それでもマリアにはランスという方向けになれば作者として望外の喜びな第二部後日譚の妄想です
 なお眼鏡属性がお好きな方には辛い描写が多々あるかもしれません


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何がマリアの可能性だよ!

 RA15年。

 

 ぽつぽつと雲が浮かぶ青空の昼頃に自由都市国家群のとあるのどかな村にて、旧友同士が久しぶりに再会していた。

 

「いらっしゃい、志津香、ナギ」

 

「お邪魔しまーす」

 

「うん、お邪魔します」

 

 家主が先に入って歓迎すると、長い金髪を後ろで()わえた魔法使い、ナギ・ス・ラガールが笑顔で家に入っていく。続いて緑色の髪を長く揃えた魔法使い、魔想志津香が戸を静かに閉める。

 

「今お茶出すからねー」

 

 天候も快晴で、窓から差す太陽の光が程よく温かい。

 

 小さなコップを()けて湯呑(ゆのみ)を食器棚から三つ取り出し、茶葉を煮立(にだ)てていた急須(きゅうす)で熱い茶を注ぐ。蒸気が立って眼鏡が少しだけ(くも)った。

 

「ありがとう。いやー、テントや宿じゃなくて家でのんびりできると思うと体が安息を求めてすぐだれちゃうよね」

 

「仮にも自宅じゃないんだから、もう少ししゃきっとしなさい」

 

「はーい」

 

 ナギは姉の志津香に従って、食卓に突っ伏していた上半身をのっそりと起こす。少し抜けた妹を見る目は慈愛に溢れていたが、先んじて茶請(ちゃう)けの菓子を一口食べている。実はどちらも自由な気質だった。

 

 お(ぼん)に湯呑と追加の茶請けを乗せて運び、食卓に並べていく。

 

「はぁーあったかい。落ち着くなぁ」

 

「まあ今くらいは大丈夫でしょう。あいつも襲ってこないだろうから」

 

 ごく普通、自然体。しかしこの仲良し姉妹は最近ずっとあることに悩まされていたはずで、縁遠いものだった。

 

 ()き物が落ちたような二人を見て嬉しくなると共に、意を決して問いかける。

 

「そのようすだと解決した、ってことでいいの?」

 

 親友の問いかけに志津香が答える。

 

「うん。あいつはもう呪いから解放された。流石にあれを超えるだけの迷惑をかけたりはしないと思うわ、マリア」

 

 

 

 マリア・カスタードにとってこの16年間は地獄のように辛い日々だった。

 

 そもそも想い人が女性に関してどうしようもない節操(せっそう)なしで、そのくせ一番大切に想っている女の子をいつも奴隷として(はべ)らしていた。本人は見せつけている気持ちなどわずかにもなかっただろうけれど、マリアにとっては会うたびに気が気じゃなかった。奴隷のシィル・プラインも大切な友達であり、想い人と友達との間で揺れてもいた。特に16年前、バード・リスフィという冒険者によってシィルが命を奪われてからは自責の念が強まって視野が(せば)まっていた。バードがシィルを恨むいきさつにはマリアや志津香らが引き起こしたカスタム沈没事件が大きくかかわっていた。非常に大きな迷惑をかけてしまった負い目が、一時期のエレノア・ランのように周囲を心配させる悪い方向に進ませてしまった。

 

「それもこれも全部あのバカのせいよ。周りのことなんて気にせず、いつもいつも騒動ばかり起こして」

 

「でも、あの子達のおかげで正気に戻ったわけだし。私達は生粋(きっすい)の冒険者になってしまったけど、どこかで腰を落ち着けてのんびり暮らすのもありじゃない、お姉様?」

 

 茶と菓子の半分を消費して、想い人とその子供たちによる魔王の呪縛からの解放について顛末(てんまつ)を語り終えた二人は、ようやく終えた一大事の重みによる反動からか、口々に語る。

 

「そっか、ちゃんと解放されて、シィルちゃんも救われたんだ」

 

 マリアは聞き入っていて、湯呑の中身は少しだけしか減っていなかった。

 

 想い人は規格外な人物のため、魔王をやめて大本となる魔血魂を破壊したことも大怪獣クエルプランを倒したこともあり得ると納得できる。だが腹部に大きな穴を開けられたシィルが生き返るとはどうしても思えなかった。彼女の葬儀に参列して、複雑な感情を抱きながらも帰ってくることはないと信じ切っていた。

 

「シィルちゃんを愚直(ぐちょく)に信じていた方が正しかった、のかな」

 

「それはどうかな。私も子供心にシィルお姉ちゃんとはもう会えないって思っていたよ」

 

「ナギの言う通り。誰がどう見ても子供の癇癪(かんしゃく)でしかなかった。それがどうにかなったのはあいつが信じたからじゃなくて、周りの皆が頑張ってあげたからよ。マリアも含めて」

 

「ありがとう。でもそうは思えないよ」

 

 想い人が魔王になって、シィルという消えてしまった大切な人を追いかけていた。マリアはそんな想い人を止めようともがいて、足掻(あが)いて、手酷く振られた。

 

 当然だった。想い人が魔王の破壊衝動に何とか耐えられていた理由の一つは間違いなくシィル・プラインを取り戻すことだった。それを諦めさせようとしたマリアはある意味で勇者ゲイマルクよりも世界に破滅をもたらそうとしていたかもしれない。

