もうクリスマスが近づいてきて街にジングルベルや第九が流れるようになったある平日の午後、僕は学芸大学駅前の喫茶店で一人の女性を待っていた。チャコと結婚してから妻以外の女性と昼下がりに二人きりで会うのは初めてなのではないだろうか。チャコには今日、僕がここである女性と会うことは話していない。それは「どうか奥さんには内緒に」と相手の女性に懇願されたからだ。つまりこれは密会なのだ。
窓際の席で注文したオレンジジュースを前にしばらく待っていると僕の耳元に誰かが「ふっ」と息を吹きかけた。身震いした。
「わっ、びっくりした。」
僕は思わず声を出した。
「お待たせ!ごめんなさい、急にこんなところに呼び出して。チャコちゃんには気付かれてないよね?」
そう言って都立高校のブレザーの制服を着たチャコと同じ顔の少女は僕の前の席に座った。マコちゃんだ。
「さあね、僕は黙っているけど、マコちゃんおしゃべりだから自分の気付かないうちにマコちゃんが自分からチャコにしゃべってるかもしれないよ。そもそもマコちゃんとチャコは一心同体だろ?お互いに秘密なんて持っていいの?」
僕がそう言ううちにマコちゃんは僕の飲みかけのオレンジジュースに手を伸ばしたかと思うとストローで一すすりし、「いらっしゃいませ」とメニューを持ってきたウェイトレスにそのグラスをかざし、にっこり笑って「これと同じもの」と注文した。マコちゃんはいつもこんな感じだ。
「実はねえ、チャコちゃんもあたしに隠し事してたことあるんだあ。お兄ちゃんのこと。本当にギリギリまであたしにもお母さんにもお父さんにも結婚すること隠してたんだよ。中三の秋になって急に私立に行くって言い出して、そんなお金あるわけないじゃないって思ってたら、今度は結婚するって言い出して本当にびっくりしちゃった。まあチャコちゃんが私立に行ってくれたお陰であたしは都立の普通科に入れたんだけどね。」
まあそういうことなのだろう。中学校時代、学業成績で学年最下位を記録したこともあるこの少女が都立高校の普通科に入れたのはチャコが高校受験を私立自由が丘女子高等学校一本に絞っていて都立高校を受験しなかったことが最大の理由なのだろう。そして受験当日、マコちゃん一人が都立高校の受験に行き、チャコは家か図書館辺りでゴロゴロしていたのだろう。もしチャコも都立高校を受験していたらマコちゃんには厳しい結果になったはずだ。そういうことだ。しかし確かに勉強はできないかもしれないけれどそれはマコちゃんの魅力を少しも減退させるものではない。マコちゃんは明るくて、思いやりがあって、楽しい女の子だ。ただ学習が苦手だというだけのことだ。この世界にマコちゃんが嫌いだという人は一人もいないだろう。
「だからそのときの貸しがあるから少しくらい秘密を持ってもいいの。」
「で話ってなんなの?まあ大方予想はつくけどね。」
「分かる?」
「うん。チャコをわざわざはずすっていうことは裕ちゃんの歌を歌わせろとかそういうことなんでしょ?」
「ピンポーン。よく分かったね。さすがはお兄ちゃん。じゃあいいのかな?」
「そうは言ってないよ。この前も言ったと思うけど、裕ちゃんの歌は裕ちゃんと僕の大切な思い出なんだ。だから軽く『はいどうぞ』とは言えないんだよ。」
「ケチ!」
「それにまだ未整理だというのも事実なんだ。それにそもそもマコちゃんの希望はアイドルとして成功することであって特別裕ちゃんの歌が歌いたいわけではないよね?」
「まあ、裕子叔母さんには悪いけどそういうことかな。あたしが売れるために使わせてもらえればと。」
「じゃあ別に歌でなくてもいいじゃない。むしろマコちゃんは時代劇に出たいとかでしょ?」
「な~んだ。お兄ちゃんあたしよりあたしのこと把握してるね。あたしのマネージャーになる?」
僕自身、秘書を何人もかかえている身なのだがこの少女にとって僕の身の上話などどうでもいいことなのだろう。
「とにかくマコちゃんは僕の大切な妹だからマコちゃんの願いはかなえさせてあげたいとは思ってる。だからちょっと考えさせてよ。」
「了解しました!」
