一週間のうちで一番好きな時間はいつですか?と聞かれたら僕は迷わず「土曜日の朝」と答えるだろう。土曜の朝は雨だろうが晴れだろうが静かな自分だけの時間だ。コーヒーでも飲みながら本を読んだり、雑誌に目を通したり、原稿を書いたり、誰にも何にも邪魔されず、自分のペースでなんでもできる。
平日はこうは行かない。眠い中、朝ごはんを作り、妻のチャコを起こし、チャコに身支度をさせ、学校に送り出さなければならない。とりわけチャコを起こすのは一仕事で莫大なエネルギーが求められた。
そんなことを考えていた五月の最後の土曜日の朝、いつもは起こされないといつまでも眠っているはずのチャコが珍しく自分から起きてきた。まだ八時前だ。休日では起こしても絶対に起きない時間帯だ。僕はダイニングでコーヒーを飲みながら本を読んでいた。
「おはよーございまーす。」
まだ眠そうに一言、僕にそういうとチャコはダイニングテーブルの僕の前に座り、僕の飲みかけのコーヒーを一すすりした。まだパジャマのままだ。
「おはよう。今日は早いね。まだ寝てていいのに。」
僕は優しく声をかけた。眠そうなチャコを見ると誰だって優しくなってしまうだろう。
「出かけるの。」
「そんなこと聞いてないぞ。」
「言ってないよ。昨日、啓一さんが寝てから電話があって、今日、急に出かけることになったの。」
「どこに?」
そう言った瞬間に「ピンポーン!」と玄関チャイムが鳴った。チャコは僕の質問には答えず、インターフォンで来客を確認することもなく、まっすぐ玄関に出て行った。三十秒くらい間があって、チャコとチャコとまったく同じ顔の少女がダイニングに入ってきた。もう一人の少女は都立高校のブレザーの制服を着ている。
「ああ、マコちゃんか。おはよう。早いね。」
「おはようございます。朝早くからお邪魔しま~す。」
「コーヒーでも飲む?」
「はい、いただきます。」
僕はコーヒーを入れるために席を立った。
「制服着てるけど、今日学校なの?」
「そう、学校なの。本当にやになっちゃう。」
不満そうにマコちゃんが答えた。
「何かあったの?」
「中間テストで赤点取っちゃったの。数学よ数学。ああ、なんでこの世に数学なんてあるのかなあ。数学があるのはいいけど高校生に勉強させるなんて間違ってるよね。日本の政治はどうなっちゃってるのかなあ。まあ、あたしも政治家の血が混じってるからそんなに文句言えないけどね。それで今日、追試があるの。」
「それは災難だね。でチャコと一緒に勉強するってわけか?」
「ううん、そんなんじゃないの。あたしの代わりにチャコちゃんに受けに行ってもらうの。」
僕は固まった。聞き違えたのかと思った。
「えっ?今なんて?」
「だから、あたしがマコちゃんの代わりにマコちゃんの追試を受けに行くんだって。数学ならあたしの方がマコちゃんより得意だし、都立の中間テストなんてちょろいもんよ。」
チャコは当たり前のように説明した。
(「ありえない。」)僕は心の中でつぶやいた。
「だって、そんなことしたらばればれだろ?」
「大丈夫よ。マコちゃんの高校にはミホっていうあたしの親友がいて、今、ちょうどマコちゃんの隣の席なんだって。追試はミホも受けるっていうから色々アドバイスしてくれると思う。啓一さんはびっくりかもしれないけど、まあここはあたし達に任せてよ。」
確かに前回の「着物事件」をこの二人は見事なコンビネーションで解決して見せたのだ。
「じゃあ、あたし着替えてくるから、啓一さん、ゴメン、朝ごはんお願いしていい?今日はトーストとコーヒーがいいなあ。」
そういうと姉妹は二階に消えていった。
数分後、僕がテーブルに食器を並べていると二人が戻ってきた。チャコはマコちゃんのブレザーの制服を着て、マコちゃんはスウェットを着ている。二人が入れ替わった。
「ねえ、どこから見てもマコちゃんでしょ?」
その通りだ。それで前回の「着物事件」では僕も騙されたのだ。
「マコちゃんは自由の身だから、マコちゃんは啓一さんとお出かけしてもいいからね。でも出かけるときは必ずあたしの制服着てってね。出しとくから。」
「はいは~い。」
マコちゃんは軽く返事をした。チャコの通っている自由が丘女子高等学校は俗に言うお嬢様学校であるが、外出するときはプライベートでも休日でも常に制服を着用しなければならないという信じられない校則があるのだ。近所に葉書一枚出すに行くにも制服を着て行かなければならない。だからチャコは同じ制服を何着も持っていた。
