【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。   作:サボテニウム

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第47話 帝都クレムリン

 

 

 

 帝都クレムリンが見えてきたのは、長かった列車旅にもようやく終わりが見え始めた頃だった。

 

 窓の外を流れていた景色は、いつの間にか森と平原から、人の手で作られたものへ変わっている。

 

 最初は小さな集落だった。

 

 それが町になり、建物の数が増え、線路も一本、二本と枝分かれしていく。

 

 やがて工場の煙突が並び、その向こうには巨大な集合住宅が壁のように続くようになった。

 

 さらに列車が進むにつれて、それまで灰色が多かった街並みに、赤と白が混じり始める。

 

「……あれ?」

 

 オレは窓へ顔を近づけた。

 

 遠くに金色の何かが見える。

 

 一つではない。

 

 丸い屋根。

 

 細く伸びた尖塔。

 

 いくつもの金色が、薄く曇った空の下で光を返していた。

 

「クレムリンにございます」

 

 向かいに座っていたヴァルターが答える。

 

「もう?」

 

「もう、と申されましても、十分な時間を要しておりますが」

 

「体感の話だよ」

 

「左様でございますか」

 

 列車が近づくほどに、帝都の輪郭がはっきりしてきた。

 

 赤い城壁。

 

 白い石造りの建物。

 

 黄金の尖塔。

 

 巨大な官庁らしい建築物の正面には、何十メートルあるのか分からない柱が並んでいる。

 

 その向こうには金色の装飾をこれでもかと施した宮殿があり、さらに隣には、飾り気のない巨大な直方体の建物がそびえ立っていた。

 

 豪華なのか無骨なのか、どっちかにしてほしい。

 

 そう思ったのだが、街全体を眺めると不思議と喧嘩していない。

 

 偉い。

 

 強い。

 

 でかい。

 

 つまり、この国はすごい。

 

 そんな主張を、都市そのものが全力で押しつけてくる。

 

「……圧がすごいね」

 

「第一帝国の帝都にございますれば」

 

「建物が全部、私より偉そう」

 

「建物と張り合われる必要はございません」

 

「張り合ってないよ」

 

 やがて列車は速度を落とし、巨大な駅舎へ滑り込んだ。

 

 そしてホームへ降りたオレは、早速もう一度足を止めることになった。

 

「…………駅だよね?」

 

「はい」

 

「宮殿じゃなくて?」

 

「駅にございます」

 

「本当に?」

 

「駅にございます」

 

 二回聞いてしまった。

 

 天井が高い。

 

 高すぎる。

 

 赤みを帯びた大理石の柱が何本も並び、その間には巨大な照明が吊り下げられている。

 

 壁には金色の装飾が施され、そのさらに上には軍人や労働者、穀物を抱えた農民たちを描いた巨大な壁画が広がっていた。

 

 そこだけ見れば国家の記念館である。

 

 なのに、その下を旅行鞄を持った人々が普通に行き交っている。

 

 軍服姿の吸血鬼。

 

 毛皮の外套を着た女。

 

 大きな荷物を運んでいる人間。

 

 新聞を読みながら足早に歩く男。

 

 母親に手を引かれた子供。

 

 誰も、この異常に豪華な駅舎を気にしていない。

 

 ここでは、これが日常なのだろう。

 

「すごいなあ」

 

 思わず声が漏れる。

 

 癪ではある。

 

 第一真祖ベリアルの国であることを考えると、かなり癪ではあるのだが。

 

「クレムリン、綺麗だね」

 

「明けの明星は、帝都の景観へ多大な費用を投じております」

 

「ヴァルター」

 

「はい」

 

「そういう現実的な話は今しなくていい」

 

「事実にございます」

 

「今、旅行者の気分なの」

 

「七帝会談へ御出席にいらしたはずですが」

 

「一瞬くらいいいじゃん」

 

 ホームの先では、明けの明星の官吏たちがこちらを待っていた。

 

 さすがにここからは遊んでばかりもいられない。

 

 オレは少しだけ背筋を伸ばした。

 

 黒鷲の騎士たちが周囲を固め、ヴァルターが一歩前へ出る。

 

 皇帝として、第一帝国の首都へ入る。

 

 そう考えると、胸の奥に小さな重さが戻ってきた。

 

