「ちょっとお使い行ってきてくれないかな」なに簡単なことだよ。そういわれた時の嫌な予感をもっと大事にすればよかったと
「警察だ!! 手を上げろ!! 物に触るなっ!!」
外からは中が全く見えないビルの入り口を蹴破る勢いで警察は突入する。
怒号と共にドラマの様に雪崩込む警察隊員に
突入する警察隊と抵抗する従業員の間を縫うように歩く。その視線は時折床に落ち、見えない足跡を辿るように上の階へ上っていく。
1階フロアのエントランスは星を獲得したホテルの様な煌びやかな内装をしており、専用のエレベーターを使用して上がる2階は法に触れた水商売を営業している。その上の3階は事務所となり、4階は電話だらけのフロアである。最上階の5階は幹部以上の者しか足を踏み入れることは許されていない。
5階フロアに辿り着いた歌姫は、吐瀉物にまみれたような
部屋の主のセンスというのは飾る物で如実に表れる。壁には呪符がべたべたと貼りつけられ、呪物はオブジェと化し、黒と金を基調とした調度品に溢れている。
品の悪い部屋には相応しい主が待ち構えていた。
「まぁ、逃げないだけましか。それともただの馬鹿か。どちらにしろお前を呪術規定9条に則り処刑する」
「何だよ、弱そうなのが来たな。まあ、いい。呪術師を殺れば
喋る度に澱んだ声が混ざりだし、口からボタボタと涎のように澱が垂れ落ちる。男の瞳は縦に細長く切り開かれ、肌は鱗が現れ人間味を失っている。
蛇と溶け合う醜い姿がニヤリと歌姫を嘲笑した。
「どいつもこいつも人を見下しやがって。
祓ってやるよ、歌姫は荒々しく術式を奔らせた。
呪詛師は呪霊を呼び、人を呪い、部屋中の札で負のエネルギーを呼び寄せて私腹を肥やしたのだろう。その負の連鎖は呪霊も肥し、宿主を喰らい、遂には主従関係が崩壊して体が乗っ取られた。
男は呪霊と癒着し助かる見込みはない。まだ人間の姿であるうちに人間として殺してやる。それが歌姫の優しさだった。
血溜まりとなった床を一瞥し、埋葬するように帳を降ろす。
呪詛師相手だとどんな任務でも後味が悪い。対呪詛師の任務を好んで請け負う先輩を思い浮かべて歌姫はため息を吐いた。
呪霊を祓うよりも呪詛師を殺す方が心に毒を生む。呪霊は人間の悪意から生まれ祓うことに特別な感情を抱くことはないが、呪詛師は悪意の人間だ。呪霊よりも狡猾に巧妙に人の心を傷つけ侵していく。
殺しの権利を持ち、それを日常的に行使する歌姫であっても心に僅かな傷を負った。その傷を伝って毒がゆっくりと歌姫の中に入り込んでくる。
必要であれば人を殺す。
だがそれを続けると生殺与奪の境界が曖昧となり命の価値観が狂いだす。
──『そんな気持ちじゃ自分が先にやられるよ。人の死は誰も見たくはないさ。だから正確にターゲットに照準を合わせて無駄な死を招かないようにするべきじゃないかい? 情けは無用だよ。何人死のうが関係ない。この先どれだけの人間が被害にあうのか想像すれば、奴らにはこの世から消えてもらった方がいい』
初めて人を殺し、動揺していた時に投げられた言葉だ。
確かにそうだなと歌姫は納得した。その言葉に救われた。だからこそ歌姫は今も呪詛師討伐の任務を受けている。
血濡れのフロアを背に歌姫は階段を下りる。階下はまだ騒がしく、下りるにつれ彼岸から現実へと降り立つような気分になった。
歌姫は携帯電話を取り出し、補助監督に任務完了の連絡をした。
現場の後始末は補助監督が指揮を執り、仕事を完璧に遂行する。彼らに任せれば死体を処理して部屋を掃除し、何もいなかったように全てなかったことに葬り去られる。
世間の日常は歌姫の日常であり、歌姫の日常は世間の非日常だ。
パトカーに詰め込まれる従業員を目にし、輝いて見えた逮捕劇が今は曇ったレンズ越しから覗き込むようにぼやけて見える。
心と記憶は曖昧になりやすい。擦り切れて、蝕まれて、消えていって判断が下せなくなっていく。正常な脳では知識と教養により難なく下せていた判断が、消耗した頭と心では善と悪の境界が曖昧となり投げやりになる。気づくといつの間にか足元に沼ができていて、ゆっくりと沈み死んでいく。他を思いやる優しい人間や未成年はその沼に落ちるとなかなか這い出すことができない。
そうならないためにも上手く毒を吐き出すことが必要だ。歌姫はそれに関しての処理が上手かった。
ぐっと伸びて深く息を吐き出す。
酒呑んで帰ろう。呑まなきゃやってらんない。
心に残った毒をアルコールで浄化するように、歌姫は行きつけの居酒屋に電話をした。
□□□
東京都立呪術高等専門学校は、日本で二校しかない呪術師を養成する学校であり、機密や文化財、呪物、術師、任務等を管理する最重要機関でもある。
敷地内に立ち並ぶ神社仏閣などの建造物は、全て重要文化財のような木造建築でありエレベーターなど存在しない。
そんな化石のような建物の階段を歌姫は全力で駆け上がっていた。
大阪城ですらエレベーターが通っているのだから、高専もエレベーターを通せと苛立ちをぶちまける。
