ある日、私は生まれ育ったショチトル島を飛び出して、グランサイファーに乗り込むことになった。団長さんや、優しいみなさんが私を導いてくれて、だから、私は――

 グランブルーファンタジー男主人公×ヒロイン合同誌『も〜っと! グランとLoveるッ!』より、グラン×ディアンサのお話を抜粋。
 ディアンサの騎空士としての旅の始まりから、時の流れのように物語を紡ぐ作品です。

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バッド-バイ

 グランの姿を確認して――気づけば私は、逃げ出していた。

 どうしてか、いつもより遥かに長く感じられる廊下を駆け抜けていく。駆け抜けて、駆け抜けて、駆け抜けて、駆け抜けていく。

――そうして辿り着いた先は、女性用のトイレだった。無意識の防御本能だ。だって、そこはもう、グランは入ってこれない場所なのだから。

 肩で息をしながら顔を上げた私は、鏡に映る、酷く乱れた女の子を目の当たりにした。目の前の私を『ひどい顔だ』と失笑する事さえできないまま、私は泣き崩れる。

「どうして……」

 その慟哭は、きっと、ほんの少し前なら考えつきもしないはずの慟哭だった。幸せになってはいけなかった私が、幸せになってしまったが故の慟哭だ。

 年月は恐ろしいものだと、人の心は恐ろしいものだと、実感してしまう。ずっと前からこうなることを知っていたのなら、私はきっと幸せになどならなかった。

「どうして……?」

 声を絞り出しても、出てくるものは震えたものだけだ。それを感じ取ったとき、ようやく私は自分が酷く震えていることに気が付いた。

 思わず、両腕で自分の体を抱く。涙がとめどなく溢れる。

 私はいつまで、籠の中の鳥でいなければならないのだろう――?

「どうして……ッ!!」

 嬉しかったはずの言葉が、ずっと欲しかったはずの言葉が、何故だか今はとても悲しかった。

「う、うぅ、うぁ、うあぁああああぁあああぁああああぁぁああぁッッッッ!!」

 嗚咽が、響く。

 

 

「今日から、お世話になりますっ!」

「うん、よろしくね」

 我ながら、がちがちに緊張している、という言葉がここまで当てはまる状況もそうないだろう。下手したら、公演直前より緊張しているかもしれない。

 胸のあたりがきゅうっと締め付けられるように苦しく、ぴしりと伸ばしたはずの腕はわずかながらに震えている。喉はひっきりなしに乾くし、もはや何度膝から崩れ落ちそうになったことか、数えられない。

――今日から私は、生まれ育ったこのショチトル島を出て、騎空士になる。

 突然のことだった。今までショチトルでしか生きたことが無くて、ショチトル以外のことを何も知らない私に突き付けられた、ショロトル様からのお告げ。「ディアンサ、島出てけ」。ジオラいわく、伝え方が悪いだけで、広い世界を見ておいで、との事。だから私は、そこまでこの旅に不安を覚えてはいなかった。

 だが、しかし。……御厄介になるところが、団長さんの騎空艇――グランサイファーだというのなら、話は別だ。不安を覚えるというわけではない。祭司様が仰っていたように、むしろ最も安全ときっぱり言い切れるだろう。

 団長さんは今や、ショチトル島では一種の英雄扱いだ。自分達では何もしていないと団長さんは謙遜していたけれど、彼らがいなかったら、ショチトル島は滅んでいたに違いない。

 そんな『英雄様』と一緒の船で色々と勉強させてもらうなんて。正直、プレッシャーでいっぱいだ。

「そんなに緊張しなくてもいいよ、ディアンサ」

 苦笑交じりで、団長さんが言ってくれた。その言葉を聞いて、思わず私はへにゃへにゃとへたり込んでしまう。崩れ落ちるままにお尻が床に触れると、もはや自力で立つことなど出来そうになかった。

 私は、知っている。素の団長さんがこういう人なのだと。だからこそあの一緒に過ごした日々が思い返されて、私の緊張は一気にはじけ飛んだ。

「……え、えへへ、緊張、解けちゃいました」

「解き過ぎだよ」

 けらけらと笑いながら、団長さんは私に手を差し伸べてくれる。

 団長さんは随分コロコロと笑う人だなあ、そんな感慨を浮かべる。さっき艇が飛ぶまでは、無表情を装って照れ隠しをしていたはずなのに。……もっとも、私自身はそれに気付かなかったのだけれど。ジオラはよく人を見ているなあと、どこかズレた感慨を抱いた。

 でもたしかに、かつての“事件”のときは、随分感情表現が豊かな人だと思ったっけ。私達の為に心の底から怒ってくれたことも、あったっけ。

 私はそんな思いを浮かべながら、団長さんの手を掴んで、――瞬間、ぐっと引き揚げられた。

「わ、わわっわっ!?」

「あ、ごめん。痛かった?」

 違う。痛かったわけじゃない。団長さんの余りのたくましさに、驚いただけだ。

「だ、だ、団長さん私の一個年下ですよね……!? すっごい力……」

「……そう、だね。ディアンサが十六歳なら。まぁ、いろいろな経験はしてきたしさ」

 どこか懐かしむような表情を見せる団長さんだが、私はそれどころではなかった。手だ。手を繋がれたままなのだ。ただそれが恥ずかしくて、こそばゆくて、私は思わずかぶりを振ってしまう。

「ディアンサ?」

「……あの、その。団長さん、手……」

「あ、ごめん。いきなり馴れ馴れしかったよね」

「そ、そんなことない! 大丈夫だよ、です、うん」

 どうしてか、心臓がバクバクと痛い。同年代の男の人とこんなに近くに居る事が、初めてだからだろうか。

 ぱっと離れた団長さんの手のひら。触れ合っていた私の手のひらは、未だに触れられているかのようにぽかぽかと温かかった。……名残惜しいような、安心したような、微妙な感情が私を支配した。

「とりあえずもう翔んでからだいぶ時間もたってるし、部屋を案内するよ。あ、持つ荷物ある?」

「ううん、大丈夫。じゃ、エスコートお願いします!」

「ん、了解」

 必死に虚勢を張る。本当の私はもう限界だ。とてもとても、年上の余裕を見せてエスコートを頼むなんてできるわけがない。してしまったけど。

 荷物を運びながら、私は自分に言い聞かせる。頑張れ、ディアンサ。目の前の人は狼でもなんでもない。私を助けてくれて、私に親身になってくれる、年下だけど頼りがいのある、優しい人だ。だからそんなに緊張する必要は――

「うわぁっ!?」

――ガチャリと左手の扉が開き、私は悲鳴を上げて跳び上がった。

「うおっ!? 吃驚した……!」

「こここ、ここ、こっちのセリフですよ!?」

 危うく、ぶつかるところだった。黒髪のキリッとした顔立ちの青年が、その扉から出てきていたのだ。

 見たところ、団長さんや私と同じくらいの年齢に見える。怖い人というわけではなさそうで、良かったとこっそり胸を撫で下ろすのだった。

――ただし、心臓はばくばくと暴れ回っている。いつ肋骨を突き破るか戦々恐々としてしまうほどには。

「ユーリ、ちょうど良かった。紹介するよ。新団員のディアンサ」

「ああ、例の! 自分はユーリと申します。よろしくお願いします、ディアンサ殿」

 最近無かった反応に、私はつい新鮮味を感じる。巫女として、そして祭司見習いとしてショチトルで活動しているときは、誰もが私のことを知っていたからだ。

 けれど、ここから先は違う。私を知らない人たちと一緒に、私が知らなかったことをしていくんだ。……早速、ユーリさんのお陰でわかった気がする。

「よろしくお願いします、ユーリさん!」

「ユーリで、構わないです。……代わりに、俺も砕けた口調で良いか? あまり、隣人に壁を作りたくはない」

「あ、うん、はい! お隣さんなんです、なんだね」

 ユーリさん……ユーリの、差し出された手を握り返す。団長さんやルリアちゃん、ビィくん以外に、初めて出来た知り合いだ。この人がお隣さんなら心強いだろう。

 優しそうな人だ。でも、なんとなく無骨そうな人だ。……悪い人ではなさそうだ。私は思わず、頬を緩ませていた。

「ほぉ」

 ふと、団長さんがため息のような、声のようなものを口に出す。何事かと顔を向けると、意外そうな団長さん。

「ディアンサ、何だかんだで慣れるの早そうだね。僕以外には」

「え……ふぇえ!? ち、違うの団長さん! 流石にさっきので緊張が解けちゃっただけで私団長さんとも仲良くしたいな!?」

 瞬時に意図を理解して、私は必死に弁明する。意地悪を言われているのだ。それが証拠に、団長さんの表情はちょっぴりワルい笑顔に変わっていく。

「そっかあ、ディアンサはユーリがお気に入りなんだね。ちょっと妬けちゃうな」

「ちが、そうじゃ、そうじゃなくてー!」

「む。それでは俺は早速嫌われてしまったかな」

 再びユーリの方を向くと、これまたワルい表情。しまった、引っかかった。ユーリは……そして多分団長さんは、私が否定の言葉を出すのを待っていたに違いない!

