チャコと僕が一緒に暮らし始めたのは、すなわち同棲を開始したのはチャコが中学校を卒業した次の日、三月二十日からだ。入籍したのはチャコの十六歳の誕生日である四月三十日で同棲開始から三か月、入籍から二か月が経過しようとしていた。最初は僕も随分戸惑っていたが、三か月も一緒にいるとお互いのペースもつかめてくる。
僕達の夫婦生活で一番重要なことはとにかく、朝起きること、もっと正確に言うと朝、チャコを起こすことだった。チャコは朝が弱かった。八時前には家を出ないと遅刻してしまうので逆算して七時半頃には起きてもらわないといけない。
僕の家の普段の朝の風景は次のようだ。早起きの僕は七時半までに朝食の準備をして、七時半になると二階の寝室で寝ているチャコの元に行く。チャコを一度揺り動かし「もう七時半だよ」と声をかけるが起きるはずはない。それから「はい、お口開けて」とチャコの口を開かせ、婦人体温計を口の中に突っ込む。そのまま約三十秒待ち、体温計に表示された体温を枕もとのノートに書き込む。そして「もう七時半だからね」ともう一度声をかけてダイニングに戻る。十分くらい待つと眠気まなこではあるが制服に着替えたチャコが降りてくる。そして朝食をかきこんで、僕が作った「愛夫弁当」を鞄に入れ、出かけていくのだ。もし七時四十分までに制服に着替えて降りてこない場合にはもう一度寝室に行き、チャコの口の中に今度は砂糖でコーティングされたチューイングキャンディーを放り込み「はい噛んで~」と言う。チャコが一噛みするとあら不思議、チャコは見る見るうちに目覚めるのだ。これは何かの本で読んだテクニックだ。
入籍前は、チャコが早起きして一生懸命朝ごはんを作っていたが、入籍してからというもの燃え尽きたのか今日までチャコが僕より先に起きたことはない。特に月曜日は一日が始まらないのではないかと思うくらい寝起きが悪く、僕をハラハラさせる。
しかし今日は月曜日だというのに、六時半頃、自らの意思で起きてきて僕をびっくりさせた。雨でも降るのではと思ったが、東京地方は既に梅雨に入っていて、今日も天気は良くはない。
「おはよう。今日は早いね。」
「おはよう。実は今朝、お客さんが来るのよ。」
チャコは半分あくびをしながら答えた。それにしてはまだパジャマのままだ。いつもは制服に着替えて降りてくるのに。
「お客さんって誰?」
僕が尋ねた瞬間に「ピンポーン!」とチャイムがなり、チャコは僕の質問に答えないまま出て行った。それで僕には来訪者の見当がついた。数秒後、チャコと同じ遺伝子をもつ生物が僕の前に現れた。
「おはようございま~す。朝早くからお邪魔しま~す。」
「おはよう。マコちゃん。早いねえ。また追試かな?」
僕はマコちゃんをからかった。ちょうど一か月前、この生物は自分の追試を同じ遺伝子をもつ別の生物に替え玉受験させた。それが遠因となって僕は自分の本当の気持ちをチャコにすべて知られてしまうという不運に見舞われたのだ。
「ううん、あのときはお兄ちゃんにも迷惑をかけちゃったみたいだからそういうことにはもうならないようにします。」
天真爛漫なマコちゃんが殊勝に言うのがアンバランスで少し可笑しかった。追試に懲りてちゃんと勉強するようになったのだろう。チャコにもそう言われたのかもしれない。
「そうそう、あの日は啓一さん疲れさせちゃったもんね~。あたしは楽しかったけど。」
チャコがマコちゃんの言葉を引き継いだ。
「だからもう、あんなことはしたくないんで、今日からマコちゃん期末試験なんだけど、今回は追試を待たずに最初からあたしが行くの。」
チャコの言葉に僕は固まった。
「はあ?」
「今日は数学と英語だっていうから両方ともあたしの得意科目なんで、あたしが代わりに受けてくるね。明日と明後日はちゃんと本物が受けるから。」
この姉妹の展開はいつだってありえない。
「受けてくるって、チャコも学校あるんだろう?」
「あたしは風邪で休むことにする。だから今日はマコちゃん、パジャマ着てここで寝ててもらうことにするね。お出かけしなければ啓一さんも安心でしょ?」
