冬の夕方四時はだいぶ暗いしこれから夕飯って時間に押し掛けるのは憚られる……とゆーことで、傑はまた迷子になりかけながら京都駅に戻り、光一の弟夫婦の家――京都に昔からあるよーな間口が狭く奥に長い家で一晩過ごした。
年寄りの早起きに巻き込まれて六時半に目が覚めたけど就寝が十時半だったから睡眠時間は十分すぎるくらい。なんでかお土産に八つ橋を持たされて武田宅を出て、バスの時刻表を不倶戴天の敵とばかりに睨みながら今日は迷うことなく『見えない山があるかもしれない場所』に辿り着いた。昨日の夕方は『帳』の前で引き返したけど、今日は――今日こそは入ろう。
『帳』は空を飛べる呪霊に乗って上から見て回ったところドーム状で、中がどーなってるのかは全く見えない。これなら非術師たちが山がまるごと消失したと誤解するのも当然だ。
地上に降りて元の
手甲が鍵になるなら、『帳』の中にいるのはこの手甲の制作者か関係者だろう。
もし人が隠れ住んでいるなら……世俗を離れ隠れ住まねばならないほどの凄い呪具師一族がこの『帳』の中で暮らしてるとか? もしそうなら、昔話で「病魔を祓う神様がいた」とゆーのはきっと高度な呪具か術式の力に違いない。悟から貰った『見えない山に入れる』手甲は付け心地も使い心地も素晴らしく、傑がそれを見せつけたら禪院の当主と息子から親の仇か何かを見るよーな目を向けられた。
当主すら欲するような呪具を作れる呪具師がこの『帳』の向こうにいる可能性は高いのでは。
だけど、当主
全く謎だ。どんな縁がどんな風にどーなってるのか全然分からない。――でもまあ、ここで悩んでても時間の無駄だとゆーことは明らか。とりあえず中に入ってみて、それから考えればいいのだ。
右手を『帳』に添えると拒まれることなく手が中に入った。
「ここは……!」
『帳』の中は明るかった。後ろを振り返ると今来た道が見える。中から外は見える仕様らしい。
だけどここが明るいのは日光がさんさんと照っているから、とゆーだけじゃない。
この『帳』の中には呪霊の気配が全くないのだ。あんまりにも清浄すぎる環境――整備された長い石の階段はまっすぐに山の頂上に伸び、歴史の古い神社を思わせる社殿が見える。呪具師が暮らしているのではなく隠し倉庫だったのか? 山ひとつ丸ごと?
「すごい」
すごいぞ、とはしゃぐ。ここはまさに
傑が興奮してるのには訳がある。この地球上で呪霊がいない場所なんてものはほぼないに等しいのだ。もちろん人類未開の地なら別だけど、ここみたいな人口密集地に比較的近い場所で呪霊が皆無なんてのはありえない。新人がしがちな誤解の一つに、神域イコール呪霊がいない場所だ、とゆーものがある。……が、神域だろーが寺院だろーが呪霊は出る。神社の主たる神が堕ちて呪霊になることもあるし、蠅頭程度の弱い呪霊ならどこにでもいる。
呪霊とゆーのはいわば雑草みたいなものなのだ。しっかり草刈りしてきれいになったよーに見えても、人間の負の感情とゆー種がまたどこぞからふよふよ飛んでくる。刈っても刈ってもまた芽が出るもんだから呪術師は死ぬまで
でもそれが呪術師のお仕事だし、この世には目に見える成果がある仕事ばかりじゃあない。死亡率が高い危険なお仕事な分給料も高いわけだし、諦めて毎日草刈りしないとね。
一言でまとめよう。
だから、『普通』じゃない場所が存在することに、傑は圧倒された。
――だって、なあ、見てくれ、ここには夢のような環境が広がっているんだ。ここでは誰も呪霊に苦しめられやしない。きっとここを作った
傑の心臓はドキドキと高鳴った。この社殿の中にきっと、傑の夢を叶える呪具がある。心ある人々を守れるナニカがある。長い石段を登る足が軽い。
有り難く呪具を頂いていきますね、と先に謝罪兼お礼。神社の鈴を鳴らして二礼二拍手一礼、作法を指示する案内の掲示がなかったので伊勢のやり方で詣でた……ら、奥の社殿の扉がゴトゴトと開き、赤毛の女が顔を出した。
えっ、そこって倉庫じゃなかったの。
「はいはーい、どなた~?」
女が現れた瞬間、傑が取り込んできた呪霊という呪霊が女の方へ引っ張られていく。地面から足が浮くほどの勢いだったから賽銭箱――の見た目をした冷蔵庫――に抱きつくよーにして傑本人だけはその場にどーにかこーにか留まったけど、傑が使役する二百数十体の呪霊は全て体外へ飛び出し勢い良く女に向かう。傑はわけも分からぬまま「逃げろ!」と声をあげた、が。
「あらまあオヤツが向こうから」
女に触れた瞬間、呪霊はセミの脱け殻が崩れるようにボロボロと空気に散っていった。その場に残ったのはノルディック柄のセーターで着膨れした赤毛の女一人。
使役する呪霊全てを奪われたことを怒るべき場面のはずだし、唖然呆然と立ち尽くすべき場面でもある。だけどなんでかな、体が軽いし気分も爽快なのだ。怒ろうとゆー気が全く起きない。肩の荷が下りたよーな心地とゆーか、面倒ごとから解放された時みたいな。呪いの何たるか、自分の呪術が何なのかを知らなかった時のよーな気楽さがあった。人生万事塞翁が馬、なんとかなるさってね。
「ごちそーさま。こんなにお土産引き連れてくるなんてありがとね、そんでお客さんはどなた様?」
「へ、あ! はい! 私は夏油傑です!」
蛙みたいにしがみ付いてた賽銭箱いや冷蔵庫からぴょんと飛んで下りる。その勢いでスキップしたい気分だ。夏油選手見事な着地です、十点!
