あのあと、俺は女に体を引きずり起こされ、スポーツカーの助手席へと放り込まれた。そして、彼女は俺に一言も話す事なく運転席に座ると、シートベルトもせずにアクセルを踏み込み、高速道路を走り始めたのだった。
俺は全くもって整理のつかないこの状況と、痛みの治まらない左の引っ叩かれた頬を気にしながら、仕方なくシートベルトを締め、見慣れない景色を眺めていった。密集するビル群や、そこに貼り付けられた馬鹿デカい電光掲示板、立体ビジョン、遠くに広がる海、などなど……どっかで見た様な、そうでもない様な風景が延々と流れ過ぎてゆく。
気になる物は何個か見えた。だが、そんな未知の光景に集中できるほどの余裕は持っておらず、俺はついにスポーツカーのサイドミラーに目をやる。
そこに映っているのは、自分の顔ではなかった。ミラーに反射して写っている者、車の窓に微かに反射する者、全て『俺』の顔ではなく、全く知らない男の顔…………いや、俺はたぶんこの顔を知っている。見た目の年齢は、高校入りたての中坊くらい。結構イケメン。嘘……かなりのイケメン面だ。どこぞのジャ◯ーズ事務所で踊ってますって言われても、信じてしまうぐらいの、出来上がった顔してやがる。ただ、その表情は口元が半開きで、項垂れた様な視線だから、せっかくの顔も型落ち状態だった。
口を閉じてみる。ミラーの男も口を閉じた。これで多少、面構えはマシになった。俺はとりあえず気持ちを落ち着かせようと、ポケットから煙草を一本取り出して口に咥えたが、その瞬間に隣で運転している女にぶん殴られた。口元から落ちた煙草は助手席の下を転がって、どっかいった。
仕方なく煙草は諦め、俺は殴られた右頬を押さえながら女の方を見た。俺を殴った事など気にも留めていない表情で、彼女はハンドルを握り続けていた。
「どうしてあんなところにいた……」
不意に女の口元が開いて、俺は何て言ったらいいか思いつかず、黙り込んだ。
いや……言ってる意味わかんねえし。数時間前まで夢だと思ってた世界が平手打ちのメチャクチャ痛い現実で、でもその現実のはずの『俺』が『俺』の姿してなくて、なんかどこ行ってるのかもわかんない車の中に乗せられて……
あぁ……自分で何を言っているのかわからなくなりそうだ。正直、発狂しないで冷静でいられる自分が、異常だと思った。
「だんまりか? 言え。どうしてあんなところにいた……?」
俺の思考を遮ってそう繰り返す彼女の声色には、微かに怒りの様なものが籠っていて、答えないとまた殴られると察知した俺は……真実半分、テキトーな嘘をついた。
「……現実逃避」
喉から響いたのは、誰かも知らん男の声。顔に劣らず、良い声だな。自分の姿で想像すると気持ち悪いが。
彼女は鼻で笑った。
「そうか。現実には戻ってこれたか?」
「たぶん……」
嘘だ。戻ってこれてなどいない。信じられない……信じたくなんかない。
いつの間にか高速道路が大きなベイブリッジを渡っている事に気がついて、俺は彼女の話を放棄して窓の外を見渡した。レインボーブリッジ顔負けの大きさがある橋は川ではなく海を渡っているらしく、車のすぐ近くをカモメが飛んでいる。そういえば、馬力出してる割にはこの車静かだな……どうでもいいけど。
渡っている橋の向こうには、大きな島がどっしりと構えている。無骨な雰囲気に取って付けた様な緑の自然があるのを見ると、人工島なのだろうか。そこには賑やかそうな都市と、油田の見える港と、海水浴に向いてそうな浜辺も見えたが、そんなものに注目したのは一瞬だけ。
あれはいったいなんだ?
その島の中央に見えるのは、3本の白い棒を立てかけた様な建物が数件と、なにやら例え様のない湾曲したデザインの目立つ建造物がひとつ。ここから見てるスケールから考えると、あれはかなりデカい。いや、マジでデカい。その周りには、形的に恐らく学校の校舎だと思う建物がちらほらと見えるが、その周りに点々と存在を主張している馬鹿デカいドーム状の建物が俺の頭の中で意味をわからなくさせる。
けどなんとなく、今から自分の連れていかれる場所はわかった気がした。イヤ、わかりたくなんてなかったが。
長い長い橋を渡り終えたスポーツカーは高速道路を降りると、真っ直ぐ島の真ん中、意味のわかんない建物を目指す様に、隣りの女はハンドルを回していく。そこ行きたくないとか言ったって、どうせ聞き入ってもらえず、殴られて終わりだろう。何かを諦めた俺は、車の進む道をただただ眺めていた。途中、信号機と一緒に張り付けられていた道路の案内標識にはこう書かれていた。
『IS学園』
『IS』だってさ。俺、読めるよあの看板。『インフィニット・ストラトス』だろ?
俺は溜め息を吐いて、外を見るのもやめて、助手席の椅子に項垂れた。頭痛が再発してきたが、隣りにコイツがいるんじゃ煙草も吸えない。今はこの絞首台に送られている様な気分を何とかすべく、俺は何も考えない様に座席に体を預け、目を閉じた。
数分ぐらいだっただろうか。車が止まったかと思うと、エンジンも落ちた。目を開けると、なんか整備の整った駐車場みたいな場所だった。
「着いたぞ。降りろ」
女に言われた通り、シートベルトを外して車から降りた。外に出た瞬間、すっかり空へ上った太陽の光が俺を眩ませたが、それが治まると次に視界に広がったのは、妙に近未来的なデザインの目立つ建物の数々。コレ、考えたデザイナーも建造した技術者も変態だと思う。橋の方で見た馬鹿デカく、理解不能の湾曲建造物もすぐ真上の所に見えた。どうやら、今この場所もあの建物の敷地らしい。海岸の方の近くに見える白い湾曲したアーチもきっと敷地内なのだろう。移動が超大変そうだな。
「ついてこい」
景色を見ていた俺は言われるがまま、カルガモの親子よろしく彼女についていく事にした。周りの建物を見渡していくと、海の方にモノレールの線路が見える。あれもこの敷地内のものなのだろうか。それにしても、ずいぶん敷地が広いな、ここ。
彼女の背中を見失わないように……でも少しだけ距離を取りながらついていくと、彼女は歩きながら懐からスマートフォンを取り出して、誰かと連絡を取り始めた。
「……もしもし、
そんな会話だけが聞こえた。誰と会話してたのかは知らん。そもそも興味もなかった。
それにしても、『
会話を終えた彼女はスマホを懐にしまい込み、また無言のまま歩き続ける。やがて見えてきたのは、橋の方で眺めていた校舎の様な建物が並ぶ場所だった。建物の壁には、四つの翼が生えた天使の様なマークがでっかく張りつけられている。なんか校章ぽっい……かと思ったら、そのマークは壁の中でクルリと回転すると、いつの間にか数字の『1』というマークに変わっていた。いったいどうゆう技術なのコレ……?
ともかく、俺は彼女に案内されるがまま、その『1』というマークの建物に入った。来客用のだろうスリッパに履き替えさせられて中に入ると、やっぱりそこは学校の校舎みたいで、でもやや近未来的に感じるデザインが変で、俺は鼻で笑うのを我慢しながら、彼女の後をついていった。
やがて、彼女の足が止まった。俺も立ち止まると、彼女は俺の方へと振り返った。
「ここだ。入れ」
部屋のドアの上に飾られていたプレートを見ると、そこには緑色のやや透けたプレートに、白い字で『1年1組』と書かれていた。
彼女に言われるまま、頭を下げながら部屋の中に入ると、そこはもうほとんど学校の教室と変わりのない、大きな教壇と真っ白な机が並ぶ広い部屋だった。近未来的なデザインは変わっていないが、教室と呼んでも違和感はない。
「ここがお前の席だ」
教室を見渡していると、彼女は俺を追い越して教壇の真ん中、一番前の席をトントンと叩く。とりあえず、俺は彼女の叩く机のそばに寄って、周りを見回す。縦5列、横6列、5×6=30の席が並んだ、教壇の机の真ん前だ。寝てもバレなさそうだな。
この机も正直言って変だ。パッと見じゃあピアノの台の様にも見えるし、ペンやノートが転がり落ちない様に机の縁には出っ張りがついている。でもハッキリ言って、これジャマじゃね?
「もうすぐ入学式が終わる。私は生徒をここ連れてこなければならないから、お前はここで大人しくしてろ。財布は持ってるな? HRが終わったらすぐに購買に行って勉強用具を揃えるんだ。その姿だけは……今日一日は我慢しろ」
俺は彼女の声を耳だけで聞きながら適当に相づちを打って、視線は机の方へと向けていたが、ふと彼女にあごを押し上げられ、顔を無理やりこちらへと向けさせられた。
「もう現実逃避はできないぞ。ここから先はリアルを見るんだ。逃げるなよ?」
そう俺に言い聞かせてくる彼女の顔は、この数時間で二度も俺をぶった人間とは思えないくらい柔らかな笑顔で、それでもその眼には厳しさを感じたから、仕方なく俺は「あぁ」と一言応えてみせた。彼女は納得した様に、わずかに首をうなずかせた。
「私はこのクラスの担任だ。また後でな、
『イチカ』……そう……そうだ。これから俺は『イチカ』と呼ばれる事になるのだ。
そう思うと、なんか妙に空しくなる。目の前の女性は『イチカ』が『俺』だなんてわかっていないし、説明もつけられない。そしてこんな心境を整理できるほど、俺は出来上がった人間じゃないし、俺の中は俺の中でまだ色々と疎外感が山ほど募ってるから、そこまで気を利かせることなんかできやしない。
でも……とりあえず、俺は彼女の返事にはしっかり答えてやるべきだと思ったから。俺はここでようやく『彼女』を名前で呼ぶ気になった。
「あぁ、千冬姉……」
『千冬』……それが今、俺の目の前にいる女性の名前であり、この『織斑 一夏』の姉だった。
彼女の目を見てその名前を呼んであげると、またしても俺の事を鼻で笑い、しかしその立ち振る舞いは優しく、軽い握り拳をコツンと俺の頭に当てた。
「馬鹿者、ここでは私とお前は教師と生徒の関係になる。この学校の中では、私の事は『織斑先生』と呼べ」
そう言って仕方のなさそうに笑う彼女が可愛かったから、俺は素直に「はい」と答えてしまった。俺の事を一夏と呼んだ彼女は、俺に背を向けて教室から出ようとしたが、その一歩手前で彼女の足は止まった。
「そうだ、忘れるところだった……」
再び俺の方へと戻った彼女は、俺の目の前に平手を差し出した。今度は少し真剣な表情で。
「一夏、煙草をよこせ。お前の持っていい物じゃない」
数分前の良いムードがぶち壊しだが……まぁ、コレを奪ってくるとは思っていた。
本当なら抵抗してでも渡したくなかったが、状況が状況だし、さっき説教も受けたばかりなので、俺は素直にパーカーのポケットから煙草の箱を取り出し、彼女に向かって投げ渡した。彼女は難なくそれを片手で掴み、懐へと入れる。
「じゃあ、後でな」
彼女は一言そう言って、今度こそ教室を出て行った。
教室には俺一人だけが残り、無音の空間が生まれる……と思ったら、よく耳を澄ましてみると、PCの稼働音みたいな音が部屋中から鳴っている。この机も機械なのだろう。四角いタッチパネルみたいなのがついてるし。その横には、ボタンみたいな緩やかな出っ張りもついてるし。だから、勉強のジャマだろうに。
立っていても仕方がないので、とりあえず俺は千冬に指定された席に腰を下ろした。あ、椅子はいたって普通の椅子だ。
腰を下ろし、机の上に肘を置いて、俺は教室に飾られた時計を眺める。彼女がなんにも言わなかったから、いつ来るのかはわからないが、もういつ来てもおかしくない時間だとは思う。
あともう少しで、この夢みたいな物語の幕が開くのかと思うと、不安と言うよりは未だに実感が湧いてこない。まだ、何で自分がこんな事になっているのかという整理さえついてないと言うのに。
パーカーのポケットに残していた煙草を吸いたいのだが、このクッソ綺麗な教室に灰を落とす気にはならなかった。ド◯キの時に携帯灰皿も買えばよかったと、心の中で愚痴りながら俺は暇つぶしに、机の上に備え付けられてあるモニターやらボタンやらをゴチャゴチャといじくり回してみた。
数分で飽きて、俺は誰もいない教室の中で豪快にあくびをした。車の中でもそうだったが、なんだか眠気が再発してる気がする。そういえば『俺』昨日は一体何時に眠ったけ? 日が上がり始めたぐらいにベッドに入った気がするが……時差ボケ? 次元ボケ?
