
「分からない」
「…………」
「何を話すかも、まだ全部決めてないし」
七帝会談へ向かう前に。
ゲルマニアがこれからどうするのか。
誰と手を組むのか。
何を守るのか。
必要なら、何を奪うのか。
明日。
それを決める。
「でも」
港へ視線を戻す。
「見えるところには置いておきたい」
「先帝陛下の御言葉ゆえに?」
「……それもある」
少し考えてから。
「自分が正しいって思い始めたら、たぶん一番危ないから」
バフォメットは何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げる。
「御意」
血液樽が運ばれていく。
食肉が運ばれていく。人間も。
その先にオレの国がある。
腹を空かせずに眠れる子供がいる。
その子供を生かすために、誰がここへ連れてこられたのか。
……それも。
忘れない方がいい。
オレは皇帝なのだから。
正しかったことだけを、覚えているわけにはいかない