チャコは僕が用意した朝食をかきこむとまるで自分の学校に登校するように、自然に出かけていった。マコちゃんと僕が家に残された。
マコちゃんはしばらく雑誌や本をペラペラとめくっていたが、それも飽きたのか、一時間もしないうちに僕のところに寄ってきた。
「ねえお兄ちゃん。どっかお出かけしようよ?」
「うん。」
「チャコちゃんも二人でお出かけしていいって言ってたじゃない。」
今日は特に急ぎの用というのはなく、外は爽やかな天気のようだったからこのできの悪い妹と一緒に外出するのにやぶさかではない。
「じゃあ出かけようか。どっか行きたいところある?」
「マコちゃん観たい映画があるんだけど。」
この少女は屈託がない。まあチャコの同類、というより同じ遺伝子を持つ生物なのだから当たり前と言われればその通りだ。
「ああ、映画か。いいね。何が見たいの?」
「『遠山の金さん』。今、ロードショーやってるんだ。」
僕はずっこけそうになった。ずっこけそうになったのがマコちゃんにも分かったようだ。
「そういう趣味なんだ。」
「うん。マコちゃん時代劇が好きなんだなあ。お兄ちゃんは嫌かな?」
「いいよ。じゃあ渋谷に出ようか。」
「わーい!じゃあ着替えてくるね。」
そう言うとマコちゃんはリビングにかけてあるチャコのセーラー服をつかみ、二階に消えて行き、数分後また現れた。
「じゃじゃん!どう?似合ってる?」
マコちゃんは明るくポーズをきめた。
「ああ、似合ってるよ。」
っていうか僕はこれと同じものを毎日見ているのだ。制服だけでなく顔も姿かたちもまったく同じものを。
「この制服、あこがれだったんだな~。」
マコちゃんがポツリと言った。
「あこがれってチャコにあこがれてたの?」
「違う違う。裕子叔母さんよ。高校のときこの制服着てたの。かわいかったなあ。」
僕は少しびっくりした。
「ねえ、マコちゃん?裕ちゃん自由が丘女子に通ってたの?」
「知らなかったの?この制服着てよくうちのお店にも来てたよ。」
裕ちゃんと僕は幼なじみだが、高校時代の裕ちゃんを僕は何も知らない。
「ねえマコちゃん?高校時代の裕ちゃんってどんなだったの?聞いてもいい?」
「いいけどそれより早く出かけようよ。映画始まっちゃうよ。」
ということで僕はマコちゃんにせかされ外に出た。すがすがしい初夏の陽気だった。街の景色も植物も一番美しい頃だ。僕達は東急を飛ばして渋谷に出た。
電車から降りると携帯のバイブレーションが震えた。発信先は「公衆電話」と表示されていたが、チャコからの電話であることはすぐに分かった。
「もしもし。」
「あっ、啓一さん?あたし、チャコです。無事終わったよ。ばれなかったよ。」
「はいはい。お疲れさまでした。」
「ねえ、これからミホとちょっとおしゃべりしてから帰ってもいい?」
「いいよ。こんな機会はそんなにないだろうから、っていうかあったら困るんだけど。まあせっかくだからのんびりしてきなよ。」
「ありがとう。そうします。そっちはどんな感じ?」
「マコちゃんと今、渋谷。映画観たいんだって。」
「時代劇でしょう?」
「そう。『遠山の金さん』。」
「せいぜい妹孝行してくださいね。マコちゃんには色々と世話になってるから。いい思いさせてあげてね。ではごゆっくりね。」
「はーい。じゃあね。」
替え玉作戦は成功したようだ。
「無事終わったって。ばれなかったって。」
マコちゃんに報告した。
「さすがはチャコちゃん。」
「で、せいぜい妹孝行しろだって。」
「ひゃっほー。じゃあ今日はお兄ちゃんに色々おねだりしちゃおうかなあ。」
妹はいたずらっぽく笑った。映画館はすぐに見つかった。次の回までは三十分くらいあったので少しぶらぶらし、ポップコーンと飲み物を買って上映開始時間の十分前には席に着いた。マコちゃんが「後ろの方がいいと」言うので一番後ろの列の通路側に座った。僕自身、映画館で映画を観るのは本当に久し振りだった。しかも女の子と二人で観るなんて、チャコや裕ちゃんとですら実現していなかった。『遠山の金さん』が始まった。
『遠山の金さん』は素晴らしい映画なのだろう。役者さんは一生懸命演技しているし、演出も照明も音楽も素晴らしかった。ストーリー展開だって一品だ。きっとこの作品は「なんとか映画祭」で最優秀賞でも獲得するのだろう。それでも眠くなってしまうのはひとえにこの映画が僕の趣味には合わないというだけのことだ。暗くて冷房もちょうど良くて僕は何度かウトウトした。途中、マコちゃんに目をやってみたが、マコちゃんはとてもおもしろそうに、熱心に見ていた。そうこうするうちに桜吹雪が登場し、映画は無事ハッピーエンドで終了した。僕は伸びをした。
