吸血鬼の平穏はトガヒミコに壊された   作:黒雪ゆきは

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011 堕ちる。

「ん! んー……浅い少ない!」

 

 月明かりに照らされ、僅かに血の滴るナイフを見ながらヒミコは弾むような声で呟いた。

 その姿は明らかに常軌を逸しており、思わず麗日と蛙水は後退る。

 自身にとっての“普通”からかけ離れ過ぎていたのである。

 

 つまり、ヴィランだ。

 

「お茶子ちゃん、腕大丈夫?」

 

「うん……かすっただけ」

 

 麗日が押さえる左腕のシャツには少しだけ血が滲んでいた。

 目の前の人物に警戒を強める。

 しかし、確かに動揺はしているが二人が僅かに平静を保てていたのは、これが初となるヴィランとの邂逅ではないからだろう。

 

「急に切りかかって来るなんてひどいじゃない。なんなのあなた」

 

 蛙水の言葉に、ヒミコの視線はナイフから目の前の二人へと移る。

 そして、マスクで隠れており見えはしないが満面の笑みで答えた。

 

「トガです! 2人ともカァイイねぇ。麗日さんと蛙水さん」

 

「名前バレとる……」

 

「体育祭かしら……何にせよ情報は割れてるってことね。不利よ」

 

 ヒミコが名前を呼んだことにより2人の警戒心はさらに強まった。

 油断することなく目の前の、自身とあまり年の変わらないだろうヴィランと相対する。

 

「血が少ないとね、ダメです。普段は切り口からチウチウと……その、吸い出しちゃうのですが───あ」

 

 会話の途中で発せられたその間の抜けた声。

 麗日と蛙水は困惑する。

 だが、突如ヒミコはなんの脈絡もなくその刺々しいマスクを外した。

 その行動の意図がまるでわからない。

 ゆえに警戒は緩めず、決して目を離さない。

 

「あぁ……血影サマの血の味、思い出しちゃいました」

 

 ナイフから香る血の匂い。

 それがヒミコに血影を思い起こさせる。

 

 口元まで裂けたような恍惚とした笑み。

 紅色に染った頬に両の手を当て、恥ずかしそうに身を捩るその姿は年相応の乙女のようでもあり、狂気と猟奇が同居しているようにも見えた。

 唾液に濡れ怪しく光るその鋭い八重歯が、麗日と蛙水の不安を一層掻き立てる。

 

「……いけない、ダメです」

 

 ふっと笑みが消え、ヒミコはナイフについた血をペロリと舐めてからマスクを付け直した。

 

「ん、美味しい。でもやっぱり血影サマの血が一番です。早く会いたい。ほんとは少しも離れたくありません。だから───刺すね」

 

 全く意味のわからない言葉。

 しかし状況は待ってくれはしなかった。

 なぜなら、唐突にヒミコが麗日と蛙水に向かって走り出したからだ。

 

「来たぁ!」

 

「お茶子ちゃん」

 

 蛙水の舌が伸び、麗日の胴体に巻き付く。

 そのまま逃がすように放り投げた。

 

「施設へ走って」

 

「梅雨ちゃんも!」

 

「もちろん私も……っ!」

 

 だが、ヒミコのナイフが蛙水の舌を切り裂いた。

 鋭い痛みに一瞬動きが止まる。

 

「梅雨ちゃん、梅雨ちゃん……梅雨ちゃんっ!」

 

「レロ……」

 

「カァイイ呼び方、私もそう呼ぶね」

 

「やめて。そう呼んで欲しいのはお友達になりたい人だけなの」

 

 素早く跳躍する蛙水。

 しかし、ヒミコは反応する。

 投擲された血を吸い上げるための機械。

 それにより蛙水の髪は木に縫い付けられてしまった。

 

「じゃあ私もお友達ね! やったぁ! 血影サマにお友達が出来たって教えてあげなきゃ!」

 

「梅雨ちゃん!」

 

 無邪気にぴょんぴょんと跳ねながら全身で喜びを表現するヒミコ。

 

「血ィ出てるねぇ。お友達の梅雨ちゃん! カァイイねぇ。血って私大好きだよ」

 

 素敵な夢を見ているかのようなうっとりとした瞳で、ヒミコは蛙水の血の滲む舌を見る。

 その光景を麗日が黙って見ているはずがなかった。

 そこに恐怖心がないわけではない。

 だが、迷うことなく蛙水を助けるために麗日は走り出した。

 

「離れて!」

 

 直線的な動き。

 なんてことはない。

 ゆえにヒミコはいつものようにナイフを突き立てる。

 

 だが、

 

(ナイフ相手には!)

