【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
七帝会談を終え。
巨大な扉を抜けた瞬間、思わず息が漏れた。
「…………はぁ」
別に息を止めていたわけじゃない。
それでも真祖が六人も集まった部屋から出ると、廊下の空気が妙に軽く感じる。
「陛下」
「大丈夫」
一歩近づいてきたヴァルターへそう答える。
「何かございましたか」
「いっぱいあった。でも、大丈夫」
それから少し離れたところへ視線を向けた。
ちょうど第七の席にいた男が、護衛らしい者も連れずに廊下を歩いてくる。
金髪。
昨日一日、一緒に街を歩いた旅商人。
改め。
第七真祖マモン。
「フルーリーさん」
「うん?」
「ちょっと」
手招きすると、フルーリーさんは何の警戒もなく近づいてきた。
「何かな」
「何かな、じゃないですよ」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「やっぱり怒ってるね」
「マモンって何ですか」
「僕だけど」
「それは今日知りました!」
「あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてません!」
ヴァルターが隣で微妙な顔をしている。
第六真祖が第七真祖を廊下で問い詰めている状況を、どう処理すればいいのか分からないのだろう。
「旅商人って言ったじゃないですか」
「嘘じゃないよ」
「真祖でしょう!」
「真祖も商売はするよ?」
「規模の問題です!」
「ああ。それはそうかも」
「そうですよ!」
全然悪びれていない。
「だって、最初からマモンだって言ったら、昨日みたいに遊んでくれなかっただろう?」
「…………」
それは、まあ。
そうかもしれない。
「それに、リーシャもベルゼブブだって言わなかったじゃないか」
「私はリーシャって名乗りました」
「僕もリュシアン・フルーリーって名乗ったよ」
「…………」
ずるい。
全部本当なのがずるい。
「まあ……昨日は楽しかったので、それはそれでいいです」
「よかった」
「でも次からは言ってください」
「次があったらね」
「その言い方、怪しいですよ」
「商人だからね」
「もうその肩書き信用しませんからね」
フルーリーさんが楽しそうに笑った。
昨日と同じ顔だった。
◇
夜。
再びクレムリンの宮殿へ向かう。
今度は会議ではない。ベリアルが用意した晩餐だった。
案内された広間には、昼の会議室とは違って大勢の宮廷使用人がいる。高い天井から巨大なシャンデリアが下がり、長い卓上には銀器とグラスが整然と並んでいた。
白い手袋をつけた給仕たちが、ほとんど足音も立てずにその間を行き交っている。
(すご……)
昼の会議室が権力そのものなら、こちらは富そのものだった。
六人の真祖がそれぞれ決められた席へつく。
上座にベリアル。
アスタロス。
アスモデウス。
モロク。
オレ。
そしてフルーリーさん。
「始めよ」
ベリアルの一言で晩餐が始まった。
◇
最初に出てきたのは、小さく焼かれた薄い生地だった。上には魚卵と乳脂肪が乗せられている。
一口食べてみる。
(……うま)
塩気は強いが、普通に美味しい。
次は燻製された魚。香草を利かせた茸のスープ。白身魚には淡い色のソースが添えられていた。
どれも手が込んでいる。
一昨日、人間同士を殺し合わせる闘技場を見たばかりだから、もっとこう、すべての料理に人体の一部が乗ってくるような晩餐を勝手に想像していた。
だが、意外にも普通だ。
いや、普通というには豪華すぎるか。
魚も美味しい。パンも美味しい。チーズも美味しい。
そして。
「こちらは香辛料を用いた人間の腸詰にございます」
(急に来たな)
給仕は魚料理の説明と何も変わらない調子で言った。
細長い腸詰に、酢漬けの野菜と赤いソースが添えられている。「人間」という単語を除けば、普通の肉料理にしか見えなかった。
一口食べる。
ぱり、と薄い皮が切れ、中から肉汁が広がった。香辛料が強く、酸味のあるソースともよく合う。
(……これも美味いんだよなあ)
悔しいけど、普通に美味い。
吸血鬼になってから、オレはもう人間の肉を食べたことがある。それを美味しいと思ったこともある。
いまさら人間料理そのものに驚くような立場ではなかった。
「こちらを」
新しいグラスが置かれる。
深い赤色。ワインにしては少し色が濃い。
「若い人間より採取した血を赤葡萄酒へ合わせ、果実と香辛料で香りを整えた血酒にございます」
(ワインの銘柄みたいに説明するなよ)
恐る恐る口をつけた。
甘い。
葡萄の香りの後から、吸血鬼の身体が本能的に好む味が広がってくる。血の生臭さはほとんどなく、むしろ普通のワインより今の身体には飲みやすかった。
(まずいな。これも美味い)