 

 何より、想い人には底知れぬ力がある。どんな難事が立ちはだかろうとも、絶対に打ち破って常人には予想できない偉業を達成する英雄の力だ。信じられなかった自分が悪いと、マリア自身も結論付けていた。

 

「マリア、その」

 

「いいのよ、自分で決めたことだから。それより、一緒に旅していた子達のことをもっと教えてほしいな」

 

 無理に微笑(ほほえ)んでそう伝える。露骨な話題そらしだったが、志津香とナギは乗ってくれる。

 

「皆いい子だったよ。乱義もリセットも立派になって、ザンスは相変わらずからかい甲斐があって」

 

「ザンス達は今難しい年頃なんだから変にからかいすぎないようにしなさい」

 

「えーいいじゃない、家族の軽いスキンシップだって。元就はなんかずっとああいう性格でそっち方面には反応なさそうだし、エールもどちらかと言えば元就寄りでしょ?」

 

「全くこの子は。姉らしく導いてあげるとか、もっとできることがあるでしょう? あ、エールはクルックーさんの子どもで、基本無口だけど不思議な子でね」

 

 そんなふうに、楽しそうに兄弟姉妹のことを話す二人が、マリアにはまぶしかった。

 

 どうして私はあんなふうになれなかったのだろうと、意味のない後悔を湯呑の茶から立つ蒸気で時折曇らせた眼鏡の裏でずっと隠し続けた。

 

 

 

 夕暮れになり、外から差し込んでいた日の光はなくなっていた。二人とも今晩は泊まっていってくれるらしい。ずっと一緒にいられればと思いもするが、二人とも今は冒険者だ。旅のために必要な物を買い揃えるために村を散策すると言って一旦出てしまった。

 

「はぁ」

 

 静かになった居間で誰に聞かれることもない溜息を吐いた。

 

 ランともミルとも連絡は取っているし、普通に親しい人と出会っているのに、なぜか寂しさを覚えていた。理由は自分でも痛感する程に分かっている。

 

 想い人も友達も前を向いて新たに進んでいるのに、自分だけが取り残されている。錯覚でしかないそれをマリアは振り払えないでいるからだ。

 

 一人で寂寥感(せきりょうかん)を抱えている時はよく悪い方向に思考が向かってしまうものだが、しかしふと考えてしまう。

 

「ゲイマルクに協力していたらどうなっていたかな」

 

 

 

 勇者ゲイマルク。魔王を倒す勇者の役割を全うするために世界人口を30%も減らした勇者災害を引き起こした人物。しかもまだ魔王を殺せるだけ人口が減っていなかったためさらに間引こうとしていたというから、恐怖心すら麻痺してしまう。

 

 最終的に魔王によってゲイマルクは打倒された。本来人間の脅威となる魔王と、人間を救うはずの勇者の立場が逆転した。この16年間、東ヘルマンという形で反魔王の機運が生まれつつも決定的にならなかったことにはこうした背景がある。魔王になってもなお人類を救う存在に、混迷の時代の人々は希望を見出さざるを得なかった。

 

 だけど。

 

 魔王に痛烈(つうれつ)に振られたあの頃のマリアにとって、ゲイマルクこそが希望に映ってしまったことが一度だけあった。

 

 

 

「どう、お姉さん? 俺に協力する気になった?」

 

 RA4年。夜の(とばり)の向こうでかすかな炎の明かりが見える時に、右手のエスクードソードを玩具のように軽く振り回しながら、無感動な目つきでマリアに投げかけてきた。

 

 ふざけた言葉だった。魔王を倒すために人類を殺して回る。理屈が通っているようで全く存在しない。結局は魔王の代わりに勇者が君臨する世界になるだけだ。勇者が勝手に決めた規範を守らなければ魔王を殺すためという大義名分で処刑される、抑圧(よくあつ)窒息(ちっそく)しかねない世界の到来。しかも被害をほとんど出していない魔王に比べて今代の勇者ゲイマルクは明らかにやりすぎな被害を出し続けている。カイズやイタリア、マリアが訪れたことのある都市で目を覆いたくなるような惨状(さんじょう)を作り続けている。

 

 助力なんてもってのほか。さっさと消えなさい。

 

 と、簡単に切り捨てられたらよかったのに。

 

「あいつ酷い奴だろ。お姉さんみたいな才女を振り回してあげくに残酷に切り捨てる。でもお姉さんはまだ良い方かもしれない。あいつは魔王だ、知りもしない相手なら認識する前に斬殺するんじゃないか?」

 

 耳障(みみざわ)りはおかゆフィーバーの肌ほどもよくなかった。ゲイマルクが語る内容は勇者らしくもないマリアの個人的な復讐。外側から見れば、魔王に精神を(しいた)げられた哀れな女性ゆえにそんなことをしたいと想像してしまうらしいと朧気(おぼろげ)に感じた。

 

 そもそも、マリア一人を勧誘するために近隣で小火(ぼや)騒ぎを起こす悪人に手を貸すつもりは微塵(みじん)もない。仮に復讐心が芽生えたとしてもかつての志津香のように自分だけでやり遂げる。加えて想い人との関係に赤の他人を引き入れたくない。昔、志津香の代わりに抱かれるということを何度かしていたが、その実、想い人に相手をされたかっただけかもしれない。

