藍が紫に『詩菜からの伝言』を伝えて紫が行動を開始すると同時に、誰が誰に伝えたのかも分からないままに、一日も経たずに山の天狗達には、詩菜の脱走のニュースが駆け巡っていた。
曰く《八雲家に対する反乱》、曰く《外の世界で大暴れをする》などなど、噂に尾ひれはどんどんついていっていく。
哨戒任務も上の空で遂行し、ペアで行動しようものならずっと話し合ってばかりである。
紫が彼女に関する情報を集めようと動けば、何処からともなく情報が集まってくる。
彼女は人と人が話している情報をスキマ越しに聞くだけにも関わらず、狙ったかのようなタイミングで会話が始まり、そして藍から聴いた通りの内容を含んだ会話が始まる。
……そう。これが藍が聴いた、『話さなくとも伝える準備』という奴なのね……?
「……」
紫がそう理解している間にも、彼女の作戦によって混乱してデマを流しているかのように噂は広がっていく。
その中でも、そんな噂やホラ話に惑わされずに行動する者は居る。
詩菜から直接説明された者。それと言われずとも理解している者達だ。
山の中でも抜きん出て大きな建物の一つ。その中に惑わされていない者の代表とも言える、天魔と射命丸文が居た。
「みんな、騒がしいですね」
「そうじゃな。消えたり出て行ったり、唐突に姿を眩ませる事は何時ぞやにもあったじゃろうに」
「まぁ、お騒がしを起こすのもある意味彼女らしいですけど……」
「……奴は我々を引っ掻き廻す。いつもの事じゃ」
大ニュースに踊らされて注意がおろそかになった者が増えていく中、惑わされずに動く者達は妖怪の山の中でも確かに居た。
昼過ぎになり、鬼の大将二人が天魔の元へ訪れた。その頃には文は職務を終えてまた別の所に行っていた。
ようやく鬼達に詩菜脱走のニュースが伝わったらしく、勇儀と萃香が天魔の元へとやってきた。
特に勇儀の顔には、憤怒の感情がチラチラと見える。
「天魔、例の噂は本当なのか?」
「本当じゃよ。詩菜の話じゃろう?」
「へぇ! 遂にやったのか」
「……萃香殿がどんな噂を聴いたのかは知らぬが、事実として儂が認識しておるのは『幻想郷設立を手伝い、八雲一家から逃げ出した』というものじゃぞ?」
「いや、私の持ってる確かと言える情報もそんなもんだよ? でも噂通りでもアイツなら出来そうな気もするけどねぇ」
「……」
楽しげに笑う萃香と、それとは全く違って表情を動かさない勇儀。
仕事をしながらも、それを横目で見る天魔の額に、汗が一滴流れ落ちた。
これは、この場で争いが起きるかもしれぬ。と。
儂の仕事場が……壊滅するやも……?
