平井銀次が初恋の思い出を語る。過去は全て捏造です。作中の英文はGoogle翻訳のお世話になったものですので、よりよい表現をご存知の方は教えてくださると嬉しいです。

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或る夫婦の肖像

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「悪いが頼む」

そう平井から連絡があったのは四十分ほど前であり、森田は快諾して指定されたホテルに向かった。

届け先は部屋でもラウンジてもない。地上三十七階にあるバーだというから、もしかしたら誰かと一緒なのかもしれない。そこで森田はふと思う。────もしかして女?

 

バーは夜景が綺麗なことだろう。時間もなかなか。だが、あの平井のオンナというのは、どうにも想像つきにくい。否、想像つきすぎるというべきだろうか。あの男なら、どんな女でも射止めてしまうような気がしたためだ。

 

 

・ ・ ・

 

 

「────って、え、女優のっ、福田…………!」

 

平井はカウンターで飲んでいた。その隣には森田の予想通りに女性がカクテルを傾けていた。が、まさかの大女優で仰天しちまう。

舞台女優として超一流の肩書きを持つその女は、テレビの露出こそ少ないものの、数年前に爆発的な視聴率を叩き出したMHKの時代ドラマで若者の間でも有名である。

年齢は確か、平井と変わらないくらいだろうか。流石と感心するべきか、なるほどと納得するべきなのか。

 

 

「この方がさっき平井さんの仰っていた……?」

 

「そうです。森田です」

 

森田の驚愕など気にも留めずに、二人の会話は実にのんびりとしたものだった。

さっき平井が森田のことをどのように仰ってくれていたのかは定かでないが、「良かったらご一緒にどう?」と大女優から誘ってくれるくらいには、好印象な内容らしい。

森田が断れるはずもなく、お言葉に甘えてと腰を折る。

「そうだ、銀さんこれ、頼まれていた書類です」

衝撃に忘れかけたファイルを渡せば、平井はいつもと同じ笑顔で礼を述べた。

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

酒の肴は殆ど森田の話題になった。青天井となったポーカー勝負を語る平井は、まるで自分のことのように得意げにする。福田は福田で森田のことを手放しに褒める。こうなってくると森田は恥ずかしくって仕方なかった。二人とも自分より大物のくせに。平井は言わずもがなだし、彼女だって芸能界だけでなく、父親は政界でも高名な────

 

「やめてくださいよ、俺なんかまだまだ半人前なんだから」

 

嫌がれば意地の悪い大人は更に面白がった。女優が「素敵じゃないの」などと言う。ちっとも素敵なんかじゃねえと森田は思う。

 

「俺の話より、銀さんの話の方が凄いですよ」

 

話の方向性を変えたくて声を捻る最中に、森田は閃きを覚えてしまった。

自分はてっきりデートに居合わせたのかとも思っちゃいたが、それには長居をし過ぎてる。デートならばそろそろ退散すべき頃合いなのに、森田の話題が終わる気配が未だにないのだ。

改まって考えてみたら、目の前の女は「一流の舞台女優」であると同時に、「政界に影響力のある人物の娘」でもあるわけだ。もし、これがデートでなく後者を狙った逢瀬であるなら……

 

 

「でもねぇ、平井さんご自分のことの中々話してくださらないのよ。私も知りたいのだけど」

 

「うーん、どうですか銀さん。なら、一つだけ話すっていうのは。あれもこれもだと夜が明けちまう」

 

「あっ、なら私恋の話が聞きたいわ!平井さん、忘れられない恋ってしたことある?」

 

 

────そこかよ!!!

腹の中で、森田は盛大にツッコミを入れた。仕手戦だとか、西京麻雀とか、もっとこう……平井の武勇伝は素晴らしいものが多々あるはずだ。

それを、よりにもよってテーマが恋とは。何故だ。女ってやつはこれだから……。

森田は内心呆れ返った。まして応じるはずもないと思った。だが平井はクスリと笑って、「なら初恋を。少しだけですよ」と囁いたのだ。

 

銀王の、初恋。

似合わぬ単語に森田は驚愕を隠せなかったが、平井は飄々として、数十年前の思い出を語りはじめるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-2-

 

あれが今から何年前か、当時齢はいくつであったか、具体的な数字は別にいいだろう。今の森田よりやや若いくらいだったと平井は語る。

今ほど高層ビルなどなかった。外資系企業もあまりなかった。麻雀だって手積みの時代だし、テレビや車も上等ではない。それだって持っているのは金持ちだけだが。とかく、そういう時代だったのだ。

 

 

あの頃平井は、空をよく見上げた気がする。

漠然と「大きななにか」になりたくて、しかし若さ故にわからないことのが多く、人より良かった頭脳がそれに虚しさばかり覚えさす。

悪さも一通りやったと思う。同年代の十は先を行ってる自信もあった。そんな平井に女がいないわけもなく、恋人はそこいらでも美しいと評判の高い娘ばかりであったが、決まって長続きもしなかった。

夜の街で名を馳す商売女も、男を立てるために生まれたような、淑やかで気立ての良い娘でも、結果はあまり変わらない。そのうち「恋人」という役割を求めることすら面倒になり、平井は恋愛から疎遠になった。