 

「チューリップシリーズの力はよく知っている。第二次魔人戦争で大活躍してからずっと、各国で導入が始まっている。単純火力的には魔法使いの部隊と同等に運用できるからね。リーザスはその前から使っていたから数多くあるみたいだし、次に人を減らすのに狙い目かなと思ってるんだけど、どう?」

 

 忌々(いまいま)しい。マリア自身が仲間と共に作り上げたチューリップシリーズを使って人口の削減(さくげん)を行うなんて。しかもそれを本人に向かって言うなんて。率直に、怒りに身を任せてレンチで撲殺(ぼくさつ)したいと技術者の矜持(きょうじ)が訴えてくる。

 

 だけども、甘言(かんげん)(まど)わされないと言い切れなかった。

 

 ゲイマルクの言葉はなぜか聞いてしまう魔性があることも原因だが、それ以上にマリアには耐えられないという強い思いがあった。

 

 支えてくれる人が皆無ではない。魔想志津香をはじめ、ミル・ヨークス、エレノア・ラン、ナギ・ス・ラガール、カスミ・K・香澄……数多くの友人が、仲間がいてくれる。

 

 だがそれは決して立ち直れる保証ではない。マリア本人が、周りにいてくれる皆が、どれだけ頑張ってもどうしようもない時がある。

 

 そこに、するりと心の隙間にゲイマルクが忍び寄ってきた。言っていることも滅茶苦茶で、やりたいことははっきりしている。どこかの誰かと似ても似つかないようでいて、世界を良くも悪くも動かしてしまう飛び切りの大物。流されるに足る何かが、そこにはあった。

 

「協力してくれたら、きちんと見返りは渡すよ。親しい友人を傷つけられたくないだろう? 見逃すし、魔王がきても助けてあげよう。ああ、お姉さんの友達だったら協力してもらえる方がいいかもね」

 

 口角を少しも変えない表情で、ゲイマルクは答えを待つ。別にどちらでもいい、と言わんばかり。余裕があるようで、誰も見ていないだけの顔つき。

 

 否定する材料はいくらでも並べられるのに、一つ掲げることさえ諦めてしまう。

 

 下らない男の顔が、最近手入れされてない曇った眼鏡をかけたマリアにとって希望のように見えてしまった。

 

 そして——。

 

 

 

 ばたーん!

 

「がーっはっはっは! ここにいるんだな。おいマリア、いるなら返事しろ」

 

 大きな音を立てて玄関の扉を開けて、扉にも勝るような大口で笑う。

 

「あ、あ、あ」

 

 いきなり物思いにふけっているところから現実に戻されても、言葉が上手く出てこない。

 

 忘れもしない想い人。最近まで魔王として世界に恐怖と破壊を振りまき続けた男。子供のように無邪気で恐れを知らず、誰よりも強い心で多くの人から愛され続けた人。

 

「む、暗いぞここ。そろそろ夜なんだから明かりをつけろ。研究ばかりしてて昼夜も分からなくなったのか?」

 

「ランス様、そんなふうに言わなくとも」

 

 緑の服と銀色の鎧に包まれた戦士の傍らには、16年前に死んだと思っていた大切な友達が変わらない容貌(ようぼう)でいた。

 

 危うく冷め切った湯呑を落としそうな程に全身から力が抜けて、ようやく口から意味のある言葉を出せた。

 

「ランス?」

 

「おう、俺様以外にこんなかっこいい男がいると思ったのか。お客様を早く歓迎しろ、マリア。がははは!」

 

 

 

 部屋の明かりをつけて、窓から外を軽く照らして見てもまだ志津香とナギが帰ってくるようすはなかった。

 

 とりあえず二人に茶を出すため再度熱していると、チューリップの模型を(いじく)る音が聞こえてくる。

 

「ちょっと、いたずらしないでよ」

 

 熱い茶を注いだ湯呑をランスの前に差し出して、じっと見つめる。

 

 尊大(そんだい)に座ったランスは居間に飾ってあった模型を触っていた。危なっかしい手つきでありながら、どこか楽しそうに見える。魔王だったことが嘘のように、かつてのランスそのものだ。

 

「少しくらいいいだろう、ケチなやつめ。にしてもお前もまた変な物を作っとるな。模型趣味とかどうかしちまったのか?」

 

「それはないと思いますけど。ほら、マリアさんはチューリップシリーズを開発されていますから、きっとそのための模型ですよ」

 

 シィルはまだ荷解(にほど)きしていて席に座れていなかったらしく、ようやく食卓の前に来る。こちらも昔と同じく白い奴隷服を着て、まだ若い肌をさらけ出していた。(うらや)ましいという気持ちを隠しつつ茶を差し出して同意する。

 

「シィルちゃんの言う通り。ランスが触っているのは前にイラーピュ探索のために作った4号の改良型。実際に作りたいけど、いろいろあってまだ作れなさそうだから」

 

「ふーん、まあいいや」

 

 前触れもなくランスは模型をぽいー。

 

「何するの!?」

 

 慌ててマリアは席を立って改良型チューリップ4号の模型を掴む。力加減を間違えれば模型も壊れ、自分の手も傷つくかもしれなかったため、安堵(あんど)のため息をつく。

 

