原作12,14巻に於ける飛鳥補完。淡いままに蓋をする恋心。

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明日も夕立でありますように

 それは、夏祭りでのことだった。それを私は、指導対局をしてくれていたあいちゃんと一緒に、呆然と眺めていた。

「……嬉しいです。顔を見れて」

「……同歩」

 その瞬間、私は理解したんだ。彼が私に振り向いてくれることなんて、金輪際ないんだって。

「――あれって……つまり、そういうこと、だよね……?」

 あいちゃんに聞かせるまでもないつぶやきが、思わず口から漏れる。その間、それすらも耳に入っているのかもわからないような様子で、あいちゃんは固まっていた。

「あのー、あちらの方って、もしかして白雪姫……?」

 その声に、私もあいちゃんも急に我に返る。気付けば、空先生がいらっしゃることに気付いた通行人が、段々と、加速度的に足を止め始めていた。

「飛鳥さん、すみません、師匠の元へ行って整理をしてきます」

 そしてそのまま、私に断りを入れて、あいちゃんが私の元から走り去る。それすらも、私はどこか遠くの出来事のように感じていた。

 あれって、そうだよね。つまり、そういうことだよね――。

 

 

 

 

 

 私が八一くんと知り合ったのは、小学校に入ってすぐぐらいのことだった。通い始めた小学校の同級生とは別の、同い年の男の子。学校以外の時間で、定期的に顔を合わす機会があって、そして今までずっと割と親しくしてきた。

 だから、定義的には、私と八一くんは、幼馴染の一種なんじゃないかって思う。そんなことを思っているのは私だけかもしれないけれど。

 学区どころか、住んでる場所は、小学生からしたらずっと離れているような場所で、それでもクラスメートでもないのに定期的に会う機会があって。そういう意味では、八一くんは常にどこか特別だった。

 うちにきてくれた時は、私となんかよりお父さんと話すことの方が多かったけど。それでも、空先生と一緒に来た際の空気感は明らかに日常のそれではなくて、私もいつかはそれに混ざれるようになりたいと、常々思っていた。

 結局、そんな日は今まで訪れなかったし、今後訪れることもないだろう。仮に私が今後急激に棋力が伸びたからといって、それ以上にあの二人が殿上人とも呼べる域まで達してしまったからだ。

 まぁ、そもそも殿上人という意味では、お父さんだってそうなのかもしれないけれど。私がちょっとした縁で二人と縁を結べた方が例外的なのだ。

 そして、今日は、割とどこかへふらついていることも多い、殿上人たるお父さんがいる日だった。

「女風呂の清掃は終わったのか」

「それは終わったよ。それより――」

 どうしよう。こんなこと、改めて聞いてしまってもいいのだろうか。でも、聞かないことには始まらない。

 だって、それは淡いながらも一度は思ったことなのだから。

「お父さん、私が八一くんと付き合いたいって言ってたら、どう反応した?」

 そこまで口にして初めて、お父さんが私の方へと振り向いた。

「――八一はそもそももう『あいつ』のものだろう。夏祭りの時に会った際の様子を飛鳥が見たまんまだとするならばそうじゃないかって、そう言ったのは飛鳥じゃないか」

「そうだけど、そうじゃなくて、これまでで、仮に何か――そう何かがあったとして」

 そう口にすると、お父さんは少しだけ顎に手を当てる。最近また伸ばされ始めた無精髭は、恐らく触るにあたってはそこまで心地のいいものではないだろう。

「んなもん反対するに決まってるだろう」

「――本当は?」

「誰があいつの嫁に行かせるか」

 即答だった。

「八一くんの弟子は?」

「嫁以上に認めねぇ!」

「その基準がわからないよっ!」

「お前あいつの弟子とか言ったらただの大奥にされるだけだぞ!? お前はそれでいいのかよ!」

「いやお父さんは八一くんをなんだと思ってるの!?」

「――ただの女こまし?」

 その答えに、思わずがっくりきてしまった。別にお父さんも本気で口にしているわけじゃないんだろうけど、それでもそう返されると、純粋に力が抜ける。

 まぁ、それは私が本気に見えないからなのだろう――と思ったのだけれど。

「んー、あー、えっとな、別に悪気があって言ってるわけじゃねぇんだ。そりゃ女こましとかは多少その気は、というのはちとあるけど」

「それは否定しないんだね……」

 まぁ、そりゃ私の知らない八一くんなんていっぱいあるとは思うけれど。だけど、私の知っている八一くんの範囲では、一面的にはただの同い年の男子だ。

「あいつの――八一の才能は、下手な奴が触れるもんじゃねぇんだ。悪いが、飛鳥程度の才だったら、顔見知りとかいうことを抜きにして勧めねぇ。お前だって、将棋を嫌いにはなりたくないんだろ? 下手にあいつに触れると劇薬過ぎて危ない」