歌姫は溢れる怒りを糧に階段を上りきり、目的の人物がいるであろう部屋のドア蹴破るようにして入った。
「古神さん! よくもやってくれましたね!!」
ソファーで寛ぐクリーム色の髪をした青年を憎々し気に睨みつける。
私は怒ってるんですよ! と、声を上げて盛大にアピールしても青年はにこにこと微笑むだけで歌姫の怒りを一切気にしていない。
「お疲れ様、今紅茶淹れたところなんだ。イオリも飲むよね? 砂糖はいくつ?」
「いりません!! でも飲みますっ!」
「はいはい、ちょっと待ってね~」髪色と同様にふんわりとした話し方に歌姫の怒りはヒステリックな叫びへと変わっていく。
「今度は何を押し付けられたんだ?」
向かいのソファーからくつくつとした笑い声が歌姫の気を引いた。
「冥さん!」
気づかなかったと言わんばかりに目を見開き、一級呪術師、
一級呪術師、
高専在学中に一級呪術師に昇格し『呪われた人間と呪詛の呪術的解離方法について』という研究論文を発表してその名を知らしめた。現在は研究をメインにしており、気が向いた時にのみ対呪詛師の任務を請け負うというふざけたことをしている。
本人曰く、呪詛師討伐任務は息抜きでやっているとのことだが、片手間で請け負うほど軽い任務ではない。
古神の柔和なほほ笑みに歌姫は眉を吊り上げた。古神の無茶ぶりに振り回されて泣きを見た回数は両手両足の指を合わせても到底足りない。昨日の任務も突撃する直前に電話一本で押し付けられたのだ。文句の一つも言いたくなる。
対する古神は、歌姫が今日ここに来ると確信して歌姫の好きなブランドの紅茶とクッキーを用意していた。古神にとっては歌姫の行動を読むなど造作もないと暗喩されている。
昨日の任務を歌姫がどのように語るのか楽しみにしているように、古神はさぁどうぞと笑みだけで話を促した。
歌姫は顔を引きつらせながら事のあらましを紡ぎ出す。大胆な行動をする割に、いざその場を設けられると足がすくんでしまうのが歌姫の悪い癖だが、話すにつれて調子が戻り、任務の話は次第に古神の悪口へと変わっていく。
「いいんですか。言われてますけど」
「イオリの気が晴れるなら別に構わないよ。どう? スッキリした?」
「古神さんのそういうところ嫌いです」
クッキーを煎餅のように貪る歌姫に、古神は嬉々として笑い冥冥は紅茶を口に含んだ。
「あまり虐めては駄目ですよ」
「参考にするよ」
古神、冥冥、歌姫は高専時代の先輩後輩関係だ。
歌姫よりも3学年上である古神は、多忙の中でも二人に肉弾戦を叩き込み、歌姫の術式を歌姫以上に理解して戦術と体術を教え込んだ。
歌姫と接した時間は短いがその密度は濃い。
歌姫にとって古神は師匠であり、先輩であり、呪術師の目標である。
「まぁ何はともあれ、古神さんに文句は言えましたし、今日休みなんでカラオケで歌いまくります」
「あれ、言ってなかったっけ? イオリ今からぼくと任務だよ」
「……聞いてないですよ」
「補助監督言い忘れてたか~。どんまいだねぇ」
眉を下げていかにも気の毒そうな顔をしているが、その実心の中は何とも思っていないことを歌姫は経験上知っている。
「いや絶対わざとでしょ!! 何でですか!? そんなに私を虐めたいですか!?」
「好きな子を虐めるのは趣味じゃないよ。成長したイオリがどのくらい強くなったのか一度見ておきたいんだよね」
「昨日の任務で大体分かるでしょう!」
助けを求めて冥冥に手を伸ばすが、首を振って諦めろと手を払われる。
神は我儘というように、その名を冠した古神は笑顔を振りまいて主張を押し通す。
「……今からっていつですか、ナウですか?」
「平均株価?」
「それはダウです」
「さっすが冥冥」
人の気も知らずに軽口を言い合う二人に、歌姫はわなわなと怒りを滲ませて肩を震わせた。
「任務が終わったら休ませるように言っとくから」
「現在進行形で私の休みを潰した先輩が何言ってんすか!」
「カラオケでも何でも付き合うよ? 縛りでもしようか? 家入さん紹介してくれる?」
「結構です!! 硝子も紹介しません! どさくさに紛れて何言ってんですか!」
「残念」
「あまり庵君を虐めないでやってください」
「そう言いつつも冥さん口止め料もらってますよね?!」
歌姫の声をシャットアウトするように、冥冥は再び紅茶に口をつけた。
□□□
「この県から総理大臣が8人くらい輩出されたらこんな山道もさぞ立派に舗装されるんだろうね」
ガタガタと揺れ続ける車をアトラクションに変えて古神はにこやかに笑う。
舗装が行き届いていない山道は、車を掌の上で弄ぶように彼らを揺らし続けていた。
「古神さん、本当そういうこと言うの今やめてください。マジで殺意が湧きます」
「カルシウム足りてる? 味濃いの食べすぎなんじゃない? 肌も荒れてるし」
「アンタのせいだよこのマイペースがっ!!」
「古神さんっ! お願いですから庵さんで遊ばないでくださいっ!!」
運転する補助監督の悲痛な声に、歌姫は申し訳なく思いながらも内から湧き出る殺意を抑えられずにいた。
