※一応、「紅葉の君と、春まだきの君」のパースさんと提督の前日談です。
こちらのエピソードを収録した小説本が、頒布されるとかなんとか……。
バレンタインパースさんが可愛くて書きました。いつもはパースさんの提督LOVE小説を書いてます。
「お疲れ様、パース」
課業終わりのチャイムに続いて告げられるその言葉が、気づくと一日で一番嬉しい言葉になっていた。
書き上げた書類の束を、机の上で揃える。「済」の箱に紙束を収めて、それから背伸びを一つ。そうして、私は声の主の方を見た。
私と同じように報告書を整えた提督と、目が合う。思わず息が詰まった。
それまで真剣に書類と向き合っていた目を、提督は弛緩させていた。右肩を回す彼は、「お茶にしようか」と、昨日と――今までの課業終わりと同じ提案をする。ようやく呼吸を復活させた私は、その提案に「ええ」と頷くことしかできなかった。
二人揃って執務机を立つ。給湯室へ向かう提督と、書類を棚のファイルに収める私。先に作業が終わるのはいつも私だ。最後に書類を挟み込んだ「装備開発手配表」のファイルを棚へ差し戻し、私は給湯室を窺う。今の位置からだと、お茶の準備をする提督の背中が、チラリとだけ見えた。
来客用、というよりも執務室へ遊びに来た艦娘用であることが判明したソファに、私は一足先に身を落ち着ける。いつもと同じ位置、提督の定位置とは向かいになる場所へ腰を落とす。しっかりとした感触のソファが、執務後の疲労した体を受け止めてくれた。
息を一つ吐く。しばらく、することもない。読みかけの本を開くには時間が足りない。メモは執務中に何度も読み返した。ただ疲れを癒しながら、秒針の音に耳を傾けるというのも、実に味気ない。
そうやって、なんでもない時間を過ごしていると、つい提督の方が気になる。扉で仕切られていない給湯室からは、いつも穏やかな音が聞こえてきた。今もそう。電気ケトルでお湯が沸く音。茶葉をすくう軽やかな響き。そして、注がれたお湯で茶葉が踊る雰囲気。そんな音を聞いていると、どうしても提督のことが気になる。今、何をしているのか――いえ、お茶を淹れているのだけれど。どんな顔でいるんだろうか、とか。緩んだ表情なのか、真剣な表情なのか、とか。気になりだしたらキリがない。
首を捻って、背もたれ越しに給湯室を窺った。「どんな具合?」なんて、金剛やウォースパイトみたいに顔を出せばいいだけの話なのに。どうも、私にはそういうことはできない。顔を覗かせようとするたび、なんだか気恥しくて、言葉に詰まる。結局私は、今日もソファで、提督を待っていた。
やがて、まろやかな香りが給湯室から漂ってくる。カタリと小さな物音が、提督が紅茶を携えて現れる報せだ。私は慌てて、捻った首を元に戻す。居住まいを正して、さもそれまでジッとそこで待っていたように装った。
「お待たせ」
「……ありがとう」
慣れた様子で、提督は二人分の紅茶を差し出した。私の分と、彼の分。夕方の執務室にいつも並ぶ、お揃いの柄をしたカップ。立ち上る湯気が幻想的だ。そして、半透明の湯気の向こうに、提督が腰掛ける。
「いただきます」
「召し上がれ」
特別な言葉はない。賑やかな会話もない。たまにどちらかが口を開いて、ぽつぽつと言葉を交わすくらい。基本はただ静かにカップを傾ける、二人だけの不思議な時間。
……どうしよう。傾けたカップの向こう。同じように紅茶をすする提督の顔を、チラリと窺った。
いつも思う。こうしているだけで……不思議と、心が安らぐのだ。さっきまで疲労に支配されていた体が、自然と穏やかな心地になっていく。それが……きっと、多くの人が「幸せ」と呼ぶものだと、最近は少しずつそう思うようになってしまった。
だからこそ思う。ああ、どうしよう、と。
……私は、不器用だ。どうしようもなく、不器用だ。特別明るくもないし、気さくでもないし、立ち回りもうまくない。会話一つ、こなせない。
折角のお茶の時間だもの。何か他愛のないお話の一つや二つ、できたほうがきっと提督も楽しい。そう思っても、最初の一言が切り出せない。仕事中は普通に話せるのに、こうして仕事以外の時間になってしまえば、ただただ困惑するばかり。
この時間が、この上ない喜びなのに。それを伝えることもできずにいる自分がもどかしい。
今夜も私は、紅茶の出来に満足そうな提督を見遣るだけ。吹けば消えてしまいそうな湯気のカーテンを隠れ蓑にして、ただじっとその顔を見つめている――いいえ、多分、見惚れている。