「ランス様、やめましょうよ。ただでさえ夜分遅くに失礼していますし」

 

「うるさいぞシィル。奴隷なら黙って主のことを肯定するもんだろ。それよりもマリア、今日は言いたいことがあって来たのだ」

 

「言いたいこと?」

 

 傲岸不遜(ごうがんふそん)なランスの言うことなら経験上慣れている。いつも無茶ばかりを注文して困らせてくれているが、志津香とナギが幸せそうだったこともあり、ある程度までなら聞き入れようと考えていた。傍目(はため)からも酷い別れ方をしたと捉えているけれども、想い人のこととなると未だに甘くなってしまうらしかった。

 

「それはだな、えーと」

 

 普段のランスらしくもなく、優柔不断に何も言えない状況が続いた。明らかに焦っているけれどマリアにはどうしたいのか欠片も分からない。

 

「むむむ」

 

「むむむ、じゃなくて話してくれないと分からないわ。シィルちゃんが話してくれればいいんじゃない?」

 

「いえ、私から言うようなことではないので」

 

「そうだ! シィルの口からじゃだめなのだ。こうなったら今日はマリア、お前の家に泊めろ」

 

「ええ!?」

 

 戸惑いがちに否定したシィルの言葉に乗っかって、大声で無茶なことを言い出した。

 

 前言を撤回する気分だが、今日はもう志津香とナギを泊める約束をしている。流石に魔王の愛人呼ばわりされていた二人をこれ以上ランスに振り回させるのも気が引けた。

 

「今日は本当にだめ! 何とか一番良い宿を押さえるし宿泊費も出すからそっちへ移って!」

 

「何を言う。マリアじゃないとだめだ。別のところには行かん」

 

 マリアじゃないとだめ。その程度の言葉にマリアの心はどうしようもなく動揺した。さんざんな気持ちで別れたにもかかわらず、いつまでも人の心に居座っている。20年以上も悪い人に引っかかって、カスミのことを言えない状態だ。

 

 そして、心のどこかでマリアに我を通してくる当たり前のランスがたまらなく嬉しかった。

 

 そのまま押し切られてランス達を泊めることになったが、ランスがいない間にせめてシィルには事情を説明する。

 

「確かに、お二人が先に来られたのでしたら本当に邪魔してしまいますね」

 

「うん。二人とも長旅で疲れていると思うから、今はそっとしておいてあげたいんだ。悪いけどシィルちゃんからもランスに言ってあげてくれない?」

 

 そんな会話をしている最中、両手はランスの好物を作るために動いていた。まずは晩飯ということでランスに望まれるまま料理に至っている。隣で手伝ってくれているシィルの手つきは相も変わらず、魔王の永久氷結の呪いから解放された後遺症はなさそうだ。最も、第二次魔人戦争時も厳密には呪いにかかったままだったらしいから関係ないかもしれない。

 

「申し訳ありませんができません」

 

 はっきりと断られた。マリアの食材を切る手は止まったが、シィルの下拵えの手は止まらない。

 

「後で私がお外に出て、志津香さんとナギさんを見つけます。そしてわけを話してお願いしてきます。だからそれまではどうか、ランス様と一緒にいてあげてくださいませんか?」

 

 一つの作業が終わって、シィルがマリアに顔を向ける。シィルには昔からこういうところがある。芯の強い、貫くべき時に貫くべきことをする意志。魔王ジルを追って異空間に消えたランスを助けた時も、JAPANでランスを庇って魔王の呪いにかかった時も。

 

 マリアではできなかったことをやり遂げてランスをずっと支え続けていた。

 

「あなたはそれでいいの?」

 

 必要のない確認だった。そも何に対していいのか不明で、たぶん曖昧(あいまい)な意味すらなかった。

 

「はい。私はランス様の奴隷で、ランス様のなさりたいことをお手伝いする助手のシィルちゃんですから」

 

 冗談めかして言えるその立場こそ、マリアも、きっと志津香も求めてやまないものだった。吹っ切れたと思い込んでいたのに、時が経ってからまざまざと見せつけられると言い知れない悪いものがこみ上げてくる感覚に襲われる。

 

「おい、できたか」

 

 流れを断ち切って、いつの間にか戻って来たランスが台所に現れる。鎧はとうに脱いで見慣れた緑色の普段着の出で立ちだ。

 

「もう少しででき上がります。楽しみにしてください」

 

「そうか。じゃあマリア、来い」

 

 がし、とマリアの腕を掴む。マリアが疑問を挟む余地もなく、元魔王の膂力(りょりょく)で引きずられる。

 

「ちょっと、ランス!? どういう気なの!?」

 

「がはは、いいから来い。シィルは飯をきちんと作るよーに」

 

「はい。あの、乱暴はしないでくださいね」

 

「俺様は紳士だからするわけなかろう」

 

「ランスが言っても説得力がないでしょ!」

 

 何とかエプロンを脱いで食卓の上に置き、そのままマリアの寝室へと連れていかれた。

 

 席を立って何をしていたのかと思えばマリアの寝室を探り当てていたようだ。かつてのランスであればヤることは一つだったが、マリアももう三十路を超えていた。ランスの守備範囲から外れているので何も起こらないはずだ。