 

 麗日はそれをヒラリと身体をズラして躱したのだ。

 そこからの一連の動きは正しく川の水が流れるかの如く滑らかなものだった。

 

(片足軸回転で相手の直線上から消え、手首と首ねっこを掴んでおもっくそ押し! 引く!)

 

 爆豪との戦闘を経て広がった視野。

 職場体験で教わった近接格闘術。

 今までの経験の全てが麗日を動かし、ヒミコを組み伏せることに成功したのだ。

 

「梅雨ちゃん! ベロで手! 拘束できる!? 痛い!?」

 

「すごいわお茶子ちゃん……! ベロは少し待って……」

 

 そのまま馬乗りとなり、油断なく麗日はヒミコを押さえつける。

 

「お茶子ちゃん……あなたも素敵」

 

 だが、ヒミコは優しく語りかけた。

 

「私と同じ匂いがする」

 

 麗日からすればまるで理解できない言葉だった。

 

「好きな人がいますよね」

 

 静かに呟かれたその言葉は、僅かに麗日の心を揺らす。

 

「そしてその人みたくなりたいって思ってますよね。わかるんです。乙女だもん」

 

 麗日はさらに動揺し、ヒミコの表情は歪む。

 

「私もいるんです。好きな人。とってもとっても好きな人。血の香りがして、いくら切り刻んでも死なない───血影サマが私は大好きです」

 

 うきうきと腹の底からせり上がるような、本当に楽しそうにヒミコは言葉を紡いだ。

 

「ねぇ、お茶子ちゃん楽しいねぇ。恋バナ楽しいねぇ!」

 

 その時、

 

「ガゥッ!!」

 

 どこからか現れた一匹のオオカミが、麗日へ飛びかかったのだ。

 

「なっ!」

 

「お茶子ちゃん!」

 

 あまりに予想外の事態。

 麗日が体勢を崩してしまうのも仕方がない。

 その隙をヒミコは見逃さなかった。

 即座に拘束から抜け出し、横目で現れたオオカミを見る。

 野生の獣であればヒミコにとっても危険の可能性があるため警戒したのだ。

 

 しかし、

 

「血影サマ……やっぱり優しいです。あぁ、嬉しいなぁ! 嬉しいなぁ! 大切にしてもらってるって幸せだなぁ! 早く会いたいです!」

 

 それが、崖の上で見た血影の個性によって現れたオオカミと全く同じであることをすぐに悟った。

 血影が自分を心配してくれたのだと理解する。

 そのことがたまらなく嬉しい。

 嬉しくて仕方がない。

 もういっそ全てを放り捨てて血影の元へ走り出したいほど。

 

 だが、それでは怒られてしまうかもしれない。

 血影を失望させてしまうかもしれない。

 それだけは絶対に嫌だ。

 なんとしても避けなくてはならない。

 その思考でなんとか己の愉悦を抑制し、ヒミコは平静を取り戻す。

 

 麗日は未だオオカミが現れたことへの動揺が収まってはいなかった。

 なぜこんなところにオオカミがいるのか。

 この森はプッシーキャッツの所有地ではないのか。

 雲のごとく沸き起こる疑問が頭にまとわりついて離れない。

 

 それが───分かりやすいほどの隙になってしまうとしても。

 

「……っ!!」

 

 今度は逆にヒミコが麗日を押し倒した。

 馬乗りになり、流れるような動きで麗日の左腕を踏みつけ、

 

「あぁぁッ!!!」

 

「お茶子ちゃん!!」

 

 麗日の右手にナイフを突き刺した。

 鋭い激痛にたまらず悲鳴をあげる。

 刺された右の掌を中心として血溜まりができていく。

 

「いい子だねぇ。私を守ってくれたんですね」

 

「ガゥ」

 