あぁ……もういいやめんどくさい。考える気力も削げていった俺は、机の上に突っ伏して目を瞑った。機械の静かな稼働音が結構、心地良かった。
・・・☆・・・☆・・・
クスクス…… クスクス……
真っ暗な視界の周りから笑い声が聞こえる。何と言うか、口元を手で押さえて含み笑いする様な、聞いているこっちの耳がくすぐったく感じる笑い方。
「織斑くん……織斑くーん……?」
次に聞こえたのは、誰かを呼ぶ若い女の声。うるさいから耳を塞ごうと思った。早く返事してやれよ『織斑』って奴……
「織斑くん!」
あっ、いけね。『織斑』って……俺の事じゃん。
それに気がついた俺は、眠りに入っていた机の上から顔を上げ、声の呼ぶ教壇の方へと頭をやや上に向けた。
俺の目の前、教壇の机越しに立っていたのは、クリーム色のシンプルなデザインのドレス服を着た女性だった。顔を上げた俺に向かって、優しく頬笑んでいる。髪の毛が緑色だという事はさておき、童顔で身長も小さく見える彼女は全体的にどこか子供っぽい印象があるが。落ち着いた白いフレームの眼鏡と、大きく開いた胸元からピンクのブラ越しに見える、女性らしさを主張させる大きな胸が彼女を子供ではなく一人の大人へと格上げさせている。
うん、それにしても大きなおっぱいだ。まさに爆乳。顔を上げた瞬間、思わず見入ってしまった。
そんな彼女は俺の視線には気づかず、そのまま優しい笑顔で俺に話しかけてくる。
「おはようございます、織斑くん♪」
「……おはようございます……」
彼女の淀みっ気ない笑顔の明るさに、なんとなくおうむ返しに言わざるを得なかった。
すぐ隣りで女の笑い声がした。顔を向けると、そこにはここ『IS学園』の白基調とした制服を身に着けた、名前もわからない一人の女子生徒が席に座り、俺の方を見て面白そうに笑っていたのだ。
いや、一人だけじゃなかった。俺の向いた視界の横目と遠目、全ての席に座っていた女子生徒が俺の方を見てクスクスと笑っていた。
そして、そこには男子生徒の姿は一人もいなかった。全ての席に女子が座り、ここにいる男は俺一人だけ。やっぱり、まだ夢でも見ているんじゃないかって光景が広がっている。
どうやら俺が寝ている間に始業式は終わり、今は教室に集合して最初の授業を始めようとしていた状態らしい。教室の机でポツンと寝ている俺は、彼女達にはずいぶん滑稽に見えたようだ。
「ハイ、これで全員そろいましたね。それじゃあHRを始めますよー」
俺が起きた事を合図に、目の前の女性は軽く手を叩き、教室にいる俺達の注目を集めさせた。クスクスと聞こえていた笑い声も、それで治まった。
「え〜まずは、皆さん入学おめでとうございます! 私は副担任の
軽い挨拶と共に自己紹介をした彼女は、そっと左手を黒板に滑らせると、そこから綺麗なデザインの枠線に『山田 真耶』と書かれた大きなデジタル画面が浮かび上がった。今のどうやったのか教えてほしい。やってみたい。
「今日から皆さんは、ここ『IS学園』の生徒です。知っての通り、この学園は全寮制。学校も放課後もクラスメイト達と一緒です。仲好く協力して、楽しい3年間にしてくださいね!」
テンポのいい話し方でこの学校の事を説明した山田先生だったが、彼女の言葉に応えるクラスメイトは誰一人もおらず、また教室がシーンと静まり返る。
最近はこうゆう事に対して元気に反応してくれる生徒なんか中々いないだろう。『俺』という存在も、間違いなく原因のひとつになっているだろうけども。
ほら、山田先生、困惑してるじゃないか。誰か一人でもいいから応えてやれよ……俺は彼女の目を見て笑ってたから話だけは聞いたし、反応も返したぞ。楽しい三年間になるかどうかは、知らんが……
「……そ、それじゃあ……自己紹介を始めましょうか…………えぇと……出席番号順で、まずは相川さんから……」
山田先生、ちょっと歯切れが悪くなったみたいだけど、話だけは聞いていた俺との視線が合うと、とりあえず仕事はこなそうと頑張っている様子がうかがえる。教壇の机の上を優しくトンと叩いて、そこからまた立体の画面を浮かび上げさせた。画面には俺達の名前が書かれた座席表が載っていた。この距離ならわかった。
そのまま山田先生に促され、教室の右端から自己紹介を始めていく女子。内容は、どこ出身だとか、将来の夢とか、好きな物とか、そんなありふれた事ばかり。真面目に聞くような事でもないので、俺はとりあえず顔を右に向け、窓側の方を見た。
サッ!
瞬間、俺と同じ最前列に座っている一番左端の女子が、物凄い勢いで俺から視線を外して顔を背けた。ポニーテールを渋い緑色のリボンで結んだ黒の長い髪が激しく揺れる。こいつは……今はほっといてもいいや。
その手前、俺の右隣に座っている女子は俺の視線に気づくと、ニッコリと頬笑んでくれた。別に用もなかったが、とりあえず首だけ軽くうなずいといた。嬉しそうだった。
そのままうなずきながら、俺は教室の後ろの方を見る。視界に入った女子は隣りにいる娘と同じ様に頬笑んだり、意味ありげにウィンクしたり、手を振ってくれる。イヤイヤ、別にお前らに用はねえよ。さすがに今度はうなずいたりはしない。キリがない。
俺の後ろ、頬笑んでくれた娘の縦列の後ろから二番目の席に座っている女子。パツキンでユルユルの縦ロールがまぶしい、どこかのお嬢様の様な風貌の女子生徒がいる。よく見りゃ制服もほかとは少し違う。山田先生と同じ、ドレスにしてスカートの部分を大きくしている。オーダーメイドなんだろうか。金持ってんだろうな。それにしても、セットが面倒くさそうな髪型だ。縦ロールの髪型、始めて見たぞ。
そんな彼女の視線は、俺の方を不機嫌そうに睨んでいたので、わざわざ目を合わせる事はせず、今度は首を回して廊下側の方を見渡してみた。席から立って自己紹介をしている女子がいる。座っている娘は俺の視界に入ると反応してくれるのはさっきと変わらず。サーと見渡してまた山田先生の机の方へと体を向けた。
やっぱり、この教室には男が俺しかいない。いや……わかってた事だけどちゃんと確認したかったし、なによりさっきから視線がうっとうしかったし。いまだにこの状況の現実味が感じなかったわけだし。
「ハイ次、織斑 一夏くん」
すっかり調子を取り戻した山田先生の元気な口調に遅れる事なく、俺は返事をして椅子から立ち上がった。
こういう……前とか端っことかの席ってクラスのみんながいる方に体を向けさせられるんだよな…………だから、俺は山田先生がそう指示してくる前に、とっとと自己紹介を始めた。目の前にいる、ちょっとだけ驚いている山田先生を見つめて。
「おっ、織斑……イチカです……」
なんて歯切れの悪い挨拶。今初めて自分に対して『織斑 一夏』と名乗ってみせたが、内心『俺』としての拒否反応と、何とも言えない違和感が二重に連なってのしかかり、よくわからない事になっていた。よくも言い切ったよ……俺。
でも、そんな名前だけの自己紹介を言ったところで、周りからは納得のいかない視線を投げかけられ、山田先生からも「織斑くん、もう少し何か言ってくれると……」と促されてしまった。そりゃそうだよな。でも、俺『織斑 一夏』の事全然知らねえぞ。好きな物も、趣味も、出身中学とかどこだよ。大体、このIS学園自体が何処だよ! 横浜辺りだろうか? うん、いいセンついてると思う。
とにかく、このままだと自己紹介じゃなくて事故紹介になっちまう。あぁ……もうしょうがないから、適当な事を言っておこ。いいや、山田先生も巻き込もう。『俺』の存在を隠すために。
「……え〜と、目玉焼きはソース派です。山田先生は何派?」
まさか自己紹介で逆に質問受けるとは思わなかっただろうな、山田先生。ソースのくだりで笑ってくれたけど、質問されて今度は目を丸くして驚いている。
「えっ! わっ、私ですか!? 私はえーとぉ〜……しょ、醤油です……」
なぜか照れる山田先生。ヤベぇ色っぽい。もうちょっと会話続けたい。
「えっ、そうなんですか。今度ソースでやってみてくださいよ! 味が全然違ッu、
俺が話を区切ろうかとしたそのとき、ヒュンヒュンと風を切る様な音が俺の後ろから聞こえた。何だと思って振り返ろうと、頭を数センチ動かしたその瞬間、俺の後頭部に本の角っこが直撃した様な激痛が、ゴン! という重めの音と共に炸裂した。
「!!!? っ、でぇ!!!」
目の前の出来事に山田先生が驚く中、俺は反射的に痛みが飛んできた方向へ振り返ると、そこには教室の後ろのドアの近くで何かを投げた後の様に手を前に突き出した千冬がいた。同時に俺のすぐ近くの足下に、真っ黒な出席簿が音をあげて転がった。痛ぇ。
「誰が教師を口説けなどと言った……お前は……」
「千冬n、……お、織斑先生……」
うおっと、危うく名前で呼んでしまいそうになった。呼んだら、次は何が飛んでくるのかわかったもんじゃない。
自己紹介もこれで中断だな。俺は後頭部を押さえながら自分の席に座り込んだ。
「せっ、先生! もう会議は終わられたのですか?」
「あぁ、山田先生。クラスの挨拶を押しつけてすまなかったな」
そう言ながら千冬はクラスメイトの女子だけではなく、山田先生の注目も浴びながらも、キリッとした態度で教室の前へと歩き、途中で俺にぶつけた出席簿を拾い上げると、教壇の机の前にドンと手を置いた。
「諸君、私がこのクラスの担任の織斑 千冬だ。君たちISの新人を一年で使い物にさせるのが仕事だ」
千冬がそう言い切った瞬間、まるで啖呵が切れた様に教室のクラスメイト達が大音量の歓声、もとい黄色い声を上げ始め、俺は頭に押さえていた手を素早く耳へと移した。
「キャーーーーーーーーーーー!! 本物の千冬お姉様よーーーーーーー!!!」
「ずっとファンでした!! いえ、今でもファンです!!!」
「私、千冬お姉様に憧れてこの学園に来たんです!! 北九州から!!!」
「私、南北海道!!!」
いや、どっちでもいいわ。
「千冬様にご指導いただけるなんて嬉しいです!! 感激の極みです!!!」
「お姉様のためなら死ねます!!!」
それはまるで大人気アイドルを目の前にした時の、うるさすぎる反応を示した女子。これ隣のクラスどう思ってんのかな。
そんな女子達を、千冬は呆れた様な表情で、頭に手をあてて溜め息を吐いていた。
「ハァ……毎年よくもここまで馬鹿が集まるものだ…………それとも何だ、私のクラスには馬鹿を集中させられているのか?」
こんな優しさのカケラもない返事を、千冬はクラスに吐き捨てたが、周りのヤツらはそれを燃料にして、更に騒ぎ始める。おーいお前ら、さっき俺と視線を合わせた時に見せたあのおしとやかな態度どこいった?