 ベリアルの国。

 

 明後日には、その本人と同じ卓を囲む。

 

 できれば永遠に明後日が来ないでほしい。

 

 ◇

 

 七帝会談の参加者へ用意された迎賓宮は、駅よりさらにひどかった。

 

 もちろん、いい意味で。

 

「広っ」

 

「ベルゼブブ陛下」

 

 案内役の官吏が振り返る。

 

「はい」

 

「何か不都合でもございましたでしょうか」

 

「いや。広いなって」

 

「左様でございますか」

 

 左様でございますか、じゃない。

 

 寝室だけで学院の自室がいくつ入るのだろう。

 

 壁は白と金。

 

 床には深紅の絨毯が敷かれ、天井からは大きなシャンデリアが下がっている。

 

 寝台には天蓋があり、隣には衣装室。

 

 その奥には浴室があり、反対側には応接間まで用意されていた。

 

「これ、一人で使うの?」

 

「陛下の御滞在のために整えられた御部屋にございます」

 

「掃除する人大変そう」

 

「……は?」

 

「何でもない」

 

 たぶん、皇帝が最初に心配することではなかった。

 

 黒鷲の騎士たちが周囲の警備を確認し、随行員が荷物を運び込んでいく。

 

 ダインスレイヴについては、ヴァルター本人が保管場所まで確認していた。

 

 あの男なら、オレが寝ている間も魔剣の横に立っていそうで怖い。

 

「陛下」

 

「ん?」

 

 明けの明星の官吏が、部屋の隅へ視線を向けた。

 

 一人の女性が立っていた。

 

 二十代前半くらいだろうか。

 

 柔らかそうな茶色の髪を後ろでまとめ、黒と白を基調とした服を着ている。いわゆるメイド服に近いものの、装飾は控えめで、宮廷使用人らしい上品な作りだった。

 

 一見しただけでは、吸血鬼なのか人間なのか分からない。

 

「御滞在中、陛下の身の回りを担当させる人間にございます」

 

「人間?」

 

「はい」

 

 思わず見直した。

 

 肌の色もいい。

 

 痩せてもいない。

 

 髪も綺麗に整えられ、身につけている服だって安物には見えなかった。

 

 女性はこちらへ歩み寄り、綺麗な動作で頭を下げる。

 

「何なりとお申し付けくださいませ」

 

「…………」

 

 普通だ。

 

 本当に、普通の使用人にしか見えない。

 

 駅にも人間はいた。

 

 荷物を運んでいたし、店らしい場所で働いている姿も見えた。

 

 どうやらこの国でも、人間が全員檻へ入れられているわけではないらしい。

 

 少しだけ肩の力が抜ける。

 

「名前は?」

 

 尋ねると、女性が僅かに目を上げた。

 

 隣の官吏も、なぜそんなことを聞くのか分からないという顔をしている。

 

「……ジーナと申します」

 

「ジーナね」

 

「はい」

 

「私はリリーシャ。リリーシャ・フォン・ゲルマニア」

 

 口にしてから、ここでは皇帝として来ているのだから、わざわざ名乗る必要もなかったことに気づいた。

 

 ジーナは戸惑うこともなく、もう一度頭を下げる。

 

「存じております、陛下」

 

「そりゃそうか」

 

 ちょっと恥ずかしい。

 

 そのとき、ジーナの口元がほんの僅かに緩んだ。

 

「今笑った?」

 

「いいえ」

 

「笑ったよね?」

 

「陛下のお名前を存じ上げていたことが、何か面白かったのでしょうか」

 

「そういう返しするんだ」

 

「申し訳ございません」

 

「謝らなくていいよ。そっちの方が話しやすいから」

 

 官吏が何とも言えない顔をしている。

 

 皇帝と人間使用人の会話としては、たぶん何かが違うのだろう。

 

 知らん。

 

 二週間の代役まで用意して学校を抜けてきたのだ。

 

 ここでまで一日中、皇帝らしい会話しかしないなんて耐えられない。

 

「御用がございましたら、こちらを」

 

 官吏が小さな銀の鈴を示した。

 

「鳴らせばジーナが来るの?」

 

「この人間、あるいは控えの者が参ります」

 

「ジーナでいいよ」

 

「……承知いたしました」

 