 

「強引なんだから。ランスは変わらないね」

 

「俺を変えられるのは俺だけだ。他の誰にも勝手に変えさせない」

 

 言葉の態度とは裏腹に、ばつが悪いとランスの顔に書いてある。やはり魔王となっていた時期は苦い記憶となっているようすだ。マリアは寝室の戸を閉めてランスの出方をうかがった。

 

 うんうん唸りつつもランスは目を見開いてマリアの瞳を真っ直ぐに見つめる。

 

「マリア!」

 

 あまり大きく張り上げた声ではなかったけれど、マリアは緊張して一瞬だけ体が強張(こわば)った。

 

「すまなかった」

 

 続けて放たれた力のない言葉に虚を突かれた。

 

 あのランスが謝った。驚天動地(きょうてんどうち)の事態だ。マリアも付き合いが長いため限定的でもランスが謝れる人間であることは知っている。魔王に支配された時は別人としても、今のランスはやはり冒険者だった当時と変わらない。

 

「ランス、どうして」

 

 今日は衝撃的なことばかり起きる日だ。マリアからすれば脈絡(みゃくらく)もなく謝罪するランスがまるでミラクル・トーに見せられた異世界の存在のように思えた。

 

 俺を変えられるのは俺だけだと言い切ったからには、きっとマリアのところに来て謝罪したこともランスの意志だろう。

 

「お前に酷い言葉を突き付けたことがあっただろ。だからそれの、()びだ」

 

 理屈はきちんとしている。理由も理解できる。馬鹿正直な程に真っ当だろう。

 

 だからこそ納得できない。あのランスが、十年以上経ってからこうして謝罪のためだけにマリアのところまで来たことが受け入れにくい。知らず知らずのうちにランスに勝手なイメージを押し付けていたと知った。

 

 ランスは意外と素直な人物だ。その評価は子どもにこそすれど大人にはしないようなもので、ゆえにひたむきで純粋なランスには当てはまる。

 

「悪かったな」

 

 もう一度謝ってくる。投げやりな印象を持ちそうになるけれども、視線も顔もマリアの方を向き続けている。眼鏡によって正しく網膜(もうまく)に映し出されたランスの姿に英雄の面影(おもかげ)はなく、どこにでもいる弱さを持ち合わせた普通の人にしか見えない。

 

 そんなランスの姿に、二人が来る直前まで回想していたゲイマルクとの過去が再開した。

 

 

 

 そして——ゲイマルクの魔の手を取ってしまいそうになる、その時だった。

 

 いきなり暗闇の向こうから斬撃が飛んできたかと思うと、次の瞬間には爆発音が(とどろ)きゲイマルクが立っていた場所に地割れにも似た深く鋭い切れ目ができていた。

 

 吹き飛ばされるかと思ってしまう威力の攻撃はマリアには突風程度の影響しか与えなかった。驚いた拍子(ひょうし)に眼鏡を落としてしまって慌てて探してしまう。

 

 土埃(つちぼこり)にまみれて絶対何も見えないと確信できる眼鏡を、仕事で汗を()くためのハンカチで(ぬぐ)って、改めてかけ直す。

 

 眼前には黒いマントが垂れ下がっていた。

 

 全身を覆う禍々しい暗黒の鎧に、魔王特有の重圧を伴った気配。ただ存在するだけで空気が底冷えしたように錯覚し、心臓の鼓動が止まって息が詰まりそうになる。

 

 やや奥に視線を移せばゲイマルクが左腕をぐしゃぐしゃにされながらもエスクードソードを構えていた。勇者のみが扱える伝説の剣で防いだようだが、魔王の一撃を殺し切るには至らなかった。

 

「ぐう! そうか、お前が、魔王か!」

 

 無感動な目つきはどこへやら、今はぎらぎらした眼光を対峙する敵に向けていた。

 

「初めまして、だね。だが今はまだ、うう、エスクード、ソードのモードが、はぁ、完全じゃない。戦うのは、また今度だ」

 

「やかましい」

 

 不可視の力が放たれ、息も絶え絶えのゲイマルクを大きく突き飛ばす。幾本(いくほん)かの木々とぶつかってへし折り、最後に一本の木にぶつかるとそこに(はりつけ)にされたように動かない。あのゲイマルクをいとも容易く取り押さえた。エスクードソードを手放していないことは曲がりなりにも勇者であるからか、本来なら驚嘆(きょうたん)する場面だ。

 

 しかし魔法を使えない典型的な戦士だった頃のランスを知るマリアにとって、指向性の衝撃波は改めて想い人が魔王になってしまったという事実を突き付けられ、目を背けたくなる。これなら眼鏡をかけ直さなければ直視せずに済んだ。下らない後悔だった。

 

「いいか勇者、お前がどこの誰だろうとどうでもいい。だが脳みそがわんわんの半分程度でも残っているなら覚えておけ」

 

 (かぶと)越しに愛しい人の声が聞こえる。最後に別れた時からずっと頭の中で反響していた、誰よりも自信に溢れていたはずの声。魔王になってからは何も込められなくなってしまったそれが、マリアにはなぜか熱を()びているように感じられた。

 

 魔王ランスは利き腕だけで剣を振るい、人外になったことを隠そうともせず邪悪な魔力を周囲に飽和させる。

 

