僕は基本的に早寝早起きだ。今は宮仕えでも学生でもないし、毎日が日曜日のような生活なのでかえって日々の生活が規則正しい。夜は遅くとも十一時頃には寝てしまうし、朝は日曜日でも四時か五時頃には目が覚める。毎日が同じパターンなので身体も楽だ。
その点、平日は学校に通わなければならない妻のチャコは平日の反動で休みの日はいつまでも眠っている。休みの前の日はここぞとばかりに夜更かしもしているようだ。僕も学生時代はそんな感じだったからうるさいことも言えない。
マコちゃんの「インフルエンザ事件」があった後、僕もインフルエンザにかかってしまい、それがチャコの期末テストともぶつかって我が家は少しあわただしかった。僕のインフルエンザも収束し、落ち着きを取り戻した海の日の朝、僕はチャコを何時間でも好きなだけ寝かせてあげたかった。明日は高校も終業式だ。長かった一学期も終わり、夏休みがやってくる。夏休みになればようやく柏崎に里帰りということになる。柏崎では母親にあの天真爛漫な嫁を会わせなければならず、それはそれで一仕事であるが、楽しみでもあった。
そんなことを考えながら僕は簡単なおやつとコーヒーをいただきながら朝刊を読んでいた。一応、政治家を志していることになっているので新聞を読むのは仕事のうちだ。我が家では五紙を購読している。チャコには古新聞の整理が大変だと文句を言われるがこれは仕事なのだ。インフルエンザは相変わらず静かに流行しているようだ。
時計は六時半を指していた。すると「ピンポーン!」と玄関チャイムが鳴った。僕は嫌な予感がした。朝の六時半に玄関チャイムを鳴らす人間にまともな人間はいない。きっと悪魔だろう。もっと正確に言うと天使の顔をした悪魔だ。インターホンの受話器を取るとモニターにはチャコと同じ天使の顔をしたポニーテールの悪魔が写っていた。ポニーテールは夏の季語だ。
「おはよーございまーす。マコで~す。」
「おはよー。随分早いね。玄関あいてるからどーぞ。」
僕はやや面倒くさそうにいった。おおよそ三週間前、この悪魔は同じくらいの時間に同じように玄関チャイムを鳴らし、そしてインフルエンザウィルスを我が家に持ち込んだのだ。十五秒くらいのタイミングがあってリビングに悪魔が侵入してきた。
「おはようございます。朝早くからお騒がせします。こないだは本当にありがとうございました。お蔭様ですっかりお元気になりましたよ。ほらこんなにピンピン!」
そう言うとマコちゃんは僕の目の前で少し踊って見せた。
「今日は変な病原菌持ってきてないよね?」
「持ってきてるかもしれないけど、大丈夫。今日は空気感染しないタイプのものだと思うから。お兄ちゃんがチャコちゃんを裏切らない限り感染はないと思うよ。」
わけの分からないことをいう奴だ。
「チャコちゃんまだ寝てるよね?」
マコちゃんは都立高校の夏服を着ていた。
「今日は休みだよね?なんで制服着てるの?また何かたくらんでる?」
「ホホホ。お兄ちゃん随分、勘が良くなってきたね。まあそれは後でのお楽しみ。チャコちゃん起こしてくるね。」
「たまの休みなんだから寝かせておけばいいじゃない。」
「うーん、今日はチャコちゃん学校に行かないといけない日なんだなあ。だから寝かせておくわけにはいかないの。ちょっと待っててね。」
そう言うと悪魔はダイニングから出て行った。
(「学校に行くなんて聞いてないぞ。でもなんでマコちゃんが絡むんだ?」)
僕は頭の中が混乱してきた。しばらくすると二人が二階の寝室から降りてきた。ダイニングに登場した二人を見て僕はぞっとした。マコちゃんがチャコの白のセーラー服を着て、チャコがマコちゃんのブラウスを着ていたのだ。
「何やってるんだ?着せ替え人形ごっこか?」