 また少し間があった。

 

 文化の違いがあるのかもしれない。

 

 この人間、という呼称に少し引っかかりを覚える。

 

 この官吏、徹底してジーナって呼ばないな。

 

 まあ、気にするほどのことでもないが。

 

 ◇

 

 荷物の整理が一段落すると、今後の日程が伝えられた。

 

「七帝会談は明後日、正午より開催されます」

 

「明後日?」

 

「はい」

 

「じゃあ明日は?」

 

「特段の公式行事は予定されておりません」

 

 オレは隣に立つヴァルターを見る。

 

「暇じゃん」

 

「休養日でございます」

 

「同じでしょ」

 

「異なります」

 

 即答だった。

 

「じゃあ今日は?」

 

「長旅の疲れもございます。御休息を」

 

「列車でずっと座ってたのに、まだ休むの?」

 

「移動と休養は異なります」

 

「ヴァルター」

 

「は」

 

「私、クレムリン初めてなんだけど」

 

「存じております」

 

「せっかくだし、街見たい」

 

「明後日には七帝会談がございます」

 

「だから今日見るんだよ」

 

「論理が逆では?」

 

「明後日会議なら、今日と明日は会議じゃない」

 

「…………」

 

 勝った。

 

 たぶん。

 

 ヴァルターはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように答えた。

 

「最低限の護衛はお付けいたします」

 

「やった」

 

「ただし! 御身分が露見するような行動はお控えください」

 

「分かってる」

 

「危険な区域へは近づかれぬよう」

 

「分かってるって」

 

「そして──」

 

「ヴァルター」

 

「はい」

 

「観光って、普通そんなに注意事項ある?」

 

「陛下の観光にはございます」

 

 信用がない。

 

 納得できない。

 

 ◇

 

 宮殿を出て改めて帝都を歩いてみると、列車の窓から眺めていたとき以上に、その規模へ圧倒された。

 

 大通りが広い。

 

 冗談ではなく、軍隊がそのまま行進できそうな幅がある。

 

 道の両側には赤い旗が等間隔に並び、その向こうには巨大な建物が続いていた。

 

 古い宮殿を思わせる建物には細かな彫刻と金色の装飾が施されている。

 

 その隣には、何百もの窓が同じ間隔で並んだ巨大な庁舎が建っていた。

 

 街の中心には、さらに巨大な広場がある。

 

「……何人集めるつもりなの?」

 

「大規模な式典や軍事行進に使用されると聞いております」

 

「やっぱり軍隊並べるんだ」

 

 広場の中央には巨大な像が立っていた。

 

 軍旗を掲げる兵士。

 

 工具を持つ労働者。

 

 穀物を抱える農民。

 

 その全員が同じ方向を見ている。

 

 視線の先には、さらに高い塔。

 

 頂上には赤い星──明けの明星が輝いていた。

 

「写真撮りたい」

 

「写真機を御用意いたしましょうか」

 

「あるんだ」

 

「ございます」

 

「じゃあ撮って」

 

「私が?」

 

「ヴァルターしかいないじゃん」

 

「黒鷲の者がおります」

 

「観光写真を部下に撮らせる上司みたいになるから嫌」

 

「陛下は上司ではなく皇帝であられます」

 

「もっと悪いじゃん」

 

 結局ヴァルターが撮った。

 

 大切にしよう。

 

 地下へ降りれば、今度は駅とは思えないほど豪華な地下鉄があった。

 

 白い大理石。

 

 高い天井。

 

 巨大な照明。

 

 壁一面のモザイク画には、剣を掲げる吸血鬼たちや、工場で働く労働者が描かれている。

 

「これ、通勤に使うんだよね?」

 

「そのようです」

 

「毎朝ここ通ったら、ちょっと偉くなった気がしそう」

 

「陛下は既に皇帝であられます」

 

「気分の話ね?」

 

 ヴァルターは分かっていない。

 

 駅を出れば市場が広がっていた。

 

 黒パン。

 

 魚。

 

 毛皮。

 

 果物。

 

 香辛料。

 

 蜂蜜。

 

 見たことのない菓子。

 

 ゲルマニアとは扱っているものも、人々の服装も違う。

 

 吸血鬼の店主もいれば、人間の店員もいる。

 

