小さく狭い村で虐待されていた双子の少女と違い、少年は親がいて――学校に通っている。誘拐だなんだという事件になるため安易に少年を連れ帰ることはできない。夏油は考えて、リタを頼った。
「屋外で寝泊まり? 最近使ってないから別に良いけどアレ一人用よ? え、譲ってほしい? まあ、欲しいならどうぞ」
彼女さんとキャンプするつもりなら道具や食器やらが足りないわよ、とリタに言われたけど、リタのキャンプ用品を使うのは夏油じゃあない。
ブランド品の丈夫なマイクロストーブと付属の鍋、薄いけど丈夫なエアーベッド、一人でも組み立てられるテント、他は百均で買った金属製の皿や割り箸にスプーンなどの食器、ホームセンターで買ってきたガスボンベ。そしてもちろん、加熱したりお湯を注いだりしたら簡単に食べられるインスタント食品、ケースで買った水と大きなプラスチックボトル。これら全部――夏油はそのまま少年にスルーパスした。
「顔の怪我治るまで帰ってくんなって言われて……」
少年には呪力があった。夏油ほどではないが才能もあった。
「こんなに祈ってるのに何でお前のビョーキは治らないんだ、って」
すがり付いた先が危険な宗教だったなど、彼らは気付きもしない。
彼らがいくら祈っても喜捨しても少年は
少年の食事はどんどん減らされていった。小学校のときは給食があったけれど中学には給食がなく、お弁当。親切なクラスメイトがおかずやおやつを恵んでくれて、それでも栄養不足は否めない。
少年の身体はどんどん怪我だらけになった。始めは背中、それから服で隠れるところ全体に広がって、先日ついに顔を殴られた。見た目はグロいが治らない怪我じゃない。治るまで家にいられたら困る、と言って家を追い出された。
そして少年は、夏油と出会った。
「見えたくて見えてるわけじゃないのに」
薄い夏油の残穢を追って、何日もかけて武田家を見つけた少年は、「良いなぁ」と呟いた。少年には才能があった――少し教わればするすると技術を身につけ、夏油を追えるくらいには。夏油の残穢しか知らなかったから、それしか見たことがなかったから追えたのかもしれない。
両目の下に三つずつ伸びた文様はいくつかが濃い。
羨ましいなぁあの子、怪我一つないから。
「良いなぁ」
そんな少年の耳元で、誰かが囁いた。成り代わってしまえば良い、と。あの椅子を取り上げてしまえ、と。振り返っても誰もいない――幻聴だったんだろうか? 両親に連れられて参加した集会で聴いた、『教祖様』の声に似ているような気がした。
なら、今のは神様の声だったんだろうか?
そして少年は、近所の公園で遊んでくると言って家を飛び出したあの子を捕まえて人のいないマンションの影に引きずり込み、撲殺した。
脳みそを取り出して少年のものと交換すれば少年はあの子になれるはず。少年は知っていた。心は脳みそに宿るのだ。
夏油から貰ったキャンプ用ナイフで幼児の頭を割って――そして気付いた。自分の脳みその取り出し方が分からない。どうやって移し替えれば良いのか分からない。ありゃりゃ失敗失敗。
自分の残穢がべっとり付いたナイフは排水溝にポイ捨てしたけど、すぐに見つけられてしまうだろう。
少年は倫理や道徳を知っているから、さっさとその場から逃げることにした。テレビでも殺人を悪として報道している。見つかったら逮捕されて、豚小屋に突っ込まれるらしい……。
入居者のいない四階建てマンションの影を出れば、あの子の祖父があの子を探して周囲をきょろきょろと見回していた。少年は――春太は無言でその横を通り過ぎる。マンションの裏は雑草がぼうぼう伸びている。あの子を見つけるのは難しいだろう。あの死体が三日くらいは見つかりませんように!