 お座りしながら嬉しそうに尻尾を振るオオカミの頭を、ヒミコは優しく撫でた。

 

「お仕事しなきゃ。血影サマ、褒めてくれるかなぁ!」

 

「っ!!!」

 

「チウチウ」

 

 続け様にヒミコは麗日の首筋に、管のついた機械を突き刺した。

 その痛みにまたしても麗日の表情は歪む。

 管に赤いものが通り、吸い上げられていく。

 あまりに凄惨なその光景を眺めていることしか出来ない蛙水は、己の無力さを呪うことしか出来なかった。

 

「麗日!?」

 

 しかし、その地獄は終わりを告げる。

 

「障子ちゃん! 皆……!」

 

 障子を初めとし、数人のクラスメイトが現れたことに蛙水は希望を見出した。

 

 大人数だ。

 勝てない。

 

 そう判断してからのヒミコの行動は早かった。

 

「行こっかクロちゃん。殺されるのは嫌です」

 

「グルゥガ……? ガゥ!」

 

 クロというのは自分のことなのか、と疑問を浮かべながらもオオカミは吠えることで返事をし、ヒミコの後に続いた。

 

「待っ……!」

 

「危ないわ! どんな“個性”をもってるかもわからないわ!」

 

 ヒミコは夜の闇へと消えていく。

 好きな人に早く会いたい。

 そんないたって“普通”な想いを抱きながら。

 

 

 ++++++++++

 

 

「泡瀬さん……“個性”でこれを奴に!」

 

 痛みで歪む思考。

 それでも八百万は考えることをやめなかった。

 最悪を推し量り、そこから導き出した最善。

『発信機』を創り出し泡瀬に渡す。

 

「何これ? ボタン?」

 

「いいから早く! 行ってしまう!」

 

 まるで意味は分からなかったが、それでも泡瀬は恐怖で軋む身体を必死に動かした。

 

(なんかもうわかんねえけど!!)

 

 それでも動かなければならない。

 そんな使命感が泡瀬を突き動かす。

 八百万から渡された『発信機』を去っていく脳無の腰の辺りに“溶接”した。

 木の影に素早く身を隠したが、その際聞こえてきた「ネホニャンッ」という声にビクッと体を震わせてしまう。

 

「よしつけたぞ! いいな!? 怖えダメだもう!」

 

 だが───“最悪”はまだ終わりではなかった。

 

「え、大丈夫?」

 

 聞き慣れないその声。

 思わず目を向け、絶望する。

 血のように赤い瞳、銀色の髪。

 記憶に新しいその容姿。

 

 目の前の人物が『ブラッド』だと理解するまで、瞬きするほどの時間すらかからなかった。

 

(最悪……ですわ)

 

 八百万は絶望する。

 目の前にいるのは、『エンデヴァー』を退けてしまうほどの凶悪ヴィラン。

 

 生きて帰れないかもしれない。

 

 途方もないほどの戦慄が体を突き抜ける。

 

 それは泡瀬も同じだった。

 自分の歯がガクガクと鳴っている音がとてつもなくうるさく感じ、刺すような顫動が背中を駆け巡る。

 

「大怪我してんじゃん。は? おいテメェ」

 

 血影のその言葉がどちらを差しているのか分からない。

 どのみち恐怖で言葉を発することができないのだから、たいした意味はないのかもしれないが。

 

 しかし、その返答は予期せぬところから行われた。

 

「……ガゥ」

 

 草むらから一匹のオオカミが姿を現したのだ。

 

「すぐ俺に知らせろよ」

 

「ガル……ガゥガゥ」

 

「あ? 探せとしか言われてないだァ? ……そのくらい察してくれよぉ……」

 

「……グルル……ガゥ……」

 

「あぁ分かった分かった。もういいって。“影”で休んでな」

 

 オオカミと話しているかのような、その異様な光景を泡瀬と八百万は黙って眺めているしかなかった。

 血影の最後の言葉を聞き、オオカミは走り出す。

 足元まで駆け寄り、耳は垂れ、申し訳なさそうにもう一度「ガゥ」と小さく吠えてから血影の影へと消えていった。

 

「それで」

 

