雲一つない綺麗な星空。お父さんの仕事の手伝いをしていて分からなかったが、今日はこんなにも天気が良い日だったんだ。
「星が綺麗やなぁ」
そんなきざったい台詞を呟くロバートさんは、外装が真っ赤に塗装されたフェラーリを軽快なリズムで運転している。片腕でハンドルを操り、今にも口笛を吹き始めそうだ。
「まったく、お父さんにも困ったッチよ。こんな夜遅くまで可愛い娘を働かせるんだから、深夜残業手当の他にも特別手当が欲しいッチよ」
右側の助手席に座る私は、フロントガラス越しに浮ぶ夜空を望みながら、愚痴を吐く。
「そうやなぁ。近年の労働問題は深刻化が増すばかりやからなぁ。……っていうか、ユリちゃんは立場でいったら師匠と同じやさかい。自分で給料決めてもいいんやないか。ユリちゃんは『極限焼肉』の一号店オープンから、ビラ配りや声だしずっと頑張ってたやん。ちょっとくらいボーナスもろても師匠もスタッフも、だぁれも文句言わへんと思うで」
確かにロバートさんの言う通り、私は『極限焼肉』という焼肉店を立ち上げてから、道場にも行かずにお父さんの仕事を手伝ってきた。だから私も経営陣の一人だと言っても良いのかもしれない。でも別に私はお金が欲しいわけではなかった。ただ愚痴を言ってみたかっただけだった。
「そんなのムリムリ。お父さんって実はかなりの小心者なんだから。いつまた道場と同じように経営不振に陥るのか、不安でしょうがないんだよ」
「あの裸一貫で山籠もりするような師匠がねぇ……」
「そうそう」
私はいつものように適当にお茶を濁す。そう適当が一番なんだ。
「着いたで」
私が今日泊まる予定のホテルの前でフェラーリは止まった。
「うん! やっぱり一人っきりのビジネスホテルは何かこうワクワクするッチ! 何か面白い事起きる気がするッチ!」
いつもお兄ちゃんとかお父さんとかと一緒だから、一人だと何か胸がドキドキする。
「ユリちゃん、けったいな事言うもんやあらへんで。ワイはこのホテルから不穏な空気を感じとる。師匠に誓って下心は全くない。ワイの知己がおるホテルに今からでも来うへんか?」
「あ! そうやって私に変な事するきでしょ! もうロバートさんのエッチ!」
「だから師匠に誓うって言うてんねん」
ロバートさんは困り果てた顔で頭をポリポリと掻く。実は私も薄々感じてはいた。このホテルに潜む何者かの気配を。
「大丈夫だって! 私だってKOFの出場者なんだよ! 何かあったら……」
私は左足を軸にして右足で思いっきり遠心力をつけて、ロバートさんのお腹の前で止める。
「これでだいじょうぶい!」
ロバートさんは「はいはい」と私の右足に軽く手刀の要領で右手を押し当て、私の右足を下ろさせる。
「師匠は店で寝てるし、リョウは山籠もりの真っ最中や。よってあまりもんのわいがユリちゃんを守るしかないのや」
「もう何度言わせるの! お兄ちゃんやロバートさんに守られてばかりの私は過去! 自分で! 一人で! もう闘えるの!」
怒りが込み上がって来る。もう二度と私は誰かに守られる存在でいたくない。仮に過去の私のような引っ込み思案で何をするにしても怯えながら動く弱気な性格でいるならば、あの誘拐された日の出来事が恐怖と共に蘇り、頭痛、めまい、震えなどの、身体に影響を及ぼすほどの苦しみを引き起こす。だから真に私の身を案じているのならば、何も言わずそっとこの場から去ってほしい。
「ユリちゃんが強いのはワイもリョウも師匠も重々承知している事実や。でもな」
ロバートさんが自らの拳を強く握り、その拳で胸を軽く叩く。
「極限流の強さとは拳だけやない。ココも重要なんや」
私には心の強さが足りていない。同感だ。私も精神的に未熟なのは理解している。そう未熟だからこそ、このホテルで何が起こるとしても、乗り越えた先に洗練された私が居るのだと信じている。
「ふーん……胸が大事なんだ。私だって舞ちゃんほどじゃないけど、それなりにあるんだよー……って! 何言わせるの! ロバートさんのスケベ! 変態! もう帰ってよ!」