 

 

そんなある日だ。

 

郊外に建つ立派な邸を、平井銀二は訪れていた。大日本帝国軍にて、当時大佐の肩書きを持っていた老人の邸だ。

 

「日本海海戦が有名だが、あれには親族も参戦してた。うちは元々軍人家系なんだ。────いまとなっては虚しいものだが」

法律は変わり、兵器は取り上げられ、そして軍も解体された。先人たちが血を流して得た植民地も解放された現代で、その老人はポツリと言うのだ。

 

「我々は敵を鬼畜米兵と呼び武器を持ったし、きっとあいつらも同じように我々に敵意と憎悪を向けた。戦争とはそういうものだ。国が違うだけで憎しみあえる。だが、同時に敬意も抱いたものだ。

たくさんの悲劇や惨劇の中で、ほんのひと匙の友情に出会うこともある」

 

老人は遠い目をしてた。巷で目立つ学生運動の過激さですら、生易しく思えるほどの地獄を見てきた眼差しだった。だからだろうか、平井がそれに魅入られたのは。

 

「いや、話が逸れたな。で、国防長に推したい奴がいるのだったか。どこの党からの遣いで来たんだ?」

 

退役した老人は、自衛隊に姿を変えた軍部においても強い発言力を持っていた。なればこそ、政治のしがらみは今尚付き纏ってくるのだろう。こうして平井が遣いで訪ねるくらいに。

 

「いや、続けてください」

 

しかし平井は、本来の要件を後回しにそう言った。

渡すよう預かった手紙すら、懐から姿を出すこともないまんま。

 

「尊敬、してたのですか。敵を。殺しあう相手と友情をわかつこともあるのですか」

 

「……妙なことを聞く若造だ」

 

「いえ。若輩ながらこんな業界に突っ立ってると、血生臭い話が入ることもあるのですよ。時には依頼されることも。

……俺、いや、私は人殺しは請け負わなかった。『殺せば世界が狭まる』が持論だからです。しかしたくさんの兵を殺したであろうあなたの世界は、ちっとも狭く見えません」

 

はっきり平井は言い切った。すると、老人は皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして笑ったのだ。

 

「はっきり言うな。若造。口が上手い」

 

 

はは、ははは。

木霊した老人の笑い声は、枯れ木が軋むように嗄れて霞んだものだった。

 

 

「おい、チェスはうてるか」

 

そして、唐突にそんなことを問う。

 

「嗜む程度でよろしければ」

 

「では、一つ条件を出そう。よい、よい、懐の手紙の内容なんかこの老いぼれはどうでもよいのだ。今より案内する部屋でチェスに勝てたら、お前の雇い主のお願いとやらを聞くことにしよう」

 

まだ要件を聞いてもないのに、老人はそうと取り決める。平井に断る理由はなかった。チェスに限らず、彼は戦略性や心理戦に重きを置くゲームが得意だからだ。ポーカーでも、麻雀でも、将棋でも。チェスも当然例外ではない。

 

 

「さあ、来るかね」

 

「……お願いします」

 

頭を下げれば、案内されたのは書斎であった。

 

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

「埃一つない書斎だが、なんというか、人の匂いのない部屋だった。空き部屋だとか、モデルルームみたいな感じといやあわかりやすいか。書物は綺麗に整頓されて、壁には軍人時代の輝かしい賞状が飾られていた。その片隅に置かれていたんだ、チェス盤が」

 

からりとグラスの中の氷が溶ける。若かりし日の平井の話は、いつの間にか森田を夢中にさせていた。郊外の邸と、解体された帝国軍の元軍人。過ぎ去った日本のかつての姿が、名残のようにその空間に染み入っていた。その中で、平井はチェスの勝負を持ちかけられる。しかしそれは、通常のチェスとは大きくことなるものだった。

 

「手紙将棋は知ってるか。盤の前で向かい合わずに、互いの次の手を手紙でやりとりするやつだ」

 

「聞いたことは……やったことはないですけど」

 

森田は答えながら、そのあまりに気の長い将棋を想像してみた。将棋というものは通常なら長引いても数時間、早指しなら数十分で勝敗が決まる。だが、一手一手が文通では数ヶ月、長引けば年単位の時間がかかる。

「まさか、手紙でチェスを?」

話の流れからそう問えば、平井は「いいや」と首を振る。

「さすがに手紙ほど気長じゃない。が、イメージはそんなところだ。なにせ対面しないし一日一〜二手しか進まねぇ。チェスは勝敗が付く平均手数が六十前後と言われてる。つまり、ひと勝負に一ヶ月かかる」

 

なぜそんなことを。

疑問は自然と口をつく。平井はもう一口酒を飲み込んでから、「亡霊に勝たなきゃならなくなった」と笑ってみせる。

 

「亡霊……?」

 

「ああ。亡霊だ。元日本軍の老人は、この書斎に亡霊が出て、そいつとチェスで戦っているって言うんだ」

 

「なんですか、それ……」

 

