この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
東京の南西部の目黒区に碑文谷という界隈がある。西側を環状七号線が通ってはいるものの、公園あり、学校あり、大使館あり、神社ありの閑静な住宅街だ。大学四年生だった僕が下宿を引き払いこの街に越してきてからもう二年がたつ。
僕はこの街で、幼なじみで婚約者でもあった裕ちゃんと一年くらい一緒に暮らした。「婚約者であった」と過去形で表現したが、婚約は解消されていないのでまだ婚約していると言われればそうともいえる。裕ちゃんは僕と婚約したまま重い病気にかかってしまいちょうど一年前に二十五歳の若さで逝ってしまった。裕ちゃんは歌姫とまで言われた国民的歌手で多くの人がその早世を惜しんだ。僕は今でも裕ちゃんの永遠の婚約者だ。
裕ちゃんが逝ってしまってから、僕は裕ちゃんの父親で大物政治家でもある白石権蔵参議院議員の希望もあり、ここ碑文谷の裕ちゃんの自宅兼スタジオに一人留まって、裕ちゃんが残してきたものを整理する毎日を送っている。それは静かで退屈で、でも僕なりに幸せな毎日だった。
長い冬もようやく終わり、春本番を迎えようとしている三月二十日の午後、その少女は突然、僕の家にやってきた。大きなスーツケースを持ち、黄色のツーピースを着ていた。まるで海外旅行に行くか、そうでなければ家出をしてきたような姿だった。事実それは家出だったのだ。僕はちょうど庭の草花に水をやっているところだった。春の花が咲き始めていた。女の子はまるで春を運んできたような天真爛漫そのままの少女だった。事実春を運んできたのだった。
「ごめんください。白石裕子さんのお宅はこちらでよろしいでしょうか?」
少女は満面の笑みで僕に声をかけた。
「はい。そうですが。」
そう言っても裕ちゃんはもういないのだ。ファンの人かな?と思った。一周忌だし、お線香でも上げに来たのかと思ったのだ。
「失礼ですが、石水啓一さんですか?」
「はい。」
ファンの人ではないようだ。一ファンなら余程オタッキーなファンでも婚約者である僕の存在など知らないはずだ。裕ちゃんは謎の歌姫と言われたほど私生活は謎につつまれていてまだ生きているという都市伝説もあるくらいなのだ。
「あのう、あたし、朝子です。白石裕子の姪の白石朝子です。はじめまして。」
「あっ、姪御さんでしたか。こんにちは。はじめまして。石水です。」
裕ちゃんに歳のそう離れていない姪、正確には幸子さんという七歳年上の姉の娘がいることは知っていた。しかしこんなに大きくなっていることは知らなかった。もちろん初対面だ。
「あのう……お邪魔してもよろしいでしょうか?」
少女は遠慮がちに言った。
「どうぞどうぞ。あがってください。」
そう言って僕は朝子を家の中に案内し、リビングのソファに座らせた。少女は興味深そうに部屋の周りを観察していた。僕はコーヒーを入れた。
「改めましてはじめまして。話は聞いていると思いますが。僕が裕ちゃんの婚約者だった石水です。姪御さんがいるという話は聞いていましたがこんなに大きくなっているとはびっくりしました。今日はお線香でも上げに来てくれたんですか?」
僕はコーヒーをテーブルに置きながら改めてあいさつした。やや間があって
「啓一さん。裕ちゃん……裕子叔母さんから何か聞いてませんか?あたしのこと。」
「いや、別に聞いてないけど。」
そう僕は答えたがそう聞かれてまるで心当たりがないわけではなかった。裕ちゃんには亡くなる直前に、「私の最後の最後の、本当に最後の我がままだと思って聞いて欲しい」と言われていることがあるのだ。それは忘れるはずもないのだが、その約束と目の前の少女はとうてい結びつかず、その瞬間は何も思い出せないでいた。