「だ、大丈夫だから! ユーリさんも好き!」

 ついに耐えられなくなったのか、顔を見合わせて笑いだすユーリと団長さん。そこまでやって、私は自分の緊張が完全にほぐれているのだとようやく気付いた。

 多分きっと、わざわざ緊張をほぐそうとした行動ではないだろう。そういった掛け合いがあるほどに彼らは仲が良くって、それほどまでにこの艇は空気がいい。そういう事なんだ。

「もう、さっそくからかわれた。……えーと、改めて! よろしくお願いします!」

 気を取り直して、テイク・ツー。今度は、私らしく。

 そんな『はじめまして』に、団長さんもユーリも、柔らかい顔で微笑んでくれた。

「よろしく、ディアンサ」

 

 

「わぁぁああぁっ!」

 無様な悲鳴、そして、陶器の砕ける音。響いたのは私の部屋で、声を上げたのも当然私。まるでそれをからかい笑うかのように、艇は汽笛を鳴らした。

 今日の昼にはアウギュステに着くと、ラカムさんが言ってたっけ。一応は紅茶も飲み干した後で良かったなあ。明日から初めての依頼だっけ。私は割れたマグカップをかき集めながら、ぼんやり回想する。そうして、今の揺れがアウギュステに到着した証なのだという思考に至ると、私は弾けるように窓の外を眺めた。マグカップは、一旦放棄である。

 アウギュステ列島、『海』という大きな、大きな、大きな池があるという一大観光スポット。私の知識としては、そこまでだ。それ以上を知るにはショチトル島は狭すぎて、だから私はこの旅が始まってからも、あえていろんなことを調べないままにしていた。

 当然祭司になる為の勉強は続けているし、いろいろな楽器についても造詣を深めているけれど、アウギュステの海の様な、知識として得るよりも体験した方が何倍も心に刻まれそうなものは、あえて引出しに鍵をかけてしまうのだ。だから――

「す……っご……」

 窓から見えるのは、一面に広がる水色。空を反射しているように鮮やかで、思わず飛び込んでしまいたくなるような魅力に満ち溢れた、海がそこに広がっていた。

 知らなくて、正解だった。

 そんなふうに、ただ大きく吐息をこぼす事しかできなくなっていた私を、ノックの音が現実に引き戻す。しまった、今はマグカップの残骸を片づけなくちゃいけなかったんだった!

「ディアンサ? なんかすごい音がしたけど、大丈夫?」

「あ、グランさん! だ、大丈夫……じゃ、ない、かもです」

 私がそう言うと、軋るような高い音を鳴らしながら、扉が若干内側に姿を寄せる。そうしてできた隙間に、グランさんの首だけがひょこりと現れた。

「何か割らな……ってあー! そのマグ……」

 しまったと私は顔面に無数のしわを寄せた。このマグカップは、グランさんが買ってくれたものだったと今更ながらに思い出す。ばつが悪くなってうなだれた先には、二つに分かれてもはや『フ』としか見えなくなった『D』の残骸が転がっていた。

 ディアンサのD。こんな時ばっかり、プレゼントしてくれたグランさんの笑顔が思い浮かんで、罪悪感を刺激する。……グランさんがきっと必死に探してきてくれたものだったはずなのに。

「ごめんなさい、グランさん……着水した衝撃で、落としちゃって……」

「あちゃー……。まぁ、しょうがないよ。それより、ディアンサに怪我がなくってよかった」

 言葉の上ではそう言うも、グランの表情にはありありと「がっかり」が描かれている。私が逆の立場だったら、泣き言の一つでも零していそうな気がするのに、グランさんはむしろ慰めてくれたのだ。それがとても情けなくて、先程まで感じていた感動もすっかり影を潜めてしまった。

「……よし、じゃあディアンサ! また買いに行こう」

 けれど、グランさんはにっかりと笑って、手を差し出してきた。

「アウギュステは観光地だから、色んなものがおいてある。きっとまた良いマグカップも置いてあるよ。マグだけじゃなくて、ディアンサの気に入るものもたくさん。だから、そんな泣きそうな顔しないでさ」

「グランさん……」

 じわり、と景色が滲む。彼は、本当にいい人だ。

 自分の送った物が無残な姿になってしまって、悲しくないわけがない。ショックでないわけがない。それはついさっき彼自身が隠しきれない表情で証明していた。それなのに、それなのに。

 瞼をぐしぐしと擦って、私は笑って頷いた。

「うん、行こ!」

 グランさんの手を取る。マグカップの残骸を踏まない様に跨いで、私はグランさんに微笑みかけた。もう大丈夫だよ、と。グランさんが虚勢を張ってくれたように、私も虚勢を張って。

「あ、ついでだから僕もいろいろ補充しなくちゃな……」

「そんなに?」

「そんなに。色々面倒くさいことはカリオストロとかパーシヴァルが教えてくれるんだけど、おかげさまでインクと紙とその他もろもろが全然足りなくて」

 そうしてタラップまで、二人で緩い会話を交わしながら歩いていくと、そこには丁度階段を登ってきたであろう男性の姿があった。深紅の髪をおろし、トレードマークである鎧も無いオフスタイルの男性だ。話をすれば影が差す――というのは、まさにこのことだろうか。

「ん、グランにディアンサか。出るのか?」

「パーシヴァルさん。はい、ちょっとお買い物に」

「マグカップを買いに行こうと思ってね。あとは僕の買い物も」

 炎帝パーシヴァルさん。理想の国を作るためにグランさんたちを家臣として使い、いろんなことを勉強している騎士様だという話だ。団長なのに家臣っていったいどういう事なんだろうとか、私もいつの間にか家臣にさせられていたとか、割と自由な人というイメージもある。そもそも、家臣になった後何もした覚えがない。

「そうか、買い物か。となればいいタイミングだ。幾らか買い物をするとくじを引けるらしいぞ、家臣共」

「くじ……ですか?」

 パーシヴァルさんは緩く頷いた。

「運試し気分で引いてみるといい。俺は残念なことに、この煙草位しか手に入らなかったが」

「ラカムにあげるの?」

「ああ。銘柄が合うのかはわからんがな。兎角、楽しんで来い」

 グランさんが、パーシヴァルさんにひらひらと手を振る。パーシヴァルさんはフッ、といつものように笑うと踵を返した。

「となると、マグカップだけじゃなくて他の物も買いに行こうか、ディアンサ」

「うん、そうだね。たくさんお買い物、しよっか」

 楽しそうなグランさんは、タラップを駆け下りる様にしてスイスイ先に行く。私はあわててグランさんを追いかける。決して追いつけず、かと言って離れもせず。そんな距離感を保ちながら、私たちは商店街まで駆けていく。もうその頃にはマグカップを割ってしまった憂鬱なんて吹っ飛んでしまっていて、……ただ、ひたすらに楽しかった。

 そうして財布のダイエットに成功した私とグランさんの部屋には、いろんな雑貨が増えたのだった。結局くじは当たらなかったけれど、楽しい時間を過ごせたのだから、それでいい。

 

――のちに、私はこれがデートと呼ばれるものだと知り、ベッドの上で転げ回った挙句落下することになる。

 

 

 

 

「はぁ……」

 任務を終えて帰ってくると、もう日付が変わりかけていた。今日と明日の境界線――出来るだけ何もしたくない時間だ。

 この騎空団にお世話になって、一番最初に戸惑ったのがこの深夜帯だった。流石に夜を明かす任務に就いたことはまだないけれど、晩御飯の時間に間に合わない帰投時間は案外多くある。グランさんはたまにご飯を置いておいてくれるけれど、確率で言ったら多分十パーセントくらいだ。そもそもそこまで余るように作っていないのだろう。

「はぁ……」

 くたくた、という以外に表現のしようがないほどの疲労感。勝手な感情だけれど、早々に夢の世界にいるグランさんたちがちょっぴり恨めしい。……少し前までなら、私もこの時間はとっくに夢の中だったはずだ。

 ましてやこの時間に胃が食物を欲しがっても、その欲求に応えることは絶対になかった。私達巫女は、そんな不健康なことをしてはならなかったのだ。祭司様の仰る言葉を否定する気はなかったし、現に私もそうだと思っていた。

 なお、ジオラについてはコメントを差し控えさせていただきたい。

「はぁ……」

 だが、私も今や騎空士だ。お腹の虫が大合唱している中眠るのは難しいし、失ったエネルギーを補充する手段は食事をおいて他にない。ともなれば、どんなに眠くても足が食堂に向かってしまうのは至極自然なことだった。

 そんなわけで、私達はシェフ・パーシヴァルのお料理を心待ちにしている、というわけだ。

 パーシヴァルさんはその性格や戦いぶりとはうってかわって、意外としか言えないほどに繊細な料理を作る。……普段から自らを王であると豪語しているのに、召使に作らせようと思ったりはしないのだろうか、なんて疑問に思う事もあるが。パーシヴァルさんの『王』像を正確に理解するには、まだちょっと遠い。