「ふう……、マコちゃん、おもしろかった?」
「おもしろかった。もう一度観てみたいくらい。」
やはり僕はこの子とは趣味が合いそうにない。
「それはそうと、お兄ちゃん寝てたでしょう?」
マコちゃんは僕を軽くなじった。
「いや、別に寝てないよ。まあちょっとはウトウトしたかもしれないけど。」
「あたしだからいいけど、チャコちゃんと一緒のときはどんなにつまらない映画でも絶対に寝ちゃ駄目だからね。女の子ってそういう小さなことで傷つくんだから。」
「はいはい分かりました。で、これからどうする?ランチタイム過ぎちゃったけど、お腹空いてるよね?」
「もうペコペコ。何か美味しいものが食べたいなあ。」
「渋谷界隈は良く知ってる?」
「うーん、できればスガモに行きたいなあ。」
「スガモ?スガモってあの、おばあちゃんの原宿の巣鴨?」
「うん。美味しいうなぎやさんがあるんだって。」
やはり僕はこの子の趣味にはついていけない。
「まあいいよ、マコちゃんが望むなら。チャコにもマコちゃんにいい思いさせてねって言われてるし。では巣鴨に移動しましょう。」
ということでマコちゃんと僕は山手線を外回りに三分の一ほど移動して巣鴨に到着した。噂のうなぎやさんはお昼時が過ぎていたためかそれほど混んではいなかった。
「時間ずれてラッキーだったね。お昼時なら並ばなきゃいけないところだった。」
マコちゃんは屈託がない。
「こんなお店どうやって探すの?」
「まあ。おばさんが読むような雑誌だね。」
どこまでもおばさん趣味だ。二人は入口付近の四人席に向かい合って座ることができた。僕はうな重「特上」を頼もうとしたがマコちゃんはさすがに遠慮した。結局、ワンランク下の「上」二人前ということになった。その辺は小市民だ。
「ねえ、マコちゃん、さっきの話なんだけど。」
「ん?」
注文が終わると僕は今日の本題を切り出した。
「裕ちゃんの話。」
「はて、裕ちゃんの話なんてしたっけ?」
「出かける前にしてたじゃない。その制服、あこがれだったって。裕ちゃんが昔、その制服着てマコちゃんの家に来てたって。」
「ああ、そうだったそうだった。」
「裕ちゃん、本当に自由が丘女子に通ってたの?」
「ねえ、お兄ちゃん知らないの?婚約してたんでしょ?」
「うん。でも裕ちゃんの高校、大学の七年間はまったく知らないんだ。音信不通だったからね。裕ちゃんの高校時代ってどうだったの?」
「その前にあたしの方が先に聞いてもいい?お兄ちゃんと裕ちゃんのこと。」
「裕ちゃんと僕のこと?」
「うん。あたし良く知らないのよね。あたしは二十年くらい二人はお互いに一途で、いざ結婚という段階になって裕ちゃんが病気になっちゃって、先立ってしまったってことくらいしか聞いてないの。チャコちゃんならもっと良く知ってるんだろうけど、チャコちゃんもあまり話したがらないから……。秘密があるみたいで。」
「チャコにも話してはいないなあ。」
「どうして?」
「だって前の婚約者の話だよ。」
「あたしだったら絶対に聞いてみたいけどなあ。」
「それはマコちゃんが妻ではないからだよ。」
「ねえ、実際のところどうだったの?」
「うん、まず二十年間相思相愛ということはなかったなあ。愛し合ったのは最後の一年くらいかな。それも本当に愛し合っていたかどうか自分でも分からない。」
「それってどういうこと?」
「僕もよく分からないんだよ。まあ、せっかくだから話そうか?」
「うん。ぜひ聞きたい。」
「裕ちゃんと僕が出会ったのはもう二十年以上前だね。もちろん柏崎で、僕が三歳、裕ちゃんが五歳。裕ちゃんの通っているピアノ教室に僕も通うようになったのがきっかけだった。それからは家が近いこともあって二人は純粋に幼なじみになった。一緒にピアノ教室に通い、お手てつないで学校に行き、僕が学校でおしっこもらしたときはパンツも貸してくれた。」
「うん。」
「僕が小学校二、三年くらいまでそんな感じだったかな。それで僕が小学校の二年か三年だったとき、マコちゃん知ってると思うんだけど、裕ちゃんのお姉さん、つまりマコちゃんのお母さんで僕の義理のお母さんでもある幸子さんが家出したんだよね。」
「うん。それは聞いてる。」
「家出というか、もっと正確には駆け落ちだった。それで東京に出てきて次の年に君とチャコが生まれた。」
「うん。」
「幸子さんはお父さんの権蔵さん、つまり君のおじいちゃんで僕の義理のおじいさんにあたる人だけど、幸子さんは権蔵さんからとても期待されていた。」