 血影の目が八百万と泡瀬へと向けられる。

 たったそれだけ。

 たったそれだけのはずなのに、死を予感してしまうのはどうしてなのか。

 

 ただのヴィランとは格が違う。

 

 2人は本能でそれを感じ取った。

 

「えー、俺が用があるのは八百万ってガキの方だけなんだけど。───渡してくれる?」

 

 敵意をまるで感じられないその言葉。

 だが、恐怖だけは消えやしない。

 

 それでも、

 

「……は、はあ!? 渡せって言われて、は、はいわかりましたって、わた、渡すわけないだろ!!」

 

 震える声で、泡瀬は声をあげる。

 怖い。

 怖くて仕方ない。

 怖くないはずがない。

 

 しかし───だからといって仲間を見捨てるなんて出来るはずがない。

 

 恐怖に屈し、仲間を見捨てる者がどうしてヒーローになれるというのか。

 なれるはずがない。

 その強い意志が泡瀬を奮い立たせたのだ。

 身の毛もよだつほどの恐怖に打ち勝ったのだ。

 

「待って……下さい」

 

 ところが、八百万はそれを制する。

 泡瀬の声を聴きながらも、『用がある』という血影の言葉を考える。

 

「私が……あなたに着いていけば、泡瀬さんは見逃していただけますの?」

 

「八百万!? 何言ってんだ!!」

 

 泡瀬は声を荒らげる。

 それでも、八百万の意志は変わらない。

 

 なぜなら彼女もまた───ヒーローを志す者なのだから。

 

 八百万の言葉に、血影は薄い笑みを浮かべた。

 

「あぁ、約束するよ。大人しく着いてきてくれるなら、俺はそいつに一切危害を加えない」

 

 目の前にいる存在はヴィラン。

 その言葉が信じられるはずがない。

 なのに、なぜか嘘ではないと思ってしまう。

 いや、確信といってもいい。

 それは八百万だけでなく泡瀬も同じだった。

 

「そうですか……」

 

 八百万は小さく声を漏らす。

 そして、さらに思考を加速させる。

 

(今……私にできることは……)

 

 泡瀬を守る為にも、ここは大人しく血影についていくべきだ。

 

 そして───

 

 ───八百万はバレないように『受信機』を創造する。

 

 それをそっと泡瀬のポケットに忍ばせた。

 これが、八百万が今考えられる“最善”だったのだ。

 

「泡瀬さん、助けてくださりありがとうございました」

 

「……は? 八百万……お前、何言って……」

 

「大丈夫ですわ。ヒーローや警察の方々が、きっと助けてくれますもの」

 

 その、泣きたくなるような笑顔を泡瀬は目に焼き付けた。

 そして自分の無力さを嫌というほど痛感する。

 何も救えない。

 弱くては何も救えないではないか。

 

 しかし、嘆いたところで現実は覆らない。

 

 唐突に顎をクイッと上げられ、泡瀬は無理やり血影と目を合わせられた。

 即座に思い出す。

 目を合わせてはいけないという警告。

 

 ───『魅了』

 

 とはいえ、もう遅い。

 

「八百万は俺が預かる。お前は皆のところに戻って休んでな」

 

「わかった」

 

 血影の言葉にすぐさま頷く泡瀬。

 背負っていた八百万を血影に渡し、歩き出した。

 そのあまりにも不自然な行動を八百万は訝しむ。

 話が違うではないか、と。

 

「何をしたんですの!?」

 

「まあ落ち着けよ。ちょっとした暗示みたいなもんだ。すぐ解ける」

 

 そう言って、血影は八百万を優しく背負い直した。

 その濃厚な血の香りに理性が飛びそうになるのを必死に堪えながら。

 

「あー、急がないと。お前は少し眠っててもいいぞ?」

 

「…………」

 

 血影の言葉に八百万は答えなかった。

 まるで体温を感じないその背中に、安心感のようなものを抱いてしまうのはどうしてなのか。

 聡明な彼女でさえ、その答えはいくら考えても見つからない。

 歩く際の振動が心地よく、温かく柔らかい泥の中へずぶずぶと入っていくような感覚と共に八百万が眠りに落ちるまで、時間はかからなかった。

 




お読みいただきありがとうございました。
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