春太は昔から幸運だった。両親が宗教に染まる前は駄菓子の当たりが連続で出たし、小学校の間は牛乳を飲むとお腹を下すというクラスメイトがいたから毎日牛乳を二瓶飲めたし、中学でもクラスに責任感と正義感が強いクラスメイトがいたお陰でおかずやおかしを譲られてきた。春太は幸運を掴んできた。
春太は昔から不運だった。当たりのシールやキラキラのラミカはポケットからいつの間にか消えていたし、祖母と両親はカルトに染まったし、家庭に問題を抱えていることが外形から一目瞭然だったため中学では友達が出来なかった。
大事にされているあの子が羨ましかったから、あの子になりたかった。他人が持っている切符の方が良い席に見えた。他人が持っている切符の方が遠くまで行けるように思えた。だから自分の切符を捨てて、
春太のための切符は既に手の中にあったのに。
テントとかのキャンプ用品はかさばって邪魔になるから要らない。だけどご飯は必要だしコンロも水も……飲み食いするものは持っていかないと。バックパックに詰め込めるだけ食べ物を詰め込んで、春太は蔦が繁るマンションを出た。
――武田宗介くん殺人事件の現場にべったりと遺っていた残穢は、夏油が保護しようとしていた少年のものだった。
今の夏油は呪術界隈から追われる存在で、子供を保護できるような立場にない。自分を守れるよう呪術の基礎を身に付けさせるのと平行して、公的機関にきちんと保護してもらうにはどうすればいいか図書館やら市役所やらに通い調べていた、そんな時に起きた殺人事件。
信じられなかった……と言うより、信じたくなかった。蔦で繁ったマンションに行ったが人の気配はなく、テントやベッドだけ残っていた。少年の残穢は人混みに溶けて消え、追えなかった。
呆然と『山』に帰ってきた夏油に、リタは肩をすくめて言った。夏油くん、あなた純粋すぎるわ。なんでもかんでも背負ってたら潰れちゃうわよ。
潰れちゃうわよとゆーけど時既にお寿司とはこのことだった。半年ほど前に一度潰れかけた夏油の心の強度はいまだガラスのハート。痛みがあるから輝くとかそんなのは健康な心身が揃ってるから言えるのだ。一度ヒビが入ったせいで割れやすいハートなのに、取扱い注意なのに、虐待から保護したつもりの少年が殺人事件を起こした――夏油が可愛がっている幼児が殺された。
夏油の繊細で脆いハートはその衝撃にボキンバキンと折れてしまった。どのくらい折れたかとゆーと六分の九くらい折れた――つまり折れて曲がっていた。メーカーから問屋を経て店頭に並んだ際の売価みたいな折れ方だ。
リタから連絡を受け『山』に戻ってきたゼロスはガタイの良い青年の頭やら背中やらをよしよし撫でた。かわいそうでちゅね~大変でちたね~と甘く優しい言葉をかけ、ゼロスの望む道へ夏油を導く。
折れ線グラフで隙間風だらけの心につけこみ、ゼロスに心酔させ、魔族のために動くように誘導する。自分のせいだと嘆く未成年に悪魔は囁く――リタ
夏油にとって幸運なのか不運なのか、ゼロスは誰より人の心に精通した魔族だった。二十歳にもならない青年をパペット◯ペットなんてお茶の子さいさい、あっという間劇場。三分で支度できる。
そんなゼロスのもはやオカルト染みた思考誘導のお陰で夏油は復活した……が、ゼロスがオカルトならぬカルト教団の教祖してるなんて夏油青年は知るよしもない。実はマッチポンプだっただなんて知らない方が幸せだろう。
――三十年以上前、甚爾が『山』に入るよりもっと前。ゼロスは宗教を立ち上げた。
きっかけは「負の感情を効率良く収集する方法ってないのかな」とゆー雑談だった。
「人は農産物や畜産物とは違いますからねぇ……」
「そーよねぇ――ん? 畜産?」
リタはチーズのかかったピザトーストを見下ろした。チーズとゆーと日本では牛のチーズがほとんどだけど、アルプスの少女が食べてるのはヤギのチーズ。日本国内ではまだ出回ってないけど羊のチーズだってある。
人で、羊。この二つの単語がリタの記憶を刺激した。
「あっ、思い出した! デミウル◯ス牧場よ!」
とゆーわけでゼロスは羊飼いになり、無知蒙昧な羊を導くよーになった。質の良い家畜を集め、良い餌を与え、収穫する……神族や正義()の魔道師たちがわさわさ居るあっちの世界ではまず不可能な畜産業だが、この世界でなら出来る。
ゼロスの牧畜を止める者はいなかった。
邪魔する者のいない牧場は成功。じわりじわりと増えていく信者はゼロスとリタにとってただの餌――彼らの感情はリタらのご飯、彼らの喜捨はリタらの活動資金。変だと思わなかっただろうか? 御三家はリタから要求があれば衣料品なども用意するが、基本的に物納なのだ。リタは『山』に閉じ込められているのだから現金が必要なわけがないのに、テレビやらビデオやらを買った金は、甚爾に与えられていた小遣いは、どうやって用意されていたのか。
リタは善人ではない――が、悪人でもない。せっせと負の感情を運ぶ働き蟻にご褒美を与えることもある。呪霊による不調を治してやったり、物理的なことはどっかんどっかん魔術で解決してやったりしている。
ゼロスは善悪を知っている――けれどその柵に囚われない。より美味な負の感情を育てるため、
まず、夏油を追おうとする子供を誘導した。こっちに残穢がありますよ。
「羨ましいですよね。あの子供は楽しそうなのに、どうして自分は苦しまないといけないんでしょうね」
そして、
「あの子に成り代わってしまえば良い。あの椅子を取り上げてしまえ」
それからはゼロスが望むまま。
種を蒔いたのがゼロスだと知らない信者がまた一人、増えた。
紙の本にしたいと考えとります。がんばります。
ウ=ス異本という名の厚い本にできますように。