でも、千冬に向けられた凄まじい歓声を聞いていると、教壇に立つ彼女がそれだけ凄い人間なのだと実感してきた様な、
「キャーーー!! お姉様!! もっと叱って!!!」
「罵ってください!!!」
「でも時には優しくして!!!」
「そして、つけあがらない様に躾をしてぇぇぇぇぇ!!!!」
あぁ……そうでもない様な……
彼女達の歓声を無視した千冬は、俺の事を睨んでいた。
「で、自己紹介の最中に何をやっているんだ? お前は」
「いや、別に……口説いてたわけじゃ……」
「ま、まぁまぁ……いいじゃないですか織斑先生♪ ちょっとビックリしましたけど……」
俺と千冬の間に山田先生が割って入り、口喧嘩はそこで終わった。いつの間にか歓声が静まり、そこから残ったクラスメイト達の自己紹介を終わった直後、学校の聞き慣れたチャイムが聞こえた。
「よし、HRはこれで終わりだ。諸君らにはISの基礎知識を半年で覚え、その後はひたすら実習を学ぶ事になる。基本動作を覚える時間は半月しかないからな? 覚悟しろ。私の言う事に対する答えは『はい』か『Yes』だ。いいな?」
「「「「「「「ハイ!!!」」」」」」」
さっきまでキャーキャー騒いでいた女子達を一瞬で手懐けるこの統率力。山田先生もきっとこれを求めているんだろうな。千冬の事を羨ましそうに見てるんだもん。
・・・☆・・・☆・・・
HRはそこで終わって、山田先生も千冬もどっかへと行ってしまって、俺もとっとと朝、千冬に言われた通り、勉強用具を買い揃えようと動きたいところだった。
でも俺はこの学校の購買がどこにあるのか知らねえ。学校からはおそらく、自分で見て回れという事項なのだろう。
しかし探すにしても、この学校の広さはここに来るまでの過程で散々と見せつけられている。ヘタをすると最悪、一度出た自分の教室に戻れなくなる痴態を起こすかもしれないのだ。この学校はそれぐらい広い。
そんなクソ広い学校の教室には、書いたらクッソでかくなるだろう地図を貼る様なスペースはない。だから、この教室には地図がないのだ。教室の黒板の両隣には、右に一週間の時間割表のモニター。左には学校の見取り図かと思いきや、島全体の見取り図のモニターだった。これじゃあ情報が多すぎて探そうとしたらキリがないだろうに。あぁ……しかも学校の新しいニュースや掲示板などで埋め尽くされて、ほとんど見えてない。
でも、探さないと行けないわけで、俺は今、自分の机のモニターとボタンをいじって学校に関する情報を探してる。操作の方法は朝いじくっている時になんとなくわかった。たぶん、まだ何か俺の知らない操作が隠れてはいるだろうけども、動かすだけなら十分だ。パソコンとたいして変わらん。いきなり目の前の空間に入力式のキーボードが浮かび上がったときは、さすがに驚いたが。
えっ? クラスメイトに聞きゃあいいじゃないかって?
じゃあ今このクラスの状況知りたい?
ヒソヒソ…… コソコソ…… クスクス…… ザワザワ…… ガヤガヤ……
「見て見て、あの子でしょ!? IS動かしちゃった男の子って!」
「すっごいニュースになってたわよね!!」
「やっぱこの学校に来たんだ〜」
「でもなんで男なのにIS動かせたのかな?」
「さぁ……? あの子、千冬先生の弟らし──
見ろよ。客寄せパンダの、パンダの気分が今ならわかるぜ……。教室の廊下側の窓は、ほかのクラスの女子がひしめき合っていて、正直、教室から出れるかどうかが問題になってくるほどの状態だ。クラスの周りも俺から一回り離れたところで会話のグループを作って、ヒソヒソと俺の名前が聞こえる話をしている。話しかけたらたぶんそこから人が集まって会話がごっちゃになり、購買どころじゃなくなるだろう。だから話せないのだ。
「うっわぁ〜、私服姿だ……」
「いや、あれ寝間着じゃない?」
「寝坊なのかしら?」
そう、忘れてしまいそうだが、今の俺はISの制服ではなくて、朝と同じパーカーとジャージ姿だ。足は素足に来客用のスリッパ。浮いてるなんてレベルじゃねーぞ。
あっ、学校のホームページ発見。ラッキー。購買の事書いてないかな。なんか人気のあるオヤツとかあれば、探すの楽そうだけど。
「ねぇ、あなた話しかけなさいよ〜」
「えっ? でもなんかやってるみたいだよ?」
「あたしいっちゃおうかな〜」
「ちょっと、抜け駆けする気!?」
おしビンゴ! 場所もわかったし、俺はディスプレイを止めて、机から立ち上がる。ちなみに、人気のあるオヤツはシュークリームでした。昼飯の後に買お。
キャー!
いやいや、何で立ち上がっただけで歓声があがんだ。
廊下の方に目を向けてみれば、教室の扉のところまで女子でつっかえている。通ったら間違いなくカラまれるな。あそこから出るにはかなりの勇気が必要だ。
窓の方に目を向けてみる。この教室は校舎の二階だから、やろうとすれば飛び降りれなくもないと思うのだが、この教室の窓は形が特殊で、人が通れるほど全開にできなくなっている。できたとしても、それでまたいらん注目を浴びるのも嫌だし、最悪、千冬に伝わって彼女にぶち殺されるのがオチだろう。
とは言え、行かなきゃ行かないで彼女に殴られる運命が待っている。俺はパーカーのポケットに手を突っ込んで、教室の廊下の方へと歩き出した。ペタペタ擦れるスリッパの音が煩わしい。
出入り口を通ろうとすると、つっかえていた女子達がサーッと引いて俺に道をあける。これほど至近距離まで近づかれたら、さすがに目の前で本人のウワサ話をするのは気が引けるのか、口を半開きにして黙ってしまったが、視線は俺の方に向けて動かない。
目を合わせず、教室の入り口から出てみると、そこはもう通る道もないほどの人混み。隣りのひとクラス先まで女子でごった返しており、その全員の視線が俺に向いている。全身に突き刺さってくる感情は興味、感心、恋情? 情欲……? とにかく色々。ハッキリ言ってちょっと気味が悪い。
廊下を歩き出すと、周りの女子生徒は俺から一歩下がる様にして距離をとり、道をあけてくれる。それはまるで水の波紋が広がっていく様にも見えたが、俺からすればパンダ気分からゴキブリの気分にでもなった様なもんだ。
そばを通り過ぎる女子は、みんな無言で俺の事を見つめて、俺が目を合わせると逸らしてしまう。そんなのが何度も続いて、いつの間にか俺が女子の包囲網から抜けると、その後ろからは女子のささやく声が幾重にもなって、ザワザワと聞こえた。
「お、思ってたより……」
「不機嫌そうだったね……?」
「私、睨まれたよ……」
「ちょっとコワくない?」
「でも、アリかも……」
そんな声が聞こえて、俺は校舎の階段を下りながら、自分の眉間を数本の指で押しあてた。案の定、そこには緩い皺が集中しているのを感じた。別に目が悪いわけではないが、普段からどうしても眉間に皺が寄ってくる。一夏はイケメン面だが、やっぱり睨まれたら怖いよなぁ…………悪い事した。
片手の指を押し付けたまま、その皺をなんとか伸ばそうとグリグリしながら階段を下りて、購買を目指す。途中、何度かすれ違った女子に『織斑 一夏』の名前を呼ばれて、俺は眉間を隠したままテキトーに返事をすると、それだけで嬉しそうに笑っていた。眉間に手をあてたままの俺がおかしくて笑っていたのかもしれない。
広い広い校内を見渡しながら、頭の中に記憶した道のりを頼りに、なんとか購買に着いた。校舎の中、食堂の近く。横に幅の広いカウンターはメシ時になれば生徒達が一気に押し寄せるのだろう、頑丈そうなショーケースが並んである。時間が時間なので、今は何も入ってはいないが。
それでも、飲み物などはもう販売しているようだ。今も一人の女子が紅茶のペットボトルを受け取り、俺と目が合ったと思ったら、手を振ってくれた。とりあえず振り返した。
嬉しそうに去っていく女子を流し目で見届け、俺は購買へと視点を戻した。カウンターの前で立ち止まり、「すみません」と一言、中にいた店員の婆さんを呼ぶ。派手な模様のエプロンを着けて、ずいぶん太い体つきをしているが、不健康と言うわけではなく、優しそうな婆さんだった。なんか、『俺』に煙草を売ってくれた婆さんを思い出した。
カウンターの奥には半透明の冷蔵庫が数台。中には色々な種類の飲み物が冷やされている。設置されてある広いテーブルの上には、女子が好きそうな一口サイズのお菓子が並んでいた。もちろん、勉強用具や替えの靴下など、学校の生活に必要なものも売られている。
で、中にいた婆さんはテーブルの上のトレーに入った小銭の山を整理していたらしく、俺の声に振り返った。
「いらっしゃ……アラ、あんたがひょっとして千冬さんの弟かい? 世界で唯一ISを使えるってゆう……」
「あ、ハイ……一応……」
一応って何だよと、自分で言った事に指摘を入れる。ISには触れた事ないからさっぱりわからないが、やっぱりまだ認めたくはないらしい。自分も、この世界も。
「へぇ〜写真で見るよりいい男じゃない! ……しっかし、何で制服じゃないんだい?」
「イヤ、まだ準備ができていないらしくて……」
「アラ、そうなの?」
くだらない嘘ついたよ。まぁ、素直に寝坊して遅刻したって言って、いらん小言を言われても面倒くさいから、これぐらいは別にいいだろ。
「はい……それより……」
話を適当に区切らせて、俺は授業に必要な物を片っ端から注文していく。藍色のシャーペン、白いカドケシ、黒の多色ボールペン、水色の横書きノート、ついでにお茶とお菓子も買った。両手だけで持つ荷物としては、量が多すぎたな。
財布から千円札を一枚取り出して、カウンターの上に置く。婆さんは慣れた手つきで電卓を指で叩き、俺の置いた千円札をトレーに入れて、同時にそこから素早く小銭を摘み集めて、俺の手の平へと優しく滑らした。
「ハイお釣り。これから色々あるだろうけど、ガンバんなさいな♪」
にっこりと頬笑む婆さんを見て、俺は「はい」と一言だけ返事をしながら、貰った小銭を財布に流し込んだ。
俺は少しだけ、この世界の現実味を感じた。目の前にいる婆さんは俺が知っているこの世界の住人。言わばキャラクターのはずなのだが、そんな雰囲気を微塵も感じさせない。
生きているのだ。いや、当然だと思うが、想像だけの世界が現実になって、そこにぶち込まれた身としては、こんな事すら何て言うか……感慨深い。
思い返してみれば、『織斑 一夏』とはかけ離れた俺に対する千冬の言動。自己紹介の時に、ちょっと違うアクションを起こしてみせた時の、山田先生の表情。廊下を歩いていた時、俺から視線を向けられて、慌ててそばにいた友達の陰に隠れてしまった、名前も知らない女子生徒。人としての、当たり前の反応。いよいよ湧き上がる現実味。
何で自分がこんな事になっているのかはわからない。神様の悪戯か、はたまたタチの悪い夢か、考えても答えは出てくる様なモンじゃないだろう。
だから……目の前にいるこの人の言う通り、この学園にいる限り、俺は本当に色々と面倒な事件につき合わされるハメになる。そして、この姿である限り、俺は逃げる術がない。仮に逃げたとしても、逃げたら逃げたで相当マズい。
もしも今、『織斑 一夏』である俺がここからいなくなれば、不特定多数のキャラが不幸を辿る事を俺は知っている。そんなの後味が悪すぎるだろ?
だが、そんなんどうでもいいじゃないかと非情になる事だってできた。こんなふざけた世界でよくわからん奴等の言いなりになり、好きでもないヤツの機嫌を損なわない様に触れ合って胃に穴が空く様な思いをするよりは、そいつらを踏み台にしてでも自由を目指す方が余っ程有意義に決まってる。いっそ、今すぐここから逃げ出したい。
ところが、数時間前に見た千冬の優しい笑顔と、山田先生のでっかいおっぱい。そして美女だらけのこの学園と今『織斑 一夏』として存在しているこの状況を考えると、何もしないで逃げるのは非常にもったいなく感じる。ちょっと苦労すれば、ハーレムなんてちょちょいのちょいじゃないか?
でも、それは只の同情だろうと考えながら、俺は買ったノートの上に残りの荷物を乗せ、落とさない様にバランス良く左腕に抱える。そして最後にもう一度、婆さんに深々頭を下げ、俺は購買を後にした。そろそろ最初の授業までの時間が迫ってきている。山田先生ならどうでもいいが、千冬が待っていたら色々と面倒だ。
少し駆け足で、元来た長い廊下の道を戻ろうとしたが、その途中の曲がり角を曲がろうとした途端、
ドン!