 人間が荷物を運び、人間が掃除をし、人間が店先で客に商品を勧めていた。

 

「へえ」

 

「何か?」

 

「人間、普通に働いてるね」

 

「そのようでございますな」

 

 少し安心した。

 

 駅にもいた。

 

 宮殿にもいた。

 

 市場にもいる。

 

 明けの明星は、人間をかなり低く扱う国なのだろう。

 

 それでも、全員を家畜として檻へ入れているわけではないらしい。

 

 考えてみれば当然か。

 

 国家を動かすには、人手はいくらあっても足りない。

 

 ゲルマニアにだって、名誉ゲルマニア人として働いている人間がいる。

 

 制度の形が違うだけなのだろう。

 

「陛下」

 

「ん?」

 

「こちらに、帝都の名所がございます」

 

 ヴァルターが案内板を見ていた。

 

「お。どこ?」

 

「中央人間闘技場」

 

「…………」

 

 聞き間違えたかな。

 

「今、何て?」

 

「中央人間闘技場にございます」

 

「人間?」

 

「左様に」

 

 案内板を見る。

 

 派手な文字。

 

 巨大な円形建築の絵。

 

 そして今日の興行内容まで、大きく宣伝されていた。

 

『西方特別興行』

 

『パリ移送討魔士兄弟戦』

 

「…………」

 

 嫌な予感がする。

 

「行くの?」

 

「陛下が御希望であれば」

 

 希望した覚えはない。

 

 ……けれど、見なければ分からないこともある。

 

 ヨコハマでもそうだった。

 

 自分の国を知るために、市場も牧場へ運ばれる人間も見た。

 

 なら、この国についても同じだろう。

 

「……見てみようか」

 

 ◇

 

 後悔には中へ入って十分もかからなかった。

 

 建物そのものは立派だった。

 

 巨大な円形の観客席には何千人もの客が入り、売店では酒や菓子が売られている。

 

 恋人同士。

 

 老人。

 

 家族連れ。

 

 子供までいる。

 

 普通の娯楽施設だ。

 

 中央に立たされている二人の男を除けば。

 

「…………」

 

 二人とも裸だった。

 

 腰回りだけを最低限の布で覆い、手には剣と盾。

 

 それ以外には何もない。

 

 片方は二十代後半。

 

 もう片方は、それより少し若い。

 

 鍛えられた身体には古い傷がいくつも残っていた。

 

 頭上の掲示板に説明が流れる。

 

『兄個体 二十七歳』

 

『弟個体 二十三歳』

 

『旧パリ防衛圏より移送』

 

『元討魔士』

 

 名前はない。

 

「討魔士……?」

 

「左様にございます」

 

 ヴァルターの声が僅かに低くなった。

 

 場内に響く実況が、楽しげに二人の経歴を読み上げる。

 

『本日の特別興行は、パリより届けられた実の兄弟!』

 

 観客席から拍手が起こった。

 

『かつては人類を守る討魔士として、我ら帝国臣民に刃を向けていた二個体!』

 

 さらに歓声。

 

『ですが、本日殺す相手は吸血鬼ではございません!』

 

 一拍置いて。

 

『実の兄弟です!』

 

 笑い声と歓声が混ざり合った。

 

「…………」

 

 オレは言葉が出なかった。

 

 二人の討魔士は互いを見ている。

 

 兄が何かを言った。

 

 弟が首を振る。

 

 試合開始を告げる鐘が鳴っても、二人はすぐには動かなかった。

 

「……戦わなかったら?」

 

 オレが尋ねる。

 

 近くにいた係員が、何でもないことのように答えた。

 

「双方とも処分されます」

 

「どちらかが死ぬまで?」

 

「本日の興行形式では、左様にございます」

 

「…………」

 

 兄が剣を構えた。

 

 弟も盾を上げる。

 

 どちらも、相手へ踏み込もうとはしない。

 

 観客席から野次が飛ぶ。

 

「早くやれ!」

 

「弟の方が強そうだぞ!」

 

「兄貴を刺せ!」

 

 そのすぐ近くでは、父親の肩に乗った子供が中央を指差していた。

 

「お父さん、どっちがお兄ちゃん?」

 

「赤い盾の方だよ」

 

「弟の方が勝つ?」

 