そもそも今日は休暇であったのだ。本来であるならば一日中歌ってストレスを発散し、夕方になれば気になる居酒屋に行って酒を呷ると決めていたのだ。それが古神によって無理やり任務を入れられ、辺鄙な田舎に連れていかれ、車に頭をぶつけている。挙句の果てには任務の等級が特級だということが歌姫の余裕を奪い苛つかせていた。
『禁則地にある受胎の
『禁則地』、『受胎の祓除』、『宿儺の指の回収』一つだけでも一級以上の任務に相当するのにそれらが三つ掛け合わさっている。
禁則地は、歴史や宗教上の理由から人が立ち入ってはならないある種の聖域の様な地だ。故に受胎は変体を遂げやすく、宿儺の指を取り込んだ場合特級呪霊と化す。
一級呪術師の古神が一緒だとしても二級呪術師の歌姫には荷が重い。
「呪詛師関連の任務じゃないのにどうして古神さんが対応してるんです」
口を尖らせて不満であることを全身から発するが、古神は歌姫の口撃を「研究しているからね」とさらりと受け流した。
そんな涼しい古神の態度が癪で、世に研究成果を貢献できていないと歌姫は詰る。
「……受胎って、飼いならすことできないんですか。それができれば祓除の幅が広がりますよね」
その一言に、古神はこれ以上ない程きらきらとした目を歌姫に向けた。よくぞ言ってくれたと一人でうんうん頷き、思いの丈をどうにか抑えて凝縮した言葉を放つ。
「イオリはさ、プレーヤーよりもコーチの方が向いてるね」
「……は?」
何の脈絡もない言葉に歌姫は眉間に皺を寄せた。不快な顔を隠しもせずに古神のボールを撃ち返す。
「弱いから呪術師辞めろっていう新手の暴言ですか? ちょっと変化球が過ぎませんかね。私じゃなきゃわかりませんでしたよ」
「自分に呪いをかけるのはお勧めしないな。人間は他人が評価するよりも常に自分で自分を評価し続けている。人の心が傷つく時は誰かの言葉そのものがその人を傷つけるのではなく、自分自身が持っているネガティブな自己評価を誰かの言葉が後押ししてその言葉に同意してしまった時に人は傷つくんだ。故に否定の言葉を肯定することで自分で自分を傷つけてるんだよ」
祓っとくよ、と古神は歌姫の頭を払うように撫でた。
歌姫は古神の言葉を自虐的に読んだことに自己嫌悪したが、そもそも意味の分からないことを先に言いだしたのは古神である。なぜ説教されねばならんのだと不満が募る。
頭が良い人間は頭の中で論を展開し結論だけを述べるため理解が追いつかず誤解を生む。その際のとばっちりは意図を汲もうした側に向く。
歌姫はじとりと視線を向けて過程を述べろと訴えた。
「イオリは教師に向いてるってことだよ。世界について当たり前だと思っていることを揺るがせる。その瞬間、この地上が今までとは異なった場所に見える。慣習や恒例や常識に囚われないイオリの発想はこれからの時代に必要とされるよ。全てを疑い新しく生むことを人は可能性と呼ぶからね。教え方が上手いかどうかは知らないけれど、面白い解釈の授業とかしそうだね」
「言いたいことが理解できません。上と下に挟まれてフルボッコにされろと聞こえます」
「人間としての自信がないのかな。それともないのは呪術師としての自信かい?」
「貶してんですか」
歌姫のあまりにも不機嫌な声に、古神はゆっくりと首を振る。
「圧倒的な強さは魅力的だが過程の伴わない力は直ぐに限界が生じる。上手くいくように努力してもがいて苦しんで、でも結果が伴わなくて悔しくて、自己分析をして正しい努力を続けて欲するものを掴み取る。そんな経験をした人間の指導は知恵が詰まっており成功街道を突き進んだ人間の指導よりも説得力と応用が利く。若い子が素直に受け入れるかどうかはわからないけれど、人間の成長は素直であることがキーワードだからね。捻くれていない子以外は直ぐに成長するんじゃないかな」
「頭良い人って段階飛ばして話しますよね」
ありがとうと目を細める古神に、歌姫は褒めてないですとぶっきらぼうに返した。
つまりは歌姫の聞きたくない話だ。『呪術師として上を目指すよりも、経験と知識を後世に伝えろ』と歌姫は解釈した。
──古神さんにはそんなこと言われたくなかったな。
心臓が凍りついたように胸が痛み、顔から表情が抜け落ちる。
唐突に涙のにおいがした。
歌姫は自分の顔をどうしても見られたくなくて、窓の外を眺めながら雑音に耳を傾ける。
ガタガタと、車は相も変わらず揺れながらラジオを流し続けている。
──『速報です。昨日、××県××市で特殊詐欺及び風営法違反の容疑で逮捕された108名が留置所で何者かに襲撃される事件が起きま──依然として──』
「これって、昨日イオリがやった任務だね。せっかく捕まえたのに全員取り逃がすとか世の中物騒だね」
「そうですね……」
「襲撃だってさ。呪詛師関連だったりするのかな」
「この情報だけでは何ともいえませんが、想像が事実でしたら処刑対象です」
「さすがイオリ。正しく割り切れるのがイオリの良いところだよ」
「あなたほど割り切れませんよ」
「ぼくは感動ドラマで泣く程度には優しい人間だよ」