「変だなあ。まあいいや。じゃああたしが説明します。あたしここの家の人間になりに来たんです。今日からお世話になりますのでよろしくお願いします。」
「はあ?」
僕はあまりにも唐突な展開についていけない。
「中学を卒業したらすぐにここの家に来るように裕ちゃんに言われてるんです。昨日が中学の卒業式で無事卒業できたんで今日、こうしてやってきたんです。あたしはてっきり裕ちゃんが全部話してくれていて啓一さんがあたしのことを待っていてくれてるんだと思ってました。」
「ここの家の人間になるって、ここに居候するっていうの?」
この家は裕ちゃんから受け継いだものだから裕ちゃんの希望であれば下宿人の一人や二人の受け入れは我慢しなければならない。
「やだなあ、そんなことまであたしに言わせるんですかあ?居候じゃないですよ。あたしは啓一さんのお嫁さんになりにきたんですよ。」
思考回路がショートした。確かにこれまでも白石父子、白石権蔵参議院議員と裕ちゃんのコンビには翻弄させられてきた。しかし中学を卒業したばかりの少女が嫁に来るとはありえない話だ。もっともあの父子ならやりかねない話ではあるが。
「裕ちゃんは啓一さんのお嫁さんのことは何も言ってなかったんですか?自分の後継者というか、自分がいなくなったら啓一さんにはどうして欲しいかとか。」
「それは言っていたけど。」
「なんて?」
「お父さん、つまり君のおじいさんである白石権蔵先生の薦める女性と結婚して欲しいってさんざん言われたよ。全財産を譲るからこれだけは聞いて欲しいって。」
事実、裕ちゃんが逝ってしまってから二か月後に裕ちゃんの全財産を僕に相続させる遺言を執行すると言って弁護士がやってきた。
「ああ、じゃあそれあたしです。おじいちゃんも啓一さんとあたしが結婚するのノリノリですから。」
この少女の言っていることと僕の記憶が合致する部分は確かにあった。裕ちゃんは亡くなる寸前に、自分の遺言だと言い「どうか父の薦める相手と結婚して」と言い残して死んでいった。その父の薦める相手が誰になるのか僕には予想がつかなくはなかった。裕ちゃんの七歳年上の姉が高校生のときに地元でも有名な悪ガキと駆け落ちし、双子の女の子を産み、ここ碑文谷からそう遠くないところでラーメン屋さんをやっていることは聞いていた。すなわち、裕ちゃんには僕と十歳ほど齢の離れた姪がいて、裕ちゃん亡き今、権蔵議員がいずれその姪との結婚を薦めてくるであろうことは予想できなくはなかったのだ。ただ早く見積もっても十年後くらいの話と考えていたのだ。中学卒業してすぐ結婚なんていくらなんでも早すぎる。これは何かの間違いだろう。とにかく本人に直接確認してみなければと思った。
「分かった。君の言う通りかもしれない。でも僕にはあまりに急な話でちょっと信じられないから君のおじいさんに確認してもいいかな?」
「それは構わないですけど。」
「ゴメン。ちょっとおじいさんに電話するね。」
「は~い。おじいちゃんもきっと喜ぶと思いま~す。」
この子は本当に天真爛漫そのものだ。ここに来られたのがそんなにうれしいのだろうか。ずっとニコニコしている。僕はリビングの脇にある電話の受話器をとり、ボタンを押した。
「はいっ、白石権蔵の事務所です。」
電話は白石議員の事務所につながりワンコールで権蔵議員の秘書の山崎氏が出た。声で分かった。
「あっ山崎さん。石水です。いつもお世話になります。」
「ああ、石水さん。先日は一周忌お疲れさまでした。」
「ねえ山崎さん。先生と連絡とれますかね?大至急お話がしたいんですが。」
参議院のドンといわれるこの大物政治家はしょっちゅうあちこちを飛び回っていた。
「石水さんもご承知と思いますが、今は年度末でバタバタしています。でも今日は一日、国会にいますから連絡はとれると思いますよ。」
「至急、お会いしたいんですが。プライベートなことなんですがとても大事なことです。緊急です。大至急です。」
