連続投稿。その五。
月日というモノは、あっという間に過ぎ去ってしまう。
それは人間だとしても妖怪だとしても、例え神様だろうと、決して変わらない事。
八月二十九日・午前三時
夏休みも残り数日となった、この草木も眠る丑三つ時。
守矢神社は、現代社会から姿を消す。
彼女達は、定時になった瞬間に動き出した。
藍は手早く結界を守矢神社の付近一帯に張り、外界から隔離した。
詩菜はその結界の中に居た邪魔者、つまり『無関係の人間』に次々と衝撃を喰らわせ、目撃者を昏倒させて消していく。
その間、守矢神社の面々は『向こう側』に持っていく物の確認など、内部の準備を着々と進めていく。
東風谷早苗にも、既に迷いはない。
高校生である彼女は、むしろ新たな地へ行く事を楽しみにしているかも知れない。
湖も含めた巨大な結界を張り終え、藍が一息吐いた処で、スキマを通り抜けた紫が現れた。
「結界も大丈夫そうね」
「ええ、今詩菜が確認しています」
昏倒した人間全てを纏めてスキマに放り込んだ詩菜は、藍が紫に話し掛けたのと同時に結界の確認を始めていた。
この現代社会では飛んでいる人間や妖怪などは存在しないに等しいので、言うなれば強度や穴が空いていないか等の確認は地上部分だけで良かったりする。つまり結界の確認は空を飛べない詩菜でも出来るのだ。
更に、今は真夜中である。
飛ぶ機械などは上空に居たとしても、騒音を出して人々に迷惑が懸からぬようにかなりの高度を維持している。
あの高度ならば、術式の影響が及ぶ範囲でもないし、結界に触れてしまうような高さでもないので大丈夫なのだ。
結界の円の内側を瞬く間に一周し、中央の守矢神社ヘと戻ってきた詩菜。
「大丈夫、結界に穴とかは無かったよ」
「そう。それじゃあ始めますわよ?」
紫がそう告げ、守矢の神々とその風祝に確認する。
詩菜とほぼ同じタイミングで準備を終えた彼女等は、緊張の面持ちで紫の問いに頷いた。
「ああ……」
「頼んだよ」
「お願いします」
それを聞いた紫と藍が術式を発動させる。
結界を呑み込む、巨大な境界の狭間を出現させる。
その間、詩菜は詩菜で神奈子・諏訪子・早苗を自身の開くスキマに避難させていく。
存在すらあやふやな神々を、神力の供給が途絶えるスキマ内に入れるのは少々不安になるが、それでも八雲一家の術式に弾き飛ばされてあっさり消滅してしまうよりも格段に安全だ。
避難させた詩菜は彼女等を隔離したスキマとはまた別に、新たなスキマを開いて飛び込んだ。
行き先は守矢神社の外、つまりは結界の外側に出たのだ。
守矢神社一帯を包む結界のお蔭で、中で何が起きているのかは全く見えない。そしてそれを隠している結界も見えない。
結果的に守矢神社があった場所は、結界の外から見ると『何も見えなくなっている』
何が起きているか理解している詩菜だけが、何か靄のようなモノが見えるだけで、その他の人間はその靄すら認識出来ないという結界。
藍も随分と成長したかなぁ、と何気に上目線から彼女を評価しつつ、結界を見守る詩菜。
何故詩菜が結界内に居て紫達を手伝わないのかというと、彼女はまだ幻想郷に行かないからである。
紫と藍は、自分達も共に守矢神社を送る事で、移動の際の失敗を未然に防ごうとしているのだ。
彼女等は安全性を高める為に、術式の中央に居る必要があったのだ。
逆にもし『彼』という存在が居なかったならば、紫と藍に加えて詩菜も混ざり、更に安全性を高めただろう。
しばらくして、守矢神社を包んでいた結界が消え失せると同時に靄も消え、後には何も残らない謎の空間だけが残った。
それを詩菜が確認すると同時に、紫からの念話が来た。
『終わったわ。土地の移動も彼女達の移動も成功したわ』
『そりゃ良かった』
『そうね……さぁ、次よ。心の準備は良いかしら?』
次は、『守矢の事を知っている人々』の処置だ。
『……おっけ、やるよ!』
『フフフ……ええ♪』
今度は守矢神社を移動させる時よりも、もっと広大な地域を結界で囲む。
これは藍ではなく、紫が張る事になっている。
結界の中心に近く、そして辺りを一望出来る高台に紫が居る筈である。
「……おお」
紫の強大な妖力が都市の中央から、山の方にあった守矢神社跡にまで響き渡る。
それはオーロラのように綺麗に広がっていき、結界へと変化していく。
しばしそれに見とれていた詩菜は、紫との待ち合わせを思い出して慌てて紫の元へと向かう。
この巨大な結界の範囲内で、いちいち人の確認をして気絶させていると夜が明けてしまう。
その為、詩菜は能力の《衝撃》を使い、一挙に気絶させる手筈だった。
遅れた詩菜が紫の元へと辿り着く頃には、既に結界が充分な強度となってから数分後だった。
「遅いわよ」
「っと、ごめん」
「ま、謝るのは後ね。早くしましょう」
「了解」