 この団の人は、結構料理の上手い人が多い。パーシヴァルさんはこの通りだし、バウタオーダさんの料理なんてほっぺたが落ちた。ローアインさんたちの料理は軽く意識がトぶし、グランさんは本当にだいすきだ。

 女性陣だって負けてはいない。ククルちゃんの料理はどことなく優しい味がするし、フィーエちゃんはもはやおふくろの味、ってやつだ。コルワさんの料理はパーシヴァルさんと双璧をなす程に綺麗な出来だし、カタリナさんの料理は魔物退治に最適だ。

「はぁ……」

「……なあ、ディアンサ。いい加減機嫌直したらどうだ」

「へ?」

 いい匂いが漂ってくるキッチンにお預けされ、まるで『待て』と言われた犬のようにパーシヴァルさんを見つめていた私は、突如として浴びせられた声にきょとんと振り返る。

 視線の先では、今日の任務でスリーマンセルを組んだもう一人、ユーリが苦笑いを浮かべていた。

「アンタには厳しい任務だったとは思うが、……こう、なんと言ったらいいか……。アンタに元気がないと、俺達も沈む。な」

 なるほど、と私は納得した。どうやらユーリは私が落ち込んでいるのだと勘違いしているようだ。確かに食堂に入ってから口を開いた記憶が無いし、何より彼が言ったように、今日の任務は物凄く大変だった。これでは私に元気がないと思われても仕方が無い。

 そして同時に、私はユーリがとことんモテない理由をまたもや把握してしまった。……今回の把握に至った言動は、この慰めである。落ち込んでいる女の子に対しての慰めとしては、随分と稚拙が過ぎるのではないか。

「ユーリ、私別に落ち込んではないよ。あと、口下手すぎ」

「ぐっ……! た、確かに励ますには言葉があまりにも足らなすぎたとは思っていたッ!」

「深夜だ、ユーリ」

 ユーリが叫ぶと同時に、パーシヴァルさんが出来上がった料理を持ってテーブルへとやってくる。嗜められたユーリは眉間にシワを寄せて、自らの頬を平手打ちした。

 暑苦しい男の子だ。でも、ユーリはそういう人間だし、今更それにびっくりはしない。慣れっこだ。

「はぁ……」

 今日の料理はお鍋のようだ。エプロンに鍋つかみを装着してやってくるパーシヴァルさんは先程までの騎士然とした――騎士だけど――姿ではなかったけれど、それでもやっぱり格好いいなあ、と思う。

 でも、鍋とは珍しい。短時間で出来て、色々食べられるのは確かに鍋をおいて他にない。寒い冬、ショチトル島に居た時は私もよく食べていたっけ。その調理師がパーシヴァルさんでなければ、珍しくもなんともないのだけれど。

「……珍しいですね、パーシヴァルさんがお鍋って」

「そうか。手早く調理を済ませたい時には毎度これだが」

 嘘だあ。私は目を丸くした。パーシヴァルさんといえば毎度凝った料理を出してくるイメージしかない私にとって、その言葉は信じるには難しすぎた。

 土鍋の蓋が開く。湯気と共にこれぞ鍋、といった温かい香りが私の鼻をくすぐった。釣られるように、お腹の虫がイントロを歌う。それが恥ずかしくて、私はすぐさまお鍋のレビューに取り掛かることにした。

「お鍋って言っても、これ……結構手が掛かってますね?」

「おお、これは……。ティアマトの暴風を上から見たら、きっとこんな感じなんだろうな」

「ふ、ティアマトの暴風か」

 ユーリが言うように、渦を巻くようにして敷き詰められた野菜とお肉。私の見たことない鍋料理だ。

「そこまで手は掛かっていない。単純に白菜とキャベツ、それから豚肉を順々に外側から敷き詰めていっただけの代物だからな。……ミルフィーユ鍋という」

「ああ、これが噂に聞いた! なるほど、実に美味しそうでありますな」

 ミルフィーユ、と聞いて私の脳内に広がったのはケーキだった。ユーリはどうやら納得したみたいだが、私は今一つ、頷けなかった。

「これ……もしかして生クリームとか使ってるんですか?」

「使うわけがないだろう。ミルフィーユを想像するところまでは正解だが」

 てきぱき、てきぱき。本当に王を目指しているのかと問い詰めたくなるくらい家庭感の溢れるパーシヴァルさんは、どんどん私やユーリにお肉を、野菜を積み上げていく。本当、まるでお母さんだ。

「ミルフィーユは生地から造形まで多くの層でできている。先程ユーリが暴風と形容したが、この通り野菜と肉が何重にも層をなしているだろう? それにちなんでこう名がついた」

「なるほど……あ、パーシヴァルさんもう大丈夫です」

 いただきます。手を合わせて、私とユーリが唱和する。少し表情を緩ませて、パーシヴァルさんは軽く頷いた。さっそくとんすいを掲げ、おつゆを一口。うっすらお出汁の味を感じる、絶妙な心地。この瞬間、確かにパーシヴァルさんがこの鍋を作ったのだと私は真に納得したのであった。ようやくのことである。

「はぁ……」

 しかし、パーシヴァルさんは自分の器には手を付けない。なぜか、私が食べるのをじっと見ているようだった。

 何か顔についているだろうか。もしかして泥とかつきっぱなし? いやいや、そんなはずはない。……いや待てよ、化粧が落ちてしまった? もしかして、それか。それはまずい。いや料理はおいしいけど。っていうかなにこれ。豚肉に白菜とキャベツのおつゆがしみ込んでてすごくおいしい。とろとろとは行かないまでも歯ごたえがほとんど感じられないくらいまで煮込まれた野菜はお出汁と肉汁を吸ったのか、ものすごくコクのある――

「……パーシヴァル殿、召し上がらないのですか?」

 余りの美味しさに吹っ飛んでいた思考が、ユーリの一声で戻ってくる。未だパーシヴァルさんは私の顔を見たままだし、ユーリは変な顔で私とパーシヴァルさんを見比べている。

「ディアンサ、食いながらでいい、聞け。……まさかとは思うが、お前のそのため息は、無自覚か?」

 ため息? 私はもぐもぐとお肉を咀嚼しながら、こてんと首を傾けた。

「……やはりか」

「嘘だろディアンサ……? あれだけしておいて、無自覚だったのか?」

 パーシヴァルさんが頷き、ユーリが動揺する。よもやここまで来て、二人が私をからかっているなどとは想像がつかない。つまるところ、私は――

「――無意識に、ため息をついてたの? 私」

 ユーリとパーシヴァルさんは、首を縦に振った。

「うーん……今日の任務で疲れたのか、気分を悪くしたかと思ったんだが」

 ユーリは困ったように呟いて、とんすいの中身を掻き込んだ。任務かあ。私も同じくおつゆを味わいながら、記憶を振り返っていく。

 今日の任務は、かなり厳しいものに分類されるだろう。田舎村を困らせる『山の翁』と呼ばれる魔物の討伐。その名の通り非常に老獪な魔物で、危うく私も首を飛ばされるところだった。……比喩ではなく、死ぬかと思った任務は、今日が初めてだ。ユーリがかばってくれて、その隙をパーシヴァルさんが一発で仕留めてくれたから、私は今生きている。

「でもあれは特に気にしてないし。そりゃ少しは怖かったけど」

「少しはって、随分とまた豪胆な」

 そう、私はそれを欠片も気にしていないのだ。……考えてみればおかしな話だ。死にかけた経験なんて、これが初めてなのに。自分を生贄に捧げる覚悟を決めたことはあったから、その神経のままなのかもしれないけれど。

 さて、となると、なんだろう。私はユーリと同時にその疑問に至ったのか、同じように首をこてんと傾けるのであった。

「いやおかしいだろ。なんでディアンサが首を傾げるんだ」

「そ、そんなこと言われても分からないものは分からないし……」

 そもそも、今の今まで自分がため息の嵐だったことすら把握していなかったのだ。そんな女の子にいきなり原因を究明しろと言われても、無理があるのはわかりきったことだ。……だからこいつはモテないのだ。

