6月29日 夜 シンの家
部屋で期末テストの範囲を復習していると、不意に呼び鈴がなった。訪ねてくる知り合いも居ないはずだが、誰だ?
一旦手を止めてインターホンへと向かう。
「はい……。なんだ、おまえたちか」
画面の向こうには、見知った黒猫と探偵見習いがいた。そういえばしばらく厄介になると言っていたな。
……はて、住所を教えるのを忘れていた様な気がするが、俺を付け回していたゴウトが知っていたのか。
「随分遅かったな。何をしていた?」
「うむ……ちょっと街で一悶着あってな」
「なんだと?何があった」
「地理を把握する為に、渋谷周辺をうろうろとしていたのだがな」
「ふむ」
「気づけば人通りの少ない裏路地へ迷い込んでしまってな」
「絡まれたか?」
「いや、警らに遭遇してな。身分と所持品を改められてだな……」
「待て、もう先が読めた」
「刀を隠す場所もなくてな……拳銃だけは隠し通したが、こうも人の多い街中を全力で走る訳にもいかず、しばらく警官から逃げ回っていたのだ」
「探偵の名折れだ」
お互いやれやれといった感じで一段落。仕方ない事ではあるが、初っ端から騒動を起こすとは困ったものだ。
「指名手配されない事を祈れ」
「全くだ。お尋ね者になるというのは、気疲れするし気分も悪い」
二人を居間へと招き入れ、適当にくつろがせる。本来客人には何か振る舞うべきかもしれないが、俺は日用品など買う必要がないので棚は空だ。家に元々あった食品類は、以前の日付のままだったので怪しくて捨ててしまった。
そもそも、こいつらは客人ではなく居候だ。特に構う必要も無いだろう。
「いい家を持ってるじゃないか?意外と裕福なのだな」
「俺が建てたわけじゃない。建てたのは親父だったはずだし、そもそもこの世界じゃ俺の前住んでた家かも怪しい」
俺とゴウトの会話を縫って、大きな腹の音が鳴り響いた。この場に食わない事で支障が出るのは一人しかいない。
ライドウに目をやるとバツが悪そうに視線を伏せられた。
「……のう、何か腹の足しになるものはないか?随分追い回されていたから空腹なのだ」
「お前は食わなくても問題ないだろう。全く、人間の体は不便だな。……仕方ない」
「……とはいえ、俺は普段は外で済ませてしまうから、買い置きはないぞ。何か食べに……。いや、手配人を連れ出す訳にも行かないな。今、家には貰い物の野菜ぐらいしか……」
「どれ……結構色々あるではないか。これだけあれば十分だ。ライドウ、一つうぬが振る舞ってやれ」
ライドウは外套を脱ぐと、さっと腕捲りをする。ライドウが食事の用意をしているのは何度も見ているが、向こうではまともな食材もなかったから、持ち込んだインスタント食だけだった。
「まともに料理をしているところを見たことがないが、出来るのか?」
「ふっふっふ、楽しみに待っているがいい。ライドウ、手抜きは許さぬぞ!」
ライドウは包丁ではなく刀を素振っている。切れ味は抜群だろうが調理に使っていいのか。悪魔を斬った刀でいいのか。退魔刀の威光とはなんだ。
「頼むから家だけは真っ二つにするなよ……」
しばらく後、テーブルの上には質素ではあるが食欲を唆る料理たちが並べられていた。
煮物、蒸し物、汁物に、明日以降の為の塩揉みまで漬けてある。……野菜だけではあるがどれも美味そうだ。肉や魚がない分を味付けと量で補っている。これだけあれば十分腹も脹れるだろう。
「……驚いた。ここまで手際がいいとは。放り投げた野菜を宙で刻んでいた時はどうなる事かと思ったが、普通に美味いじゃないか」
「うむ。携行食が尽きた場合、現地で調達することもあるからな。どうせなら美味いものを食えるようにしたらしい。元々は菓子を自作するところから始まったそうだが……。我も初めて振る舞われた時は驚いたものだ」
「ライドウは育った時代を考えても期待していなかったが、思わぬ特技だな」
