少し長いので上下編として投稿。
1話前の(上)からお読みください。
花瓶は結局、手元に余っていたものを贈ることにした。
『不死鳥の騎士団』の定例会に現れた秋は、普段通りの穏やかな笑みで、改めてあの日の感謝と謝罪の言葉を口にした。
「ハロウィンパーティーと君の誕生日、顔出せなくってごめんね」
闇祓いが忙しいのは承知の上だ。日刊預言者新聞は、日々激化する戦争と闇祓いの活躍を綴っていた。
それでも秋は、シリウスの誕生日にと、相応の万年筆(老舗のリミテッドエディション)を用意してくれていた。そのあたりは流石だと思う。
……もしかすれば、先日「君は金の使い方が下手だ」と言ったことを根に持っていたのかもしれないが。意外と嫌味な男なのだ。
「花はまだ綺麗に咲いてくれてるよ。見るたびに、少しだけ心が休まる気持ちになれる」
そう言って笑う秋の表情は、学生時代と変わりない、純粋で柔らかな微笑みだった。
──それでも、瞼の裏に浮かぶのは。
縋るようにシリウスを見上げた、秋の揺れる瞳で。
あの漆黒が、網膜にこびり付いて離れない。
恐らく、自分は。
秋の態度に、何かの引っかかりを感じている。
あの時。
あの時、秋は。
シリウスに何か、言いたい言葉があったのではないだろうか?
「……お」
『不死鳥の騎士団』本部に顔を出すと、そこにはただひとり、ジェームズ・ポッターの姿があった。
頬杖をついたまま、心底つまらなさそうな表情で、日刊預言者新聞を捲っている。
「新聞、取ってなかったっけ?」
シリウスの端的な問いかけに、ジェームズは顔を上げもせずに「最近は、リリーに独占されていてね」と答えた。
「暗い顔で、戦況の暗澹たる記事ばかりをじっと見つめている。『黒衣の天才』……秋の名前が載るようになってからというもの、ずっとそんな調子だ。そんなことしていては気が滅入る一方だろうが、それでも止められはしないんだろうね。あーあー全く、新婚だというのにねぇ。新妻が、違う男の情報ばかりを集めているというのはなんとも悲しい話だ」
そう言って、ジェームズは顔を上げるとにやりと笑った。その顔に苦笑を返し、隣に腰掛ける。
「秋の名前、か。闇祓いでは大活躍のようだな」
「当然だね、だって僕の秋だもの」
「いや君のじゃないだろ」
「失敬した、僕らの秋だったね」
「いや俺らのでもないだろ!?」
シリウスのツッコミに構うことなく、ジェームズはケラケラと笑っていた。相変わらずの親友に、思わず力が抜けてしまう。
新聞を畳みながら、ジェームズはなんの気無しに呟く。
「身重の身体に障るから、リリーには心身ともに健康でいてもらいたいのだけど……リリーにとって秋は一番大切な友人だろうし、無理なからんよ」
「あぁ、秋はリリーと仲良かったもんな……、って、おい」
「ん?」
わざとらしい顔の眼鏡だ。しれっとしやがって。
それでもポーカーフェイスに徹しきれず、口元がひくついてるのが見て取れる。
親友の背中を思いっきりぶっ叩いた。
「おいっ……おい、聞いてねぇぞ!」
「あれ? そうだったっけ?」
「何だよもう! あぁクソッ、おめでとう!」
身重。
つまりは、そういうことで。
この男は父親になるのだ。
学生時代、ずっと一緒にバカやってきた親友が、いつの間にか結婚して所帯を設け、そして父親になろうとしている。
そう考えると、あまりにも感慨深い。
ジェームズはしばらくとぼけた顔をしていたが、やがてブハッと吹き出すと、肩を震わせ笑い始めた。
「いや、うん、ありがとう。実は僕もまだ信じがたい気分なんだ。リリーのお腹も全然ぺったんこだし、実感が湧かないというか」
「それでも、ちゃんと気を遣ってやんねーとだぜ。女は妊娠中に旦那にされたことを一生覚えていると聞くし」
「ハハ……気を付けるよ。実はリリーからも、あまり他言しないでと言われていてさ。初期は特に、流れる可能性があるらしくて。この話もシリウスだけにしかしていないんだからね」
だから他の人には黙ってて、とジェームズは軽く片目を瞑った。それもそうだと頷いて請け負う。
ジェームズは「シリウスだけに」と言った。
ということは、リーマスにもピーターにも、そして秋にも伝えていないということだ。
誇らしくて鼻が高くなる。気を抜けば口元が緩みそうだ。現に目の前のジェームズは、それはもう幸せそうにニマニマと緩み切った顔を晒している。