「分かりました。確認して後でご連絡差し上げます。ご自宅ですね?」
「そうです。よろしくお願いします。お忙しいところすみません。失礼します。」
電話は切れ、僕は再び少女と向き合った。
「ねえ、朝子さん。」
「『チャコ』でいいですよ。みんなそう呼ぶの。最初はあたしが自分の名前の朝子をどうしても言えなくて『アチャコ』になって、そのうちアが取れて『チャコ』なったの。校長先生もそう呼ぶんですよ。」
「朝子さん。」
「『チャコ』でいいです。」
「君には申し訳ないが、君の言うことはとても信じられないよ。だって中学を卒業したばかりなんでしょ。もちろん裕ちゃんや君のおじいさんが君と僕を結婚させようとするのは理解できない話じゃない。特に権蔵先生はね。でもいくらなんでもまだ早すぎるんじゃないかなあ?君のおじいさんがこんなに早い結婚を望むとは思えないんだけど。」
「ただ家出してきただけって思ってるんですか?あたしはちゃんと裕ちゃんと約束したんです。啓一さんのお嫁さんになるって。」
「でも僕は裕ちゃんからそんなこと聞いてない。」
「それは啓一さんがびっくりしちゃうと思ったからじゃないですか。あたしまだ中学生だったし。……どうすればあたしの言っていること信じてもらえますか?」
「まあ、何か証拠でもあれば。」
「証拠……。じゃあ……」
少女はハンドバックの中をがさごそ探し出した。そしてキーホルダーのようなものを取り出した。事実それはキーホルダーだった。
「例えば、これなんかどうです。」
そう言って少女は僕に二つ鍵のついたキーホルダーを差し出した。
「これは……どうしたの、これ?」
僕はびっくりした。裕ちゃんのキーホルダーだ。一本はこの家の鍵であり、もう一本はクルマの鍵だった。探していたやつだった。こんなところにあったとは、裕ちゃんの遺品からどうしても出てこないはずだ。
「裕ちゃんにもらったんです。『これあげるから。預けるんじゃなくてあげるから。あなたが使う鍵だから』って。」
僕は少女を見た。少女は相変わらずニコニコしている。
「だから本当なんです。すぐにあたしを啓一さんのお嫁さんにしてもらわないと困るんです。裕ちゃんとの約束を守れないんです。」
なるほど、この少女の言っていることは案外本当かもしれないと思ったそのとき、家の電話の着信音が鳴った。
「この曲?」
少女が問いかけたが僕はそれを無視した。
「ゴメン、ちょっと待ってて。」
僕はリビングの脇にある電話に出た。
「はい。」
「もしもし。白石権蔵の秘書の山崎です。」
「ああ、山崎さん。さっきはどうも。で、先生の予定はどうです?」
「はい、なにせ年度末ですからね。でも今日の午後五時頃ですが、一瞬なら議員会館のこの部屋に戻ってきます。」
僕は時計を見た。三時半頃だ。時間がない。
「ありがとうございます。すぐに行きます。では後ほど。」
そう言って僕は受話器を置いた。電話で済む話ではない。時間がない。僕はすぐに永田町に向かうことにした。
「ゴメンね。ちょっと用があって、……君のおじいさんに会ってくる。ここで待っててもらってもいいかな?」
「もちろんです。あたしはずっとここにいるつもりなんですから。」
少女は相変わらずニコニコしている。この家の鍵は持っているわけだし、その鍵は裕ちゃんから渡された鍵である以上、少なくともこの子にはここで留守番する権利はあると思った。
「じゃあお留守番よろしくね。」
そう言って僕は急いで着替え、外に出た。
僕は学芸大学の駅から東急と地下鉄を飛ばした。
色々な思いが頭の中を駆け巡る。そもそも裕ちゃんと僕はただの幼なじみに過ぎなかった。新潟県南西部の日本海に面した街、柏崎に生まれて、同じピアノ教室に通い、同じ学校に通い、僕が学校でおしっこをもらしたときにはパンツも貸してくれた、ただそれだけのことだ。それなのに裕ちゃんには婚約者に仕立て上げられ、父親の権蔵議員には政治家としての後継者にまで祭り上げられてしまっている。僕は自分の運命を自分でコントロールできない歯がゆさを感じた。