(「そういう問題じゃないんだがなあ。」)と思ったが、僕が意見する余地はなさそうだった。
「じゃあ、あたし着替えてくるね。」
そう言うと二人は二階に消えていった。数分後、ダイニングに現れると、チャコはマコちゃんの制服を着て、マコちゃんは新品のパジャマを着ていた。一か月ほど前に僕はこれと同じような光景を見ている。
「マコちゃんは今日、本当に家で寝てるの?」
「うん、あんまり体調良くないし、寝不足かなあ。それにあした以降の勉強もしなければいけないしね。寝室でゴロゴロしてます。」
「お昼ご飯はあたしが帰ってきてからやりますからね。それからあたしの学校への連絡もあたしがしておきます。だから啓一さんはマコちゃんのことは気にしないで普段どおりに動いてもらっていいですからね。」
朝ごはんに手をつけながらチャコが付け加えた。マコちゃんは朝ごはんを済ませてきたようだ。そして朝ごはんをかきこむと、「じゃあ頑張ってね」とマコちゃんに見送られ、チャコは出かけていった。こういうことには段々慣れてきたが、この二人はこういう芸当があまりにも自然にできるのだ。それはもう芸術の域に達していると言ってもいい。
チャコが出かけてからマコちゃんは二階の寝室にこもり、僕は一階のスタジオ兼書斎で裕ちゃんの残していったものの整理をした。裕ちゃんは二十五年間の短い生涯の中で膨大な詞や楽譜を残していった。それらがまだ未整理なのだ。裕ちゃんは死の直前、これらの膨大な楽譜たちを僕に託していた。僕は世に出したいと思っているのだがまだそこまで行きついてはいない。理由は適当な歌い手が見つからないからだ。歌姫と呼ばれた国民的歌手白石裕子、彼女に匹敵する人材はそう簡単には現れないだろう。
十時頃になり、僕は二階のマコちゃんがあまりにも静かなので少し心配になってきた。明日以降の試験の勉強をしているのだろうと思ったのだが、三時間以上も勉強に集中できるタイプとは思われない。一時間もしないうちに降りてきておやつだのジュースなど要求するタイプなのだ。
勉強に集中しているなら差し入れでもしてやろうと思い、僕はジュースとお菓子をお盆に載せて二階の寝室に行ってみた。寝室のドアは半分開いていたが「入るよ」と言ってノックして中を見ると、マコちゃんはベッドで寝ていた。
(「なんだ寝てたのか。どおりで三時間も静かでいられるはずだ。」)と思って、下に下りようとすると。
「お兄ちゃん。」
マコちゃんの弱々しい声が聞こえた。振り向くと寝ているはずのマコちゃんは片方の腕を布団から出して鉛筆のような何か細長いものを差し出している。ベッドに近付いてよく見ると、それは僕が毎朝、チャコの口の中に突っ込んでいる婦人体温計だった。
「うん。」
僕はそう言って、体温計を受け取り、表示された数字を見て驚いた。体温計にはアラビア数字で四〇.〇と表示されていたのだ。
「マコちゃん。」
僕はお盆を置いて、枕元に駆け寄った。
「お兄ちゃん、ゴメン。すごい熱がある。節々も痛いし、きっとインフルエンザだ。どうしよう?」
「インフルエンザ?随分、季節はずれだね。」
「ううん。今、新型が流行ってるの。うちのクラスでももう二人出てるんだよ。」
そう言えば最近、そんなニュースがマスコミをにぎわせていることを思い出した。
「まいったなあ。とにかくお医者に行こう。チャコの制服に着替えて!僕はクルマの準備してくるから。」
「立てないかも。」
「立てないならクルマまで僕が抱っこして連れて行くよ」
そう言って僕はクローゼットからチャコの制服を出した。制服は黒のセーラー服から白の夏服に変わっている。チャコの通う自由が丘女子高等学校は外出するときはプライベートであっても必ず制服を着用しなければならないという信じられない校則があるのだ。今日のマコちゃんはチャコ役なので医者に行くにも制服に着替えてもらわなければならない。僕は一度寝室を出て一階に行き、クルマを玄関前に回し、保険証の準備をして再び寝室に戻ってきた。
「入るよ!」
