【TS】主人公の両親を殺したラスボス吸血鬼ですが、彼の最後の家族をやってます。 作:サボテニウム
「焼けたかな?」
窯の中を覗き込みながら、オレは小さく呟いた。
細かく砕いたパンへ砂糖と牛乳、卵、バターを混ぜ、生地らしきものを作る。
それを一時間ほど冷蔵庫で寝かせたあと、薪をくべたピザ窯へ入れて約十分。
厨房には、甘く香ばしい匂いが漂い始めていた。
少なくとも、普段の食事からは決して発生しない種類の匂いである。
「そろそろいいかな」
厚手の布で手を覆い、窯の扉を開く。
熱気とともに、さらに濃くなった甘い香りが一気に広がった。
鉄製のプレートを慎重に引き出す。
その上には、星や丸、ハートなど、さまざまな形の焼き菓子が所狭しと並んでいた。
ほとんどは、アギトが苦労して形を整えたものである。
大きさは不揃い。
星の先端が一つ足りなかったり、ハートが心臓というより潰れた芋に見えたりするものもある。
それでも焦げはほとんどなく、遠目に見れば立派なクッキーだった。
あの石材のようなパンから作ったにしては、奇跡的な仕上がりである。
「アギト、食べてみる?」
「いいのか?」
「味見しないで売るわけにもいかないでしょ」
「そ、それもそうだな」
アギトはプレートの上から、比較的形の整った星形のクッキーを選んだ。
「まだ熱いから気をつけてね」
「分かってる」
指先で何度か持ち替えながら、恐る恐る口へ運ぶ。
サクッ。
小気味よい音がした。
その直後、アギトの目が大きく見開かれる。
「うまい!」
「本当に?」
「ああ! すげえうまい!」
アギトは驚いたように手元のクッキーを見ると、残った半分も一気に口へ放り込んだ。
この反応を見る限り、菓子作りは無事に成功したらしい。
オレも一番見栄えの悪い一枚を手に取った。
形は歪み、端の一部が少し焦げている。
売り物にならないものから味見に使う。
我ながら商売人の鑑である。
「…………」
口へ入れ、ゆっくりと噛む。
表面はさくさくしている。
中は少ししっとりしており、砂糖とバターの甘さもきちんと感じられた。
パンを砕いて作ったせいか、普通のクッキーより少し固い。
前世で食べた専門店の焼き菓子には遠く及ばないものの、素人が初めて作ったものとしては十分な味だった。
「どうだ?」
「うん。これなら売れると思う」
「本当か!」
「少なくとも、孤児院のスープよりは美味しいよ」
「比べる相手が弱すぎるだろ」
確かに。
あのスープに勝ったところで、料理としての名誉はほとんど得られない。
完成したクッキーを一枚ずつ数えてみる。
「九十六、九十七……九十八枚」
全部で九十八枚。
五枚ずつ袋へ入れれば、十九袋作ることができる。
三枚余るが、試食用に使えばいいだろう。
一袋二千円で販売するとして、十九袋で三万八千円。
数字だけを見れば、なかなかの大金である。
ただし、現在は物資不足による激しいインフレの真っただ中だ。
前世の十円が、この世界では百円ほどの価値になっている。
つまり三万八千円といっても、前世の感覚では三千八百円程度。
ちょっとしたものなら買える。
だが、高価な品には手が届かない。
(アギトが欲しいもの次第では、足りないかもしれないな)
これだけ手伝ったのだ。
そろそろ何を買うつもりなのか、教えてくれてもいいだろう。
「ねえ、アギト」
「何だよ」
「結局、何が欲しいの?」
アギトの肩が、わずかに跳ねた。
「そ、そんなのリーシャには関係ないだろ」
「ここまで手伝ってあげたんだから、教えてくれてもいいじゃん」
「駄目だ」
「どうして?」
「駄目なものは駄目だ。特にお前には絶対に教えない」
「ちぇ。けちだなあ」
こいつ。