たしか、初恋の話でなかったか。

平井の口からは、一向に甘酸っぱい気配はしてこない。それどころか内容はチェスから心霊沙汰に及ぶというのか。

森田の疑問が眉尻に浮かぶ。平井はそれにもくつくつと笑い、勿体つけるように続きを語る。女優は相槌を打つこともなく、静かに耳を傾けていた。

 

 

「戦地で出会ったとある兵士に、老人はチェスを習ったそうだ。終戦で遠い地に離れたその兵士に、老人生きて帰ったら勝負をしてくれと頼んだ。そして、手紙が届いた。手紙の内容は近況報告もなにもない、チェスの手を記しただけのぶっきらぼうなものであったが、それがとても〝あいつらしい〟と喜んで、何年も、ずっと手紙で勝負を続けたらしい。だが相手の腕は格段に強く、何度やれども勝てたことはなかった」

 

「じゃあ、その手紙相手に勝ってくれってことですか」

 

「いいや……。俺が邸を訪ねるより数年前に、その兵士は亡くなっていた」

 

「じゃあ、銀さんは誰と打ったんですか」

 

「だから亡霊ってやつさ。対戦相手の死後、悲しみも癒えぬある朝だ。書斎に行ったら白い駒が一つだけ動いてた。何かの間違いかとも思ったが、老人は気まぐれに黒い駒を一つ動かす。するとその夜、更に白い駒が動いた。明らかに偶然の動きじゃなかった。それから毎日────正確な時間は定かでないが、白い駒は動き続けた。亡くなった対戦相手とまるで同じ打ち筋で。無人の時間を縫うようにして、人知れず局が始まったんだ。目撃者は誰もいない」

 

まさか、それが亡霊────?森田は口をぽかんと開ける。平井は小さく一度頷く。そうだ、そいつが亡霊だと。

 

「老人は毎日チェスを打ったが、やはり一度も敵わない。それで、いつしかこう考えたんだ。〝成仏できないのは、勝てないからではないだろうか。早く自分を負かしてみろと、その日を待ってくれてるのかもしれない〟と」

 

誰でもわかる。駒がひとりでに動くわけない。これはそんなポルターガイストなどではなく、老人の目をかいくぐって人間が駒に触れてるだけだと。

事実、老人は一人暮らしでなかった。息子夫婦や孫も同居していたし、使用人だって何人もいた。この中の誰かの仕業に間違いなかったが、しかし誰一人としてそれを詮索しなかった。

皆、知っていたのだ。この奇妙な対戦相手を〝亡霊〟ということにしておくことで、老人が死の傷を癒せることを。

〝だから、この邸では亡霊がチェスを打つのです〟

帰りがけに、最も歴の長い使用人がそう耳打ちしてくれた。

 

 

「こうして、俺は亡霊とチェスを始めた」

 

平井は残る酒を飲み干したあと、マスターに「もう一杯頼む」と言いつけた。

 

 

 

 

 

 

-3-

 

平井は白い駒を一つ動かす。先行だった。前局では亡霊が白を使ったためである。

 

その日から、平井は日に二度邸に通う。自分の駒を動かすためと、相手の動きを確認するため。勝負の間は邸に自由に出入りする許可を貰った。だが不思議と、そこで様々な詮索を行う気は起こらない。下手なことをせず、正々堂々チェスに勝つことだけを行おうと考えたのだ。どうしても足を運べぬ時は、電話で次の手を伝えれば良いとも言われたけれど、可能な限り直接邸に赴いた。なんとなく、そうすることが相手に対する敬意のように思われたから。

 

 

「お祖父様、また勝負を持ちかけたの」

三日目の朝だ。次の手を差しに来た平井に向かい、そんな言葉を吐き捨てる一人の女に出会った。その服装や年齢から察するに、恐らくは邸に住まう孫娘だろう。

 

「〝また〟……ですか」

 

女は同年代に見えたけど、老人の身内であるため敬語を使った。

「そうだよ。あなたで三人目。いや、四人目かな」

 

ほう、と平井は感嘆する。

今までに四人来た。にもかかわらず亡霊が〝成仏〟しないなら、皆々敗北したのだろう。

 

「で、あなたはどっち」

 

「白ですよ」

 

「ふうん。勝てるの」

 

「まだ始まったばかりで、どちらとも申し上げられません」

 

彼女は書斎の一角にある、古びたチェス盤をじっと見下ろす。昨晩訪れた時から、駒はまた一つ動いてた。

 

「あなたはチェスはしないのですか」

 

平井は暫し考えたあと、ポーンを一つ前進させる。孫娘は小生意気に鼻を鳴らして、「さあね」と言い捨てた。その表情は、老人の行うチェスの勝負に、辟易してるようにも見えた。

 

「私が小さな頃からずっと、お祖父様はチェスに夢中だったわ。ほんと、くだらない」

 

そう言って背中をくるりと向ける。結い上げられた髪の下、うなじに一つホクロがあった。

首のほぼ中央にぽつんとあるその黒が、白い肌のせいか妙に目立つ。それが、妙に色気を放つ女であった。

 

 

・ ・ ・

 

 

