第一節 失楽園
ギリシア西方に連なる深緑の山々。
そのある山の狭間に
木々には木精ドリュアス、湖には水精ナイアスが住まい、森精アルセイスが森を統べている。
その広く美しい大自然は、辺りの山の山精オレイアスをも惹き付けた。
その森にシルヴァというドリュアスの少女がいた。
ナイアスのアクアとは幼馴染で、カロスの湖の畔で今日もお喋りを楽しんでいる。
シルヴァはくすんだ緑、アクアは淡い青の髪を長く伸ばした美女で、それぞれが着る白と紺の衣が髪色によく映える。
胸も程よく膨らんで、あどけない名残の中に何とも言えぬ色香があった。
「その髪飾り、よく似合っているわ。誰かから貰ったの?」
シルヴァの頭にあるカンパニュラの花冠を見ながらアクアが言う。それは昨日までは無かったものである。
「ありがと。アルセイスのクレトラ様に作っていただいたの」
笑顔でシルヴァが返すと、
「ふーん……あの人に…………。あっ、私も髪飾り作ってもらおうかなぁ?」
「良いと思う。でも、今日はおそらく無理よ。昨日お聞きしたんだけど、今日は霊峰学園へ行かれたらしいわ」
「そっか。じゃぁ、また明日だね」
「そうね」
と、2人の会話が続く。
オリュンポス高等神聖学園、通称「霊峰学園」。ギリシア北方の霊山オリュンポス中腹にある、世界唯一の神霊教育機関である。
全能の神王ゼウスが学長を務め、その他にも多くの神々や英雄が教職に就く、言わば至高の聖地。
この学園の最も重んじるのは、戦士の育成。武術や魔術などの実技を根幹に、天文学や歴史学、各種芸術なども座学も学ぶ。
そして、学園そのものが神々の三派の1つ、「主神派」の総本山。有事には、教員皆が戦闘に直行できるようになっている。
シルヴァ、アクアを含め、森の多くの
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
同日。「主神派」と敵対する三派の1つ、「女帝派」の美しき怪女エキドナは数百体の怪物を引き連れ、
「ねぇ、オルトロス。一応、確認をしておくわ。例のアレを持っているのは、この森のクレトラって女で間違いないのよね」
エキドナは風にその赤毛を靡かせ、森を見下ろしながら聞く。
「あぁ、主の言うことだ。間違いない。ただ、その姿はおろか、種族すら分からぬのだ」
蛇の尾と犬の双頭。エキドナの子であり、夫でもあったま怪物オルトロスは彼女にそう返事した。
夫でも"あった"というのは彼が一度死んでいる身であるからで、その『主』が復活せしめたのである。今は「エキドナの夫」としてではなく、「エキドナの子」として今、ここにいる。
「知ったこっちゃないわ。全員殺せば同じことよ。ねえ?」
エキドナは言うと、後ろの百頭竜ラドンに目配せする。
「そうだ。そのためのお前と私、そして、
そうオルトロスに語りかけた彼もまた、一度死んでいる。そして、やはりこちらも『主』によって復活している。
「そういうことよ」
「ならば、早く始めてくれ!俺は早く
「あなた、昔からそうよね。性欲が強い上に性格まで悪い。それに、せっかちだわ」
涎を垂らして興奮するオルトロスに、エキドナは冷たく言う。
「黙れいっ!母上が俺の豪快な責めに虜になって、毎晩毎晩可愛く鳴いていたこと、俺は覚えてるぞ!」
「それとこれとは別よ。だって、今回は相手が妻でもなければ、顔見知りですらない。ただ美しいだけの
「美しい"だけ"だと!?美しいってことがどれだけ祖剃られるか、母上にはきっと分からんことだろう!女だからな!それに、俺は母上が美しい方だからあんな行為に手を染めたのだ!なあ、ラドン!貴様なら俺の気持ち、分かってくれるだろう?」
まるでかつての夫婦喧嘩を見ているような楽しさを感じていたラドンであったが、急に話を振られて、少し戸惑う。
「まぁ……父上がエトナに封じられたと聞いた時、母上が私を次の夫にしてくれないだろうかと期待はしていたが」
気付けば彼は飛んでもないことを言っていた。
「だろっ!?貴様かケートスかのどちらかが母上を寝取りに来ないか毎日ヒヤヒヤしてたもんだ」
オルトロスが向ける安堵の目が事の重大性を表していた。一方、母親の目は何か微妙なモノを見ているかのような感じである。
───何か言い訳をせねば!