「良く見破ったね。普通、分からないよ。」
チャコが答えた。確かに制服が入れ替わっているとチャコの制服を着ているマコちゃんはチャコにしか見えないし、マコちゃんの制服を着ているチャコはマコちゃんにしか見えない。でも既に二度、二人の入れ替わりを見てきている僕は一発で見破ることができた。
「で、今日は何があるの?」
僕はマコちゃん役のチャコに聞いた。
「今日はあたしの学校で水泳の補講があるの。この前の個人面談のときでも言われたと思うけど、うちの学校、生徒皆泳っていう迷惑な伝統があって、一年生の一学期までに二十五メートル以上泳げるようにならないと駄目なの。卒業させてもらえないの。でもあたし泳げないから今日はマコちゃんに行って泳いできてもらうの。」
「チャコ、泳げないのか?」
「うん、って言うか、水が駄目なの。プールが怖いの。五歳のときにプールでおぼれたことがあって、それがトラウマになってるの。でも高校はあそこしかないし、まあマコちゃんもいるからなんとかなるかなって。」
「あたしは小学校一年生のときからスイミングスクールに通っているからイルカのようにスイスイ泳げるの。区民大会で優勝したこともあるのよ。それでこれまでもこうやってチャコちゃんを助けてきたってわけ。」
チャコ役のマコちゃんがマコちゃん役のチャコの言葉をつないだ。ありえない話だが今さら僕も驚かない。
「啓一さんはトラウマなんてないだろうからあたしの気持ち分からないよね?」
「トラウマなら僕にだってあるさ。」
「あっそうなの?それは初耳。啓一さんって何が苦手なの?」
「僕はね、犬が駄目なんだ。僕もチャコと同じように五歳の頃、犬に手を噛まれたことがあってね。それ以来、いまだに犬は駄目だね。」
「へーっ、知らなかった。犬って、マルチーズみたいな小型犬でも駄目なの?」
「うん、小型犬なんて大したことないって頭の中では思うんだけど、身体が拒否するんだよね。ああこれがトラウマなのかなって犬に会うたびに思うよ。だからチャコの気持ちはよく分かる。でも二十五メートル泳げないとどうなるの?」
「夏休み中、泳げるまで補講になります。だから今日、泳げないと、あたしは柏崎には行かれません。」
マコちゃん役のチャコはきっぱりと言った。夏休みにはどうしてもチャコには柏崎に行ってもらわないと困る。そこは見透かされているようだ。ここは見逃すしかないと思った。
「分かった。でもなんでチャコがマコちゃんの制服を着てるんだい?今日は日曜日だろ?マコちゃんがチャコの制服を着てればそれでいいんじゃないかな?」
「それは念には念をということよ。」
「念には念?」
「つまりね、あたしがあたしの制服を着ていてマコちゃんがマコちゃんの制服を着ているとするでしょ。そうすると誰もあたしとマコちゃんを見間違わないわよね。」
「うん、そうだろう。」
「でもあたしがマコちゃんの制服を着ていて、マコちゃんがあたしの制服を着ていると絶対に見間違うと思うの。人間の心理なんてそんなものよ。先入観が働くからね。今日は二人、別行動だからその方がいいと思ったの。」
「危ない橋を渡ってるっていう意識はあるんだ。で、今日はどういう設定なの?」
「おお、啓一さん進化したね。啓一さんからそんなことを言ってくるなんて。……今日はね、あたしを演じるマコちゃんは水泳の補講のためにあたしの学校に行きます。それでマコちゃんを演じるあたしは優しいお兄ちゃんとお買い物にでも出かけま~す。」
マコちゃんの制服を着たマコちゃん役のチャコが元気に言った。
「マコちゃん、大丈夫かなあ。ばれないかなあ。」