平井の戦術はナイトを駆使したものだった。ナイトは、盤上で唯一〝間にある駒を飛び越し移動する〟という性質を持ち、故に非常にトリッキーな動きをみせる。初心者はよく動ける範囲を見落とすために、初心者殺しの駒とも呼ばれる。

……もっとも、亡霊は初心者とは程遠く、それどころか相当な腕と見受けられるが。故に平井のナイトに翻弄されることもなく、冷静に応戦してくる。

 

亡霊のクイーンは厄介だった。ルアーリングと呼ばれるものがある。名の通り釣りを由来としたもので、「自分の駒を犠牲に相手の駒を誘い出し、犠牲にした駒よりも高い価値の駒を手に入れる」というテクニックだ。ルアーリングは初心者でも仕掛けることもあるほど、とても有名な戦術の一つだ。しかしその精度がとんでもなく高度なために、思うように動けぬシーンが度々あった。常に亡霊のクイーンが奥で目を光らせていて、好機と思える瞬間であれ「これはルアーリングでは?」という疑念を植え付けられる。結果、思うように動けないのだ。

チェスのルールを知らずとも、「クイーンがかなり強い駒」と認識する者は少なくない。そう、クイーンはとても強いのだ。そして亡霊のクイーンは、これまで打った誰よりも強力な戦士であった。

 

 

 

「チェス、勝てそうなの?」

 

孫娘が今日も平井にそう問うてくる。

彼女は毎日ではないものの、頻繁にチェスの勝負を覗きに来る。平井が手を打つまで喋ることはない。その日の手を終えた後、二、三言の会話を交わすのが、いつしか当たり前になっていた。

 

 

「勝ちたいが、相当な相手です」

 

「ふうん」

 

言葉はいつも素っ気ないのに、こうも頻繁に勝負を気にする。存外、彼女もチェスを打つのでないか。そんなことすら考えるのだ。でもなくば、あまりに静かなこの盤面を、解説も求めずじっと見るには退屈すぎる。

 

 

ある時だった。使用人の一人が平井にこう言った。

「お嬢様と仲良くしてくださり、ありがとうございます」

 

〝仲良く〟と形容できたものかは疑問が残るが、毎度会話をするのは確かだ。使用人の目には、たったそれだけのことでも友好的に映るというのか。

 

「彼女はチェスを見るのが好きなのか。嗜むんじゃないのか」

 

問えば使用人はうんと頷く。

 

「はい。旦那様だけでなく、その息子ご夫婦も、お姉さまの方も、この家の方は皆さんチェスがとてもお強い。ですが、お嬢様が頻繁に勝負を見に足を運ぶのは、これが初めてのことです」

 

その会話に、平井は亡霊の正体が少しだけ薄れたような気がした。

外部の人間である平井は当然、亡霊とは家の誰かに間違いないと思ってる。しかし十はいる使用人に同居の家族と、可能性のある者が多すぎた。それに、正体を見破るのが本質でないのもまた事実だ。

しかし老人の身内は皆チェスが強いとの事実を聞くと、朧だった存在感も現実味が増してくる。だいたい身内でもない限り、どうしてこんなまだるっこしい真似を何年も続けられたというのか。

最初からわかっていたことだ。だが改めて実感する。亡霊は生身の人間なのだと。その裏には老人への愛情のようなものが詰まってる。そして対人間の読み合いならば、平井は誰にも、負けたことなど一度もなかった。

 

 

 

・ ・ ・

 

 

「チェックだ」

 

ある夜だった。月も見えない、とても暗い夜だった。盤上の駒は減り、戦局も終盤に差し掛かる。じきに一月経とうという頃、ついに平井のナイトがキングを捉えた。

とはいえキングにはまだ逃げ道があり、そこから逆転の道もあるだろう。これで勝負がつくなどと、平井は微塵も考えてない。チェックは、キングに逃げ場を残さない〝詰み〟の状態を指すチェックメイトとは大きく異なる。

ただ、チェスはルール上次の一手でキングを取れる状態の時、チェックと宣言しなけりゃならない。故に平井はチェックと述べるが、対面に対戦者のいないこのチェスでは、口頭のチェック宣言に意味があるのか疑問なところだ。

 

「チェック宣言はどうすれば良いですか。紙に書いてここに置きますか。それとも私の目に見えないだけで、亡霊はここにいてチェック宣言も聞こえているとか?」

 

いつものように観戦している彼女に問うた。後半は、少し意地悪だったかもしれないが。なにせ室内は二人きりだ。これでは暗に「お前が亡霊か」と尋ねるのと変わらない。しかし孫娘は動じることなく、いつものように悠々とする。もしかしたら、対戦者の詮索すらも、彼女慣れっこなのかもしれない。

 

「好きにしたら。これがチェックの状態だなんて、見ればわかるでしょ、亡霊だって」

 

「では、今まではどうしていたのですか」

 

「使用人に言伝させあり、置き手紙でそれを伝える奴もいた。どうせわかるだろって、形式的に『チェック』と宣言して終わりの時もあったわ」

 

「なるほど。なら、あなたはどれが最良だと思いますか」

 

