できちゃった婚をした。相手は大学で同じゼミの子……三年のときから付き合ってるミキちゃん。ストレートの長い髪がとっても綺麗で、小さく花がほころぶみたいに微笑むミキちゃんに僕は恋をした。何度もアタックして四年になる前に頷いてもらえて、何度か繋がって――「できちゃった」と言われた。
ゴムをしていても、微少な傷や穴が空いてしまうことがあるから
責任を取る、とミキちゃんの手を握った。ミキちゃんの恋人として、お腹の子の父親として、責任を取ると精一杯の気持ちを伝えた。
お腹の子供が女の子と分かった後、子供の名前はミキちゃんが用意した――津美紀。つみき、かわいい名前だ。早く君に会いたいね。
ミキちゃんの出産に立ち会った時、ミキちゃんは汗をびっしり流して狼のように吠えたり痛いって叫んだり、名前を呼んだりした。
お互い学生だし、うちは父親が借金残して蒸発した母子家庭。東京で働いてる姉ちゃんが仕送りをしてくれてるからどうにかこうにか生活が成り立ってるような貧乏暮らしだ。結婚式は神社で参拝、披露宴なんてできなかった。
ミキちゃんは盛大な式ができなかったって不満そうだったけど、ミキちゃんの家もそんなに余裕がある訳じゃない。
テニスサークルに入ってたミキちゃんは交流が広い。妊娠中は飲酒ができないからって理由で津美紀の出産後、サークルの人たちがレストランを借りてパーティーを開いてくれた。津美紀はミキちゃんの両親が一晩世話をしてくれることになった。ありがたい。
参加者の一人、ブランドの服を着た茶髪の男の名前はシュウタといった。シュウタやシュウタと似た感じの雰囲気の男連中とミキちゃんの距離は仲良さそうで、近かった。
離れた席から、酔ったミキちゃんの大きな笑い声が聞こえた。
しわしわの赤ん坊の期間が過ぎたら、津美紀はミキちゃんそっくりの顔になってきて、かわいかった。将来は美人になるに違いない。赤ん坊って芯がないんだ……だっこしたらぐんにゃり曲がる。壊れそうで怖い。
そんな壊れやすい赤ん坊の感触で、僕は決心を新たにした。ミキちゃんと津美紀を抱えてしっかり立つ大黒柱にならないと。
二人で住み始めた借家に、頻繁にミキちゃんのサークルの仲間が来ているみたいだった。もう就職先は決まっていたけど就職までの間だってお金は飛んでいく。粉ミルクや紙おむつは毎日減っていくものだし、安いものじゃない。
大学の本屋や駅前のコンビニでバイトしながら、卒業までの毎日を過ごしていた。姉ちゃんから届いた結婚出産祝いは
大学を出たら、会社勤めで靴底を削る毎日。ほぼ寝顔か泣いてる顔しか見れてないけど津美紀はかわいい。津美紀を見たら疲れなんて全部吹き飛ぶ。
床に落ちていた洗濯物を拾って洗面所に持っていく。ベランダにはシーツが干してあった。
ミキちゃんも僕もたばこを吸わないのに、ゴミ箱に吸殻があった。誰か来たかいって聞いたけど誰も来てないよって返事。友達が来たんじゃないのなら、この吸殻は誰のだろう。
うちの会社は二年目までの新人はみんな棚卸し要員として休日出勤が課される。九月の末、会社に泊まって棚卸し作業をした。事務のおばちゃんが家から持ってきたいなり寿司はほどよく醤油の風味がして、ありがたやありがたやと皆でおばちゃんを拝みながら食べた。
日曜の昼過ぎに解放されてよたよたと家に帰ったら、玄関に見慣れない男物の靴が三つ。ピカピカに磨き上げられた革靴だ。
うちの借家は駅から遠い。二階建ての家なのに築数十年だから賃料が安くて、津美紀の泣く声で人に迷惑をかけないようにと選んだ。
足音を殺して廊下を歩いた。肉がぶつかり合う音が聞こえていた。――ミキちゃんは。ミキちゃんは僕らの寝室で――茶髪の男たちと絡み合っていた。
男が三人、女はミキちゃんともう一人。僕は家から逃げ出した。
――ミキちゃんの出産に立ち会った時、ミキちゃんは汗をびっしり流して狼のように吠えたり痛いって叫んだり、人の名前を呼んだりした。
ミキちゃん、シュウタって、誰?