「どうかな。兄弟戦は分からないぞ」

 

 父親は笑いながら答え、子供へ菓子を一つ渡した。

 

 少し離れた席では、老夫婦が血酒を片手にどちらが勝つか話している。

 

 恋人らしい男女は、次の試合が何時から始まるのか確認していた。

 

 ……誰もおかしいと思っていない。

 

 それが、一番気持ち悪かった。

 

「……出よう」

 

「御意」

 

 立ち上がる。

 

 最後まで見る気にはなれなかった。

 

 出口へ向かう途中、背後で大きな歓声が上がった。

 

 どちらかが傷を負ったのか。

 

 それとも。

 

 振り返らなかった。

 

 外には次の入場を待つ列ができていた。

 

 親に手を引かれた子供が、売店で買ってもらった菓子を嬉しそうに食べている。

 

 誰も、これから人が死ぬ場所へ入る顔をしていなかった。

 

「ヴァルター」

 

「は」

 

「ゲルマニアにも、こういうのある?」

 

「ございません」

 

「だよね」

 

 即答だった。

 

「食料、あるいは労働力として利用可能な人間を、娯楽のみを目的として消耗させる合理性を認めません」

 

「……理由は相変わらずヴァルターだね」

 

「何か問題が?」

 

「ないよ」

 

 むしろ、今はその答えがありがたかった。

 

 うちの国だって人間を食べている。

 

 牧場まである。

 

 オレ自身、その仕組みを止めなかった。

 

 オレの民が死ぬから。

 

 そう決めた。

 

 だから、人間を殺すという一点だけを理由に、この国を高いところから責める資格が自分にあるとは思わない。

 

 ……それでも。

 

 必要だから食べることと。

 

 楽しいから殺すことは。

 

 同じには思えなかった。

 

 ◇

 

「もう宮殿へ戻られますか?」

 

 ヴァルターが尋ねてきた。

 

「……そうしようかな」

 

「では」

 

「あ、待って」

 

「はい」

 

「その顔、まだ何かあるね」

 

 ヴァルターは僅かに視線を逸らした。

 

「先ほどの施設からほど近い場所に、もう一つ帝都名物がございます」

 

「もう名前から聞きたくない」

 

「まだ申し上げておりません」

 

「絶対ろくでもないでしょ」

 

「人間競走場にございます」

 

「ほら」

 

 行かなければいい。

 

 本当にそう思う。

 

 でも、知らないまま帰るのも違う気がした。

 

 結局、オレたちは競走場へ向かった。

 

 そこは先ほどの闘技場よりも明るい雰囲気だった。

 

 音楽が流れ、観客席はほとんど埋まっている。

 

 大きな走路。

 

 巨大な掲示板。

 

 そしてスタート地点には、十数人の人間が並ばされていた。

 

「…………」

 

 一目で分かった。

 

 同じ地域から集められた人たちではない。

 

 明るい髪と白い肌の男。

 

 黒い髪と東方系の顔立ちをした女。

 

 褐色の肌を持つ男。

 

 背の高い者もいれば、小柄な者もいる。

 

 掲示板には名前ではなく、番号と搬入地域だけが表示されていた。

 

『第一走者 西方パリ』

 

『第二走者 旧ポーランド圏』

 

『第三走者 ウクライナ地域』

 

 表示が続いていく。

 

 そして最後。

 

『第十二走者 東方満州地域』

 

「……パリ?」

 

「はい」

 

「満州?」

 

「左様に」

 

 もう一度、掲示板の端から端まで見る。

 

「西はパリから、東は満州まで?」

 

「明けの明星の支配圏およびその周辺地域から集められているものと思われます」

 

「…………広すぎない?」

 

 知識として第一帝国が巨大なのは分かっていた。

 

 でも、地図の色だけでは実感がない。

 

 目の前に並んでいる人間たちを見れば、嫌でも分かる。

 

 西のパリから。

 

 東の満州まで。

 

 ベリアルの手は届く。

 

 それほど広大な土地から、人間を帝都まで運んできたのだ。

 

 実況の声が響く。

 

『本日の走者は帝国各地より選抜された十二個体!』

 

 観客たちが拍手する。

 

『西方パリから、東方満州まで! 偉大なる明けの明星の版図を横断して集められた俊足たちでございます!』

 