おおかた、誰かに打ち明けたかったのだろう。堪え性がないと窘めるべきか。いやでもきっと自分が同じ立場なら我慢できずに喋ってしまうだろうし。如何ともしがたい。
「い、いつ頃の予定なんだ?」
「夏頃だって。まだまだ先だね」
「ふ、ふぅん。そうか。きっと君も忙しくなるんだろうな」
何せ、子供だ。赤子が一人、家族として増えるのだ。想像も付かないほど大変なのだろう。
レギュラスとは年子だったから、シリウスに赤ん坊の世話をした記憶はない。
それでも幼い頃は、子供が産まれた親族が、顔見せにと父の元を訪れていた。父の前で、子供が泣いたり喚いたりしないようにと、親達は必死に子供を宥めていたものだ。
父親に対するシリウスの記憶は、あまり良いものではない。
英国魔法界の重鎮。由緒正しい、伝統あるブラック家。
父のシリウスに対する態度に、愛情を感じたためしはない。ただ家を継ぐ長男としてしか見られず、そしてグリフィンドールへ入った後は、声を掛けてもらった記憶も曖昧だ。ヒステリックに喚き散らす母を諌めている姿ばかりが残っている。
いや。
きっとジェームズは、良い父親になるだろう。
リリーにもド直球で愛を告げた男だ。子供を可愛がらないはずがない。むしろ滅茶苦茶可愛がって仕方ないんじゃないだろうか。
幼い頃からおもちゃの箒に乗せて「僕の子供は天才だ!」と叫び、ちょっと魔力を見せれば「僕の子供はやっぱり天才だ!」と叫び、そして最後に「まぁ僕とリリーの子供だからね! 当然だったね! ワハハハハハ!!」とドヤ顔で叫ぶ……。
「…………」
どうしよう、想像だけでちょっとムカついてきた。
手が出てしまう前に早く帰ろうと立ち上がる。
「ん? もう帰ってしまうのかい?」
「あぁ。よく考えりゃ、ここには大した用がなかった」
「そうか」
「じゃあよ……お祝いとか、その辺はまた今度話そうぜ。リリーが安定期に入ったら、皆にちゃんと話してくれるんだろ? その時には俺も『初耳でした』ってツラで演技しないとな。一人だけ抜け駆けしたって、皆にバレないようにしねぇと」
「ふふ、シリウスは演技が下手だからなぁ。リーマスあたりに勘付かれちゃいそうだ」
「全くだ」
扉に手を掛ける。
「シリウス」
静かな声に、振り返った。
丸眼鏡の奥で、ハシバミ色の瞳がじっとシリウスを見つめている。
「実は何か悩みでも、あるんじゃない?」
おどけるような声音。
普段通りの、どこか茶化すような態度。
それでも、瞳の奥は真剣だった。
真剣に、シリウスの内心を伺っていた。
この眼差しには憶えがある。
学生時代、誰かが悩んだり、苦しんだりしていた時に。
ジェームズはいつも、この眼差しで寄り添ってくれた。
──悩み。
秋の顔が脳裏に浮かぶ。
縋るような眼差しと、震える背中。
──それでも、仕方ないじゃないか。
戦力差は歴然で、
こちらは常にジリ貧で、
先手を取らないと誰かが死ぬんだ。
自分が秋の立場でも。
きっと躊躇わずに杖を取る。
幸せな未来のために。
これから生まれる幼子が、安心して過ごせる世界のために。
秋には、それだけの力があるから。
『英雄』として相応しいだけの力を持っているのだから。
秋のおかげで、徐々に空気が変わってきた。
我が物顔で非道の限りを尽くしてきた死喰い人が、どことなく控えるようになったのだ。
闇の帝王、ヴォルデモートと張り合う魔力の持ち主が闇祓いにいるということ。
それだけで、被害の抑制と犯罪の抑止に繋がっている。
黒衣の天才。名前が付けばすぐに流行る。
魔法界は噂好き。英雄譚を楽しく消費して。
彼の行為を華々しく、時に美麗に書き綴って。
秋の心を、知りもせず。
一度だけ、強く。
拳を握りしめた。
「悩みなんて、無いさ」
──あれが、秋の選んだ道なのだ。
外野が口を出す問題ではない。
縋るような、秋の眼差しを。
『英雄のする顔じゃない』と、シリウスは見なかったことにした。
普段は昼も夜もなく忙しい秋が、今年の誕生日はたまたま休みを取れたと小耳に挟んだので、今年もシリウスは秋を食事に誘うことにした。
夜は不死鳥の騎士団の集まりがあるため、今回はランチを取った後、ポッター家にお邪魔する予定になっている。今頃はリリーが腕によりを掛けて、秋をもてなす準備をしていることだろう。
黒のコートを翻し、シリウスは歩く。
地下は魔法使いの遊び場だ。