「今日は高倉先生も休みだし、体育の先生は脂ぎった中年の男の先生だからあたしとマコちゃんの見分けはつかないと思うよ。それに補講は全校入り乱れてのものだからごちゃごちゃしてるし。とにかくマコちゃんにはさっさと泳いで、さっさと帰ってきてもらえばいい。」
「じゃあ、チャコちゃん、あたしそろそろ行くね。」
チャコの制服を着たチャコ役のマコちゃんが言った。
「一緒に出ようよ。啓一さんも大丈夫でしょ?」
「うん」
ということで、三人で朝の空気を浴びることになった。駅の途中の二十四時間営業のファミレスでモーニングを食して、チャコ役のマコちゃんを駅まで送っていった。
もう梅雨は明けていて夏本番となっていた。マコちゃん役のチャコと僕は久しぶりに二人きりで碑文谷公園を散歩した。とにかく暑かった。でも若い二人はそれでもそれなりに楽しかった。チャコが水が駄目なのでボートには乗れなかったが、一緒にアイスクリームを食べたり、夏休み前の休日を楽しんだ。
ベンチに腰掛けると僕はふと裕ちゃんのことを思った。裕ちゃんと一緒に暮らした最後の一年、僕は裕ちゃんを車椅子に乗せてよくこの公園に来た。ときにはキーボードを持って、このベンチに座わり曲を作ったりもしたのだ。もう遠い思い出だ。
「ねえ、何考えてるの?」
僕が黙っていたのでマコちゃん役のチャコが聞いてきた。僕はドキッとした。
「なんでもないよ。」
「あててみようか?裕ちゃんのことでしょ?」
僕はさらにドキッとした。顔にでも書いてあったのだろうか。
「そうだよ。よく分かったね。かなりびっくり。」
僕は素直に認めた。
「分かるんだなあ、それが。啓一さんは、っていうか男の人は鈍感だから分からないかもしれないけど、女ってとっても敏感な生き物なの。だから分かるんだ。この人、今別の人のこと考えてるなあって。」
そのとき携帯電話のバイブレーションが震えた。ディスプレイを見るとなんと「自由が丘女子」と表示されていた。僕は緊張した。マコちゃんに何かあったのだ。
「学校からだ。」
僕はマコちゃん役のチャコにそう言うと電話に出た。
「はい。」
「もしもし、白石さんの携帯はそちらでよろしいでしょうか?」
「はい。」
高倉女史の声だ。緊張は更に高まった。
「お忙しいところすみません。朝子さんの担任の高倉です。朝子さんのことでお話ししたいことがあるのですぐに学校に来ていただきたいのですがよろしいでしょうか?」
「何かあったんですか?」
「大したことではないんですが、確認させていただきたいことがあるものですから。どのくらいで来られますでしょうか?」
「はい、十分か十五分くらいで行かれると思いますが。」
「ではお待ちしています。失礼します。」
そう言って電話は一方的に切れた。
「どうしたの?」
マコちゃん役のチャコが不安そうに聞いてきた。
「高倉先生からだ。すぐに来いって。」
「ちー、今日、休みじゃなかったんだ。何かあったの?」
「分からない。」
「ばれちゃったのかなあ?」
「とにかく行ってくる。」
「あたしも行く!」
「おう。タクシーで行こう。」
幸い、タクシーはすぐにつかまり、僕たちは十分くらいで自由が丘女子高等学校正門前に到着した。タクシーを降りると僕はマコちゃん役のチャコに導かれて校舎に入った。
「マコちゃんどこにいるのかな?」
「たぶん三階の応接室だよ。この前の着物のときもそうだったでしょ。説教されるのはいつもそこだから。先回りしよう。」
マコちゃん役のチャコは三階の階段を登ったところまで僕を誘導し、廊下をのぞき見た。
「この先に応接室があるんだけど、ちょっと携帯貸して。」
「はい。」
僕が携帯電話を渡すとマコちゃん役のチャコはどこかに電話をかけた。
「もしもし、お忙しいところスミマセン。私、ヤマザキと申します。いつもお世話になっております。高倉先生いらっしゃいますか?」