――テニスサークルに入ってたミキちゃんは交流が広い。妊娠中は飲酒ができないからって理由で津美紀の出産後、サークルの人たちがレストランを借りてパーティーを開いてくれた。津美紀はミキちゃんの両親が一晩世話をしてくれることになった。ありがたい。
参加者の一人、ブランドの服を着た茶髪の男の名前はシュウタといった。シュウタやシュウタと似た感じの雰囲気の男連中とミキちゃんの距離が……不自然なほど近いように感じられた。
酔ったミキちゃんの大きな笑い声が、耳に障った。
――大学を出たら、会社勤めで靴底を削る毎日。ほぼ寝顔か泣いてる顔しか見れてないけど津美紀はかわいい。津美紀を見たら疲れなんて全部吹き飛ぶ。
床に落ちた洗濯物を拾って洗面所に持っていく。古いベランダには、もう夜も遅いのにシーツが干してあった。
――ミキちゃんも僕もたばこを吸わないのに、ゴミ箱に吸殻。誰か来たかいって聞いたけど誰も来てないよって返事。
友達じゃないならこの吸殻は誰のだろう? 寝室にたばこの臭いが染み付いている気がした。
予感はたくさんあった。あったけど、信じたかったから……見えないふりをしていた。
通りに出て、駅に向かってがむしゃらに走った。無我夢中だったから今自分がどこにいるのかも分からなくなって……古い商店街の一角、電柱に手をついて息を整えた。ベタベタと電柱に貼られた出張ホステスの広告。
商売なら、そういう仕事をしているというのなら受け入れられた……と、思う。姉ちゃんがそうだから――姉ちゃんが高校を中退して働きに出てくれたから僕は大学に通えたんだ。僕はそういう人たちを差別していい立場じゃない。
でもこんなの、こんなのはただ、裏切りじゃないか。
電柱に貼られた広告の中に、探偵事務所のものがあった。浮気、素行調査、その他……今までだって視界に入ってたはずなのに、こういうときに見えるようになるんだ。
食い入るように見つめて電話番号を覚えた。鞄はどこかに落としたから、手元には手帳も何もなかった。
姉ちゃんから貰った金は興信所を雇う金になった。職場で大掃除があるなんて嘘をついて土日をカプセルホテルで過ごし、後日、探偵の報告を受けた。
報告書だというファイルを広げて説明を受けた。ミキちゃんが入っていたテニスサークルはヤリサーだそうだ。ヤリサーって何ですかと聞いたら、探偵の人は「性行為が主目的のサークルです」と言った。ヤリサー、へえ。初めて聞いた。
子供の父親が僕である可能性は低いのではないか、と探偵は言葉を濁した。避妊のためにゴムをしていた僕より、避妊していたとは思えない乱交相手の誰かが父親である確率は高い。
それでも、それを知っても津美紀はかわいい。僕が自立しようと頑張れたのは津美紀がいたからだ。
なのに……興信所に紹介された弁護士の先生が言うには、女に原因のある離婚でも、僕が津美紀の親権を取るのは難しいらしい。実父であるか分からないことも理由の一つだけど、たいていの場合で子供は女親といるべきだと家庭裁判所が判断するそうだ。
離婚したら津美紀を奪われる。離婚しなければ津美紀の健全な成長が乱される。
困ったな、どうしようか。
――数ヶ月後、ミキちゃんが死んだ。死ねばいいのにってずっと思ってたお陰かな? 高架の歩道橋をシュウタと腕を組んで上っていたときに、足を滑らせて、二人絡み合うようにして落ちたらしい。病院についたらミキちゃんの両親がいて、蒼白な顔色で僕を窺っていた。笑っちゃったよ。だってミキちゃんの両親……特に父親だけど、挨拶のとき「お前に娘はやらん!」って怒鳴って僕を殴ったんだ。挨拶はそういうものだと思ってたから黙って殴られたけど……これだからね。
その
血の気が全く引けて白い顔をしながら平身低頭して「うちで津美紀を引き取りましょうか」なんて言ってきたから、何言ってるんだろうと二人の正気を疑った。津美紀は僕の娘だ。こいつらになんてやるものか。
こいつらが育てたミキちゃんが
東京から飛んで帰ってきてくれた姉ちゃんは当然ミキちゃんの浮気なんて事情は知らなかったんだけど、僕の顔を見て「何があったの」と聞いてきた。
姉ちゃんは電話を引いてたり携帯電話を持ってたりしなくて――週に一度か二度、公衆電話からうちに電話をかけてくる。世間様に好まれない水商売だからって僕の結婚のときも津美紀が生まれたときも、うちに帰ってこずにお金だけ送ってきた。ずっと東京に行ったまま何年も会ってなかったのに、姉ちゃんは一目で僕の機嫌が分かるのか。有り難くて嬉しくて……頭が下がった。