煌びやかなショッピングモールの中、ただ一つだけ使われていないエレベーター。その中に入ってボタンを押すだけで、マグルの世界から魔法使いの世界へと様変わりする。
未だ世間は『名前を呼んではいけないあの人』、ヴォルデモートの台頭で物騒なものの、まだ日が高い現在、ショッピングモールにも大勢の魔法使いの姿が見える。魔法植物ショップの脇を抜け、魔女のブティックを通り抜けた折、ふと声が聞こえてきた。
「大丈夫よ! いざとなったらきっと『黒衣の天才』が助けてくれるわ!」
思わず声がした方向を見た。
まだホグワーツに入学していないくらいの歳の少女だ。金の豪奢な髪をなびかせては、ふてぶてしい顔で腕を組み、胸を張っている。
どうやら彼女には行きたい場所があるらしい。それも、両親が渋い顔をするような所へ。しかし両親が止めれば止めるほど、少女は意固地になっていく。
やがて少女はスカートの裾を掴んでは、悔しげに顔を歪めてポロポロと涙をこぼし始めた。
「なんで……っ、なんでっ、パパもママもダメダメっていうのよ! 何かあっても、幣原様があたしを助けてくれるんだから! 幣原様はね、すごいんだから! とってもとっても強くて、その、すごいんだからぁ!!」
…………。
秋の強さと少女の訴えに、一体何の関連があるのだろう?
謎だ。
それにしても、秋はこの数年で随分と有名になった。新聞をまだ読むような歳でもない幼児だって、今や幣原秋の名を知っている。
日々華々しい戦果を挙げているのも大きな理由ではあるのだが、こうも国民に認知された理由は、日刊預言者新聞に連載されている
流浪の旅人、幣原秋。
物語は、極東の地から来た黒い髪に着流しの男が、ふと訪れた英国にて、ひょんなことから闇祓いに入局するところから始まる。
連載が始まってそろそろ一年が経つだろうか。相棒の刀と共に、秋が人助けをしたりばったばったと悪人を斬ったりする、いわゆる勧善懲悪系のストーリーだ。
絵は下手ではないものの、シリウスが三年ほど練習すれば追い抜けそうな、どこか味のある絵柄だった。
当然のことながら、秋とは顔も性格も全く似ていない。黒い髪という特徴しか似ていない。
闇祓いで働く彼らの容姿が公開されていないからこそ出来る荒技だった。
一応は闇祓い局の公認の元行われているとのことだが、一度秋をつついてみたところ、
「──次、ぼくの前でその話をしたらただじゃおかない」
と、温厚な秋らしからぬ声と眼差しで睨まれたので、うずうずする気持ちを抑えながら、漫画をスクラップする日々だ。
この連載がきっかけかは知らないが、日刊預言者新聞の購読者数はここ一年でぐっと増えたと聞くし、闇祓いの人気は急上昇したらしい。
連載がまとめられて書籍化したら、ひとまず二十冊は欲しいところだ。
そんな冗談はさておき。
そんなヒーローの元ネタである幣原秋は、既に指定した喫茶店で待っていた。
柔らかな印象を残す整った顔に、艶のある長い黒髪。決して頑健ではない、線の細い身体。目線は下方、手元の本に向けられている。
近付いて来ようとする店員に手で合図し、秋の座る席へと歩み寄った。
「よう色男、あんな小さな女の子を泣かせるなんて流石だな」
「は?」
秋は怪訝な表情で顔を上げる。ただの軽口だと軽くかわして、秋の正面に腰掛けた。
ちらりと秋の手元が目に入る。分厚い専門書かと思ったが、どうやらソフトカバーの小説のようだ。
「待ってる間、仕事でもしてんのかと思ってた。何読んでんの?」
「ぼくだってプライベートの時は気を抜くさ。……子供のころに好きだった作家の新作でね。翻訳されたのが書店に並んでいたから、思わず買っちゃった」
「ふぅん。……面白い?」
「シリウスは嫌いかも。主人公がずっとうじうじしてるし……でも、久しぶりに日本の描写を目にすると、なんだか懐かしい心地になる」
そっと微笑んで、秋は本の表紙を軽く撫でた。ふぅんとシリウスは頬杖をつく。
「『懐かしい』ね……そういや、秋は日本に帰らないのか? もうずっと帰ってないだろ」
学生の頃は夏に帰っていたようだが、闇祓い局に入局してからは、確か一度も帰っていなかったはずだ。闇祓いの仕事に不死鳥の騎士団の任務にと、日々を忙しく過ごしていたように思う。
秋はしばらく黙っていたが、やがて柔らかな声で言った。
「確かに、ここ最近日本に行けてないんだよね。忙しいは忙しいんだけど、たまには墓参りもしないとだった」
