朝、キッチンで朝ごはんの片づけをしていると制服に着替えたチャコが大きなスーツケースを持ってダイニングに現れた。旅行にでも行くようなかっこうだ。
「どうしたの?旅行に行くなんて聞いてないけど。」
「啓一さん。あたしこの家を出て行きます。今までお世話になりました。実家に帰ります。」
僕は言葉を失った。
「ええっ!実家に帰る?一体何があったっていうの?」
「それはご自分の胸にお聞きになったらいかがですか?」
そう言うとチャコはプイッとダイニングから出て行こうとする。怒っている。僕にはまったく心当たりがない。
「ちょっと待てよ!」
僕は後を追いかけた。
「心当たりがないから聞いてるんだよ!一体どうしたっていうんだ?君が出て行かなきゃいけないようなことを僕がしたっていうのか?」
そう言ってチャコの腕をつかむとチャコは振り向き途端に笑顔になった。
「よかったあ。引き止めてくれた。あたし実は『出て行く』って言って、『はいどうぞ』って言われたらどうしようかなって思ってたところだったの。」
全身の力が抜けた。
「何やってるの?」
「う~ん。特に意味はないの。ただ今日はスーツケース持って学校に行くからなんかいつもと同じじゃつまらないなあと思って、それで実家に帰るって言ったら啓一さんどういう反応するかなとか思って実行してみただけ。ごめんねえ。びっくりしたでしょ。でも引き止めてくれて良かった。あたし必要とされてるんだ。」
「もし、『はいどうぞ』って言ったらどうするつもりだったの?」
「そしたら、学校から普通に帰ってきて、『やっぱりあたしが間違ってました。あたしはあなたなしでは生きていかれません』って頭下げるかなあ。そうすれば啓一さん許してくれるでしょ?」
この子は七対三の割合で行き当たりばったりだ。
「なんでスーツケースなんて持って行くの?」
「ああ、調理道具だよ。今日、学校で餃子作るんだ。」
「家庭科の実習?」
「いや、文化祭のデモンストレーション。文化祭にお店を出すことになったんだけど、なんのお店にするかってことで、あたしは餃子にしようって言ったのね。そしたら餃子なんて女子高で売れるわけないって猛反対をくらったの。で反対するならあたしの作った餃子食べてからにしろってことになって、今日、学校で作ることになったの。」
「そう。まあなんでもいいけど頑張ってね。」
「ほいほ~い。じゃあ行ってきま~す。」
そう言うと、僕の作った「愛夫弁当」を持ってチャコは元気に登校していった。
相変わらず臨時国会は開催されていて僕は政治の世界にクビを突っ込んでいる。一学期は国会開会中でもそう頻繁には永田町に通ってはいなかったが、選挙が近づくのをハナで感じるのか、周囲のプレッシャーが強くなり、このところ毎日、否応なしに僕は永田町に通うような生活をしている。でもまだ僕の中では他人事の領域を出ておらず、どうも真剣になれない。言われたことをやっているだけだ。
ということで最近は帰りも遅い。チャコの相手をあまりしてやれないので申し訳なく思っている。これで本当に議員バッチをつけるようになったらどうなるのか心配になる。この日も家についたのは夜の八時頃だった。
ダイニングに入るとチャコはキッチンにいた。晩ご飯の準備はできているようでダイニングテーブルには餃子がぎっしりと並べられていた。焼けたものもナマのものもある。
「おかえりなさい。お仕事お疲れさまでした。ご飯これからでしょ?」
「うん。お腹ペコペコなんだ。もう食べていい?」
「どうぞどうぞ。じゃんじゃん食べてね。足りないならまだまだ焼きまっせ!」
それで僕は今朝の餃子のことを思い出した。
「で、今日はどうだったの?」
「大成功よ。みんな納得してお店は餃子に決まったわ。」
「これは今日の残りってわけ?」
「違う違う。チャコちゃんの餃子が売れ残るわけないでしょ。帰ってきてから焼いたの。まだ焼いてもいいよ。で、今日からしばらくおかずは餃子一色になるので覚悟しておいてくださいね。」
「えっ、あ~そうなの。」