そう言ってマコちゃんは僕に敬礼した。そこにウェイトレスが「お待たせしました」と言ってオレンジジュースを持ってきた。マコちゃんはストローの封筒の片方を破り、封筒がついたままストローを「ふっ」と一吹きした。ストローの封筒が宙をまった。そしてストローをグラスの中にいれ、オレンジジュースを一気飲みした。マコちゃんは「ふう」と大きく深呼吸した。
「お兄ちゃんいつもごめんね。我がままばかり言って。まあかわいい妹を持ってしまった運命には逆らえないと思ってね。じゃああたしこれからレッスンがあるからまたね。今日のことはチャコちゃんには内緒にしてね。」
「マコちゃん忙しそうだけどお店の方は大丈夫なのかな?」
「う~ん、それも気になってはいるんだ。チャコちゃんが手伝いに来てくれると助かるんだけどなあ。でもあたしからは言えないし。じゃああたし急ぐから。ごちそうさま。」
そう言ってマコちゃんは疾風のごとく店を出て行った。風速四十メートルくらいはあっただろうか。
家に帰るとチャコはもう学校から帰っていてリビングのソファに座って僕のことを待っていた。
「ただいま。」
「啓一さん。そこに座って。」
チャコは「おかえりなさい」も言わず静かに言った。僕はチャコに言われるままチャコの前に座った。
「どこに行ってたの?」
夫の不倫をなじる妻の目だ。
「どこって、駅前の喫茶店だけど。」
「誰かと会ってたの?」
「うん。」
「あたしに内緒で?」
「うん。チャコには内緒にしてって言われたもんだから。」
「女の人でしょ?」
「そうだよ。てかそこまで知ってんだから僕が誰と会ってなんの話してきたのかは分かってるんでしょ?」
「うん、分かってる。」
「じゃあなんでそんなにネチネチ聞くの?」
「だってつまんないんだもん。啓一さん正直すぎて。」
おどけた表情になった。今までのは演技だったのだ。
「『ちょっとね』とか言ってはぐらかしてくれればもっと盛り上がるんだけどなあ。これじゃあ昼ドラのヒロインになれないよ。」
「なりたいの?」
「別に昼ドラのヒロインでなくてもいいけどちょっとスリルは欲しいかな。ゾクゾクってするようなね。夫は不倫してるんじゃないかって疑うようなあの興奮。でも啓一さんまじめだからなあ。」
「じゃあ例えば僕がスーパーモデルみたいな人と不倫したらチャコはゾクってするの」
「それはそれで嫌だなあ。まあ啓一さんの不倫相手になるとしたらマコちゃんかせいぜい高倉先生くらいのもんかな。いずれにしろあたしにとっては安全パイだ。」
「もう一人忘れてますよ。」
「えっ、誰だろう?……あっ、柏崎の後援会長さん?」
「違うよ。そこまではいかない。それは僕の許容範囲をはるかに超えてる。」
「じゃああたしの知らない人?」
「とてもよく知っている人。」
「裕ちゃんじゃないよね?」
「うん。」
「誰?」
「幸子さん。」
「ああ、そうか。あたしと啓一さんは九歳も離れてるけど、お母さんと啓一さんは九歳しか離れてないんだ。不思議だね。同じ九歳なのに。」
「で、僕が幸子さんと不倫関係になったらチャコはどうするの?」
「う~ん、複雑だなあ。お母さんと啓一さんが仲好しになるのはうれしいんだけどね。でもお母さん、あたしより裕ちゃんに血が近いからやはり強力なライバルか。でも啓一さんとお母さんの間に子どもが生まれて、あたしとの間にも子どもが生まれた場合、二人の子どもの関係はどうなるんだろう?」
「おいおいそこまでいくのかよ。」
「だってお母さんまだ三十四だよ。初婚だっておかしくない年齢だよ。」
「まあそうだけど、なんでこんな話になったんだろう。」
「そうだね。でマコちゃんどうだった?」
「マコちゃんに会ったのは知ってるのね。」
「うん。お兄ちゃんに直接相談するって言ってたから。」
「チャコちゃんには内緒にしてって言われたよ。」
「で、啓一さんはどうなの?裕ちゃんの歌を歌わせてあげるの?」
「今のマコちゃんには無理だよ。ピアノを長年やってた裕ちゃんですらデビューしたのは二十三のときだよ。まだ十六歳で歌といえばカラオケくらいしかやったことのないマコちゃんには歌いこなせないよ。もちろん白石裕子の姪ということを出せばマスコミには乗るかもしれないけど実力が伴わなければファンは最後までついてこない。結局、マコちゃんが傷つくだけさ。」