「どうせ欠伸でしょう」
「血も涙もないね」
鍛えられましたから、と淡々と続く二人の打ち合いに、前だけを見据えて聴いていた補助監督は相好を崩した。
□□□
帳の中に入ると、そこは別世界でした。
そんなかの有名な小説の冒頭を思い浮かべる程余裕はなく、村に入った瞬間、二人はずぶ濡れになった。
立つこともできない程の暴風に、視界を奪われる程の鬼雨、間髪入れずに落ちる雷は村の外とは明らかに次元が違う。
──
その事実に歌姫は目を見開いた。
生きて帰るどころか死体になっても帰れない可能性が高い。
呪力によって自身のステータスを向上させる環境を構築した領域。この領域に術式が付与され場合、発動された術式は相手に必ず当たる必中攻撃の領域、領域展開へと進化する。
──成長速度が速すぎる。
相手に生命を握られている恐怖に歌姫は全身が心臓に変わる。
「これは変体して指取り込んじゃってるね。村に入るとそこは別世界でした、とかイオリ思ったんじゃない?」
「……それどころじゃないです。私たち、死にますよ」
「焦りや恐怖は視野を狭める。まずは落ち着きなさい。それにこの領域は未完成のようだよ」
何を根拠に、と思いながらも古神の気の抜けた調子は歌姫の精神を和らげた。それでも村全体を生得領域と化す程の力を持つ呪霊に歌姫は再び唾を飲み込む。
「あ、でも呪霊が指を取り込んでるなら探す手間が省けて楽になるね。ラッキー」
呪霊を祓うことを前提に話を進める古神を無視し、歌姫は集中して呪霊の気配を探る。悪天候の中での呪力の探索は精神を削り、強い呪霊ほど狡猾な思考を持ち人間の裏を掻く。気配を消して忍び寄るなど簡単だ。
「──! イオリ!! しゃがめっ!!」
突如、古神は歌姫に刀を一閃した。
間一髪で躱した斬撃は地面にボトリと何かを落とす。
歌姫はすぐさま地面を蹴り、その場所を離れて呪霊と古神を視界に入れた。
──いつの間にか背後を取られていた。
目が開き、どくどくと鼓動が鳴り、頸動脈の動きを嫌に感じる。肩が上下し息が切れる。頭が逃げろと警鐘を鳴らし、寒さだけではない震えが全身を走る。
視線を下げ、地面に落ちた何かを確かめる。それは呪霊の腕だった。
古神が居なければ歌姫は死んでいた。もしかすると死んだことも気づかずに死んでいたのかもしれない。
呪霊は斬られた腕を反転術式で治して元通りにしている。古神を見て、歌姫を見て、どちらにしようかなと迷ったふりをして、始めから決めていたように弱い歌姫に狙いを定めた。
──こいつ、知能も高い。
頭から丸のみにされたように一瞬にして恐怖に呑み込まれる。
身体が震え、目から光が消える。体の力も抜けていき、雨を吸った御子装束が鎧のように重たく感じる。立つだけでふらつく程歌姫の心は折れかけていた。
そんな歌姫を奮い立たせたのは古神だった。
「イオリッ!!」
聞いたことのない剝き出しの怒りが歌姫の顔を上げさせる。
呪霊に視線を定めたまま古神は歌姫に喝を入れる。その声は厳しくもあたたかく、歌姫の震える心を優しく手で包み込んだ。
「死なせないから、君は君の仕事をしなさい」
怜悧な視線と溢れ出る呪力で古神は呪霊を牽制する。歌姫を狙う間にお前を殺すと呪霊に危機感を芽生えさせる。
呪霊の意識を自身に向けさせ、古神は術式を開示した。
「きみの理解の範疇か知らないけどね、ぼくの術式は
話すにつれて古神の呪力は練り上げられ濃度が高まる。手の内を晒す『縛り』による術式効果の底上げが古神の練り上げた呪力を更に高めていた。
「社会人で言えば、平社員が一般社員や管理職、役員を呼んでこの仕事をやれと命令するのと同等なんだ。そして神の世界において目的の順位にワンコールで呼び出しはできない。平社員が先輩へ、先輩が主任へ、主任が係長へと取り次ぎを繰り返していってやっと最高責任者へと繋がるんだ」
不便だよね、と愚痴をこぼすと同時に呪霊は消え、古神に殴り掛かる。
古神は流すように躱し、呪具である御神刀で再び腕を断った。全身から呪力を漲らせて練度高く練り上げる。
古神は空いている手でリボルバーを構え、呪力を纏った弾を撃ちながら再び口を開いた。
「でもね、相応する神様を降ろしてしまえば必ず祓うことができるんだよ。社長が埃を払うように手を振れば特級呪霊も消滅する。だからこそ、ぼくには相手の力量を図る能力や時間を稼ぐための力や戦い方が求められる。それに、社長賞をとれば一度だけ即座に社長クラスの神を降ろすことができるんだ」
息を吸い、集中力を高めて古神は術式を奔らせる。目の前の呪霊をじっと見つめて力量を図る。
「何分ですか?!」
「15分。生き延びてね」
「死んだら呪います」
「大歓迎だよ」
古神は呪霊を撃ちながら祝詞を唱え始めた。
ドンッ──と光の柱が呪霊に落ち、呪霊はぼろぼろと塵となって消えていく。
「さよーならー」
小さい子供が元気よく手を振りながら別れの挨拶をするように、古神は呪霊に向かってひらひらと手を振った。
呪霊が消滅するとともに生得領域は消え、長閑な田舎風景に戻る。