「どうして?」
「権蔵さんは、今は参議院議員で、参議院のドンとも言われている大物政治家だけど、最初は衆議院議員だった。でも一度、落選しちゃったんだよね。で、そのまま衆議院でリベンジを果たせば展開は違ったのかもしれなかったけど、政治的な野心が強すぎて次の参議院議員選挙に出馬してしまうんだよ。それで運命っていうのは不思議なもので、そのときはほかに適当な候補者がいなかったとか追い風が吹いたとか、色々な幸運が重なって、新人の権蔵候補は当選してしまうわけだ。」
「良かったじゃない。」
「でも、そうすると今度は衆議院の自分の選挙区に立てる候補者がいなくなってしまったんだね。自分の秘書とか、県会議員とか新人を立てるのだけどどうしても対立候補に勝てない。それでこれは白石の血がないから後援会が一つにまとまらないのが原因だと思うようになるわけだ。白石の血ということで自分の娘である幸子さんか、あるいは幸子さんの将来のお婿さんに期待するようになって、幸子さんをスパルタ教育するようになったんだね。」
「へー。」
「幸子さんは、最初は頑張ってたんだけど、さすがに耐えられなくなって家出してしまう。権蔵さんは怒って幸子さんを勘当する。そして幸子さんに抱いていた期待を七歳年下の妹の裕ちゃんに向けるようになったんだよ。スパルタ教育が再開されたんだ。」
「ふん。」
「で、裕ちゃんと僕の間には少し距離ができたんだけど、それでも柏崎にいる間は僕とよく遊んでくれた。でもそれはあくまでも幼なじみであって、恋人とはどんなに拡大解釈しても言えなかったなあ。裕ちゃんとのそんな生活も彼女が東京の高校に行くのと同時に終わった。中学を卒業して上京する新幹線を僕は長岡で見送った。それが最後だった。それから裕ちゃんは何度か帰省することもあったみたいだったけど柏崎で会うことはなかったし、電話もしなかった。手紙もなかった。高校卒業して東大に入ったこととか、医者と付き合ってるとか、噂は耳にはしたけど本人とは音信不通だった。」
「裕ちゃん、お医者さんの彼氏がいたんだ。それは初耳。」
「で、僕の方は高校を卒業して、一年浪人して、東京の大学に通うことになって上京した。裕ちゃんのいる東京に出て行ったわけだけど、東京でも裕ちゃんと会うことはなく、一年が過ぎた。裕ちゃんはもう僕の中では小さいときの思い出になっていた。別に初恋の人というわけでもなく、あこがれていたわけでもなく、恋人ではあるはずもなく、ただの幼なじみという意味でね。」
「へえー、あたしの理解していたのと全然違う。」
「そう?で、僕が大学二年生のときだよ。突然、裕ちゃんから電話が来たんだ。僕が東京に出ていること知らないで、柏崎の僕の実家に電話番号聞いて電話したんだって。それで『お願いしたいことがあるから会って』って言われて二人は七年ぶりに再会した。お互いに大人になっててびっくりしたなあ。」
「綺麗になってた?」
「うん。それは認めよう。それで『お願いってなあに?』と聞くと『父に会って』ということだった。それも彼氏としてね。」
「付き合ってもいないのに?」
「そう。そのとき裕ちゃんはテレビ局にアナウンサーとして入社したばかりの社会人一年生だった。アナウンサーとして全国に顔を売って、それで選挙に出るというのが白石親子の作戦だったんだな。でも、ちょうどそのとき、長年やってきた裕ちゃんの音楽の才能が開花してしまうんだね。ポップスコンクールで優勝してしまうんだ。」
「それはあたしも知ってる。ちょうど中学に入った頃だ。」
「そうだね。で、自分が選挙に出るのは止めると言い出したんだ。音楽を続けたいと。幸子さんのことで懲りてる権蔵さんは強いことが言えない。それなら自分が決めた男と結婚しろと言うのだが裕ちゃんはこれも拒否した。そして裕ちゃんは逆に今付き合っている彼氏がいるから、将来、結婚するつもりだし彼氏を選挙に出したらどうか?と権蔵さんに持ちかけたんだ。彼氏をでっち上げたのさ。それでそのでっち上げの彼氏に僕が選ばれたって訳だ。」
「おじいちゃんに会ったの?」
「もちろん最初はためらったよ。嘘つくのは嫌だし、何より『権蔵さんが僕のこと気に入らなかったらどうするんだ?』って言ったんだ。でも裕ちゃんは『父は啓ちゃん』、僕のことね、『啓ちゃんのことを絶対に気に入るから大丈夫』だって言うんだよな。で、結局、裕ちゃんに押されて僕は権蔵さんに会いに行った。裕ちゃんの言うとおり、権蔵さんは僕のことをとても気に入ったよ。」
「じゃあ、そのときお兄ちゃんは選挙に出ることを決心したのね?」