「だって結婚前と違って毎日作ってるわけじゃないからね。腕が鈍らないように練習しないと。お付き合いお願いね。」
「まあいいよ。チャコの作る餃子は僕も大好きだから。」
「良かった。やっぱり啓一さん優しいね。」
「随分気合入ってるね。」
「うん、実はねバトルがあるの。」
「バトル?」
「そう、なんでも昔からの伝統で模擬店同士が売上を競うんだって。」
「何か賞品でも出るの?」
「ううん。そういうのはないの。だから純粋にクラスの名誉のため。」
「その割にはチャコ気合入ってるね。」
「うん。賞品とかはないんだけど、実はトトカルチョがあるの。」
「トトカルチョって賭け事ってこと?」
「まあ競馬みたいなものよ。お嬢様って破目外すと怖いね。」
「……」
僕は絶句した。
「優勝候補は喫茶店をやる三年D組。ここは白鳥明日香っていうパリ帰りの帰国子女がいるの。パティシエって言われているくらいでお菓子作りの腕はすごいみたい。去年も一昨年も優勝候補だったんだけど、三年生に優勝を阻まれてて、今年は満を持して優勝を狙いにくるみたい。」
「そんな強敵がいて、チャコも優勝を目指すの?しかも餃子で?」
「そう。だから外で実演販売やるんだ。啓一さん、あたしが餃子一個包むのにどれくらい時間かかるか分かるでしょ?」
「う~ん、一秒を切るくらいかな。」
「そこまで速くはできないけど、最速で二分で百個ってとこかな。それをお客さんの前でやるの。そうするとお客さんは集ってくるでしょ。そこで焼き立てを提供するの。これは売れるわよ。」
「で、チャコは自分のクラスに賭けるわけか。」
「そう。しこたまね。」
「しこたまって五桁くらい?」
「あまいなあ。六桁よ。今までおじいちゃんとかにもらったお小遣いをつぎ込むの。優勝候補は圧倒的に白鳥お嬢様。一年生のチャコちゃんはノーマークのダークホース。ぼろ儲けの方程式ってわけ。」
破目を外すとお嬢様も怖いがチャコはもっと怖いと思った。
「バトルっていうからにはルールはあるの?」
「そんなに細かいのはないんじゃないかなあ。物品販売系は麻薬とかアウトローなものはもちろん駄目だけど基本的になんでもOKかな。食べ物系は火を通せばなんでもいいみたい。食中毒が怖いからね。オー一五七とか。」
「餃子で大丈夫なの?女子高でしょ?」
「ニンニクは使わないし、肉の臭みをとる魔法もかけるから大丈夫。まあ詳細は企業秘密ですけどね。」
そう言ってチャコは自信満々の笑顔を見せた。
それから三週間、我が家は朝昼晩、そしておやつも餃子だった。まあ僕が餃子好きだったから良かったが。
自由が丘女子高等学校の文化祭は十一月初めの金土日で開催された。僕は国会の対応があり、金土は見に行かれず、最終日の日曜の午後にようやく見に行くことができた。
マコちゃんが一緒に行きたいというので自由が丘の駅前で待ち合わせた。マコちゃんは一ヶ月ほど前にメンバーになったアイドルチームのユニホームを着て待っていた。胸に初心者マークが付いている。
「お待たせ。ねえ、マコちゃんそんな格好で出歩いていいの?」
「いいのいいの。まだあたしの顔なんて雑誌にも載ってないくらいだから顔を売らないと駄目なの。こんな格好の女の子と一緒に歩くのは照れくさいかな?なんなら他人の振りしててもいいよ。」
「まあ、今日は文化祭だからいいけどね。」
そう言って学校に着いて僕は驚いた。誰一人として自由が丘女子高等学校の校則で決められた制服を着ている生徒はいない。普通の服を着ている女の子もいるがそういう子はマコちゃんと同じように他の学校の生徒だろう。明らかに自由が丘女子の生徒と思われる女の子は思い思いのコスチュームを着ていた。秋葉原のような世界だった。アイドルチームのユニホーム姿のマコちゃんが軽く見える。
マコちゃんと僕はチャコの出店を探した。昇降口の脇に一際、人だかりのできている一角があり、近づいて見てみるとチャコの出店だった。中華飯店の割烹着を着たチャコは餃子を包むパフォーマンスの真っ最中で、真剣なまなざしで、ものすごいスピードで餃子を成形していた。とても女子高生の技とは思えない。お客さんは静まり返って見ている。