古神は呪霊が立っていたところに跪き、地面に落ちた宿儺の指を拾い上げた。
「あれでも
新しいおもちゃを手に入れて熱中し始めた古神に、歌姫はやめてくれと盛大に息を吐く。
サポートとはいえ、特級呪霊を相手にし歌姫は呪力を使い果たしていた。立っているだけで辛く、疲弊した頭では口を利くのも億劫だった。
歌姫は袴の裾を捩じり泥水を絞る。古神とは違い、歌姫の姿はぼろぼろである。袖と袴は破れ、髪はばさばさになり、全身泥にまみれている。
攻撃を躱しながら泥の上を駆けていれば仕方がない。呪霊が古神の戦術を真似て呪力を連射してきた時は死を覚悟した。
それでも任務は終わった。さあ帰りましょうと古神を目に入れた瞬間、歌姫は肌が粟立った。
古神を怖いと思ったことは一度もない。
だが、表情が抜け落ちる程宿儺の指を魅入るその姿は、歌姫の心臓をぎゅっとわし掴みにした。
息が詰まり、背に汗が伝う。闇の中、姿の見えない敵に命を狙われるような恐怖に襲われる。
気がつくと、倫理や道徳心などを全て削ぎ落した眼がじっと見ていた。
「さて、ここからが本番だ」
好きなはずの陽だまりの笑みが今は恐ろしい。
呼吸が浅くなり、伸ばされた手に一歩下がる。ゆっくりと縮まる距離に歌姫は猫のように全身の毛を逆立てる。
「大丈夫だよ」
なにを、と思った時には首に痺れが走り歌姫の意識は遠のいていった。
「痛いのは一瞬だけだから」
□□□
──寒い。
ズルズルと何かが床を這い、その振動が床を伝って歌姫の頬を揺さぶる。
目を閉じたまま視覚以外の感覚が次々と目を覚まし、耳が聞き馴染みのある声を拾った。
──「Aは全滅。次はB」
何の実験をしてるのだろうと歌姫は体を丸めながら再び微睡み始める。
次第にグチャリグチュリと肉をこね回す音と錆びた臭いを拾い、眉を顰める。
五感は記憶を呼び覚ます。
突如、昨夜殺した呪詛師の死体を思い出し痙攣するように歌姫は目を覚ました。
視線をさ迷わせれば不自然なほどに静止した人達がそこら中に倒れている。一目見て、歌姫は彼らが死んでいることを察した。
「あぁ、イオリ起きた?」
上から覗き込む古神は意識を失う前とは違い、白衣を纏いゴム手袋を着けている。手は赤く染まり、白衣も血に染まっている。
歌姫は起き上がり周りを見渡した。そこは部屋を埋め尽くすほどの死体の山だった。
手を突いた床はネチャリと濡れて生暖かく、床で眠っていた歌姫の
遺体は全て腹が切り裂かれ、肌が黒く変色していた。遺体によっては腹から溶けた内臓がずるりと出ている。
「……何やってんですか」
「ちょっと待ってね、今椅子用意するから」
普段通りの明るい声音が歌姫の脳を震わせる。
一体何が起きているのか。ここは村の中なのか。古神は何をしているのか。
目の前にある情報を一つ一つ整理していけば答えに辿り着けるのに、混乱した歌姫の頭はそれを拒絶し続ける。
「はいどうぞ、座って」腕を掴まれ、用意された椅子に座らされる。
古神は死体を踏みながら眠っている人間の元へ向かい素早くメスで腹を捌いた。腹を強引に開け、手を突っ込み、メスで臓器を更に切る。その奥に先程回収した宿儺の指を入れて眠っている人をじっと観察した。
それは幼い子供が生きたまま虫を分解していきどれくらいで死ぬのか観察している様だった。
「なに、してるんですか……」
自分の声ではないような、か細く震えた声が聞こえる。
「宿儺の指を取り込んだ人間のデータを集めようと思って。まずは人間を4つのグループに分けた。Aは意識が無い状態で指を取り込む呪力の少ないグループ、Bは意識無しで呪力が多いグループ。CとDは意識有りの呪力が少ないのと多いの」
指を埋め込まれた人は、古神が話ている間に口と鼻から血を流して死んだ。
「今Bまで試したけど全部毒にやられたよ。やっぱり指をそのまま胃の中に入れると駄目だね。濃度が濃すぎる。薄めたいけど刻めないのが難点だよ」
「まぁ、もうここには用は無いし、次行こうか」宿儺の指を取り出して歌姫の腕を掴む。
暫く歩き、隣の民家の玄関扉を開ける。古神は部屋に上がる前に紙コップと2 Lの水が入ったペットボトルを持って部屋のドアを開けた。
「皆さんこんにちはー、助けに来ましたよー」
家の中にはおよそ20代から50代の大勢の男女がいた。歌姫はその顔をどこかで見たことがあるような気がしたが、思考が止まった頭はそれ以上深く考えることはなかった。
「まぁ、まずは皆さんテストでお疲れでしょう。水の一杯でも飲んでください」
古神は一人ずつ紙コップを配り、水を注いでいく。
古神の調子がいつも通りということもあるが、歌姫にはこの異常な光景を異常と認識できないほど思考が麻痺していた。大多数の異常が少数の正常を侵食していた。
「お疲れ様でしたー。カンパーイ!」
古神が紙コップを高く掲げると同時に「カンパーイ!」と声が返ってくる。
古神と歌姫以外は全員水を飲み、そして全員倒れた。
「……え?」
下を向くと、床が人間の花弁で埋め尽くされている。
──……?