私は頬を膨らませて、ロバートさんの服を掴んで無理矢理回転させて、顔も身体も後ろに向かせる。ロバートさんは「おっとっと」と言いながらも特に抵抗せず私にされるがまま体の向きを変えられる。私は「はい! 今日はどうもありがとう! お休みなさーい!」と、その大きな背中に向かってお礼を言う。ロバートさんは肩をすくめ、大きくため息を吐く。表情は見えないが、おそらく反抗期を迎えた子供のような私に呆れているのだろう。
「わった。分かった。ユリちゃんのやりたいようにやったらええ。ただこれはとっときや」
ロバートさんの頭の上から何か落ちてきて、私は慌ててそれを両手でキャッチする。両手を開くと、片手にも収まるくらいの軽くて小さな四角い箱。上部には透明なカバーから赤いボタンが透けて見え、私はその赤いボタンの役割をすぐに察した
「何かあったら真ん中のボタンを三秒間押しいや。そうすればわいの腕時計に信号が走る仕組みになってるさかい。夜中だからとか、きぃ遣わずともかまへんからな」
つまりは防犯ブザーだ。二十歳になってまでこんなものを贈るなんて、よほど私を不快にさせたいようだ。
「ホンマはこんなもんより、エンゲージリングを贈りたいとこやが――」
「いいから早く帰って!」
ついに耐え切れずロバートさんの言葉を遮り、拒絶の気持ちが口から洩れてしまった。
一瞬の静寂の後、ロバートさんはため息を吐いた。落ち込んだのか、呆れているのか、分からない。あるいは両方の感情が入り混じったものなのか。なんにせよ罪悪感がひしひしと私の心を締め付けるが、今更何も言う気にはならなかった。ロバートさんは私に背を向けたまま歩きだして、車に乗り込み、私に一瞥もくれず出発した。
一人になることを望んでいたにも関わらず、私は何か言いようのない孤独感に駆られた。本当にわがままな子供なんだな。と自分自身に嫌気がさし、感情に任せて手に持っている小箱を叩き割ろうとした。でもここは私の人格が何とかしてくれるのを待った。
「やっと邪魔者はいったッチ。……フッフッフ。ロバートさんからのこれはとりあえず閉まっておいて、一人の夜を満喫するッチ」
私はホテルの外で独り言を言うタイプではないが、抱えたもやもやを吐き出すためにおどけ続ける私の人格が導いた結論だった。
ホテルの受付で簡単にチェックインの手続きを済ませ、エレベーターで七階へと向かう途中、心臓の鼓動が早くなった。ワクワクしているのではない。これは明らかに不安による動悸だった。おそらく私の部屋には誰かが潜んでいるのだろう。そしてその人物は、性的暴行を加えるような下劣な輩などではない。
私はエレベーターを降りて、赤いカーペットに敷かれた廊下を自身の部屋に向かって歩き始めた。
部屋に潜んでいるは十中八九〝彼女〟だ。KOFの出場者でもある〝彼女〟が、私の命を狙っている。私は他人に死を求められるほどの恨みを買われる覚えはない。だとすると個人ではなく極限流という組織に恨み、妬みを抱いている可能性はある。部屋に入ったらすぐに戦闘になるのだろうか。できる事ならば、何を目的にするでもない会話で盛り上がる和やかな女子会の方が私好みだ。
あれこれと考えている内に私の宿泊部屋の前まで来てしまった。
私はカードキーでロックを外し、ずっしりと重みがあるドアを開けた。中は真っ暗で何かアクションを起こすならば好都合なタイミングだった。扉が閉まる際に大きな音が響き、私は電気のスイッチを探すのも忘れて、暗闇に目を凝らす。すると突然、目の前の空気の層が切り裂かれた感覚が顔を襲った。反射的に私は身体を横に逸らす。金属製のドアに短刀が三本刺さり、私の嫌な予感が当たった。考える間も無く、私は短刀が放たれた軌道から位置を特定し、手に持っているバッグを〝彼女〟へと投げつける。バッグが宙に浮いているほんの数瞬、廊下の光源から灯される部屋の中で閃光がキラリと羽ばたいた。閃光は天井にまで達し、直上から「ヤッハー!」という甲高い声が私の耳を襲った。頭上から銀色の刃が迫り、私は前方に倒れ込むように床を強く踏み込み、室内の丸机が置いてある場所へと飛び込んだ。丸机の支柱を掴んで、身体のブレーキを計る。ギギという床ずれの音がして丸机が少し動いたが、身体は止まった。それから支柱を掴んでいないもう片方の手で床を目いっぱい押して、新体操選手のように宙返りで立ち上がる。