「あの~失礼します。」
黙ってチャコのパフォーマンスを見ているとチャコと同じ割烹着を着た女生徒が声をかけてきた。
「失礼ですがチャコちゃんのご主人さんと妹さんですか?」
「はいそうですけど。」
「はじめまして。私、同じクラスの中本恵子と申します。いつもチャコちゃんにはお世話になっています。」
クラスメートだった。品行方正なお嬢さんといった感じだ。
「こちらの方こそお世話になってます。」
「お噂はよく聞いています。」
「どうせろくな話じゃないんでしょ?」
「そんなことないですよ。とっても優しい旦那さんだと聞いてます。チャコちゃんのことがうらやましくて私も早く結婚しようかなとか思っているんですよ。」
「そうですか。ありがとうございます。で、バトルの方はどうなんです?」
「いい勝負してますよ。うちと三年D組の一騎打ちになってます。私は一年なんで過去のことは良く知らないんですけど先生の話では近年にない名勝負だそうです。」
「今日はみんな制服着なくていいの?」
「はい。今日はお祭りなんで制服着用は免除されているんです。だからここぞとばかりにみんな思い思いの格好をするんですよ。私はチャコちゃんと同じ割烹着にしたけど、うちのクラスのほかの子の多くはスリットのついたチャイナドレスです。」
なるほど日本にはハレの文化とケの文化というのがある。普段の日はケの日で酒も飲めないが、お祭りなどのハレの日は傍若無人の振る舞いが許されるというのだ。だから普段押さえつけられているこの高校の女生徒はここぞとばかりに破目を外すのだろう。
そうこうするうちに出店の前の人だかりから拍手が沸き起こった。チャコのパフォーマンスがいったん終了したのだ。チャコはマコちゃんと僕に気付くと三角巾を取ってこっちに来た。
「来てくれてんだ。ありがとう。」
「いや、僕の方こそ遅くなってゴメンね。もっと早く来たかったんだけど。」
「ううん。ちょうどバテてきたところだったから良かった。二人の顔見たら元気が出たよ。」
「いい勝負してるみたいだね。」
「相手は手ごわいけどね。まあ二人から力もらったんでもう一頑張りするよ。」
「チャコちゃん!大変!」
談笑しているとさっきの恵子ちゃんがあわてて来た。
「どうしたの恵子ちゃん。あっ、こっちが旦那でこっちが妹のマコちゃんね。」
「もう紹介済み。それより三年D組が伝説のイチゴショート出したって。」
「そうきたか。」
チャコは冷静に言った。
「伝説のイチゴショートって何?」
僕はどちらともなく聞いた。
「こないだ話した白鳥先輩、うちのパティシエの十八番。食べた人がこの世のものとは思えないと絶賛するほどの美味しさなんだって。ここでは出さないって話だったんだけどね。勝負かけてきたんだね。」
「そんなに美味しいのならあたしも食べてみたいなあ。」
マコちゃんがサラリと言った。
「じゃあ啓一さんとマコちゃんで三年D組に行ってくれば。あたしも行きたいけどここはずせないから。食べたらどんなだったか教えてね。」
「いいのかい?」
「もちろんよ。ここにずっといてもつまらないでしょ?啓一さんもまだ若いんだから女子高の空気を満喫してよ。」
「うん。」
「じゃあお兄ちゃん行こうよ。」
僕はもう少しチャコの傍にいてやりたかったがマコちゃんに促されて喫茶室のある三年D組の教室に向かった。
マコちゃんと廊下を歩いているとマコちゃんが突然「こんにちは、マコで~す」と軽くあいさつしたのでハッと相手を見ると高倉女史だった。高倉女史はさすがにコスチュームではなかったがいつもより派手な格好をしている。
「あらいらしてくださったの?」
「ええ。こんなときでもないとお嬢様学校ってのぞけないんで。先生、この前はタンカ切っちゃってごめんなさい。チャコちゃんがバカにされてると思ってついカーッとなっちゃって。先生に随分ひどいこと言ったけど本心じゃないんで気にしないでくださいね。」
「いいえ、この前はあたしの方が悪かったんだから。……今日は楽しんでいってね。」