「帝国の広さを人間競走で自慢するなよ……」

 

「陛下」

 

「独り言」

 

 開始の合図が鳴った。

 

 十二人が一斉に走り出す。

 

 速い。

 

 本気だ。

 

 全員、まるで命でも懸けているように走っている。

 

 いや。

 

 その予感が正しければ。

 

「ヴァルター」

 

「はい」

 

「これ、負けたらどうなるの?」

 

「…………」

 

「何で黙るの」

 

 ヴァルターが走路の先を示した。

 

 ゴールの脇。

 

 そこに巨大な金属製の設備がある。

 

 太い管。

 

 回転機構。

 

 何かを投入するための大きな口。

 

 その上に、簡潔な文字が掲げられていた。

 

『粉砕機』

 

「……何に使うの?」

 

「最下位となった人間の処理に使用されるものと思われます」

 

「処理って」

 

「文字通りにございます」

 

「最下位だけ?」

 

「本競技では、そのようです」

 

「何で?」

 

「競走の緊張感を高めるためではないでしょうか」

 

「…………」

 

 意味が分からない。

 

 ……いや。

 

 意味は分かる。

 

 分かりたくないだけだ。

 

 一人の男が少し遅れ始める。

 

「頼むうううっ! 娘がいるんだ! 帰らせてくれえええっ!!」

 

 観客が騒ぐ。

 

「聞いたか! 娘がいるってよ!」

 

「走れ走れーっ!」

 

「帰りたきゃ抜けろ!」

 

「ミンチが嫌なら死ぬ気で走れ!」

 

 隣では、小さな女の子が父親へ尋ねていた。

 

「お父さん、今いちばん後ろの人が死ぬの?」

 

「そうだぞ。だからみんな頑張って走ってるんだ」

 

「ふーん」

 

 少女は納得すると、手に持っていた焼き菓子をかじった。

 

「焼き菓子はいかがですかー!」

 

 売り子が客席の間を歩いていく。

 

 誰も怒っていない。

 

 誰も怖がっていない。

 

 楽しんでいる。

 

 走者同士は故郷も違う。

 

 言葉すら同じか分からない。

 

 ただ一つだけ共通している。

 

 最下位になれば死ぬ。

 

 西はパリ。

 

 東は満州。

 

 そんな距離から人間を集めて、わざわざ帝都まで運んできた。

 

 食べるためでもない。

 

 働かせるためでもない。

 

 走らせるために。

 

 そして、一人を殺して客を楽しませるために。

 

「帰ろう」

 

「御意」

 

 ゴールまで見なかった。

 

 背後から大きな歓声が上がったときも振り返らない。

 

 機械が動き始めたらしい低い音だけが、しばらく耳から離れなかった。

 

 ◇

 

 帰り道。

 

 さっきまで綺麗に見えていた街が、少しだけ違って見えた。

 

 赤い壁も。

 

 金色の尖塔も。

 

 巨大な広場も。

 

 何一つ変わっていない。

 

 人々は普通に歩いている。

 

 笑っている。

 

 パンを買っている。

 

 路上では楽器を演奏している男がいて、その前を吸血鬼の子供たちが駆けていく。

 

 人間の労働者が荷車を押し、その横では若い男女が楽しそうに話している。

 

 全部、普通だった。

 

 だから余計に気持ちが悪かった。

 

「……この国の人ってさ」

 

「はい」

 

「人間が死ぬの、何とも思わないのかな」

 

 ヴァルターは少し考えてから答える。

 

「少なくとも、娯楽として成立する程度には、我々とは認識が異なるのでしょう」

 

「うん」

 

 それが一番しっくりきた。

 

 ゲルマニアだって、人間を殺す。

 

 食べる。

 

 血を飲む。

 

 畜人として育てる。

 

 人類から見れば、同じ化け物だろう。

 

 それでも、人間が死ぬことそのものを見て楽しむ文化はない。

 

「うちも、人のこと言えないんだけどね」

 

「…………」

 

「でも、何か違う」

 

「私も同様に感じます」

 

 意外な言葉に横を見る。

 

「ヴァルターも?」

 

「人間を食料として用いることは必要にございます」

 

「うん」

 

「労働力として用いることも理解できます」

 