「……あの……悪かった」
「気にしてない、大丈夫。……それに──」
「『あいつ』を殺すまで、日本には戻らないと決めてるんだ」
穏やかな顔だったが、瞳の奥には強い感情が渦巻いていた。
その眼差しに、思わず次の言葉を飲み込む。
秋は苦笑して席を立った。
「……ふふっ、ごめん、冗談。──早く行こう、シリウス。君が奢ってくれるんだろ? 今日のぼくは野菜の気分なんだ、君イチオシの美味しいとこに連れて行ってくれよ」
伸ばされた秋の手を、緩慢に取る。
「……今日の俺は肉の気分だ」
「誕生日特権で却下だよ」
「奢られる身のくせに!」
秋の要望通り、野菜の美味いレストランへ足を向けた。山の麓、山と海が一望できる、都会から少し離れた奥まった隠れ家。こういうとき『姿あらわし』は便利だ。
誕生日プレゼントにとラテン呪文学の本を贈ると、秋はとても喜んでくれたあと「ぼくからも、少し早いけどシリウスの誕生日に」と言って、魔力で書けるボールペンをプレゼントしてくれた。
秋の手製と聞くと、どこか慄く心地になるのは何故なのだろう。昔から滅多に羽根ペンを使わない奴だったが、自作するほど筆記具には一家言あったとは驚きだ。
ラテン呪文学の本の値段が気になるらしい秋に「君がくれたボールペンと同じくらい」と返せば、秋はむぅっと眉を寄せた。冗談だと思われたようだが、しかし実際、幣原秋が作った魔法道具とすれば、そのくらいの値は付くと思う。
話はやがて、ハリーのことに移り変わった。
仲間のうち、秋が一番忙しくてハリーには会えていない。だからだろうか、秋にせがまれて途中からずっとハリーの話をしていたように思う。
あと数時間もすれば直接顔を見られるというのに、どうしてこうも待ちきれないのか。
とは言え、シリウスもハリーのこととなると無限に話すことができる。
一歳の誕生日におもちゃの箒を贈ったらとても喜んでくれたこと。
先日ハリーがついに「シリウス」と呼んでくれるようになったこと。
歯が少しずつ生え揃ってきたこと。でも歯磨きは嫌いで、いつもリリーから逃げ回っていること。
どんな話も、秋は楽しそうな顔で聞いてくれた。
「いいなぁ。ぼくもハリーに名前を呼ばれたいよ。まだぼくのことは憶えてくれてないみたい」
「接する時間が短いもんな、仕方ない」
「君はポッター家に入り浸りすぎなんだよ」
「無職の特権ってやつかな」
「働け無職」
おお、秋が白い目で見てくる。しかしこのくらいで怯んでいては、職業無職は出来やしない。
誰から何を言われようとも馬耳東風、のらりくらりと受け流す技術がなければ務まらない名誉職なのだ、無職というものは。
「そりゃあね? 確かに、騎士団の活動に専念してくれる人がいるのはありがたいんだけどさ……」
「だろ?」
「ドヤ顔しないで。『だけど』の後には前文の否定が続くんだよ」
そんな文法の授業のように言われても、定職に就く気はシリウスにはさらさらないのだ。
自分も秋のように闇祓いでも目指していれば良かった気がする。年齢制限は無かったはずだし、来年にでも受験してみようか。
秋はため息をひとつついた。
「……でも、リリーもジェームズも仕事を辞めなくちゃいけなくなったのは、何だか悲しいんだよね。お金を稼ぐだけが仕事じゃないし。リリーなんて、念願叶って魔法薬学の研究所に入れたのにさ。復帰させてあげたいよ。……早く、全部終わればいいのに」
「…………」
ジェームズとリリーの息子、ハリー・ポッターについて為された予言。
ハリーを狙うヴォルデモートから隠れるため、ジェームズとリリーは騎士団の活動も控えては、ずっと家の中に引きこもる生活を送っている。
オマケに、気掛かりなスパイのこと──
「……なぁ、秋」
一度気になったらもう駄目だった。
「奴らは左腕に『闇の印』を入れてるんだろ。なら、俺のことも存分に確かめればいい」
左の袖を捲り上げ、秋の眼前に前腕を晒す。秋はシリウスの腕を横目で見たあと、皮肉げな笑みを浮かべた。
「そんな、ぼくの眼前で証拠を残すような愚行、あいつが犯すと思う? 誰にも一目でわかるような痕跡があるんなら、ぼくらはこうも苦労してない。そうだろ?」
「……ハハ。ま、そうだよな」
敵味方の判別としては不十分。そりゃそうだ。そんな簡単な話じゃない。
しずしずと袖を戻した。大きく息を吐いて椅子の背に体重を預ける。