高倉女史とマコちゃんの間でそんなあいさつが交わされた。僕はピンとくるのに少し時間がかかった。「水泳事件」のときの話だったのだ。あのときタンカを切ったのはマコちゃん役を演じていたチャコだった。高倉女史に「行かず後家」とまで言ったのだ。それなのにマコちゃんはあたかも本当に自分がタンカを切ったかのように、あまりにも自然にプールで二十五メートル泳いだのがチャコだったことを裏書きしてみせたのだ。マコちゃんの瞬発力に僕はぞくっとした。
「白石さん。」
高倉女史が僕の方を向いた。
「はい。」
「朝子さん素晴らしいわ。はっきり言ってうちのクラスあまりまとまっていなかったんです。それは担任の私の力不足もあるんですが、二学期になって、文化祭の準備をすることになって朝子さんがものすごいリーダーシップを発揮してクラスをまとめてくれたんです。毎年ああいう子が一人は現れて生徒会長になっていくんですけど、一年生では朝子さんが当たりかなって思ってます。まあ主婦業と生徒会長の両立は厳しいかもしれませんけどね。それとびっくりしたのは餃子作りの手際のよさ。さすがは主婦だと感心しました。餃子作りの腕はプロ級ですね。」
並みの主婦ではチャコの足元にも及ばないだろう。チャコの腕はプロ級ではない。プロなのだ。物心つく前からひき肉をこねていたキャリア十年のチャコは餃子だけで十分食べていけるだけの実力があるのだ。
「なんかバトルがあるみたいですね。」
「ええ、本校の伝統行事ですから。子ども達は頑張ってますけど、優勝はやはり三年生でしょう。でもここまで頑張ったんですから負けても満足なんじゃないかしら。」
高倉女史はトトカルチョのことは知らないようだ。
「では楽しんでいってくださいね。」
そう言って一礼すると高倉女史は消えていった。
それからマコちゃんと階段を上り、廊下を少し行くと三年D組の教室の前に着いた。既に教室一つ分くらいの長さの列ができていた。ここの喫茶のスタッフは黒のメイド服で統一しているようだ。ここも秋葉原が引っ越してきたような雰囲気だった。
「すごい人気だね。これじゃ食べはぐっちゃうかも。」
マコちゃんが心配そうに言った。しばらく待っていると、メイド服を着たお嬢様が話しかけてきた。
「こんにちは。あなたが白石朝子さんね。そしてこちらが噂のご主人様かしら?」
「失礼ですがあなたは?」
マコちゃんがポワ~ンとしているので僕がメイド服姿のお嬢様に尋ねた。
「申し遅れました。白鳥明日香と申します。ここの喫茶のリーダーをやってます。」
これが噂のパティシエかと思った。お嬢様にしては品がよくなさそうだ。
「ねえ朝子さん。あなたとっても頑張ってるみたいね。でも申し訳ないけど今年の優勝は私がいただきますね。私、あなたの気持ちよく分かるの。去年も一昨年も私、一生懸命頑張ったんだけど結局、優勝は三年生に持っていかれちゃった。三年生は色々な手を使うからね。だから今年こそは絶対に優勝したいの。」
「別にあたしは優勝なんて狙ってませんけど。クラスのみんなと楽しくやれればいいかなと。」
いつの間にかマコちゃんはチャコを演じている。
「そう?トトカルチョにつぎ込んでるって噂だけど。」
「トトカルチョってなんですか?」
トトカルチョのことをマコちゃんは本当に知らない。しかしこの先輩のお嬢様はマコちゃんの発言を「旦那の前ではトトカルチョの話はするな」の文脈でとらえたようだ。一瞬間があった。
「ごめんなさい。あなたはそんなことする人じゃないよね。……とにかくどんな手を使ってでも優勝はうちのクラスがもらいますから悪く思わないでね。あなたには来年も再来年もあるんだから。」
「はいは~い。ねえ先輩、ところでお願いがあるんですけど。」
「何?」
「すごい行列なんですけど、並んでるのも大変なんで裏でこっそり噂のケーキ食べさせてもらえません?」
この少女は遠慮という言葉を知らない。まあそれがこの少女の魅力でもあるのだが。