そもそも裕ちゃんと僕の婚約は後継者探しに躍起になっていた父親を欺くためのお芝居に過ぎなかったのだ。それなのにこの大物政治家は二人が期待したレベルをはるかに超えて誤解し、裕ちゃんと僕を熱心に結婚させようとした。そんなにも裕ちゃんと僕を結婚させたがっていた権蔵議員のことだから、裕ちゃん亡き今、裕ちゃんの代わりに自分と血のつながった孫を僕と結婚させたいという気持ちは僕も理解できる。そしていずれ行われる衆議院議員選挙に僕を孫娘の婿として出馬させようとしているのだ。しかし、いくらなんでも中学を出たばかりの少女が相手では早すぎるだろう。青少年保護育成条例違反、あるいは児童買春防止法違反とは言わないが、文部科学大臣を務めたこともあるこの政治家は決してこんな押しかけ女房には賛成しないだろう。それが常識というものだし、それくらいの良識は持っているだろう。僕はそれに期待した。
四十分くらいで議員会館に着いた。そこから堅牢なセキュリティーを突破するのにさらに時間がかかり、ようやく目指す参議院議員の部屋に入ることができた。部屋には裕ちゃんの父であり、朝子の祖父である白石権蔵参議院議員と秘書の山崎氏がいた。
「おう啓一君。危なかったぞ。もう出るところだった。どうした?まあ、座りなさい。」
そう言って、この恰幅のいい参議院の大物は僕にソファを薦めた。疲れていた僕はへたれこむようにそこに座った。
「お忙しいところすみません。大事なお話があったものですから。実は今日、お孫さんの朝子さんが大きなスーツケースを持って家に来ました。僕の家の人間になりにきたと言ってます。」
僕は息も絶え絶えに言った。
「おおそうか。朝子の方からもう君の家に行ったのか。それで君と一緒になるって言ってるんだな?」
「はい。そうなんです。」
僕は困った表情を見せた。
「そうか、それは良かった、良かった。」
「えっ、良かった?」
僕は小声で聞き返した。というより僕が少しくらい大きな声を出してもこの巨漢の十分の一くらいの音量にしかならない。
「いやー、実は心配してたんだよ。なんと言っても朝子はまだ中学を出たばかりだからな。どのタイミングで君のところに行けと言ったらいいのか迷っていたんだ。いずれは君と一緒になるように言わなければいけないと思ってはいたが、また幸子のようになると大変だからな。でももう、君と一緒になることを決めてくれたとは私はうれしいぞ。裕子に言われていたんだな。」
(「はあ?」)と僕は思ったが、巨漢は構わずしゃべり続けた。
「で、来月にはもう入籍するのかな?私はねえ、政治家としては成功したけれども後継者にまったく恵まれず、それが不満で、不安だった。幸子には逃げられ、裕子には先立たれてしまった。しかし、君のような有能な後継者を得られたことはどんなに感謝しても感謝しきれるものではない。」
そこまで言うと巨漢は山崎秘書に何か合図をした。
「いや、しかし先生、朝子さんは中学を出たばかりですよ。これから高校に通うのでしょうし、いくらなんでも早すぎるのではないですか?」
「それは心配ない。朝子は保守的な伝統のある私立の女子高に進学するんだ。高校に通いながら主婦業も両立できるし、君の選挙の手伝いもできるだろう。」
「僕の選挙ですか?」
僕はさらに(「はあ?」)という気持ちになった。僕は選挙に出るなどと言ったことは一度もない。僕の知らないところで因果関係がどんどん進行しているのだ。まあ今に始まったことではないが。
