「……」
カンタベリー聖教皇国
刀剣と称される彼とて、決して感情を持たないわけではない。他と比べれば極めて希薄である上に必要となれば己を滅するだけであり、完全な虚無ではないのだ。
ゆえに想像だにしない展開になれば、極めて小さいが反応はする。この日もベルグシュラインは日課である早朝の修練を行おうと練兵場の一角にやってきたのだが……。
「にゃあ」
「……」
目の前には、茶色と白の縞模様の体毛を持つ動物が一匹。堂々とした佇まいで鎮座するその生物が”猫”と呼ばれる生物であることには、ベルグシュラインとて無論気付いている。
まあとはいえ、それだけだ。修練をやらない理由にはなり得ない。怠惰とは己を堕落させる恰好の要因であり、当たり前の理屈としてそんなものは非効率どころかマイナスなのだから。
だから、と一歩足を踏み出したベルグシュラインと、振り向いた猫の目線が合う。猫の青い瞳がじっとベルグシュラインを見つめているが、そんなものはどこ吹く風だ。
なおも足を止めない侵入者に対し、猫がとった行動とは――
「んにゃーお!」
なんと、威嚇であった。圧倒的に格上の存在であるはずの絶対剣士を相手に、一歩も退かず唸り声を上げる。
だが当然、ベルグシュラインにとってはそんな敵意などどこ吹く風だ。退かぬのならば構わんと、携えた刀剣を抜刀。素振りに入ろうとするが――
「ふしゃああああ!!」
無視するな、と言わんばかりの勢いで猫が飛びかかってきた。肉食獣である猫の運動能力は非常に高く、走るスピードは実に時速五十キロメートルにも及ぶ。加え、一瞬でトップスピードに到達する瞬発力も凄まじいときた。
人間は本気になった猫に勝てない、とは誰が言ったか。真実か否かはともかく、そう思われるのも無理のない
「だが、それだけだ」
――されど、その程度。絶対剣士には届かない。
積み上げた研鑽が違う。経験が違う。殺気と敵意をむき出しにした本能任せの攻撃など、ベルグシュラインにとっては目を瞑っていようと容易く回避できるものでしかない。
猫にしてみればたまったものではないだろう。何度も何度も飛びかかるが、その全てが徒労に終わっているのだから。
加え生物の常識として、全力というものは決して長時間維持できるものではない。
常人ならば十秒ほど全力で走るだけで息が切れるように、限界点と言うものが必ず存在する。それはこの猫にとっても同じだ。いいやむしろ、瞬発力に特化している分苦手な分野だとすら言える。
特化型とはそういうものだ。力を発揮できる分野では無類の強さを誇る反面、それが活かせない分野では全くと言って良いほど役立たず。
よって、猫に勝てる見込みは皆無だろう。なぜなら相手は、武神が誇る千年一の神剣にして歴代最強の使徒。あればあるほどいいという理論の体現者として、
「……ふむ」
結果、どうなるかと言えばこういうことだ。
邂逅から三十秒にも満たない僅かな時間で、ベルグシュラインは猫の首根っこを掴んでいた。
あとはこのまま、適当に離れた場所にでも置いてくるだけのはずだったが。
「――
「……む」
なんと、猫は本来有りえないはずの反撃を繰り出したのだ。体力などとうに使い果たしているはずの身で、首根っこを掴まれて身動きのとりにくい状態であるにも関わらず、全力以上の一撃を繰り出した。
それを可能にした原因は――言うまでもなく、気合と根性。
譲れないもののために振り絞る、意志の力に他ならない。
そして、その理外の一撃が奇跡を生む。ベルグシュラインの頬に走る、小さなひっかき傷。あらゆる不可能を越えて、猫の爪は絶対剣士に届いたのだ。
「ははは、まだまだだなベルグシュライン」
刹那、練兵場に響く新たな足音。己が主君――神祖グレンファルト・フォン・ヴェラチュールの登場に、ベルグシュラインは猫を地面に下ろして頭を垂れる。
「まさか、お前ほどの男が猫に傷を負わされるとはな。不調か?」
「申し訳ありません」
「別に責めているわけではないさ。ただ――絶対剣士に傷を負わせた
そう言うやいなや、なおも威嚇を続ける猫に目線を向けるグレンファルト。
「ふしゃああああああ!!」
新たな敵の出現に、なおいっそう猫の怒りは燃え上がる。だが――
「ふむ。なるほどそういうことか」
何やら一人ごちて、グレンファルトは猫から目を離す。
「行くぞ、ベルグシュライン。今日は別の場所を使うとしよう。どうやら俺たちは、
「御意」
驚くほどあっさりと真実を看破したらしい主君の言葉に、ベルグシュラインはただ従う。その道中、ほんの少しばかり普段よりも楽しそうに、グレンファルトは語りだす。
「いやはや全く、意志の力とは凄まじいな。最も彼女の場合、本能と呼ぶほうがより適当なのだろうが」
「彼女とは、あの猫のことでしょうか」
「ああ。あれは子を産んで間もない母猫だよ。おそらくあの近くにはあの猫の子供らがいたのだろう、それらを守るために、彼女はお前に挑みかかった。そして、決して譲れないからこそ足掻き、お前に傷をつけるまでに至ったのさ。ははは、これではまるで逆襲劇と英雄譚のいいとこどりだな」
大切なものを守るために殺す。その為なら決して折れず、まだ諦めんと立ち上がる。
光の雄々しさと、闇の優しさ。そんなものを併せ持つ存在がもし現れたのならば。
「どうなると思う?」
「少なくとも、大きな難敵となることは間違いないかと。そして、あるいは――」
そこにならば、自分の運命が存在するのではないかと。
僅かばかりの期待を持つことも、決して悪いことではないだろう。
眷属が抱いたごく小さな感情の機微を、グレンファルトは笑って肯定する。
「そうだな。未来に希望を持つことは良いことだ。何かに向けて努力すること。その成果を発揮すること。そうして得られる充実感ほどたまらんものはなかなかないぞ?」
「ありがたきお言葉」
「では、来るべき運命に備えて鍛えねばな。丁度良い、久しぶりに手合わせといこうか」
「ご要望とあらば、喜んで」
かくして、主従はさらなる研鑽を積みあげるべく剣を執る。
これはそんな、ごくありふれた一日に起きた、ほんの些細な物語だ。大筋に影響を与えることなどなく、主従の在り方に変化が生じることなど有りえない。
だが、しかし。
「猫の躾についても学んでいるのですか」
「知識や経験はあればあるほどいいからな。怒っている動物と目を合わせるのは禁忌だぞ?」
あの猫をきっかけに、絶対剣士が新たな情報と経験を手にしたといえば、それは一応正しいのかもしれない。
猫だってまだだできないとは限らない(白目)