再びノックして寝室に入ると、マコちゃんはかろうじて夏服に着替え、ベッドに横たわっていた。
「ゴメン、やっぱり起き上がれない。」
「分かった。いいよ、僕が連れて行くから。」
そう言って僕はマコちゃんをお姫様抱っこし、階段を下りて、玄関を通過し、門の前に止めたクルマの後ろの席に乗せた。マコちゃんは後部座席で横になった。本当につらそうだ。
僕のかかりつけの内科に連れて行った。風邪のシーズンではないので比較的すいていた。
インフルエンザの症状が出ているというと医師はすぐに検査をしてくれた。結果は陽性で今流行の新型にかかっている可能性が強いということだった。
「タミフルを出しておきますのですぐに飲んでください。まあ、発熱して数時間しかたっていないようなのでタミフルを飲みさえすればそれほど悪化することはないでしょう。でも数日は安静が必要です。」
医師の診断はもっともだった。僕は薬を受け取り、帰宅すると再びマコちゃんをお姫様抱っこし、二階の寝室まで運んだ。僕はまだ若いから良かったが、あと十年歳をとっていたら必ずや腰を痛めたことだろうと思った。マコちゃんは薬を飲み、パジャマに着替えると死んだように眠りこんだ。やはり病気は安静が一番。このまま寝かせておくことにした。
しばらくすると電話が鳴った。僕の家の電話の着信音は裕ちゃんの大ヒット曲「卒業」だ。だから僕は電話が鳴るたびに裕ちゃんのことを思い出す。裕ちゃんが逝ってしまったとき、いつまでも裕ちゃんのことを忘れずにいようとこの曲を着信音にしたのだ。チャコが来たとき、さすがに変えようかと思ったが、チャコが嫌がらなかったので結局そのままにしてある。
「はい、白石です。」
「こんにちは。朝子さんの担任の高倉です。先日はどうも失礼しました。」
高倉女史だった。先日とは「着物事件」のことを言っているのだろう。
「朝子さん、その後、いかがですか?熱があるんですか?」
「それが大変なんです。熱が四〇度あり、今、医者に行ってきたんですが、インフルエンザと診断されました。タミフル飲んで今は寝てます。」
そこまで言って僕は(「しまった!」)と思った。インフルエンザにかかっているのはマコちゃんでチャコは元気にマコちゃんの学校に行ったではないか。しかし後の祭りだった。
「それは大変。学園第一号だわ。流行っているという話は聞いていましたけど。来週から期末テストだというのにどうしましょう。とにかく、白石さん、ご存知だと思いますが、インフルエンザとなると出席停止です。たとえ熱が下がってもお医者さんから治癒証明をもらうまではぜったいに登校させないでくださいね。」
「はあ。」
僕は力なく同意した。
「まあ、そんなに心配することはありませんよ。すぐにタミフル飲んだみたいだから早めに回復して木曜日くらいには出てこられるんじゃないかしら。ではお大事に。また何かありましたら電話します。失礼します。」
「はい、お電話ありがとうございます。失礼します。」
そう言って電話は切れた。失敗したと思った。これではチャコが明日から学校に行かれないではないか。インフルエンザにかかった少女が次の日、ピンピンで登校したらいくらなんでも不自然だ。
「ピンポーン!」
僕が悩んでいると玄関のチャイムがなったので僕は急いでインターホンの受話器を取った。
「はい~。」
モニターにはチャコが写っていた。
「ただいま~。ごめんなさい。今日、マコちゃんの鞄で行ったもんだから鍵がないの。開けてもらえる?」
「それが大変なことになったんだ。マコちゃんがインフルエンザにかかってすごい熱が出てるんだ。」
「あらら~。」
「もう医者には連れて行って、薬も飲ませて今は寝てるんだけど、さらに悪いことにさっき高倉先生から電話があったんだよね。」
「ああ、高倉先生、心配してた?」
「うん、それで僕はうっかりチャコがインフルエンザにかかったって言っちゃったんだ。」
「へーっ、じゃああたししばらく学校に行けないんだ。まあいいよ。それならあたしこれからこのまま実家に帰ってマコちゃんをやるね。」
「えっ?」