「おおー、さすがの身体能力だねー」
暗闇の中〝彼女〟が私にそう言い放つ。声の主は私の予測通りの人物だ。あの私個人に向かって醸し出す殺気はKOFで覚えがある。名前は確か……。
「まりんちゃんだよね。あなたは」
〝彼女〟の名を呼ぶ。無音の闇にちゃらりと小物の金属アクセサリーが揺れる音がした。
「……なんだ。アタシがこの部屋にいるのバレバレだったんだ」
ため息を吐くのが聞こえると、〝彼女〟が電気のスイッチを押したのか、オレンジ色の明かりが静かに灯る。部屋の中にある三つの電球が〝彼女〟の姿をはっきりと映し出した。
上着のシャツ、だぶつかせたオーバーニーソックス、海賊のようなバンダナは全て茶褐色を軸にコーディネートされ、丈の短いクリーム色のタイトスカートから伸びる太ももは〝彼女〟の若さを扇情的に表している。
服装はこれこそ〝彼女〟にとって正装なのであろう、KOFで見た姿そのままの出で立ちだ。
そう、見た目こそ、快活で可愛らしい女の子にしか見えないが、こと戦闘になれば暗器を躊躇なく使い、予測のつかない攻撃で相手を脅かす。今は私と向かい合う形で〝彼女〟は「イシシ」と笑っているが、いつ攻撃に移るか分かったものではない。
「えーと……バレバレとかじゃなくて、なんでこの部屋にまりんちゃんがいるのかな」
私は困った風を装って〝彼女〟に問いかける。
「チョッチ、仕事が一つ片付いたから、そのついでに挨拶しとこーと思ってねー」
「仕事?」
高校生だとアテナさんから話は聞いていたが、仕事とは一体なんなのだろう。ファーストフード店やアパレルショップとかでアルバイトをやっているのだろうか。
「ユリッチが別に気にするようなモノではないよーだ」
〝彼女〟は心の底から楽しんでいるように笑う。それにしても『ユリッチ』と愛称で呼ばれる事には慣れているが、まだよく知りもしない相手から馴れ馴れしく言われるのはちょっと不快だ。
「まりんちゃんって、いつもそんな性格なの」
「性格はいつもこんなだよー」
〝彼女〟は私を嘲るように舌をペロッと出す。しかし、すぐに顔を正し「いや、ユリッチだけには特別かなー」と言った。
「私だけ特別? それってどういう意味?」
「あり? 随分質問が多いし、いつもはもっとこう……おどけて無かった? なになにッチとか言ってサ」
生命の危機に瀕すれば、誰だって真面目になりそうなものだが、私に限ってはそんな風に見られていなかったというわけか。
「そりゃあ……いくら私だって、命を狙われればおどけていられないよ」
「命?」
〝彼女〟はじっとりとした目をして薄気味悪い笑顔を浮かべる。
「アハハ! 命なんてとるつもり無いよ。『仕事』じゃないんだし!」と〝彼女〟がわざとらしく声を上げながら笑う。
「え? だって……」
私は言葉に詰まる。なにせ〝彼女〟の手にはきらりと光る銀色のナイフが握られており、私が避けて扉に刺さったナイフもそのままだ。
疑問に思う私の心情を察したのか、〝彼女〟は手のナイフの先端をもう片方の手の指で押して見せる。ナイフは〝彼女〟の指を傷つけることなく、吸い込まれるように柄に入っていく。
「おもちゃだよーん」
〝彼女〟はおもちゃのナイフをタイトスカートの中にしまい、手品が上手くいったマジシャンのように、したり顔で私の驚いた顔を見て喜ぶ。
「じゃあ、壁に刺さっているのは……」
「もち! 磁石! 木製ならともかく、鉄製の扉に投擲だけで小型ナイフを貫通させるなんて、アタシの力だけでは絶対無理だね」
〝彼女〟はぎらりと目を輝かせる。まるで他の手段を用いれば、鉄だろうがダイヤモンドで出来た扉であろうが、壊してやろうという鋭い目だ。
「でもま、殺気も分かるようにしていたし、いくら暗闇だといえ、これくらい避けてもらわなければアタシの方から愛想尽かしていたヨ」