「そっか、啓一さんそこまでマコちゃんのこと考えてるんだ。やっぱり優しいなあ。」
「マコちゃんとしては有名になれればいいのだからせめてアイドルチームのフロントで歌えるようになればまあ満足してもらえるのかなあと今は考えてる。その辺が落としどころかな。マコちゃんの希望と実力のね。」
「なるほどね。」
「あるいは実力のある歌手を連れてきてユニットにするという手もあるけどね。マコちゃんのいるチームにそういう人がいればいいけど。……それと、マコちゃんお店のこと心配してたよ。最近、レッスンとかで忙しいんだって。チャコちゃんが手伝いに来てくれるといいんだけどって言ってた。」
「そうか。あたしも気にはなってるんだ。」
「マコちゃん、自分からは言えないって言ってたから時間があるときに、今日でもいいんだけど、お店のぞいてきてあげたら。」
「ほいほ~い。そうします。ところで不倫といえば、あたしも話すことがあるんだあ。」
「チャコも不倫してるの?」
「『も』ってことはないでしょ?啓一さんのは不倫ごっこですらないんだから。あたしは不倫ごっこのレベルには達するかな。デートに誘われてんの。」
「ほう。女子高なのにいい話だね。」
「やかないの?」
「うん、やかないの。」
「自信あるんだね。」
「そうだね。チャコが僕の方、向いているのは分かるから。デート行くならどうぞっていう感じかな。どういうきっかけなの?」
「きっかけはマコちゃんかなあ。マコちゃんのファンの人みたい。自由が丘の駅で『白石真子さんですか』って声かけられて、『似てるんですけど違います』って言って、その場は終わったんだけどしばらくして恵子ちゃん、文化祭で会ったと思うんだけど、その恵子ちゃん経由でつたないラブレターが来たの。ああ、青春だって思っちゃった。」
「うれしかった?」
「うん、もう人妻だし、ラブレターなんて縁がないと思ってたから。」
「なんで恵子ちゃん経由なの?」
「なんでもその彼氏、恵子ちゃんの塾だか中学だかのお友達のお友達なんだって。で、自由が丘女子の制服着てるってことで恵子ちゃんがキューピットに指名されたってわけ。」
「で、デートに応じて純情な少年の心をもて遊ぶ人妻を演じるわけだ。」
「あたしはそこまでひどくないよ。まあそれもないとは言わないけど、これは人助けだよ。」
「人助け?」
「うん。実は恵子ちゃん、その彼氏の仲介役になったお友達のこと好きなんだって。で、こんなチャンスは二度とないってことになって、説得されて、今度の土曜日にダブルデートすることになったってわけ。それであたしとしてはキューピット役の二人に逆キューピットを仕掛けてやろうかなってたくらんでるの。だから人助けなの。」
「恵子ちゃんはチャコのことなんて説明してるの?」
「彼氏はいないって言ってるんだって。まあ、嘘はついてないよね。彼氏のいない寂しい女なんだから。だから今度の土曜日少しお出かけしてきますけどいいかな?」
「まあいいですよ。チャコには悪意はないようだし。でも純情な少年の心をひどく傷つけないでね。」
「ああ、それは分かってる。最後にはタネ明かしするつもりだから。だから啓一さんも今度の土曜日はお母さんとデートでもしてくれば。お母さんもたまには若い男と遊びたいでしょうし。実はね、学校で友達から第九のチケットもらったの。行けなくなっちゃったからご夫婦でどうぞって。今度の土曜日で場所は渋谷かな?あたしはそういうことで予定が入っちゃったから啓一さんとお母さんで行ってきなよ。お母さんにはあたしから話しとくから。」
「確かに幸子さんとゆっくりお話したくはあるんだよね。柏崎のこととか権蔵先生のこととか、もちろんチャコのことも。」
「それと裕ちゃんのこともでしょ?」
「うん。」
「じゃあ決まりだね。これから実家に行ってお母さんに話してくるね。それからちょっとお店も手伝ってくる。いいでしょ?」
「うん。いいけどお母さん出かけるとしてお父さん一人でお店大丈夫かなあ?」
「いいよ。いっつもお母さんに甘えてばっかりなんだから。若い男と不倫されても文句は言えないよ。あーあ、啓一さんの爪のあかを煎じてお父さんに飲ませてやりたい。」