「だってマコちゃんに会ってインフルエンザうつされたら余計大変でしょ。それにマコちゃん期末試験受けられないとかわいそうだし。あたしがあしたも明後日もマコちゃんの学校に行って試験受けてくるよ。木曜日からは試験休みになるし、その頃にはマコちゃんも回復してるでしょ?」
チャコがインフルエンザにかかっていると言ってしまった以上、チャコとマコちゃんの交代続行は止むを得ないのだろう。
「分かった、そうしてくれ。」
「マコちゃんのことよろしくね。それと二日間の軍資金くださらない?」
「おう。」
僕は玄関まで行き、ドアを少し開けてチャコに福沢諭吉先生のブロマイドを一枚差し出した。チャコはニコッと笑ってそれを受け取ると、無言で出て行った。チャコは不思議な少女だ。こんなとてつもなく悲惨な状況の中でも底抜けに明るい。
寝室に戻るとマコちゃんはぐっすり眠っていた。僕は枕元でしばらくマコちゃんを見守った。そう言えばほんの少し前までこれと同じようなことを裕ちゃんと僕はやっていたのだ。
何時間かが経過し、マコちゃんの目が覚めた。熱は下がっていないようだ。トロンとしている。
「マコちゃん、どう?」
僕は優しく声をかけた。
「ここ……チャコちゃんのおうち?」
マコちゃんは弱々しい。本当につらそうだ。
「そうだよ。」
「じゃあ夢じゃなかったんだ。あたしインフルエンザね?」
「そう。しばらくこの家で静養することになったよ。」
「期末試験どうしよう。」
「それなら心配しなくていいよ。チャコが全部代わりに受けるって言ってるから。」
「どうしよう。優等生になっちゃう。チャコちゃん手加減してくれるといいんだけどなあ。」
「そういう問題か?」
「お兄ちゃん、ゴメンね。」
「いいんだよ。」
「おしっこしたい。」
「そっちか?じゃあ、下に行こう。一人で行かれるかな?」
「無理みたい。ここでする。」
「そっちの方が無理だよ」
「洗面器か何か持ってきて。」
「そんなの駄目だよ。」
「じゃあボウルでもいいよ。」
「余計駄目だ。」
「じゃあ中華鍋でもいいや。チャコちゃん嫁入り道具で持ってきてるでしょう?」
「駄目駄目。僕が連れて行くよ。」
「お兄ちゃん。」
「何?」
「いっそ殺して。」
「何バカなこと言ってるんだ。ほら行くよ。」
そう言って僕はマコちゃんを無理やりお姫様抱っこし、下に連れて行った。マコちゃんがトイレに行っている間、僕は物置から折りたたみ式のベッドを引っ張り出し、トイレの傍に置き、マコちゃんにはそこに寝てもらうことにした。もう寒くはないので廊下で寝ても大丈夫だ。僕はリビングやダイニングからマコちゃんを看病することにした。裕ちゃんと過ごした最後の日々が思い出された。
もう夕方で、さすがにマコちゃんもお腹が空いていると思った。マコちゃんは朝ごはんを食べたきりなのだ。
「マコちゃん、お腹空かない?」
「どうだろう、よく分からない。」
「栄養はつけないといけないから何か食べられそうなものを探してくるよ。」
そう言って、キッチンを探すと賞味期限切れ寸前のレトルトのおかゆがあった。ちょうどいいと思い、電子レンジで暖めてお茶碗に入れ、マコちゃんのところに持っていった。
「マコちゃん、おかゆができたんだけど食べられるかな?」
「このおかゆお兄ちゃんが作ったの。」
「う~ん、実はレトルトなんだ。」
僕は正直に答えた。
「ごめん、じゃああたし食べられない。レトルトのお米ってどうしても食べられないの。せっかく作ってもらったのにお兄ちゃん、ごめんね。」
僕は全身から力が抜けていくのが分かった。
「じゃあ何か食べたいもの、食べられそうなものあるかな?」
「子牛のヒレステーキ。」
「そんなの身体が受け付けないだろう?」
「そうだよねえ。……じゃあねえ、雑炊。」
「雑炊?」
「うん。マコちゃんのうち、時々寄せ鍋やるんだけど、お鍋が終わった後でお肉とか野菜とかたくさん煮込んだおつゆが残るでしょ。それにご飯入れて卵でとじるの。これが美味しいんだなあ。」
「分かった。でお鍋には何入れるの?」