随分と〝彼女〟は自分勝手で不思議なことを言うものだ。「愛想を尽かす」以前に、そもそも私は〝彼女〟が私を狙う理由さえ聞ければよくて、〝彼女〟自身には何も興味が無い。……いや、興味が無いのは嘘だ。確かにKOFで闘った時は何も感じなかった。そう、何も感じなかったからこそ〝彼女〟が気になったのだ。格闘行為というのは自分を写す鏡のようなもので、構えを正面から見据え、拳を合わせただけで、ゆりかごから現在に至るまで、どういう生き様だったのか分かる。
お兄ちゃん的に言えば、格闘は己が人生のぶつけ合いだ。
だが〝彼女〟に至っては、戦い方も武器に頼る戦闘法で、全く自分の人生というのを見せようとはしない。まるで人生において重大な何かを隠しているかのように。
「愛想尽かされなくて良かった……と言ってあげたいけどね、私にとってまりんちゃんはKOF出場者の一人としか思っていないし、いくら偽物のナイフとはいえ、ジョークが度を過ぎているんじゃないの」
私が〝彼女〟を諌める。彼女の本心をいくらかでも探ろうとの挑発の効果も期待した。しかし〝彼女〟は「イシシ」と笑うだけで、怒りの感情を見せて来ない。代わりに「ねぇ『同族嫌悪』って知ってる?」と逆に質問をぶつけられた。
同族嫌悪。ある集団で、自身を特徴づける性格等の個性が他の誰かと似通っていた場合、その集団における自身の価値が低くなると思い込み、似た人物を敵視してしまう。
「もちろん知ってるよ。でも今、それが何の関係があるの?」
私は語気を強めて言った。私はいつになく真面目なのに〝彼女〟がおどけながら適当にあしらう姿に、若干の苛立ちを感じていた。〝彼女〟は二本の指を顎に置いて「えーと」と言って、一瞬考えるような視線を上に向けた後、急に悲しい目を私に向けた。
「関係あるようで、もしかしたら全然関係ないかもネ。……ねぇ、ユリッチ。悪いんだけどサ。チョッチだけアタシの自分語りを聞く気ないかな?」
〝彼女〟の顔は笑ってはいるが、目は悲しいままだ。まるで捨てられた仔犬のような哀愁を漂わせている。
「……分かった。いいよ。聞いてあげる。その代わり、私に付きまとう理由も話してもらうからね」
私は威圧的な声を出したつもりだったが、やはり声質的に無理があり〝彼女〟は静かな声で語り始めた。
「アタシね。同じ高校の女の子に言われちゃったんだ。『あなたの元気に振る舞うその仮面の裏には、私達にも隠しておきたい大きな秘密を抱えている』って。……アタシ、そんな風に言われて怒っちゃったんだ。『何が分かるっていうの! 勝手なこと言わないでよ』って。学校はアタシにとって偽りの場所……それなのにあんなに感情を出すなんて……おかしいし、情けないって思ったの」
私は〝彼女〟の言葉一つ一つを黙って受け止める。
「でもね。そこまで感情的になったっていうのは、その女の子……達と過ごしてきた生活が、アタシにとってすごく居心地が良い時間だったからだと思うんだ。アタシの心の深層を覗かれるくらいね」
〝彼女〟は何かを考えるかのように目を瞑り、そして重そうに瞼を上げる。
「ねぇ、ユリッチ。どうして人はありのままの自分を奥に押し込めば押し込むほど辛くなっていくのかな。どうして世界は仮面をつけて生きている人に厳しいのかな。どうしてアタシは辛い思いまでして自分を偽らなければならないのかな」
この部屋には〝彼女〟と私しかいないにも関わらず、〝彼女〟は向かい合っている私にではなく、虚空へ問いを投げかけているように感じた。
「答えられないの? それとも答えてくれないの?」
私は黙っていた。単純に答えるのは簡単だ。『自分を偽らずに生きていけば良い』と。でもきっと〝彼女〟はそんな回答を望んではいない。
「アタシはきっとこれからも仮面をつけて生きていく。本当の自分を隠したまま……いや違うかな。本当の自分なんてアタシの中には、もう無くなっていのかもしれないネ。もう……ホントに……アタシが……自分が……嫌になっちゃうよ」
〝彼女〟は喋る度に、どんどん顔が下へと傾いていく。
「まりんちゃん。仮面をつけているのはあなただけじゃないよ」
「そうだね。ユリッチも……」