学校にかけたようで電話の先ではお待ちくださいと言われているようだった。
「ヤマザキって誰?」
「今、とっさに思いついた名前。おじいちゃんの秘書でそんな人がいたじゃない。」
そう言うと次の瞬間、「高倉先生!高倉先生!至急、職員室においでください」と校内放送が流れた。マコちゃん役のチャコと僕が階段のところから応接室の方をのぞき見ると一番奥の部屋のドアが開き、高倉女史が背中を向け、急いで階段を駆け下りて行くのが見えた。
「よし、行こう!」
高倉女史の姿が消えるのを確認すると、マコちゃん役のチャコは携帯を折りたたんで僕に返し、僕達は応接室に向かった。応接室に入るとチャコ役のマコちゃんが不安そうに長いソファの右端に座っていた。
「どうしたの?何かあったの?」
マコちゃん役のチャコがチャコ役のマコちゃんに聞いた。
「チャコちゃん!来てくれたんだ。それが分からないの。補講が終わったら高倉先生にここに来るように言われて。そしたら、今、ご主人さんを呼んでいるので、確認したいことがあるから少し待つようにって言われたの。それだけ。あたしはまだ何も話してない。チャコちゃん来てくれて良かった。少し安心した。」
「じゃあまだばれてはいないわけね?」
マコちゃん役のチャコが小声で確認した。
「うん。」
すると次の瞬間、ドアがノックされて高倉女史が入ってきた。僕は慌てて「あっ、こんにちは」とあいさつし、チャコ役のマコちゃんの左隣に座った。マコちゃん役のチャコは僕のさらに隣に座った。僕は姉妹に挟まれるような格好になり、正面の椅子に高倉女史が座った。
「すみません、急にお呼びだてしてしまって。あら、あなたもいらしたの?」
高倉女史はマコちゃんの制服を着たチャコに気付くとマコちゃん役のチャコに向かってそう言った。
「はい。兄から連絡を受けて、姉がおぼれてしまったのかと心配になったものですから。」
なかなかの名演技だ。
「何かあったんですか?本人は無事のようですが。」
僕は怪訝そうに高倉女史に聞いた。
「ええ、別に事故があったわけではありませんし、検定にも合格しました。今日、ご主人さんにお越しいただいたのは確認したいことがあったからです。」
僕はぎくっとした。
「プールが始まってから、朝子さん、元気がないようでしてね。グラウンドではあんなに元気なのに……白石さんもご存知だと思いますが、我が校では生徒皆泳という目標があって、生徒はみんな一年生の夏までには二十五メートル泳げるようにならなければならないんです。でも朝子さんには全然その気がなくて、水の中に入るのも嫌なようで、それで今日の補講になったんですけど、ふたを開けてみたらスイスイと泳げるじゃないですか。」
「良かったじゃないですか。」
「ええ。結果としては良かったんですけど、どうも腑に落ちないというか、不思議な気持ちがしたんです。朝子さんが朝子さんでないような、別人のような気がして、そうしたら、妹の真子さんは泳ぎがとってもお上手で区民大会で優勝したこともあるそうじゃありませんか。」
僕の背中から汗が噴出した。顔が蒼白になっていくのが自分でも分かる。
「それで、こんなことはないと思うんですけど、朝子さんと真子さんが実は入れ替わっているんじゃないかということを心配しましてね。」
「そんなことありえませんよ。」
僕は否定したが少し自信なさ気だ。
「もちろんありえない話ですけど。万が一ということもありますから、そこにいるお嬢さんが本当に朝子さんかどうか、ご主人様に確認していただければと思いましてお呼びしたんです。」
「ばっかばかしい。チャコちゃんに決まってるじゃないの。妹のあたしが保証するわ。」
マコちゃん役のチャコが思わず声を出した。高倉女史は冷静だった。
