ゴールデンゴールデンウィークが終わるとチャコの通う高校では個人面談が始まった。入籍してからは一応、僕がチャコの保護者となってしまったのでチャコの個人面談も僕が対応することになる。もちろん僕にとって初めての経験だし、妻の高校の個人面談に夫が出て行かなければならないというのも通常はないだろう。チャコは僕が初めて学校に来るというので朝からはしゃいでいた。
「今日、個人面談よろしくね~。楽しみだなあ。」
朝食のトーストをほおばりながらチャコはうれしそうだった。
「チャコが楽しみなのか?」
「うん。だって啓一さんあたしの学校に来てくれるんでしょ?それだけでもうれしいや。それに今までは個人面談ってお母さんが行ってたでしょ。帰ってきたら絶対に怒られたし。啓一さんなら何があっても優しく受け止めてくれそうだし。」
「もう何かしでかしてるのか?」
「さあね。それはお楽しみに。お楽しみと言えば担任の高倉先生、すごい美人だからお楽しみにね。あ~嫉妬しちゃうな。先生と密室で二人きりになっちゃうなんて。」
「そういう問題じゃないだろう?」
「じゃあ、面談の報告、楽しみにしてま~す。」
チャコは明るくそう言うと僕の作った「愛夫弁当」を鞄に入れて「行ってきま~す」と出かけていった。
個人面談は午後二時からだったのでチャコの帰りを待たずに僕は出かけた。そして初めて保守系のお嬢様学校、自由が丘女子高等学校の門をくぐった。伝統のある学校のようでキャンパスの中は尊厳な雰囲気に包まれていた。緑の多いそのキャンパスは新緑の季節を迎え、気持ちのいい空気が流れていた。僕は一年の中の一番いいタイミングでこのキャンパスを訪問したようだった。
校舎も立派だった。中に入ると正面で創立者の銅像が出迎えてくれた。僕は創立者に一礼するとチャコの教室に向かった。教室の中では前の順番の人が面談を受けていた。僕はしばらく教室の外で待ち、時間が来て僕と代わった。僕はドアをノックして教室の中に入り、勧められるままに着席した。
僕は入学式にも保護者会にも出ていなかったので担任の先生に会うのは初めてだった。担任は高倉という女の先生で年齢は三十二、三くらい、指輪はしていなかったので恐らく独身だろう。というより誰が見ても独身ですというくらい全身から独身オーラが出ていた。めがねをかけていて完全貞操といった感じだ。美人か?と言われれば美人の世間相場はこんなものなのかもしれない。ただ僕の趣味ではないというだけのことだ。
「はじめまして。担任の高倉です。どうぞよろしくお願いします。」
「朝子の夫です。いつもお世話になっています。よろしくお願い致します。」
僕達は座ったまま初対面のあいさつをした。
「さて、朝子さんが我が校で異色の存在であることはご理解いただいていますね。あの若さでもう結婚されているのですから。」
「まあそれはそうでしょう。色々とご迷惑をおかけしてると思います。」
チャコは入試のときに既に入学後すぐに結婚することを表明していて、チャコの結婚は学園の了解事項だった。
「まあ学業と主婦業は別物ですからね。学園としてはなるべく特別扱いはしないように、ほかの子と同じように対応させていただきます。その点はご承知おきください。」
「はい。よろしくお願い致します。」
「ご主人さんは、お仕事は何をされているのですか?」
「まあ会社役員です。会社役員というのも大げさですが小さい会社をやっています。自営といった方がふさわしいかもしれません。」
僕は裕ちゃんの版権を管理する会社の役員をしている。本社は色々なしがらみから柏崎にあり、代表者は白石権蔵参議院議員ということになっているが僕も役員だし、事実上僕が一人でやっているので嘘はついていない。
「みなさん、小さい会社とおっしゃるんですけど結構大きい会社だったりするんですよね。まあプライベートなことはあまりお聞きしないようにしましょう。さて、朝子さんいかがですか?」
「はあ、まじめにちゃんとやっていると思いますが。朝苦手なのがタマに傷です。」
そもそも僕はチャコの学園生活をよく知らない。チャコもあまり話したがらない。