ベリアルは当然のように飲んでいる。モロクも、アスタロスも、特に感想を述べることなく料理を口へ運んでいた。第三の席でもアスモデウスが静かに食事を続けている。
フルーリーさんも、この辺りまでは普通だった。
「この魚、美味しいね」
「昼からそればっかりですね」
「美味しいんだから仕方ないだろう?」
「それはそうですけど」
「ベルゼブブ」
ベリアルに呼ばれ、反射的に背筋を伸ばす。
「何だ、その締まりのない顔は」
「失礼しました」
(美味いんだから仕方ないだろ)
もちろん口には出さない。
この辺はフルーリーさんを見習わないことにする。
魚、肉、野菜、チーズ、ワイン。
そして、人間の肉と血。
この国では、その全部が同じ卓上に並んでいる。どれかだけが特別なものとして扱われているわけではない。
魚を料理する。
獣を料理する。
人間を料理する。
この国にとっては、その程度の違いなのだろう。
一昨日見た闘技場と同じだ。
価値観が違う。
ただ。
(なんだ)
食事そのものは普通に美味しい。
そう思ったころには、オレも少しだけ肩の力を抜いていた。
◇
料理も終盤に差しかかったころ、給仕たちが一度広間の奥へ下がった。
代わって現れた使用人たちが、それぞれ銀の蓋を被せた皿を六つの席へ運んでくる。
「最後の料理にございます」
給仕長が一礼した。
「今宵は、各陛下にお仕えしておりました人間を、それぞれその陛下のための一皿として仕立てさせていただきました」
「…………」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
各陛下に。
お仕えしていた人間を。
それぞれ。
つまり、全員同じ人間を分けたわけではない。
アスタロスにはアスタロス付きだった人間。
モロクにはモロク付きだった人間。
フルーリーさんにはフルーリーさん付きだった人間。
そして。
オレにも。
ベリアルは何も言わない。
銀の蓋が一斉に持ち上げられた。
「…………」
自分の皿を見る。
丸みを帯びた肉の表面には、綺麗な焼き色がついていた。中央には切れ目が入り、そこから小さなジャガイモや茸、焼いた玉葱と香草が覗いている。
周囲には赤いソース。
ローズマリーに似た香草と、焼けた肉、バターの匂い。
香りはいい。
見た目だけなら、丁寧に仕上げられた高級料理だった。
「第六真祖陛下には、コブクロの包み焼きを」
(コブクロ?)
内臓料理か。
それ自体は珍しくない。
「御滞在中、第六真祖陛下付きとして配しておりました人間の子宮を用い、馬鈴薯、茸、香味野菜、香草を詰めて焼き上げております」
フォークを持つ手が止まった。
「……今、何て言いました?」
自分でも驚くほど声は普通だった。
「人間の子宮を用いたコブクロの包み焼きにございます」
「そこじゃなくて」
給仕を見る。
「私についていた人間?」
「はい。御滞在中、陛下のお側へ配しておりました人間にございます」
「…………」
視線を皿へ戻す。
綺麗な焼き色。
ポテト。
茸。
香草。
赤いソース。
昨日まで見ていた柔らかな茶色の髪が浮かんだ。
黒と白の服。
写真を撮るとき、最初は緊張していた。
胸の話をしたら笑った。
朝のモスクワ川が好きだと言った。
劇場街が好きだと言った。
胡桃と蜂蜜のお菓子が好きだと言った。
「……その人間」
喉が乾く。
「名前は?」
「名、でございますか?」
一瞬、本当に質問の意味が分からないという顔をされた。
「うん。その人の名前」
「識別番号でしたら――」
「ジーナだよ」
給仕が止まる。
「その人の名前は、ジーナ」
静かだった。
誰も何も言わない。
給仕だけが少し困ったように頭を下げる。
「失礼いたしました」
違う。
そうじゃない。
謝ってほしいわけじゃない。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
皿を見る。
人間の子宮。
その中へポテトと茸と香草が丁寧に詰められ、美味しくなるよう焼き上げられている。
料理人が腕を振るったのだろう。
ここまで食べた料理を考えれば。
たぶん、これも美味しい。
「…………」
それでも、手は動かなかった。
◇
隣からナイフが皿へ触れる音がした。
視線を上げる。
モロクが静かに自分の料理へ刃を入れている。その向こうでは、アスタロスも何のためらいもなく口へ運んでいた。
アスモデウスも同じだった。
もちろん、それぞれの皿に乗っている料理は違う。使われた人間も違う。
同じなのは、その人間がそれぞれの陛下に仕えていたということだけ。
ベリアルもまた、当然のように自分の皿を食べている。
誰もおかしいと思っていない。
「…………」
フルーリーさんを見る。
その皿だけは手つかずだった。
ナイフもフォークも置かれたまま。
いつもの笑顔もない。
そこで、ふと気づいた。
ベリアルが料理を見ていない。
オレたちを見ていた。
(……あ)
昼と同じだ。
誰が乗るのか。
誰が拒むのか。
誰が迷うのか。