「あら、私にはあなたの方が朝子さんのように思えてよ。毎日顔を合わせているんですから。」
「この子が妻の朝子であることは夫である僕も保証しますよ。」
僕はそう言ってチャコ役のマコちゃんに右手の人差し指をやり、「こっちが妻の朝子で」そしてマコちゃん役のチャコに左手の人差し指をやり、「こっちが妹のマコちゃんです」と言った。でもやはり声は緊張していたのだろう。高倉女史は納得しない表情だった。
「そうですか。分かりました。こちらがどうしても奥様の朝子さんだとおっしゃるのなら、それなら二人が夫婦であることを示すような、何か証のようなものを見せていただけないでしょうか。そうしたら私も納得しましょう。」
「証って一体なんです?」
「簡単なことですよ。例えばキスするとか。」
「えーっ、そんなこと人前でできるわけないじゃない!」
マコちゃん役のチャコが叫んだ。チャコ役のマコちゃんは黙っている。
「あらそうかしら。外国じゃ結構普通にやると思うけど。日本でも新婚ほやほやの若い夫婦ならできるんじゃないかしら?それとも何かできない特別な理由でもあるのかしら?妻の前で別の女性とキスすることはためらわれるとか?」
僕は頭の中が真っ白になった。高倉女史はすべてお見通しなのだ。もう終わりだと思った。これ以上、ごまかせない。僕は次の言葉を必死になって考えた。
「高倉先生、実は……」
「しちゃえばいいじゃん!」
僕が口ごもっているとマコちゃん役のチャコがピシャっと叫んだ。
「ねえ、チャコちゃん?こんなこと言われて平気なの?あたしだんだん腹が立ってきちゃった。この高なんとかっていう人、本当にチャコちゃんの担任の先生なの?こんなこと言われてくやしくないの?」
そこまで一気に言うと、マコちゃん役のチャコは一呼吸おいて高倉女史に身体を向けた。そしてにらみつけた。
「ねえ、先生?あなた本当に教育者なの?よくそんなひどいこと言えるね。あなたは何も知らないようだから教えてあげるけど、チャコちゃん本当は泳げないの。プールが嫌いなの、って言うか、水が怖いの。五歳の時にプールでおぼれたことがあって、それ以来、トラウマになってるの。だから二十五メートル泳ぐどころか水に入るのも嫌なの。身体が拒否するの。それでもなんとか二十五メートル泳がないといけないと思ってとっても努力したの。なんでだか分かる?」
高倉女史はマコちゃん役のチャコに圧倒されてしまったようだ。目をおっぴろげて口も開いて黙ってしまっている。予想外の展開にびっくりしてしまったのだろう。マコちゃん役のチャコは構わず続けた。
「それはね、結婚生活と高校生活を両立させたかったからなの。結婚生活と高校生活の両立を積極的に認めてくれるのは東京ではここの高校しかない。でもここの高校では二十五メートル泳げないと卒業させてもらえない。お兄ちゃんのお嫁さんではあり続けたい。でも高校中退、下手すると中卒で終わっちゃうと将来、お兄ちゃんに迷惑をかけちゃうかもしれない。だから、チャコちゃんはとっても、とっても頑張ったの。それが分からないでそんなこと言うなんて教師として最低よ。ねえ、お兄ちゃん、チャコちゃん、キスしちゃいなよ。二人が恥ずかしいっていうならあたしは目をつぶってる。窓の外を見ててもいい。あたしは見てなくていいから、とにかく二人がとっても、とっても、とっても、とっても愛し合ってるってことをこの行かず後家に見せてやりなよ!」