 ただの同級生男子が劇薬だなんて。それだけ聞けば何を言っているんだとはなるのだけれど。でも、それが事実であろうことは、八一くん自身の成績が語らずとも示してくれている。

 昔はもう少し近かったような覚えがあるのに。八一くんがあいちゃんを初めて連れてきた時まではそこまでのことはなかったはずなのに。その姿が幻影となる前に、彼は伝説となってしまった。

「じゃぁ……お父さん以外の誰かに、私が弟子入りしたいって言ったら、誰ならいいの?」

 そして、私は彼が伝説となる直前まで振り飛車を教えていた、彼を伝説にした一因に改めて尋ねてみる。

「例えば、その、空先生とか」

「銀子か……まぁあいつなら駄目ではないが……その前に、あいつは弟子を取ろうとはしないだろ、今後も。というかそれこそ実質八一の弟子と変わらんな、それは」

 駄目元で聞いてみたけど、確かにそうだとは思う。空先生が誰か弟子を取ることはまずないだろう。なれるのならば……そりゃぁ、なりたいとは思うけれど。

「まぁお前は、仮に誰かに弟子入りしたいというなら、悪いことは言わないから俺にしろ。俺より振り飛車メインで教えられる奴はそうそういないし――というか飛鳥、お前がやりたいのは将棋というより振り飛車だろ?」

「それは……そうだけど」

「んー、これを俺が言っていいのかは悩むんだけどなぁ……」

 ガシガシとかいて、お父さんの頭のハネが広がる。あぁやって頭を掻くと結構髪の毛が散るから、また後であそこは掃除しとかなきゃなぁ。

「飛鳥、お前が一旦覚えるべきは居飛車だ」

 割と意外な言葉が、それこそ振り飛車の如く飛んできた。

「当たり前だが、別に振り飛車をやめろってわけじゃねーよ。ただ飛鳥、お前指導も出来るようになりたいって前に言ってたよな? だったら、せめて居飛車のイロハのイぐらいは覚えろ。そうじゃねーとその不格好な振り飛車は直せねーからな」

「敵を知れば……って奴?」

「まぁその通りだな。元々振り飛車なんてのは、居飛車あってこそな側面も大きいからな。振り飛車しか覚えなければ、悲しいかな、振り飛車党より数が多い居飛車党には対抗できねぇ。だから、まずは居飛車のイロハのハまでは覚えろ。そして、そこから振り飛車イロハのロ以降を覚えるんだ。そうしないと太刀打ちが出来ん。八一だってそのために俺に振り飛車を教わりに来たんだからな」

 そういえばそうだった。あの時、八一くんとあいちゃんがやってきたのはいつ以来だったか。あいちゃんはともかく、八一くんとも少なくとも数年振りの出逢いでびっくりしたけど、それからは暫くはよく来てくれたっけ。そしてそれ以来、昔よりは話す機会も増えたと思う。

 それはそれとして、私にとって振り飛車は道だと思うし、ならば居飛車はその行く道をとうせんぼする邪魔者だ。居飛車党である八一くんも敵だと思ったことは確かにある。実際そうかはともかく、邪魔だ敵だと思うなら、まずはその相手をよく知ることが先決で、そういう意味ではお父さんの言うことは理に適っている。

「女流棋士は目指して……ないんだよな?」

「うん、私にはそこまでのことも出来ないだろうから」

「どうかな、親の贔屓目もあるだろうけど、全てを投げ捨てでもすれば、それくらいはなれるようにも思えるのは正直なところなんだけどな。まぁ、なったところで絶望が待ってるとも言えるんだが……」

「それは……そうだろうね」

 そして、私はその片鱗に既に触れている。その才覚に触れたのは最近の事だ。

 空先生のことじゃない。空先生は元からお父さんの寵愛をも受けて、男性ばかりのプロに飛び込めるだけの才覚を身に着けてる人。だから、『女流棋士』という枠からは、空先生だけは反対方向に埒外の存在だった。