「パース?」
提督に気づかれれば、また素っ気なくごまかす。口に流した紅茶に、ごちゃまぜの思考と、胸の高鳴りを溶かしてしまった。
結局、ぽつぽつと最近読んだ本の話をして、執務室を後にする。温かい香りに満たされた心と、もどかしいほどの名残惜しさを抱えて、私は夕飯時の食堂を目指した。
◇
「フブキ、ちょっといいかしら」
演習終わりの休憩時間にある件の艦娘を、私は食堂にて見つけることができた。
数人の艦娘たちと机を囲み、談笑していた吹雪は、すぐに私の方を振り向く。ニパッと、彼女らしい明るい笑顔が私へ向けられた。
「お疲れ様です、パースさん。どうかしましたか?」
「ええ。一つ訊きたいのだけれど――」
執務室から携えてきた一枚の書類を、吹雪の前に差し出す。机に置いたそれを吹雪が覗き込み、倣うようにして他の艦娘たちも身を乗り出す。即席の艦娘かまくらの隙間から手を伸ばし、私は質問箇所を吹雪へ示した。
「この……大量のチョコレートの申請は、なにかしら?」
一つの銘柄のチョコレート、それもいわゆる板チョコと呼ばれるものが、通常より一桁多い数で申請されている。
一応、予算内には収まっているし、申請を通すことに問題はないのだけれど。誤記という可能性もあるし、確認した方がいいと思ったのだ。
私の質問の意図に気づいたらしい吹雪は、柏手を打って頷く。
「誤記じゃないですよ。バレンタインデー用の手作りチョコに使うんです」
「……バレンタインデー? 手作りチョコ?」
聞いたことのない言葉が一度に二つも登場して、私は思いっきり首を捻る。頭の中は疑問符で一杯だ。
吹雪以外の艦娘は、もうそんな時期かと書類を覗くのをやめ、また談笑に戻った。目をぱちぱちさせて吹雪を見ると、彼女はまるで先生みたいに説明を始めてくれる。
「二月十四日をバレンタインデーと言ってですね。大好きな人に贈り物をする日だそうですよ」
大好きな人。吹雪の言葉にドキリとする。一際強く打った心臓が痛くて、思わず胸元に手を重ねた。
吹雪はなおも、楽しそうに話を続ける。立てた人差し指をくるくると、宙に舞わせていた。
「日本だと、女性がチョコレートを送るのが一般的ですね。手作りすることも珍しくないです。――私も毎年、手作りチョコを作ってるんですよ」
ああそれで、手作り用に板チョコを買おうとしていたのか。そんな風に納得するよりも前に、冷たい汗が背中を伝う。顔から血の気が引いていくのを、ありありと感じていた。
大好きな人に、女性から、贈り物をする日。そんな日に吹雪は、毎年チョコを手作りして、誰かに渡している。
そんな相手……私は一人しか思いつかない。
震える唇で、心を締め付けながら、それでも尋ねずにいられなかった。
「てい、とく……提督に、渡すの?」
「? はい、もちろん司令官にも渡して――あっ」
そこで何かに思い至ったらしい吹雪が、しまったという風に目を見開いて、手のひらで口を覆った。その顔がみるみる朱に染まっていく。透き通る翡翠色の瞳が、荒れた水面のように激しく揺れていた。
「あ、ち、違いますからね!? そういう意味の『大好き』ではないですよ!?」
両の手をバタバタと忙しなく振って、吹雪は慌てた様子で否定する。
「ち、違うの?」
「はい。私は、基地の皆が大好きです。だから、基地の皆にチョコを渡してます。いつもお世話になっている司令官にも、同じように渡します。――でもそれは、恋愛的な意味ではないですから、安心してくださいっ」
あたふたと若干早口になりながら、吹雪はそう説明した。なんでも、渡すチョコにも色んな意味があるそうだ。いつもお世話になっている人に渡す義理チョコ。仲のいい友達に渡す友チョコ。そして――「あなたのことが好きです」という意味の本命チョコ。
吹雪は、自分のチョコは友チョコや義理チョコと呼ばれるものであって、本命チョコではないと念を押す。それに安堵している自分がいて、また胸のあたりを押さえた。そこにある心臓が、いつもより数割増しで早い鼓動を打っている。
「そう……なのね」
「本当ですからね? 信じてくださいね?」
「……そんなに念を押されると、逆に怪しいのだけど」
「ぱ、パースさん~っ」
眉を八の字にして訴える吹雪が、嘘を吐いているとは思えない。私はようやく、納得の頷きをすることができた。
聞けば吹雪は、毎年「バレンタインにチョコを手作りする艦娘の会」なるものを主催しているそうだ。有志を集めて、総勢三十名弱になる基地全員分のチョコを作っているという。