「そうですか。学校のことはあまりお話にならないのですね?」
「はい。まあ僕の前ではあくまでも妻ですから子供のような役割は押さえているのかもしれません。」
「ところで我が校の校則が厳しいのはご存知ですね?」
随分唐突に話題が変わった。
「はあ、保守的な伝統のある名門校ですから。だから妻のような生徒も受け入れてくださっているのでしょう。」
「ええ、当校は良妻賢母を育てることを教育目標にしていますからね。校則は厳しいです。そして校則を破った場合にどのようなルールが適用されるかはご存知ですね?入学式にお配りしたプリントにも記載されていたのですが。」
記載されているのかもしれないが僕は入学式に出ていないので読んでいない。
「いや、申し訳ありません。承知しておりません。入学式には僕ではなく朝子の両親が出席したものですから。」
「それではご説明しましょう。当校では伝統的に校則に違反した生徒は即、処分という方針で自宅謹慎や停学、ひどいときには退学にしていたんですが、いきなり処分というのも厳しいのではないかという声が大きくなりまして、当校もやはり教育機関ですから教育的温情を与えようとイエローカード、レッドカードというサッカーのようなルールを採用したんです。」
「はあ。」
「すなわち、初めて校則を破った場合には一枚目のイエローカードを渡して注意するにとどめる。もう一度校則を破った場合には二枚目のイエローカードを渡して警告する。そしてさらに校則を破った場合にはレッドカードを渡して処分の対象にするというルールになったんです。」
僕は嫌な予感がした。
「まさか朝子はもうそのイエローカードを一枚いただいているというのではないでしょうね?」
「二枚ですよ二枚。朝子さんはまだゴールデンウィークがあけたばかりだというのに二枚もイエローカードを手にしてしまったんです。学園のレコードをかなり大幅に更新してしまいました。もう永久に破られることはないでしょう。」
ようやく唐突な話題転換の文脈がつながった。僕はひどく落胆した。
「一体、何をやったんですか?」
「朝子さんから何も聞いてないのですね?まあ何をしたかはご本人から直接聞いてください。そして厳格にご指導願います。後は特に学園生活で問題はありません。何事も積極的にこなす子ですから。」
「はあ。」
僕がひどく落胆しているのを見てさすがにまずいと思ったのか、高倉女史は付け加えた。
「白石さん、私は別に朝子さんが悪い生徒だとは思っていません。明るいし、頭もいいし、クラスのみんなの人気者です。あんなに積極的な子は見たことがありません。ただ、我が校の校風には合わないということです。」
それは僕にも異論はない。この学校が一番受け入れたくないタイプの女の子だろう。
「とにかくご主人さんの方も注意しておいてください。私は親と違って夫というのは甘くなってしまうのではないかと懸念しています。優しくするのは結構ですが、結局、本人のためになりませんからね。特に注意していただきたいのはイソウです。」
「はあ、イソウですか?」
「異なる衣装の装で異装です。我が校の校則にはプライベートでも休日でも外出するときには必ず制服を着用しなければならないという決まりがあります。二十四時間、本校の生徒であることを意識して欲しいからです。それこそ近所にはがきを一枚出しに行くにも制服を着て行っていただきます。この決まりが守れない子が多いので気をつけてください。」
それなら僕も知っている。だからチャコはどこに出かけるにも必ず制服を着ていくのだ。
「とにかく今度、校則に違反したらレッドカード、悪ければ退学になります。ご注意ください。」
「でもお言葉を返すようですが違う服装をしたくらいで退学というのも厳しすぎるんじゃないですか?」
「朝子さんはもうイエローカードが二枚出ているんですよ。まだ一年生の一学期のしかも中間テストの前だというのに。」
僕は返す言葉を見つけられなかった。
「分かりました。気を付けます。……他には何かありますでしょうか?」
「では二点ほど。一つ目は水泳です。」
「水泳?」