「なんでもいいんだけど豚ばら肉と白菜、えのき、ねぎは必須かな。」
「分かった。やってみる。待っててね。」
そう言って枕元を離れようとすると「お兄ちゃん」と妹がまた呼び止めた。
「はい?」
「おもちも入れてね。」
「はい。」
そう答えると僕は再びキッチンに向かった。
幸い、食材はすべて揃っていた。僕は土鍋を引っ張り出し、だしをとり、醤油とみりんと砂糖で味付けしてから材料をざくざくと切り、鍋の中にどんどん入れた。僕は男性としては、料理はうまい方だと思う。東京に出てきてから一人で自炊していたし、裕ちゃんと二人で過ごした最後の一年は僕が賄いをしていた。それ以前に、僕の柏崎の実家はちょっとした小料理屋で僕が大学二年生のときに帰天した僕の父に色々と教えてもらったこともあるのだ。だから料理は全然苦にならないし、今でもチャコのお弁当は僕が作っているくらいだ。寄せ鍋が完成し、今度は中身を出してつゆにご飯と細かく切った餅を入れ、しばらく煮て煮立ったところで卵でとじた。
少し蒸らしてお茶碗によそい、冷まして枕元に持っていった。マコちゃんはまだつらそうだったが、ようやく上半身を起こすことはできるようになった。少しは食欲がわいてきたようだ。でもまだ一人で食べるのはつらいようで僕がスプーンですくって口元まで運んであげた。
「おいし~。これなら食べられる。お腹空いてたんだあ。」
久し振りにマコちゃんの笑顔が見られて僕はとてもうれしかった。今まで頑張ってきたのはこの笑顔を見るためだったのではないかと思ったくらいだ。結局、マコちゃんはお茶碗一杯の雑炊を平らげた。
「お代わりする?」
「今はいいや。ありがとう。随分、落ち着いた。」
「そうか。それは良かった。頑張ったかいがあったよ。」
「ねえ、お兄ちゃん、裕子叔母さんと一緒に暮らしてたときもこんな感じだったの?」
「う~ん、ここまではひどくはなかったなあ。」
「ごめんねえ。」
「まあいいよ。マコちゃんも好きでなったわけじゃないんだろうし。それに僕も少し楽しいよ。裕ちゃんとの頃思い出したりして。」
「チャコちゃんが聞いたら嫉妬しちゃうね。」
「そうかもね。」
「ねえ、チャコちゃんって嫉妬深い方?」
「さあ。ただチャコは女の人はみんな嫉妬深いって言ってたよ。」
「そっか~。じゃあチャコちゃんにあることないこと吹き込んで嫉妬させちゃおうかなあ。お姫様抱っこいっぱいしてもらったとか。」
「おいおい、恩を仇で返すなよ。」
やはりこの生物はチャコと同じ遺伝子を持っている。
「ねえ、お兄ちゃん。今、急に思い出したんだけど。」
「何?」
「食べたいもの。さっき聞いてくれたでしょ?」
「うん。」
「アイスが食べたいなあ。」
「分かった。アイスはさすがに在庫がないからコンビニかどっかで買ってくるね。少しはこの家に一人で居てもらってもいいかな?電話とかはもちろん出なくていいから。」
「うん。大丈夫だと思う。でも早く帰ってきてね。」
「うん。」
そう言って出て行こうとすると「お兄ちゃん」とマコちゃんがまた呼び止めた。
「何?」
いい加減にイライラしてくるのが自分でも分かるのだが必死に押さえた。
「できればアイス、美味しいのがいいなあ。スーパープレミアムアイスお願いね。」
僕はいささか疲れてきたが乗りかかった船、というより乗ってしまった船、どこまでもこの我がまま娘には付き合わねばと諦めた。チャコとの生活もこんな感じと言えなくはない。
「はい。何味がいいの?」
「ストロベリーがいいなあ。なければバニラ。バニラは絶対にあるよね。」
「はい。じゃあちょっとだけお留守番よろしくね。」
僕は近所のコンビニに自転車で出かけた。
コンビニでアイスなどを物色していると携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイをみると「白石幸子遼太郎」と表示されている。マコちゃんをやってるチャコからだ。
「はい。」
「ああ、啓一さん。あたし。チャコです。ねえ、今どこにいるの?家にかけても誰も出ないんでびっくりしちゃった。」