「でも、こっちとしてはさぁ……あんな野郎に寝返ってると疑われてるだけで気分悪いし、白黒はっきり付けてぇんだよ。でも、君もジェームズも、誰がスパイかを突き止めようとすらしてねぇし。何、モヤモヤしてんのは俺だけ? 君ら、気持ち悪くはないのかよ」
そう話を振ると、秋は困ったように微笑んだ。
「シリウスらしいね。曖昧は許せない?」
「許せないな。敵か味方か、実に単純な話だろ」
「……それもそうだけど。でもね、ぼくは思うんだよ」
「何を?」
「……友達を殺したくはないなって」
「甘いよね」と、秋は笑って首を傾げた。
「甘いのは、わかってる。ぬるいなって自覚もある。でも、どうしても、思ってしまう。スパイはまだ誰も殺してない。だから決定的な瞬間が来る前に、まだ戻れると自覚してほしい」
「…………」
「結局ね。ぼくは、誰も疑いたくないんだ。友達の、誰のことも。だから、ぼくに気付かせないでほしい。ちょっと間違えてしまったかもしれないけど、その失敗はまだ、許されていい。許されるうちに、ぼくらの元へ戻ってきてほしい。……疑わしきは罰せずだと……そうは、思わないかな?」
「…………許しちゃ、駄目だろ」
「駄目かな」
「駄目だよ」
「そうだね。シリウスはいつも正しい」
秋はやっぱり笑っていた。
秋の言葉は、理解はできても納得はできない。ぬるいとしか思えない。
犯した罪は償わせるべきだし、裏切りは決して許してはならない。こうしてジェームズが、自宅に閉じこもらざるを得ない今の現状でさえ、シリウスには腑が煮え繰り返る心地になる。
──それでも。
誰よりも戦場に立っている秋が「誰も疑いたくない」と、そう言うのであれば。
(まぁ、秋が目零ししても、俺はそいつをぶん殴るけど)
それでも、今はまだ何も起きてないと言うのなら、ぶん殴るだけで済ませてやろう。
「……早く、全部終わればいいな」
そんなシリウスの呟きに、秋は「そうだね」と短く返した。
さて、暗い話はもうおしまいだ。
今日は秋の誕生日なのだ。このめでたい日にするべき話題じゃなかった。
ホスト側として深く反省しつつ、シリウスは軽く手を上げ、ウェイターに合図した。頼んでいたワインを持ってきてもらうよう頼む。
「酒かい?」
「飲めるだろ?」
「……ま、いいや。それじゃあ一杯だけ頂くとするよ。リリーに迷惑かけたくないし、ポッター家に行く頃には醒めるくらいでね」
「そんなこと言って、俺、君が酔い潰れた様は見たことないんだけど?」
見た目に似合わず、いくら呑んでもケロッとしているのだ。つまらん男である。
そうこうしている間に、ウェイターがワインボトルを手に歩み寄ってきた。ラベルをこちらに向けながら軽く説明しつつ、ウェイターはコルクの栓を抜く。
瞬間。
ウェイターが持っていたワインボトルの、上半分が粉々に吹き飛んだ。
白のテーブルクロスに染み込む赤色に、思わず思考が停止する。
──タ────ン…………
遅れて、微かに聞こえる銃声。
「……っ、伏せろ!!」
叫んで、秋とウェイターの腕を掴むと身を伏せた。同じフロアにいた数組の客も、悲鳴を上げながらテーブルの下に隠れる。
秋は面食らった顔をしていたが、すぐに眉を寄せては周囲を見渡した。
「狙撃か?」
「みたいだ」
割れた窓ガラスと、その先に広がるなだらかな山地に目を向ける。
直線距離にしておよそ二キロほど、ライフルの射程圏内だ。木々が茂っているから、狙撃手が身を隠すにもうってつけの場所だろう。
弾丸が着弾した壁を見て、秋はすっくと立ち上がった。
「おい、秋!」
「動かないで」
窓の外を睨みながら、秋は言う。
「狙われてんの、多分、ぼくだから」
そう言って、秋が指を鳴らした瞬間。
──ぐわんと、世界が歪んだ。
それは味わったことのない感覚。
未だかつて経験したことのない、虚。
時間の流れが遅くなるような、幻覚。
世界の中心が、今この瞬間書き換えられる。
括られた彼の黒髪が、魔力に揺られ宙を舞う。
部屋中の魔力が一斉に、幣原秋に対して跪く。
『────────ご命令を、我らが主』
──音より疾く。
二撃目が迫る。
膨大な魔力を束ね上げ、
彼は静かに杖を抜いた。
「────」
たとえ狙撃手がどこを狙ったとしても、弾は必ず秋の正面に到達しただろう。
他の客を巻き込んでしまわぬよう、狙撃手が狙いを過たぬよう、周囲の魔力が秋の手により手繰られる。