「悩みや苦悩、そういったマイナス感情とはかけ離れたものだと俺は思う」

 パーシヴァルさんが言う。ようやく鍋に手を付けたパーシヴァルさんはキャベツを噛み締めたあと、ゆっくりと言葉を続けた。

「俺も当初はそれを疑っていた。だがお前とユーリの談笑を聞く限り、その可能性は低いと思える。……ディアンサ、お前の姿からそういった感情は感じ取れん」

「ああ、たしかにそれはその通りだな。ため息以外、何も変わりないディアンサに見える」

 続いたユーリの言葉に、私は二つ頷いた。私自身、私が悩んでいる自覚はない。

「溜まってる不満とか、今は無いし。……でも幸せそうなため息ってわけじゃなかったんでしょ?」

 今度は二人が同時に頷く番だった。

 さて、堂々巡りだ。結局私のため息がどんな原因で発されているのか、それが皆目見当もつかない。

「苦悩もなく、かと言って幸福でもない。となると答えは一つだ」

 しかし、ユーリがお肉をくわえながらニヤリと笑う。

……本当に格好がつかないな、この男は。少しはグランさんやパーシヴァルさんを見習うといい。

「つまり、ディアンサは恋をしている!」

「え、あ、うん。してるよ」

「それだッ!!」

――そうしてユーリが出した結論は、むしろ大変今更なものだった。

 そういえばユーリに話すと、こうしてうるさくなるのが目に見えていたから、黙っていたんだっけ。

「ユーリ、少し黙れ」

 平手打ちの音。

「まあ、俺の至った結論も同じだがな。となると……未だ、想いは告げていないと」

「はい。どうしてもグランさんは団長さんだからその、二人きりになるタイミングが無くって。……ちょっと前にそのチャンスはあったんですけど、そこの自傷癖発症してる可哀想な子が乱入してきちゃって」

 往復ビンタの音。

「ユーリ、鍋を食え」

 今度は、アーミラちゃんの真似とばかりにとんすいをかきこみだした。いい加減注目しても馬鹿らしくなるだけだと気付いた私は、パーシヴァルさんの言葉に集中することにしたのである。

「先の言葉を撤回する形にはなるが、やはりお前は不満を抱えているようだ」

「不満……ですか」

 ここまで言われれば、パーシヴァルさんが何を言おうとしているのか、なんとなくわかる。多分、私はグランさんに告白できないことに対してやきもきしているのだ。

「仕方のないことだから考えても無駄だー! って、思ってたんですけどね。チャンスはいくらでもあるし」

「ああ。頭で理解できても、心が納得していなかったのだろう。そうしてついに、今日それが形となって現れた。おそらくそれは、今日の過酷な任務が影響している」

「今日、死にかけたことですか」

 一つ、身震い。ユーリが守ってくれたとはいっても、もし私がもう一歩前に居たら、今は多分お葬式の真っ最中だ。

「恐らくは、それがトリガーだ。今回は死なずに済んだが、……想いを伝えないままに死にたくない。その欲求が急速に膨れ上がったのだろう」

「なるほど……」

 考えてみれば、確かにそんな気がする。

 任務が終わってからというもの、たくさん想像や妄想や考え事をしていたけれど、そのうち多くがグランさんの内容だった。――ひょっとして、今私が恐怖に震えていないのも、恐怖よりグランさんに対する想いが強いからなのだろうか。

「ってことは、もしかしてこれって、どんどん強くなる……?」

「可能性は高いだろうな」

 参った。

「はぁ……」

 あまりため息をつき続けていても、周りのみんなを不愉快にしてしまうだけだ。早めに、何とかしないと。……何とかと言っても、どうしようもないけれど。

「じゃあ、ディアンサ。俺が団長殿を呼び出そう。この間の詫びだ」

 しばらく黙々と鍋をつついていたユーリが、自信ありげにほほ笑んだ。

「実は明日、団長殿とは手合せを予定していてな。……そこで、策を講じる。少し、耳を」

「普通に話して?」

――そうしてユーリが話した『策』は、とんでもない奇策だった。パーシヴァルさんも呆れてしまうほどに杜撰な計画は、しかし物は試しとばかりに実行されることになったのである。

 

 

 

 

 グランサイファーで剣の使い手を一人挙げるとするならば、誰が挙がるだろう。

 ある人はアレーティア殿だというだろう。

 ある人はカタリナお姉様ですというだろう。

 ある人はちゃけばパ様じゃねというだろう。

 ある人はとことんシャルロッテ団長殿ですというだろう。

 この艇には名だたる剣の使い手がたくさんいる。しかし私にとって最上の剣の使い手は、

「――ッ!!」

「甘いッ、そこッ、そこだァッ!!」

――このユーリであると思っている。

 彼の剣捌きは帝国式を基にしている。一大勢力であったエルステ帝国軍の標準型式というに相応しい、まさに型どおりの剣捌き。

 しかし彼が帝国を離れ、周りの、独自の振り方を吸収して行って、最終的に辿り着いた型が今のこの剣捌きだ。いかに獲物が普段と異なる木剣とはいえ、グランさんが防戦一方な時点で、その攻撃力は推して図るべきだろう。

 猪突猛進、攻撃全開、しかし竜頭蛇尾。そんなユーリだが、そのくせ周りが良く見えているという攻避一体の、ユーリだけの型。これが私は、たまらなく好きだった。

 ガイーヌさんの剣舞をより一層攻撃に回したような動き。私たちがかつて踊っていた舞を髣髴とさせる攻撃。それでいて破壊力抜群の短期特攻。全てが私の琴線に触れる。

「ぐっ……!」

 グランさんがよろめく。そのスキを見逃すようなユーリではなかった。

「容赦はせんッ! おおおあァァッ!!」

 雄たけびを上げて、ユーリがグランさんに切りかかる。辛うじて木剣で直撃こそ防いだものの、代償として木剣は粉々に砕け散った。僅かに残った柄さえもカラカラと音を立てて甲板に転がっていく。……もはや掴む力さえグランさんには残っていないようだった。

 グランさんが倒れ込む。決着――あっという間だった。まさに先手必勝、一撃必殺を体現したユーリの完勝だ。

「――グランっ!」

 ルリアちゃんが一目散、グランさんに駆け寄った。リンクしている自分だって相当痛いだろうに、そんなことお構い無しで。

「わ、気絶してる……ルリアちゃん、そっちの肩お願いできる? 二人で運ぼ?」

「あっ、……はい!」

 ゆさゆさとグランさんを揺するルリアちゃんに駆け寄った私は、すぐさまルリアちゃんに指示を飛ばす。危険な状態ではないにしても、運び出すことは急務だ。手当をしなくちゃいけないのは変わりないし、なにより――

「大丈夫か、ルリア。手を貸すか?」

「大丈夫です、パーシヴァルさん。手がちょっと痺れるくらいで、多分グランもすぐ起きると思います」

 声をかけたパーシヴァルさんに、しかしルリアちゃんは笑って首を振る。

――そう、『策』はもう始まっている。そしてその『策』に、ルリアちゃんは協力者として参戦しているのだ。

 大まかな流れはこうだ。まずユーリが圧倒的瞬間決着をつける。それを私とルリアちゃんが部屋まで運び込み、ルリアちゃんはその場を離れる。以上。それはもうひどい策である。

 ユーリの爆発力はパーシヴァルさんすら凌ぐ。それを継続できないのが欠点だけど、一瞬の全力ならきっと、ユーリはこの艇では一番強い。

 とはいえ、グランさんの実力も非常に高い。当然だ、団長さんだもの。……つまりこれは、ありとあらゆる意味で賭けだった。

「ぐ、グランさま大丈夫なの……?」

「ありがとうリリィちゃん! 大丈夫だよ」

「ふぁ、ふぁいと、ふぁいとなの! ディアンサ様、お姉様がんばれなの!」

 リリィちゃんが杖を振り上げて応援を始める。可愛らしいな、と思いつつ、私はリリィちゃんにも感謝した。

 ルリアちゃんにかかるダメージを少しでも軽減するために呼ばれた協力者。それが、リリィちゃんだ。ユーリのアンガーストライクが当たる寸前から、ルリアちゃんにヒールを掛け続ける。これでルリアちゃんはダメージを気にせずスピーディに動けたというわけだ。

……当然、大きな負担はルリアちゃんにかかる。なぜ快諾してくれたのかはわからないけど、ルリアちゃんは嫌な顔ひとつせずに頷いてくれた。

「……ねぇ、ルリアちゃん」

「はい!」

 だから、問う。

「どうしてルリアちゃんは、こんなむちゃくちゃな計画に協力してくれてるの?」

 艇内はシーンと静まり返っている。任務に出ている人もいれば遊びに出かけている人もいる。もしかしたらまだ寝ている人がいるかもしれない。がやがやとした雑多さは、今は見受けられなかった。

 好都合だ。いらないお節介に合う確率は、出来る限り減らしたい。

「何でだと思いますか?」

 一方、ルリアちゃんは静まり返った雰囲気に似合わない、満面の笑みを浮かべる。どことなくグランさんのちょっぴりワルい笑顔を想起させるようなその笑顔は、やっぱり一心同体なんだなあ、と思い起こさせた。

「ルリアちゃん、ちょっとワルい笑顔だね」

「うぇっへへー、バレちゃいました。……何でか、分かりますか?」

 隠さなくなった、悪ガキそのものみたいな表情。挑戦的な笑みを浮かべて、ルリアちゃんはこっちを見ている。グランさんの部屋までは、あと少し。

「……わかんないかな。ギブアップ」

「グランも、ディアンサさんのことが好きだからですよ」

 息が、止まる。

 見計らったようにルリアちゃんも歩みを止めて、やっぱり最高の笑顔で私を見ていた。にこにこ。その中に、にやにや。

「えへへ、知らなかったでしょう?」

「う、そ」

「本当ですよ? リリィちゃんも知ってることです!」

 無意識に、私はグランさんの顔を覗き込んでいた。力無く閉じた目、半開きの口――大丈夫、まだ気絶している。

 それを確かめると、私は歩みを再開する。ルリアちゃんの方は見ず、残り少ないグランさんの部屋までの通路をただひたすら、逃げるように進む。

「じゃ、じゃあ、もしかしてルリアちゃんやリリィちゃんが今朝すっごく嬉しそうだったのって……」

「はい! 両想い、おめでとうございます! ……羨ましいなあ、好きな人に好きって思ってもらえてるのって、とってもうれしいですよね!」

「はわわ」

 思わずルリアちゃんの口癖が出てしまうほど、私は混乱の渦中にいた。グランさんが私を好き? 私の、事が?