「コンビニでお買い物。妹さんのリクエストでね。アイス食べたいんだって。」
「そっか。安いのでいいよ。」
「そうもいかないんだな。ご本人さんはスーパープレミアムアイスを要求してるよ。」
「あいつめここぞとばかりに贅沢する気だな。啓一さん、そんなに一生懸命看病しなくてもいいよ。テキトーでいいからね。インフルエンザくらいで死にはしないよ。」
「それはそうだけど一応マコちゃんは僕の大切な妹だからなあ。」
「啓一さん優しいなあ。あ~あ、あたしも啓一さんに看病されたい。インフルエンザにかかっちゃおうかな。」
「そういう問題じゃないだろ。」
「でもこのままあたしとマコちゃんが元に戻れなかったらどうするんだろう?啓一さんをマコちゃんに取られちゃうのかな?」
「それはマコちゃんも望まないよ。大体、マコちゃんがチャコになったら自由が丘女子に通わなきゃならないんだろ?マコちゃんなら三日でレッドカードもらって退学だよ。」
「そっか。」
「そっちはどうなの?うまくいってる?」
「うん。お父さんもお母さんも気付いてない。あたしがマコちゃんだと思い込んでるからね。人間なんてちょろいもんだね。じゃああたしあしたのテストの勉強しないといけないからまた。大変だと思うけど頑張ってね。」
「はい。チャコもテスト頑張ってね。何かマコちゃんに伝えることあるかな?」
「うん。テストはなんとかするから気にしないでゆっくり休んでって言っといて。」
「了解。」
「それと、お兄ちゃんにあまり甘えるなって言っといてね。啓一さんの正妻はあくまでもあたしなんだからって。」
「そんなこと言えるか。」
「じゃあね。啓一さん元気そうなんで少し安心した。」
「じゃあまた。」
電話は切れた。チャコはいつだって前向きで元気で明るい。そしていつも僕に力をくれる。不思議な女の子だ。
僕は色々な種類のアイスを十個買い、飲み物とか雑誌とかも買って帰宅した。マコちゃんは起きていた。でも相変わらずつらそうだった。
「ただいま。色々買ってきたよ。」
そう言って僕はベッドの上に十種類のスーパープレミアムアイスクリームを並べた。
「えっ、こんなにたくさん?」
「うん、好きなの選んでいいよ。」
「全部食べていいの?」
「バカ、そんなことしたら今度はお腹壊すだろう。」
「ねえ何個まで食べていい?」
「何個でもいいよ。」
「じゃあ全部。」
「だからそうするとお腹壊すだろうって。」
「駄目、自分じゃ決められない。お兄ちゃん何個まで食べていいか決めて。」
「う~ん。じゃあ二個まで。」
「けち!」
「マコちゃんが僕が決めろって言ったんだろ?」
「ああそうか。じゃあ二個ね。じゃあねストロベリーははずせないから、ストロベリーとキャラメルね。ねえお兄ちゃんも食べるでしょ?」
「そうだな僕もいただこうかな。」
「一緒に食べようよ。」
「うん、じゃあ僕はラムレーズン。」
「じゃあいただきま~す。」
僕達は一緒にカップのふたを開け、スプーンでつついた。マコちゃんはアイスなら自分でスプーンで食べられるようだ。現金な奴だ。
「美味し~い。熱があるからなんかす~っとする感じ。」
「それからこんなの買ってきたんだけど見る?」
そう言って僕はさっきコンビニで買った雑誌を差し出した。
「うれしい~。これ読みたかったんだ。ありがとう。」
うれしそうなマコちゃんの顔を見て僕もうれしくなった。
「ねえお兄ちゃん、なんでそんなにやさしくしてくれるの?あたしさっきからすごく我がままなんだけど。」
「なんでって、それは僕の大切な妹だからさ。」
「そう。きっとチャコちゃんにはもっと優しくするんだね?」
「さあどうかなあ。結構手を抜いてるかも。」
「あたしのお父さんはお母さんにこんなにやさしくできないよ。」
「そう。」
「うん。お父さん、昔、暴走族とかやってたでしょ。だからかっこいいはかっこいいんだけどこういうことはできないと思うなあ。だからチャコちゃんお兄ちゃんのことを選んだんだね。父親にないところを求めたというか。」