 雛鶴あいちゃん。私より七つも年下で、私なんかより何倍も可愛らしくて、料理も上手くて――そして、八一くんの内弟子。

 私が今の、いや一年前に出会った際のあいちゃんと同じ歳だった頃、何をしていただろう。確かに家の関係で今と同様に将棋を常に触れられる環境にはいた。そして八一くんとも出会っていた。

 だから、私が早い段階で、遅くとも八一くんの将棋の才覚に触れてすぐぐらいまでに、お父さんに本気で教わりたいとでも言えば、それこそ教えてくれていたのかもしれない。それが出来ていない時点で、正直そういう道へ進むことは諦めている。

 なんとなく、私が女流棋士として活躍する姿を夢想してみた。仮になれたとするならば、どんな感じになっているだろう。

 振り飛車を振り回す女流棋士、という感じでデビューをして。それで格上の人にも割と当たって。その上で――。

 ――あぁ、駄目だ。やっぱり、私は女流棋士として『負ける姿しか想像出来ない』。必至の状況で、落ち着いて盤面を眺めて、一口だけ脇に置いておいた水を口に含んで。そして他の誰よりも繰り返すであろう言葉を、この時も口にするんだ。

「負けました、って言ってる図しか浮かばないなぁ……」

 こうしてみると、やっぱり空先生はすごいなぁって思う。それを言う機会が殆どない。勿論、公式戦以外の男性棋士と当たった際だとかで言う機会もあるだろうとはいえ、公式で言う機会がないというのは、純粋な強さの証だ。

「お父さん、私って、負けず嫌いに見える?」

「見えるな。だからこそ勧めないというのはある」

「――そっか」

 私は、それを否定も肯定もしない。言っちゃなんだが、お父さんの考えを自分の選択の一要素とはしない。あくまで私が自分で考え自分で選んだ道を進むつもりでいる。

 ――そして、その中に女流棋士は含まれていない。私が検討して、私がその道を消した。

 お父さんは、私のことを案じてくれてるんだよね。それは痛いほどわかるよ。それだけは、ちゃんと理解してるから。

 だけど、本当は将棋を生業にすることもやめてほしいんだろうね。でも、それは出来ない相談だ。既に私は将棋連盟関係の職員募集の資料を取り寄せている。

 その内喧嘩になるだろう。だけど、それだけは、私が作りたい道だから、意地でも押し通すつもりだ。私が考えている振り飛車の、その進路を開けるかのように。

 そしてお父さんは、話は終わったと察するが早いか、私が来るまで吸っていたのとは別の煙草に手を付けていた。煙がゆらめいて、そして天井へと吸着するように溶けていく。

 

 その数日後、空先生がプロに昇格したとの報が流れてきた。9月2日のことだった。

 尊敬する人が本懐を成し遂げた。それは間違いなく嬉しいことのはずで、なのに私はなんの感情も抱けなかった。

 確かにそれは、私にとってはどこか遠い出来事だ。私には、到底手の届かないものだって、わかっているのだから。

 

 

 

 

 

 空先生のプロ入りが決まって二ヶ月は経った。それは、少しばかり暖かい小春日和だったある日のこと。

 ゴキゲンの湯には、意外な来客がいた。

「あれ、あいちゃん?」

「――こんにちはです」

 荷物は特段持っていなくて、だけどどことなくそれ以上にあいちゃんの顔から意図的に表情を落としているような雰囲気が、何かあったことを窺わせる。

「えっと、一人だけ?」

「そうです」

「道場?」

「えっと、そうではなくて」

 なんだろう、という疑問は、私が尋ねるより先に解消された。

「お風呂、いいですか」

 今は、まだ開けるような時間ではない。開いてはいるのだけれど、道場で将棋を指しに来た人以外はまだ誰もいないし、女風呂にはまだ誰かがいるような時間ではなかった。

 だけど、わざわざ今あいちゃんが来たことに、それに私はただならぬものを感じて。

「ちょっとだけ待っててくれる?」

 だから私は、お父さんに本来の仕事をさせにいくことを最初にする。

「お父さん! 番台暫くお任せ出来ない!?」

「なんだ藪から棒に。今はいいが……どうした?」

「ちょっとお風呂入ってる!」

「いや突然どうした?」

「あいちゃんが来てる!」

「ほぅ。じゃぁ道場に迎え入れないといけないのか?」

「いや道場は関係ないって! 多分私を訪ねに来てるから、ちょっと話聞いてくる!」

 あとの返事は聞かなかった。私がいないとなればあとはやってくれるだろう。ピアノ弾いてるっぽかったから、指導してて手が離せないということもないだろうし。

「お待たせ。それじゃ行こうか」

「行くって……どこにですか?」

「私も一緒に入るよ。あいちゃん、どこか話を聞いて欲しそうだったから」

 