詳しいことは話さなかった。津美紀は姉ちゃんの姪、それでいいじゃないか。
東京での姉ちゃんの暮らしについて色々聞いた。僕と同い年の弟分がいて、最近その人が結婚したらしい。十二月末か一月の始めくらいに子供が生まれるそうだ。奥さんの方から弟分さん――トウジさんにアタックしたらしいけど今じゃトウジさんの方が奥さんにベタ惚れで、せっせと奥さんと子供のために巣作りしてるのがかわいいんだと教えてくれた。
お互いにぞっこんな夫婦だから一緒にいて気持ちがいいよと笑った姉ちゃんに、母さんが「あんたは結婚しないの?」と――言った。
姉ちゃんは笑顔のまま「あたしはしないかなぁ」と答えた。
母さんが不審そうに姉ちゃんを見て、僕もなんだか違和感を覚えて姉ちゃんの顔をまじまじ見た。
「おろしちゃったんだ」
どうして、とは聞けなかった。僕に事情があるように、きっと姉ちゃんにも何かがある。
――人を呪わば穴二つという。二人呪ったなら、二人分支払わないといけない。
姉ちゃんに東京を案内して貰おう、観光しようと話して、車を借りて高速に乗った僕らの目の前で車がスリップ。咄嗟にブレーキをかけたけど……無理だ。僕らの乗った車が、相手の車の腹に飛び込んでいくのが分かる。助手席の母さんは膝の上の津美紀を後部座席に投げ、ぎゅうと目を瞑った。
半生を思い出すのって、走馬灯って言うんだったっけ。
マリリンの父親が残していった借金が完済されるらしい。母親と弟が死んだ事故で下りた慰謝料が入れば、すぐ。
「そんな金なくたってさ、あと少しだったんだよ」
慰謝料なんてなくったって完済できた、とマリリンは言った。
すぱすぱと味わうことなく灰にされていくのはマイセンの3ミリじゃなくて10ミリ。
「あの子はあんたと同じ二十三歳で……これからだったのになぁ」
ずっと苦労してきたから、これから幸せになってほしいと思ってたのになぁ。人生ってクソだわマジで。いやんなる。
ままならないにも程があるんじゃないの。酷すぎるっしょ。
マリリンの愚痴を聞きながら甚爾もたばこを取り出した。甚爾は普段たばこを吸わないけど、付き合い程度には吸える。マリリンが欲しがるから甚爾が買うのはいつもマイセンの3ミリだ。
マリリンの隣で一緒にヤンキー座りして、ぷかぷかとたばこをふかす。甚爾はマリリンの家族に会ったことなんて一度もない。だけどマリリンの面倒見の良さとか性根の明るさとかから、どんな人たちだったんだろーかと想像することは出来る。真面目で、人の痛みを理解しようと努めるような善人だったに違いない。
しばらくそーやって過ごして、マリリンは「どっこいせ」と掛け声ひとつ上げて立ち上がった。
「葬式のあいだ津美紀の面倒見てくれてありがとね」
「いえ、津美紀ちゃんはあんまり泣かなくて良い子だったっす。恵と比べりゃ天使っすね」
「でしょ~? それね、弟に似たのよ。あの子も全然泣かない子でさぁ。ほんと泣かないもんだから逆に心配になったから頬っぺたつねったりしてわざと泣かしたこと何回もあるのよね」
「何してるんすか」
だけど残念ながらとゆーべきか、慰謝料での借金完済はできなかった。相手方には支払能力がなく、雲隠れ……つまり夜逃げしてしまったのだ。丁寧なことに家財道具はリサイクルショップに売り払われてて、鍵屋を連れた裁判所の執行官が立ち入りしたら室内はほぼ空の状態だったそーな。
「ライジング・サンって実在したの?」
「お待たせしました、夜逃げ◯本舗ですってそんなまさか」
流石に一晩で逃げたわけじゃあないはず……きっと。
悲しい話、どっかの企業の車と事故起こすのと、個人の車と事故起こすのは、こーゆーオゼゼの面で大きな違いがある。企業は自分とこの社員が仕事中に起こした事故について使用者責任とゆーのを負ってて、被害者が「お前のとこの社員だろ、慰謝料払え!」って言ってきたら慰謝料の全額を支払う義務がある。
使用者責任とゆーのを分かりやすく説明するなら、使用者ってのは凄く獰猛でヤバいワンコの飼い主なのだ。ペットの躾は飼い主の責任だから、ワンコが庭から脱走したり人を噛んだりしないよーに飼い主は躾ないといけない。でもワンコが庭から脱走してそこらへんを歩いてた人を噛んじゃった。「犬のしたことですので……」なんて言ったところでそんな道理は通らないわけで、飼い主は噛まれた人に対し手術費用やら入院費用やら、怪我のせいで働けない分の補填やらをせねばならぬ。