「君と朝子が一緒になればこれで選挙も勝利間違いなしだ。そもそも君と裕子の婚約が発表されてから地元の士気は高くなるばっかりでな。白石の娘婿なら絶対に勝てるとみんなもう勝ったつもりでいるよ。相手陣営も白石の娘婿には勝てないとさっさと引退を表明してしまったしな。まあ娘婿が孫娘の婿に変わってしまったわけだが、結果に変わりはない。逆に陣営を引き締めないといかんな。選挙は自信を失うことよりも油断することの方が怖いからな。」
そこまでいうと山崎秘書が封筒を持ってきて、巨漢に渡した。巨漢はその封筒を僕に渡した。
「なんですか?これは?」
「まあ中を見てみたまえ。」
中をチラッと見て僕は驚いた。慶応義塾の創設者、福沢諭吉先生のブロマイドがびっしり詰まっているのだ。百枚、いや二百枚はあるだろうか。
「これは?」
「私から二人へのお祝いだ。まあ、君は裕子の版権を管理しているわけだからそれなりの収入はあるだろうが、結婚生活が始まると何かと物入りだろう。使ってくれ。では私は次の予定があるのでこれで。何か用があればいつでも山崎に言ってくれ。どんな協力でも惜しむつもりはない。それから朝子のこともあるからなかなか地元には帰れないだろうが、朝子の夏休みには必ず柏崎に帰ってくれよ。みんな君のことを待ってるんだからな。」
そう一方的に言うと、僕の言葉には一切耳を貸さず、部屋を出て行こうとした。僕はもう声をかけることができなかった。部屋を出る寸前に巨漢は思い出したように振り向き「月並みだが朝子を幸せにしてやってくれよ。バカな親の元に生まれたかわいそうな娘だ。しかしあの子にはなんの罪もない。子は親を選べないからな。啓一君、私は期待しているぞ。なんと言っても史上最年少の代議士が誕生するんだ。将来の総理大臣候補だ。ハハハハ」と高笑いを残し、消えていった。僕は力なく、部屋を後にした。朝子は校長先生ですら自分のことを「チャコ」と呼ぶと言っていた。少なくともあの巨漢の祖父が朝子にとって校長よりも縁の遠い存在であることは分かった。
僕は碑文谷の街を一人でトボトボと歩いた。外堀がすべて固められてしまったような気がしていた。もう僕が自分の意思で行動できる余地はないのかもしれない。僕は今日、突然家に現れた女性と結婚して、次回の衆議院議員選挙に出馬する、そういう運命に逆らえないのだろう。
彼岸も近付き、日が長くなってきていた。午後六時を過ぎても辺りは明るかった。引越しシーズンなのだろう、家の近くには引越し屋さんのトラックが止まっていた。
「ただいま~。」
僕は普段口にすることない言葉で鍵のかかっていない玄関を開けた。
「お帰りなさ~い。」
ダイニングの方から明るい声がすると、朝子がエプロンをつけたまま僕を出迎えた。スウェットに着替えていてもう新妻気分でいるようだ。
「どうもお疲れさまでした。ご飯できてるからどうぞ。」
そう言って朝子は僕をダイニングにエスコートした。ダイニングに入った僕はテーブルの上を見てびっくりした。とても二人分の夕食とは思えない品数の料理がテーブルに所狭しと並べられていたのである。
「これ、みんな君が作ったの?」
僕がダイニングチェアに腰掛けると朝子も向かいに座り、二人は向き合った。
「そうです。全部、中華になっちゃったけど。あたしはこれでも中華料理屋の娘なんで中華であればなんでも作れるんですよ。本当はラーメンとか餃子の方が得意なんだけど、スープとってる時間はないし、餃子はにおいが気になるといけないから今日は定食系になっちゃいました。」
そういえばお腹が空いていることを思い出した。この子と結婚したら毎日こんなものが食べられるのかなとふと思った。
「ご飯にしませんか?」
「そうだね。お腹は空いているんだ。これ食べてもいいのかな?」
「もちろんですよ。啓一さんのために作ったんですから。あっ、もちろんあたしも食べますけど。」
「ちょっと多すぎない?」
「大丈夫ですよ。ぴったり二人前です。」