「ディアンサさん、首筋まで赤いですよ?」

「う、う、うるさいなあ!」

 珍しくルリアちゃんがからかってくるものだから、私も思わず叫んでしまう。返答は、ころころと笑っている楽しげな声だった。

 

 ◇

 

「じゃあ、私はお薬貰ってきますから。ゆっくり行って、ゆーっくり戻ってきますね」

「誰に聞いたのそんなからかい方!」

「えっと、メー」

「あーわかった、もう良いよ……」

 もはや『にやにや』しか浮かべなくなったルリアちゃんだった。

 私は扉の閉まり切る音と同時に、小さくため息をつく。ルリアちゃんというイレギュラーはあったにしても、ここまでは策の通り進んでいる。最初はどうなることかと思ったけれど、案外なんとかなってしまった。……案外ユーリには先見の明があるのかもしれない、なんて言ったら、きっとパーシヴァルさんは苦笑するのだろう。

 グランさんは私のことが好き。そうこっそり呟くと、途端に首から上が熱くなってくる。誰に指摘されるまでもなく、私の顔はきっと茹で上がっているのだろう。

「……私も、好きなんだよ」

 ぽそり、意識がないことをいいことに、呟いた。

「ずっと、ずっと好きだったんだよ。きっと一目惚れだったんだ。でも、しっかりと好きって思えたのは、多分あのアウギュステから。色んな所に遊びに行って、いっぱい買い物して。……すごく楽しかったし、夜がすっごい切なかった。だから私は、ああ、グランさんのことが好きだー! って、気付けたんだよ。……マグカップを割っちゃったのは、ごめんなさい。だけど、……割って、良かったなって今は思うんだ」

 言葉は途切れることなく、流れ続ける。

 眠ったままのグランさん。大好きなグランさん。すごくすごく愛おしくって、私は思わず彼の頭を撫でた。

 艇は飛び続けている。時折鼓動のように揺れているのは、私の心臓のせいだけじゃないはずだ。それすら確証が持てないくらい、私の心臓は早鐘を打っていた。

「グランさん、……起きてよ。私、好きだって言えないよ」

「もうすぐ言えるの」

「ふぇっ!?」

 悲鳴を上げて、思わず振り返る。ほんの少しだけ開いた扉から、リリィちゃんがじーっとこちらを覗いていた。

「び、び、びっくりしたぁ……!」

「あわ、ごめんなさいなの。あのね、ルリアお姉さまが、これ渡してきてあげてって」

 そう言うと、リリィちゃんは扉を開く。その手に握られた小瓶には、緑色に濁った液体が入っていた。

「……これ、クリアハーブポーション?」

「そうなの。グランさまに使ってあげたら、すぐ治るってレナさんが言ってたの!」

「レナさんのお墨付きなんだね。……リリィちゃんも、ありがとう」

 照れたように深くフードを被って、答えずにリリィちゃんは走り去っていった。

 年齢より少しだけ幼い彼女にとって、きっとこの感情はまだ恥ずかしいものなのだろう。恋愛に関してはおませさんでも、褒められるのには弱い。……なんとなく、ディアンサという女の子に似ている気もするなあ。

「……よし、がんばる!」

 一つ、ユーリのようにパシッと両頬を叩く。気合は十分。あとは、グランさんを起こすだけだ。

「……意識が無いときに飲ませちゃうと気管に入っちゃうし、注射もない。えーっと、そうしたら効果はちょっと薄くなるけどミスト撒いて………と」

 机の上にあったミスト発生器のスイッチを入れて、さっきのポーションを注ぎ込む。やがて霧が撒かれて、同時にハーブのいい匂いが部屋を包み込む。

 この知識も、使い方も、匂いも。教えてくれたのはグランさんだ。僕たちの任務は気絶しちゃうこともあるから、って。私は再びベッドに腰掛けると、ふぅ、と一つため息をついた。

 ふんわり、優しい香りが部屋を満たして行く。……心が、洗われるみたいで。そうしてついに、罪悪感が芽を出した。

 いくら真剣勝負だったとは言っても、気絶させてしまったり、そもそも計画を練って好きだって言うなんて。本当は今日、グランさんは何かやることがあったかもしれない。したいことがあったかもしれない。それを――

「ん……? あれ?」

 ドキリ、と心臓が跳ね上がった。罪悪感どころか、思考のすべてが霧散して、バッと振り返ることしか出来ない私だった。

 ぼんやり、と言った感じで、グランさんは虚空を眺めている。

「……ぉ、ひゃようございましゅ!」

「あー……負けたのか」

 慌てるあまり、声がひっくり返るわ噛むわ。散々な挨拶だったが、幸いにしてグランさんはまだ寝ぼけまなこだった。まだ、セーフ。

「……あーあ。ディアンサにかっこいいところ見せたかったのにな……」

 そうして安堵した瞬間に、もう一度心臓が肋骨を殴り飛ばす。最早骨折待ったなしだ。もう、もたない。

「……えっ、と。……その、グランさん?」

 声が震えている。

「気絶してる間、ルリアが教えてくれたよ。ディアンサ」

 全てを諦めたような声で、グランさんは言う。

「……こんな、情けない状態だけどさ」

 定まっていなかった焦点が、私の視線と交差する。ふいに絡まった視線に、私の心臓は一転、思いっきり締め付けられる。

「ディアンサ。……あなたが、好きです」

 そういって、グランさんは緩く笑ってみせた。

 欲しかった言葉が、言いたかった言葉が、私の頭でぐるぐるとまわっている。

「っ……、はい、うん、私も、グランさんが好きだよ……!」

 精一杯笑ったつもりだけど、隠し切れない感情が目尻から溢れるのだけはどうしようもなくて。

 だから私は、グランさんの身体をぎゅうっと強く抱きしめたのだった。

「……知ってるよ」

 グランさんは私の耳元で、優しく囁いた。だから私は、嬉しさに涙を零し続けた。

――かくして、私たちはなったのだ。恋仲というやつに。

 

 

 

 

「……んぅ?」

 急に下がった気温に、私の意識がだんだんと覚醒していく。まぶたが重い。

 まだまだ朝晩冷え込む陽気。グランがお布団をめくったのだ、と理解するには、もう少し時間が必要だった。

「おはよう、ディアンサ」

「……ぐらん?」

 寒いなあ。私は自分の感情に抗わず、再びお布団にもぐりこんだ。グランのいい匂い。春の朝、いつもよりとっても眠い朝。

「んふふ……」

「何、どうしたの」

「あったかいなあ、って」

 私は、グランの身体をぎゅうっと強く抱きしめる。グランの身体は私専用充電装置だから、毎朝絶対にやらなくてはいけない事なのだ。

 それに、こうして抱きしめるとグランも元気になる。相互充電ができる、画期的な行為だった。

 胸いっぱいにグランを感じて、私は勢い良く飛び起きる。……そうでもしなければ、グランの温もりに包まれて、もう一度寝てしまいそうだったから。

「よーし、おっけー。おはよう、グラン」

「おはよ。早いうちにシャワーでも浴びよっか」

「うん」

 私がグランと好きあって、早くも数か月が経つ。そのあいだ私たちの恋は順調に育まれて、身も、心も、だんだんとグランに染められつつある。きっと、グランも私に染められつつあるのだと信じたい。

 その間に冬を越し、季節は春だ。ナデシコが花を咲かせる季節、私達はその色を視認できないくらい暗い時間に起き出していた。

 私とグランの恋模様はすでにみんなに知られている。ククルちゃんやアリーザちゃん、フィーエちゃんに特別顧問・コルワ先生を加えた女子会なんて最近では隔日開催されるほど。もっぱら議題は私とグランがいかにしてハッピーエンドを迎えるか談義、と言ったところだ。とっても嬉しい事ではあるんだけれど、物凄く恥ずかしくもある。

 だが、そんな筒抜けな私達でも知られたらすごく恥ずかしいことは、ある。二人で夜更かししてしまったのに、わざわざ夜も明けないうちにお風呂に走っていかなくちゃいけない理由、とか。