「……いいわ。あなたにもあたしの実力を知っておいてもらいたいし。……あなたの作った餃子は本当に美味しかったわ。餃子なんて下々の食べるものだと思ってたけど。まあお互いにエールの交換ということね。本当はイチゴショートを出すつもりはなかったの。イチゴショートはクラスの打ち上げのために準備しておいたものだったんだけどこのままだと負けそうなんで出したの。あなた本当に大したもんね。私にここまでさせるんだから。じゃあこっちに来て。」
お嬢様はそう言うとマコちゃんと僕を教室の裏に案内してくれた。裏にはにわか厨房の他に帳簿をつけるようなところがあって、机一個と椅子一個が置いてあった。
「椅子一個しかないけどいいよね?」
お嬢様がそう言うと「ええ。あたしは旦那の膝の上にでも座りますから」とマコちゃんは答えた。お嬢様は「けっ!」という表情だった。
「飲み物は何にする?」
「じゃあホットコーヒーを二つお願いします。」
マコちゃんは僕の分まで頼んでくれた。お嬢様は無言で下がった。結局、マコちゃんは僕の膝の上には座らず、一つの椅子をお尻半分ずつ分け合った。
「お嬢様っていっても大したことないね。都立とあまり変わらない柄の悪さだね。」
マコちゃんが小声でポツリと言った。
「まあ、お嬢様も色々いるからね。それに今日は年に一度のお祭りでお嬢様たちは舞い上がってるからね。」
そう言っているうちにさっきとは別のメイド服姿のお嬢様がケーキとコーヒーを運んできた。
「ケーキセット二つお待たせしました。」
そう言ってお嬢様はケーキ二つとコーヒー、ミルク、砂糖、マドラーそしてかわいい手作りのチケットをマコちゃんと僕の前に置いた。コーヒーは紙コップに入っているのだが図柄がとてもかわいらしい。この辺はなかなかいいセンスだ。さすがは女子高だ。
「ケーキセット二つで千円になります。」
高校の文化祭にしてはいい値段だ。僕は日本が誇る細菌学者、野口英世先生のブロマイドを一枚渡した。
「おいしそう。いただきま~す。」
マコちゃんはそう言うといきなり自分の目の前ではなく、僕の目の前にあるケーキをつついた。まあマコちゃんはこういう奴だ。
「これは美味しい。これは本物だ。お兄ちゃんも食べなよ。」
「ねえ、マコちゃん。まず自分の目の前に置かれたものを普通は食べるんじゃないかなあ。」
「普通はね。でもこれはチャコちゃんに持っていってあげるんだあ。チャコちゃんも食べたがってたからね。このケーキ本当に美味しいね。パティシエの名に恥じないね。」
僕も食べてみたが本当に美味しかった。スポンジと生クリームとイチゴだけの単純な作りなのだがスポンジと生クリームの相性が絶妙でこれは本物だと思った。
「この味ならこの行列の意味も分かるなあ。可哀想だけどチャコちゃん勝利は厳しいかもね。」
「そうかもね。」
チャコは本当に頑張っていたが、勝負という面では厳しいかなという気はしていた。さっきのお嬢様もどんなことをしても勝ちにいくということを言っていたのだ。
「ねえ、お兄ちゃん。チャコちゃんてさ、いつもニコニコしてるけど、感情の起伏が激しいから落ち込むときは本当に落ち込むんだよね。今日、もし勝てなかったら頑張ってきた分落ち込んじゃうんじゃないかと思うの。お兄ちゃんしか支えてあげられる人いないと思うからチャコちゃんのことよろしくね。」
「うん。」
僕はなんとなくうなづいたがチャコのことは心配だった。マコちゃんはトトカルチョのことは知らない。これにトトカルチョの敗戦が付け加えられるのだからチャコの打撃は相当なものだろう。僕に支えきれるだろうか。
食べ終わるとマコちゃんは自分の目の前にあったケーキを紙皿ごと持って二人は三年D組を後にした。チャコの出店に戻るとマコちゃんはお嬢様のケーキをチャコに渡した。
「はい、伝説のケーキだよ。」
「ありがとう、マコちゃん。ごめん、今はさすがに食べられないから冷蔵庫入れといて。後で頂くから。」
「ほいほ~い。」
マコちゃんはそういうと出店の裏に設置されている大型冷蔵庫にケーキをしまいに行った。
「どうだった?ケーキ美味しかった。」