「大人数だから、大変そうね」
「そうですね、それなりには。でも、それ以上に楽しいですよ。おいしそうにチョコを食べてるとことか、チョコをお供にしておしゃべりしてるとことか。そういうのを見ると、作ってよかったなって思います。とっても嬉しいです」
その光景を思い描いたのか、吹雪はへにゃりと口の端を緩めた。弓なりの目が幸せそのもので、釣られて私も頬を弛緩させる。
抹茶ラテに手を伸ばす吹雪に謝意を伝えて、その場を後にしようとした。すると吹雪が私を引き留める。
「パースさんも、一緒にチョコ、作りませんか?」
翡翠の瞳をキラキラさせて誘う吹雪に、言葉が詰まった。返事がすぐには出てこない。
「……遠慮しておく。私、料理の経験はないし……あまり、器用ではないもの」
「大丈夫ですよ。金剛さんも大淀さんもお手伝いしてくれます。それに、純粋に人手はあった方が助かります」
「でも……」
なおも答えに窮する私の手を、吹雪が取る。私よりわずかばかり小さい手が、ぎゅっと私の手を握った。こちらを見つめる吹雪の瞳は真剣そのものだ。
大事なことを訊きますと前置いて、吹雪はもう一度問いかけた。
「パースさんは……チョコを渡したい人は、いませんか?」
ドクリ。真っ直ぐな質問に心臓が脈打つ。開きかけた唇から、けれども声が出ない。
……どうしよう。どうしよう。訊かれてしまえば、思い描く人は一人しかいない。どうしてか、その人の顔ばかり浮かんでしまう。吹雪や金剛、他にも感謝したい人はいるのに……真っ先に頭に浮かんで、そして決して消えてくれない顔。
豊かな香りを纏う湯気の向こうに窺った顔。その顔が脳裏から離れない。
頬に熱を感じている。体中の血液が顔に集まっているんじゃないかっていうくらいだ。きっと今頃は、節分の鬼なんかよりもずっと、私の顔は赤くなっている。けれどそれを覆って隠そうにも、両の手は吹雪に握られていた。朱に染まった頬をごまかすこともできない。
真剣な瞳に、覚悟を決める。小さくぎこちなく動かした首は、俯いたのか、頷いたのか、自分でもよくわからなかった。
「……そうね。考えておきます」
「はい。積極検討をお願いします」
両の手を解放した吹雪は、鮮やかな笑みを零して、私を見送ってくれた。
執務室の扉を開くと、思わずドキリとした。開け放った入口のすぐ側には、工廠部へ行っていたはずの提督が立っている。たった今帰ってきたらしい彼は、海軍支給の外套をコートラックにかけているところだった。
こちらを見た提督と目が合う。ついさっきまで――いいえ、廊下を歩いている間も、バレンタインと提督のことを考えていた私は、ようやく冷めた頬が再加熱されるのを感じていた。
ぱちくりと瞬きをした提督は、すぐに小さく口の端を緩める。
「おかえり、パース。吹雪は見つかった?」
吹雪を探して執務室を外す旨、メモを残しておいた。それを提督は読んでくれたのだろう。
こくりと頷き、急いで体を部屋の中に収める。ぱたりと後ろ手に扉を閉めた。
「ええ。疑問も解決したわ」
「疑問?」
「フブキが大量のチョコレートを注文していたから、誤記ではないかと思ったけど。バレンタインの準備だったらしくて――」
そこまで口にして、しまったと思った。さっきの今でバレンタインのことを口にすれば、それだけで提督のことを意識してしまう。顔面の熱さは収まるどころか、増すばかりだ。いよいよごまかしがきかない気がして、そのままいそいそと自席に戻った。
たった今吹雪に確認を取った書類を机におく。引き出しからペンを取り出した。
「そうか、もうそんな時期か」
「ええ。毎年、チョコを手作りしているそうね」
「ああ。毎年楽しそうにやってるよ。――パースは、作るのかい?」
サインをしようと紙面に置いたペンが止まる。心臓があんまりうるさくて、提督にも聞こえるんじゃないかと思う。彼の顔を見ることができない。
「そう、ね。まだ、保留中よ」
「参加したいのなら、執務の方は気にしないで。しばらく急ぎの案件はないだろうしね。大淀も、去年は半日執務を抜けて、手伝いに行ってたよ」
「……そう」
深呼吸を一つ挟む。やっとの思いで手を動かして、承認のサインを書き込んだ。書類を済のボックスに移して、ペンを置く。慎重に顔を上げて、執務を再開した提督の横顔を窺った。
心臓が、まだバクバクと激しく打っている。
「提督、その……一つ、訊きたいのだけれど」
私が呼ぶと、提督はすぐに顔を上げて、こちらを見た。ペンを置いた彼は、優しい眼差しと、柔らかい声音で続きを促す。