そう言って朝子はお茶碗によそったご飯を僕の目の前に置いた。
「じゃあ、いただきます。」
「あたしもいただきまーす。」
久し振りの二人での食事だった。裕ちゃんがいなくなってから食事はいつも一人だったのだ。料理はどれも本当に美味しかった。プロ級というかまさにプロそのものなのだろう。
「おじいちゃんどうでした?」
朝子はいたずらっぽい笑顔で聞いた。
「うん、朝子を幸せにしてやってくれって言ってたよ。」
僕は力なく答えた。
「で、啓一さんはどうなんですか?」
声のトーンがやや落ちた。
「僕よりも君はどうなんだ?君個人は自由なはずだ。君のおじいさんや裕ちゃんが君になんて言ったかは知らないけど、君は君が生きたいように生きるべきなんじゃないかな?」
「あたしは自分の生きたいように生きてます。だから今日、ここに来たんです。啓一さん、何か誤解してませんか?」
「自分の意思だなんて信じられないよ。君のお母さん、幸子さんとお父さんの遼太郎さんが高校生のとき駆け落ちしたことは知ってるよね?」
「ええ、父が札付きの不良だったことやおじいちゃんがとても怒ってることも知ってます。」
「駆け落ちして東京に出て来たはいいけど、若い二人が苦労しないで暮らしていけるほど東京の生活は甘くない。結局、君のお母さんはおじいさんに泣きついて助けてもらったんじゃないか?その助ける条件として君がおじいさんに差し出されたんじゃないのかな?そんなんだったらあまりにも君の人生が可哀想過ぎる。」
実際に権蔵議員ならそのくらいのことは眉一つ動かさずにやってのけるだろう。
「おじいちゃんが啓一さんとあたしを結婚させたがっていることは認めます。裕ちゃんがそれ以上にそれを望んでいることも。でもあたしはそれ以上に啓一さんのお嫁さんになりたいんです。」
「なぜ、そんなことが言えるんだ?今日初めて会ったのに。」
「だって、裕ちゃんがそう言ってたから。啓一さんと結婚したら絶対に幸せになれるって言ったから。」
「えっ?」
「あたし、裕ちゃんにあこがれてたんです。っていうか、ほとんどの女性は裕ちゃんに憧れると思います。政治家の娘に生まれて、お嬢様学校を出て、東大を出て、女子アナになって、それから歌手になって、ヒット曲を飛ばして、最後は歌姫とまで呼ばれるようになった。やりたいことはみんな好きなようにやってきた。でもそんな裕ちゃんが『本当に自分が幸せだったのは啓一さんと一緒に過ごした最後の一年だった』って言ってたんです。だから、あたしはそんな裕ちゃんの言葉が信じられるんです。」
(「そんなことを言ってたのか。」)僕の胸に何か熱いものが込み上げてきた。目頭が熱くなる。
「もし、幸せになれなかったらどうするの?」
「きっと幸せになれますよ。だって裕ちゃん啓一さんのこと『見てくれは今一だけど裏表のない、本当に優しい素敵な人』だって絶賛してたんですもん。絶対にお薦めだって。」
「見てくれは今一つ」は余計だが随分素直な子だ。
「でもそれは裕ちゃんであって君が幸せになれる保証はない。」
「ああ、そのときはそのときですよ。まだ若いし、やり直しきくじゃないですか。十六で結婚して、十年生活して駄目だったとしてもまだ二十六でしょ?まだまだ女性の平均初婚年齢より若いし、人生やり直せるかなあって思って。あたしって何事にも前向きなんです。」
前向きであることはここに来たときから分かっている。僕はどちらかというと後ろ向きかせいぜい現状維持派だ。だからこういう恐ろしく前向きの子は苦手だ。
僕は悩んだ表情を見せた。朝子はお茶碗と箸を置き改まった。
「啓一さん、贅沢は言いません。すぐに結婚していただけなくてもいいです。でもここに置いてもらえないでしょうか?従業員でも、お手伝いさんということでもなんでもいいです。もう家には帰れないんです。」
「家には帰れない?」