マコちゃん役のチャコはそこまで言うと席を立ち、窓際に行った。高倉女史は相変わらず目をおっぴろげ、口は開いたまま引きつっている。チャコ役のマコちゃんに目を向けると、うつむいたまま口を右手で押さえ、何かをこらえていた。端から見れば、あるいは高倉女史から見ればそんなチャコ役のマコちゃんの姿は悲しみを必死にこらえているように見えたことだろう。しかし、僕にはチャコ役のマコちゃんが笑いを必死にこらえているのが分かった。僕は何か言おうと思ったが、何か言うとチャコ役のマコちゃんが大爆笑してしまいそうだったのでとにかくチャコ役のマコちゃんの静かな笑いが納まるのを待った。
十五秒くらいが経過し、チャコ役のマコちゃんもようやく落ち着きを取り戻し、顔を上げた。目は半開きであった。それが悲しそうな表情にも、笑いをこらえている表情にも見えた。事実は後者だったのだろう。
「啓一さん?あたしはいいよ。」
チャコ役のマコちゃんがポツリと言った。それを聞いて僕は窓際に立っているマコちゃん役のチャコを見た。チャコはあごをかすかにしゃくって瞳で「行け!」と合図した。僕も意を決した。
「分かりました、先生。ご指示通りにしましょう。」
そう言うと僕はソファから立ち上がり、右手でチャコ役のマコちゃんの左腕を掴んで、引っ張り上げた。そして高倉女史とマコちゃん役のチャコを交互に見ながらチャコ役のマコちゃんを抱き寄せ、その顔を僕の右肩に押し付け、抱擁した。確かにマコちゃんだった。チャコとは感触が明らかに違う。「インフルエンザ事件」のときにお姫様抱っこしたあの感触だ。十秒くらいそのままでいて、抱擁を解いた。そして(「ああ、こうして僕はチャコを裏切り、この悪魔に未知の病原菌を植えつけられるのだ」)と思った次の瞬間「たあっ、ストップ、ストップ、ストップ!」と高倉女史の叫び声が聞こえた。右手をパーの状態で広げ、こちらに向けている。
「分かった、分かりましたからもういいです。」
高倉女史はそう言って、右手を戻し、二人を見上げた。そして頭を下げた。
「朝子さん、ごめんなさい。私、教師として間違ったことをしてしまいました。もっとあなたを信じるべきでした。あなたは間違いなく、白石朝子さんです。こんなことをしてごめんなさい。私はまだ教師として発展途上なんです。今日のことは笑って許してください。」
高倉女史はいささか早口にそう言うと今度は僕の方に向き直った。
「白石さん、前回に続き、今回も不愉快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。お詫びのしようもありません。」
そこまでいうと立ち上がり、もう一度深々と頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。もう一度勉強しなおします。」
「いや、別に僕は怒っていません。分かってくださればそれで結構です。これからも朝子のことよろしくお願いします。」
そう言って僕は窓際に立っているマコちゃん役のチャコの方をチラッと見た。マコちゃん役のチャコは勝利の笑顔で右手の親指を突き出し、僕の方に向けた。僕は苦笑いした。
「今日は本当に申し訳ありませんでした。もうお帰りいただいて結構です。失礼します。」
余程、バツが悪かったのだろう。そこまで言うと高倉女史はさっさと応接室から出て行ってしまった。チャコ役のマコちゃんと僕はそのまま元のソファーにへたれこんだ。
それから三人は校舎の外に出て、僕達は晴れて自由の身となった。
「はあ~、やっぱりシャバの空気はおいしいねえ。」
チャコ役のマコちゃんが深呼吸した。
「今回はさすがにスリルあったね。」
マコちゃん役のチャコも安心したようだ。
「スリルなんてもんじゃないよ。あたしは冷や冷やどきっチョだったんだから。大体、あのままだったらあたしはお兄ちゃんに大切なファーストキスを奪われてたんだからね。」
「とか言ってて、マコちゃん必死に笑いこらえてたよ。」