「キャ!」
急に目の前を歩いてきていた女子生徒と体がぶつかった。衝撃で相手は尻餅をつき、俺はバランスを保ち続けたが、左腕に抱えていたノートやらペンやらは流されるままに様々な音をたてながら、廊下の床へと散らばった。
本日二回目の接触事故。ぶつかった相手は、教室の時に俺から顔を背けたポニーテールの女だった。
「ッ! と……悪い、大丈夫か?」
「あっ!? ……あぁ……だっ、大丈夫だ……!」
声をかけながら手を差し伸べてやると、俺と視線を合わせた彼女は、しかめていたツラを酷く驚かせながら、俺の差し出した手の平を掴んで立ち上がった。と思ったら、今度は素早くその手を放し、スカートの後ろを数回はたき始めた。
俺は床に散らばった荷物を拾い集める。最後のひとつ、多色ボールペンは彼女が拾ってくれた。
「こ、これ……」
「あぁ……悪い──
「あっ、あの!」
ボールペンを受け取った瞬間、彼女は一際大きな声を出して、俺を呼びかけてきた。俺はその声に驚いて、渡されたペンを落としそうになったが、なんとか手元に納めて彼女を見る。
「えと、あの……その……」
彼女は視線を俺に直視せず、言葉もしどろもどろのまま、何かを話そうとしている。その表情には、焦りと微かな喜びの様子が見て取れた。
彼女がなんでこんな事になっているのかは、重々わかっている。ただ、今の俺に向けられている彼女の気持ちと、この生温い恋模様が余りにも非情に感じた。
だが、このまま無視をするわけにもいかないので、俺は目の前にいる哀れな女に助け舟を出してあげた。
「久しぶりだな……『
「っ!?」
『箒』 そう呼んであげただけで彼女は、俺の言葉に一瞬だけ目を広げつつも、その表情に喜びを浮かべた。が、次の瞬間には目を細めて、妙にたどたどしい言葉で口を開いた。
「あっ、あぁ……よ、よくも覚えているものだな……」
「そうだな……いったい、何年ぶりだっけ?」
「ろっ、5年だ! 5年と……6ヶ月ぶり……」
「そうか……ずいぶん長いな……」
「あぁ……長かった……」
彼女の話に合わせながら、俺は拾い集めた荷物を整える。お茶のペットボトルがちょっと凹んでいた。どうでもいいか。
「で、俺は教室に戻るけど、お前はどうする? 購買でなんか買うのか?」
「あ、いや……あっ、あぁ……! お茶でも買おうと思ったのだが、時間が悪かったな……私も戻るとしよう」
嘘つけ。お茶なんか買いにきたわけじゃないだろうと心の中で指摘しながら、俺は箒に「そうか」と呟いて彼女の横を通ろうとしたが、それは彼女の呼びかけで足を止められた。
「い、一夏! その……一緒に行っていいか?」
「あ? 別に……いいぜ」
未だに口調の落ち着かない箒に俺がそう答えると、彼女は「あ、ありがとう……」と小さな声で一言だけ呟いて、俺の右隣を歩き始めた。
「〜♪」
横目で見る彼女の顔は、本当に嬉しそうに表情を緩めていた。俺はその彼女の様子を、ただただ見ているだけだった。
これがこの物語のヒロインの一人。今はこんなにもおとなしい清楚な女に見えるが、はたして本当に怒ると本来の暴力的な一面を見せるのだろうか。というか今思ったが、この世界のヒロインって暴力的なヤツ多くね?
「そういえば一夏……」
「あぁ?」
「教室の時から思ったが、どうしてお前は制服姿ではないのだ? それに……入学式にも、お前はいなかったぞ?」
「………………………………寝坊した」
「なっ!? お前、今なんと言った!?」
なんでわざわざ怒られる様な事を言ったのかは、俺にもわからなかった。箒は物凄い剣幕を見せ、俺を咎めてきたが、俺は彼女に歩幅を合わせたまま、それを黙って聞いていた。それは教室に行き着くまで、彼女の小言は続いた。
・・・☆・・・☆・・・
教室に戻ってようやく箒に解放され、自分の席で座っていると、時間をつげるチャイムと共に山田先生が教室に入ってきた。綺麗に積み重ねられた教科書の束を細い両手で重そうに抱えながら、ゆっくりと。
見ていられなかったので、俺がその教科書の束を代わりに持って、教壇の机の上に置いてやった。短い距離だったが、山田先生はずいぶん嬉しそうだった。ついでに言えば、箒に睨まれた。嫉妬深いのね、お前……。
教壇の上には俺が運んでやった教科書以外にも、白紙に包まれた新品で山積みの教科書が置かれ、それがクラス全員に配られてから授業が始まった。内容は『IS』に関する基礎知識のおさらい。と言っても、俺はなんにも知らないわけだが。
「……であるからして、ISの基本的な運用は現時点で国家の認証が必要であり、枠内を逸脱したIS運用をした場合は、刑法によって罰せられ……」
黒板に次々とデジタル画面を浮かび上げさせながら、すらすらと教科書を読む山田先生の授業を無視して、俺は渡された教科書、机の上に置いてある5冊の内の1冊を手に取り、最初の数ページを開いた。再生紙のツルツルする感触が、少し懐かしい。
中に書かれている文は専門用語の羅列だが、適当に解釈していけば読めなくもない。理解しろと言われたら、少し話が変わってくるが。
適当にページを読み進めていくと、全体に大きく拡大された写真の挿し絵が目に入った。写真には鉛色の鎧武者の様なパワードスーツを身に着けた凛々しい女性が写っている。装甲の部分にはマーキングやら型番の記号などが細かく彫られていたが、女性の姿はやはり水着みたいな服装だった。
これが『インフィニット・ストラトス』 通称『
で、ハズ……というのも、このISというのは重力下でも戦闘機以上の飛行、機動能力を備えており、操縦者は強力なエネルギーバリアによってその身を守る事ができるらしい。らしいと言うのは、まだ俺がこの目で見ていないから、確信が持てないだけ。本当にこんなのがマッハで空を飛ぶのだろうか。
そして、なんといっても欠かせない事柄なのがこのIS……原則、女にしか扱えないという不可思議な機能を持っているのだ。男がISに触れてもISはただの金属の塊。理由はわからん。原作でも明らかになっていないから。
だが今この通り、女だらけのIS学園の教室で男である俺こと『織斑 一夏』が授業を受けている状況からでも察する事ができるであろうに、この男はなぜか男なのにISを起動させる事ができてしまい、なんやかんやでこの女だらけの花園にぶち込まれる事になってしまったそうなのだ。理由はわからん。原作でも明らかになっていないから!
おそらく、そのISの能力が世間的に知られた後は宇宙利用よりも軍事利用へとカネが流れていったに違いない。ISがICBMやMIRVを凌駕するとは思えないが、それだけこのISは武装させるとヤバいシロモノなのだろう。わざわざ、こんな学園を建てているくらいなのだから。
ふと、思う。ISは確かに強いのかもしれないが、それにしたって過大評価し過ぎじゃないのか。と……
俺は頭を下に向け、首を少しひねり、腕で顔を隠す様にしながらあくびをした。
正直言って眠い。つか、ツラい。入学早々初日から授業があるのも正気を疑いたいが、毎日50分の6時間授業とか見るだけで嫌になってくる。夜間45分の4時間だった定時制高校が昔の様に感じる。
机の上に肩肘を立て、そこに頭を預けて下を向く。そして教壇に立つ山田先生の声を聞きながら、俺は目を閉じた。
バスッ!
「zzzッ!?」
突然、後頭部に強い衝撃を受けた俺は顔を上げると、机の横には教科書を持った千冬が、静かな怒気をまといながら俺の事を見下ろしていた。同時に周りのクラスメイトはクスクスと含み笑いを俺に向けていた。
「寝るな馬鹿者、お前が一番知識に乏しいのだぞ」
「……なんでいんの?」
ベシッ!
「教師には敬語を使え」
「チッ……はい……」
条件反射で舌打ちをしてしまったが、千冬は溜め息だけ吐いて、叩いてはこなかった。
「ハァ……山田先生は教師になってからまだ日が浅い。私は実技を専門にしているから、しばらくは彼女と合同で授業をする事になっているだけだ」
叩かれた頭を押さえながら、迷惑な事でと心の中で悪態を吐いて、俺はもう一度さっき読んでいた教科書を開く。
前を向くと、教科書を読むのを中断してアワアワしていた山田先生が心配そうにこちらを見ていた。
「お、織斑くん? わからない所があるなら先生に聞いてくださいね? なにせ、私は教師ですから!」
そう言って胸を張る山田先生。ぷ・る・んと大きな胸が揺れた。ヤヴァいね。この人のためだけに起きているのも悪くないかもしれない。
けれども、俺は開いた教科書をテキトーにバラ読みしながら、こう答えた。
「う〜ん……でも俺かなりわかりませんよ? 読んでてもなんかぼんやりとしか理解できてませんし……」
「えっ、かなりわからないんですか?」
俺の言葉に山田先生は困った様な反応を示した。まあ、そりゃ困っても仕方のない様な事言ってんだから当然か。
まだそばに立っていた千冬が、俺に聞いてきた。
「……織斑、入学前に配った参考書は読んだか?」
少々答えに悩む。このまま正しいことを言って彼女にぶたれるのは理不尽な気がしたので、俺は原作の知識を利用して嘘をつく事にした。
「……それって、あの分厚いヤツですよね?」
「そうだ。必読と書いてあった」
「あぁ〜……読んだけどまだ理解できてない部分があったから、家から持ってこないとな……アレ」
わざとらしい態度だったが、千冬はまた溜め息を吐いて、俺の方を睨んだ。どうやら、誤摩化す事はできたらしい。
「全く……学校に在庫があるから後で持ってきてやる。その代わり一週間で内容を覚えろ。いいな?」
「はーい」
バシッ!
「伸ばすな……」
「はい……」
そんな項垂れた姉と弟のやり取りを目の前に、山田先生はオロオロしていたが、千冬が俺の側から離れながら彼女を促して、ようやく授業は再開された。と思ったが、先生はまた俺に話しかけてきた。
「織斑くん? わからないところは授業が終わってから……時間があれば放課後でも教えてあげますから……がんばって……ね?」
ね? ってなんだよと思ったが、今はこの無知の自分をなんとかしないとマズいというのはわかってはいたし、目の前にいる山田先生は本当に良心のつもりで言ってる事なので、俺は我慢して彼女の授業を受ける事にした。
それにしても、この『IS』の世界でまともな性格のキャラは、この山田先生しかいないのではないだろうか。比較的以前に比較するだけのキャラもいないので、俺の頭の中で必然的に彼女が好印象のキャラとしてトップに君臨している。
そんな山田先生は、あんな暴力的な担任教師と、これから増えていく騒がしいヒロイン共をまとめようとして、結果は振り回されるという……なんとも苦労人な人だ。
だから……なんとかしてあげたいって思うのは、間違っていない……と思う。
「? どうかしました、織斑くん?」
「あっ、いえ……先生の事見てただけです」
「えっ、見てた……ぇえ!?」
俺の言葉に山田先生が顔を真っ赤にして慌て、クラス中が騒がしくなって、千冬にまたぶたれたのは、言うまでもない……のかもしれない。
・・・☆・・・☆・・・
騒がしかった授業もようやく終わって、再び休み時間になった。
俺はペットボトルのお茶を飲みながら、机のディスプレイと教科書を開いてISの事を調べている。周りからの視線は相も変わらず、先程の昼休みの時とほぼ同じ、パンダの状態だったが、関わろうとするのは面倒だから無視している。
そんな中、俺のそばに近寄り、足を止めた女子がいた。
「ちょっと、よろしくて?」