「はいこれバスローブ。ちょっと大きいかもだけど」

「ん、ありがと」

「……ってあれ、脱いだのは?」

「あ、こっちに置いた。グランのぶんも一緒に持ってくから」

「あーありがと。僕ももう少ししたら出るから」

 二人分の洗濯物を抱え込んで、私は部屋の扉を開け――すぐに、閉めた。

「寒いよ外……」

「そんなに冷えてる? んー、もうちょっと待ってね……っと」

 もちろん、寒いことは寒い。だけど、少しだけでもグランを置いて行きたくなかったのも、また事実だ。……グランはすごく察しがいいから、多分こんなワガママもバレているんだろうなと思う。

 グランはゴミ箱の中身を袋にまとめると、タンスの中から自分用のバスローブを羽織った。……今週の当番は、ローアインとセンちゃん。センちゃんはともかくとしても、男子担当のローアインがゴミの中身を気にすることはないだろう。

 私はもう一度扉を開ける。流れ込む寒気に身を震わせながら、私はグランと一緒に部屋を出た。さっきよりは、寒くない。

「うわ、こりゃ寒いや」

「でしょー……早く行かなきゃね」

 他の人に見つかりたくないし。辛うじてグランに聞こえるくらいの小さな声で呟く。そうして恥ずかしそうに頬を掻くグランを見て、くすくすと私は笑った。

「あ、それ貸して。持ってくよ」

「んーん、良いよ。今結構収まりいいから、渡したら落っことしちゃいそうだし」

 グランの匂いもするし。……今度は、口には出さない。恥ずかしすぎるから。流石にグランの着ていた服の匂いが好きだから――なんて、えっちにも、程がある。

「はー……でも、うん。換えも持ってきたらよかったなあ」

「ああそう言えば。……なんで持ってこなかったの?」

「まさか汚れるなんて思わないもん……。グランはなんで持ってこなかったの?」

「パンツだけは持ってきてるからそれでいいかなって」

「男の子羨ましい……」

 早起きをするには早すぎて、夜更かしをするには遅すぎる、そんな一瞬。

 今日は私もグランもお休みだ。……とは言っても、グランは団長さんだから、あんまりひどい格好ではいられない。いつ何時団員が駆け込んでくるかわかったもんじゃない。

 だからこそ私たちはこの時間を選んで、お風呂に浸かりに来ているのだ。

「うー、こんなに寒いならしばらくは大人しくしておいたほうがいいかもしれないなあ……」

「暖かくなるまでバルツに停泊していようか」

「……グランのえっち」

 ちょっぴり唇を突き出して、拗ねたように唸ってみせる。

 次の瞬間。グランの手が私の顎に触れたかと思うと、私はグランを見つめるような形になっていた。

 あ、やられる。

 そう思った時には、既に軽く唇を合わされていた。

「して欲しいのかなって思ったけど、違った?」

「ぷれーぼーいめ……」

 にへら、と馬鹿みたいに笑みを浮かべて、それでも声だけは屈しない私である。

……グランは、私が言うのもなんだけれど、私の扱いが本当に上手くなった。最初はぎこちなかった何もかもが、この数ヶ月ですっかり慣れっこになっている。今のキスにしても、そうだ。

 そのたびに、きゅんと、なる。

「はー……なんだか暑くなってきちゃったかも」

「寒くなくてちょうどいいでしょ?」

「……うん」

 短いようで、長い。長いようで、短い。お風呂場に到着するまでの時間は、もう、残りゼロ秒。

 目の前には二人を分かつ、二つの入り口。私側の、更に外側には洗濯場。……どうあがいても、ここでお別れだ。

「じゃ、……おやすみ、ディアンサ」

「うん、おやすみ。またお昼ね」

 別れたくない。そんなちっぽけな独占欲が私の奥をちりちりと焦がすけれど、こればっかりはどうしようもなかった。

「――よっし。さっぱりして、二度寝だ!」

 私は一人呟いて、洗濯物を放り投げる。

 願わくば部屋に着くまでに、誰とも出会いませんように。そんな願いは、偶然にも同時に出てきたグランのせいで淡くも崩れ去るのだった。

 まあ、良いことにしよう。好きな人とけらけら笑いながら過ごせる時間が増えたというだけの話なのだから。

 

 

 私は騎空士でありながら、色々と勉強中の身だ。例えばそれは祭司になるための勉強だったり、楽師になるためのお稽古だったり。

 私がなりたいと言って進み始めた道だから、途中で止まりたくない。だから私の自由時間は大抵、自室で本を読んでいるか、もしくは、書いているか。それとも、甲板でフルートを吹いているか。グランといる時以外は、そんな感じだ。

 今日はフルートを吹いていた。爽やかな風が時折通る甲板、どこまでも通っていく音色。まだまだ完璧だとは言えないけど、少なくともショチトルにいた頃よりは相当上達したと思う。

 どこまでも青い空に消えていくフルートの音は、一体誰に届くのだろうか。

「あっ、ディアンサさーん! あ、お姉さまもいるの!」

「あ、リリィちゃん! ちょっと待っててくださいね?」

 今日は珍しく、観客がいた。そんな唯一の観客であるルリアちゃんが、駆け寄ってきたリリィちゃんを静止する。……とってもありがたい。できれば、最後まで演奏してしまいたかったから。

 ルリアちゃんがリリィちゃんの手を引いて、私の真正面に腰を落ち着ける。リリィちゃんもぱあっと明るい顔で、私の演奏を聞こうとしてくれていた。

(……笑顔で、どうか幸せになれるように……祝詞、祝詞込めて……)

 ここを越えてしまえば、ラストスパート。

 リリィちゃんの目、キラキラしてる。……嬉しいなあ、楽師って、結構やり甲斐あるんだね。

 感慨にふけりながらすべてを演奏しきって、静かにマウスピースから唇を放す。二人の観客からは大きな拍手が巻き起こった。

 思わず、私は一礼する。……巫女時代の癖は、治ってないみたいだ。

「すごくきれいな音なの! すごいすごーい!」

「えへ、ありがとリリィちゃん。……ところで、何か用事があったのかな?」

「あ、そうなの」

 リリィちゃんが手渡してきたのは、一枚の手紙だ。ディア・ディアンサ。……私宛の手紙だ。

 となると、リナリアからのお返事だろう。何も考えずひらりと裏側を見ると、しかしそこには見覚えの無い封蝋。……リナリアからでないことは、明白だった。

「リナリア……じゃ、ない?」

「あれ、違うんですか?」

 こてん、と首を傾けるルリアちゃん。

 ルリアちゃんも、私に届くお手紙なんてリナリアくらいだということを知っている。艇の中で要職についているわけでもないし。

「うん。……っていうかこれ、巫女の印章だ……」

「ミノコインショー?」

「リリィちゃんで言うと、氷晶宮からのお手紙ですよ~ってわかるマークみたいな感じ。……ただ、リナリアはこんなもの貼らないんだよね」

 そもそも封蝋自体、リナリアはしないだろう。と、なると、祭司様くらいしか思いつかないけれど。

 ともあれ、手紙を読むにはもっと適した環境があるだろう。私は手紙を視線から外し、二人に笑いかけた。

「甲板で手紙を読むのも何だし、丁度いいからお部屋に戻るね」

「さよならなの!」

「はぁい、じゃあリリィちゃん、今日は何して遊びましょうか」

「パー様ごっこ!」

 とんでもなく振り返りたくなる名前の遊びだった。

 

 

「ただいま、と」

 自室に戻り、とりあえずベッドに倒れ込む。大きく一つ吐息して、私は一部始終を見届けたであろうグランをぎゅーっと抱きしめた。

 とは言っても、そのグランは喋らない。お手製ぬいぐるみなのだから、喋ってもらっては困る。我ながら可愛く出来たと――

「ディアンサ、ちょっと良いか?」

 一つ、二つとノックが響いた。ユーリの声だ。私は振り返りもせず、どうぞと声を上げた。そんなことより、グランを隠すほうが大事だ。まさかまたからかわれるネタを提供するわけにはいかない。