「うん」

 

「ですが、使えるものを娯楽のために壊すことは、私の理解するところではございません」

 

「やっぱり合理性なんだ」

 

「重要でございます」

 

「まあ、ヴァルターらしいけど」

 

 少し笑えた。

 

 それだけで、さっきまでより息がしやすくなる。

 

 ◇

 

 迎賓宮へ戻ると、ジーナが入口近くで待っていた。

 

「お帰りなさいませ」

 

「……ただいま」

 

 その顔を見た瞬間。

 

 自分でも驚くくらい、肩から力が抜けた。

 

「陛下?」

 

「ジーナ」

 

「はい」

 

 今日一日で、見なくてもよかったものをずいぶん見た気がする。

 

 人間がいた。

 

 兄弟だった。

 

 名前もあったはずだ。

 

 走っていた人たちにも、故郷があった。

 

 家族だっていたかもしれない。

 

 なのにこの国では、それが全部、楽しい見世物になる。

 

「……陛下?」

 

 ジーナが心配そうにこちらを覗き込む。

 

 オレは何も考えないまま、一歩近づいた。

 

 そして。

 

 ぼふっ。

 

「……?」

 

 柔らかい。

 

 気づけば、ジーナの豊かな胸元へ顔を埋めていた。

 

「陛下?」

 

「んーん」

 

「どうなさいましたか?」

 

「少し、このまま……」

 

「…………」

 

 一瞬だけ戸惑った気配がした。

 

 それでも、ジーナはオレを押し返さなかった。

 

「承知いたしました」

 

 理由を聞かない。

 

 慰めの言葉も言わない。

 

 頭を撫でるでもなく、抱き締め返すでもなく、オレが離れるまで、ただそこに立っていてくれた。

 

 温かい。

 

 それだけでよかった。

 

 しばらくして、ようやく顔を上げる。

 

「……ごめん」

 

「何がでございましょう」

 

「急に」

 

「私は陛下のお世話をするためにおりますので」

 

「その仕事に胸を貸すのも入ってる?」

 

「本日から追加されたのかもしれません」

 

「ふふっ」

 

 ちょっと笑った。

 

 ジーナも、今度は隠さずに微笑んだ。

 

「お疲れのようですね」

 

「観光しただけなんだけどね」

 

「どちらへ?」

 

「広場とか、地下鉄とか。市場も行った」

 

「それはよろしゅうございました」

 

「人間闘技場も」

 

「…………」

 

「人間競走も」

 

「ああ」

 

「……ああ、なんだ」

 

「帝都では有名でございますので」

 

「ジーナは見たことある?」

 

「闘技場は幼い頃に一度だけ。競走も何度か」

 

「好き?」

 

「いいえ」

 

 即答だった。

 

 少し驚く。

 

「この国の人、みんな好きなのかと思ってた」

 

「人気があることと、全員が好むことは別でございます」

 

「そりゃそうか」

 

「私は、人が争うものを見てもあまり楽しめませんので」

 

「……うん」

 

 何となく安心した。

 

 ジーナは人間だから当然だ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。

 

 でも、この街にも、あれを嫌だと思う人は普通にいる。

 

 当たり前のことなのに、今日一日で少し忘れかけていた。

 

「ジーナって、ここの仕事長いの?」

 

「宮廷へ上がりましてからは六年ほどになります」

 

「じゃあ十七くらいから?」

 

「左様にございます」

 

「私と一歳しか違わないじゃん」

 

「当時は、でございます」

 

「分かってるよ」

 

 また笑われた。

 

「読み書きとかも、宮廷で?」

 

「はい。礼法と言語、それから帳簿の付け方なども教えていただきました」

 

「へえ。結構ちゃんとしてるんだ」

 

「私は運がよかったのだと思います」

 

「運?」

 

「暖かい場所で働くことができ、食事もいただけます。帝都へ来る以前より、ずっと良い暮らしをしておりますから」

 

「そっか」

 

 オレはジーナを見る。

 

 綺麗な服。

 

 整えられた髪。

 

 健康そうな身体。

 

 少なくとも、この女性がさっき走っていた人間たちと同じ扱いを受けているようには見えない。

 

「……怖くない?」

 

「何が、でございましょう」

 

「この国で、人間として暮らすの」

 