「いやあ、そうでもないんだな。僕は本当にただのダミーだった。ダミーになるために僕が選ばれたんだよ。衆議院議員の被選挙権は二十五歳以上なんだよね。つまり二十五歳以上でないと選挙には出られない。僕は当時、二十一歳の大学二年生。選挙に出るのは最短でも四年後になる。裕ちゃんとしてはなんとか時間稼ぎしたかったんだよね。でもその四年がたたないうちに裕ちゃんは逝ってしまったけどね。」
そこまで話すとちょうど、「上」二人前が来た。
「じゃあ、冷めないうちにいただきますか?」
「おいしそーう。では遠慮なく、いっただっきまーす。」
マコちゃんは本当にうれしそうにうな重上を箸でつついた。
上が黒で下が白の物体を箸でつつきながら僕は続けた。
「僕が権蔵さんと会ってからまた半年くらい裕ちゃんとは音信不通になった。」
「彼氏だっていうのに?」
「そう彼氏だっていうのに。だからそれはまったく形だけのものだった。僕は裕ちゃんに利用されていただけだった。それで半年くらいたってまた裕ちゃんが突然やって来て、今度は結納するから柏崎に来てくれっていうことになった。」
「まだ学生なのに?」
「そう学生なのに。しかもダミーの彼氏なのに。なんでも次の選挙には白石の娘婿を立てるということを早めに公表しなければならない。そのためには結婚はともかく、婚約は早くして欲しいということだった。」
「でそのお願いも引き受けたんだ。」
「引き受けた。お人よしと思われるかもしれないけど、裕ちゃんの願いはなぜか引き受けちゃうんだ。この人のために何かしてあげなきゃって思っちゃうんだよね。そういう不思議な力が裕ちゃんにはあった。で、柏崎に行って、僕のおふくろも立ち会って、結納をした。不思議な気持ちだった。裕ちゃんと僕は恋人でもなんでもなかったんだけど、とにかく二人は正式に婚約したんだ。」
「すごい話になってきたね。」
「それからしばらくして権蔵さんの秘書の人から連絡があって、裕ちゃんのことで病院に呼ばれているんだけど、権蔵さんは忙しいので代わりに婚約者である僕に聞いてきて欲しいと頼まれた。家族でないと駄目だけど婚約者だったらお医者さんも話してくれるということでね。権蔵さんが勘当中の幸子さんに頼むわけもなく、僕が指名された。大学三年生のときだね。で、病院に出かけていって、お医者さんから裕ちゃんの命が残り少ないことを聞かされた。」
「うん。」
「僕は途方にくれたよ。権蔵さんは多忙を理由に僕と会ってくれない。仕方ないので僕は長い手紙を書いた。裕ちゃんの病気のこと、婚約は破棄すること、そして白石の人とはもうお目にかかりたくないことを書いた。本当はすべてが嘘だったことも打ち明けなければならなかったのかもしれなかったけど、僕にはそれはできなかった。親子関係をめちゃめちゃにしてしまうかもしれなかったし、そうなったら病気中の裕ちゃんには耐えられないと思ったんだ。そうしたら娘の病院に行くこともできないくらい忙しいはずの権蔵さんはすぐに僕に会いに来た。僕は権蔵さんに怒られると思ったけど、権蔵さんは僕に会うなり、靴を脱ぎ、上着を脱いで僕の前で土下座したんだ。『どうか娘が生きている間は婚約者であってくれ』って、『娘を見捨てないでくれ』って、あの参議院のドンと言われた人が一学生に過ぎない僕の前で土下座したんだ。僕はそのとき親の子どもに対する愛情ってすごいなあと思った。愛する子どものためなら親ってこんなことまでできるんだって思ったよ。」
「なんかジーンとくるね。」
「そこからだよ、裕ちゃんと僕が始まったのは。僕は思い直して、下宿を引き払い、碑文谷の裕ちゃんの自宅兼スタジオ、今、チャコと僕が住んでるところだよね、そこに引っ越した。そして病気のことも正確に裕ちゃんに伝えた。それは音楽家として裕ちゃんが残したいと思うものがあると思ったから。裕ちゃんも僕の気持ちを理解してくれた。それから僕は裕ちゃんの真のパートナーとして大学にはあまり行かず、裕ちゃんの看病をし、身の回りの世話をし、音楽も一緒にやった。今まで裕ちゃんのことは受身だったけど、初めて僕の方から裕ちゃんに積極的に関わった。そんな僕を裕ちゃんも受け止めてくれた。今度は本当の婚約者としてね。そういう生活の中で僕が作詞して裕ちゃんが作曲した『卒業』が生まれて大ヒットした。」
「結婚はしなかったの?」