空気を切り裂いた凶弾は、秋の眼前で不可視の盾に遮られた。
弾は音速を超える衝撃波を伴って、盾を砕き奥の人間を食いちぎるべく暴れ続ける。
しかし、その盾は決して敗れることがなく。
やがて力を失った弾丸は、絨毯の上に音もなく落ちた。
「そこか」
淡々とした秋の声に、たった今、狩る側と狩られる側が入れ替わったことを知る。
背筋に震えが走るも、なんとか堪えた。
「シリウス、ごめん。こっちは頼んだ」
「……おう、任せろ」
こくりと頷き、秋はその場で『姿くらまし』した。数秒後、森の一部から炎が上がる。あちらはあちらで、戦闘が始まったのか。
そろそろと立ち上がると、シリウスはあたりを見回した。
「今、俺の仲間が制圧に向かった。もう狙撃の心配はない……だが、安全のために避難を提案したいと思う」
客から異論は出ない。そのとき、一人が声を上げた。
「あの……今のはまさか、闇祓いの幣原秋、なんでしょうか?」
シリウスが「あぁ」と肯定すると、途端に張り詰めていた空気が緩んだ。ホッとした顔で胸を撫で下ろしている。
ホッと息を吐いて、隣のウェイターに視線を向けた。
「避難誘導を頼む。俺と一緒にいたのは闇祓いだ、魔法警察にはこちらから話を通す」
「はっ」
狙撃の狙いは秋だろうし、既に秋が向かったのならば、狙撃手は潔く撤退しようとするはずだ。
しかし万一が起きては敵わないので、客の避難が済むまでの間、全員を守るように薄く広く盾の呪文を張り巡らせた。
「……それにしても……」
何故、秋の居場所が敵にバレたのだろう。
ここは英国内ではあるものの、ロンドン市街からは離れている。たまたま敵方が秋を見つけ、狙撃しようと思い立った──というのは、どこか不合理な気がする。
しかし秋以外を狙ったとしては、あの狙いは正確すぎた。
そもそも、秋が今日休みだったということさえ、知っている者は少ないはずなのだ。
シリウスでさえ今日のことは、秋の闇祓い直属の先輩であるエリス・レインウォーターから、世間話のついでに聞いていなければ知り得ない。あとは、ジェームズとリリーと──
「……ち」
そこまで考え、思わず舌打ちした。
簡単な話だ。今日この日のこの場所で、狙撃手が秋を狙えた理由。そんなもの、シリウスが情報を流せば一瞬だろう。
もちろん、シリウスには何一つ身に覚えがない。しかし身に覚えがなくとも、秋がシリウスを疑うには、十分すぎるほどの証拠となり得る。
(──誰に嵌められたかも判別できないってのは、嫌になる)
「キャアアアアァァ!!」
耳をつんざく悲鳴に、ハッと我に返った。
今の悲鳴は、避難中の客のものだ。杖を握ると駆け出す。
「何っ……!?」
思わず息を呑む。
店の外には、避難しようとする者を出さないよう、2体の
(なんでこいつら、こんなトコに……いや、今は!)
怯える客の前に躍り出た。
「──フリペンド!」
周囲に他の敵影がいないことを確認した後、シリウスは場をウェイターに任せ、そのまま『姿くらまし』した。
目的地は、秋が狙撃手を追って向かっただろう山の中腹。秋に限って滅多なことはないだろうが、万が一を思うとどうしても気に掛かった。
降りた山は、戦闘の後が色濃く残っている。焼け焦げた草木に折れた枝、所々に広がる泥濘に混じって、先ほどシリウスも行き合ったキメラが、至るところで息絶えていた。横目に見ながら先へ進む。
やがて、古びた塔に行き着いた。
半壊した扉を開け中に入る。螺旋階段の周囲にも、多くのキメラの死骸が散らばっている。階段の足場にまで血が溢れているので、靴裏を汚さず上るのに神経を使った。
上の方から物音がする。
杖を握り、油断なく構えた。慎重に足を運ぶ。
音が聞こえるのは奥の部屋だ。ガタンバタンと転がるような音に加え、魔法の閃光が漏れている。
「来るな……来るなぁ!!」
知らない男の叫び声に、シリウスはそっと部屋の中を覗き込んだ。
階段はこの部屋で切れている。つまり、この部屋が最上階だ。
四角く切り抜かれた窓が並んだ円い部屋で、ひとりの男が壁にもたれてへたりこんでいる。
対する秋は、ただ黙って男を見下ろしていた。黒のコートの裾が土埃で汚れている以外、目立った外傷は無さそうだ。
少しだけホッとした時、男の声が耳をつんざいた。
「あと、もう一歩でも近づいてみろ、闇の帝王を呼ぶぞ! お前みたいな若造なんて、あの御方にかかればひとたまりもないんだ!!」