「俺の女に、手を出すんじゃねえぇぇぇーーー!!!」

 

 魔力を(まと)った斬撃は嵐の如きうねりを発生させ、ゲイマルクを大いなる奔流(ほんりゅう)の中に消し飛ばす。青々としていた木々の葉っぱが散るどころか、太い枝や木そのものが宙を舞って魔力と斬撃に破壊され、消滅していく。この情景を無理に表そうとするなら、それは魔王の一言に尽きる。

 

 冒険の中で戦った数々の魔人、闘神、聖獣、悪魔、そして同じ魔王のジル、それらの一切が見劣りしてしまう。

 

(ああ、だけど)

 

 ランスに連れ回され、自慢のチューリップで魔物と戦闘していた時。ランスの背中に隠れていると、何のけがも負わなかった。

 

 まるでその時に戻ったみたいに、マリアには何も起こらなかった。

 

「ちっ、あのちび従者め。勇者を逃がしたか」

 

 ランスは呟いた。おそらく先の戦争でアリオスに付き従っていた黄色いフードに白髪の少年コーラが何かをしたらしい。マリアからは何も見えないが、魔王になると視力まで強化されるようだ。マリアは少しだけ羨ましかった。

 

 ランスはゲイマルクへの興味を失ったようにマリアの方に振り返った。

 

「無事か」

 

 闇夜に溶ける漆黒の色の中で赤く光る四つの目を意向として取り入れた兜から、ぶっきらぼうな確認の声が届く。クルックーから伝えられていたような、魔王の人格に乗っ取られているわけではなさそうだ。

 

「うん。ありがと、ランス」

 

「そか」

 

 自分でも不思議に感じる程に、すんなりと感謝の言葉が出てきた。素っ気ない返事がいつも通りすぎて心地よい。目の前に広がる大惨事もランスと一緒ならなんてことない慣れたできごとだと思えた。遠くから聞こえてくる声の内容も小火騒ぎが収まったもので、平穏とはいかないまでも一難をやり過ごせた達成感がマリアの(りき)んでいた体を弛緩(しかん)させる。

 

 からん。

 

 ランスが剣の柄を手放し、地面に落ちた。

 

「ぐ、ううう」

 

 マリアが反応する間もなくランスが突如うずくまり、両手で兜の上からさらに顔を覆い隠す。

 

 マリアも(かが)んでランスの容態を見ようとするが、乱暴に手を払いのけられる。一瞬、兜の隙間から見えたランスの面立(おもだ)ちに(すく)んでしまった。

 

「魔王様ー!」

 

 小火があった場所とは別の方面から可愛らしい声が響き渡る。第二次魔人戦争で共に戦った魔人サテラのものだ。魔人達は戦争終結後もランスの元にいられて羨望(せんぼう)を覚えたものだが、最近は全然考えていられなかったので忘れていた。魔人は魔王と共にある。ここに魔王ランスがいるならば、お付きの魔人がいるはずだった。

 

 マリアの意識がほんのわずかにサテラにずれた。

 

「が、ぐ。す、スリープ」

 

 苦しみの中で理性を絞り出すような声が耳に入る。こらえ切れない眠気に襲われて、マリアはまぶたを簡単に閉じてしまう。リセットと同じくスリープの魔法を扱えるとは親子として似てきたものだと頭の片隅で思った。

 

 サテラのせわしない足取りを地面から伝って感じつつ、マリアは垣間(かいま)見えたランスの表情を思い起こしていた。瞳孔(どうこう)は血の如く赤く染まり、しかし歯を食いしばってマリアを見ていた。乱暴に手を払ったわけはランスがマリアを傷つけたくなかったからだ。

 

 深紅の瞳はマリアに敵意を持っていなかった。明らかにマリアという『俺の女』を案じていた。きっとランスはもう魔王の人格に長くは抵抗できない。もしかしたらほとんど屈しているかもしれない。

 

 だけどランスは来てくれた。魔王だから守ってくれたわけじゃないと信じられる。シィルではなくマリアのために、苦痛を大仰(おおぎょう)な鎧で隠して助けてくれた。魔王という常人ではどうしようもない力に、精一杯抗ってくれた。

 

 まどろみの中で自分でもばからしくなる程、曇っていたマリアの心は晴れ渡った。それがランスによって起きたという事実が、たまらなく嬉しかった。

 

 

 

 マリア・カスタードは既にランスを許している。あの日、ゲイマルクから守り抜いてくれたこと、実は身に着けていた黒いマントを眠っていたマリアにかけてくれたこと、俺の女と言い切ってくれたこと、他にもたくさんのことがマリアの心に溜め込んだ汚れを綺麗に拭い去ってくれた。

 

 だけど律義に謝りに来たランスが愛おしい。ランス自身のために謝罪した部分も大いにあるかもしれないが、だからといって否定する気も起きない。ランスが今もまだマリアを覚えていて気にかけてくれたことの方が嬉しい。

 

「じゃあな。せっかくだから飯は食っていくが、その後はすぐ出ていく」

 

 言いたいことだけを言ってランスは寝室から出ようと扉の取っ手に手をかける。

 

「待って」

 

 そんな勝手は許さないと、今度はマリアがランスの腕を掴む。11年前は離してしまった想い人を、今度こそ逃すまいと力強く。

 