「不倫じゃないんだけどなあ。で、チャコ達はどこに行くの?今度の土曜日。」
「う~ん、よく聞いてなかったけど何かのコンサートって言ってた。恵子ちゃんの趣味だからロックかなんかかな。そこに行って、音楽聴いて、何か美味しいものでも食べてツーショットになるんじゃないかな。どうしよう。それからホテルにでも誘われたら。」
「まあなんでもいいけど厳しい自由が丘女子高等学校の校則に違反するようなことはやめてね。」
「その点は大丈夫。恵子ちゃんもちゃんと制服着てきますからね。」
チャコの通う高校の校則には学校外でも常に制服を着用しなければならないということが決められていて休みの日のデートでももちろん制服を着て行かなければならない。
ということで次の土曜日の午後、チャコと僕は一緒に家を出て、学芸大学の駅の改札で僕はチャコを見送った。そして僕はこの前マコちゃんと密会した喫茶店の同じ席で幸子さんが来るのを待った。
幸子さんとは結婚後もまともに会話をしていない。話したいことはいっぱいあるのだ。特に裕ちゃんの最期、裕ちゃんは僕の手をずっと握っていた。そういう話を実の姉である幸子さんには聞いてもらいたかった。
しばらく待っていると僕の耳元に誰かが「ふっ」と息を吹きかけた。身震いした。振り返るとさらに僕はびっくりした。サングラスとマスクをつけた顔がそこにあったのだ。
「ごめんなさい。またびっくりさせちゃった?」
そう言うと顔の主は僕の前に座りサングラスとマスクを取った。またマコちゃんだ。
「なんでサングラスなんてしてんの?」
「芸能人はプライバシーの保護が大変なのよ。あれっ?お兄ちゃん一人?チャコちゃんは?」
「チャコは別件があって出かけたよ。」
「ねえ、お兄ちゃん、まさかお母さんと二人で会うつもりだったの?信じられない。妻の母親に手を出すなんて。まあお母さんはまだ若いし、年の割には綺麗かもしれないけど。」
「まあそう言うなよ。これはチャコが仕組んだことなんだから。」
「チャコちゃんが自ら不倫をお勧めしたって言うの?」
「だから別に不倫じゃないんだよ。チャコが第九演奏会のチケットを持ってて僕と一緒に行くつもりだったんだけど、チャコの方に別件が入っちゃったんだよ。で、自分の代わりに誰か適当な人ということで幸子さんを指名したんだ。」
「チャコちゃんが?」
「うん。幸子さんと僕ってあまりお話したことないじゃない。だからそういう機会を作ろうとしたんだよ。」
「なーんだ。チャコちゃんが絡んでるのか。あたし、この二人何やってるんだろうってびっくりしちゃった。でもお父さんには内緒なんでしょ?」
「さあ、僕はそこまでは知らない。で、なんでマコちゃんが来たの?」
「お母さんに『チャコに言われてるけどあなた行ってきて』って言われたの。あたしてっきりチャコちゃんもいるんだと思ってた。」
「今日はレッスンないの?」
「予定はあったんだけど先生の都合で急に中止になっちゃったの。だからちょうど暇だったんであたし的には良かったよ。」
「そう。僕と二人になっちゃったけどクラッシックのコンサートなんて行く?」
「う~ん、まあいいよ。あたしクラッシックはそんなに好きじゃないけど第九は好きだから。それにお兄ちゃんとデートなんて久しぶりだし、これも何かの縁でしょ。今日はチャコちゃん現れないみたいだからお兄ちゃんも安心でしょ。この前は美味しいうなぎ食べはぐっちゃったし。」
(「結局、金づるか」)と思ったが抵抗しても仕方ないのでこのできの悪い妹に付き合うことにした。東急で渋谷に移動した。
渋谷駅から会場までは徒歩十分くらいで渋谷の坂道をマコちゃんと僕は登っていった。いつもはセーラー服を着ているはずの傍らにいる女の子が今日は私服なので妙な気分だった。前回、渋谷に二人で来たときは、マコちゃんはチャコ役だった。今日はマコちゃんその人だ。
会場に着くと後ろの方の席に並んで座った。席は指定席だった。僕は今度こそは眠らないように心に誓った。今日はさすがにチャコは出てこないだろうと思っていたそのとき「ねえ、お兄ちゃんあそこ見てよ」とマコちゃんが前の方を指さしたので見てみるとそこにはセーラー服姿のチャコと恵子ちゃん、そして高校生風の男子二人が並んで座っていた。僕はあまりの偶然にびっくりしたが考えてみればそれほどびっくりすることではなかったのかもしれない。要はチャコの通っている高校の中でこの演奏会のチケットがぐるぐると回っていたのだろう。