 午前の銭湯は、基本的に人がいない。だから割と掃除をしていることも多い時間だし、うちも本来開けてはいないなのだけど、今日は済ませた直後だったから、あいちゃんを問題なく向かい入れることが出来た。

「はい。一番風呂だから、きれいだと思うよ」

 そしてお互いにかけ湯だけして、そのまま湯を張った浴槽に身を沈める。

「やっぱり、大きいお風呂は落ち着きますねぇ……」

 どことなく延びた語尾が、あいちゃんも落ち着いているということを暗に示していた。

「やっぱり、八一くんの家のお風呂は狭いってなる?」

「今はおじいちゃんせんせーの家にいたのですが……でも、これだけ大きいお風呂ということはやはりないので、やっぱり落ち着きますね」

「あっ、ごめん……八一くんと何かあったの? 聞いていいのかわからないけれど」

「いえ、師匠が忙しい時とかはよくあったので、それ自体は特別なことではなかったのです」

 聞けば、八一くんがタイトル戦で全国を飛び回っている時などにはよくあるとのことだった。私も、お父さんがタイトル挑戦の際など同様の事例はよくあるから、状況はよく理解できる。

 こうして見ると、私はあいちゃんのことを全然知らないなとなった。八一くんのことでさえそんなに知っていることは少ないのだから当たり前ではあるのだけれど。

 温泉旅館の一人娘だから、大きいお風呂は入り慣れているだろう。逆に、八一くんのとこへ押しかけてきてからの方が、狭いお風呂で窮屈だったかもしれない。あと独学で将棋を学んで、詰将棋は八一くんとかお父さんとかよりもすごい。脳内将棋盤は『引き出し』の中にあるのも合わせると十一面もあって、それを難なく操っている。あとは――女流タイトルを取れそうな程将棋が強い。

 本当に、それくらいだ。私が作ったとん平焼きをおいしそうに食べてくれるだとか、付け加えるにしてもそれくらい。

 そして、私は八一くんのことをどれだけこの子より知っているのだろう。あいちゃんが知らない八一くんの姿――あ、そうだ。

「八一くんはね、小さい時にね、銭湯の番頭になりたいって言ってたことがあってね?」

 これは、八一くんが私には話してくれたことだ。もしかしたらあいちゃんには話してるかもしれないけれど、こういうのは話してなさそうな気がする。

「そうしたら、それこそお父さんに弟子入りしたとかあったのかなぁ? 流石に今からなるとは言わないとは思うんだけど、でも子供にしては渋い夢だったよなぁって、話聞いて思ったんだ」

 本当は、『女の人の裸が見放題だから』という理由だったのは、八一くんの名誉のために伏せておく。

「どうせ師匠のことですから、女の人の裸が見放題っていう理由なんだと思うんですけど」

「っ!? そんなことなかったと思うけどな!?」

「やっぱりそうなんですね……だらぶち……」

 ごめん八一くん、隠し事は守れませんでした。まぁ正直、『将来の夢』と題した作文をお父さんに見せるために持ってきたというのを横から見せてもらって、当時私も引いた覚えがあるのでどの道ではあるんだけれど。

 さて、空気が弛緩しただろうか。それとも、変な方向に持ってっちゃっただろうか。ええい、まずは話を始めないと始まらない。

「それで……やっぱり、八一くんのことかな」

 あいちゃんがここに来る時は、これまで必ず八一くんと一緒だった。あとは、八一くんが単独か、空先生単独か、八一くんと空先生が一緒に来るか。

 それを、一人でわざわざ、それもお父さんを訪ねに来たわけでもないというのはよっぽどだ。八一くんに隠し通したかったか、そういう理由しか浮かばない。

「お礼を、言いたかったんです」

 だけどあいちゃんは、考え得る方向性とはまた別の方角からの言葉を発した。このタイミングで、そういう言葉が出てくる状況って、まさかとは思うけど、だとしてもまずその前に。