「でもお父さんは娘思いのいいお父さんでしょ?」
「どうだか。いっつも怒ってばっかし。もちろんやさしいところもあるんだけどね。……ねえ、雑誌見てもいい?」
「いいけど大丈夫?」
「うん。これ読みたいやつだったんでこの表紙見たらかなり元気が出た。」
「そうか。良かった。僕はアイスを冷蔵庫入れてくるね。また食べたくなったらいつでも言ってね。」
「じゃあ抹茶キープね。」
どこまでも我がままな子だ。
僕は冷蔵庫に行き入れるべきものを入れ、それから物置に行って電気スタンドと延長コードを引っ張り出してきた。廊下は暗いので少し明かりが欲しいのだ。そしてスタンドをマコちゃんの枕元に設置し、薬を飲ませ、インフルエンザ第一目の夜は更けて行った。僕はリビングのソファで眠った。
次の日になるとマコちゃんの熱は三十八度台にまで下がり、マコちゃんも自分で立てるようにはなった。僕はベッドをリビングのテレビが見える位置にまで移動させテレビやDVDが自由に見られるようにした。ご飯は前日の雑炊とアイスだけしか食べられなかったけどそれで十分満足のようだった。
お昼過ぎにチャコが差し入れのケーキを持ってやってきた。「うつるといけないから」と家の中には入らず、玄関で情報を交換し、マコちゃんが持ってきていた期末テスト三日目の勉強道具を持って帰っていった。
三日目になるとマコちゃんは熱も下がり、家の中を自由に動き回れるようになった。裕ちゃんと僕のスタジオ兼書斎にもやってきた。マコちゃんにはチャコの引越し作業をさんざん手伝ってもらったのでこの家のことは結構知っている。大きなグランドピアノが真ん中に置かれているこの部屋はそのときから気になっていたようだ。
「これ裕子叔母さんのピアノなんでしょ?」
「うん。随分年代もので柏崎のときから使ってたやつだ。裕ちゃんは小さいときからピアノやってたからね。マコちゃんのお母さん、幸子さんもピアノやってたはずだけどもう弾かないのかな?」
「今でも弾けるのかなあ?でも弾けるとしても弾かないんじゃないかな。それっておじいちゃんに無理矢理やらされていたことだと思うし、あたしやチャコちゃんにはやらせなかったから。」
「ピアノ弾いてみる?」
「ううん。お兄ちゃん何か弾いてみてよ。」
「うん。でも僕もそんなに弾ける曲はないんだ。ピアノは中学の三年生のときかな、受験勉強が始まると止めちゃったから。それから裕ちゃんとのここでの生活が始まるまでピアノには触ってなかったから弾けなくなっちゃった。」
そう言って僕はピアノの前に座り、ピアノのふたを開け鍵盤を優しく叩いてみた。
「こんなのどう?」
「この曲、『卒業』でしょ?ここのおうちの電話の音もこれだよね。でも不思議だなあ。これって作曲は裕子叔母さんだけど作詞はお兄ちゃんでしょ。作詞も絶対裕子叔母さんだと思うんだけどなあ。だって女の子の感情を歌った歌でしょ。」
「そうなんだけど作詞したのは本当に僕だよ。裕ちゃんが中学を卒業して柏崎を離れるとき僕は裕ちゃんを長岡の新幹線ホームで見送ったんだけど、そのとき裕ちゃんは見送る僕を見ながらこんなことを思ったんじゃないかなって勝手に想像した詞なんだ。」
「で、実際そうだったの?」
「さあね。裕ちゃんは何も言わずに曲を付けてくれたよ。でも実際はこうは思わなかったんじゃないかな。そのとき裕ちゃんと僕はまだただの幼なじみで婚約するなんて思ってもみなかったからね。」
「ねえ歌ってみて。」
「駄目だよ。僕は音痴だから。」
「じゃああたし歌ってもいい。これでもあたしアイドルデビューできるかな?とか最近考えてるんだ。マコちゃんこれでも学校じゃあ男子に結構人気あるんだよ。」
「マコちゃんでも駄目だなあ。これは二人の大切な思い出だからそうそう簡単には他の人に歌わせられないの。」
「チャコちゃんでも。」
「そうだなあ。チャコでも。」
そう言いながらも僕はいつかチャコがこの歌を裕ちゃんと僕のために歌ってくれるときがくるのではないかと少し空想した。