「へえ、こんな偶然あるんだ。お兄ちゃん知ってた?」
「ううん。僕もびっくりしているところ。」
「チャコちゃん今日は健全なグループ交際だったんだね。」
「いや、健全なグループ交際じゃなくてダブルデートなんだって。」
「えっ!お兄ちゃんそれを認めたの?本当にこの夫婦はわかんないなあ。」
「なんでもデートに誘われたのはチャコの方だそうなんだけど、チャコとしてはキューピット役の男女二人をくっつけたいんだって。それでまあいいかなと。チャコも最後はタネ明かしするって言ってたし。」
「そう。まあいいや。ごめん。ちょっとあたしトイレに行ってくるね。」
そう言うとマコちゃんはサングラスをかけ、マスクをして席を外した。
しばらくするとマコちゃんが戻ってきた、と思ったら戻ってきたのはマコちゃんではなかった。マコちゃんと姿かたちはそっくりの別の生命体だった。マスクとサングラスはそのままだ。
「いや~啓一さん奇遇だね。こんなところで会うなんて。しかもお母さんと一緒じゃないなんて二度びっくりだわ。」
サングラスとマスクをはずしながらその生命体が声を出す。
「こっちの方こそびっくりだよ。デートはいいのかよ。どうなってるんだ?」
「いやあ、あたしにはあの少年は無理だわ。とてつもなくオタッキーだった。マコちゃんのファンってあんな子しかいないのかなあ。さっきからアニメとか特撮とかそんな話ばっかり。恵子ちゃんともう一人のイケメン君は二人の世界に入っちゃうし、啓一さん助けに来てくれないかなあと思ったらホントに助けに来てくれたんで三度びっくりだわ。ねえ啓一さん。あたしが間違ってました。他の男にうつつをぬかすもんじゃありませんでした。あたしにはやっぱりあなたしかいないということがよく分かりました。こんな愚かな女をどうか許してください。」
チャコはおどけた口調で言った。
「で、マコちゃんは?」
「服を交換して今、チャコちゃんをやってるよ。『啓一さんに裕ちゃんの歌を歌えるようあたしからも言っとくから』って言ったら二つ返事でOKした。まあマコちゃんなら時代劇ネタであの少年と渡り合えると思ったしね。でもどうしてお母さんじゃなかったの?」
「さあ?幸子さんギリギリのところで遠慮したんじゃないかな?マコちゃんも今日たまたまオフだったみたいだし。僕も待ち合わせに来たのがマコちゃんだったんでびっくりしたところだった。」
「そうか。お母さんと啓一さんをデートさせられなかったのは残念だったけどとにかくあたしは助かった。ああ、あたしは今、マコちゃんだ。ねえお兄ちゃん。コンサート終わったらホテル行って不倫ごっこでもしない?たまにはマコちゃんの方が萌えるでしょ?」
チャコがそう言ううちにブザーが鳴り、場内が暗くなり、ソリストが入場し、指揮者が入場して演奏会は始まった。演奏会が始まると途端にマコちゃん役のチャコは眠りにつき、演奏会が終わるまで目が覚めることはなかった。「チャコちゃんと一緒のときはどんなにつまらない映画でも絶対に寝ちゃ駄目だからね」とこの少女が言っていたのを思い出した。
七十三分くらいが経過し、演奏会は無事終了した。マコちゃん役のチャコと僕はそれから渋谷駅までブラブラと引き返し、駅前でとんこつラーメンを食べて替え玉もして学芸大学の駅前まで戻ってきた。マコちゃんとはさっき僕が待ち合わせをした喫茶店で待ち合わせをしているという。それで自由が丘女子高等学校の制服を着たチャコ役のマコちゃんが現れてチャコとマコちゃんが元に戻れば土曜日は平和なうちに終了する……はずであった。
チャコと僕は先に喫茶店に入り、ケーキセットをつつきながらマコちゃんの到着を待った。しばらくするとチャコ役のマコちゃんが現れた。
「お待たせ~。一応、今はあたしがチャコちゃんだからこっちに座るね。」
そう言って制服を着たマコちゃんは僕の隣に座り、僕の目の前に置いてある食べかけのケーキののった皿を左手で引き寄せ、右手でフォークをつかむといきなりパクついた。つまりそのマコちゃんはそういう奴だ。