それが母親の前で失言を犯してしまった男の咄嗟の思考であった。
「あ、いや……!あの、母上……?今のは……その……!」
しかし、ラドンは言葉に詰まり、そのまま萎えて黙りこくってしまう。
そんな彼の背中をオルトロスは優しく叩いてやる。
「同情よりも、女が欲しいな。こうなりゃ、ヤケ女じゃ...!」
とラドンが涙目で言うと、オルトロスは
「じゃあ、良い感じの
と提案。ラドンはコクリコクリと黙って頷いた。
エキドナはラドンまで性欲の強さを晒し始めて、深くため息をついた。
「準備は整ったわ。まずは私が湖を吹き飛ばして、木精を弱体化する。」
さて、そう馬鹿なことをしている内に占領の準備は整っていた。見ると、数百の怪物たちが森の上空に満遍なく散っている。
「その後に怪物を落として目に映る全てを喰らわせる。その邪魔をしない程度なら
それから、作戦を伝えると彼女は落ちていった。
オルトロスとラドンも自身の役割を果たすため、そして何より私欲を処理するため森へ降りていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
空に見える一条の流星。
しかし、それは明らかに異常であった。何やら強烈な
「ねぇ、シルヴァちゃん…………。あれ、何?」
アクアがシルヴァの肩に右手を置き、もう片方でその流星を指差す。
「えっと、あれは…………流れ星……?かな?」
シルヴァは小首を傾げて言う。
だが、それからしばらく見つめていて、それが流れ星などではないことをシルヴァは知る。
気付けたのは、彼女が幼い頃から眼を鍛えていたことの賜物であった。
それは
おそらく、アレはもうすぐ湖に落下する。あの高さ、あの体躯が目の前に落ちたと考えるとその威力は計り知れない。
「アクア、逃げましょ。できるだけ遠くに!アレは流星なんかじゃなくてどっかの怪物。あんな大胆に見参するような奴が私たち味方な訳がないわ。ううん、味方だったとしてもここにいては危険よ。吹き飛ばされる!」
とシルヴァは言って、アクアの手首を掴む。
「う、うん」
彼女の視力の高さを知っていて、嘘をつくような子ではないということも知っているアクアに疑う余地など微塵もありはしなかった。
「皆も早くここから逃げて!あの怪物...もとい、流れ星に吹き飛ばされてちゃう!」
シルヴァはアクアを引っ張りながら、辺りの
その時、既に怪物の姿がハッキリと見えている。
ゴガァァァァァァッッッ!!!
間も無くその怪物は勢いよく湖に激突。そのあまりの凄まじさに湖水の緩衝もあまり意味を成さなかった。
「「きゃぁぁぁぁぁっっっ!」」
響くシルヴァとアクアの悲鳴。余った威力は爆風と化した。湖水は一瞬にしてはね除け、砂塵が巻き上がり、辺りの
「嘘…………」
「そん、な…………」
砂塵に服の所々を破かれ、全身の傷が激しく疼いている。その痛みを堪えて、立ち上がった2人は惨状を目の当たりにした。
湖はほとんど吹き飛び、残された水は赤く濁っている。
次々と浮いてくる
半人半蛇の怪物は下の蛇で死骸を掴んでは、上の女が喰っていく。
湖畔にも死骸は転がる。顔は岩や木に当たって血みどろとなり、服は縦に裂けて胸が露出している。彼女たちとまた、怪物の糧となった。
「う……くぁっ……!」
「あぁっ……!」
「くぅうっ……!」
そして、1人、また1人と残った
シルヴァとアクアは目を背けるように走り出す。
逃げ惑っている内、空からは怪物の雨。かと思えば炎の霧。四方八方から悲鳴や断末魔、何やら別の類の声も時折、聞こえる。
それでも、シルヴァとアクアは構わず走り続けた。ただ、生きてこの森を脱するために。
しばらくして、森の出口が見え始める。
「もうすぐだよ、シルヴァちゃん!」
気付けばアクアが先を行っていた。シルヴァは湖の水を多量に失って、棲んでいた木も燃え尽きて聖魔力、言えば
そして、ついにシルヴァは聖魔力の枯渇し、動けなくなってしまう。このまま、聖魔力が完全に失われればそれは"死"を意味する。
だが、彼女は聖魔力を補う方法を知っていた。
聖魔力には火属性、水属性、木属性、土属性、光属性、闇属性、無属性の七種ある。
神や神霊の汗、唾液、血液などの体液はそれを多量に含んでいる。自然物も聖魔力を孕むが、含量はその比でない。
それを摂取するのが、聖魔力を補う一番の方法だ。
得られる属性は、それぞれの神格に応じて変わる。
そして、木属性の
「アクア、嫌だったらごめん……!」
「え……。んむっ……!?」
シルヴァは最後の力でアクアに飛びかかり、その唇を奪い取った。
唇の隙間から吐息が漏れて、肌に感じる互いの鼓動が倍加する。
アクアは目を丸くし、戸惑った。
だが、シルヴァの唇の柔らかく温かな感触に安らぎが湧いてくる。
思わず頬が熱くなって、口を緩めてしまう。
「んんっ……!」
その隙を見て、シルヴァはアクアの中へ舌を押し込んだ。
「んっ……!?」
アクアは一瞬だけ驚き、舌を受け入れる。今はただ、初めて知るこの気分に酔いしれたくて、抗う気は起きなかった。
舌と舌が縺れ合い、互いの唾液が混ざり、シルヴァに段々と精気が戻り始めた。
「ん……んんっ……。」
アクアは甘美な声を漏らして、シルヴァとの深く濃厚なキスをたのしむ。
幾度も唇と唇が重なっては離れ、重なっては離れした。
それからどれほどの時が経ったのかアクアには分からなかった。
シルヴァとのキスの快楽に溺れて、時間を忘れていたのだ。アクアはそれが恥ずかしくてたまらなかった。
シルヴァも途中からはあまりに気持ちが良くて、聖魔力が戻ってもなお、舌を絡めていた。それが分かって、彼女も流石に恥ずかしくなる。
見つめ合う2人の頬は火照り、息を乱している。
その間、彼女たちの行為を邪魔する者はいなかった。
全て終わると2人は目を逸らしたまま、手を繋いで森を出る。
お互い、恥ずかしさで全身が熱っぽく感じられた。
しかし、シルヴァの心の奥底に眠っていたのは冷ややかなる意思であった。
───いつか、地獄を見せてやる……
故郷を奪った魑魅魍魎への激しい憎悪、そして、復讐心である。