少し高圧的な女の声。ディスプレイを中断し、話しかけてきた彼女の方に顔を向けると、そこに立っていたのはさっき俺が見た、金髪でユルい縦ロールのお嬢様みたいな女だった。近くで見れば見るほど美しい顔立ちに、そこそこの巨乳。片耳には、青々と輝く宝石の付いたイヤリングがバランス悪そうに揺れている。
「あぁ? あぁ……」
「まあ! なんですの、そのお返事。わたくしに話しかけられるだけでも光栄なのですから、それ相当の態度というものがあるのではないかしら?」
返事をしただけでこの反応だよ。まぁ……「あ」だけで返した俺も俺だが、この世界の約大半の女は男に対してこんな態度しかとれないのだろうか。煙草を買う時にド◯キの前でぶつかった女も、いい例だな。いや、悪い例か? いや、もうどっちでもいいや……。
俺は、目の前で不愉快そうに目を細めている女に、今度は体を向けてから話をした。彼女の名前は知っているし、聞いている。自己紹介で堂々と長々話してたよコイツ。内容はほぼ聞いてなかったけど。
「あぁ〜悪かった……『セシリア・オルコット』……さん……?」
「わかればよろしいのですわ。イギリスの代表候補生にして入試主席のこのわたくしが話しかけているのですもの。少しはお理解なさって?」
「代表候補生……国家代表ISの操縦者、その候補生として国から選出される操縦者……様はエリートか」
「その通りですわ! 唯一、男でISを操縦できると聞いていましたが……思ったよりも知的で感心しましたわ」
「イヤ、今この教科書のページに書いてあった事を言っただけ」
そう言った途端、彼女は腰に当てていた手と仁王立ちしていた足をズルッと滑らし、俺の机の横に前のめりになった。そんなにショックな事言っただろうか。いくら代表候補生という単語は知っていても、その詳しい内容なんざ俺も知らん。
彼女は滑らした手を俺の机の上に踏ん張らせたから、転ぶ事はなかった。ただ、体勢を元に戻した彼女の顔は先程よりも目が吊り上がって、ずいぶん怖い表情をしていた。
「あ、あなた……このわたくしを馬鹿にしていますの? 大体……その格好といい、授業中の態度といい、あなたはもう少しご自分の立場というものを考えた方がよろしいのでは?」
そうは言われても、ほんの数時間前までは夢の世界だと思っていたのだから、素直に納得ができないし、お前相手に態度を改める必要性も感じない。ただ、今の自分の立場ぐらいならわかってはいる。
「そ〜かい。で、そんなクソ生意気なこの俺に、代表候補生のエリート様はいったい何の用なんだ?」
「ふふん♪ 生意気であっても今のわたくしがあなたに興味を持っているのは事実…………ですから、あなたの様な人間にも優しくしてあげますわ。ISについてわからない事があれば、教えて差し上げてもよろしくってよ? なにせわたくし、入試で唯一、教官を倒したエリート中のエリートですから♪」
軽く鼻を鳴らし、手を再び腰に当てるセシリア。俺がエリートと言ったせいか、どこか嬉しそうな様子だ。とりあえず褒めとけば機嫌を損なわなくて済むな、この女。
ISの事を教えてくれるのならありがたい。今の俺が持つものといえば、原作からの知識だけ。それ以外は本当に何もないのだから、この世界の事を教えてくれる人は何人いても助かる。たとえそいつの教え方にやや難があるとしても。
そういえば確か、この『織斑 一夏』も入試の教官を倒してはいるらしい。でも、それを言ったら目の前のコイツと、またメンドくさい会話が始まるから、ここは黙っておこう。
「そうか、教官を倒したのは凄いな。それなら……今は座学だけだし、ISの実技になってから指導頼むわ」
「フフフ、私の指導は厳しくってよ……?」
今こう見ると、高慢で高飛車な言動の目立つ彼女だが、意外にも話せるヤツだと思った。ただ、このまま史実通りに話が進むと、俺と彼女は対立するハメになるのが気がかりだったが。
この会話の直後に、次の授業開始を知らせるチャイムが鳴った。次の授業もISに関しての事だから、山田先生とこわーいこわーい千冬先生が来る。セシリアは「ではまた……」と素早く俺と別れ、自分の席へと戻っていった。俺もとっとと教科書と筆記用具を机の上に揃えようとしたが、
「い、一夏!」
少し焦った様に俺を呼んだ箒の声に、手を止めた。彼女の方を見ようと机の中に向けていた頭を上げると、箒は俺のすぐそばに立っていた。少し熱気のこもった、切羽詰まった表情で。
「な、なんだ……?」
彼女は俺に視線を合わせず、今さっきの声の勢いはどこへやったのか、ボソボソと小さく口を動かして話しだした。
「そ、その……私も指導してやってもいいぞ……」
「え? 今なんつった?」
「だっ、だから……! 私も指導してやると言っているのだ!!」
言っている事はわかった。でも、その前にお前は声のボリュームを下げろ。段々と大きくなっている彼女の声に、クラスの視線が集まっているのがわかる。「も」って言っている辺りこいつ、どうやら俺とセシリアの会話を聞いていたらしい。
「で……でもお前、ISの事について特別詳しいわけでもねえだろ?」
俺の一言は的確だったのか、箒は怯んだ。
「たっ……確かにそうかもしれないが……ISの前にもできる事はある!」
「へぇ、例えば?」
「例えばその……ISを動かすための基礎体力作りとか……」
彼女は必死に、俺と一緒に特訓する手段を考えている。たぶん、セシリアの誘いを俺が受け入れるとは思わなかったので、焦っているのだろう。
でも箒……俺は特訓関係であんたには関わりたくないんだ。
俺は……剣道をやった事がないのだから……
「そんなん自分でやるからいい……」
「なっ、別に一緒に特訓するくらい良いではないか! それともなんだ、私と一緒に特訓するのは不満なのか!?」
「そういう事じゃない」と俺が言い切る前に、教室に千冬が入ってきたので会話は中断された。「何をやってる? とっとと席に着け」と叱られた箒は、俺の返事を聞かないまま、しぶしぶ自分の席へと着いた。
教壇の前に立ったのは千冬。山田先生は少し離れた場所でノートを手に持って、彼女の話を聞こうとしていた。どうやら、今度は千冬が教鞭を振るうらしい。なら寝てしまおうかと、俺は片手で頭を支え、顔を下に向けた。
「よし、それではこの時間は実戦で使用する各種武器の特性について説明する」
と思ったら、ちょっと面白そうな話の内容だったので、俺は顔を上げた。
「あっ、その前に再来週行われるクラス対抗戦に出る代表者を決めないといけないな」
だが、千冬は思い出した様に話を変え、俺はまた眠ろうとしたが、今度は彼女に叩き起こされた。
「起きろ馬鹿者。いいか、クラス代表者とはそのままの意味だ。対抗戦だけじゃなく、生徒会の開く会議や委員会への出席……要はクラス長だな。クラス対抗戦は、入学時点での各クラスの実力推移を測るものだ。まぁ、今の時点でたいした差はないと思うが、競争は向上心を生むからな……言っておくが、一度決まると一年間は変更できないぞ」
あれ? クラス代表を決めるのは、入学日の後日じゃなかったっけ?
自分の記憶は真新しくもないから間違っている可能性も十分にあるが、だとするとマズい。セシリアとは仲良くする時間もないまま対立する事になるじゃないか。叩かれた頭を押さえながら、俺は彼女の話を聞いていた。
「自薦他薦は問わん。誰かなりたいヤツはいるか?」
「はいっ、私……織斑くんを推薦します!」
真っ先に発言したのは、俺の隣りに座っている女子だった。元気よく手を挙げて、俺の名前を出しやがった。
で、一人が動くと。
「あ、わたしもっ!」
「私もそれがいいと思います〜」
「せっかくの男の子だもん。売り出さなきゃソンだもんね〜♪」
まぁ、こうなるわな。周りのヤツらは流れに従うかの様に、無責任な期待を込めた声で俺を推薦していく。
一通りの声を聞き集めて、千冬は俺の方を見た。
「……だそうだ織斑。お前が代表でいいな?」
このまま話に流されるのもシャクなので、少し抗ってみる。
「いいな、って……拒否権は?」
「ない、選ばれた以上は覚悟をしろ」
「待ってください! 納得がいきませんわ!」
俺と千冬の会話を遮ってきたのはセシリアだった。机を手の平で大きく叩いて立ち上がり、俺を睨みつけている。っておい、千冬の方を見ろや。
「そのような選出は認められません! 大体、男がクラス代表なんていい恥晒しですわ! 実力から考えればわたくしがクラス代表になるのは必然、それを物珍しいからで彼にされては困ります!」
あまりにも俺の事を見下した意見だが、彼女の言い分も生粋のエリートとしてのプライドのためなのだろう。そう考えれば、わからなくもないが。
彼女は自分の髪の毛を肩の方へとかきあげながら落ち着きを取り戻すと、更に言葉を続けた。
「いいですか? わたくしはこのような島国までIS技術の修練のためにわざわざ来ているのでしてよ? クラスの代表は実力のトップがなるべき、そしてそれはこのわたくし、セシリア・オルコット以外ありえませんわ♪」
そして彼女は、自分こそクラス代表になるべきだと、千冬に自薦した。俺は彼女の方に向けていた体を教壇へと向け、千冬を見る。彼女は何か神妙そうな顔つきをしていた。
「先生、俺もアイツに一票。経験が違いすぎる」
「そんなもの、ここにいるクラスのほぼ全員が同じ様なものだ。お前はそれよりも更に下だぞ?」
「じゃあ尚更……」
「このクラス代表を決めるのは、能力の善し悪しではない。自己の実現や指導力、責任感などを向上させるための体験だ。安心しろ、代表者には私が直々にISの技能について指導してやる」
「う……」と言葉を漏らして体をガタッと震わせたのはセシリア。彼女の鬼教官っぷりは、この数時間での俺と彼女の物理的なやり取りで印象づいているはず。そんな彼女と1対1での授業なんざ、たとえ学ぶものが多くあっても、お嬢様にはキツすぎる事だろう。俺も嫌だ。
「じゃあどうやって決めんの先生? 俺とセシリアで一緒に代表者?」
「いや、代表者は一人と決まっている。だからお前ら二人でなんとかして決めろ」
えっ、そこは丸投げかよ! と俺が突っ込もうとしたところで、セシリアが声をあげて俺の言葉を遮った。
「でしたら、名案がありますわ!」
思いついた様に手を叩き、俺と千冬、クラスメイトを注目させた彼女は、「何だ、言ってみろ」と答えを仰ぐ千冬に対して、不敵な笑みを向けながら口を開いた。
「フフフ……ズバリ……決闘ですわ!」
ハア? 何言ってんだコイツ?
「おいおいおい、ちょと待て。決闘って……ISのだよな?」
俺の中断の声を無視して、セシリアは更に言葉を千冬へと続けた。
「織斑先生? 彼はこのIS学園の生徒だという自覚があまりにも欠けておりますわ。ここは一度、このわたくしが彼に、ご自分の立場というものを理解させてあげましてよ?」
そんな理由で決闘なんざ成り立つわけないだろうと、俺は千冬の方に顔を戻したが、彼女は眉間を少しだけ動かしてこう答えた。
「ほう……いいだろう。私もこの生意気な弟の言動に、久しぶりに腹が立っていたところだ。思う存分やってくれ」
あっさりと許可を出した千冬に、俺は出す言葉がなかった。完全に『俺』が原因だったから。形こそ違うが、これで結局セシリアと決闘する事になってしまった。
「ただし、オルコット。もし負ける様な事があったら……私がお前を叩き直してやる」
「わ、わかりましたわ……!」
「いやいや、お前負ける要素なんかねえだろ? つか、俺どうやって勝ちゃあいいんだよ! 俺、ISの事なんかまだ全然知らねえんだぞ!?」
ていうか、まだ実物のISすら見てねぇのが現状だぞ!?