「マコちゃんありがとう~。で、うまく行った?」
「まあね。第九が終わってすぐに恵子ちゃんたちとはバイバイしてツーショットになったの。それであたしとアキバ少年は代々木公園の方向に少し歩いてすぐに告白タイム。実は人妻ですって言ったよ。」
「びっくりしてたでしょ。あたしも見てみたかったな。」
「『冗談でしょ?』っていうからチャコちゃんから預かった健康保険証を見せたの。保険証の続柄と生年月日を見てアキバ少年はまたびっくり。それでデートに応じたのは恵子ちゃんとイケメン君をくっつけたかったからだって言って、お付き合いはできないけど告白してくれたのはうれしかったって言って、あたしの代わりにあたしに似たアイドルがいるからその子を一生懸命応援してねって言ってすべて終了した。」
最後にちゃっかり自分の宣伝までするとはさすがはマコちゃんだ。マコちゃんはからになったお皿をテーブルに置き、今度はチャコの目の前にある食べかけのケーキののった皿を手に取り、ケーキにパクついた。マコちゃんはそういう奴だ。
「あ~良かった。やっぱりマコちゃんにまかせて正解だった。やれやれだ。」
チャコがホッとした。
「ちっとも良くないよ。」
マコちゃんの声のトーンが変わった。
「ねえ、チャコちゃん。あたし今、すんごく怒ってるんだけどなんでだか分かるよね?」
口調は優しいが怒りが伝わってくる。
「はい。なんとなく分かります。」
マコちゃんに丁寧語を使うチャコを見るのは初めてだ。
「ねえ、お兄ちゃん聞いてよ。チャコちゃんひどいんだよ。あのイケメンの方が彼氏だよって言ったんだよ。で、あたしホイホイ引き受けたらイケメン君は恵子ちゃんと既にラブラブじゃない。であたしはアキバ系を押し付けられたの。信じらんない。」
「いやいや、あたしはあのアキバ系の方がイケメンと思ったんだよ。まあこれは見解の相違というか趣味の違いかな?」
チャコが言い訳する。
「言い訳なんて聞きたくないよ。チャコちゃんがあたしの男子の好み知らないわけないでしょ?それであたしはまんまとチャコちゃんに騙されたってわけ。チャコちゃんどうしてくれるの?落とし前はつけてもらうからね。」
マコちゃんは本当に怖い。僕の方もビビッてきた。
「だからマコちゃんが裕ちゃんの歌を歌えるように啓一さんを説得するって。」
「そんな空手形には引っかかりませんよ~。あたし本当に怒ってるんだから。」
「ねえ、どうすれば許してくれる?」
「う~ん、…もうしばらくあたしがチャコちゃんをやるね。いいでしょあしたは日曜日だし。」
「えっ?」
「で、チャコちゃんはマコちゃんとしておうちに帰ってお店を手伝ってね。あたしはこれからお兄ちゃんと美味しいものでも食べに行くから。うなぎでも食べに行こうかなあ。」
それはそれで僕にとっては驚愕の展開だ。この天使の顔をした悪魔と僕は二晩を共にしたことがあるがそのときこの悪魔はインフルエンザで動けなかった。でも今はお元気そのものなのだ。
「ねえ、マコちゃん啓一さんを連れてっちゃうの?」
「あたしは今、チャコちゃんなんだからもれなくお兄ちゃんがついてくるのは当たり前でしょ。いいでしょ。そもそもはチャコちゃんが不倫ごっこなんかするのがいけないんだから。自業自得だね。」
「マコちゃん、啓一さんを連れて行くことだけは勘弁してください。あたし、もうこの人なしでは生きてはいかれない女になってしまったんです。」
まるで昼ドラのヒロインみたいだ。これってチャコのやりたかったことじゃなかったのか?
「うん、まあいいよ。どうせあしたは朝からレッスンだしあしたの朝までには元に戻ってあげる。でもそれまでは実家に帰って反省してなさい。さあ、もう行っていいよ。後はあたしとお兄ちゃんで楽しくやるから。」
「はーい。」
チャコは力なく言うと席を立ったので僕もびっくりした。
「ねえ、チャコ。本当に行っちゃうの?」
「しょうがないよ。不倫ごっこなんてしたあたしが馬鹿だったんだから。啓一さん、お願いだから一線だけは越えないでね。じゃあね。」
そう言うとチャコはジングルベルの鳴り響く師走の雑踏の中に消えていった。