春に貰った野菜を腐らせるのも忍びなかったので、これは丁度いい。今までは仕方なく生のまま齧っていたが、食事当番はライドウにやらせよう。
「美味かった。皿は洗っておくから風呂にでも入ってこい」
「家主を差し置いて先に入るのも気後れするな。我らは後でも構わぬぞ」
「いい、どうせ俺は汗なんてかかないからな。風呂に入る必要も無い」
「……そういえばそうだったな。ならば、先にいただくとしよう」
洗い終わった食器を磨き棚に戻す。次は、あいつらの寝床を用意してやらなければ……。俺の部屋とは別に、ベッドの置いてある部屋があったな。
階段を上り、使っていない部屋のドアを開ける。この家に帰ってきて以来開けていなかったので、埃臭さが鼻についた。しっかりとした掃除は今からでは出来ないが、換気と埃払いぐらいはしておいてやろう。
ベランダに出て、寝具に付いた埃を払う。自分の家なのに見覚えのない寝具と部屋。これは誰が使っていたものだろう。恐らく両親か、居たとすれば兄弟辺りなのだろうが……最早顔も名前も思い出せない。
いつの間にか、人として生きていた頃の記憶は薄くなっていった。この身体になったばかりの頃は、確かに覚えていた。初めの頃は、全て失った事を悲しんでもいたはずだ。それらを取り戻す為に行動してもいたはずだ。
何時から、今の『人修羅』になったのか、思い返してみる。しかし、これといったきっかけは思い当たらなかった。代わりに、ふと思い出したことがある。
悪魔合体というものは、合体し別の悪魔へと生まれ変わったとしても、元の人格が消えるわけではないらしい。元になった二体の悪魔ともが、記憶を残したまま、意識の連続性を持って一体になる……。マガツヒとして融け、混ざり合い、一体に……。
ボルテクス界で過ごす内に……悪魔を殺しマガツヒを取り込む度に、俺の割合はどんどんと薄まっていく。俺の身体にいたはずの俺は、この手で殺した悪魔たちにのみこまれ、散り散りに消えていく……。
もしかして、俺の意識なんて、もう欠片も見当たらないんじゃないか?そう思った時、身体の芯を、虚ろな心を極寒が吹き抜ける様な、恐ろしい妄想に襲われた。
思わず身震いする程の、ボルテクス界でも味あわなかった様な恐怖を必死で頭から振り払おうとする。
これはただの妄想だ。悪いふうに考え過ぎているだけだ……。
気づけば頭を抱える手には赤い微光線が灯っていた。いや、手だけでは無い。服の下に隠れた胴体にも、ズボンの裾から僅かに覗く脛にも、赤光が溢れている。
自分の眼の血管すら浮かび上がって見える。視界の端は赤く染まり出した。眼球からマガツヒでも漏れているかのようだ。
熱い。火のついた様な胸の内で、蟲が冷たく蠢いた。それが、身体が帯びていく熱を一層際立たせる。或いはこれらも錯覚、妄想か。
「シン……?」
背後から不意に名前を呼ばれる。それをきっかけに、段々と落ち着いていく自分を自覚出来た。線の色は赤から青へ、そして薄くなり消える。視界の色は正常に、胸の蠢きは既に失せていた。
冷静さを取り戻しきれないまま振り返ると、ベランダへと出てきたのはライドウだった。リビングに居なかった俺を探しに来たのか。
「……ライドウか。風呂はもう出たのか?ゴウトは下か?今、寝床の用意を……」
「シン」
俺の言葉を、普段の寡黙さに似合わぬ凛とした声が遮った。ライドウは真っ直ぐに俺の目を見つめている。何となく、その眼差しに後ろめたさを感じた。
「大丈夫だ。シンはシンだ。悪魔だとしても、どんな道を歩もうと、シンの心はシンのものだと信じている」
「だから、呑み込まれるな」
俺には、その目は見つめ返せなかった。言うことをきかない足を引き摺り、ライドウの横をすり抜け自室へと逃げる。一瞬、呼び止めようとする気配があったが、その日、再び声をかけてくることはなかった。