「どうした?」
「……大したことでは、ないのだけど。バレンタインにチョコをもらったら、嬉しい?」
「私から」とは付け加えることができなくて、曖昧な質問になってしまう。けれどそれ以上、言葉を搾り出すこともできない。自分でもわかるくらい、緊張と不安をない交ぜにして、ただじっと、提督の答えを待っていた。机の下で両手の指を絡め、握り締める。
私の緊張は、はっきりと表情に出ていたんだろう。提督はわずかに目を見開いて、一瞬言葉を詰まらせていた。柔らかだった眼差しが真剣な色を帯びる。
けれど、提督はすぐに表情を弛緩させて、はにかんだ。随分はっきりと頷く。
「――もちろん。とても嬉しいよ」
光の加減か、わずかに朱を帯びる爽やかな笑顔。言葉を失って見入った私は、数秒遅れて慌てて頷く。
「そう」
素っ気ない返事にも微笑む提督がなんだか眩しくて、私は執務室に目線を泳がせた。
◇
バレンタイン前日の食堂には、完全装備――エプロン姿の艦娘が集められていた。吹雪を筆頭に召集された「バレンタインにチョコを手作りする艦娘の会」のメンバーは、金剛、大淀、瑞穂、ウォースパイト、敷波。料理が得意な面々の中に加わっている私は明らかに場違いだった。
けれど、チョコ作りを始めると、皆が手取り足取り教えてくれた。料理なんて一度もやったことのなかった私は、それこそ包丁の扱いから教わることになった。
――「皆、最初からできるわけじゃありません。たくさん練習して、たくさん失敗して、少しずつできるようになるんです」
――「吹雪と二人で、たくさんやらかしましたネー」
顔を見合わせて笑う吹雪と金剛の姿が印象的だった。
無事人数分のチョコを作り終え、冷やし固めるために冷蔵庫へ入れる頃には、私はすっかりチョコ作りを楽しんでいた。
ぱたりと閉じた冷蔵庫に、ふうと息を一つ吐く。気づけば、二時間近い時間が、あっという間に過ぎていた。
「……あとは、待つだけね」
「はいっ。いい出来だと思います!」
額を拭う仕草をした吹雪が、汗と共にキラキラとした笑顔を見せた。満足そうな横顔に私も頷く。自然と私の頬も緩んでしまった。
「パースさん、お手伝いしていただいて、ありがとうございました」
艶やかな黒髪をポニーテールにする大淀が、エプロンの腰紐を解きながら私と吹雪の隣に立つ。秘書艦を私に交代して以来、お菓子作りに凝っているという彼女は、今日はガトーショコラを作っていた。司厨部のおばちゃんたちに渡す分らしい。
私の表情を覗き込むようにして、大淀は尋ねた。
「お菓子作り、どうでしたか?」
「楽しかったわ。――また、やってみたい」
「それはなによりです。ふふっ」
私の返答に、大淀は嬉しそうに笑みを零した。満足げな表情でエプロンを畳んだ彼女は、そのまま結んでいた髪を解く。しゃなりと流れる黒髪と、眼鏡の和風美女の横顔を、私はしばし見つめていた。
それを不思議に思ったらしく、大淀は小首を傾げる。
「パースさん? どうかされましたか?」
「……オオヨドは、お菓子作りが、得意なのよね」
「ええ、はい。得意……というより、好きこそ物の上手なれ、でしょうか」
頷いて、私へ話の続きを促す大淀。彼女から借りたエプロンのポケットに、私はそっと手を重ねる。そこに忍ばせたもののことを考えると、勇気を振り絞って開いた唇が震えた。たった一言を告げればいいだけなのに、その言葉を唇は紡いでくれない。想いだけが閉じ切った喉の奥に詰まって苦しい。いっそ飲み込めてしまえば楽なのに、けれどそれも叶わない。そもそも、そんなことを私は望んでいなかった。
大淀は何も言わず、ただ穏やかな視線だけを私から外さずに、じっと私の言葉を待ってくれていた。「ゆっくりでいいですよ」と語る瞳に甘えて、もう一度息を吸う。意を決して、私はポケットに手を入れた。
「作りたいお菓子が、あるの」
「バレンタイン用に、ですか?」
「……ええ、そうよ」
「はい。どんなお菓子ですか?」
恐る恐るポケットから紙を取り出す。ホームページの印刷と私のメモ書きを、ステープラーでまとめたものだ。
受け取った大淀は、数枚の紙束をぺらぺらとめくる。いつの間にやら、その手元を金剛や瑞穂たちも覗き込んでいた。
「らみ……んとん?」
敷波が「初めて聞いた」と呟く。
ラミントン。かつての私が籍を置いていたオーストラリアの伝統的なお菓子で、チョコをまとわせたスポンジ生地にココナッツを振りかけている。一口サイズで食べやすいのも特徴だ。