「僕は裕ちゃんと結婚してもいいと思ったけど、裕ちゃんはそれを望まなかった。死んでいく人間よりもこれから生きていく人間を大切にして欲しいというのが裕ちゃんの気持ちだった。僕は裕ちゃんの気持ちを尊重した。裕ちゃんとは一年くらい一緒に暮らした。そして裕ちゃんは逝ってしまった。僕の大学の卒業式のちょうど、一週間前だった。大学はなんとか卒業できたけど卒業式には出られなかったなあ。まあ出るつもりもなかったけどね。就職活動をまるでしていなかった僕は就職できるわけもなく、裕ちゃんの自宅兼スタジオにそのまま留まることになった。その後は権蔵先生の助けもあって裕ちゃんの版権を管理する会社を作って、裕ちゃんが残してきたものをずっと整理してるってわけだ。そうして一年くらいして、チャコがふらりとやってきた。」
「そうだったんだ。あたしの考えていたのと全然違った。でも頭の中は整理されたよ。」
マコちゃんは納得した様子だった。
「で、マコちゃんの方はどういうお話なの?」
「うん、チャコちゃんとあたしがうまれてしばらくしてからお父さんとお母さんは今のところでお店を始めたの。お父さんもお母さんも一生懸命働く人で、そんなに贅沢はできなかったけどそれは幸せな時間だった。でも一度だけ、あたし達が小学校に入る前くらいかな、お父さんがある人の保証人になって、その人が行方不明になってとても大変だったことがあったの。あの時は毎日、借金取りがお店に来て、何かを壊していった。あたしとチャコちゃんはまだ小さかったけどとっても怖かった。お父さんとお母さんが大変な思いをしているのが子ども心に分かったけど何もしてあげられなかった。もうおしまいかなとも思った。でもある日、突然、この制服を着た女の人がお店にやってきたの。お母さんの妹ということであたしは初対面だった。それが裕ちゃんね。裕ちゃんはその日、お母さんと一時間くらい話をして帰っていったけど、それ以来、すべてのことが元に戻ったの。借金取りも来なくなった。今、思うときっとお母さんが裕ちゃんに相談して、裕ちゃんを間に挟んでおじいちゃんにお金を工面してもらったんだと思う。」
「そんなことがあったんだ。お父さんお母さん苦労したんだね。」
「うん。でもそれ以来は順風満帆。それから裕ちゃんが月に何度か来るようになって、あたしとチャコちゃんは年に一回か二回、おじいちゃんにも会うようになった。裕ちゃんが二人をおじいちゃんのところに連れて行ってくれたの。会うたびにおじいちゃんはおこずかいをたくさんくれた。今でも会うとくれるんだけどね。そして『二人のお婿さんはおじいちゃんが見つけてやるからな』っていうことを会うたびに言われた。あたしは『けっ』ていう感じだったんだけどチャコちゃんはおじいちゃんに合わせてた。だからおじいちゃんはチャコちゃんに期待したんじゃないかな。あたしはお母さんが実の親であるおじいちゃんに会わないのが不思議でしょうがなかった。で、裕ちゃんに聞いてみたんだけど、裕ちゃんは『今二人は喧嘩してるから会わないけど、いずれ仲直りするから、チャコもマコも心配しなくていいんだよ』って言ってた。」
「へー、そんなことがあったんだ。」
「裕ちゃんがポップスコンクールで優勝して、デビューするとさすがにお店には来なくなった。あたしはお仕事が忙しくなったんだろうと思ってたけど、病気だったんだね。今聞いたお兄ちゃんとの同棲が始まった頃はもうぜんぜん会わなくなっちゃったね。」
「じゃあ裕ちゃんに最後に会ったのは裕ちゃんが社会人一年生の頃?」
「うん。でもチャコちゃんは亡くなる直前におじいちゃんの秘書の人が呼びに来て裕ちゃんと会ったはず。そう言ってた。『何話したの?』ってチャコちゃんに聞いてもチャコちゃんは教えてくれなかった。マコちゃんおしゃべりだからって。しつこく聞くと『本当はマコちゃんに一番聞いてもらいたい。でも今は話せないの。だから分かって!』って真剣に言うもんだからあたしも本当に聞いちゃいけないのかなあと思ってそれ以上は聞けなかった。今思うとお兄ちゃんのことだったんだね、きっと。石水啓一さんという人と結婚しなさいって言われていたんだと思う。」
「そうかもね。」
「あたしはねえ、裕ちゃんが望んだことって実は親孝行だったんじゃないかなって思ってるの。お兄ちゃんとチャコちゃんを結婚させることがね。それも選挙とは関係なくね。」
「選挙とは関係なく?」
「うん。選挙なんて裕ちゃんにはどうでもいいことだったと思うの。でも裕ちゃんはお母さんとおじいちゃんの橋渡し役だったわけでしょ?自分がいなくなっちゃったら誰も二人をくっつけられなくなる。だからその自分の糊のような役割をお兄ちゃんとチャコちゃんを結婚させることで引き継ごうとしたんじゃないかな。それはチャコちゃんも分かっていて、だからチャコちゃんはこの若さで押しかけ女房したんだと思うの。チャコちゃんにとっても親孝行になるから。」