混乱した頭でも歌姫は倒れた人を助けようと一歩踏み出したが古神はそれを止めた。
駄目だよ、と蠱惑的に微笑みながら歌姫の腕を掴んで死体に近づけさせない。
「まだ生きて人がいるかもしれないからここで見てて」
「じゃあ、早く助けないと……!!」
「見届けてくれる?」
「古神さん!!」
次第に思考が回り始め、話が通じない古神に苛立ちが爆発する。目は邪魔をする古神を睨みつけ、何が何でも助けようと腕を掴む体を押しのける。
古神はそんな歌姫に苦笑し、しょうがないなと細腕をへし折った。痛みで座り込む歌姫の脚を持ち上げ、カニの脚を折るようにボキリと折る。
「あああああああああああッ!!」
歌姫の叫び声が家に響き渡る。
古神はそのままもう片方の脚の
「大丈夫大丈夫、痛くない。痛みとしての感覚と脳内で意識としての痛みが起きてるんだ。意識としての痛みを消してごらん。そうすれば感覚だけの痛みになるから。深く息を吸って、吐いて。繰り返して。さあ、椅子に座ろうか」
激痛に苦しむ歌姫を抱きかかえ、古神は幼い子供を椅子に座らせるように歌姫を置いた。
古神は倒れた人達の元へ近づき、脈がある人間を集めて服を斬り裂き開腹していく。その動作は迷いがなく、外科医のように手慣れている。
その事実に歌姫は折れていない腕を強く握りしめた。
それだけ多くの人間が古神の犠牲になったということだ。
「この人たちに、何をしたんですか。古神さん! 何やってんですかっ!」
怒りを凝縮して声が震える。ばくばくと痛いほど鼓動が鳴り続ける。
歌姫の怒りが届いていないかのように、古神は作業を止めずに先程と同様にさらりと答えた。
「わかりやすく言うと、宿儺の指から取った出汁を飲ませた。あの指切り刻めないから毒の濃度調節できないし、乾物だから出汁取れるかなって。一口飲んだだけで致死量ってヤバイね。床に落ちてる水の量多いし、今生きてる人達は飲むタイミングが遅くて殆ど飲んでなかったんだろうね。耐性があるとは言い切れないな」
残念、と言いながらも予想通りというような声音に歌姫は歯を食いしばる。
そんなことが聞きたいんじゃない。そんなことが聴きたいんじゃないんだと子供が駄々をこねるように悔しさから涙が溢れ出る。
自分の知っている古神が知らない人に見え始め、知れば知るほど毒に侵されていく。
そんな歌姫の心理を察しながらも、古神は切り開いた腹の中に宿儺の指を入れてデータを淡々と取っていく。
「大丈夫だよイオリ。この人達の死を気にすることはない。ぼくは被害者達から殺しの依頼を受けてるんだ。過程は違っても結果は同じ。死に方がぼくの実験に利用されたってだけで死ぬという結果は同じなんだよ」
「イオリも昨日、この人達に会ったはずだよ」冷ややかな視線に、歌姫は目が開き汗が噴き出る。
記憶が急速に逆再生し、昨日の任務を思い出す。警察隊と彼らが蠢く波を歌姫は悠然と歩いていた。
見たことがある顔だとは思っていた。
瞳が開き、呼吸が浅くなる。前後左右の感覚があやふやとなり目が眩む。
「思い出せた?」
はっと気がついた時には蠱毒の笑みを浮かべた古神がいた。
歌姫を覗き込み、言葉巧みに惑わせる。
「彼らのせいで死んだ人間や悲劇の人生を歩む人は大勢いるのに、警察はそれを全て暴くことはできず、裁判になっても全て立証されることはない。判決は判例通りの刑しか言い渡されないだろう。そうなると、被害者集団の負の感情は高まり二級かそれ以上の呪霊を生むだろうね」
「だから、殺したって言うんですか?」
「生きるか死ぬかは彼らの進化次第だったよ」
「進化……?」
「人間は危機的状況になると生存本能から進化しやすくなる」
「無理じゃないですか」
「そうだね」
「『そうだね』って……!」
「これで被害者達は呪霊を生み出さないし、彼等もぼくの研究データとなって役に立った。ぼくはこの研究を世に貢献するし、みんな大好きハッピーエンドだね」
「……あのラジオにあった襲撃は」
「主犯はぼく」
「この任務も……」
「仕組ませてもらった。宿儺の指が欲しかったんだよね」
「私は……」
「高専に挑戦状を叩きつけようかと思って。
「……人を、何だと思って!!」
「イオリも人を何だと思ってんのさ。尊いものじゃないってわかってるはずなのに。それともどんなに悪行を積んだ人間も法で裁かれるべきだとか言うのかな。君はそれを是と言える?」
「……」
即座に言い返せないことが歌姫の答えだった。
古神が発する言葉全てが歌姫の胸を刺し、勢いよく血を流す。