「はい。当校には生徒皆泳という伝統があって、全員、一年生の夏までに二十五メートル以上泳げるようにならないといけないんです。朝子さん、個人記録カードの苦手項目に水泳と書いてあったのでそれを心配しています。」
「泳げないとどうなるんですか?」
「大丈夫ですよ。みっちり補講しますから。全員、泳げるようになって卒業していきます。」
「はあ。」
「もう一つはこれは申し上げにくいんですけど、赤ちゃんです。」
「赤ちゃん?」
そんなことは考えたこともなかった。
「はい。妊娠だけは考えて欲しいんです。もちろんとてもプライベートなことですから学校の方で強制する問題ではありません。ただ学業に大きく影響しますので注意していただきたいんです。できれば卒業まで待っていただけるといいのですが。クラスのみんなと一緒に卒業させてやりたいですから。」
「はい。」
「でももちろんいざそうなったときには学校としては全面的にバックアップしますわ。なんと言っても当校の建学の精神は良妻賢母の養成ですから。」
「分かりました。」
「以上ですが何か他にございますか?」
「いいえ特にありません。いつもご迷惑をおかけします。朝子のことよろしくお願いします。失礼します。」
「今日はお時間をいただきありがとうございました。」
そういうと高倉女史は席を立ち、深々と頭を下げた。その立ち居振る舞いはさすがお嬢様学校である。僕はイエローカードのことではずかしかったのでできるだけ早くその場を離れた。確かにチャコが僕の家に来てからとてもあわただしかったので学校のことはあまり見てやれていなかった。少し反省した。
僕が家に帰ると、チャコはもう帰っていて、僕の帰宅時間を大体予想していたのか、お茶の用意をして待っていた。個人面談のことはチャコも大きな関心事だったようで、僕達はダイニングでコーヒーを挟んで向き合った。
「お疲れさまでした。どうだった?」
「色々言われたよ。」
チャコがとてもニコニコしているのでイエローカードのことは切り出しにくい。
「ねえ、高倉先生どうだった?」
「どうって?」
「美人でしょ?」
「そうかな。そうでもなかったよ。」
「めがね外すと美人だよ。啓一さんのタイプでしょ。」
いきなり変なことを言い出すので僕はドキッとした。
「そんなことないよ。」
「そうかなあ。啓一さん年上の人が好きだから。」
それで僕はハッと思った。
「裕ちゃんのこと?」
「ねえ、高倉先生って髪型とかメイクとか服装とか、絶対、裕ちゃん意識してるよね。似てると思わない?」
裕ちゃんは歌姫と言われた国民的歌手だったから裕ちゃんの影響を受けた女性が一人や二人いてもおかしくはない。十万人いてもおかしくないだろう。
「ねえ、チャコって結構嫉妬深い方?」
「どうだろう?でも女って多かれ少なかれ嫉妬深いと思うよ。」
「それはそうと僕が今日、先生から何を言われたか分かるね?」
「うん、イエローカードのことでしょ?」
チャコはケロッとしている。怒る気力も出ない。
「何やったの?先生は本人に直接聞けって言ってた。」
「お弁当の時間でもないのに休み時間に焼きそばパン食べた。」
チャコは本当に屈託がない。
「どうして?」
「だってチャコちゃんお腹空いちゃったんだもん。そしたら鞄の中に焼きそばパンが入ってたの。あたし奇跡ってあるんだなあって思っちゃった。」
「もう一枚は?」
「それはね、たまたまあたしの鞄の中に芸能雑誌が入ってるのが見つかっちゃったんだなあ。」
「なんで雑誌なんて持ってたの?校則に違反するのは分かってたんだろ?」
「う~ん、それも偶然なんだな。朝、通学途中でたまたまマコちゃんに会っちゃって、あたしが貸してた雑誌を今返すって言うからそのまま鞄に。」
校則が厳しすぎるだけでチャコには悪意はないようではあった。こんな厳しい高校に通わなければならないチャコに少し同情した。マコちゃんのように都立に通っていればもっとノビノビと個性が発揮できたことだろう。
「まあ、厳しいことを言うつもりはないけど、今度、校則に違反したらレッドカード、下手すると退学だって脅されたよ。気をつけてね。」