平井は揺さぶりをかけていた。一カ月近くこの家に通い、朧ながらに掴みかけた答えがある。いや、単なる消去法だ。父親は仕事が忙しく、母親はそもそもこの勝負に興味がない。姉は外出や外泊が度々あった。使用人にだってシフトで不定期に休みがある。毎日朝夜必ずこの家にいる人間は、もはや目の前の彼女以外いないのだった。

 

彼女は不快そうに眉を顰めて、しかし開き直ったようにこう言った。

 

「……いいわよ。なら〝私が亡霊に伝えておく〟わ。チェックよ、って」

 

そう言ってくるりと背中を向ける。

首にはまた、色めかしいホクロが見えた。

 

 

 

 

 

 

-4-

 

三十二日目のことだった。どうしても外せぬ用事で朝に邸に赴けず、その日は昼過ぎに邸を訪ねた。いつも通り一手進めた帰りのことだ。老人が縁側で湯呑みを片手に庭を見ている。

「どうかね」

そう声をかけられて、平井もまた縁側に腰を折ることにした。

天気の良い日だ。木漏れ日が立派な庭園にきらきら差してる。

見れば、老人の湯呑みの中身はコーヒーだった。意外そうな顔をすれば、老人は毒のない笑みで「おかしいだろう」と朗らかにする。

 

「私はこれが好きなのだが、ティーカップというものにはどうにも慣れぬ。それで、いつも湯呑みに淹れさせるのだ」

 

ひきたての豆の香りが漂う。日本庭園の片隅で。

それは、和洋の入り混じりを思わせた。いや、ここだけでなく、この邸は昔ながらの立派な日本邸でありながら、ところどころに西洋のものが置かれていたのだ。ハクトウワシの置物や、西海岸の風景写真。寝室には青い目をした夫人の絵画もある。畳、床の間、雪見障子に和小物を飾るあの書斎で、ぽつんと置かれた立派なチェス盤とおんなじように。

 

 

「戦況はどうだ」

 

やがて話題はチェスへと変わる。

 

「フォークしました。相手はルークを差し出すかと」

 

フォークとは両取りとも呼ばれるもので、ナイトが得意とする戦術である。一つの駒が、次でとれる駒が二つ以上ある状態を指している。一度に二つの駒を動かすことはできないために、次でどちらかは倒されてしまう。

 

「そうか。勝てそうか」

 

「……。わかりません。まだクイーンがいる」

 

既に勝負は終盤である。盤上の駒も数を減らし、互いにアグレッシブにならざるを得ない。亡霊のクイーンはまだ戦場に立っている。どこか気高さすらも思わせる、あのとても強いクイーンが。

 

フォーク、ピン、スキュア。チェスには様々なテクニックがあり、星の数ほど戦術がある。ドイツ系ユダヤ人のとあるチェスプレーヤーは、こんな言葉を残してる。〝最も勝つのが難しい試合とは、勝勢の試合を勝ちきることだ〟と。平井はとても身に染みるのだ。一見して優勢であるはずなのに、未だ戦意を持つあのクイーンが、あまりに厄介だと知っている。

 

「チェスは美しく残酷なスポーツだ。ただ一つ戦争と違うのは、降参で勝った者が誰一人いないということだな」

 

老人が言う。その言葉が、胸の奥に溶けてくようだ。

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

「日本は戦時に報道をコントロールし、敗戦直前まで『日本は強い。勝利は目前だ』と謳い続けたわ。だから敗戦を聞いたときは、まさに青天の霹靂だったみたい。これは……民間人だけでなく、一部の軍人もそうだった。とある大佐もそうだった」

 

夜、彼女に会った。予想通り亡霊はルークを差し出し、また一歩平井は進軍をする、その直後のこと。寂しくなった盤上を見て、寂しそうに彼女は言うのだ。

『とある大佐』……それに心当たりを持っている。言わずもがな、あの老人だ。老人は若かりし日、少数精鋭の軍を率いて、隠密に沖縄本島を目指した。海戦でたくさんの兵の死を隠れ蓑にして。目的はひとつ。当時征圧されてた沖縄の、米軍本部に自爆攻撃をしかけるためだ。

 

この家系は皆色素が薄い。生粋の日本人でありながら、肌は白く髪も瞳も茶色をしていた。それだけで、当時老人がその任に抜擢されたのにも頷ける。

 

「戦時中の監視の目はとても厳しい。部下は一人、また一人と摘発されたり射殺されたり。米軍基地への潜入は更に厳しく、そこでもやはり部下が死んだ。残り二人になった時、最後の部下は自らが囮になると申し出たそうよ。まさに、サクリファイス」

 

 

サクリファイス────チェスにおいて、自分の駒を犠牲により良い状態に持っていくこと。

最後の部下は、自らを犠牲に本部爆破を大佐に託したのだ。

 

涙を殺して基地内部の潜伏を果たし、大佐は上層部が一箇所に集う日を待ち続けていた。予定ならば、四日後に会議があるはずだった。……なのに、二日後にポツダム宣言が発表された。米軍基地で大佐は日本の敗戦を知る。勝利に喜ぶ米兵たちの影に隠れて。

 