その日の午後、チャコは実家から中華弁当三人前を持って帰ってきた。ご両親には「試験が終わったからチャコちゃんちに遊びに行く」と言ってきたそうだ。これでマコちゃんが無事帰宅すればすべて元に戻る。ダイニングでお弁当を広げ三人で食べた。久しぶりに美味しいものにありついた気分だ。それにしてもこの三日間、ご両親は二人の入れ違いに気がつかなかったわけでそれもすごいなと思った。
「お兄ちゃんには本当によく看病してもらいました。感謝してもしきれない。」
マコちゃんは殊勝に言ったが、その後「あたしねえ、チャコちゃんに謝らないといけないことがあるの」と言い出したので僕はギクッとした。この妹はあることないことしゃべり始めるのだ。緊張した。
「謝らなきゃいけないことって、まさかマコちゃん、あたしの大切な旦那様にちょっかい出したとかじゃないでしょうね?」
僕はさらにギクッとした。
「そう、お兄ちゃんたら熱で動けないあたしのことを……。そうじゃなくて、実はね、あたし、二人の結婚を快く思ってなかったの。」
「うん。」
「チャコちゃんまだ十六歳だし、今が一番楽しい時期でしょ。それなのに政略結婚だなんてあたしだったらぜったい嫌だなあって思ってたの。」
「そう。」
「でも違った。あたしが間違ってた。……チャコちゃん、本当に優しくて素敵な旦那さんだね。チャコちゃんのことがうらやましく思えちゃった。今なら心から言える。チャコちゃん、結婚おめでとう。幸せになってね。うん。幸せになれるよ。だって、今、とっても幸せでしょ?」
「うん、ありがとう、マコちゃん。」
「お兄ちゃんのこと大切にしなさいよ。こんなにいい人チャコちゃんにはもったいないくらいだよ。もし、大事にしないんだったら、あたしがもらっちゃうからね。」
「ハハハ、マコちゃんには無理だよ。マコちゃん我がままだもん。」
「そうでもないよ。だってあたしはいつだってチャコちゃんと入れ替われるんだから。」
そこまで言うとマコちゃんは僕の方に身体を向けた。
「お兄ちゃん、本当に色々ありがとう。これに懲りてこれからは自分でちゃんと勉強するね。こんなふつつかな妹ですけどこれからもよろしくね。」
「ああ、僕の方こそよろしくね。」
「本当にふつつかだ」とチャコから野次が飛んだ。これが二度目だ。でも今度はその意味が理解できた。
「じゃあ、あたし帰るね。」
「クルマで送るよ」
マコちゃんはチャコも一緒に僕がクルマで送っていった。マコちゃんに認められたのがうれしかったのか帰りのクルマの中でもチャコはずっと上機嫌だった。夫婦の階段はこうやって二人で一歩一歩上がっていくのだろう。
それからチャコと僕は医者に行きインフルエンザの治癒証明書をもらった。医者は「治りがいい」と喜んでいた。「別人のようだ」とも言っていた。事実、別人だったのだ。
次の朝、僕は本当に久しぶりに寝覚めの悪い朝を迎えた。頭がガンガンするのである。嫌な予感がした。絶対に熱があると思った。体温計を身体に挟んでみたら四十度を超えていた。理由は明らかだった。僕はチャコの枕元に行った。
「チャコ?」
「なあに~」
チャコはまだ熟睡モードだった。
「ごめん、マコちゃんのインフルエンザがうつったみたいだ。すごい熱がある。」
僕が死にそうな顔で言うとチャコはがばっと飛び起きた。ものすごい瞬発力だ。
「近寄らないで。あたしにうつったら大変!」
「看病してくれないのか?昨日、マコちゃんは旦那さんを大事にしろって言ってたぞ。」
「だって来週はあたしが期末試験だよ。看病はしたいし、一緒にいてあげたいけど、今は無理。ごめんねえ。あたし、実家に疎開するね。」
そういうとチャコはスーツケースを取り出し、洋服やら勉強道具やらをつめこみはじめ、さっさと出て行ってしまった。ものすごいスピードだった。マッハ三は出ていたと思う。
ということで一人取り残された僕は久しぶりの一人暮らしに戻った。四十度の高熱で一人ぼっちではさすがに寂しいがチャコとしては期末試験に失敗する方がかえって僕に迷惑をかけると判断したのだろう。たまには里帰りもいいのかなとタミフルを飲みながら僕は思うのだった。