俺の言葉に、彼女は鼻で笑った。
「あら、それをどうやって勝利するのか考えるのが、クラス代表に必要なものではなくて?」
そのセシリアの言葉に、クラスの連中は「おぉ〜」と納得した様にうなずいてしまい、結果、決闘する事は確定。千冬が話を進めてしまった。
「よし、話はまとまったな。決闘の日付と場所は決まり次第、プリントなり伝言なりで伝えてやる。それまでお前は腕を磨いておけ、いいな?」
俺は彼女に適当な返事をして、机の上にうなだれた。まだISにも触れていない始末だが、本当にこんな運命に流されていて大丈夫なのだろうか。下手をすれば、セシリアとの決闘は想像以上に酷い事になりそうだ。
正直言って、俺は勝とうが負けようがどうでもいい。『織斑 一夏』の姉を尊敬するプライドなんざ持ち合わせていないし、勝ったら勝ったで代表者をやらされるのだから、自分に得な事なんか無いはずだ。原作じゃ一夏は決闘に負けても、色々あって代表者になれていたが、俺には無縁。無様に負けてセシリアに代表者を譲るのが一番だろうと思った。
「織斑くん、私も協力しますから、がんばりましょう!」
俺にそう言って元気よく胸を張ったのは山田先生。あぁ、この人が協力してくれるってんなら……
「い、一夏! わ……私も協力するぞ!」
少し照れくさそうに胸を叩いたのは箒。お前は遠慮しとく……
・・・☆・・・☆・・・
そのあとは特筆する様な事件も起こらず授業は進み、お昼休みになった。
学校のお昼休みと言えば、弁当を開いたり、購買に走るヤツなど色々いると思うが、それはこのIS学園でもほとんど変わりはない。それに、この学園には食堂もある。1日1回、生徒手帳の代わりでもあるIDカードを券売機の機械にスキャンさせると、その日の1食分の食事はタダになる。ただし、追加注文やデザートは有料だ。
奇跡的に、IDカードは財布の中にあった。俺はたまたま居合わせた山田先生と昼食を取ろうとしたが、『俺』という存在はまだまだ女子達の中では注目の的らしく、始終周りからの視線を集める事になっていた。隣りに座っていた山田先生も視線に当てられ、会話が途切れ途切れで弾まず、仕方がないので俺は昼食を素早く済まし、彼女のもとを離れる事にしたのだ。
でもって今、俺がいる場所は学校の校舎の屋上。この学園は屋上も普通に解放している。手入れのされた芝生も広がっていて、寝っ転がるのも悪くはなさそうだ。平穏な証なのだろう。ただ、俺としては閉鎖している方が都合がいいのだが。なんせ、解放しているって事は俺以外にも屋上に来るヤツもいるって事で、
ヒソヒソ……
「ねぇ、あれがウワサの男の子でしょ?」
「見て見て、タバコ吸ってる〜」
「やんき〜だぁ〜」
こんな状態。もうどこへ行ってもこんな状態なのだから慣れてしまったが、いいかげん一人にさせてほしい。セシリアとは対立するし、購買のシュークリームは売り切れてたし、なんか良い事が全然ない気がする。
いや……そもそも、『俺』という存在がこの世界に馴染もうとするのもずいぶん論外な話なんだろうが、なぜか俺はその世界の『彼』になっている。わけわからん。
屋上の手すりに寄りかかって、俺は火の灯った煙草を吸い込む。風にあおられて焼け焦げた灰が校舎の下の方へと飛び散っていくが、気にしなかった。どうでもいいが、この学園の校舎には建物の形に沿う様に、細い電光掲示板が取り付けられている。流れてくる情報は、今日の日付、時間、天気、気温、湿度、その他色々。だから、いらねぇ所に金使いすぎだって……
一度、口元から煙草を離し、紫煙を空へと吹きかける。もし、今この手すりを乗り超えてここから落下したら、全てなかった事にならないだろうか。油断すると出来心で試してしまいそうな、今の自分の心境が少し恐ろしい。
震える手に持った煙草を口元に戻し、息を吸い込もうとしたが、その瞬間に視線の横から伸びてきた手が俺の煙草を取り上げた。
ある種のデジャヴを感じた俺は、手の伸びてきた方向から素早く身を引かせて、その方向を見た。
目の前に立っていたのは、箒だった。彼女は手に奪い取った煙草を俺に見せつけたまま、いかにも厳格そうな表情で俺を睨んでいる。
「一夏、何だこれは……」
「何って……ただの煙草だ」
「そういう事を言っているんじゃない!」
「じゃあ、なんだってんだ……」
「わかるだろう! 未成年の喫煙は法律で禁止され──
彼女の言葉が終わる前に俺は片足を強く踏み込み、その勢いで彼女の手元に握られていた煙草を素早く取り返した。そして何事もなかったかの様にそれを口元へ戻し、息を吸い込んだ。
一瞬の出来事に、箒は呆気に取られたままだった。
「そんな事わかってる……吸ってないと、やってらんないんだよ……」
「む……そ、その気持ちは……だ、だが! そんな体に悪いものを吸っていい理由にはならない! それに、お前は……剣道をやっていたではないか……」
声色が不安定な彼女の表情には、怒りや不安が入り交じっていた。それは目の前にいる変わってしまった幼馴染みに対する怒りなのだろうか。それとも絶望なのだろうか。
俺は彼女にかからない様に、紫煙を吐いた。
「剣道なら、中学に入って辞めたよ」
「なっ!?」
「お前と違って、家庭に余裕があったわけじゃないしな……」
「そ、そうか……な、なら……仕方がないか……」
これは史実通りの事実である。この『織斑 一夏』という男は確か小学校まではこの目の前にいる幼馴染みと剣道をしていたらしいが、ある事件で彼女の家が引っ越しをする事となって離れ離れになってしまう。剣道はその時に辞めてしまったのだろう。織斑家に両親はいない。彼は一人働く姉の事を思って、生活費の足しにバイトをしていたのだと思う。理由をちゃんと説明すれば、箒だって怒らなかっただろうに。
そもそも、
いや、待てよ…………姉は超がつくほどの有名人なはずなのに、織斑家が貧乏なのはちょっとおかしい気がする。あんなデカい邸宅に住んでるんだ。貧乏なわけない。
ひょっとして一夏が剣道を辞めた理由は、箒がいなくなったからじゃないのか? まぁ、本人は自覚ないだろうし、もう答えを知る事もできないが。
俺が『織斑 一夏』の家庭事情を話すと、箒は共感した様にうなずいてくれた。この子には両親はいるが、ある事情で離ればなれだ。だから、わかるのだろう。親のいない心境が。
だから……ついこう言ってしまった。
「でも、まぁ、その……なんだ……もうそんな心配もする必要はなくなったし、これからやりなおすのもアリかな……」
「え……?」
「剣道……やってみるかな……」
煙草を咥えたまま、箒に頬笑んでやると、彼女は曇らせていた表情をパァっと明るくして、俺に頬笑み返す。それがちょっと可愛くて、俺は煙草に手を押さえ、にやけてしまった口元を隠した。
「そうか……そうか! でも、やるなら尚更、煙草は……やめろ!」
「あいにく、ガキの頃から吸っちまってるから、もう無理だ……」
「な……」
俺の言葉に箒は相当ショックだったのか、しばらく口を開いたまま動かなかったが、少し経ってから、風に消え入りそうな声で俺に呟いた。
「…………一夏……お前は……なんと言うか、その…………変わったな……」
「…………あぁ…………そうだな……」
そんな会話をしていると学校のチャイムが鳴って、昼休みは終わった。吸い終えた煙草の吸い殻を地面に捨てて踏み潰したら、箒に怒られた。
・・・☆・・・☆・・・
更に時間は進んで放課後。俺は早速、山田先生の補習を受けていた。帰りのSHRが終わった後、千冬に「お前は今日から寮で生活してもらうから、少し教室で待っていろ」と言われたので、俺は早速、山田先生に補習を頼んだのだ。副担任とだけあって、仕事は少なくてヒマだったらしい。以外とユルいんだな、この学園。
場所は教室。俺は自分の席に教科書とノートを開いて、ペンを滑らす。山田先生は授業の様に教壇の前には立たず、俺の机の隣りに椅子を置いて、そこに座りながら俺とのマンツーマンの指導をしてくれる。すでに日は暮れ始め、空は夕方だ。時折、開いた窓から静かな風が流れ込んでくる。
授業の時から思っていたが、山田先生の教え方はわかりやすい。同じISの事でも、千冬とは雲泥の差がある。今、教えてもらっている所だって、千冬が教えてたISの実戦で取り扱う武器の特性の復習だ。山田先生は、ISの基礎知識すらままならない俺でもついていける様に説明の仕方を変えてくれる。ホント、この人に教師は天職だと思う。
あんまり千冬の事を言うのも悪いが、彼女は教師に向いていない様な気がする。ただ厳しいだけでその後のフォローがなっちゃいない。学校の教師より、軍隊の教官の方がよっぽど似合っている。彼女が教師になっている理由は、おそらく正規的な理由ではないはずだ。このIS学園、確かロクでもなさそうな秘密や、ヤバそうな研究室とか抱えてなかったけ? それともなんだ、自分の弟を守るためだろうか。
だとするとさ……この『織斑 一夏』がISを動かせた事は偶然ではなく必然だったという事になるんだが……
「織斑くん……?」
「あぁ、すいません……ボーっとしてました」
無言のままペンを止めた俺の顔を覗き込んできた山田先生に謝ると、彼女は「織斑くんって変な人ですね♪」と言って、おもしろおかしそうな笑顔をこちらに向けた。それが可愛かったから、俺もとりあえず笑い返した。
夕暮れの教室、俺と山田先生の笑い声だけが、
クスクス……
「あっは♪ ふたりで笑ってる〜」
「織斑くん、山田先生の胸チラチラ見てるね〜」
「あーゆーのがタイプなのかなぁ?」
「教師と生徒の関係………燃えるわ!」
響かない……
放課後になっても俺に対する状況は相も変わらずパンダであった。山田先生も俺も生徒の視線は無視して補習を行っていたのだ。まぁ、教室に入ってこないだけマシか。
そんな事を思った直後、教室のドアが開かれた。入ってきたのは千冬だった。彼女は俺と山田先生と、机の上に開かれたノートを一瞥した。
「あっ、織斑先生……?」
「待たせたな織斑。ん、山田先生も一緒か? ……ほぉ、ずいぶん勤勉じゃないか。見直したぞ」
「そりゃどうも。で、用件は?」
「あぁ、ほらっ、お前の寮の鍵だ」
そう言って千冬はタグのついた鍵を俺に投げ渡してきた。山田先生の頭のすぐ上を通った鍵を、俺は難なくキャッチしながら彼女の話を聞く。
「本来なら1週間は家からの通学だったらしいが、まぁ……お前の場合は事情が事情だから、こっちで無理矢理部屋割りを変更した。わかるな?」
「世界で唯一ISを使える男である俺の保護……と言う名の監視でしょ?」
「……まぁ、そういう事になるな。安心しろ、24時間カメラで撮影されているわけじゃない」
あったりめーだ。そんな会話のやりとりを、山田先生は切ない表情で俺を見てきた。大丈夫だよ先生、そんなのこの『織斑 一夏』だってわかっていた事だろうし。
「荷物はこっちで手配した。生活必需品とお前の制服だけだがな」
「十分十分。必要な物があったら、また家に戻ればいいか……」
「戻れる日があればいいがな」
縁起でもなさそうな事を言って、千冬は俺の机の上に分厚い上に『必読』と書かれた本を置いた。俺はそれ手に取ってパラパラとページをめくるが、どこまでめくっても写真なんてものはあらず、長文の列が延々と書かれていた。
「これはわかるな? いいか、1週間で覚えるんだぞ。ダメだったら私が叩き込んでやるからな」
「ハイ……」
「あ、織斑くん? 時間はわかりますか?」
突然、山田先生が会話に入ってきた。時間と言われてもわからないので、俺は何の時間だと彼女に問い尋ねた。
「あっ、寮の時間の事ですよ。寮には食堂があります。夕食は6時半から7時、朝食は7時から8時までですから、遅れない様にしてくださいね。あと、各部屋にはシャワーがありますし、大浴場もあるんですけど……えっと、その……」
「俺が入れるわけないって事ですよね……」
理由は聞くまでもないだろう。男は俺一人しかいないのだから、わざわざ割り当てたらスケジュールが面倒くさい事この上ない。もし、彼女達に誘われたらどうするかわかんないけど。
「はい……なるべく早く時間の調整をしますから、それまでは我慢してくださいね?」
「いいっすよ、俺一人のためだけにそんな……面倒でしょ?」
「いいえ、織斑くんのためですから……」
「えっ……?」
予想外の返事に、俺はもう一度先生の言葉を確かめようとしたが、その直後に彼女は自分の言った事に気がついたのか、顔を真っ赤にして慌てた。
「あぁ、いえ! 仕事ですから!!」
少し……いや、大きく浮ついた山田先生の声を、千冬の咳払いが遮った。
「あ〜うっんっ!! いいか織斑、もうすぐ日が暮れるから、今日はもう切り上げて、とっとと寮に行け。道草は食うなよ?」
「はいはい……」
ゴン!