「何か言いたいことがあるなら特別に少しだけ聞いてやるぞ。すこーしだけな」

 

 目の色は人間だった頃に戻っているけど、マリアの無事を安堵していた魔王の瞳と変わらない親愛の情が浮かんでいた。

 

「ふふふ。あははは!」

 

「何がおかしい! 別に笑われる許可は出してないぞ!」

 

 唐突に笑い始めたマリアを見てランスは驚いたようすで突っ込みをする。ランスと話していると楽しいと思えてくる理由の一つは、間違いなくランスの面白さに起因していた。

 

「ランスが周りに大迷惑をかける人だって、もう十分知ってるよ。でも、一緒にいたかったからいたの。ランスのことは許します」

 

 (ほう)けた顔が写真に撮って一生大事にしたいくらい見ものだった。これだけで今日ランスと再会できてよかったと心の底から思える。

 

 だがマリアは満足しない。また一歩、ランスに踏み込む。

 

「ランスはさ、私のことどう思ってる?」

 

「へ?」

 

「あれから随分経っちゃったけど、ランス自身はどう思っているのかな、って」

 

「だから謝っただろう」

 

「そっちじゃなくて、何かない?」

 

 ランスは予想だにしなかった問答に悩み込み、彼らしい言葉を呟く。

 

「いい女だなー、とか。ヤりてー、とか」

 

 直球な物言いにまた笑うと、ナギがザンスをからかうように(ささや)く。

 

「なら、女性を寝室に連れ込んだら何をする?」

 

「そりゃもちろんセックスだが、しかしお前はいいのか?」

 

「どういう意味?」

 

 年齢ではねられる可能性は考えていても、マリアの意思を聞いてくるとは想定していなかった。魔王をやめてから遠慮というものを学び直したということだろうか。

 

「もう新しい男くらいおるだろ」

 

 だだを上手にこねられない子どものように視線を外した。ランスの方から別れを切り出した手前、マリアを独占できるはずもないと諦めていたようだ。おばさんになったマリアを見て抱きたいと思ってくれる男性がどれだけいると思っているのか。高望みをするべきではないが、脂ぎった禿げ頭のおっさんが気持ち悪い熱視線を胸や臀部(でんぶ)に注いでくるくらいしかない。生涯痛い女でいいからランスとの思い出に(ひた)り続けたかった。

 

「私は今も昔も女泣かせな(ひと)に捕まってる。そのせいでずっと前の結婚話も破断、この年になっても恋人一人作れない。なのにその人は、女の子を平等に愛してるってうそぶいて、本命の子だけはいつも連れ立っている。本当、悪い(ひと)

 

 流石のランスも察しがついた表情で目を見開いてマリアを見つめる。

 

「マリア・カスタードは、これからも何があっても、ランスただ一人を愛し続けます。これで伝わったでしょ?」

 

 ごく自然に、ランスの手を引いてベッドに腰掛ける。

 

「もう一度聞くわ。ランスは女性を寝室に連れてったら、どうする?」

 

「むむむ」

 

 ランスは百面相(ひゃくめんそう)のように表情を変えて、噴火(ふんか)の如く大声を出した。

 

「もう辛抱たまらーん! マリア、もちろんセックスするに決まってるぞ!」

 

 素早く緑の服を脱ぎ捨て、ランスの全身が裸となってあらわになる。ランスは慣れた手つきでマリアの服を脱がして、ベッドに押し倒す。

 

「先にお風呂に入らなくてもいいの?」

 

「ちっちっち。まずここでセックスしてから改めて風呂に入りながらヤる。そしてベッドに戻ってまたするのだ!」

 

「それだと汚したベッドに戻ってくることになってめんどうよ?」

 

「シィルに後で片付けを言いつければいい」

 

「うわぁ、女の敵だ」

 

 やはりシィルの立場に憧れるものではない。何がしたくて愛する人と友人の事後の後始末をしなければならないのか。

 

「ん」

 

 ランスの方から優しく口づけされた。ついばむように唇を重ねては離れてを繰り返し、十分温まったところで舌が入ってくる。

 

 冷たい凌辱(りょうじょく)を耐えた時はこんなふうに抱かれず、熱を帯びて唾液の一滴が久しぶりすぎて甘露(かんろ)だと舌が味を感じ始めていた。心臓が想い人の体液を麻薬と錯覚したみたいに早鐘(はやがね)を打ち、全身が風邪の如く発熱した。

 

 つぅ、と口と口の間に橋が一瞬かかって、ランスを求めてみっともなく舌が飛び出した。

 

 眼鏡を早わざで外され、かけずともはっきりしているランスの凛々(りり)しい顔と見つめ合う。

 

「するぞ」

 

 今更だが、今日泊まりに来てくれた志津香とナギに申し訳ないことをしている自覚が芽生えた。だが、この火照(ほて)りは止められない。心中で真摯(しんし)に謝っておく。

 

「うん。来て、ランス」

 

 ランスから倒れ込むようなキスを受け止めて、今日最初の(むつ)み合いが始まった。

 

 

 

 ランスとマリアならどうするか予想できていたシィルは夜食の支度が一段落着いてから、玄関を開けて志津香とナギを待つことにした。何度も身に染みた一抹(いちまつ)の寂しさを外の空気で(まぎ)らわせる目的もあった。