「私なんかに、何かあったっけ?」

「いえ、なんというか……飛鳥さんを含めて皆さんに、ということなのですが」

「というと?」

 条件反射で私が尋ねると、少しばかりあいちゃんが遠い目をしてお風呂場の中を見渡す。

 やがて、何かを決心したかのように、瞳に強い力を込めて、そうやって私の方を向いて。

「――お世話になりました」

 そう、口にしたのであった。

「えっと、何か特別にお礼をされることをした覚えはないんだけど……」

「お別れを飛鳥さんにはお伝えしたいな、と思って」

 その一言に、思わずフリーズする。

「私、東京に出ます。東京で、将棋を指します」

 やっぱり、そういうことなのか。だけど、理由なんてないだろうにと思って。それでも、あいちゃんの瞳の強さは変わらなくて。

 やがて、あいちゃんはぽつぽつと語り始める。曰く、空先生が療養に入ったことが一番の理由だからと。曰く、その状態で私が傍にいるのがフェアじゃないからということ。曰く、本気で八一くんのことを好きになってしまったからが故に距離を置きたいという事。曰く、そうしないとこれ以上強くなれないからということ。そして、いつかは大阪に『帰ってくる』ということまで。

「――それを、八一くんには伝えられてないんだよね?」

「はい……」

 そうだろうな、と思った。あいちゃんだから、あいちゃんだからこそ、八一くんには自分からそんなことは伝えられない。

「無理に伝えなくてもいいと思うよ」

「それで……いいんでしょうか……」

「うん。お世話になりましたということだけを、ね。それ以外は無理にはさ」

 理由は、きっと伝えたところで八一くんを余計に苦しめるだけだ。だったら、まだ事実だけを伝えた方が、双方の傷は浅くて済む。

「それで、これから八一くんのところへ行くんだよね?」

「はい……。お風呂あがって、準備が整ったら、そのまま……」

 その時、ふとあいちゃんが何かに気付いたかのように顔を上げた。

「あの……飛鳥さんは、反対とかしないんですか……?」

「私? どうして?」

 そこでどうして私に振られるのだろう。だって私はあくまであいちゃんと付き合いがあるだけの一般人だ。

「私に何か言う権利はないよ。だって、八一くんのためというのもあるんだろうけど、一番はあいちゃん自身の将棋のためでしょ? だったら、それのためにかくあるべきとあいちゃんが考えたのなら、私に止める権利はないかな。それが出来るのは八一くんだけだよ、あいちゃんの師匠としてね」

 だから、私は何も言わない。余計な感情も込めてはいけない。

「寧ろ、他の人には反対されたの?」

「はい……いっぱいされました……おじいちゃんせんせーにも、桂香さんにも、他にもいっぱい……。それでも、やりたいこと、したいこと、やるべきことを順序通り伝えて、初めて認めてもらったようなものです。だというのに、これでいいのか、まだ私自身不安で仕方なくて……」

 そりゃそうだろう。というより、本来小学生がするような決断じゃない。理由も、動機も、求められる結果も。全て、あいちゃんじゃないと求められるものではなくて、そしてあいちゃんは立派にそれを遂行していっている。

 だから、なんというか、あいちゃんは私よりも大人だ。それは、きっと胸を張っていいだろう。それが幸せに直結なんてしていないけれど、それだけは思い込まないとやっていられないと思う。

 せめて、私も体ぐらいは洗おう。さっきから、気持ちの上で何かがこびりついている感触が抜けない。お湯に入っていたはずなのに、それは寧ろ付着して、そして取れてくれない。

 私も、あいちゃんに『当てられた』のだろうか。別にあいちゃんのせいにするつもりはないけれど、私は私で、少しもやっとした気持ちがあることに気付いてしまった。

 そして、その当の大人は。

「大丈夫……大丈夫だもん……あい、そうするって、決めたんだもん……」

 譫言を繰り返しながら、別れを惜しむかのように、もしくはこの後訪れる自身の師匠との対面にも備えて、いつまでもお湯から出ようとしなかった。

 

 

 

 

 