「ん、帰ってきたと思ったが寝ていたか?」

「ううん、とりあえず倒れ込んでただけ」

 心臓こそ割と焦っているが、しかしそこは元巫女だ。声は震えず、全くいつも通り。表情も多分、自然に微笑んでいるはず。多分。

「それより、待ち構えてたの? なーんだ、甲板に来てくれたら良かったのに」

 グランとの逢瀬(!)を邪魔された恨みも僅かに込めて、言う。

「俺もやることがあったんだよ」

 それもそうか。グランの隠蔽工作を完了させた私は、そのままくるりと方向転換してベッドに腰掛ける。そのままちらりとユーリを見上げると、……微かに、違和感。

 今日初めて見るユーリの顔は、どことなくこわばっているように見えた。

「……? ユーリ、もしかしてファラちゃんとあんまりうまく行ってない?」

「至極愉快な誤解をどうも。あいにく仲良くやらせてもらってる」

 だろうね、と私は笑った。なんと言ったって、数年前から秘めていた想いをようやく叶えたファラちゃんだ。まさか相手がこのユーリだなんて思わなかったけど。

 となると、何がユーリの表情を曇らせているんだろうか。

「その様子じゃ、知らないみたいだな。……団長殿には、今近付かない方が良い。荒れに荒れてる」

「えっ、グランが……?」

 何か、あったのだろうか。私は眉間にしわを寄せて、考え込んだ。グランが機嫌を損ねるようなことがあったなら、ルリアちゃんもあそこまで快活ではいられないはずだ。

「……これからこの船はショチトル島に進路を向けるんだが……。それで、ちょっとな」

「んん……?」

 その説明では、なんでグランが荒れているのか、わからない。

 でも、ショチトル島だなんて。私にとってもタイムリーな話だ。

「ともかく、そういうことだ。しばらく……まあ、しばらくは団長殿を一人にしてやってほしい」

「んー……よくわかんないけど。そういうときこそ、好きな相手に寄り添ってほしくない?」

「やめろ」

 え、と声が漏れる。冷たい、冷たい言葉だった。……言い方が、じゃない。その言葉の気温が、だ。

 ユーリにしては珍しいその物言いに、私は思わず息を飲んだ。

「ユー、リ?」

「ディアンサ。俺は今から、アンタに容赦なく刃を突き立てる。覚悟をしろ」

「……っ」

 ユーリの温度は、戻らない。

 風なんて吹かないはず。なのに、吹雪のような冷たい風が、私の首筋をなぞったような気がした。

「アンタのトコにも手紙が来てるはずだ。そいつは読んでいないな?」

「え、あ、うん。今から読もうと思って」

 こくりと頷く。違和感と、虫の知らせが私の脳裏を駆け巡る。

 本能的にか、それとも、また別の要因でか。――聞きたくない。そう一瞬にして心が結論を下した。それでも、理性がそれを邪魔する。

「……いいか。今この船はどこに向かっている?]

「え、と。……ショチトル、だよね?」

「そうだ。そうして、手紙にはこう書いてあった」

 ユーリが俯く。白い歯を思いっきり噛み締めた怒りの形相。……しかし、再び顔を上げたその顔は、眉を八の字にして、まるで耐えているみたいで。

 どうして、ユーリ。どうして、そんなに泣きそうな顔してるの?

「――ショロトルのお告げに『ディアンサ、寄越せ』と。要するに、アンタの身柄を引き渡せ。そういうことが、書いてあった」

「     」

 ぇ、と。表現するなら、まさにそれ。吐息にほんの少し、困惑の声が混じったかどうか。そんな声。

 ユーリの言葉には、いつも通り暑苦しい彼の――怒りが。悲しみが。無理矢理冷やしていたであろう言葉の気温が、いっきに急上昇したようで。

 だから私は、突き動かされるように手紙を開いた。

 

『親愛なるディアンサ。

 この日を一体どれほど待ちわびたことでしょうか。ショロトル様のお告げが出ました。ディアンサ、寄越せと。つまり、この島に戻ってくる許可が出たのです。

 おめでとう。これからはこのショチトル島で、貴方の望む道へと進むサポートが出来ます。本当に、おめでとう。

 貴方に会うのがとても楽しみです。是非、これまでのお話を手土産に帰ってきてくださいね。

 祭司 ポピーより、愛を込めて』

 

 マイルドな、書き口だった。まるで、ちょっと実家に寄ってね、程度の軽さで。

 物語っている。ユーリの性分を考えずとも分かってしまうような、隠された内容が。

 だからこそ、私は確信してしまう――!

「私、ショチトルに……『帰らなくちゃいけない』の……?」

 長い、長い沈黙。絞り出すように囁いたその言葉は、ユーリの耳にさえ届いたかどうか、分からない。

「私、……グランと、お別れしなきゃいけない、の……?」

 冗談だろう?

「あ、でも、私、祭司に、祭司になりたくて、じゃあ、いつかは、グランとお別れしなくちゃいけなくて、でも、私は、グランとずっと、ずっといっしょに……いっしょに居たくて……!」

 そうだ。私は楽師になりたくて、そうして祭司になりたかった。その為にフルートの練習をしたし、祭司になる為の勉強をした。だから、すぐにでも帰りたかった。……そう、最初は。

 じゃあ、今はどうなんだろう。

 考えるまでもない。帰りたくなんかない。グランと一緒にいたい。ずっとずっと、一緒にいたい。

 だけど、だからと言って夢を諦めたくもない。

 夢を追うには、グランを諦めるか、グランの夢を諦めさせなければいけない。グランの夢を叶えるには、私を置いて進んでもらうか、私の夢を諦めなくちゃいけない。

 ずっといっしょにいたいなら、私かグランか、どっちかの夢を諦めなくちゃいけない。

 でも、それは、ずっと未来の話だと、そう思っていた。だから私はその両方を甘受できると、……勝手に思っていたのか?

 両方の夢を叶えることは、不可能なのか!?

「……ユーリは……もしの話だよ。好きな人についていきたいからって、夢を諦める?」

「俺じゃない。その判断を、……俺に委ねるな」

 そりゃ、そうだけど。ユーリの意見くらい、聞かせてくれたっていいじゃないか。

……だから、ユーリはモテないんだよ。

「だが」

 ユーリの言葉が不意に続いて、私はいつの間にか伏せていた顔を、再びユーリに向ける。

 その表情は、いつもの真剣なユーリで。

 その表情が見られるという事は、彼は私にしっかりと向き合ってくれているということだった。

「俺は、……俺は、お前の考えを全面的に支持する。それがどんな選択でも、俺だけはお前の味方でいる」

 そう告げると、ユーリは静かに出て行った。嵐のような数瞬が、ようやく終わる。しかしその嵐は、たしかに私の胸にしこりを残していった。

「ユーリは、……私の味方なんだ。……ユーリ、は」

 ユーリが居なくなってからも、どうしてもどうしても消えてくれない、違和感。苦しくて、切なくて、泣きそうになるくらい絶望的な、何よりも悲しい、その違和感。

「…………グラン、は?」

 なぜこの艇は、ショチトル島に向かっているのだろうか。その疑問の答えが、私の呼吸を苦しくしていく。ちかちかと目の前で何かが光るような、そんな錯覚さえ覚える、確かな疑念。

 グランは、……葛藤の末、私を引き渡すことを選んだのではないか?

「……いやだ……いやだよ……」

 声が、震えている。

 私は、望まずして巫女になり、望まずして島を追い出され、……今度は、望まずして、戻されるのか?

「……ううん、そんなはずない……そんな、はず」

 グランが私を裏切るはずない。自分に必死に言い聞かせる。

 一旦落ち着かなきゃ。私は扉を出て、食堂へと歩みを進める。

 まずは甘いもの。とにもかくにも、まず頭に糖分を回して、それから――

「……」

「……」

 それ、から?

「ディアンサ!」

 グランの姿を確認して――気づけば私は、逃げ出していた。

 どうしてか、いつもより遥かに長く感じられる廊下を駆け抜けていく。駆け抜けて、駆け抜けて、駆け抜けて、駆け抜けていく。

――そうして辿り着いた先は、女性用のトイレだった。無意識の防御本能だ。だって、そこはもう、グランは入ってこれない場所なのだから。

 肩で息をしながら顔を上げた私は、鏡に映る、酷く乱れた女の子を目の当たりにした。目の前の私を『ひどい顔だ』と失笑する事さえできないまま、私は泣き崩れる。

「どうして……」

 その慟哭は、きっと、ほんの少し前なら考えつきもしないはずの慟哭だった。幸せになってはいけなかった私が、幸せになってしまったが故の慟哭だ。

 年月は恐ろしいものだと、人の心は恐ろしいものだと、実感してしまう。ずっと前からこうなることを知っていたのなら、私はきっと幸せになどならなかった。

「どうして……?」

 声を絞り出しても、出てくるものは震えたものだけだ。それを感じ取ったとき、ようやく私は自分が酷く震えていることに気が付いた。

 思わず、両腕で自分の体を抱く。涙がとめどなく溢れる。

 私はいつまで、籠の中の鳥でいなければならないのだろう――?