「予定されていた会議も別所で行われることとなり、大佐の作戦は空振りに終わったわ。けれど戦死していった部下を思って、せめて上層部とともに爆死しようと、大佐は変更された会議場を目指したの。でも、それもダメだった。基地を出る時に見つかって撃たれたから。なんとか森林地帯まで逃げ果せたけど、一歩も動けずに気を失った。その時の傷、今でも足に残ってるわ」

 

彼女は語る。

盤上の外。討ち取られたいくつものポーン。倒れたナイトやルークを眺めながら。なにかを、重ねているのかもしれない。平井は黙って聞いていた。

 

 

「目覚めた時、知らない施設の部屋に居た。傷の手当てもされていた。それがアメリカ軍基地だったから、大佐はすごく焦ったそうよ。『基地の近くで倒れていたから保護した』って言われてね。アジア人ってすぐバレたみたい。そりゃそうよね、色素が薄くても、発音が稚拙だもの。喋ればバレるわ。だから、台湾人のふりした」

 

アメリカ人は大佐を詮索しなかった。傷ついた台湾人と信じ、痛かったろうと労ってくれた。食事もくれた。そして、チェスを教えてくれたのだという。とてもチェスが強かった。

 

 

平井は老人の話を思い出す。

────戦地で出会い、終戦で遠い地に離れた兵士がいた。そいつにチェスを習い、生きて帰ったら勝負をしてくれと頼んだ────。

あれは……、日本人ではなかったのだ。沖縄で出会った、アメリカ人のことだったのだ。

 

終戦からしばし経ち、傷も癒えたある日のこと。収容所に囚われていた民間人が、解放されるとニュースがあった。大佐はじっと下を向く。軍人であり、まして米兵に台湾人と詐称する自分はもう、本土に帰るあの船には乗れないと。いつか嘘はばれ、その時処刑される未来しかないと思っていたのだ。

しかし、大佐の看護を担当していたアメリカ軍人はこう言った。

 

『We Shall have a good time playing chess.』

(さぁ、チェスをやろうか)

 

大佐は頷く。そして、いつものようにチェスをさす。やはり相手は強かった。今日も勝てない。日本人がアメリカ人に戦争を模したチェスで負ける。それが、なんだか皮肉のようにも感じた。

しかしその日、アメリカ軍人は「チェックメイト」の宣言をせず、代わりにこんな話を始めた。

 

『It is proverb that〝After the game, the king and the pawn go into the same box〟

……Right.You can get home. Has nothing to do with black or white.I want it that way.

So,La Guerre est Finie』

(こんな言葉がある。『ゲームが終わればキングもポーンも同じ箱に仕舞われる』と。

そう、帰れるのだ。ゲームが終われば、それは仕舞われるべきことだ。白も黒も、すべがらく)

 

…………なにを、言わんとしてるのか。鼓動がばくんと高鳴った。

口を開く。言葉が上手く出てこない。すると、まるで周囲に悟られんとするかのように、小さな声でぽつりと言われた。

 

『アノ日、アナタヲ撃ッタノハ、ワタシデス』

 

なにを。では、最初から嘘は。なぜ。

たくさんの疑問が脳裏を巡る。決して攻撃的にすることもなく、憎しみをぶつけることもなかった、命の恩人は米兵だった。自分の自爆を止めた人は。足を撃ち、しかし命を救った人は。

稚拙な大佐の英語力では、それらの質問を英語にすることは叶わなかった。だが、どちらにせよそれを問うのは、粋ではないことかもしれない。

 

『Go.The reason is because the end of play』

(さぁ、もうチェスは終わったよ)

 

 

 

そうして、その夜ひっそりと解放されたのだという。

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

話の終わりは静寂になる。薄闇の書斎のチェス盤の前。唐突に語られた昔話。大佐の────老人の友とチェスの話。殺し合う敵の間にも、極々稀にひと匙の友情と出会えることがある。かつて老人はそう言っていた。

 

でも、なぜ、今この話を?

平井が質問するより先に、彼女は盤上を指差しこう言った。

 

「サクリファイスね。これは、ルアーリングよ。逃げられるものなら逃げなさい」

 

その声色は強かで、目の前に聳える気高きクイーンと重なった。

 

 

・ ・ ・

 

 

三十三日目、朝。相手の手が差された盤上を目にした瞬間、平井の顔は青褪めた。

 

────やられた!ツーク・ツワンクだ!

 

チェスではパスができないため、必ず動かなければならない。ツーク・ツワンクとはそれを利用し、〝相手に悪い手をうつことしかできなくさせる〟戦術だ。昨晩の、彼女の言葉を思い出す。

フォークにより平井のナイトはルークを倒した。しかし、それこそがルアーリングだったのだ。駒を犠牲に戦況を好転させるサクリファイス。ルークを獲るべくナイトの動いた盤上は、クイーンの望む形になった。

まずい。非常にまずい。しかしわかっていながら、キングを守るために平井の手は限られている。

今日も彼女は盤上を見る。しかし、昨晩のように饒舌に語ることはなく、じっと黙っているだけだ。

 

「……見事にやられたよ、クイーン」

 

平井はそう彼女に囁き、キングを守るべくナイトを動かす。

 