「呪霊は人間の心、悪意から生み出される。出産のように特定の性別が一定期間に産むのではなく、性別年代問わず全ての非術師から際限無く産まれる。それらを駆除する人間の数は少ない上にどんどんリタイアするし、年寄りほど生に執着して都合が悪い時だけ家に閉じこもる。そうなってくると、産み落とされたものを一つずつ駆除するよりもシステム事態を変えた方が効率的だ。
根本治療として、神が断捨離するみたいに非術師を一度根絶やしにするか、時間をかけて呪霊を生まない人間へと進化を促すか、人間を弄って新人類に作り替えるか、呪霊を生まない社会システムを作るかが挙げられる。
一番楽なのは根絶やしにすることだけど現実的じゃないよね。だから呪霊を生まない新人類への改造と、負のエネルギーが一定の値を超えた人間を収容する社会システム作りを選択した」
「……仲間が死んでいくのが耐えられなくて非術師を変えようってことですか」
夏油と同じように、仲間を想うあまりそうなってしまったという悲劇のストーリーであることを歌姫は願った。
だが現実はどこまでも残酷だった。
「授かった命をどう全うするかは人それぞれだよ。好奇心が9割で残り1割は愛だよ。イオリが他人の感情に殺されたら嫌だなって」
「……ふざけないでください」
「愛の告白なんだけど」
「望んでねぇよ。夏油の影響とは、違うんですか」
「離反した彼ね。彼、幼稚だよね。『非術師を皆殺しにして呪術師の世界を創りたい』だっけ、海外の出来立ての国を乗っ取って呪術師を住人にすれば達成するんじゃないかな。It’s a small worldだね」
朗らかな笑顔はどこまでも残酷に人を貶す。
歌姫は怒りのあまり口を開くことができなかった。
俯き、拳を握り、刺すような視線で古神を睨みつける。
「人間の感情は脳の化学物質によって産み出される。その脳を機能させるためには栄養を摂取しなければならない。栄養は腸で吸収され、人間の感情は腸からホルモン伝達物質が脳に行っていることが現在判明しつつある。
脳の指令である意志、思考、性格は先に腸からの指令によって決定されるという論文は多くあり、食べ物が人間の感情を作り出すという意見も多く聞く。
だが、集団生活を送る人間を観察しても食事だけで意志や思考や性格が似てくるかというとそうではない。従ってぼくの見解は、脳の健康状態は食べ物の影響を受けるという結論だよ」
「何が……!! 言いたいんですか!!」
「彼、悪食だから脳の健康状態が悪くなったのかもしれないね」
その一言に、歌姫は心が消えた。ぽっかりと穴が開いて目の前の人物が認識できなくなる。次第に目から涙が零れ落ち、どうしようもない怒りが喉を駆け上る。
──もういい、もう何も聞きたくない。
理性を吹き飛ばす程の怒りが歌姫を埋め尽くす。
折られていない腕に高密度の呪力を纏わせ、怒りを濃縮させる。
「さてイオリ、ぼくはプランを話したけどイオリはどこまで報告する? 情報の開示は対応のリスクを負うと共に効力は格段に上がる」
「もちろん全部話すに決まってんでしょ。全部話して、お前を殺す」
「じゃあ、ここでお別れだ」
古神は、宿儺の指の爪で歌姫の顔を一閃し、歌姫は呪力を纏わせた拳を古神に入れた。
歌姫の頬は筋肉が視認できる程深く斬られ、血を流し顔を汚した。
痛みはすさまじいだろう。
だが歌姫は声を上げることはしなかった。
「傷を治せたとしても特級呪物による傷痕は一生消えない。鏡を見るたびに怒りを彷彿させるといいよ」
古神はスタンガンを取り出し歌姫の首筋に当てた。
──「強かに生きてくれ」
その声は懇願しているように聞こえた。
消えゆく意識の中で歌姫は最後の言葉を聞きとっていたが、もう瞳すら開けられなかった。
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記録 2007年××月××日
■■県■■市■■町(旧■■村)
任務概要
禁則地にある特級呪物、両面宿儺の指の回収および呪胎の
報告内容
担当者二名(一級呪術師 古神慊人、二級呪術師 庵歌姫)派遣時には、呪胎は既に宿儺の指を吸収し特級呪霊へと変体。
呪霊は古神慊人、庵歌姫が祓除。
補助監督の携帯電話に庵歌姫から着信。無言が続いたことから補助監督が応援を要請し現場に急行したところ民家の中にて庵歌姫を発見。顔面右側頬から鼻にかけて損傷及び右腕、両足の骨折を確認。至急高専へ搬送し命の別状はないと診断。
民家五棟から村の住民ではない遺体を発見。損傷が激しく身元及び数の把握は不可能。懺穢から死因は宿儺の指による毒と判定。
村の住人の証言および村中から古神慊人の古い懺穢を確認したことから任務以前から村へ出入りをしていたと断定。民家五棟の遺体からも古神慊人の懺穢を確認したことから古神の犯行と断定。