 年が明けて暫くして、そろそろ今の生活の終わりも近づいてきた。ある人は受験を目前にして、ある人は就職を目前にして、様々な感情が飛び交う今だけの季節が目の前に迫っている。

 ではあるのだけれど、今日の私はお父さんの代わりの使いっ走りだ。将棋会館まで、お父さんの忘れ物を取ってきてほしいと。だけどお父さんは棋戦で遠征中だから、私に取ってきてほしいと。

 私が必要なものだったから、連絡を入れて、回収してというのはすぐ終わった。往復の交通費は後でお父さんに請求するつもりだ。ついでに将棋会館の人に私の顔を覚えてもらえる。

 どうせなら梅田が近いのだし、少しばかりショッピングをしてもいいのかもしれない。試験は近いけれど、多少の息抜きぐらいは許されるだろう。

 そう思って、福島から少し南側を経由して歩いて行った先に、解体中のアパートと。

「――あれ?」

 そして、その現場を眺めるようにして立っている八一くんがいた。

「――あ、飛鳥ちゃんか。珍しいね、こんなところに」

「あぁ、将棋会館にお父さんの忘れ物取りに行って、ついでに梅田に寄るだけなんだけ、ど……」

 その時になって初めて、私は八一くんの顔を見た。ぎょっとはしなかったけれど、それはまるで長い対局を経て負けたような疲れた顔だった。

 憔悴した跡のようなものが残っていて、それでいて落ち着いているような雰囲気が未だに見られない。そして、わざわざ解体されているアパートを眺めている時点で、まともな状態でないことは丸わかりだった。

「ここさ、築何年だったっけなぁ、だいぶ経ってた建物だったんだけど、建て替えることになってさ。建て直されれば、またここに住むことになると思うよ」

「八一くんは……今はどこに?」

「今は、師匠の家に一旦いる。でも、早めに一旦また出てくことになるさ。数ヶ月の話にはならないだろうから、まぁ……いつまで続くかな」

 いつまで、という言葉に、今の八一くんの心情が見て取れた。きっと八一くんは長いトンネルにいて、そしてそこから抜け出す術をまだ持っていない。

 いつまでこうなのだろうと。いつか元通りになることを願っているのだろうけれど、きっと全く同じ姿にもなりようがなくて。

 空先生が療養に入って。あいちゃんが大阪から去って。確かに聞くところも含めれば、八一くんの周りから人がいなくなっていっている。棋士という孤独な戦いを求められる状況で、周囲の人もいなくなるというのがどれだけ負担か。

 だけど、それなら。

「空先生には……会いに行かないの?」

「知らないんだよ」

 思わず、えっ、と口から漏れる。

「銀k……姉弟子が今いるところ、全く知らないんだ。電話も解約したのか不通で連絡も取れない。誰に聞いても今いる場所を教えてくれない。こちらからは打つ手なしだ。だから、俺は待つことしか出来ない、出来ないんだ……」

「それは……」

 それは、確かに。八一くんの重しとなるには十分だ。

 あの夏祭りの後、どのようになっているかは正直知らない。だけどあれは、遅かれ早かれ一歩前進する、その直前の図だったから。そんな相手と音信不通というのは、気を揉むでは済まないだろう。

「まぁ……そりゃ、新たな関係も出来つつあるんだけどさ」

 それでも、八一くんは、私が知らない、ただ私が疎いだけの、思ってもみなかった展開を口にする。

「天衣……飛鳥ちゃんは会ったことないかな、あいと同い年の別の弟子がいるんだけど、そいつが内弟子になるって言って、今準備してるっていうんだ。あいがいなくなった穴を埋めるように、一緒に暮らそうって言っててさ……」

 ――なんだ。やっぱり、ちゃんと心配してくれてる人はいたんじゃん。

 少しだけ悪態をつきたくなった。それでも、それはあくまでも、八一くんがこれまで積み上げてきた人徳によるもので、そしてそういうものは得てして目には見えないものだ。

 それなのに、八一くんは、私の、誰かの期待を裏切るようなことを口にする。

「俺……恵まれすぎてたのかなぁ……」

「そんなことないよ!」

 それは、速攻で否定されるべき事柄だ。幾らその中に私を含んでよ、だとか、そういうことを抜きにして、『外野として』見てても、それは違うと断言できる。

「八一くんは……ううん、八一くんだからかな、本当ならもっと……」

 もっと、なんだろう。それ以上は、自分でも言葉にならなかった。多分勢いでだから、私自身でもわかっていない。

「とにかく、八一くんは人にはかなり恵まれてる方だと思う。八一くんを裏切るような人も、私の知る限りだと全然いない。そしてみんな自分の考えがあって動いてるけど、ちゃんと八一くんの元へと帰ってきている。だから、心配する必要なんて、ないと思うよ」