チョコレートも使っていることだし、バレンタインにはぴったりだろう。問題は……不器用な私に、作れるかどうか。
しばらく吟味するように私のメモを見つめていた大淀は、パティシエの目をして振り返る。そこには、興味深げに様子を窺っていた金剛がいた。
「金剛さん。今夜、寮の共用キッチンをお借りしてもいいですか?」
「オフコース。料理好きな子がいつでも料理できるように、色々揃えてあるからネ。好きに使ってくだサイ」
グッと親指を立てる金剛に謝意を述べて微笑んだ大淀が、再び私を見た。
「パースさん、材料はありますか?」
「ええ、一通り揃えたわ」
「わかりました。――夕食後に、時間を空けていてください。一緒に作りましょう」
眼鏡の奥で瞳を細める大淀に、息を飲む。トクトクと小刻みなリズムの心臓に手を重ねた。任せてくださいと言いたげに口の端を吊り上げる大淀に、震える声で問いかける。我ながら掠れた声が出た。
「私でも……作れる?」
「もちろんです。私もアドバイスしますけれど……今日の感じなら、パースさんだけで作れますよ」
頑張りましょう、と言う大淀の言葉に、やっとの思いで頷いた。期待と不安と……色んな感情のない交ぜになった足元が、ふわふわと覚束なくて変な感じがした。
一日の課業も終わり、夕食も済ませた午後六時半。寮棟の一室、吹雪と金剛がコツコツ整備したという共用キッチンを借りて、私のラミントン作りは始まった。
私が見つけてきたメニューをもとに、大淀がアドバイスや手本を見せてくれて、私はそれに従って手を動かす。途中参戦した吹雪や金剛も細かな作業を手伝ってくれた。
最初にスポンジ生地を準備する。吹雪が予熱してくれていたオーブンに生地を入れたら、焼き上がる間にチョコレートガナッシュとラズベリーソース、ホイップクリームを用意する。
最初は、手順の多さに、目が回りそうだった。こんなに色々、私にはできる気がしなかった。けれど、大淀の真似をして、吹雪のアドバイスを聞いて、金剛に応援されて……少しずつ、楽しくなってくる。そんな私を、大淀がしてやったりと言いたげな笑みで見つめていた。
楽しくなると、目の前以外のことが見えてくる。生地の焼き上がるまでの時間とか、次にやるべきこととか、ちょっとした談笑とか。
でも、思考に余裕ができると……ふと、余計なことを考える。
「これで……いいのかしら」
角のツンと立ったクリームをぼんやり眺めて呟いた。私の手元を見つめていた大淀がそれに答える。
「いい出来ですね。クリームはそれで十分ですよ」
「……違うわ。そうではないの」
仕立て終わったクリームのボウルをシンクに置く。丁度その時、生地が焼き上がった。ミトンを嵌めて中身を取り出すと、綺麗に焼き上がった生地が現れる。その表面を、何とも言えない心持ちで見つめていた。
言葉がぽつりと、唇から零れる。
「……まともに、お話だって、できないのよ」
生地をシンクに置く。しばらく粗熱を取って型からはずし、冷蔵庫へ移さないといけない。余計な思考に頭がかき乱されていても、手を止める気にはならなかった。私でない何かが、この体を動かしているような、そんな気さえしていた。
大淀は何も言わず、私の独り言を聴いてくれていた。
「本当は、たくさんたくさん、お話したい。お茶がもっとおいしくなるような、楽しいことを話したい。私と一緒に笑って欲しい。……でも、できないの」
きっと、楽しくない。
きっと、心地よくない。
きっと、退屈で。
きっと、気まずくしている。
だからきっと……嬉しくない。
「きっと、嬉しくない。こんな……不器用で、愛想がなくて、可愛くない私からチョコをもらったって、嬉しくない」
ああ、どうして。どうしてもっと、器用でなかったんだろう。
吹雪みたいに明るくあれたなら。
金剛みたいに気さくであれたなら。
大淀みたいに頼もしくあれたなら。
ウォースパイトみたいに穏やかであれたなら。
伝えたいことを、もっとちゃんと、伝えられたのだろうか。
今の私は、言いたいことの一パーセントだって、口にできていない。
型から外した生地をラップにくるみ、冷蔵庫へ移す。ぱたりと閉じた扉に向かって、広間とは全く違う意味の息を吐いた。
「パースさん」
背後から呼んだ大淀を振り返るのが怖かった。私から無理を言って協力をしてもらっているのに。当の私がこんな風では……大淀もいい迷惑だろう。
俯いたまま顔を上げられない私の手を、そっと伸びてきた大淀の手が取った。細く滑らかな白い手は優しく包むように、しかししっかりとその存在を伝えるように、私の手を握った。