「あれは、だってチャコちゃんが他人事のように自己弁護するのがおかしかったんだもん。笑いこらえるの大変だった。死ぬかと思ったよ。」
「ねえ、啓一さんはどう思ったの?」
マコちゃん役のチャコが聞いてきた。
「どうって何が?」
「マコちゃんとキスしてもいいと思った?」
「って言うか、チャコはどうだったんだよ。あのままマコちゃんと僕がキスしても良かったのか?」
「うーん、良くはなかったけど、ストップがかかる自信はあった。あの寂しい独身の先生が若い二人の濃厚なラブシーンに耐えられるわけないって思ったの。実際、そうなったでしょ。」
なるほど、計算づくだったってわけか。
「でももうこういうスリルはおしまいにしよう。チャコも怖いとかトラウマとか言ってないで、苦手なものも克服しなきゃ駄目だよ。まだ若いんだから。」
「ハーイ。」
マコちゃん役のチャコは明るく元気に返事をしたが、あまり分かっていないようだった。とそのとき、二匹の小型犬を散歩させている中年女性が向こうからやってきた。
「まあ、かわいい!」
二人の制服のポニーテールは駆け出して行った。そして中年女性と一言二言、言葉を交わすと小型犬を各々抱き上げた。僕にとっては恐ろしい光景だった。
「ねえ、啓一さんもこっちに来て抱っこしなよ。」
マコちゃん役のチャコが叫んだ。
「いや、僕はいいよ。」
「怖いとかトラウマとか言ってないで、苦手なものも克服しなきゃ駄目だよ。まだ若いんだから。」
「はいはい。そうですね。じゃあ僕は先に帰ってるから。」
そう言って僕は犬になるべく近づかないように現場を通過し、戦線離脱した。
「ああん、待ってよ。せっかくだから何か美味しいものでも食べて帰ろうよ。」
背中で無邪気な少女の声がした。
翌日、何事もなかったかのように終業式が行われ、一学期は無事終了した。チャコはバツが悪そうに舌を出しながら通知表を見せてくれた。妻の通知表を見るというのも妙な気分だった。成績はまあまあだった。高倉女史のコメントには「期末テスト直前にインフルエンザにかかってしまい」というくだりがあり、僕も苦笑いした。それはともかく、「立派に学業と主婦業を両立し」という言葉があったのには感心した。高倉女史、なんだかんだいっていい奴じゃんかとか思ってしまった。
おまけとしてはマコちゃんが学年一番の成績を取ってしまうということがあった。中間テストの赤点を期末テストで全部ひっくり返したわけで、モンブランを四つ持ってお礼に来た。ご両親からおこずかいをたんまりもらったと言っていた。もっともそのモンブランは二つずつ姉妹の胃袋に納まってしまい、僕の口には二口しか入らなかった。
夏休み初日は久しぶりにチャコと二人で家中を大掃除した。夏休み中は柏崎に滞在するので東京のこの家はしばらく空けることになる。時々は戻ることもあるかもしれないがきれいにしておく必要があった。
チャコは柏崎に行くことがよほどうれしいようだった。そういえば今回の柏崎行きが事実上の新婚旅行になる。籍は入れたものの学業優先のため新婚旅行は後回しになっていた。今は選挙の準備で忙しいけれど、いずれは海外にも行かれるようになるのだろう。
夕方には二人でチャコの実家にあいさつに行った。お父さんは相変わらず目をあわせてはくれず、お母さんは「どうもご迷惑をおかけします」と頭を下げるだけだった。この両親と心を通わせられる日もきっとくるだろう。チャコが少しお店を手伝っていきたいというのでチャコを残して僕は一人で先に帰宅した。チャコも実家のことが気がかりなのだろう。