左腕に刻まれた闇の印を見せながら、男は歯を剥き出して秋を牽制する。ぎょろついた瞳が落ち着きなく秋と窓とを行き来しているから、恐らく窓から逃げる気なのだろう。
秋は一度だけ足を止めたものの、再び歩みを再開した。ゆっくりと歩み寄る秋を見て、男は再度悲鳴を上げる。
「だから──近付くなって言ってんだろ! いいか、あと一歩でも──」
「だから、早く呼べばいい」
低い声で呟いて、秋は強く一歩を踏みしめた。
「呼びなよ。ほら」
「……ヒィッ……」
「早く呼べよ。殺してやるから」
秋が握った杖の先から、バチバチと火花が弾け飛ぶ。
「ねぇ、早く。あいつを殺す機会を用意してくれるのなら、むしろ本望だよ」
「……ひぁ……」
「あいつを殺すことだけが、今ぼくが生きてるたったひとつの意味なんだ」
それだけしか、ないのだと。
秋は、昏く断言した。
「殺してやる。殺してやる。絶対に、絶対に許さない。必ず殺す。誰も敵わないと言うのなら、ぼくが相手になってやる。ぼくが絶対に、あの男の息の根を止めてやる」
絶対に殺す。
絶対に殺す。
絶対に殺す。
「英国魔法界に、秩序の回復を。それが
……ほら、呼びなよ、ご主人様をさ? 酷い闇祓いに脅されてます助けてくださいって、早く乞えよ」
部屋の中を、殺意が渦巻く。
呼吸さえも止まるほどの緊張に、ガタガタと震えていた男は、とうとう白目を剥いて失神した。
「なんだ、呼ばないの」
つまんなそうにそう呟いて、秋は男の前にしゃがみ込んだ。男の左腕に刻まれた闇の印をじっと見ては、ふと思いついたように自身の指先を触れさせる。
特に何も起こらないのを確かめては、自嘲するように笑い声を溢した。
「……はは。ま、そうだよなぁ……」
男の腕から指を離し、秋はそのまま床へ、へたり込むように尻をついた。膝を抱えて息をつく。
虚空をぼんやりと見つめながら、秋は掠れた声で呟いた。
「…………疲れた、な」
あれだけ渦巻いていた殺意は、もうどこにも見当たらない。
秋の背中は、驚くほどに無防備だった。
壁を隔てたシリウスにも気付いている様子はない。今、魔法を秋に向けたら当たってしまうのではないかと思うくらい。
空っぽの背中に、何と声を掛ければ良いのか、シリウスにはわからなくなった。
気配を消して、部屋から離れ階段を降りる。
塔の外で待つこと、数分。
秋は普段通りの顔をして降りてきた。
秋は、事件があったため一旦闇祓いに戻ること、でもすぐ終わりそうだからポッター家には後ほど向かうつもりだと、そういう旨の話をしていた。
していたと、思う。
「ちょっとした事務仕事が増えちゃった。でも、大丈夫だよ」
そう言って秋がいつも通りに笑うから、シリウスはもう二度と、問い糺す機会を失った。
…
……
………
「幣原秋の死に、心当たりはないか?」
その問いかけに、彼方へと飛んでいた意識が現実へと戻ってきた。
監獄の中は寒すぎて、見開いた眼球の表面が凍ってしまいそうだった。
冷たい床に這いつくばるよう、両の手足を触れさせて。
視界の中心には、日刊預言者新聞の一面がずっと居座っている。
緩慢に顔を上げた。
綺麗に磨かれた革靴に、仕立てのいい紫色のローブ。胸元には、魔法省の紋章があしらわれている。
すっきりとした金髪に、学生時代から変わらない、人好きのする整った容姿。
「リィフ……フィスナーか」
「久しぶりだ、シリウス・ブラック。学生以来かな」
リィフはシリウスと目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
二人の間に挟まる鉄格子を見て、立場の違いに思わず笑みが溢れる。
「フィスナーの御曹司が、こんなトコ来ちゃいけねーよ。とっととお家に帰んな」
「今日はフィスナーとしての用事ではなく、幣原秋の友人としてここに来た」
そう言って、リィフは日刊預言者新聞の見出しをトンと指さす。
『友人』という言葉に苦いものを感じながら、もしかするとこの新聞は、リィフが意図的にシリウスの監獄前に落としたものかもしれないと思い至った。
「僕は秋の死を調べている。……秋の遺体は、マグルのビル群が並ぶ区画で発見された。発見は早朝、ランニングをしていた一般のマグルだ」
尋ねてもいないのに、リィフはそんなことを伝えてくる。