「はいは~い。」
あまり反省の色はない。とそのとき電話の着信音が鳴った。僕の家の電話の着信音は裕ちゃんと僕が作った曲「卒業」だ。
「あっ、電話だ電話だ。電話は三コール以内に取らないとね。」
そう言ってチャコは命拾いしたかのようにダイニングから出て行った。そして電話を受け答えしたタイミングがあって、ダイニングのドアから顔だけを覗かせた。
「啓一さん、おじいちゃんの秘書の山崎さん。」
「ああ山崎さんか。」
山崎秘書は嫌いではないのだがこの人からの電話というとろくな用件はない。大抵、権蔵議員の野暮用を押し付けられるのだ。僕は電話のあるリビングに行き、受話器を握った。
「もしもし。」
「ああ、若先生、お忙しいところ恐れ入ります。実はお願いがありまして。」
チャコと僕が結婚してからというものの、権蔵議員の秘書の皆さんは僕のことを「若先生」と呼ぶ。僕はやめてくれというのだが聞いてもらえない。
「なんでしょう?」
「今度の日曜日はあいてますか?」
「明後日ですね。大丈夫だと思いますが。」
「若奥様もあいてますでしょうか?」
「本人に聞いてみないと分かりませんが、多分、大丈夫でしょう。特に何も聞いてませんから。」
「良かった。実は今度の日曜日に駐日大使館の新任メンバーを集めて東京バスツアーが企画されていましてね。」
そこまで言われて自分の予想がほぼ的中していることを確信した。この有能な秘書は権蔵議員の野暮用を僕に押し付けるのだ。
「大先生もホストの一人なんですが、別件が入ってしまってどうしても行かれなくなってしまったんです。それで若先生に代わりに行ってもらえないかと。」
別件といってもどうせバスツアーより楽しいゴルフかなんかだろう。
「いいですけど、妻同伴なんですか?」
「ええ、大使館の方も奥様を連れてお見えになります。」
「分かりました。引き受けましょう。」
「ありがとうございます。それで一つリクエストがあるのですが。」
「なんでしょう?」
「若奥様には和装でお越しいただきたいのです。例年そうなのですが、大使館の人たちはご婦人の着物姿を大変楽しみにしておられますので。」
僕はギクッとした。もろに校則違反ではないか。
「山崎さん、リクエストは理解できるのですが実は妻の通っている高校には学校外でも常に制服を着用しなければならないという厳格な校則がありましてね。休みの日でも外に出るときは制服を着用しなければならないんです。だから着物を着てツアーに参加するのは無理ですよ。なんとかなりませんか?」
「それなら若先生、心配はいりません。積極的に校則を破るのもどうかと思われるかもしれませんが、自由が丘女子高校の校則なら私も少し知ってましてね。なんでもあそこはイエローカードとかレッドカードとかサッカーのようなルールを使っていて、校則を一度破ればイエローカード一枚、イエローカード三枚でレッドカードになってようやく処分の対象になるそうなんです。」
そんなことは僕だって知っている。というよりさっきさんざん聞かされたばかりだ。
「だから今回は着物を着て行っていただいて、学校にばれてしまったら残念ながらイエローカードを一枚いただくということで無理をお願いできないでしょうか?イエローカードを一枚もらうといってもそんなに心配することではありません。あの高校の卒業生でイエローカードゼロで卒業する子はそんなにいないんですよ。少なくとも一枚もらう子がほとんどで、二枚もらって卒業する子も稀ではないんですって。」
その二枚をまだ一年生一学期のしかも中間テスト前だというのにチャコはもうもらっているのだ。僕にはもうこの物知りで有能な秘書と話を続ける元気はなかった。
「分かりました。妻にも相談してまた後で連絡しますね。場所や時間はそのときに。お電話ありがとうございました。失礼します。」
「こちらこそお忙しいところ恐れ入ります。失礼します。」
そう言って電話は切れた。
(「やれやれ、どうしよう。」)と思って振り返るとそこにチャコが立っていてドキッとした。電話の内容を立ち聞きされたようだ。
「どうしたの?」