――さて。この女が神の域に至った呪具師の末裔なんだろーか? 三百年前から『帳』の中に隠れ住む一族にしては見た目が国際的だ。赤毛に赤い瞳と彫りの深さからしてハーフかそこらか、日本語に癖がなくて流暢だから日本生まれ日本育ちだろう。
「ああ聞いてるわよ。スグルくんね、悟の友達の。あたしはリタ・ギニョレスク――好きに呼んでいいからね。さあ、なんにもない場所だけど上がってちょーだい」
「あ、はい」
促されて入った社殿の中は生活感に溢れていた……社殿の外観をした住居とゆーべきか。古い旅館のよーないい感じの寂れ具合なんだけど、あっちこっちに人が生活している
うちにスリッパはないから靴だけ脱いで上がってと指示されてリタの後ろをついて歩く。廊下はフローリングじゃないのにつやつやぴかぴかしている。
「それにしてもここに辿り着くのがはやかったわね。まだ悟から電話もらってから二日よ? こんなすぐにうちが見つかるとは思ってなかったわ」
「実は一晩お世話になった方が京都市の出で。『消えた山』の話をしてくれたんです」
「へ~、どんな話だろ」
リタは女性の平均身長からすると背が高いけど、傑よりは低い。つむじが見える。
案内されたのは居間らしく、畳敷きの部屋の真ん中に古いが大きな一枚板のローテーブル。こたつ布団には人が抜け出た跡がある。テレビに映るアニメは録画かDVDか、一時停止中だ。
テレビ横のビデオラックの上にリタともう一人に子供が二人の写真が飾られている。家族かな?
「今お茶の準備してくるから、適当にこたつ入っといて。あ、テレビ見る? 最近寒いからさぁ、引きこもってアニメ三昧なのよねー。あ、このアニメ好きなんだってね? 予習してたのよ~面白いわねこの純ロマってアニメ」
そー言って、再生ボタンを押して居間を出ていった。好きなアニメも何も、絵柄に見覚えがないし知ってるキャラクターでもなさそーだ。誰がそんなことを言ったんだか。
再生ボタンから一拍してアニメが動き出す――灰色の髪をした唇の厚い男が、茶髪の青年をベッドに押し倒した。青年が慌てた様子の声をあげる。
『ちょっウサギさん!?』
「ん?」
さして興味がなかったアニメに傑の意識が向く。なんせ傑はこの三年近くうさぎやらセーラ◯ムーンやらと呼ばれてきた男だ。東京高専のうさぎちゃんとは私のことよ。
『可愛いなお前は……』
『アッ、ウサギさんっ』
傑はリモコンに飛び付いてテレビの電源を消した。
誰だ。――誰がこのBLアニメが好きだとリタに伝えた? まあどう考えても悟しかいないんだよなぁ悟よくもあの野郎ぶっ殺すぞ。
悟への殺意は今は仕舞って、テレビに背を向けてこたつに座れば、すっかり冷えていた脚が温もりに包まれた。ほっと一息吐いて天井を見上げる。
――さっき、傑が集めてきた二級から準特級までの呪霊が全て消滅した。ファンタジックな表現になるけど、呪霊は体力とか血とか……生命力にあたるモノを全てリタに吸いとられて消えてったように見えた。あれが彼女の持つ術式なんだろーか? 名付けるなら吸血術式、とか。
今までの苦労がパアにされたと言えばまあそーなんだけど、怒る気にはなれない。呪霊はまた集めればいい。どうせまた勝手にポコポコ湧く。
そんな風に許せちゃうのはきっと、今までになく気分がいいからだ。体も心も頭も軽い。もちろん頭が軽いってのは頭がパアになったとゆー意味じゃない。
「あら、アニメ見てないの?――まあ初めて来た他人の家でテレビ見るのは憚られるか。実家みたくなんて無理は言わないけど寛いでちょーだいね」
「温まらせて頂いてます」
「うん」
リタが持ってきたのは新しい湯飲み二つと急須、茶葉、個包装された揚げせんべい。テーブルの上の給湯器の頭を何度も押して急須にお湯を注ぐと、「高い茶葉だから美味しいわよ」って言いながら保証付きのお茶を傑に出した。リタの言うとおり煎茶なのに美味しい。