そこまで考えた所で、滝のように冷や汗を流している天魔に小さな声が掛けられた。
勇儀に聴こえてもおかしくはない位置取りだが、決して彼女には聞こえないであろう声。
「大丈夫だよ。勇儀は確かに詩菜に怒っているけど、本人が居ないこの場で八つ当たりするほど酷くはないさ」
「!」
振り向けば萃香がニマニマと笑っている。
声からして彼女だろうと思ってはいたが、どうやら彼女も勇儀の状況に関して思うところがあったようだ。
「詩菜がいつか長い旅に出るだろうって事は考えれば分かる事だろうとは思うけどねぇ。やっぱり勇儀は力だけに頼り過ぎなんだよ。技術とか知識が伴ってないんだから」
「まぁ、前の争いの時から詩菜がなにか行動を起こすだろうってのは予想出来ていたし、だから私も勇儀にあれから遭わないようにしようって言っておいたんだ」
「向こうからの索敵を私の能力で完全に拒む事は出来ないって思っていたけど……詩菜の奴もこっちを探そうとしなかった」
「これも勇儀は何やら気に喰わなかったようでねぇ……二人が対面するとなるとどんな事が起きるやら」
喋れば勇儀がこちらに気付いてしまう中、天魔の耳元で一方的に萃香の声が響く。
どうやら能力で分裂した、小さい萃香が天魔の耳に向かって話しているらしく、もう一方の等身大の萃香もなにか別の事────詩菜とは全く関係のない事を話している。
気を逸らそうとしてくれているのはありがたい。
けれども、勇儀はやはり何か伝えたいというか、詩菜に何かを伝えたかったのではないか。
彼女の顔を見ていると、そう天魔は思ってしまう。
結局、彼女等がする噂や話等を聴きながら、その日は終わっていった。
いつもならば、このまま妖怪の種族等問わずに宴会になったりするのだが、勇儀は何も言わずに去っていった。
最後に萃香と地下への移動に関する話し合いを終えて、今日の天魔の職務は終わった。
仕事も終わり、仕事相手とも別れて天魔が自宅に戻ると、
ゾクリ、と悪寒が背中に走った。
「ッッ!?」
瞬時に振り返り、全方位に注意を払う。同時に葉団扇を取り出し、臨戦態勢になる。
即座に思考を巡らして今の自分の現状と、相手側の思考を推し量ろうとする。
自宅前なので、家の中にいる妻達を呼べば大抵の妖怪は返り討ちには出来る。だがそうなると、戦闘に対してそれほど強くない妻達は、間違いなく怪我をしてしまう。それは出来る限り避けたい。
今この場は幻想郷の結界内で、妖怪の山という現在の幻想郷で最も勢力が大きいとも言える場だ。そこに押し入り、今その天狗の長の背後を突く者は一体どれほどの力量を持った者か。
……等と考えつつ警戒していると、目の前にスキマが開いた。
「あらら、流石天魔さんね。出る前に気付かれちゃうなんて」
「……紫殿か」
スキマが開くのを見て詩菜かも……と一瞬天魔は思ったが、中から現れた女性は八雲紫だった。
詩菜の存在確認をしに来た時とは違い、いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべて飄々とした態度をとっている。
いつも突然現れる彼女を見て、警戒を解き、葉団扇を懐に仕舞う。
先程の悪寒は紫の気配の所為か、と思い直して天魔は妖力を引っ込めた。
「どうしたのじゃ? いきなり待ち伏せのような事などしおって」
「ふふふ、いきなり本題に入らなくても良いのではなくて? 貴方のお家に入れてお茶を頂けたりはしてくれないのかしら?」
「……やれやれ。まぁ良いじゃろう」
彼女はいつもの『妖怪の賢者』に戻ったようだ。
と、天魔は内心ホッとしながら、自宅の中へ紫を招き入れた。
「……相変わらず、女性天狗には人気ねぇ。貴方」
「最近は詩菜の方が人気じゃったぞ?」
「……だからと言って、貴方みたいに妻を
今二人が居るのは、天魔の自宅にある居間の一つ。
紫が言ったのは、この居間に来る途中で擦れ違った何十人もの妻達の事である。
こう二人が向かい合って話している間にも、妻の一人が二人分のお茶を届けに来た。
「粗茶ですが。どうぞごゆるりと」
「ありがとう」
「おお雪江。すまぬな」