「……料理は、愛情、だそうです」
「……え?」
慎重に言葉を選ぶようにしてそう言った大淀の顔を窺う。真っ直ぐ私を見つめるガラス玉みたいな瞳に射竦められた。蛍光灯の下でも美しい輝きを損なうことのない双眸を、言葉もなく見つめる他なかった。
提督の受け売りだ、と前置いて、大淀はまたゆっくりと口を開いた。
「以前、一人暮らしをしていた提督は、自分で自分のご飯を作っていたそうです。ところが不思議なことに、料理のスキルは上がったはずなのに、一向にご飯がおいしくならなかったそうなんです」
「……それは、どうして?」
「どうせ自分しか食べないものだから、知らず知らずに手を抜いていた。提督はそう分析していました。『どうも俺は、誰か食べてくれる人がいないと、料理に身が入らないらしい』だそうです」
真面目腐った低い声は、提督のモノマネだろうか。絶妙に似ていなくて、思わず唇の間から息が漏れた。それに、大淀は気を悪くした様子もなく、口の端を緩める。
「誰かに食べてもらおう、と思うと、色々なことを考えます。これが好きだったな、とか。これは苦手だったな、とか。こうしたらおいしくなるかな、とか。そうやって、食べて欲しい人のことを想って、料理をします。――それを、いつからか誰かが、愛情、と呼ぶようになったのでしょう」
大淀が握力を少し強くする。きゅっと握られると、彼女の暖かさを感じた。絡んでいた思考が、少し解けた気がする。
真っ直ぐな瞳が、優しい色を帯びて、私に問いかけた。
「パースさんは、パースさんがチョコを渡したい人のこと、考えたりしませんか?」
「……ええ、考えてるわ」
ずっと、考えている。チョコを作ろうと決めた時からずっと、提督のことばかり考えている。あの人のことがずっと、脳裏から離れない。
「ではその人は――パースさんのチョコを食べて、喜んでくれていますか?」
「……それは」
ずっと、考えていた。私がチョコを渡したら、提督はどう思うんだろう。どんな顔をするんだろう。どんなことを言うんだろう。
……ああ、本当に、どうしよう。
とても――とてもとても、困ったことに。
思い描く提督は、どんな時だって笑っていた。何度考えても、余計な思考に頭をかき乱されている時でさえも、想像の中の提督は笑っている。私の作ったラミントンを受け取って、口にして。嬉しそうに笑っている。
――「とても嬉しいよ」
ああ、どうして。喜ぶ彼しか想像できないんだろう。
大淀の手を握り返す。彼女の問いかけに、小さく頷いた。もう随分冷えた夜だというのに、頬が熱くって仕方がない。
「ええ。笑って……喜んでいるわ」
「そうですか。――それなら大丈夫です。ふふっ」
安心した様子で首肯して、大淀は手を離した。華麗なウィンクを一つ寄越す。
「可愛いパースさんが、一生懸命作ってるんです。きっと喜んでくれますよ」
◇
バレンタインの一日は、わずかな緊張と共に過ぎていった。
ふとした瞬間に、ペンを動かす手が止まる。執務机にて、真剣な眼差しで書類に向き合う横顔。気づけば見惚れていて、慌ててごまかして自分の作業に戻る。顔が火照って汗が出そうだ。
声をかける時、息が詰まる。「提督」と、ただ一言いつものように呼ぶだけなのに、どういう訳か声が出ない。もどかしくて、切なくて、けれど締め付けられるような胸が高鳴っていた。
外套を羽織って出かける背中に、寂しくなる。基地所属の各部との折衝に足を運ぶ提督から留守を預かる間は、気が気でなくなる。早く戻ってこないだろうかと、一分おきに木製の扉を窺った。
そうやって一日を過ごして、また今日も課業終了のチャイムが鳴る。
「お疲れ様、パース」
「……ありがとう。提督もお疲れ様」
いつも通りの労いの言葉に、いつもより長い返事をする。それだけで心臓がうるさくて、緊張で喉が渇いた。震える唇を噛んでごまかす。提督は、少し驚いた様子だったけれど、いつもより嬉しそうに相好を崩して、「ありがとう」と言った。
「さて、お茶にしようか」
執務後のお茶の準備をしようと、席を立つ提督。私も同じように執務机から立ち上がった。いつものように書類を整理して、必要なものはファイリング。
それが終わると、いつもならソファに腰掛けて、給湯室の提督を気にしながら、お茶が出るのを待つのだけれど。今日ばかりはそうもいかない。