「ハイは一回だ……」
「ハイ……」
ぶたれた頭を押さえながら、俺は教科書をロッカーに戻し、ペンとノートと参考書を持って教室を出た。「また明日」と挨拶をした山田先生の顔は、夕日のせいか余計に赤く見えた。
・・・☆・・・☆・・・
(千冬視点)
一夏が教室から出て行った後、私は大きく溜め息を吐いて、顔を朱に染めている山田先生を見た。また一人、犠牲者が増えかと、私は心の中で呟いた。
「すまないな、出来の悪い弟に付き合わせてしまって」
「いえいえ、そんな事ないです! 最初はちょっとビックリしましたけど……とっても優しい弟さんじゃないですか♪」
ベタ褒め……とは言わんが、彼女にとってはもう彼は好印象でしかないのだろう。一夏め……とうとう年上、しかも教師にまで刺激しおって……
いや……問題はほかにもあるか……
「……とんでもない悪ガキさ……」
そう言って私は懐に入れていた、あいつから取り上げた煙草の箱を机の上、山田先生の前に転がした。転がった勢いでフタの開いた箱の中にはゴミで溢れており、そこには煙草なんか一本も入っていなかった。
「これは……?」
「あいつが持ってた。見ての通り中はゴミだけだ。だからきっとまだ中身を持ってる……」
「えっ!? じゃ、じゃあ……!」
「いや、いい……」
私の言葉に、山田君は酷く驚いていた。そりゃそうだ、未成年の喫煙を放ったらかす教師がどこにいるという話だ。
けれども、今の私は教師ではなくて、姉として弟の気持ちを考えていた。
「馴れない環境で精神が不安定になっているかもしれん。それに……あいつはまだ反抗期が来てなかった……」
「先生、それって……」
「あぁ……本来なら、放っておくべきなんだ……それに私だって、本当はそんなガミガミ言える立場じゃない……」
思い当たる節なんかいくらでもある。私が『ブリュンヒルデ』になる前も、なってからも、あいつにはずいぶんと独りきりの生活をさせてしまった。それが当たり前なんだと思わせてしまえるぐらいに……
家に帰っても、子供の頃は必要最低限の世話しかしてやれず、ロクにかまってあげる事ができなかった。中学に入った後は尚更で、家事能力の低い私の身の回りの世話をしてくれる一方だった。嬉しい半分、申し訳なかった。
友達は多いとっていたが、寂しくはなかったのだろうか。『ブリュンヒルデ』の弟と知れ渡ってしまった後は周りから何か言われなかっただろうか。私にだって反抗期はあった。ストレスだって溜まっていたはずだ。
あいつはそれが……今になって爆発してしまったのだと思う。
入学式が始まる前になって一夏がまだ来ていないと知った時、私は焦った。携帯にかけても連絡がとれず、寝坊か迷子じゃないだろうかという事で仕方なく車をとばして、私はしばらくぶりの家へと戻った。なんとしてでも、あいつはこの学園に連れてくる必要があったから。
そして私は驚愕した。家に到着して見えたのは、開きっぱなしの鉄柵の正門と玄関。私は家の中に駆け込み、一夏の部屋へと入ったが、そこに一夏の姿はない。無造作に捲られた毛布のあるベッドに触れても、そこには温もりは感じない。
私は名前を叫んだ。返事は返ってこない。もう一度、今度は強く叫んだ。それでも返ってこなかった。部屋のロッカーを開けてIS学園の制服がある事に気がついた私の手は、がたがたと震えていた。
頭の中に数年前の事件がフラッシュバックする。また同じ事件を繰り返してしまったと、後悔した。
暴発してしまいそうな激情を押さえながら車に戻り、携帯で学園に連絡をかける。事情を素早く説明し、日本政府に重要人保護プログラムの情報をよこすよう命令した。それまでの時間、私は留まっている事ができず、あいつが通るであろう道を辿った。
ただ、車に戻ろうと玄関を出ようとした時、あいつの靴がなかった事が、どうしても頭に引っかかっていたが、その時の私にはそこまで考える余裕などなかった。
数分経っただろうか、ようやく学園から連絡が来た。今になって考えればそんなに遅くもなかったが、私はあまりの連絡の遅さに、怒りを電話先にぶちまけてしまっていた。それだけ焦っていたのだ。
だが、あいつの居場所を知らされて、私の思考は停止した。危うく停止中の車に追突しそうになった。
一夏は誘拐なんかされていなかったのだ。家のふもとの都市部のちょっと通学路を外れた場所、大型雑貨店の歩道に座っているというのだ。
半信半疑になりつつも、私はその場所へと向かった。ひょっとしたら向こうで何か事情があって解放されたんではないかと、その時は勝手な事を考えていた。
しかし一夏の姿が見えたところで、そんな希望も壊れた。いや、自分の考えが甘かったとも思った。
大型雑貨店の駐輪所のすぐそばに設置された喫煙所。一夏はそこに座り込んでいた。姿は寝間着のまま、項垂れた様に垂れ下がった頭の口元から煙草の煙が見えた。
私は信号機で停止している途中に学園へ電話をかけ、一夏がいた事を知らせた。そして、政府にお騒がせした事を謝罪しておいてくれとも伝えた。耳にあてていた携帯は握り潰せてしまいそうなくらい、私の腕には力が入っていた。
携帯を戻し、私は急発進であいつのすぐ目の前の車道に移動し、急停止した。さすがに驚いたのか、一夏は顔を上げ、車の方を見ていた。私はまだ一言も発さず、無言のまま車から降りて一夏の前に立った。間の距離は3メートルもない。目の前に私が現れれば、一夏は何かしらの反応を見せるかと思っていた。
でも違った。私の姿を見た一夏の視線は酷く虚ろげで、私と一瞬だけ視線を合わせたかと思うと、一言もしゃべらずに次はもう頭を項垂らせ、私を見てはいなかった。煙草を止める事もせず、咥えたまんまの口元から、煙が流れていた。
困惑した。いや、ショックだったと言いたい。それは全て、今までに見た私のどの記憶にもない、一夏の姿だったのだから。
そこで私はようやく、自分の反抗期の時代と今のこいつの姿が一致して、こうなる事は必然だったかもしれないと、心の中で反省した。私に顔を合わせても見なかった様に顔を垂れ下げたのも、ある種の現実逃避だったのかもしれない。まぁ、今から現実に引き戻すつもりだったが。
さぁ、まずはこいつに反省させよう。いったい何人の人に迷惑をかけたか計り知れん。こいつが小学校の頃、喧嘩騒ぎを起こした時は事情が事情でどうでもよかったが、今回はダメだ。謝っても許さん。
私は一夏の前に歩み寄り、頭を上げようとする前に片方の手でこいつの口元の煙草を素早く奪い取った。同時にもう片方の手の手の平を開いて、その腕をゆっくりと振り上げていた。
そして一夏が頭を上げた瞬間、私は全身の力を込めてその腕を横なぎに、勢い良く振り払ったのだ。
乾いた破裂音が、朝の空に響いた。
その後、私は一夏を連れて学園へと戻った。車に乗っている間、一夏は一言もしゃべろうとせず、私の言葉も無視しようとした。それどころか、私の隣りで堂々と煙草を吹かそうとしたのだ。さすがにそれは殴ってやめさせたが、一夏は殴り返そうとしなかった。敵わないとわかっているのか、それとも運転中だから危ないと思ったのか。
なんであんな所にいたのかを問い詰めて、一夏はようやく言葉を返してくれた。今までに聞いた事のない、ドスのきいた低い声だったが、『現実逃避』と答えてくれた一夏に私はホッとしてしまった。同じ考えを予想していた私は、ようやくこいつの気持ちを理解できた様な気がしたのだ。
学園についた後も、一夏は態度を変えようとはしなかった。教室へと案内する私の後ろには素直について来てはいたが、おかしいと思ったのは、入学前の受付で訪れているはずなのに、キョロキョロと初めての場所を見る様に周りを見回している事だろうか。まぁ、この学園は広いから、見た事ない場所があっても仕方ないのだが。
入学式はまだ続いていたが、さすがに今のこいつの服装である寝間着のままで出すのは色々とマズかったので、教室に待たす事にした。
一夏は何も文句は言わなかった。さっきと比べてあまりにも順従な姿勢に違和感を感じたが、その目はまだ虚ろげで、まるで何かを諦めた様な物悲しい視線を私に向けていた。
どうやら、この馬鹿はまだ現実逃避を続けているらしい。
だが今度は叩かなかった。私はあごを押し上げて顔を私の方へ向けさせ、視線を合わせた。
「もう現実逃避はできないぞ。ここから先はリアルを見るんだ。逃げるなよ?」
それが今の私に言える、限界の優しさだった。
そう言ってやると、一夏は覚悟を決めた様に私を見遣り、ようやく私の目を見て返事をしてくれた。数ヶ月ぶりに聞いた弟の声になぜか胸の高鳴りを感じて、私はそれを誤摩化す様に『千冬姉』と呼んだ彼の頭を優しく叩いたのだった。
いつかはこんな事が来るとわかっていた…………あいつがISを動かせるのは束との秘密だったが、遂にそうもいかなくなってしまった様だ。だだでさえ感情の抑制が怪しくなっているのにも関わらず、こんな所へ叩き込まれてしまったのだ。今のあいつの心境は、私には想像がつかない。
「まぁ、これからはいつでもすぐそばにいてやれるしな。ゆっくりと見守ってやるさ……」
「はい……」
山田先生はそれ以上何も言わずに、私の言葉にうなずいてくれた。一夏が出て行ってほどなく時間が経っていた。
「さて、そろそろ会議が始まるが、山田君は先に行っててくれ。私はあいつを追う」
「え?」
言ってる事がわからず、どういう事なのかと聞き返してきた山田君に、私は口元だけ緩めながらこう答えてみせた。
「眼が笑ってた。あれは言う事を素直に聞いた眼じゃなかった」
その言葉に彼女は感心した様に溜め息を吐いた。
「へぇ〜〜さすが姉弟ですね! そんな細かい事までわかるんですか!」
「いや、違う」
「えぇ?」
「わかると言うか……あいつ、私に似てきた様なのだ……今言ったのも、私の子供の頃の癖だ……」
そう言って、私は自分の頬を掻いた。嬉しい様な恥ずかしい様な、そんな気持ちだった。
私があいつを頭ごなしにできるのも、そろそろ終わりかもしれないな……
・・・☆・・・☆・・・
スリッパの音を響かせながら、校舎の廊下を歩いていた。
どこに行こうとしているかはわかっている。寮ではない。もう時間も遅かったが、そのまま帰ればどうなるかは知っている。だから俺は少しだけ道草を食う事にした。
校舎の渡り廊下を渡って、学年の校舎とは少し違う、大きな建物に入ると、向こうから数人の女子生徒と対面した。
「あ〜、おりむ〜だぁ〜」
「本当だ! 織斑く〜ん♪」
真っ先に、それでいて物凄くのんびりとした口調で声をかけてきたのは、袖がダボダボの制服を身に着け、紅茶色の髪の毛を小さめのツインテールにして、キツネを模した様な髪飾りを左右のテールに付けた女子。クラスメイトの、
彼女のとの出会いってもう少し後じゃなかったっけ? いや、もうここにいるのは『一夏』ではないんだし、俺の行動が本来の史実を変えてしまっているのだから、それほど驚くべき事でもないな……。
俺は、ダボダボの袖をブンブン振って近づいてきた布仏さんに手で返事をしながら、声をかけた。
「ちょっといいか?」
「ん? どうしたのおりむ〜」
「あ〜……ISの整備室って、むこう?」
「そうだよぉ〜ISがいっぱい並んでるよ〜」
来た道を指差しながら、布仏さんは俺に通る道を説明してくれた。言動はおっとりとしているが、以外としっかり者かもしれない、この人。
そんな中、もう一人の女子が俺に声をかけてきた。
「なになに織斑くん、整備室に行くの?」
「ん? ……あぁ」
そう、俺の道草はISがありそうな場所を巡り、この目で実物のISを見る事だ。立体ビジョンと教科書では飽きるほど見たが、やはり実物を見てみたいものだ。まぁ、来週に俺の専用機が渡されると思うが、早めに見といて損はないだろう。というか、要は俺が見てみたいだけだ。
「じゃあ、私が連れてってあげる!」
「いや、いい……一人で行け──
「いいからいいから♪」
「おりむ〜そんなに遠くないから大丈夫だよ〜」
俺が断ってもなぜかついてこようとする布仏さん達。一緒でも一人でもやる事は変わらないので、俺は彼女達を好きにさせる事にした。布仏さんの言った通り、整備室は曲がり角を曲がって真っ直ぐの所にあった。両開きのドアだ。
「ここだよ〜」
布仏さんがそこに近づくと空気の抜ける音と共に、ドアが開いた。なんと、両開きの自動ドアだった。
で、中に入った瞬間、俺は言葉を失った。
そこは、まるで巨大な倉庫の様なバカに広い部屋だ。床は金属質で、歩くたびに音が鳴る。天井は剥き出しの骨組みやら鉄骨やら何かのパイプやらダクトやらでごちゃごちゃしていた。
視線を前に戻せば、広間に均等に設置された大きな台座の上に一台ずつ、ISはそこに鎮座していた。
デカい。実際に実物を見て、最初に感じた事はこれだった。パッと見で二メートル以上はあるISを見上げて、俺は息を飲んだ。
自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。やっぱりロボットって男のロマンなのかね。ISはロボットと言うよりパワードスーツだけど、メカメカしてるのは変わりないのだから、やっぱりカッコいいとか思っちまう。
こんなロマンの塊が女にしか動かせないのだから、普通の男は女に嫉妬してると思う。なんも関係のないヤツがこれを見たら、ISはただのカッコいいパワードスーツでしかないのだから。
でも、男が動かせないなら一生動かせない方が良かったとも俺は思う。ISを動かしたせいで『一夏』はここにいるのだし、これが原因で間違いなく世界は見解を変えただろう。どう変えたかは知らんが。
俺の目の前にあるISは、教科書で見た鉛色の鎧武者のヤツと同じだった。近づいて見てみると、所々にカラーリングの掠れや、パーツ分けされた装甲ごとにマーキングが彫られているのが生々しい。
腰の後ろ側には女性のスカートの様な装甲。手には何も持っておらず、銃器らしき武装が見当たらない。代わりに、左の腰にISサイズのデカい日本刀が一本、鞘に納められていた。
「これは
そう言って俺の隣りに並んだのは、なんと布仏さん。垂れ目のままどや顔で俺の事を見てきた。周りを見渡してみると、整備室にいる全ての女子が、俺の事をジッと見ていた。
いや、一人だけ違う女子がいた。俺には目もくれず、色違いのIS──白い打鉄の乗った台座の前で椅子に座り、空間投影型のキーボードとモニターで何かをやっている。白髪と言うよりは水色っぽい髪色をした、ロングヘアーの女子だった。側頭部にそれぞれ付いた髪飾りがデカくて、一瞬ツインテールなのかと見間違えた。
色違いのISには興味があったが、なんか集中してるっぽいし、ジャマしちゃ悪いだろうと思って、彼女には近づかなかった。髪の毛の色はまぁ……この学校、金色はまだしも緑とか普通にいるから、あんまし気にならない。
「詳しいんだな……」
「えへへ〜♪」
そう布仏さんに一言返して、俺はもう一種類のISの前に移動した。
次に見たISは打鉄よりもひと回り大きく、兵器としての印象が強く目立つ存在を発していた。山田先生の髪の毛によく似た緑色の装甲は重量感がある。二本爪の脚部はどっしりとしていて、安定性がありそうだ。背中からは数本のアームが伸びていて、それは付け爪を2枚合わせた、やや楕円形の粒の様な形をしたパーツと接合されていた。その粒の様なパーツ、見た感じブースターか何かだろうと思うパーツに、アサルトライフルやらミサイルやら様々な武装が括り付けられていたる。両手にはアサルトライフルと手持ち式のガトリングガン。腰には二連のロケット砲に、戦車の砲身みたいな大きさのカノン砲が備え付けられていた。
「これは『ラファール・リヴァイブ』だね〜。第二世代の量産型ISの中で一番最後に作られたタイプのだけど、世界シェア第3位のISだよ〜」
「戦争にでも行くのか、コイツは」
「すごいでしょ〜、ラファールは一度に装備できる武装がとっても豊富だから、距離を選ばない戦い方ができるんだよ〜。でも、格闘はちょっとニガテかな〜?」
布仏さんの説明を耳に挟みながら、俺はゴテゴテに武装された緑色の兵器を見上げた。一部の装甲は外されて、そこからケーブルやらコードが伸びて別の機材やパソコンに繋がれ、そこで作業が行われている。何をしてるのかはわからん。
「ねえ、織斑くん? ……動かしてみる?」
話しかけてきたのは布仏さんと一緒にいた、クラスメイトの相川さんだった。俺のそばに寄り添って、上目遣いで俺の事を見てきた。果たして上目遣いで見る必要性はあるのだろうか。
「いいのか……?」
「いいに決まってるじゃない!」
「おりむ〜、ISぜ〜んぜん触った事ないんでしょ?」
「どーぞどーぞ!」
「私、男の子がIS動かすの、見てみたいな♪」
彼女達も作業をしていた女子も、みんなこぞって許可を出してくれた。本来ISは女にしか動かせないのだから、男が動かすのに興味があるのだろう。
ここまで勧められると断りづらいし、断る理由もなかったので、俺は布仏さん達と一緒に誰も作業をしていない打鉄の方へと移動した。台座の上の打鉄は、まるで誰かが起動してくれるのを待っているかの様に、静かに佇んでいる。
俺は荷物を台座の上に置くと、片膝で勢い良くその上に乗り上って、打鉄の正面に立った。手を伸ばせばもう届く距離だ。
ふと思う。『一夏』はいったいどんな気持ちでISに触れたのだろうか。やはり『もしかしたら』というくだらない可能性を考えたのだろうか。
周りの女子達の視線が背中に集中する中、ゆっくりと自分の右手をISに伸ばす。鉛色の脚部に中指が触れそうな、そのときだった。
ガー! ……ピーピー!!