「うーん、今度の日曜日に新任の駐日大使館員の皆さんとのバスツアーがあるそうなんだけど権蔵先生の代わりに僕たちに出てくれって。」
「え~っ、じゃああたしたち一緒にお出かけできるの?ひゃっほ~!夫婦の初仕事だあ!」
チャコは女の子丸出しではしゃいだ。
「ところがそんなにいい話でもないんだな。チャコには着物を着て来いって言うんだ。」
「着る着る着る着る!着物でも水着でもランジェリーでもなんでも着ちゃう~。」
この少女は本当に分かりやすい。
「そういうわけにはいかないだろ?そんなことしたら今度はレッドカードだ。下手すると退学だぞ。さっき言われたばっかりじゃないか。」
「うーん。なんとかなるよ。大体、東京は広いんだしさ。日曜日にあたしがたまたま自由が丘女子の先生に見つかるって確率、とっても低いと思うの。」
「そう言われればそうだ。」
「それに着物着たくらいで退学なんてやりすぎだよ。」
チャコのパワーに押されたのか、チャコの言うことがもっともらしく思えてきた。
「うーん、それもそうだなあ。でもチャコが着物着て参加するとして着物の手配とかできるか?日曜日は明後日だぞ。」
「それは心配ご無用。裕ちゃんが自筆のマニュアルを作ってくれているの。そのマニュアルに着物の手配とか書いてあるよ。あたしに任せて。」
結局、チャコに押されたのと山崎秘書に言い訳する理由が見つからなかったためチャコの言うとおりにすることになった。
日曜日は本当にいい天気のバスツアー日和となった。着付けのあるチャコは現地集合ということになり、僕は先に集合場所の二重橋前でチャコを待った。登場したチャコはさすがに振袖ではなかったが本当にかわいらしく、駐日大使館員の皆さんの喝采を浴び、何度も記念写真に応じていた。バスは東京の名所を回り、僕は接待が忙しく、チャコと会話を交わすことはほとんどできなかった。僕も頑張ったがそれ以上にチャコはものすごい社交力を発揮していた。大使館員の皆さんが大満足するうちにバスツアーは終了し、楽しい日曜日は終わった。僕も大満足だった。
次の日の月曜日、僕はいつものように早起きし、コーヒーをすすりながら新聞を読んでいた。新聞は五紙を読んでいる。自分の意思とはほとんど関係無しに次回の衆議院議員選挙への出馬を余儀なくされている僕は世の中の情勢に詳しくなっていなければならない。新聞は社説まで読まなければならない運命にあるのだ。そして新聞記者に何か質問された場合にはその記者の腕章にちらっと目をやり「そういえばお宅の社説にはこう書いてあったが」と枕詞をつけなければならないのだ。政治家というのはそういうものだ。新聞を読むことは一番基本的な仕事なのだ。
そう思いながら重要と思われる部分にラインマーカーを引きつつ新聞を読む僕の目がある全国紙の社会面で止まった。なんと、昨日のバスツアーの記事が載っているのだ。しかもご丁寧にカラー写真もついていてその写真にはチャコと僕の姿も写っていた。知っている人が見ればそれと分かるサイズだ。僕は頭を抱えた。(「ああ!ろくな事件のない世の中なのにどうして昨日に限って平和なのだ!」)僕は心の中でなげいた。世の中はこういうものだ。そして事件事故が絶対に起きて欲しくないときに限って海底火山が爆発したりするのだ。
僕は新聞を持って二階の寝室に駆け上がり、まだ眠っているチャコを起こした。
「チャコ!大変だ!昨日のことが新聞に出てる。しかも写真つきだぞ!」
「うーん。」
チャコはまだまだ眠そうだった。仕方ないのでチャコを抱きかかえ、無理やりベッドに座らせて新聞を見せた。
「ほら。」
「もう、強引なんだから。」
チャコは普段はニコニコしていてとてもかわいいのだが、朝起こすときだけはとてつもなく不機嫌になる。
「ほら、これだよ。この新聞のこの写真。チャコと僕が写ってるだろ?」
「まあ素敵。啓一さんここの部分、絶対に切り取ってとっといてね。マコちゃんにも教えてあげなくちゃ。」
「そういう問題じゃないだろ。先生にばれたらどうするんだ。レッドカードだぞ。」
「ああそうか。まあなんとかなるよ。」
「どうするんだよ。」