ファイルを戸棚に仕舞って、その足で給湯室へ向かう。中を覗くと、お湯が沸くのを待ちながら、提督が茶葉をすくっていた。お揃いのカップが準備されている。すでに仕事モードを解いた横顔は柔らかで、まるで歌でも歌っているみたいに笑っていた。
……知らなかったわ。あなたはそんな顔で、紅茶を淹れていたのね。
「パース、どうした? お湯はもうすぐ沸くから、待ってて」
提督に問われて、ハッと我に返る。惚けていたのがバレただろうかと、そんなことを考えて顔が熱い。真っ赤な頬をごまかしながら、私は何とかカラカラの口を開いた。
「提督、あの……渡したいものがあるから、取ってくるわ。すぐに戻るから、待っていて」
私の言葉に、提督は二、三と瞬きをした。それからどこかぎこちなく、緊張した様子で神妙に頷いた。はにかむ頬が、夕陽の加減か少し朱い。
「わかった。お茶を淹れて、待ってるよ」
「――ええ。お願いします」
私も笑ってみせる。緊張で頬の筋肉がうまく動かない。多分彼と同じで、なんだかぎこちない笑顔になっていたはずだ。
執務室を出て、足早に食堂へ向かう。昨日作ったラミントンは、食堂の冷蔵庫に保管してもらっていた。
おばちゃんからお皿を受け取って、すぐに踵を返す。夕食に備えてぽつぽつと食堂の席取りをする艦娘とは反対方向に、私はまた執務室へと戻っていった。
木製扉の前に立つ。ラミントンを乗せたお皿を両手で持っている以上、私はドアノブを捻ることができない。
そういえば以前にも、似たような状況があったことを思い出す。あの頃は……まだ、提督のことを信頼できていなかった。だから両手が塞がったまま、蚊の鳴くような声で「開けてください」とお願いすることしかできなかった。
……今は、知っている。私が呼んだなら、きっと提督は応えてくれる、と。
「提督、パースよ。戻ったわ。開けてくれるかしら」
すぐに扉は開かれた。待ってたよと笑う提督の目を、惚けて見つめていた。一回脈打つごとに大きくなる心音だけを聞いている。微かに開いた唇から息を吸って、けれど吐き出すことはできず、声は出ない。ただ提督のことだけを真っ直ぐに見つめていた。そんな私を不思議そうに見ていた彼は、入ってと招く。丁度、お湯が沸いたところだそうだ。
給湯室へ戻った提督よりも先に、ソファに腰を落ち着ける。ラミントンの乗ったお皿をテーブルに置くと、全身の筋肉が弛緩して息が漏れた。けれどホッと一息を入れる間もなく、また別種の緊張が全身を支配する。柔らかいはずのソファに身が落ち着かない。
痛い。心臓が痛い。さっきからバクバクと、過剰なんじゃと思うほどに熱い血液を送り出す自らの胸元に、手を合わせた。触れた手のひらに鼓動が伝わる。落ち着けようと深呼吸をしてみても、脈動が収まる気配はない。冷たい空気が肺に心地よさを伝えただけだった。
どうしよう。どうしよう。日中の比ではないほど体が熱い。不安と期待と、色んな感情が私の中で渦巻いている。頭の中はぐちゃぐちゃに沸き立っていて、沸騰したてのボイラーみたいだ。
ただ……考えていることは、ずっと一つだけ。
提督は……喜んでくれるかしら。
「お待たせ」
紅茶を持って現れた提督に、びくりと背筋が震える。花柄のティーカップを差し出す彼に、今日一の緊張で「ありがとう」と言った。そんな私に、提督は目を細めて「どういたしまして」と笑う。
二人分の紅茶を並べた提督が、私の向かいに腰掛けた。いつもなら、どちらからともなくカップを手に取り、執務終わりのティータイムが始まる。けれど今日は、私も提督も、二人ともすぐにはカップに手を伸ばさなかった。私たちの意識が、普段は存在しない小さなお皿と、その上に並んだお菓子へ向けられている。
乾いた口に、空気を送る。震えて用を為さない唇を、詰まって役に立たない喉を、無理矢理動かしこじ開けて、私は言葉を紡ぐ。
「あの、提督……これを、どうぞ」
感覚のない指先で、ラミントンの乗ったお皿を提督の方へ差し出す。
お皿に並ぶのは、一口サイズのお菓子。スポンジをチョコレートで包んだだけのもの。間にラズベリーソースを挟んだもの。ホイップクリームを挟んだもの。ココナッツをまぶした、小さなお菓子。
提督に食べて欲しくて、作ったお菓子です。あなたの喜ぶところを想像しながら、作りました。お口に合ったなら、嬉しい。
……そんな言葉を並べるには、やっぱり器用さが足りなくて。真っ白な頭で言葉を彷徨わせて、私は結局、短い言葉だけを紡ぐ。
「ラミントン、というお菓子です」