誰が従うのか。
昼は兵を出すかどうかだった。
今度は、この皿を食べるかどうか。
また見ている。
「食わぬのか、ベルゼブブ」
「……はい」
「口に合わぬか」
「いいえ」
「貴様の国でも、人間を食らうであろう」
「食べます」
そこは否定できない。
さっきの腸詰も食べた。
血酒も飲んだ。
美味しいと思った。
ゲルマニアでも人間の肉は流通している。オレはそれを止めていないし、これからも止めるつもりはない。
オレの民が生きるために必要だから。
「では、何が違う」
「…………」
皿を見る。
それからベリアルを見た。
「その人の名前を知っているからです」
「名?」
ベリアルの眉がわずかに動いた。
「ジーナです」
「…………」
「私についていた人間の名前です」
ベリアルは少しだけこちらを見た。
「それがどうした」
本当に。
分からないのだ。
煽っているわけでも、怒らせようとしているわけでもない。
名前を知っている。
だから何だ。
彼にとっては、それだけなのだ。
「だから、私は食べません」
「…………」
ベリアルは怒らなかった。
失望もしなかった。
「そうか」
それだけだった。
そして今度は第七の席を見る。
「マモン」
「うん」
「貴様もか」
「そうだね」
フルーリーさんは皿へ視線を落とした。
「僕には少し、趣味が悪すぎるかな」
「人間を食わぬわけではあるまい」
「食べるよ」
「ならば同じであろう」
「僕には違うんだ」
「何がだ」
少し考えてから、フルーリーさんは静かに答えた。
「知ってる人は、食べ物には見えにくいかな」
ベリアルが鼻で笑う。
「くだらぬ」
「そうかもね」
「好きにせよ」
「ありがとう」
「礼を言うな」
「リーシャも同じこと言われてたね」
「黙れ」
「はいはい」
いつもの声だった。
けれど、フルーリーさんは笑っていなかった。
ベリアルはそれ以上、オレたちへ食べるよう求めなかった。
強制もしない。
怒りもしない。
ただ見ただけ。
誰が食べて。
誰が食べなかったのか。
それを覚えただけだった。
その方が、命令されるよりずっと嫌だった。
◇
晩餐を終えて広間を出る。
ヴァルターたちが待っている場所まで、オレはほとんど何も話さなかった。
「フルーリーさん」
途中で足を止める。
「うん」
フルーリーさんも止まった。
少し迷ったが、聞くことにした。
「……ジーナのこと、知ってた?」
フルーリーさんの顔から、いつもの笑顔が消えた。
「確信はなかったよ」
「…………」
「でも、あり得るとは思ってた」
「そっか」
胸の奥が少しだけ冷たくなる。
「どうして教えてくれなかったの?」
フルーリーさんは、すぐには答えなかった。
昨日、市場を歩いた。
検問から逃げた。
音楽を聴いた。
お菓子を食べた。
ずっとオレを楽しませてくれた。
「君が笑ってたから」
「…………」
「昨日くらいは、そのままでいてほしかった」
「それ、優しさじゃないですよ」
「うん」
即答だった。
「知ってる」
言い訳もしなかった。
「僕は、そういうところがあるから」
それ以上、オレも何も言えなかった。
「またね、リーシャ」
「…………はい」
フルーリーさんは歩いていった。
金色の髪が、長い廊下の向こうへ消えていく。
オレはしばらく、その場に立っていた。
◇
翌朝。
帝都クレムリンを発った。
行きと同じ長いシベリア鉄道を、今度は東へ。
ヨコハマへ帰る。
列車がクレムリンを離れてから、オレはずっと窓の外を見ていた。
春の大地が流れていく。
遠くの森。
川。
小さな村。
昨日までいた巨大な帝都が、少しずつ遠ざかっていく。
手元には一枚の写真があった。
オレとジーナ。
二人で並んで写っている。
最初は緊張していたのに、最後には笑っていた。
机の上には、胡桃と蜂蜜の焼き菓子が置かれている。
一つは自分用。
もう一つは、渡すつもりだったもの。
袋を開けると甘い匂いがした。
一昨日、フルーリーさんと一緒に選んだ、胡桃の多いやつ。
一つ取って口へ入れる。
蜂蜜の甘さ。
胡桃の香ばしさ。
焼けた生地の味。
舌ではちゃんと分かる。
昨日なら、絶対に美味しかった。
なのに。
味がしない。
「…………」
写真を持つ指に、少しだけ力が入った。
「……ヴァルター」
「はっ」
少し離れたところに立っていたヴァルターが、すぐにこちらを見る。
「例の計画を進めて」
「例の……航空浮遊戦艦の建造計画でございましょうか」
「うん」
行きの列車では、ただ欲しいと思った。
空を飛べたら便利そうだったから。
……でも。
今は違う。
「進めて」
「…………」
写真へ視線を落とす。
そこではオレも、ジーナも笑っていた。
「多分、わかり合えないと思うから」
ヴァルターは、誰と、とは聞かなかった。
なぜ、とも聞かなかった。
ただ一度だけ、オレの手の中の写真を見た。
そして何も言わず、静かにその場へ膝をついた。
七帝会談編 完