バリバリと揚げせんべいをかじる音、茶を啜る音。
「悟、高専でどんな感じ? 腹の立つクソガキ?」
「いえいえ、この界隈では珍しい常識人ですよ。気遣いができるし。色々助けられてます」
お茶が美味しいと気が緩む。打ち解けた雑談は呪具あたりから。
「リタさんがこの手甲を作ったんですか! すごい!」
「そーなのよもっと褒めて。螺旋丸打てる道具を作ってって言われたときは悟の頭が遂におかしくなったのかと思ってさー。あんた頭どーしたの、って聞いちゃったわ」
出会って三年経ってようやく明らかになる伏黒甚爾と五条悟の関係。なんとこの女が伏黒甚爾の育ての親らしい。まだ二十代――若作りだとしても三十代にしか見えないのだけど、甚爾以上となると……いや、女性の年齢を計算するのは止めよう。
「あの二人は年の離れた兄弟か従兄弟か……みたいな? 悟ってばほぼ日参レベルでうちに来てたし、まあ兄弟みたいなもんでしょーね」
「高専では全くそんな雰囲気を見せませんでしたが……」
「身内だから贔屓してるとかされてるとか誤解されたくなかったんじゃないの?」
「伏黒先生はそういうことをする人じゃないなんて、担当を受け持って貰えばすぐ分かりますけどね」
――そして、傑が呪詛師になったことについて。
「どうして悟は私にこの山を探せと言ったんでしょうか」
「そりゃ、悟にとってスグルくんが大事な友達だからでしょ」
え、と顔をあげた。
「ここなら賞金目当ての呪術師や呪詛師からの襲撃なんて気にせず過ごせるからね。
――ここに入るときに見たでしょ、うちが帳で封印されてるの。だいたい三百年くらい前にあれが出来たから、今じゃうちのことを知ってるのは御三家でも本家と本家に近い分家の当主とかそこらしかいないらしいわ。これ悟情報ね。あたしの存在についてみだりに口外できないって関係者全員縛りを結ぶことになってるから親しい相手でも教えることはできないそーだし……つまりまあ、ほとんど知られてないのよ、この山。ここにいれば誰もスグルくんを見つけられないの」
あたしはスグルくんが犯罪者だろーが人殺しだろーが呪いの王だろーが、あたしにとって無害なら別にそれでいーのよ。だってあたし警察じゃないもん。
好きなだけうちにいたらいいし、疲れた時に泊まりに来るってのもいいよ。あたしはずっとここにいるからさ。悟の友達ならいくらだって泊めてあげるわ。
――そう言われて、悟を殺すのは止めることにした。なんだよ悟……私のこと大好きかよ。照れるね。
しかし……自分で隠れ住んだのではないのなら、リタの一族はきっと呪いを喰らう血筋なんだろう。外にいれば疑われ
もしかして寓話の吸血鬼はリタの一族のことだったんじゃないか? それで国から国を転々として日本に流れ着き、この山に隠れた。
寓話を信じるならリタは見た目どおりの年齢じゃないかもしれない。一族で逃げてきたんじゃなくて一人で逃げてきた。だからこの家にはリタ以外に人の気配がないのだとも考えられる。
「リタさん、貴方は――」
なんなんですか、と訊ねた傑に、リタは「そーねぇ」と首を傾げた。
「魔王様かな」
あれっ、おかしいな……ちょっと予想と違ったかも。
ちなみに傑が純情ロマ◯チカを好きだというのは、硝子がよろず夢サイトコメント付き拍手事件の腹いせに「あいつ実はBL好きなんだよ。それも自分と同じあだ名のキャラが出てるやつ」と悟らに嘘八百を教える→悟が「藁」と腹を抱えながらリタに連絡→事情を知らないリタが「腐男子くんか、この時代では珍しいね」とわくわくアニメを借りてきた、という流れがあった。
腰はほぼ治りました。ご心配頂き有り難うございました。