これが使用者責任とゆーやつだ。
じゃあ事故を起こしたやつが責任逃れてウハウハかとゆーと、そうでもない。事故を起こした労働者の帰責性……たとえば会社が無茶苦茶なシフトを組んだせーで三徹目、意識がもうろうとしてて事故を起こしてしまいました、みたいな状態だったら労働者は悪くないから責任が軽い。
会社の車で社外に営業に行って、帰りに一杯ひっかけて飲酒運転したら事故りました、こーゆーのは当然労働者の責任が重い。
労働者は被害者に支払う慰謝料のうち、「労働者本人の責任の重さ」で負担額が減ったり増えたりする。当然のことね。
とまあ長く話したけど、つまり会社の車が加害者ならぬ加害車になったら、被害者は慰謝料全額を手に入れられる可能性が高いのだ。だって会社だもん、夜逃げなんてそんな簡単に出来るものじゃあない。
でも個人が相手で「オゼゼ持ってまちぇん。我が家は破産でしゅ」とか言われると慰謝料を貰えなくなる。その事故で稼ぎ頭が事故死してたとしてみろ、被害者一家は一気に困窮するからホームレス◯学生生活が始まるのだ。全く笑えない話。
マリリンの家族が死んだ事故の加害者は、個人だった。逃げられたらそこでおしまい。
マリリンの母親も弟も遺せたのは骨と日用品だけ。実家って言っても安い賃貸アパートだから、引き払ってしまったら……二度と帰れない場所になる。
葬式から四ヶ月が過ぎたある日、マリリンが甚爾たちの家に来た。あたしさ、田舎に帰ることにしたよ。あっちでスーパーのおばちゃんやって生活するんだ。
実家も東京のアパートもどっちも維持するなんてまあ無理な話。なにせ片方のガスや水道を止めてたとしても毎月数万円かかる。実家か、十数年住んだ東京か天秤にかけて――マリリンは実家の維持を選んだ。借金は先日無事に完済、今の仕事に拘る必要もない。
甚爾にとってマリリンは、東京でできた姉だった。血が繋がった実の兄弟連中なんてドブを煮詰めたよなクズばかりで、師匠は姉とは言い難くて……どっちかってゆーと婆ちゃん的な存在だ。
少し年上の女の人で、甚爾が尊敬してる唯一の人。それがマリリンだから、彼女とここで別れてしまったら――寂しい。お中元とお歳暮を送り合うだけの知り合いになるなんて嫌だ。
甚爾は膝に乗せてた息子を持ち上げた。
「あの、津美紀ちゃんに従弟は要らないっすか」
「へ?」
「盆休みとか年末年始に会って飯食ったり、親戚付き合いっぽいのしたりできるチビが……ここにいるんっすけど」
『山』にはわざわざ盆やら正月やらに帰らなくても問題ない。甚爾は一応対外的には自営業ってことになってるし、どーにでも都合をつけられる。盆と正月以外の時期に『山』へ帰ったらいいのだ。
――恵に従姉ができたと師匠に電話で報告したら、今度連れてこいと言われた。無理言うな。
法律知識に抜けや勘違いがあったらすみません。
出そうな疑問をQ&Aでまとめました。
Q車には強制保険があるのでは? それで慰謝料とか出るはず。
A義務ですが、加入せずに車を乗り回している方は少なからず存在します。
Q生命保険金は……
A相手方が強制保険などをかけていない場合、自分で死亡保険をかけるなどして自衛する必要があります。でも借金返済のためにカツカツの家庭では毎月の保険料を負担するのは厳しく、加入できていない方がいます。
Q逃げられたり破産されたらそれで終わりなの?
Aほぼ終わりと言って良いかと。たとえばですが、金を貸している相手のAさんが破産した場合、Aさんは破産した時点で抱えていた債務(借金など)の履行義務(つまり返済)を逃れます。金を貸していた方からすれば糞みたいに思える制度ですが、負債を抱えてしまった方からすれば地獄に垂らされた蜘蛛の糸のような制度です。
なお、破産とかをせずに「逃亡した人」を地の果てまで追いかけ回すことが可能になる制度の一つが国民総背番号制、つまりマイナンバー制です。
Qおいユウタ!
A1ありふれた名前だからいいなかって()他の候補はタケシでしたがJ( 'ー`)しタケシ……って嘆くのでユウタになりました。乙骨くんとは無関係です……。
A2やっぱり乙骨くんが脳裏によぎるよな、と思い直してユウタ→シュウタに変更しました。