「検死の結果、すぐそばの十五階建てのビルの屋上から飛び降りただろうことが判明した。ビルの屋上の鍵は魔法で破壊されていて、その魔法は秋本人の杖で為されたことが確認されている。目撃者は誰もいない。第一発見者のマグルにも怪しい点はない。防犯カメラの映像からも、ロクなものは出なかった。
黒衣の天才、幣原秋。死喰い人の中に、秋を憎む者も多くいたはずだ。殺したいと願う者も、きっと……。そう言った者に、心当たりはあるだろうか?」
真顔で問うリィフを見ていると、暗い笑みが喉奥から溢れてきた。
この男はなんて愚かなのだろう。
それだけの状況証拠を持ってして、なお、秋を殺した犯人を探そうとするのか。
「じゃあアンタ、もしアンタが秋を恨んでいたとして、果たしてアンタは秋を、あの黒衣の天才を殺せるのかよ?」
いきなり笑い出したシリウスを見ても、リィフは表情を変えない。
そのことが余計に愉快だった。
「秋は何度も俺に背中を向けたよ。一切警戒なんてしていない、無防備すぎる背中だった。その背に杖を向けたって、きっと秋は気付かなかっただろう。……それでも俺は、自分が秋を殺せるなんて戯言、たったの一度も思えたことがないさ」
勝てるとか敵うとか、そんなレベルの話じゃない。
冗談じゃなく、立っている次元が違っていた。
魔法の撃ち合いを試みる気にもなれない。
あんな、空気中の魔力さえも従えてしまえるような魔法使いを、一体どうやって殺せるというのだ。
あのような天賦の才能を、きっと英雄の資質と言うのだろう。
ただその才能のみで、世間から祭り上げられた孤高の天才。
秋と張り合える者なんて、ヴォルデモートくらいのものだ。
──そのヴォルデモートも、いない今。
「英雄を殺せるものなんざ、たったひとつしかないだろ」
怪物を退治するのが、英雄なのだとしたら。
その英雄を殺すものは、たったひとつ。
「俺も、アンタも……秋を取り巻いた人間、全てからなる『大衆』こそが、英雄を死に至らしめたのさ」
知っていた。
気がついていた。
秋の弱さに、脆さに、気がついていながら、シリウスは、全部見なかったことにした。
大衆よりもずっとずっと罪深い。
秋が死んだ理由の一つは、間違いなく自分だ。
ビルの屋上に佇む秋、その背を押した手の一つは、間違いなく自分のものだった。
「秋を殺したのは、俺で、アンタで、世間で、一般人で、空気で、そして、秋自身に他ならない」
耳をすませば聞こえていた。
助けを乞う小さな声が聞こえていた。
誰よりも強かった彼は、それでも誰よりも心優しかったから。
軋む心を、全て仮面の奥へと押し隠して、ずっとずっと戦場に立ち続けたのだ。
──全ては、明るい未来のために。
戦争は終わった。
大切なものを全て失くした秋は、復讐という唯一の拠り所さえも失った。
戦争に勝ったのに、その功労者である秋の手元には、何一つとして残らなかった。
そりゃあ、死にたくもなるだろう。
リィフはしばらく黙っていた。
次に口を開いたとき、声は僅かに怒気が混ざっていた。
「では君も、秋の死は自殺だと言いたいのか……君さえも」
「…………」
「……いや、すまない。君に怒りを向けるつもりはなかった。……ただ僕は、秋の死が他殺である可能性がなくならない限り、犯人を探し続ける気だ。でないと、秋に顔向けができない」
「……おう。なら、気が済むまでやればいい」
親しかった友の死を受け入れられないのは、多分、当然のことだと思う。
シリウスだって、少し前まではきっと受け入れられなかっただろう。
──今だってきっと、受け入れられてはいないのだ。
どれだけの月日が経とうとも。
あぁと頷き、リィフは立ち上がった。
「それじゃあ、君も達者で」
「……はは。じゃあよ」
リィフが立ち去って行く。
靴音が遠ざかるのを聞きながら、シリウスは静かに顔を上げた。
独房の隅から光がさす。
奈落の底を照らす朝日は、どこまでも白々しくて嘘くさい。
世界に朝は来れど、罪を抱えた心は決して晴れることはなく。
澱んだ闇夜に沈む檻の中、ただ目を閉じて、祈る。
友を殺したこの罪が、いつか赦される日が来ることを。
友の元へと逝ける日を、ただ、じっと待ち続ける。
救いは未だ来ない。
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続編「空の追憶」も連載していますので、よろしければご覧ください。