 そう、八一くんの元には人が集まる。自分から押しかけたあいちゃんを筆頭に、様々な人が八一くんのためを思って動いてくれている。一見して離れるような事柄があったとしても、やがては八一くんの元へと誰もが回帰していくのだと、傍から見ていて思う。

 そして、そこに私はいないんだ。私では、八一くんを支えられるような器にはなれない。何より、八一くんのもう一人のお弟子さんが何かをするというのなら、私が介入する余地も初めから残されていない。

「だから……気にしすぎる方が毒だよ、とは他の人も言ってるとは思うけど……」

「……まぁ、そうだな」

 ドラマのヒロインとかだったら、ここで抱き締めでもすれば、何かが変わるのかもしれない。それは八一くんのためにも私のためにもなって、そしてそこから物語が動き出すのだと、その視聴者だけが知っている。

 だけど私は傍観者にしかなれなくて、そして傍観者を選んで。一歩を踏み出す勇気はあっても、二歩目以上を行く勇気は持ち合わせていなかった。そして踏み出すチャンスは終ぞ失われた。

 私なんかじゃ八一くんには不釣り合いだ。空先生には八一くんがぴったりだ。八一くんには、空先生が相応しい。あいちゃんには口が裂けても言えないけれど、八一くんが好きな人は、空先生であるべきだと、私はそう思う。

 ――じゃぁ、二歩目を踏み出す勇気のない私にとって相応しい人は、一体誰なんだろう……。

「ごめん、そろそろ戻るよ。将棋会館で人を待たせてて、もうすぐ時間だからね」

 そして、八一くんは、そんな私を気にも留めることはなく。

「うん、頑張ってね」

 八一くんは八一くんがやれることをやるだけで、そしてその中に私の行く末の心配は入っていない。

 本来だったら、私なんて八一くんとは道が交わりもしないような存在で。だけど、たまたま縁があったから話が出来るだけだ。

 だから、私はここで見送るしかない。竜王戦の必勝祈願と、彼自身の身の回りがまたいつか良いものになるようにと。

 そして、私は。素直にあなたの幸せを祈りましょう。そして私は私自身の気持ちを隠す。

「あ、あの!」

 だけど、最後に、一つだけお願いをさせてもらえるとするならば。

「また、お風呂入りに来てね……?」

「――それは、約束するよ」

 それだけを口にして、八一くんは去っていった。そして置いてかれる私は、その裏で、自身の気持ちに、無感情に別れを告げている。

 私独り残された工事現場は、とても静かだった。ガコンガコン動く重機の音と、崩れるアパートの音を取り除けば、この場に於ける音はきっと私の吐息だけで、それだけで世界に取り残されたような心地を覚える。

 重機のショベルが建物に当たって、建物の一角が崩れた。粉塵飛散防止のための放水が行われて、立ち上ろうとしていた煙が押さえつけられる。

 お父さんが吸う煙草の煙も、押さえつけたらこうなるのだろうか。それは、少しだけ私の心の内にも似ていた。

 私も、この場から離れよう。アパートが解体されて、きっと八一くんの私に関する思い出も一緒に藻屑にもなっただろうから。

 ここから先、私と彼の人生は交わるのだろうか。交わらないとするならば、この鈍い感情を抱えたままなのはきっとよくないことで、だけどそれは自分だけでどうにか出来るものでもないんだ。

 結局、全てはあの夏祭りの日の夕立が洗い流していったのだ。祭りの喧騒も、熱気も、私の憧憬にも似た恋心も。止んだ後、蒸発して空に還る雨粒と共に。

 それでも、どこかで棘が一本だけ抜けない。自分では抜けないそれは、外圧によってでないと抜けなくて、そしてその日はきっと永劫に来ないのだろう。せめて、表層的に、見えるところだけでも雨が削り落としてくれますようにと。

 だから、どうか、明日も。

「――さようなら」

 明日もどうか、夕立が洗い流してくれますように。



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