「うん美味しかったよ。それは認めざるを得ない。」
僕はチャコに気を使おうとしたが言葉が思い浮かばなかった。
「あんまりいい顔してないね。あっちは大盛況だったかな?うちの勝利は厳しいかな?」
「そうかもね……。」
僕は力なく言った。
「まあ負けたら負けたでしょうがないよ。それより勝負はまだ分からないんだからとにかく最後まで頑張るよ。」
チャコは明るくそう言って休めていた手を再開させた。チャコはいつでもどんなときでも本当に前向きで明るい。高倉女史がチャコを評価するのも分かる気がした。チャコも他のクラスメートも最後まで頑張った。そして午後三時三十分、バトルの終了を告げる鐘が鳴り響いた。あちこちの出店から歓声が起こった。チャコの出店もクラスメート達が握手したり抱き合ったりしていた。中にはもう涙ぐんでいる子もいた。それだけ青春を燃焼させたのだろう。マコちゃんと僕はチャコの元に駆け寄った。
「お疲れ様。よく頑張ったね。とりあえず終わったね。」
「うん。こんなに熱くなったの何年ぶりだろう。啓一さん色々ありがとうね。マコちゃんも。あたしさすがに疲れたんで教室でちょっと一休みしてくるね。」
「どうしよう。先に帰ってようか?後片付けとかあるんでしょ?」
「うん。でも待っててもらっていいかな?今日は一緒に帰ってほしいから。」
一人ではとても帰れないということなのだろう。僕は即座に理解した。
「分かった。じゃあマコちゃんとブラブラしてるね。」
「バトルの結果発表は四時から昇降口前だから先に行って場所とっとくといいよ。じゃあまた。」
そう言うとチャコは出店の裏の大型冷蔵庫からさっきマコちゃんが持ってきたお嬢様のケーキを取り出し、校舎の中に消えていった。疲れたからか敗北を予想してか、後姿にいつもの元気はなかった。
それからマコちゃんと僕は昇降口の前に設けられた臨時ステージの右袖で結果発表を待った。生徒達がぞくぞくと集ってくる。マコちゃんは時代劇のうんちくを一生懸命僕に話していたが僕は上の空で聞いていた。チャコはいつの間にか教室から戻ってきてステージの正面にクラスメートと陣取っていた。ステージの反対側の袖には白鳥お嬢様の姿も見える。チャコを頂点に白鳥お嬢様と僕とで二等辺三角形ができた。
やがて予定より十分ほど遅れて臨時のステージに女性教頭が姿を現した。周りを取り巻く女子高生達が盛んに声援を送りはやし立てる。
「みなさん、大変お待たせしました。実行委員会からみなさんお待ちかね、本年度のバトルの結果報告を致します。」
歓声が一段と大きくなる。
「本年度は歴史に残るような名勝負、みなさん本当によく頑張ってくれました。きっとクラスの結束も固くなったことでしょう。この経験をぜひ、明日以降の学校生活に活かしてください。では発表します。本年度の売上高ナンバーワンは三年D組。三年D組はこれまでの記録を大幅に更新しました。」
大歓声が巻き起こった。白鳥明日香は満面の笑みでクラスメートと抱き合っていた。チャコの方に目をやるとチャコは冷静に受け止めていた。周りのクラスメートはとても残念そうな表情だ。大歓声がしばらく続いた。
「みなさん!」
大歓声が落ち着くのに十五秒くらい待って女性教頭がスピーチを続けた。
「ここで大変残念なことを申し上げなければなりません。このバトルではみなさんご承知のとおり、食中毒防止のため食べ物には必ず火を通さなければならないことになっています。しかし残念ながら三年D組で生クリーム及び生イチゴが使用されたことが発覚してしまいました。本年度は本当にみなさん頑張っていたのでこんなことを言うのは心苦しいのですが一部の生徒からクレームがあり、ルール違反があった以上、実行委員会としては見逃すことができません。大変残念ですが大記録を打ち立てた三年D組は失格とさせていただきます。頑張った三年D組のみなさん、本当にごめんなさい。そういう事情で二位の一年B組、これも素晴らしい記録を打ち立ててくれましたが、一年B組を本年度の勝者と決定いたします。では代表の白石朝子さん、前に出てきてください。」