夏休み二日目、チャコと僕は早朝に家を出て東京駅から新潟行きの新幹線に乗り込んだ。朝早いこともあってチャコは眠そうだった。グリーン車をとってやったら「グリーン車乗るの初めて!」とはしゃいでいた。こういうところは本当に少女だ。あのしたたかさがどこから生まれてくるのか不思議だ。
「やれやれ、ここまでくれば安心だ。」
グリーンの窓際の座席にもたれかかると思わず声が出た。窓際は本来、女の子に譲るべきだが、チャコは「紫外線はいや!」と通路側の席に座った。
この四ヶ月間、本当に色々なことがあった。振り回された毎日だった。思えば四ヶ月といわず、裕ちゃんとのことがあってからずっと振り回され続けているのかもしれない。疲れもするが、今の生活が不幸かと聞かれればそんなこともないのだろう。本当の幸せというのは案外こういうものなのかもしれない。
「色々なことがあって、冷や冷やもさせられたけど、結果オーライだったね。まあチャコも慣れない生活で大変だったろうから向こうでは少しのんびりするといいよ。どうもお疲れさまでした。」
僕はチャコをねぎらう気持ちで言った。
「ううん。あたしは楽しかった。啓一さんの方こそあたしやマコちゃんに振り回されて大変だったんじゃないかな。」
(「その通り!」)と言ってやりたい気もしたが、その言葉は飲み込んだ。発車のベルが鳴り、新幹線はホームを滑り出した。
「まあね。でもマコちゃんともしばらくお別れだね。君たちも少し寂しいかな?」
「別に寂しいってことはないけどね~。」
チャコはそう言って横目で僕を見た。何かをたくらんでいるときの目だ。僕はどっきとした。
「ねえ、何か爆弾しかけてきた?」
僕は遠慮がちにきいた。チャコはくすっと笑った。
「別に爆弾ってほどじゃないけど、家の鍵は一本、マコちゃんに預けてきた。あたしの制服がどこにあるかはマコちゃん知ってるはずだし、柏崎にいる間、ドッペルゲンガーとして活躍するかもね。」
「そうか。」
やっぱりこの姉妹には太刀打ちできない。
「それと、夏休み中に柏崎にも行きたいって言ってたからマコちゃん来るんじゃないかな。宿題を優しいお兄ちゃんに手伝ってもらいたいんだって。手伝ってもらいたいって言うけどきっと丸投げだよね。ああ、あたしも手伝ってもらいますのでよろしくね。」
こういうときだけ甘ったれた声だ。僕の弱点をついてくる。僕はそれには答えず黙って車景を見た。これで良かったのかな、良かったんだろうなあと自分に言い聞かせた。
「ねえ、啓一さん?」
「うん?」
僕は視線をチャコに戻した。
「あたしと結婚したこと後悔してる?」
ニコニコしているので「イエス」とは言えない。
「さあどうかなあ。」
僕がそう言うとチャコは自分の左手で僕の右手をしっかりと握り締めた。
「あたしはねえ、啓一さんと結婚できて本当に良かったと思ってる。だって楽なんだもん。啓一さん優しいし、結婚してようやく自由を手にしたって感じ。とっても幸せです。結婚してくれてありがとう。これからもずっと一緒にいてね。」
「はいはい。」
そう軽く答えるとまた車景を見た。チャコは不思議な少女だ。柏崎に着いたらこの不思議な少女には「嫁」をやってもらわないといけない。後援会まわりにも付き合ってもらうことになる。まあ常識に囚われることの決してないこの少女は自分のペースに僕を巻き込んで柏崎でのスケジュールをすべて当たり前のようにこなしてしまうのだろう。そういう意味では僕の妻として裕ちゃんよりもふさわしかったかもしれない。僕はしばらくそんなことを考えた。
「なあチャコ。」
僕は車景を見たまま「柏崎ではよろしくね」と言おうとした。しかし反応がない。
「チャコ?」
握った手の先を見るとチャコは既に口を開けて気持ちよさそうに眠っていた。安心したのだろう。そんなチャコを僕はとても愛おしく思った。新幹線が秋葉原からトンネルに潜り込んだ。