第六真祖であるオレ様に、一週間もパンを我慢させたうえ、材料まで調達させておいて秘密にするとは。
なんという恩知らず。
いつか絶対にボコボコにしてやる。
なお、原作どおりに進めば、最終的にボコボコにされるのはオレの方である。
その辺りの野暮な指摘は、聞かなかったことにしていただきたい。
「そんなことより」
オレは作業台の端に用意しておいた袋を指差した。
「このままじゃ売れないから、包むよ」
「ああ。ラッピングだろ」
「分かってるじゃん」
「前にリーシャが言ってたからな」
クッキーが割れないように、五枚ずつ薄い紙へ包む。
さらに透明な袋へ入れ、口を紐で結んだ。
形の良いものと悪いものを偏らせないよう、組み合わせにも気を遣う。
一袋ごとに見栄えを整えていくと、手作りのクッキーも立派な商品に見えてきた。
「はい」
完成した袋を、アギトへ手渡す。
アギトは両手で受け取ると、落とさないよう大切そうに胸へ抱えた。
「……リーシャ」
「何?」
「えっと、その……」
アギトはオレから目を逸らす。
それから、照れくさそうに鼻の下をこすった。
「ありがとな」
「どういたしまして」
素直に礼を言えるとは、少しは成長したらしい。
からかおうかとも思ったが、せっかくの感動的な場面を台無しにするほど、オレも性格は悪くない。
少なくとも自称では。
「バザー、本当に一人で大丈夫?」
「ああ。売るくらい俺一人でできる」
「そう」
アギトがそう言うなら、これ以上手を出す必要はないだろう。
材料を揃えた。
作り方を教えた。
商品も完成した。
あとはアギトが、今日作ったクッキーを無事に売り切ることを祈るだけだ。
何を買うつもりなのかは、最後まで教えてくれなかったが。
◇ ◇ ◇
アギトとクッキーを作ってから、二か月が過ぎた。
十一月上旬。
孤児院での仕事をいつもより早く終えたオレは、一人でトウキョウエリアの南端まで来ていた。
目の前を流れているのは、多摩川。
川の向こう側には、かつてヨコハマエリアと呼ばれていた土地が広がっている。
周囲には、延々と銀製の十字架が並べられていた。
その数は、目で追える範囲だけでも数えきれない。
十字架同士をつなぐように魔力が流れ、吸血鬼の侵入を拒む巨大な結界を形成している。
この川と結界を越えれば、旧ヨコハマエリアだ。
オレが第六真祖としての力を解放すれば、結界を壊して向こう側へ渡ることもできる。
もっとも、今日は破壊しに来たわけではない。
結界に沿って歩きながら、一本の十字架へ近づく。
「ちょっとだけ……」
周囲に人がいないことを確認し、銀の表面へ人差し指で触れた。
次の瞬間。
「っ……!」
バチッ、と鋭い音が鳴った。
電撃のような衝撃が指先から腕へ走り、反射的に手を離す。
触れた部分の皮膚が黒く焼け焦げていた。
だが、それも一瞬だけ。
焼けた指先から白い煙が立ち上り、しゅわしゅわと音を立てながら傷が塞がっていく。
「……なるほど」
小さく息を吐く。
国境を守る結界だけあって、かなり上質な銀が使われているらしい。
普通の吸血鬼なら、触れただけで腕ごと焼かれてもおかしくない。
結界へ込められた魔力からは、何があろうと外敵を内側へ通さないという強い意志が感じられた。
人類に残された数少ない生存圏。
守る側も、必死ということだ。
ここ数日。
オレは、どうすればトウキョウエリアを征服できるか考えていた。
机上でいくら考えても答えが出なかったため、実際に結界を確認しに来たのだが――。
「…………」
銀の十字架。
巨大な結界。
川の向こうに配置された監視塔。
周囲を巡回する討魔師。
しばらく観察した末に、導き出された結論は一つだった。
(うん。力業以外、何も思いつかない)
「はぁ……」
ため息が漏れた。
