「あー、お前の名前なんだっけ?」
「トガです! トガヒミコ!」
「あっそ、んじゃヒミコ。クソ熟睡してる俺を滅多刺しにして部屋を血で汚したうえに、こんな真っ昼間に起こした罰だ。味見させろ」
「え、なにを、あの……心の準備がまだ」
「うるさい」
「……あっ」
そう言って、血影は無造作にヒミコを手繰り寄せ、手首を押さえてそのまま首筋へと牙を突き立てた。
(え、美味っ。めちゃ美味いわコイツの血ヤバっ)
濃厚な血の匂いが鼻腔をくすぐる。
そして口いっぱいに広がる至福。
この血を思う存分に味わいたい。
それは血影にとってあまりにも抗いようのない誘惑だった。
吸血は大抵野外で行うため常に周りを警戒をしなければならない。
だが、久しぶりにそんなことを気にする必要がないのだ。
ほんの少し理性が薄れてしまったとしても、仕方がないことだろう。
「……はぅ、あ……」
ヒミコは体の芯が震えるような甘美に疼いた。
溢れる多幸感に満たされる。
性的快感が全身を駆け巡り、半ば開いた口からは情けない涎がダラりと垂れた。
(やっぱり同じです……ブラッド様は私と……)
噛み付かれた首筋が熱い。
そこから表現し難い官能がさざ波のように広がっていく。
それがとても心地よくて、麻酔のようにヒミコの意識をぼんやりとさせてしまう。
(……雌の匂い……うわぁ最悪だー、やってしまった)
だがここでようやく、人一倍優れた嗅覚が血影を我に返らせた。
「……あぅ」
血影が牙を抜くと、ヒミコは名残り惜しそうな声を漏らす。
だがそれを気にすることなく血影は乱暴にヒミコをどかした。
すると、ヒミコが元いた場所には───
「あっ。───み、見ないでください!」
「はぁ……お気に入りのカーペットだったのに……」
「ブラッド様のせいなのです!」
「そうだな……これは俺のせいだわすまん。だからナイフをおけ。お前ほんと隙あればナイフ持つよな」
「刺す。刺します」
カーペットには“シミ”ができていた。
それをヒミコは片手で隠しながら、もう片方の手に持ったナイフで血影を切り刻もうと何度も振るう。
彼女なりの照れ隠しなのだろうと理解した血影は、ナイフを躱しながら言葉を続けた。
「いや、ぶっちゃけお前の血マジで美味しいわ」
「……そう、ですか……そんなこと言っても許してあげませんけど!」
『血が好き』という今まで誰にも理解されず、社会から認められるために抑圧してきた嗜好。
そして初めて出逢えた同じ嗜好を持つ存在。
やはり自分と同じ。
そう思える血影の言葉がヒミコにとってどれほど嬉しかったか。
それを直接伝えることが躊躇われるためか、ナイフをさらに激しく振り回すこととなった。
「ナイフを振り回すな。さっき俺と約束したよな? もう忘れたかよ」
「……ブラッド様が悪いです。乙女にこの仕打ちはないです」
「あっそ。どうでもいいってのんなもん。あ、そういえば───恋人になりたいーとか、結婚してーとか言い出すなよ、ダルいから」
「……え?」
「単なる事実として俺はモテる。───特に、血吸っちまった女からはな」
「…………」
普段の彼女なら軽口を叩き笑っていたかもしれない。
だがヒミコは、血影の瞳の奥に深い悲しみを見た気がしたのだ。
だから何も言えなかった。
言いたいことはあったが、ただ黙って見つめることしか出来なかったのである。
「んじゃ、俺が生き方ってのを教えてやる。一人で生きてけるようになったら出てけよ」
しかしその雰囲気は一瞬のうちに霧散する。
「生き方……ですか?」
「そ、生き方。ガキのお前でもわかるように優しーく教えてやるからよく聞くように」
ヒミコは少しだけよく分からないといった表情を浮かべる。
だが、血影はそれを無視するように話し始めた。
「簡単に言えば、大切なのは人と金だ。これさえあれば、それなりに枷はあるがまあまあな暮らしをして生きていける。まずは偽造身分証を作れる奴を紹介してやる。そうすりゃお前は別人になれて、自由に───」
「嫌です」
「なに?」
金色のわずかに濁った瞳が、真っ直ぐに血影を捉えて離さない。
「私はもう我慢しないって決めたのです、ブラッド様」
「…………」
「これを見てください」
そう言ってヒミコはスマホを取り出し、とある動画を再生させる。
血影はそこに映る人物に見覚えがあった。
───『ステイン』
昨日の夜、ほんの一時だが直接会っている。
だが既にこんな動画が出来上がってしまっていることは知らなかった。
そして実際、その動画は血影にとっても少なからず衝撃を与えるものだった。
それほどの信念、狂気がそこにはあったからだ。
本当にステインはこの社会を変えようとしていたことが伝わってくる。
「これを見て思いました。私は私のまま、普通に生きられる世の中にしたいって。だから、ブラッド様も一緒にやってみませんか?」
「……はぁ」
純新無垢な子供のようにきらきらとした目。
その言葉に一切の偽りがないことを吸血鬼の優れた感覚が感じ取ってしまう。
ヒミコは本当に社会を変えようと思っている。
変えられると思っている。
───“無理だ”なんて血影は言えなかった。
どこまでもヒミコが過去の自分と重なるから。
ゆえに知っているのだ。
この目をした人間は、口でいくら言ったとして意味がないということを。
(俺がお前みたいに、この世の中を変えようとしたことがないとでも思ってんのか……? お前は何一つ分かっちゃねぇのさ……“人間”って奴が)
世の中は“弱者”で回っている。
弱者の集まりのことを社会と呼ぶのだ。
そして、弱者は徹底して『自分と違うこと』を嫌うのである。
だから異端者は社会から排斥される。
その根底は決して覆らない。
それが、長い年月を生き導き出した血影の答えだった。
(だがまあ、暇潰しにコイツに付き合ってやるのも悪くない……か? どのみち俺もしばらく追われる身だしなぁ……はぁ……)
自身がそうだったように、こればかりは自分で思い知らなければならない。
世の中を変えるなんてことはできないということを。
受け入れ、そのうえで生き方を模索しなければならないということを。
(そう、それまでだ……そのあとは俺の知ったこっちゃない……。あれ? つかなんで俺がこのガキにここまでしなきゃいけねぇんだよ……)
なぜヒミコに自分がここまでしてしまうのか。
多少境遇が似ているとはいえ、所詮は昨日出会ったばかりの他人である。
血影自身にも自分が理解できなかった。
(まあいいか、どうでも……たかが暇潰しだ……)
そう、暇潰しだ。
不老であり悠久の時を生きる血影にとって全ては暇潰し。
深く考える必要はない。
血影は無理やり自分を納得させた。
「……どうするつもりなんだ? お前は」
「え、一緒に来てくれるんですか! やったぁ! 嬉しいなぁ! 嬉しいなぁ!」
「おい、俺はどうするか聞いて───」
「行きましょう! 『
「……は?」
またしてもぴょんぴょんと跳ねるヒミコを見ながら、血影は静かに思った。
(
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