「どうして……ッ!!」

 嬉しかったはずの言葉が、ずっと欲しかったはずの言葉が、何故だか今はとても悲しかった。

「う、うぅ、うぁ、うあぁああああぁあああぁああああぁぁああぁッッッッ!!」

 嗚咽が、響く。

 

 

 

 

 

「ディアンサ?」

「……ん」

 起きてるよ。

 朝。ショチトル島の、朝だ。グランサイファーの、朝だ。

 小鳥はさえずり、花はまどろみ。そんな春が終わりかけた、ショチトルだ。

 いつも通りのグランサイファーの中。たまに見上げる天井を、私は今日も見上げていた。

「具合はどう?」

「別に、体調悪かったわけじゃないし」

 ただ、誰も信じられなくなってしまっただけ。

 ただ、世界に絶望してしまっただけ。

 ただ、それでも、グランはまた、私を救ってくれた。

「ねえ、グラン」

「うん」

 グランの名前を呼ぶ。一度は私から切り離した、誰より信頼できる人の名前。

 手放したものを、もう一度繋ぎ直してくれた、大切な人の名前。

「グランは、どうするの?」

「会いに行く」

「行って、どうするの?」

「認めてもらうよ」

 あの時のような、毅然とした声。

 暗闇の中で震えていた私を抱きしめてくれたあの声。

「認めてくれないよ。ショロトル様のお告げだから」

「ショロトル様は、関係ないよ」

「あるよ。この島の星晶獣だもん。……ショロトル様のいう事は、絶対なんだ」

「関係ない。ディアンサが、どうしたいかだ」

「……希望だけなら、私は、まだずっと、グランと旅を続けたい」

「意地悪を言うけど、楽師や祭司は?」

「騎空士のままでも練習できる。まだまだ私は力不足だし、すぐになれるわけじゃない」

 それに、二度とショチトル島に戻らないつもりでもない。

 タイミングを見て、戻ることだってできる。……もし、ショロトル様が許してくれるならという、唯一にして最大の壁さえ突破できたら。

「そっか。……じゃあ、最終的に、ディアンサは夢と僕のどっちを選びたいの?」

「両方だよ。グランと一緒。イスタルシアに辿り着いたら、グランと私でここに帰ってこよう?」

「じゃあ、そうお願いしよう」

「……できないよ」

「できるよ」

 私は、静かにため息をついた。

「どうして、言い切れるの?」

「自信があるわけじゃない。確証があるわけでもない。だけど、僕がディアンサを愛してるのは、誰にも負けない。ショロトル様にも、他のイクニアにも。だから」

「なに、それ」

 くすっと、笑う。私は思いっきり起き上がると、ベッドに腰掛けていたグランをぎゅーっと抱きしめた。

 グランは私専用の充電装置だから、毎朝絶対にやらなきゃいけない行為だった。

「……エスコート、お願いね」

「ん、了解」

 グランが微笑む。それだけで、私は戦える気がした。

 だから私は、グランと私を信じることにした。

 

 

 巫女は移動しながら公演を行う。メインステージ、と呼べる場所は無い。

 巫女が寝る場所といえばどうしても宿屋になるし、宿屋でなければテントになる。そんな中大事な話をするのなら、グランサイファーの応接室に祭司様をお招きするくらいしか、仕様が無かった。

「まあ……予想はしていましたし、ディアンサの手紙は私も読んでいましたから、その言葉が出るであろうことに一定の理解と納得は出来ます」

 久しぶりにお会いした祭司様だが、その感慨に浸ることも出来ず、私はただただ緊張していた。……当然だ。私達はこれから、ショロトル様に歯向かうことになるのだから。

「ですがこればかりは私一人で決められる問題ではありません。……確かに、お二方にそれぞれ異なる手紙を出し、徒に混乱や悲痛を強いたことについては謝罪を致します」

 祭司様は、深く深く、頭を下げた。

 春の終わり。そよ風が吹き、間もなく来たる夏を予感させるような、青々とした草原が広がるショチトル島。もし、私たちの想いがショロトル様に伝わらなかったら。……これがもっと、ひどいことになるのかもしれない。

 かつてショロトル様に関する事件――グランが英雄様として讃えられるようになった事件では、魔物がどこにでも跋扈する恐ろしい状況下で、生きるか死ぬかの恐怖を味わった。またそうなる可能性は、ゼロじゃない。

「私としては、ディアンサの意見に異論はありません。この島に縛り付けておいても、外より遥かに少ない情報量しか手に入れることは出来ないでしょう。ですが、同時に心配なのです。いつ命を落としてもおかしくはない、そんな職業ですから」

「あ、あの、祭司様。私がその、そういう任務に出たのは」

「わかっていますよ、ディアンサ。貴方はただの客人としては居られない。特別扱いを嫌う娘。……それでも、貴方の母代わりとして、心配なことには変わりないの」

 祭司様の笑みは、見たこともないほど複雑な笑みだった。その裏に隠された感情を読み取ることは、今の私では、できそうにない。

「私個人の意見ですが……ディアンサ、貴方はやはり、この島に留まるべきです。ですがそれは私のエゴであり、貴方の成長を考えたならこのまま旅を続けさせてあげたい。……しかし、そのようなことは正直、関係ありません」

 グランが頷く。そう、この場で話をしていても仕方がないのは、誰も皆、分かっている。

「お決めになるのはショロトル様ですから。グランさんとディアンサ、二人の気持ちをお伝えしに行き、そこでどうなるか、ですね」

「はい。お心遣い、感謝します。……本来なら、門前払いでもおかしくはないでしょうし」

「英雄様ですからね。どこの馬の骨とも知れなければ、こうはいかないでしょう」

 言って、祭司様は立ち上がる。ガタリと鳴った椅子に、思わず私の背筋は伸び切った。……いよいよだ。ショロトル様に認められるかどうか、ここで、全てが決まる。

「では、参りましょうか。グランさん、くれぐれも武装を忘れないよう」

「はい。……行くよ、ディアンサ」

「うん、……行こう、グラン」

 グランの手を取り、固く固く握りしめる。もう二度と離さない。その覚悟を、掌に込めて。

 

 

 

 早朝。まだ眠気も残るような、僅かに太陽が顔を出したかどうかの時刻。

 慌ただしくショチトル島から飛び立つグランサイファーを見届けたのは、私一人だけだった。

「じゃあね、グランサイファー。……今まで、ありがとう」

 私は、ポツリと呟く。誰に聞かれることもないその言葉は、弾けて消えるシャボン玉。騎空艇が飛ぶにはちょうどいい風が、私の頬を撫でた。

「……帰ろっか」

 迷いを断ち切るように背を向けて、私は帰るべき家へと足先を向けた。

 ひんやりと涼しさを覚える気温。だんだんと空に姿を表し始めた光。瑞々しい碧をたたえる草原。その中を私は、一人歩いている。

 涙は無かった。選ぶしかないことだったから。私が、選ばなくちゃいけなかったから。……そうして、私は残ることを選んだのだから。

 澄んだ青空を、彼らは進んで行くのだろう。まだ見たことのない景色を見るために。それを羨ましくはないのかと聞かれたら、羨ましいと答えなければ嘘になる。

 想いを馳せながら、私は一歩一歩、踏みしめるように歩く。私の家に、帰るために。

 まずは、なんて言おうか。リナリアには謝らなくちゃ。

 祭司様にも、これから本格的にお世話にならなくちゃ。

 みんなみんな、元気でいるかな。

 これからのことを考えると、別れのときには流れなかったはずなのに、なぜだか自然に涙が溢れ出る。

 それがどうして湧き出てくるのか分からないまま、私は歩みを、早歩きを、……駆け足を、全力ダッシュを、早めていく。

 街の中に入る。みんなが走り去る私を振り返る。

 知ったことじゃ、無かった。

「――ただいまッ!」

 息を切らし、家へと駆け込んで、私は大きな声で叫んだ。

「おかえり」

 グランに飛び込んで、私は涙をいっぱい光らせた笑顔を向けた。

「お見送りくらい、してあげたら良かったのに」

 私が言うと、グランは苦笑した。

「朝早くに飛び立つってことは、見られたくなかったんだよ」

「そんなもんかな」

「ユーリの性格は、そんなもんだね」

 長年の友人同士、分かり合えるものがあるのかもしれない。私からしたら、だからユーリはモテないんだよと辛口コメントを飛ばすようなものかもしれないけれど。

「でも、……嬉しい。やっと、夢が叶ったんだねっ……!」

「うん。長かったね。……これで、ずっとディアンサと一緒だ」

 二人だけの時間。ずっとずっと待ち望んだ、二人の夢が叶った瞬間。

 願わく未来はいいことがいっぱいって、私達が祈り込めて。

 グランが笑っている。私とおんなじで、やっぱり泣きながら笑っている。

 今まで、たくさんの辛いことがあった。幸せより、不幸のほうが多い数年間だった。

 そのバッドルートに、サヨナラを告げて。ようやく私たちは、ハッピーエンドを掴み取ったのだ。

 イスタルシアにたどり着いた。グランの夢は、叶った。だから次は、私の夢を叶える番だ。

「じゃ、……ディアンサ。今日はずっと、寝ていようか」

「もー……。まあ、仕方ないか。昨日は夜まで、駆けずり回ったもんね」

 でも、その前に。一日だけお休みしてしまおう。

 世界で一番幸せになれた昨日。だから今日は、それを噛みしめる日。

「あ、でも。……ルリアちゃんとかリリィちゃんとか、来ないかな?」

「二人も寝てるよ、きっと」

 それもそうだ。むしろ、早々に旅立ったグランサイファーのほうが、びっくりか。

 ベッドに寝転んだグランを追いかけて、私はぎゅーっと彼を抱きしめた。グランは私専用の充電装置だから、毎朝必ずやらなきゃいけない。

 私はそうして元気を貯めると、左手を眺めてだらしなく微笑む。

 紆余曲折を経て手に入れた最高の幸せが、薬指で輝いていた。

 

 

バッド-バイ おしまい!



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