今日はバレンタインだから。その言葉すら出てこなくてもどかしい。けれどこれ以上の言葉を口にするには、口の中の水分と、心臓の強度が足りていない。破裂寸前の胸を抑えて、両の手をきつく握る以上のことが、もはや私にはできなかった。
そんな私を、提督はただ静かに見つめていた。星空の輝きを宿す群青の瞳が揺れている。その様子が堪らなく綺麗で、言葉も心も魂すらも奪われていた。私とラミントンを交互に見る彼を、浅い呼吸で心臓の音を聴きながら、見つめていた。
「――パース」
柔らかな響きが私の名前を奏でる。いつも通りの呼び方が、しかし今日は少し震えていたような気がした。
喜色に満ちた表情を、提督は私に向けた。頬の赤さは、夕陽のオレンジとは異なるもの。どこかで見覚えがあるような気がして、けれど沸騰している頭ではそれがなんなのかわからない。ただその表情を見た時、息が詰まるほどに心臓が高鳴った。熱い何かが体中を駆け巡る。
「ありがとう。嬉しい」
どういたしまして。そう答えたかったはずなのに、私は結局、俯いたのか、頷いたのか、わからないほど小さく首を動かすことしかできなかった。
食べてもいいかな。尋ねた提督に、フォークを差し出す。彼はそれを受け取ると、待ちきれないとばかりに、ラミントンへ刺した。ココナッツの雪をまとった小さなお菓子が、提督の唇の中へと吸い込まれる。その様子を、固唾を飲んで見守っていた。
ゆっくり味わって咀嚼する提督。次第に緩んでいくその表情は、昨夜思い描いた通りの笑顔で。でも、想像していたのよりずっと、眩しい。胸のあたりが不思議と暖かくなる。ふわふわと不思議な心地に戸惑っていた。
……いいえ、知っている。このふわふわとした感覚が「幸せ」という感情であること。そして――
何かが私の中で繋がった。
ラミントンを飲み込んだ提督が、口を開く。
ああ、どうしよう。
「おいしいね、ラミントン。初めて食べた。パースが作ったの?」
まるで油を差し忘れたロボットみたいに。言うことを聞かない首を無理矢理動かして頷く。
ああ、どうしよう。
「そっか。――ありがとう、パース」
火照った頬ではにかむ柔らかな顔に、今度こそ見惚れていた。
そしてそれを自覚した時、それまで感じたことのない――いいえ、感じたことのない
もう、胸の高鳴りを、ごまかせない。
「ご、ごめんなさいっ。急用を思い出したわ」
ソファを立ち、提督の返事も聞かずに、執務室の扉へ向かった。ドアノブへ手をかける私の背中に、慌てた様子の提督の声がかかる。
「パース、ありがとう。ラミントン、大切に、いただくよ」
その声は、こちらへ向けられている柔らかな笑みを想像できるもので。それがこの上なく嬉しくて。けれど今は、その微笑みを直視する勇気がない。
今、笑いかけられてしまったら――本当に、どうにかなってしまいそう。
「どういたしまして。――ありがとう」
掠れる声でそれだけ告げて、扉の隙間から外へ出た。きっと、提督には、聞こえていたはずだ。
ドアを閉めるなり、全身から力が抜けた。たった今閉じたばかりの木製扉に体重を預けて、ずるずるとその場にへたり込む。
にやけて緩んで締まりのない口元を、両の手で覆った。その拍子に触れた頬が、まるで焼けた鉄のように熱くなっている。けれどもう、その熱を冷ます方法を、私は知らない。いいえ、もしかしたらこの熱は、この先一生、消えることはないかもしれない。
「……どうしよう」
呟いても、何も変わらない。
嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。げんにおかしくなりそうなほど、心臓が脈打っている。全身が熱くて、でもそれが心地よくて、あべこべな感覚と感情に理解が追い付かない。
嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。けれどそれは、提督がラミントンを喜んでくれたから、だけではない。それだけではない。それだけではないのだと、気づいてしまった。
もしかしたら、ずっと気づかない方が、幸せなのかもしれない。けれどそれを、嬉しいと感じている自分がいる。涙が出るほどに喜んでいる自分がいる。心の底から微笑んでしまう自分がいる。
それに戸惑って、どうしよう、と答えなんてない問いを繰り返す。
どうしよう。
どうしよう。
私。
私。
私は――
「――好き」
誰もいない冬の廊下に、私の声が溶けていった。
二人が結ばれた後のお話も投稿しておりますので、そちらもどうぞよろしくお願いいたします~!