「啓一さんは心配しすぎなんだよ。大丈夫だよ。あたしに任せて。それよりまだ早いんでしょ。もう少し寝かせてよ。昨日の今日でまだ眠いんだから。」
あくびをするとそのままチャコは布団にもぐりこんでしまった。
それからチャコはいつも通りに起きて、いつも通りに朝食をかきこみ、いつも通りに「愛夫弁当」を持って出かけていった。新聞のことはまったく気にしていないようだった。
その日の午後、僕の家の電話の着信音、裕ちゃんの大ヒット曲「卒業」が鳴った。
「もしもし、白石さんのお宅ですか?」
「はい。」
「朝子さんの担任の高倉です。先日はご来校いただきありがとうございました。」
言葉は丁寧だが電話の向こうから不機嫌さが伝わってくる。
「明日、学校においでいただきたいのですがよろしいでしょうか?お渡ししたいものがありますので。」
(「レッドカードだ!」)と僕は思った。
「はい。」
「何をお渡ししたいかはお分かりいただけますよね。」
「はい。」
「では明日午後四時、三階の応接室においでください。朝子さんにも同席をお願いします。」
「はい。」
「では失礼します。」
そう言って僕が「はい」しか言うことのできなかった電話は切れた。状況は最悪の展開を見せているのである。
チャコはいつもよりも少し遅れて帰ってきた。僕は元気なくチャコを出迎えた。
「おかえり、今日は少し遅かったね。」
「ゴメン。ちょっと実家に寄ってたの。」
「さっき高倉先生から電話があった。」
「うん。」
「で、明日、四時に学校に来いって。」
「四時ね。ほいほ~い。じゃああたしは学校で啓一さんが来るの待ってるね。一緒に帰ろうね。」
僕はチャコの明るさにあきれた。
「なあ、チャコ。状況は分かってるんだろうな?今朝の新聞のこと。高倉先生にばれたんだぞ。」
「うん、それは知ってる。あたしも先生に言われたから。」
「で?」
「『明日、ご主人さんを呼んでお話をしますからあなたも明日は放課後残るように』って言われた。」
僕はため息をついた。
「ごめんなさい。あたしふざけてるつもりはないの。啓一さんがあたしのこと心配してくれてるのはものすごく分かるんだなあ。でもきっと大丈夫だから、このことはあたしに任せて、啓一さんは、あしたは美人の先生の顔をまた拝めるんだと思って、ルンルン気分で学校に来てね。」
チャコにそこまで自信満々に言われるとこれ以上、何も言えない。
結局、僕は不安なまま一夜を過ごした。
次の日の午後まで、僕は学校からの連絡を待った。昨夜、チャコがあまりにも自信満々だったので僕が学校に行かなくても済むようになるのではないかと思ったのだ。しかし、連絡はなく僕はチャコの通う自由が丘女子高等学校に出かけていった。学校に着くと校舎三階の応接室に案内された。チャコは既に応接室で僕のことを待っていた。先生はまだいなかった。
「結局、レッドカードの交付になったじゃないか。これからどうするつもりなんだ?」
僕はチャコをなじった。
「まだレッドカードもらったわけじゃないでしょ?大丈夫あたしがなんとかするから啓一さんは普通にしてて。」
とそのとき、ドアがノックされ高倉女史が入ってきた。
「どうもお騒がせして申し訳ありません。朝子の夫です。」
僕は高倉女史にあいさつした。
「既に新聞はご覧になってますね。」
高倉女史はあいさつもせずにそう言うと問題の写真の部分を広げ、新聞をテーブルにピシャっと叩きつけた。不機嫌さが伝わってくる。
「どういうことなんですか?白石さん?私が個人面談で注意したのはつい先日ですよ。なんでこんなことになるんですか?」
「はあ。」
それ以上、言葉が続かない。
「先生?よく分からないんですけど何か問題なんですか?」
僕がしどろもどろになっていると横にいたチャコがケロッと尋ねた。
「何が問題ってこの写真見れば分かるでしょ?あなたは日曜日に着物を着て外出したんでしょ?それは校則違反でしょ?もう既にイエローカード二枚もらってるあなたはこれで校則違反は三回目、あなたの処分を検討しなくちゃいけないでしょ?」
高倉女史は怒った口調で言った。とても怖かった。
「あたしは校則違反なんてしてませんけど。」