ちょっとした問答ののち、今度は詩菜を基点とした術式が発動する。
彼女等がいるのは、この市・県を代表しているテレビ塔。その屋上だ。
見渡せばオーロラに囲まれ、星屑のような街の明かりが辺りに広がっている。一歩でも踏み出せば地面まで真っ逆さまだが。
今この街には、何万人もの人々が居る。
それら全てを気絶させるには、詩菜も全力で《衝撃》を飛ばさなければならない。
「はい、《衝撃》を受けにくくしたよ。気分はどう?」
「……何か、冷静にさせられている感じね」
「まぁ、紫の能力とかもあるから、ちょいと引っ掛かりが弱いかもね。本気で掛けてそれなんだし」
「……大丈夫よね?」
「私自身が紫を避けるように発するから大丈夫」
「そう……任せるわよ?」
「あいよ」
紫に、もしもの事が起きた時の為に、防御の術式を掛ける。
これは詩菜の発する《衝撃》を無効、若しくは軽減する術式で……つまりはそれほどの威力を持つ《衝撃》を詩菜は放つ。という事である。
紫が衝撃波の邪魔にならぬよう、詩菜の上空に退避したのを見届けて、準備が完了した。
「……行くよ」
「ええ」
まず、柏手で空間を圧縮する。
この空間圧縮、『緋色玉』も実は久方ぶりだったりするが、他に広範囲での術式を使える者が居ない為に、詩菜がやる事となった。
圧縮した空間は妖力や神力で封印がされ、詩菜の右手にビー玉ほどの大きさとなった。
それを神力を籠めた両手で、もう一度柏手で思いっきり握り潰す。
もう一度、その封印がされた緋色玉ごと、更に空間を潰す。
「ッッ!!」
「……」
紫が慌てる気配を詩菜が感じ取ったが、それを確認する余裕は今の彼女にはない。
握り潰した空間が元に戻ろうとする威力は、能力を持つ詩菜ですら完全には操りきれない程の衝撃となっており、今は両手で押し留めているが、いつ詩菜の両手が吹き飛ばされてもおかしくない状況だった。
「……ッ、ふっ!!」
息を吐くと同時に前へ脚を踏み出し、建物の上に建っているアンテナから飛び降りる。
身体を反転させ、頭を下に足を上にして、両手を真っ直ぐ地面に伸ばして落下していく詩菜。
端から見れば自殺行為のなにものでもないこの行動。しかし詩菜は確信を持って行動し、もしかしたら死ぬかもなんて一つも考えてなどおらず、
また実際に死ぬ所か怪我一つせず、
音もなく地面に手を打ち付けた姿勢で、詩菜の落下は止まった。
詩菜の体重とそれによる落下速度、位置エネルギーやら運動エネルギーやらにプラスされた二度の空間圧縮『緋色玉』は、地面に衝突すると同時に放射状、円を描くように地面を広がっていった。
紫からは、詩菜が着弾した地点から詩菜の瞳の色のような暗い緋色が、円形に広がっていくのが行くのが見えた。
地面を伝っていく衝撃波。
それに一番早く触れてしまったのは、ちょうど曲がり角を折れて詩菜達が居るテレビ局に向かっていた中年男性だった。
声にならない叫び声をあげて、その中年男性は泡を口から吐き出しながら、そのまま崩れ倒れた。
眼と口を開き切ったまま倒れているので、一見すると心臓発作でも起こして死んでいるのかと思う程だ。
「……流石ね」
衝撃波は地面を伝っていくが、当然その途中にはビルや地下道などが存在している。
しかし詩菜は《衝撃というモノは物を伝って何処までも広がっていくモノ》と考えており、その考えによって能力から出た衝撃は何処までも延びていき、ビルを回り込んで死角を無くす程の衝撃となっている。
詩菜の発する《衝撃波》は、元々が《人捜し》の術式で彩目を捜す為の術式だった。
しかし今では威力が格段に倍増され、対人間用の殲滅兵器と化している。
飛んでいった衝撃は歩いている人や、部屋で寝転がりながらパソコンをしている人に直撃し、衝撃に触れていく度にどんどん人は気絶していく。
人に波が直撃すれば、更にその人から新たな波が生まれ、その波が新たな人に直撃する。
そうして広がっていく波は、結界で囲まれた地域内にいる人々の意識を次々と刈り取っていった。
「……よし」
「……終わった、のかしら?」
「終わったよ。これでまだ意識があるとするのなら、それは人外か能力者かだね」
衝撃波は勢い良く広がり、あっという間に結界まで辿り着き、詩菜の元へと反射して戻って来た。
紫が地上にいる詩菜の元へと降りてきたのは、上空から見てこの街の何処にも緋色の波が見えなくなったからだ。
「……んじゃ、今日一番の大仕事をやりますか」
「気楽ねぇ。不安とかは無いのかしら?」
「……そりゃあ、あるっちゃあるけど、そんな深く考えても仕方ないでしょ。それに気楽でも何でもない」
「そう……」
戯れ言を交わし、スキマに入っていく詩菜。
それと入れ違いに、虚空にいきなり出現したスキマ。中からは藍が出てきた。
「守矢神社を予定通りの位置に配置してきました」