『そこの男子生徒。私は真っ直ぐ寮に戻れと言ったはずだが……?』
突然、天井から軽いハウリングと共に音響の強い千冬の声が聞こえ、俺は伸ばした手をピタリと止めた。周りの女子も仰天しながら天井のスピーカーを見たあと、整備室の出入り口に顔を向け始めたので、俺もそれにつられてその方向を見た。
整備室の入り口、その近くの壁に設置されていたマイクを口に当てながら、千冬がこちらを睨んでいた。この部屋は広いし、整備なんかすると音もうるさくなりそうだから、こういう機械は重要なのだろう。ほかの女子が彼女の静かな怒声にひるんでいる中、のんきな事考えていた。
たぶんバレるとは思っていた。まぁ、いいさ。今日は仕切り直しだ。
俺は触れるはずだった右手で打鉄に軽く手を振り、荷物を持って台座から降りた。そしてご立腹の千冬のもとへと向かった。
・・・☆・・・☆・・・
そのあと千冬にぶっ叩かれ、怒られた俺は彼女に追い立てられて、しぶしぶ寮へと向かう事にした。
途中までは一緒について来た布仏さん達と一緒に寮の中を色々と見て回っていたが、彼女達とは寮の自室の方を見て回っている内に順々と別れていった。自分達の部屋を堂々と俺にアピールさせ、遊びに来てと約束しながら。だから、そんな事言ったら本当に遊びにくるから部屋は綺麗にしておけと、俺は彼女達に言ってやった。ずいぶんと慌てていたな。
一人になった俺は、寮の廊下を歩きながら千冬に渡された鍵を確認し、自分の部屋を探す。艶のあるタイルが隙間なく敷かれ、等間隔ごとに下から小さなライトアップをされた廊下をスニーカーで歩くのは、なんだかホテルにでも来てるみたいだ。
階段を上がって少し歩いたところで自分の部屋が見つかった。茶色のドアの上に『1025』と書かれた金属っぽいプレートが貼り付けられている。自分の鍵を見てからもう一度確認した。間違いはない、ここだ。
俺は鍵をドアの鍵穴に射し込もうとして手を止め、鍵を片方の腕で抱えていた資料の上に乗せてから、その空いた手で今度はドアノブを掴もうとして、また手を止めた。
中に人がいるの思い出した。いきなり開けたらさすがに驚くと思い、俺はドアノブから手を放して、その手でドアを3回ノックした。
コンコン、コン……
「……同室の者か? 待ってくれ、今開ける……」
ドアの奥からそんな気の抜けた女の声が聞こえたのと同時に、こちらへと歩いて近づいてくる音が響く。そしてその音がドアに立つ俺の前まで来て止まると、今度は鍵穴からガチャリと鍵の外れる音が鳴り、艶のない金色のドアノブが動いて、ドアがゆっくりと開いた。
「よっ」
「い、一夏!?」
開口一番、俺の軽い会釈のついた挨拶に対して、ドアを開けた女──制服姿の箒は俺と目が合わさった瞬間、数秒だけ俺にも見えた愛想のよさそうな表情を一転させ、頬を紅潮させながら俺の名前を叫んだ。
「な、なんで……な、なにをしにきた!」
「ナニをドウにもここが俺の部屋だ」
踏ん反り返って告げる俺に、彼女は目を白黒させながら、言葉を返す。
「お、俺の部屋だと……? 私もここの部屋だ……! ……お、お前が私の同居人だと言うのか……?」
「そうらしいな……」
俺は髪の毛を掻きながら、未だに状況を整理できていない彼女の様子を窺う。そりゃあ好きな人とは言え、いきなり異性と同じ部屋で就寝をしろなんて言われたら慌てるに決まってる。思い人なら尚更か。
箒は俺の言葉に黙り込んだかと思ったら、顔をうつむけて口を小さく開いた。
「ど……どういうつもりだ」
「あ?」
「どういうつもりだと聞いている! 男女十八歳にして同衾せず! 常識だ!」
今度は大きく開いて叫んだ。顔も視線も真っ直ぐに俺を捉えて。
「いや、そりゃあ……俺だって……
そこまで言おうとした時、俺に対して右後ろの部屋のドアが音をたてて開いた。開いたドアから女子が2?名、ドアを壁にする様にして俺と箒の事を見つめていた。
それにつられる様に、周りの廊下のドアが次々に開き、そのドアから出てきた女子誰もが俺と箒の事をジッと見てきた。ある者は口元に薄笑いを浮かべながら。ある者は結末を見届けようと、興味津々の瞳を輝かせながら。
ヒソヒソ……
「わ〜織斑くんだ〜」
「篠ノ之さんもいるー何だろ?」
「あそこ織斑くんの部屋なんじゃない?」
「本当にー!? 篠ノ之さんと!?」
俺と箒の会話が聞こえたしまった、と言うか箒の声が圧倒的に大きかったせいだろう。俺は頭を抱え、当の本人は集まって来た視線に赤面した。
「と、とにかく……は、入れ!」
「ぅえ? あっ、ちょ……」
視線に耐えきれなかったのだろう。箒はいきなり俺の袖を引っ張って、そのまま俺を部屋の中へ引っ張り込ませると、急いで俺のそばをすり抜けてドアを閉めた。俺は靴を土間で脱ぎ、広い部屋へと上がった。
部屋に上がってまず目についたのは、2つ並んだ大きなベッドだ。真っ白なシーツに、真っ白な掛け布団はいかにも高級そうな刺繍の模様がされている。窓側のベッドはもう箒が陣取っているのか、竹刀やら木刀やらの荷物が散乱していた。
ほかには、ベッドの真向かい──壁側に丸々括り付けられた勉強机とパソコンと本棚。壁に取り付けられた大型のテレビ。モコモコするカーペットの敷き詰められた床。ずいぶんとカネをかけられた豪勢な部屋がそこには広がっていた。
ドアをロックした箒は俺の立つ部屋へと戻ろうとしたが、途中でまたドアへと引き返し、そのドアに勢いの良い膝蹴りをかました。同時にドアの反対側、おそらく廊下の方から聞き耳を立てていたのであろう、女子の悲鳴が聞こえる。しっかりしてやがる……
そうしてようやく戻って来た彼女は、机に荷物を置いた俺へ近づき、小声でこう言った。冷静になれたのか、彼女の紅潮は少し治まっていたし、口調も落ち着いていた。ただ、目線が下だった。
「お……お前から、希望したのか……? 私の部屋にしろと……」
「希望して、向こうが聞き入れてくれると思うか? ただの偶然、向こうの事情だろ……」
「っ……そ、そうか……」
少し言い方がキツかっただろうか。何か期待した様な口調で話しかけてきた箒を、俺はバッサリ斬り捨てた。「はい」と肯定する優しさなんざ俺は持ち合わせていないし、一言口を滑らせば彼女にぶっ叩かれる運命が待ってるのだから、これは仕方ないだろう。
でも、本当に悲しそうだったから、フォローは入れといた。
「まぁ、知らないヤツにされても困ったし、お前がルームメイトでよかったわ」
「そ、そうか……そうかそうか!」
そう言うと、箒はさっきまでの表情が嘘みたいな様子で、頬を赤らめて嬉しそうに笑った。それが可愛くて俺も笑ったら、彼女は「何が可笑しいのだ」と膨れっ面を俺に向けた。それも笑い飛ばしたら、ぶたれた。
彼女は可愛い。そんな事は少し前からわかってる。自分が惚れた相手、『織斑 一夏』という一人の男に愚直なまでに一途で、健気だ。もう少し自身の気持ちに素直になった方がいいと思うが、それが彼女の魅力なのだろう。たぶん。
これから何回、俺は彼女に嘘をつく事になるのだろうか。そんな事を平然と考える自分が、少し恐ろしかった。
「い、一夏っ」
唐突に名前を呼ばれて、俺は声が出せずに箒の顔を見た。
「その……ふ、二人で暮らす以上……部屋の決まりというか……なんだ……せ、線引きは必要だろう……という話で……な?」
言いたい事はわかった。でも、ちゃんと頭の中で整理してから話そうな。
「箒?」
「な、なんだ……?」
「まぁ……言いたい事も話す事もあるけどさ……とりあえず、メシ行かね?」
そう、今更だが俺達はまだ夕食をとっていない。さっき寮の食堂は覗いているので、もう開いてるのは知っている。
「い、一夏! 今は真面目な話を、
グゥ〜〜キュルルル〜……
箒の声を遮ったのは、底の底から鳴り響く様な腹の虫の音。俺ではない、箒だ。真剣な表情で怒ろうとしていたのに、腹の虫のひと声で今までに見た事ないくらいに顔を真っ赤にした。
少し涙目で言い訳を言おうとしているが、口は金魚の様にパクパク開くだけで声に出ていない。笑ってやろうかと思ったが、そんな事したら間違いなく今度はぶった切られると思ったので、我慢して俺は彼女に背を向けた。
「……行くぞ」
「……ハイ……」
消え入りそうな声で箒は小さく返事をして、俺の後ろについてきてくれた。ずいぶんと後になってからその時の事を彼女と話をするのだが、その日の寮の食堂は箒曰く、味がしなかったそうだ。