「はい。あたし、家出してきたようなもんなんです。おじいちゃんはものすごく乗り気だけど、お父さんとお母さんは快く良く思っていないんです。元々、おじいちゃんとお母さんは仲が悪いんです。」
それはそうだろう。あの親子は家出して勘当した間柄なのだ。
「だからあたしもう帰るところがないんです。今日、ここで断られたら野宿なんです。」
裕ちゃんにもこういう無理な要求を何度もされたことがある。優しい僕はそれをすべて受け入れてきた。自慢ではないが、裕ちゃんの我がままで僕が拒否したことは一つもないのだ。これが彼女の最後の我がままだというのであればそれは受け止めなければならないのかなと思った。
「分かったよ。しばらく居ていいよ。」
「しばらくって、ずっとじゃ駄目なんですか?」
「うーん、あまりにも急すぎるからなあ。僕も心の準備が必要だよ。君だっていきなりこの人と結婚しなさいって言われても戸惑うだろう?」
「分かりました。じゃあとりあえず一か月置いてください。一か月後にまた判断してくださいね。来月末があたしの誕生日なんです。」
「君の誕生日?」
「十六歳になれば結婚できるでしょ?誕生日には入籍したいと思って。」
それも急な話だ。巨漢の参議院議員も確かそんなことを言っていた。でも一か月あれば状況も落ち着いてきて、僕も何が重要で何が重要でないか判断できるようになっているかもしれない。この少女も落ち着きを取り戻し、やっぱり帰ると言い出すかもしれない。
「分かった。とりあげず一か月ね。一か月後にまた考えよう。」
「じゃあ、居ていいんですね。わーい!試験に合格したんだ!」
目の前の少女は万歳してよろこんだ。本当に屈託がない。そのとき「ピンポーン!」と玄関のチャイムがなった。インターホンに出ると、モニターにはキャップをかぶった引越し業者のような人が映っていた。
「はい?」
「すみません、作業終わりました。」
「はあ?作業?」と僕が言い終わらないうちに朝子が割り込んできて「はーい。今、行きまーす」と叫び、外に出て行った。僕は後を追いかけた。
業者のお兄さんは朝子と合流し、裏のガレージの方に向かった。僕は二人の後を追い、ガレージに着くと僕は驚くべきものを目の当たりにした。ガレージに僕のクルマはなく、代わりにおびただしい数のダンボールが積み上げられていた。
「これでいいですね?」
「はい、どうもありがとうございました。お疲れさまでした。」
二人のそんな会話が聞こえた後、業者のお兄さんはトラックに乗り込み、夜の街に消えていった。朝子と僕が取り残された。
「これなんだ?」
「あたしの荷物です。女の子一人の引越しでもこれくらいは出るんですよ。午前中はずっとこの梱包やってたの。一番安いプランしか頼めなかったので荷物運ぶことしかできませんでした。あしたから整理手伝ってもらえます?」
「スーツケース一個で来たんじゃなかったのか。」
「あれは調理道具とかすぐに使うものですよ。」
「僕のクルマは?」
「ごめんなさい。荷物置くところがなかったので駅前の駐車場に移動させてもらいました。さっきのお兄さんに運転してもらったんですよ。あっ、お兄さんにそのお礼言うの忘れちゃった。」
確かにこの少女はクルマの鍵も持っていた。僕の頭は混乱した。ここまできて今更同居を取り消したらさらに混乱するだろう。とにかく、一か月は我慢しよう。一か月の間に整理されるはずだ。そう思った。
「早くご飯食べちゃいましょう。そして今日は早めに寝ましょうね。あしたは妹も手伝いに来ますから、啓一さんもよろしくお願いしますね。」
恐ろしくマイペースな女の子だ。
「ねえ、チャコちゃん。」
「あっチャコって呼んでくれた。うれし~。でも『ちゃん』はいらないですからね。」
チャコは屈託のない笑顔で言った。そしてこの不思議な少女との奇妙な共同生活が始まった。