「そう。確かに私も恐怖と不安から自分を偽って生きている部分はあるよ。でもそれは私だけじゃない。お兄ちゃん、お父さん、ロバートさん、この世界にいる皆が違う自分を作って生きているの」
〝彼女〟は俯いていた顔を上げて、赤くした目で真っ直ぐに私を見据える。
「嘘つかないでよ! ユリッチだけでしょ! アタシと同じなのは!」
〝彼女〟はタイトスカートの中に手を突っ込み、そこから小型ナイフを取り出す。果たしてそのナイフは本物か偽物か、私の立つ位置からでは判別がつかない。
「皆も社会や文化、そして人との繋がりを保つために、多かれ少なかれ演じているんだよ。私がまりんちゃんと似ているのは、おどける事であらゆる物事を曖昧に見ようとする所だけ」
「曖昧? 向き合いたくないだけでしょ。過去の自分と」
私と彼女の間に、見えない亀裂が走ったように感じた。
「……なるほどね。同族嫌悪ってそういう事だった訳ね」
「ユリッチの仮面はアタシと同じ、いつも薄気味悪い笑顔を浮かべている能面だよ。そのお面の下にはおぞましい自分が存在している。なのに、なんでユリッチは嫌じゃないの! 明るく振る舞っていても、いつもそこには黒い影がついて回っているんだヨ!」
〝彼女〟は鋭い眼光とナイフを私に向ける。
「私は今の自分が気にいっているから、そうしているだけだよ。たとえ気弱な私が何かの拍子にぽっと表れても、その時間は短くしようといつも思っている。だって後ろ向きな私だといつまで経っても前に進めないからね」
「何ソレ? 弱い自分だと何もできないから強がり続けたいってわけ?」
「強がっている訳じゃないよ。皆に見せる私の姿こそが、そうでありたい私なの。……まぁ、お兄ちゃん達には見透かされているけどね。でも……まりんちゃんだって本当はそうじゃないの? どうしておどけた自分であろうとするのか。それはまりんちゃんが望んで生み出した自分なんじゃないの!」
ナイフが私の顔めがけて飛んで来た。咄嗟に私は机の上に置いてあったガラスのコップでナイフを落とす。刃の切っ先とぶつかったコップが無残に割れた。
「……ユリッチ。やっぱりアタシはアンタが嫌い。私の事全部分かった気でいて。……でも大外れ。全然アタシを分かっていないヨ。どうせ本物のナイフを投げて来るなんて思わなかったんでしょ」
〝彼女〟は鋭い目を私に向けたまま不敵な笑みを浮かべる。
実際のところ彼女はナイフを投げるつもりなんて無かったのだと思う。私が彼女の心を刺激したばかりに行動を変えたのだ。
本当の自分を誰かに理解されたいと思っているが、その自分を知られてしまうのは嫌だという、まるで幼児のようにわがままな少女だと私は思った。
「もしかして友達に軽蔑されるのが怖いの?」
「軽蔑? ハハ……軽蔑されるのならされた方が良いよ。むしろ本当のアタシを知られて、イロイロ探られるのは迷惑だからネ」
「まりんちゃん、私はあなたの人間関係なんて分からないけど、きっとあなたの友達はまりんちゃんが何かを隠しているのを分かった上で、もっと知りたいと思っているはずだよ。本当に大好きな友達だから悩みも共有したいって」
「それが迷惑だって言ってんの!」
部屋全体に彼女の怒号が響き渡る。
「アタシは生まれた時からこの世界での役割が決まっているんだヨ! そこには個人の幸福も不幸もありはしない。宇宙の法則を司る公理のように、世界のバランスを取り続ける人生を歩むだけ。そんな人間に近づこうとすれば、きっと『誰か』に異物として処理される。ブラックホールの中に身を落とすようなモノだネ」
「まりんちゃん、一体何を――」
「分からなくて良いよ。テキトーに言葉を紡いだだけだから」
私の言葉が遮られる。
「とりま、言いたいことも言ったし。アタシはそろそろ帰るヨ。ユリッチも眠たいだろうしね」
用事が済んだ彼女は両手を組んで上に伸ばし、私に背を向けて「またね。ユリッチ」と右手をヒラヒラと振る。
「ちょっと待って! まだ私を襲った理由を聞かされてないよ!」
彼女が言いたいことを言い終わったら、聞かせてくれる約束のはずだ。
私が声を張り上げると、彼女は後ろ姿のまま「ユリッチはなんでだと思う?」と言ってきた。