「チャコにとっても親孝行?」
「うん、つまりチャコちゃんも、あたしもそうなんだけどお母さんにはおじいちゃんと仲直りして欲しいの。でも裕ちゃんがいなくなっちゃうと糊がなくなっちゃうわけでしょ?お兄ちゃんは、結婚はもっと先でもいいと思ったかもしれないけど、例えば十年先延ばしにするとその間、お母さんとおじいちゃんをつなぐものがなくなっちゃうの。せっかく裕ちゃんが頑張って二人をつなげようとしたのに。」
(「なるほどそういうこともあるのか。」)と僕は感心した。
「ねえ、お兄ちゃん、もう一つ聞いてもいい?」
マコちゃんは姿勢を前かがみにして改まった。
「何?」
「お兄ちゃんはチャコちゃんのことどう思ってるの?」
「どう思ってるって?」
「チャコちゃんのこと好き?好きだから結婚したの?それとも裕ちゃんやおじいちゃんに言われたから仕方なく結婚したの?それとも……」
「好きだよ。」
僕はマコちゃんをさえぎってきっぱりと言った。
「好きでない人と結婚するなんて相手にも失礼だよ。僕はそこまで傲慢じゃない。」
「チャコちゃんのことはどう思ってるの?」
「少し変わったところもあるけどいい子だと思うよ。ねえマコちゃん、結婚って色々なタイプがあると思うんだよね。ラブラブ同士の二人が結婚するっていうのがほとんどかもしれないけど、それほど好きでもない同士が一緒になって、どんどんどんどん好きになっていくっていうのもありだと思う。裕ちゃんと僕がそうだったようにね。」
「うん。」
「チャコとは話が急すぎて僕も戸惑ってるところがあるけど、でも今はまだ始まったばかりだし、段々好きになっていって、素晴らしい夫婦になれると思ってるよ。ワインと同じで時間がたてばたつほど味が出てくるとね。だからマコちゃんも心配しないでいいよ。」
「そう。ねえ、今のこと、チャコちゃんにはちゃんと伝えてるの?」
「今のことって?」
「チャコちゃんのことが大好きだってことだよ。」
「面と向かっては言ってないなあ。」
「どうして?」
「どうしてって、そりゃあ、恥ずかしいからだよ。」
「そんなんじゃ駄目だよ。ちゃんと面と向かって伝えなきゃ。」
「男は女と違って照れ屋さんなんだよ。ねえ、マコちゃん。今の話、チャコには内緒にしといてよ。照れ臭いから。」
「あ~あ。分かりましたよ。美味しいうなぎご馳走になったし、口止め料ということで。じゃあそろそろ行こうか。チャコちゃんももう帰ってる頃だよね。」
うな重を片付けたマコちゃんがそう言うと二人は席を立ち、僕は勘定を済ませた。
帰りは巣鴨から直通の地下鉄に乗った。電車はガラガラで二人はすぐに座ることができた。裕ちゃんと僕とのことはこれまで誰にも話してはこなかった。でも本当は誰かに聞いてもらいたいというのが僕の正直な気持ちだったのだろう。僕は心のつっかえがなんだかとれたようですがすがしい気分だった。マコちゃんは疲れたのか二言三言しゃべっていたが、すぐに口を半開きにして寝てしまった。この辺りは本当にチャコそっくりだ。今日はチャコが朝、出かけて行くところを見ているし、途中で携帯に電話ももらっているから目の前で寝ているのがマコちゃんでチャコではないことは明らかだったが、そういう事実がなければ夫の僕でさえ迷うくらいだ。乗り換えの田園調布の駅で僕に起こされるまでマコちゃんはぐっすりと眠っていた。
電車を降りると二人で駅から歩いて家路についた。チャコはまだ帰ってきていなかった。僕は鍵を開けて家の中に入った。
「チャコ、まだ帰ってきてないね。」
一日外に出ていて疲れていた僕は、とりあえずダイニングの椅子に腰掛け伸びをした。
「きっとミホと話し込んでるんだよ。二人は親友だし、久しぶりだし。あーあ、のど渇いちゃった。ジュースでも飲もう。」
そう言うとマコちゃんは食器棚からグラスを持ってきて、冷蔵庫をあけ、ジュースを取り出し、グラスに注ぐと僕に背を向けたままで一気に飲み干した。そしてグラスをカウンターの上に置いた。僕は可笑しかった。双子の妹とはいえ、人様の家の冷蔵庫を勝手に開け、勝手にジュースをグラスに注いで一気飲みする一挙手一投足がまるでチャコのように見えた。それだけこの家はくつろげるってことなのかなと感心した次の瞬間、目の前の少女は僕に背を向けたまま「ねえ、まだ気がつかないのかなあ?実はね」と言ったかと思うと、両手を腰にあてたまま軽くジャンプし、左に百八十度回転して僕の方を向き