現在、古神慊人は宿儺の指を持ち去り逃走。
非術師の拉致監禁及び殺害、特級呪物の窃盗及び私的利用、任務の作為および本事件の主犯と断定。
呪術規定9条に基づき呪詛師として古神慊人を処刑対象とする。
以上が目覚めてから事情聴取されるまでに聞かされた報告である。歌姫はそれに古神との会話を追加した報告書を提出した。
日当たりのいい風が通る病室で歌姫はベッドに横たわったまま外を眺めてる。その視線は動いておらず、風景を見ているというよりは記憶の中の思い出を投影している様である。
「歌姫、泣いてんの?」
「泣いてねぇよ」
見舞いに来た五条に背を向けたまま歌姫は返事をする。いつもの勝気な様子はなく、背中は打ちひしがれて五条と言い合う程の強さはない。そこにいたのは、ひどくぼろぼろに傷ついたただの女性だった。
五条は近くにあるパイプ椅子を引っ張り出し、乱暴にベッドに脚を置いた。
ため息を吐き、こういう時何を言えばいいのかわからないと天を睨みつける。
自分の時を思い返し、他人にどうこう言われたくはなかったと思い出す。それでも言葉を発すれば思考が整理されていき、やるべきことが明確になっていった。
経験したからこそわかる、話すことでしか解消されない痛みだと五条は理解している。
「言いたいことあるなら聞いてやるよ」
「アンタに言ったって仕方ないわよ。……でも、なんで、こんなことになったのかなって。……金持ちと、頭良い奴の考えることなんて……わかんないわよ。本当、わけわかんない……」
「他人の考える事なんざわかんねーよ。どんなに近くにいた奴でもな」
歌姫は目頭が熱くなり、じわりと視界が歪む。
少し前に親友が去った五条の言葉だからこそ心に刺さり、じわりじわりと血を流す。
──なんでそんな風に、抉るように言うかな。
自分を守るように体を丸め、胸に手を当てながら歌姫は涙をこらえた。
心の中のひどく柔らかい部分を傷つけられまいと抱きながら、心に入り込んだ毒をぽつりぽつりと抽出する。
「何が、正しいのか、わかんなくなってきた。呪いを祓うだけじゃ、駄目みたい。非術師を助けることが正しいのか、呪霊を生み出す彼等が悪いのか、そもそもの原因は非術師同士の怨み辛みだったりするじゃない。それを食い物にする呪詛師やまたそれによって生み出された呪霊を術師が命懸けて祓う現状がおかしいのか、それに不満があるなら術師を辞めればいいだけなのか、根本的な解決は──」
「あ~もうグダグダうっせぇーな!」
あまりにも大きな声に歌姫は目を丸めて振り返った。
「やっとこっち向いたか。礼儀がなってねーな。歌姫が無い頭使って考えても碌な答えでねぇんだよ。意義を今探してんじゃねえ。もうすでにあんだろ! 正しいか正しくないかなんて悩むのは後付けで自分を正当化したいやつがするんだよ。どんな思想を持っていたとしても関係無ぇ奴を巻き込んだ時点でそいつはクソだ」
そう言い放ってから、また、「必要な犠牲なんていらねーんだよ」と呟いた。
その声は少し湿っぽく、五条の心に今も突き刺さっているように聞こえた。
「暫く監視つくし高専から出られねえってさ」
「わかってる。……私でもそうする」
いつ解かれるのかわからない監視だ。
古神の仲間ではない事を証明しても消えることのない疑心の目が歌姫につきまとう。
それが古神の目的だったのかもしれない。歌姫の自由を奪い危険から遠ざける。それは最も歪んだ呪いなのかもしれない。
あっそ、と五条は立ち上がりドアへと向かう。
歌姫はその背中に向かって不器用な礼を口にした。
任務が終わってからずっと考え続けていたことだ。
過ごした日々に嘘が混ざっていたとしても、あの言葉は嘘ではないと思っている。
「私、教師になるから。辛酸を舐めた人間の話は貴重らしいわよ」
「歌姫舐められんじゃねぇの」
ニヤリと口端を上げた五条は面白いものを見るように挑発的なボールを投げた。
その瞳は好戦的で、歌姫もバッターボックスに立ちバットを大きく振る。
「私を舐めてんのはアンタだけよ。てかね、敬語使えよ敬語! 私の方が年上なんだよ!!」
打球は飛ばず空振りに終わったが、心の中は清涼感で満たされた。
なんだ元気じゃんという憎たらしい五条の笑みに、歌姫は目をぬぐって笑った。
懐宝迷邦(かいほうめいほう)
=才能がありながら、生かさずに世間のためになることのしないことのたとえ。
「懐宝」は宝物を懐にしまったままにしておくこと。
「迷邦」は国が乱れてものを乱れたままにしていること。
「宝を懐いて邦を迷わす」とも読む。
四字熟語辞典オンラインより
イメージソング
「正しくなれない」
アーティスト:ずっと真夜中でいいのに。
オリ主
強火歌姫。同担拒否。