「私のことが嫌いだから……でしょ」
嫌いといっても、自分という存在の見方の違いによって引き起こされた彼女の感情だ。根本的に私は彼女と性格が似た者同士で、ややともすると良い友達になったりする可能性だってある。
「うん。そういうこと。じゃあね」
彼女は初めから真面目に答える気が無かったように適当に相槌を打ち、まばたき程の一瞬で部屋から消えた。
私は呆気に取られて、へたへたとその場に座り込んだ。急にどっと疲れが出てきて、このまま床のカーペットで眠りそうだ。
私がうつろな目で、ドアを見つめていると、夜中にも関わらず、どたどたと騒がしい足音が聞こえてきた。
「ユリちゃん!」
部屋のドアが勢いよく開き、ロバートさんが大きな声が耳にキーンと突き刺さる。
「何ともないか! 怪我してへんな!」
夜中という時間にも関わらず、大声を出すロバートさんに恥ずかしくなり、私は右手人差し指をロバートさんの唇の前に出す。
「お……面目ないで。ユリちゃん。つい心配しすぎて頭がカァてなってしもた」
ロバートさんはどうしてここに来たのだろう? 確かポケットの中にロバートさんから貰った防犯ブザー代わりの小箱は押していないはず。
私はポケットの中をまさぐってみた。
「アレ、無い!」
「ユリちゃん! どうしんたんや! 何か盗まれたんか?」
小箱は私のポケットの中から無くなっていた。動いている時に落としたのか……いや、違う。彼女の仕業だ。
「小銭が無いッチ!」
顔全体がカチコチに固まっていたロバートさんが、途端に柔らかい表情になる。
誰が盗んだかははっきりと分かっている。ただ、先ほどこの場でおきた出来事は、とバートさんにも、お兄ちゃんにも、誰にも内緒にしておきたかった。
「そっか……」
荒くなっていたロバートさんの呼吸が、長息と共に自然な呼吸へと戻る。
「そ、れ、で、なんでロバートさんはここにいるの? 夜中に乙女の部屋に入るなんて、犯罪だよ」
「そんな事言わんといてや、ユリちゃん。ワイやってユリちゃんから例の信号が送られて来ただけなんやから……」
ロバートさんは目に見えて顔が沈んでいく。そしてふっと顔を上げて「そういえばワイがユリちゃんにあげた小箱は?」と聞いてきた。
「あー……それはね……ゴミ箱に」
彼女に盗られた。とは言えず、私は頬を掻きながら、おずおずと答える。
「は?」
ロバートさんは呆気にとられた顔をする。ま、当然の反応だ。
「なんや……誤作動だったのかいな。ワイはてっきりここで『友達』と会っていると思っていたで」
「え?」
私はドキッとしてしまい、つい虚を衝かれた反応をしてしまう。
「まぁ『友達』と言うても、いろいろおるからなぁ……。ま、深くは聞かんわ」
ロバートさんはニヤリと笑う。
「ロバートさん!」
私は顔を真っ赤にして怒鳴った。
結局の所、どうして彼女は私を襲ったのか、自分の事をペラペラと喋ったのか、分からず仕舞いだった。ただ彼女は言った。同族嫌悪だと。でも私は似ているからだけで嫌悪の感情を抱いているわけではないと思った。
おそらく彼女はありのままの自分自身を受け入れてくれる存在がいて欲しいのだ。自分の生存と行動に肯定的な意味を持ちたいがために。
うん。大丈夫だよ。だってまりんちゃんは二つも優しい面を持ち合わせているんだもん。あなたを心の底から愛して、あなたのために涙を流してくれる人が、いつかきっと表れるよ。それは、もしかしたらあなたが気付いていないだけで、もう身近にいるかもしれない。あなたが心から生まれてきて良かったと思えるようになるまで、私はいつまでも応援しているからね。
ハッピーバースデーまりんちゃん!!
*
「ハッピーバースデー……ユリッチ」
ホテル屋上のヘリポート。誤って人が落ちない様、風も通らない三メートルの銀色のフェンスで囲われている。だが今、そのフェンスの向こう側に少女が一人、小箱を手に持ち足を宙へと垂らしながら座っていた。
一の夜風で金色の髪がなびく。
二の夜風で小箱は真っ二つに割れる。
三の夜風で屋上に静寂が訪れた。
了