チャコがあまりにも自信を持って言うので僕はびっくりした。高倉女史のイライラが伝わってくる。
「この期に及んで何言ってるの?この新聞のこの写真を見なさいよ。こんなにはっきりした証拠があるのよ。」
「確かにその写真の子はあたしに似てるけど、本当にあたしかどうか分からないじゃないですか。今は合成とかも簡単にできるし。」
僕はチャコがむちゃくちゃなことを言ってると思った。チャコはなんとかすると言っていたが、それってただの屁理屈だったのか。チャコを信じた自分が馬鹿だったと後悔した。
「新聞にも載っているのにそんなこというの?それってただの屁理屈だと思うけど。では朝子さん、この写真の子が朝子さんでないことを朝子さんは証明できるかしら?」
「何か証拠を持ってくればいいですか?」
「証拠があるの?では是非拝見させていただきたいわ。」
高倉女史は自信満々である。それはそうだろう。僕はとっくの昔に戦意を喪失しているのだ。この勝負、絶対に勝ち目はない。
「では証拠を持ってきますので、ちょっと待っててくださいね。」
そう言うとチャコは部屋から出て行った。高倉女史と僕だけが残された。
「先生、朝子はどうなるんでしょうか?」
「ご主人さんはお認めになるんですね?」
「ええ、それは弁解のしようがありませんし、嘘もつきたくありません。一昨日、着物を着てツアーに参加したのは確かに妻でしたから。その写真の通りです。そんな明確な証拠を突きつけられたら言い訳なんてできませんよ。」
「そうですか、朝子さんにも困ったものですね。これから職員会議で処分を検討して、最終的には理事会の承認を受けなければなりませんが最低でも停学、最悪の場合は退学となるでしょうね。」
「退学!」
少しめまいがした。以前、義理の祖父となった白石権蔵参議院議員が「朝子を幸せにしてやってくれよ」と言っていたのを思い出した。
「校則を破った側の僕が言うのもおこがましいですが、それはちょっと厳しすぎるんじゃないですか?」
「確かに厳しいかもしれません。これが初回だったらイエローカード一枚で済んだ話です。でももう三枚目、しかもまだ一学期の中間テストの前ですからね。厳しい処分も止むを得ないと思います。個人面談のとき、私、注意しましたよね。注意というよりも警告です。どうして止めていただけなかったんですか。ご主人さんならなんとかできたでしょう。」
「はい、私もうかつでした。『なんとかするから』という妻の言葉を信じてしまいました。」
「白石さん、私は朝子さんが駄目な生徒だとは思っていません。素敵な女の子だと思っていますよ。明るくて、明晰で、他の生徒にも人気がありますし、先生方の評判もいいんですよ。ただ、当校の校風には合わないというだけのことです。この際、転校されることをお勧めしますけど。」
「はあ。」
僕にはもうため息しか出なかった。転校させられるなら僕だってそれを望みたい。しかしチャコを受け入れてくれる高校はここしかないのだ。僕は頭を抱えた。
そのとき、ドアがノックされ、ドアが開いて和装の女性が入ってきた。高倉女史と僕は目を見張った。チャコだった、が何かおかしい。あんな短時間で着付けられるわけがない。
「まあ、朝子さん、やっぱりあなたは。」
応接室に新聞の写真と同じ少女が入ってきた。着物の少女は黙っている。
「朝子さん。何やってるの。これが証拠なの?自分が着物を着たことを自分で証明しようとしてるの?ねえ、なんか言ったらどうなの?」
高倉女史が段々ヒステリックになっていく、と思ったら「ばあ!」と本物のチャコが後ろから現れた。高倉女史はびっくりして目をおっぴらき口を半開きにしている。
「先生!この女の子とその写真の女の子、似てると思いません?」
「……」
高倉女史は絶句している。
「似てると思いませんか?」
チャコは少し強い口調で答えを求めた。
「はい、似てます。」
高倉女史は固まったまま口だけを動かした。
「似てるなんてもんじゃないですよね。どう見ても同一人物ですよね。どうですか?」
「だって、今、ご主人さんがこの写真の女性は確かに朝子さんだと……」