「いえいえ……詩菜さんの事で山の方も大変でしょうが、お身体にはお気を付けて下さいね?」
「ああ、分かっておるわい」
「……」
紫は、雪江と言うらしい天狗の女性が詩菜の話を普通に天魔と交わしたり、天魔自身が詩菜を話題に出す事に驚いていた。無論顔には一切を出さないが。
詩菜が幻想郷から逃げる、という事を
彩目の方も観察してみたが、それほど心配する様子もなくいつも通りの生活をしていた。
射命丸文の方は彼等と違って、こちらは周囲にも分かるほど今までとは違う行動をしている。こちらを監視していれば詩菜の行動も予想出来ていたかもしれないわね。
そう考えるも、もう過ぎ去った事。今更後悔しても遅いわ。と思い直す。
けれども、彼等の詩菜に対するその信頼は何なのだろうか……と、紫が考えていると、
「……無理をなさらないで下さいね」
「うむ」
「私達にとって……天魔様はたった一人なのですから……」
「ああ、有難う」
「……」
……なんか、天狗がイチャコラしていた。
「……もうちょっと濃いお茶はないかしら。渋いお茶とか、例えば、そう、塩とか」
「う……ゴホン……失礼した」
「……し、失礼しますっ!」
……なにかしら。この黒く憎い気持ち……詩菜ちゃんが言っていた『おのれりあ充』ってこういう気持ちなのかしら……ああ、何か納得してしまった……無駄に甘いのが、本当に腹が立つわ……一夫多妻制でよく彼女も着いていくわね……私だったら独占したいわ……妬ましいわ、あぁ妬ましい……。
「……紫殿? どうしたのじゃ?」
「いえいえ、なんでもないわよ?」
「……?」
少しばかり理性を失っていたかも知れないと自分を戒める紫。
「……それで、結局の所、何の用なんじゃ?」
「そうね……案外というか、思いの外貴方達は、詩菜が居なくなっても変化しないのね?」
「変化?」
「例えて言うなれば、彼女が居なくなっても通常営業なのかしら?」
「……余計解らなくなった様に感じるが……まぁ、そうじゃな……」
先程雪江とかいう天狗が出したお茶を飲んで、天魔が一息入れる。
それに合わせ、紫もお茶を飲んでみる。
感想としては……まぁ、不味くはないし普通とも思わない。というか普通に美味いお茶だった。
……まぁ、詩菜のように言うならばどうでもいい事ね。と思いつつ、お茶を卓袱台の上に置く。
「儂は、ふむ……言葉にし辛いのだが……詩菜を信じておらぬから、こう……平常心が保てている」
「……どういう事かしら?」
天魔の口から出たのは、予想とは正反対の言葉。
理解しようにも、言葉が足りない。
「いや、その……信じてはおるのだが……」
「はっきり物をおっしゃいなさい」
「お主にだけは言われたくないの……例え詩菜が何処かで死んだとしても、それはそれで……良いのじゃ」
「……」
「……我等妖怪が信じられていない『外の世界』……そのような場所で死ぬのなら、それは詩菜がそこまでの妖怪じゃった。という事なのじゃ。うむ」
ようやく自分の言いたい事が纏まってきたのか、自分で頷きながら話し始める天魔。
「初めて逢った時の、負ける直前に魅せたあの闘志がまだあるのなら……それは、それならば儂の思う『詩菜』『志鳴徒』は、この幻想郷に帰って来てくれるじゃろう」
「そう……結局、貴方も信じてるじゃない」
「……ふん」
照れたようにお茶を飲み、顔を隠す天魔。
それを見て、紫も一息を入れて立ち上がる。
「……なんじゃ、用とはそれだけの事じゃったのか?」
「そういうつもりでも無かったのだけれども、今の甘い話を聴いたらお腹が一杯になりましたわ。今日はここ等辺でお暇させて頂きます」
「……本当、何をしに来たのじゃお主は……」
「『まるで詩菜のようだ』……かしら?」
「……」
図星だったのか、口を閉じてもう一度お茶を啜ろうとするが、先程ので既に湯呑は空だったようだ。
それを素早く見抜き、フフフと含み笑いをしながら紫はスキマを開き、中へと消えていった。
対する天魔は、
「……ふん」
と、これまたいじけたように再度呟き、襖を開いて屋敷の奥へと消えていった。
紫はこれより、詩菜を追う事せずに、幻想郷の更なる発展と詩菜の言う『面白くない』部分への修正を行う事とした。