その日の夜。

平井のクイーンが討ち殺された。

 

 

 

 

 

-5-

 

今にして思えば、平井に遣いを依頼しようと決めたのは、平井が麻雀やチェスなどの心理戦や戦略戦に長けると知ってのことかもしれない。あの老人は政界の〝頼みごと〟をしに来た相手に、毎度亡霊のチェスをさせてたのだから。

 

「……正直、馬鹿をやったな。俺は阿呆かとすら思う。最凶のクイーンよ」

 

まずい。非常にまずい。

そんな心境が、平井に自虐を吐露させる。苦々しい言葉を聞いて、彼女は眉を吊り上げる。

 

「罵らないで」

 

老人も老人だが、彼女もチェスの虜というのか。……いや、今の言い方には少し妙だ。平井は彼女をじっと見る。その眼は失望のように沈んでる。

盤上には、最強のクイーン。平井のナイトは追い詰められる。その後は、きっとキングが。チェックメイトが近付いてくる。なにか策はないか。

 

脆弱なポーンに目を落とす。

 

 

「その言い方だと、亡霊が誰だか知ってるようだ」

 

「……そう」

 

「いや、八つ当たりはよそう。今できるのは、最善を探すことだけだ」

 

「なら、邪魔にならないようにするわ」

 

そう言って、彼女は静かに部屋を出た。

 

 

 

 

 

チェスは長い後悔の一つ。

チェスは盤上の戦争。

そして、チェスは人生のようなもの。

 

 

これらは全て、世界に名を馳すチェスプレーヤーの名言である。

なにか糸口が欲しくって、平井は先人達の言葉を漁る。チェスとは思考するものだから。

戦争。後悔。そして人生。

 

やがて、ふと平井は彼女のことを思い出す。

 

尋ねてもないのに老人の過去を語った昨晩、彼女はなにを伝えようとしてたのだろうか。

────サクリファイス。これは、ルアーリングよ。逃げられるものなら逃げなさい────。まるでクイーンそのもののように刺さった言葉。

 

視線をあげれば書斎のほんの片隅で、小さな写真立ての存在に気付く。

 

 

「…………あ」

 

その時、一つの道が浮かび上がった。

 

 

 

 

 

 

-6-

 

三十七日目の昼下がり。老人はまた縁側にいる。平井はその隣に座った。

 

 

「……どうだね、チェスは」

 

その日朝に来なかったのはあえてのことだ。老人と話がしたかった。

手を指し終えた平井はそのまま、真っ直ぐに老人のもとへ来た。

 

 

「あなたに、伝えることがあって来ました」

 

「なんだ」

 

「チェックメイト」

 

 

瞬間、空気が凍ったような気がした。

平井は怖気付くこともなく、老人の瞳を射抜いて述べる。

 

 

「対戦相手にこれを告げるのもルールですから、言いに来ました。チェックメイトです」

 

「…………なにを」

 

「亡霊は、あなたです」

 

父親は仕事が忙しく、母親はそもそもこの勝負に興味がない。姉は外出や外泊が度々あった。使用人にだってシフトで不定期に休みがある。毎日朝夜必ずこの家にいる人間は、あの孫娘だけではないか。そんな消去法を用いた時に、見落としていた人物がいる。

目の前の老人本人こそ、いつだって邸で書斎の盤に触れられる張本人であったこと。

 

和の空間に点在する洋の存在。きっとあれらは、チェスの師であり敵であり、命の恩人でもあった────死した人の名残であった。平井は答えに行き着いたのだ。チェスも。亡霊の正体も。孫娘の意図したことも。

 

 

「〝毎日チェスを打ったが一度も敵わない。いつしか『成仏できないのは、勝てないからではないだろうか。早く自分を負かしてみろと、相手はその日を待ってくれてるのかもしれない』と考えた〟……これは建て前の作り話です。実際は、あなが亡霊として指していた。ご友人のふりをして、ご友人の指し筋を真似ながら────いや、かつての手紙を読み返して再現なさったのかもしれませんね。悲しみを癒したのか、或いは、チェスの中に友人の存在を思い出したのかもしれません。いえ、友人ではなく、奥様とお呼びすべきでしょうか」

 

寝室にある青い目をした夫人の絵画。それとよく似た女性の写真が、書斎の片隅にあるのを見つけた。女性は美しく凛として、そして米軍服を着てたのだ。

『アレクサンドラ』

写真立ての額縁には、美しい筆記体でそう刻まれてた。

 

沖縄に通信兵として、駐屯していた兵士の一人。老人が手紙でチェスをした対戦相手。彼女は米兵が国に撤退する折に、自国ではなく本土に渡った。大佐と結婚するために。

 

 

「疑問はありました。手紙は近況報告もないチェスの手を記しただけのもだと聞いて。それで、どうやって死の報せを受けるのか」

 

「……。親族が、教えてくれたとは考えんのか」

 

「そうですね。しかし写真や肖像画、お孫さんが話してくれたあなたの過去から、この答えに行き着いたのです」

 

 