高倉女史がそう言うと、チャコは僕の方を振り向いた。
「啓一さん。ごめんなさい。あたし悪い妻です。あたしあなたに嘘をついてました。日曜日、バスツアーに参加したのはあたしじゃなく、マコちゃんだったんです。本当はあたしが行かなきゃいけなかったんですけど、校則を破るわけにもいかないし。だからマコちゃんに行ってもらったんです。私は嘘つき女です。本当にごめんなさい。」
着物の女の子はマコちゃんだった。チャコは深々と頭を下げた。
「……」
僕も絶句した。もう一度、チャコは高倉女史の方を向き直った。
「先生、改めて紹介します。こちら、あたしの双子の妹の真子です。」
「朝子の妹の真子と申します。いつも姉がお世話になっています。」
着物を着ているせいか、天真爛漫なマコちゃんがいつになくおとなしい。
「先生、これがあたしが校則を破らなかった証拠なんですけど、まだ足りないですか?あたしは夫に嘘をついてまで校則を守ったんですよ。」
「白石さん、どうなんですか?」
高倉女史は僕の方を向いた。
「確かにそう言われれば、バスツアーで僕は妻とほとんど会話をしてません。だからあれが絶対に妻だったかと言われると自信はないし……。マコちゃんだったのかなあ……。絶対にチャコだと思ったけど。」
僕は独り言のように呟いた。
「分かりました。朝子さんの言うとおりでしょう。瓜二つの妹さんがいるなんて知らなかったものだから……今回は私の早とちりでした。」
そう言うと高倉女史は僕の方を向き「白石さん。私が悪かったようです。申し訳ありません」と頭を下げた。
「いえいえ、僕もまったく気が付かなかったものですから。どうもお騒がせしました。」
「それにしても旦那さんに嘘をついてまで校則を守ろうとするなんて、朝子さん偉いわあ。白石さん、あまり朝子さんのこと叱らないでやってくださいね。」
高倉女史は一言添えた。
マコちゃんの登場で僕達は開放されたが、帰り道ではなお、僕の頭の中は混乱していた。バスツアーのときの着物の少女は本当にチャコではなく、マコちゃんだったのだろうか。夫であるはずの僕は妻を見分けることもできないくらい愚かな男なのだろうか。僕は自問した。
「どうしたの?」
僕が黙って歩いているとチャコが心配そうに尋ねた。
「うーん、どうも腑に落ちないというか、情けないというか、チャコに申し訳なくて。だって、僕はチャコとマコちゃんの区別がつかなかったんだぞ。チャコはそんな僕を怒らないのか?」
「なーんだ、そのことか。」
チャコはくすっと笑って言った。
「それなら大丈夫。啓一さんはあたしとマコちゃんの区別ちゃんとついてますよ。だってあの日、着物着てたのはあたしだもん。」
僕は固まった。
「だってさっき、先生に。」
「マコちゃんが着物を着たのは今日が初めて。昨日、高倉先生に日曜日のことを言われて、写真も見せられて、明日、ご主人さんを呼んでレッドーカードを渡すって言うから昨日、マコちゃんに頼んで着物着て、学校の前の喫茶店で待っててもらうことにしたの。それでバスツアーに参加したのがマコちゃんだったことにすれば高倉先生もそれ以上、突っ込めないと思ったの。ごめんなさい。啓一さんには本当のこと言っても良かったんだけど、そうすると啓一さんも嘘に加担することになっちゃうでしょ。啓一さんは何も知らなかったってことにした方がいいと思ったの。だから啓一さんには黙ってたの。」
「あたしも着物が着られるっていうんで引き受けちゃった。ねえ、似合ってるでしょ?」
マコちゃんは屈託がない。
「マコちゃんは全然似合ってないよ。だって、マコちゃんは独身だもん。マコちゃんは振袖を着なきゃ。」
「ああ、そうか。でもせっかく着たんだから写真撮りたいなあ。ねえ、チャコちゃん、写真館行こうよ。」
「駄目駄目。着物のレンタルとか着付け代とかでお金使っちゃったんだから。そんな贅沢はできないよ。」
「じゃあ、せめてお母さんに見せるくらいはいいでしょ?」
「余計駄目よ。そんなことしたら全部ばれちゃうじゃない。」
「それじゃあ、……」
二人の少女の明るい会話がいつまでも街に響いていた。