 

「やっほ、シィルお姉ちゃん」

 

「こんばんは、シィルちゃん」

 

 しかしマリア宅に入らず、玄関の横で世界有数の魔法使いの姉妹は立っていた。

 

「志津香さん、ナギちゃ、ナギさん。どうしてマリアさんのお家にも入らずにここにいるんですか?」

 

「ここでお邪魔しちゃうのはねぇ。お姉様の嫉妬心じゃあるまいし」

 

「そんなことしないわよ」

 

 妹の冗談に姉が冷たい視線を送る。第二次魔人戦争の折、ミックス・トーとあまり変わりない身長だった二人がこうまで成長していると(いや)(おう)でも時の流れを理解させる。

 

 魔法使いの帽子のつばを調節して目深(めぶか)に被り直し、志津香はふっと微笑んだ。

 

「あいつがマリアのところに来る理由なんてスケベなことしか思い浮かばない。でも、それだけじゃないんでしょう?」

 

 志津香の言う通り、ランスがマリアの家に足を運んだ理由は面と向かって謝ることだ。もう一度世界を回るという名目で、ランスが懇意にしていた女性達に謝罪行脚(あんぎゃ)している。一年、いやもっと時間がかかるかもしれないが、ランスもシィルも諦める気はない。

 

 最も、ランス本人はその意図を絶対に認めはしないだろう。

 

「ランスも前を見据(みす)えて進んでいる。マリアのためにも、それの邪魔はしないわ」

 

「でもさ、私はランスに会いたいかな。また遊んでもらって、笑い合って、エッチしたい」

 

「あ、あはは」

 

 幼少を知っている少女が愛する主人と性交を求める姿に、乾いた笑いで返す程度しかシィルの処世術(しょせいじゅつ)は及ばなかった。ある意味、(ゆが)まず素直に育ったと言えるかもしれない。

 

 しかし外にいても寒いだけだ。迎えようと思っていた二人がいるなら丁度いい。

 

「今お夜食を作っていて、そろそろできあがると思います。ランス様とマリアさんもすぐにおいでになられないでしょうから、お二人もどうですか?」

 

「お、いいね。久しぶりにシィルお姉ちゃんのご飯が食べたくなってきちゃった」

 

「ここで待っているのもあれだし、ご相伴(しょうばん)(あずか)ろうかしら」

 

 同意してくれた二人を中へと迎えながら、シィルは一人呟く。

 

「幸せになりましょうね、マリアさん」

 

 

 

「あ、そうそう。シィルちゃんは知っているかしら」

 

「何でしょう?」

 

 志津香からの問いかけにマリアの家の戸締りを確認しつつ応じる。

 

「ちょっとだけマリアの食器棚を覗いて見たんだけど、明らかに子供用のコップやお箸、お茶碗(ちゃわん)が置いてあったのよね」

 

「あ、私も見た。お菓子の買い置きがどうも子どもっぽい味付けの物が多くなってたよ」

 

「え、それってもしかしてマリアさん、もうお相手がいるってことですか?」

 

 シィルの脳裏にランスではない誰かと仲睦(なかむつ)まじい結婚生活を送るマリア、そしてのっぺらぼうの男性と子どもの想像図が浮かぶ。

 

「あはは、違う違う。チルディさんのところにアーモンドっていう可愛らしいランスとの子どもがいるんだけどさ、鬼畜王戦争時代はランスの子ども、いろんなところで生まれているのかもしれないってこと!」

 

 ナギが明るく衝撃的な話をシィルに突き付ける。鬼畜王戦争というごく最近知った世界規模の戦争が、まさかそこに波及(はきゅう)するとは。ホーネットのように魔王に変貌してからもうけられる子どもはごく低確率という説は信じるに値しないのか。疑念がシィルの胸中に渦巻く。

 

「マリアが教育のことを考えているなら、ミルやランのところに預けているのかも。学校に近いのはどうしてもあっちだし」

 

「そ、そこまで」

 

「シィルお姉ちゃんもうかうかしてられないね。何なら今すぐにでも協力するよ、お姉様と!」

 

「私を巻き込まないで。一応シィルちゃんが頼むなら協力するけど」

 

「うう、ランス様ぁ! 私も、ランス様との子どもがほしいですよぉー!」

 

 普段なら絶対に言えない、秘めたる想いがとめどなく(あふ)れ出していた。

 

 

 

 上気した肌から汗がふき出して、息をするのにも一苦労。今更ながら魔王をやっていたランスと16年の歳月を経たマリアとで体力に大幅な差ができてしまったことを実感する。この後のお風呂場でのまぐわいはもう少し軽めにお願いしたいと無意識に思ってしまった。

 

 ランスはマリアのことを案じてじっとしていた。(あわ)い明かりに照らされた青い髪ごと頭をゆっくりと撫でてくれる。愛おしいものを(いた)わるように、大きな手で体温を確かめさせてくれた。

 

 その仕草(しぐさ)に何度でも飽き足らない言葉を思わず口に出す。

 

「私、ランスのこと、愛してるよ」

 

 ランスは少し笑って、こう言葉を返した。

 

「ああ。俺もずっと、マリアを愛してる」

 



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