 少し失礼な質問だったかもしれない。

 

 それでもジーナは怒らず、少し考えてから答えた。

 

「怖いことがない、と申し上げれば嘘になります」

 

「うん」

 

「ですが、怖いことばかりでもございません」

 

 ジーナは窓の向こうへ目を向けた。

 

「私はこの街が好きですから」

 

「クレムリンが?」

 

「はい」

 

 意外だった。

 

「人間闘技場あるのに?」

 

「それだけが帝都ではございません」

 

「まあ、そうだけど」

 

「冬の劇場街はとても綺麗です。モスクワ川沿いも、朝は静かでございますし、少し離れたところに古い菓子店もございます」

 

「菓子店?」

 

「はい」

 

 さっきより明らかに声が明るい。

 

「ジーナ、甘いもの好き?」

 

「……少々」

 

「絶対好きじゃん」

 

「胡桃と蜂蜜を使った焼き菓子がございます」

 

「へえ」

 

「かなり甘いのですが、紅茶によく合います」

 

「詳しいね」

 

「私が好きなものですので」

 

 そこで初めて、ジーナが宮廷使用人ではなく、一人の女の人に見えた。

 

 胡桃と蜂蜜の菓子が好きで。

 

 川沿いを歩くのが好きで。

 

 自分の住む街を、ちゃんと好きだと思っている人。

 

「それ、食べてみたい」

 

「でしたら、明日いらしてはいかがでしょう」

 

「場所分かる?」

 

「地図をご用意いたします」

 

「お願い」

 

「その前に、今は温かいお茶でもお持ちいたしましょうか」

 

「甘いやつ」

 

「では、蜂蜜を多めに」

 

「うん」

 

 しばらくして、紅茶と小さな焼き菓子が運ばれてきた。

 

 一口食べる。

 

「甘っ」

 

「お嫌いでしたか?」

 

「いや。おいしい」

 

「何よりでございます」

 

「ジーナも食べる?」

 

「私は勤務中にございますので」

 

「一個くらいいいじゃん」

 

「陛下」

 

「はい」

 

「私を困らせることも、陛下のお仕事でございますか?」

 

「本日から追加されたのかも」

 

「先ほどの仕返しでございますね」

 

「バレた?」

 

「はい」

 

 今度は二人で笑った。

 

 少し前まで耳に残っていた歓声も、機械の音も、いつの間にか遠くなっていた。

 

 今日見たものが消えたわけではない。

 

 明けの明星という国が、人間の死を娯楽にできる国であることも変わらない。

 

 それでも、この街に住んでいる全員が闘技場だけを見て暮らしているわけではない。

 

 川沿いを歩く人もいる。

 

 焼き菓子を食べる人もいる。

 

 自分の街を好きだと言う人もいる。

 

「ジーナ」

 

「はい」

 

「明日は、もうちょっと普通のところ見たい」

 

「それがよろしいかと存じます」

 

「おすすめ教えて」

 

「では」

 

 ジーナが大きな帝都の地図をテーブルへ広げる。

 

「朝でしたら、まずこの辺りがよろしいかと」

 

 細い指が、モスクワ川沿いをなぞった。

 

「朝食を召し上がれる店もございます」

 

「おいしい?」

 

「評判はよろしいです」

 

「ジーナは?」

 

「私は好きです」

 

「じゃあ信用する」

 

「私の好みだけでお決めになるのですか?」

 

「現地民のおすすめが一番信用できるからね」

 

 ジーナが小さく笑った。

 

 その指が次の場所へ移る。

 

 古い街並み。

 

 市場。

 

 劇場街。

 

 菓子店。

 

 今日の観光案内には載っていなかった場所ばかりだ。

 

 昼間に見たものが、この国の全部というわけでもないらしい。

 

 そりゃそうだ。

 

 これだけ大きな帝都なのだから、闘技場と競走場だけでできているはずがない。

 

「じゃあ、明日はここから」

 

「モスクワ川ですね」

 

「うん」

 

 朝食を食べて。

 

 川沿いを歩いて。

 

 できれば今日は見られなかった、この街の楽しいところを見てみよう。

 

 七帝会談まで、あと二日。

 

 その間くらいは。

 

 知らない国を、少しくらい楽しんでもいいだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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