そこまで聞いて、老人はとぼけるのをやめたらしい。一度深く息を吐いたあと、寂しそうに「よくわかったな」と肯定したのだ。

 

「あれは、妻のチェスだ。妻と手紙でやってたころの、手紙を見ながら指していた。誰にも負けなかったのだ。しかし、あそこからチェックメイトとは、どうやったのか」

 

たった今進めてきたばかりの一手を、老人はまだ見ていない。なればこそ平井に問うているのだ。平井は勿体つけることもなく、あっさり答えを口にした。

 

「プロモーションです。最後のポーンが、敵地の最深部に到達しました。まるで、沖縄の駐屯本部の最奥地に、一人辿り着いたあなたのように」

 

 

プロモーション。昇格という意味のその言葉は、ポーンだけに与えられた可能性だ。

敵地の最深部。つまり、盤上の一番奥まで進むことのできたポーンは、〝他の駒になる〟という権利を得るのだ。ルークにも、ナイトにも、キング以外ならなんでも成れる。無論、クイーンにも。

 

 

「新たなクイーンです。ご老人、チェックメイトだ」

 

 

もう一度平井がそう言えば、老人は静かに頷いた。

 

 

「…………見事だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

-7-

 

老人は約束を守ってくれた。預かった手紙を手渡せば、その要件に二つ返事で頷いたのだ。かくして、平井は依頼を達成できたことになる。

帰りがけ、邸の門の目前に、孫娘が立っていた。勝負の結末を知ってるようで、「おめでとう」と平井に笑った。

 

 

「……礼は、こっちが言わなきゃならない」

 

「どうして?」

 

「あの時もう、あなたはプロモーションからの逆転の可能性に気付いてたんだ。だから、あんな昔話を俺にした」

 

「お祖母様はお祖父様より数段強くて、一度もプロモーションをゆるさなかったわ。だから、手紙を読み返して指すお祖父様はプロモーションに気付けなかった。結果、負けたのね。それだけなのよ」

 

これは後に知ったことだが、彼女はチェスのチャンピオンになったこともあったらしい。日本大会でなかったために気付かなかったが。……通りで読みが鋭いわけだ。

 

 

今日も陽射しはとても優しい。吹く風が、庭園に咲く花の匂いを連れて来る。結い上げられた彼女の髪が靡いてる。

 

「……あなたなら、勝てるかもって思ってた。私が何も言わなくても、きっとプロモーションに気付けたわ。平井さんなら」

 

「しかし、何故助けてくれたのですか」

 

遠くに鳥の声が聞こえた。

青い空。戦争の傷も見えなくなった町並みがある。経済が目まぐるしく動く。時代は次の世界へ進もうとしてる。

 

彼女は笑った。

 

 

「お祖父様が亡霊なんて悲しいじゃない」

 

 

それだけ。

 

そう言って、彼女は踵を返すのだった。

 

 

 

 

・ ・ ・

 

 

 

「────で、そん時の顔がそりゃもう綺麗だった。首のホクロが艶めかしいと思っていたが、あの時の目は比にならないほど綺麗だった。それで、やられたわけだ」

 

グラスがまた空く。強いのか、平井が酔った様子は見えない。

今の森田と、平井があまり変わらないくらい若いころ。実に奇妙なチェスをした。そこで出会った一人の女が、平井の初恋なのだという。

恋愛はそれなりにしてきたが、ああいうふうに〝シビれた〟のは初めてだったと平井は付け足す。

 

 

「……まあ」

 

傍で共に話を聞いてた女優の福田は、感嘆の溜息をほう……とついた。その頬がほのかに赤く染まって見える。

 

 

「なんか、銀さんの初恋、らしいっていうか。俺なんかてっきり、野球部とマネージャーの恋!みたいの想像してましたよ」

 

「おいおい森田。なんだ、野球部って……」

 

「いや、例えですよ、ただの」

 

平井は肩を揺らして笑う。女優も、となりでくすくす笑ってる。

グラスの酒を飲み干せば、自然と解散の空気になった。

 

 

 

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 

「ええ。森田くんもありがとう。素敵な夜だったわ」

 

そう言って二人は立ち上がる。森田もすぐにそれに続いた。────その時だ。

 

 

 

「………えっ」

 

 

ひとつ。聞き忘れたことがある。

〝老人の孫娘に恋をした。そのあとどうなったのか〟ということだ。

 

平井とともに背中を向けた女優。その後ろ姿に、いや、首に、森田は一つのものを見つける。

────ホクロだ。

首の後ろに、艶めかしいホクロがひとつ。

 

 

 

え。じゃあ。偶然?いや……。

 

平井の思い出話と全く同じ共通点。それを、偶然だというのだろうか。このタイミングで?

 

 

「クク……どうした、森田」

 

「いや、だって、その人は福田……さん、でしたよね……?」

 

すると平井は悪戯な顔をして、いたって自然に女優の手をとりエスコートしながらこう言った。

 

 

「なんだ、知らないのか。福田ってのは芸名だよ。本名は────」

 

 

 

 

……つまり、盛大にノロケ話を聞かされたということなのか。

 

狐に摘まれたような気持ちになって、森田は俯いて煙草を咥えた。

 


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