征服する気満々のラスボスが、敵の防衛設備を前に途方に暮れている。
我ながら、ずいぶん締まらない光景だった。
先日。
バフォメットが送り込んできた使い魔から、ある知らせを受け取った。
パリが陥落した。
第一真祖ベリアルの軍によって。
この世界は、七人の真祖がそれぞれ支配する領域――七つの帝国によって分割されている。
その一つ。
第一真祖ベリアルが率いる帝国、明けの明星。
その軍勢が、人類側最大の防衛拠点の一つであるパリを攻め落としたという。
パリの陥落は、原作でも起きていた出来事だ。
ただし、オレの記憶が正しければ、アギトが十歳になったころのはずだった。
現在、アギトは八歳。
本来より、二年も早い。
たかが二年。
そう考えることもできる。
だが、未来の出来事を知っていることだけが、今のオレに残された最大の武器だ。
歴史が原作からずれれば、その武器は少しずつ役に立たなくなる。
地図を頼りに歩いていたら、知らないうちに道そのものが変わっていたようなものだ。
迷子になるには十分すぎる。
「ベリアルか……」
リーシャ・クーゲルシュタイン。
吸血鬼としての名は、第六真祖ベルゼブブ。
原作におけるリーシャは、目的を達成するためなら人間を殺すこともためらわない。
だが、無意味な虐殺を好んでいたわけではない。
必要だから殺す。
邪魔だから排除する。
少なくとも、殺す行為そのものを楽しむ性格ではなかった。
しかし、ベリアルは違う。
第一真祖ベリアルは、敵を屈服させ、苦しめ、恐怖へ沈めることを好む。
人間を殺すことにも何の抵抗もない。
原作で描かれた数々の所業を思い出す限り、トウキョウエリアがベリアルの手へ落ちれば、そこに暮らす人々が無事で済む可能性は低い。
当然、アギトもその中に含まれる。
オレが第四真祖の力を奪うまでは、アギトに死んでもらっては困る。
あいつは、今後の計画に必要不可欠な存在だ。
だから、ベリアルによるトウキョウ征服だけは何としても阻止しなければならない。
原作とは異なる時期にパリを攻めたベリアルが、次にどこへ軍を進めるのかは分からない。
可能性は低い。
それでも、トウキョウへ来ないとは言い切れなかった。
ならば、ベリアルよりも先にオレがトウキョウを征服し、自分の帝国へ組み込む。
そうすればアギトを守れる。
人類側の戦力も手に入る。
一石二鳥。
計画だけを聞けば、悪くない。
問題は、その方法がまったく思いつかないことだった。
ヨコハマのときと同じように、オレが結界を破壊し、配下の吸血鬼を一斉に侵入させることはできる。
だが、トウキョウにはヨコハマ以上の討魔師が集められている。
正面衝突になれば、両軍に大きな被害が出るだろう。
オレの軍と人類側が互いに消耗したところへ、ベリアルが現れる。
そして弱った両方をまとめて滅ぼす。
十分にあり得る未来だった。
敵の敵が味方になるとは限らない。
場合によっては、二人仲良く同じ敵に殺されるだけである。
「どうしたものかな……」
悔しいが、現在のオレは真祖の中でも弱い。
個人としての力も。
支配する帝国の規模も。
ほかの真祖たちには及ばない。
特にベリアルを相手に、正面から戦って勝てる見込みはなかった。
もし先にトウキョウを奪われれば、オレの力では取り返せない。
アギトも。
孤児院も。
そこに暮らす人間たちも。
すべて、第一真祖のものになる。
その事実を考えると、途方もない無力感が湧いてきた。
「あー……くそったれ」
足元にあった石を拾い、思い切り川へ投げる。
石は水面を跳ねることもなく、ぽちゃんと間の抜けた音を立てて沈んだ。
広がった波紋も、すぐに消えていく。
一度沈んだ石は、二度と水面へ上がってこなかった。