「あたしがチャコちゃんでした~。」
「……。」
僕は絶句した。確かに言われてみれば目の前の少女はチャコだ。姿かたちはもちろん、しぐさもしゃべり方もすべてがチャコだった。今までずっとチャコだったのだ。しかし、いつ、どのタイミングでマコちゃんはチャコに変身したのだ。僕は朝からマコちゃんとずっと一緒だったはずだ。僕は化け物でも見るような目でチャコを見た。チャコはニタニタ笑いながら僕の方を見ている。怖かった。鳥肌が立った。僕は座ったまま右手で自分のおでこを抑えた。
「ありえない。」
僕はつぶやいた。
「君は今朝、マコちゃんの制服を着てマコちゃんの学校に追試を受けに行ったんだよね。」
「その通り!」
すべてを知っているチャコの表情は天真爛漫そのものだ。
「それでマコちゃんと僕がこの家に残った。」
「それもあってる。」
「で、その後、マコちゃんは君の制服を着て僕と一緒に外に出た。」
「たぶんそうだと思うよ。」
「それで、渋谷に出て、映画を見て、巣鴨でうなぎを食べて、それから地下鉄でここまで帰ってきたんだ。」
「それも当たってる。」
「いつ入れ替わったんだ?ていうか、二人が入れ替わるなんて不可能だ。今日、僕はずっとマコちゃんの傍にいたんだ。トイレには二回くらい行ったけど、そのときだって僕は入口でマコちゃんが出てくるのを待ってた。あの時、君がトイレの中にひそんでいてその時入れ替わったっていうなら不可能ではないかもしれないけど、二人とも携帯はおろか時計だって持ってないはずだ。二人が連絡とれるわけもないし。不可能だ。……これはオカルトだ。超常現象だ!」
心臓がバクバクした。チャコは相変わらずニヤニヤしている。
「『遠山の金さん』よ。」
少し間を置いてチャコは子どもをなだめるような優しい口調で言った。
「えっ?」
「『遠山の金さん』よって言ったの。あたしが啓一さんの携帯に電話したとき、啓一さん、渋谷で『遠山の金さん』観るって言ってたでしょ。で、あたし、合流できるかなって思って、一度帰って、自分の制服に着替えて、マコちゃんの制服は紙袋に入れて、渋谷に行ったの。渋谷で『遠山の金さん』やってる映画館は一つしかなかったから二人がいるところはすぐに分かった。それで映画館に入ってみたら、啓一さん気持ちよさそうにスヤスヤと眠ってるじゃない。で、ちょっとからかってやろうと思って、マコちゃんと入れ替わったの。映画が終わったら妹が妻に変ってたとしたらびっくりでしょ。でも、啓一さん全然びっくりしなかった。同じ制服着てたし、隣にいるのがマコちゃんと思い込んでたから仕方なかったのかもしれないけど、それであたし逆にピンときたの。これ、ひょっとしたら啓一さんの本当の気持ちを聞きだすチャンスかもしれないってね。それで引き続きマコちゃんを演じてみせたの。」
「そうだったのか……。じゃあマコちゃんは映画の途中で帰ったんだ。」
「いや、マコちゃんは席を移っただけで最後まで観てたと思うよ。」
疲れがどっと出た。眠りにつきたいと思った。チャコは相変わらずニヤニヤしている。
「でもね、あたしはうれしかったよ。啓一さんあたしのこと『好きだ』って言ってくれた。『変わったところもあるけどいい子だ』って、『今はまだ始まったばかりだけど段々好きになっていって、素晴らしい夫婦になると思う』って言ってくれた。裕ちゃんのこともあたしの誤解してる部分が結構あるのが分かった。いい一日でしたよ。啓一さんは疲れちゃったかな?」
とにかく恥ずかしかった。顔がゆで蛸のようになっているのが自分でも分かる。
「うん、疲れた。」
「もう寝てもいいよ。あたしの大事な旦那様。」
僕は椅子を立ち、隣のリビングのソファにへたりこんだ。そしてテレビのリモコンを手繰り寄せ、テレビのスイッチを入れた。画面ではニュースを写していて「新型インフルエンザ流行の兆し」というようなことを言っていたが頭には入らなかった。チャコに自分の気持ちをさらけ出してしまったことが恥ずかしかった。
しかし、面と向かっては言えないようなことも言えたわけで、これから長く続くであろう夫婦生活を考えると、これはこれで良かったのかもしれないとも思った。
「どうぞ。」
チャコが寄ってきて氷のたくさん入ったジュース入りのグラスを僕の前に置いた。ストローが刺さっている。見上げるとチャコは満面の笑みだった。そしていたずらっぽく口をつぼめ、キスの口真似をした。僕はそんなチャコの笑顔に苦笑いで応えた。いつだってこの子にはかなわないと思った。