「そう。次の術式に移るわよ」
労いの言葉も無しに、紫は藍を駆り立てる。
その前に、藍には一つ訊きたい事があった。
「……すみません紫様。どうして守矢神社に『あのような所しかない』と紹介なされたんですか? 他にもあったと思うのですが?」
「ふむ、貴女はどうして私がそれをしなかったと考えているのかしら?」
「……正直な事を言いますと分かりません。しかし守矢の持つ力は強大で、幻想郷の力関係を変えるかも知れない……」
「続けて」
「……その強大な力は、神々と一人の人間で出来ています。それを……『妖怪の山』に移すのは……」
「ふふふ、彼女等には、幻想郷に慣れるという意味と、上下関係というモノを覚えていただかないといけないもの、ね?」
笑みを扇子で隠し、一体何を何処まで考えているのか、藍には全く解らない。
ただ、あの巫女や魔法使いがまた出てくるのか。という事は理解した。
「さ、やりましょう。あまり詩菜ちゃんを待たすと怒られてしまうわ」
「……」
ついでに言うならば、紫様と詩菜のこの関係も、藍には良く解らなかったりした。
▼▼▼▼▼▼
ここは『彼』の部屋。
ベッドの上には、意識のない『彼』が倒れている。
「……お別れだね」
紫達が画策している術式は『一定範囲の対象者を別次元の同じ魂を持つ対象者と交換する』というモノ。
別次元に行ってしまえば、前みたいに逢えるとは決して言えなくなる。
それならば寧ろ、『逢えない』と言った方が気が楽だ。と考える詩菜。
格好つけの手紙は、既に『彼』のパジャマのズボンのポケットに入れてある。
「……ま、意識なんてないから、聴こえてる筈がないんだけどね……」
「……」
「楽しかったよ。一緒に過ごしたのはたった一ヶ月半ぐらいだけど、本当に逢えて良かったって思えて満足出来るくらい、楽しかった」
「……」
「冗談というか何て言うか、下らない罵詈雑言を互いに浴びせ続けてさ」
「……」
「……本音を隠す事なく言える相手っていうのは、中々居ないよね。私は結構物事をズバズバ言っちゃう性格だけどさ……」
「……」
「……なんだ。私もなんやかんや言ってて、結局の処、やっぱりキミに惚れてたのかな? ……ま、悪い気はしないかな? ふふふ」
「……」
「ありがとうね。私の為に色々と付き合ってくれて。私が来なければ普通の生活をしていただろうに」
「……」
「……こんな、馬鹿みたいなあり得ない空想の『妖怪』なんかに出逢わない、平和でのんびりとした生活をさ……」
「……」
「……ホント、初めは捲き込まないつもりだったのに、さ……」
「……」
「……」
「……」
「さて……後悔するのは止めだ。何はともあれ、今は目先の事に集中すべし、だ」
そう言った所で、紫と藍が必死に力を合わせて術式を組み立て、結界の範囲内の空気がザワリと震動し始めた。強大な妖力に空気そのものが押し流されているのだ。
窓ガラスや障子戸がガタガタと揺れ、隣の家から見える電灯はチカチカとおかしな点滅をし始めている。
本来ならば、その紫と藍の術式の間には今度こそ詩菜が存在すべきなのに、紫はまた彼女を手伝わせなかった。
詩菜が『彼』の事を心配に思っているだろうと、気を利かせて。
その事に改めて詩菜が心の中で感謝していると、ついに術式が完成して、スキマが開き始めた。
『彼』が眠るベッドの枕元に、スキマが開いた。
後は術式が完全に作動し、自動でこの世界の『彼』と向こうの世界の『彼』が入れ替わる。
そのスキマが、いつも見慣れている紫のスキマ……眼や手が生えているような、そんなスキマではなく不可思議と表現する他にない極彩色で彩られているという事が、次元を移動する為のスキマの特徴なのかしら?
……と、詩菜がその様子を感慨深そうに見ていると、
いきなり全身を喰い潰されているような激痛と、視界が真っ赤になるような激情に駆られた。
「ッッ!!?」
ほぼ反射で能力を使用。
自身の衝動、突発的な感情の変動を抑える。
それでも、頭の天辺から足の小指に到るまで、全身をヤスリで削られるような痛みは治まらない。
「ッッ……こんなっ、時に何なのよ、ぉ……ッ!?」
いつの間にか倒れていた身体を、這い上がるように起こして顔をあげると、スキマの向こうに何かが見える。
そのスキマの手前、ベッドで眠る『彼』に、これといった異常は見受けられない。
『彼』には異常が起きていないという事に安心しつつ、激痛が走る身体を叱咤して動く。何とかベッドや卓袱台を支えにして立ち上がり視界を広げると、ガラス窓の向こうに隣近所の家が見える。
こちらからでは、術式の影響で暴風雨となっている為に、隣家の詳しい様子を判別する事は出来ないが、少なくとも詩菜に起きているような異変が起きている様子はないようだ。
つまり、激痛に襲われているのは、詩菜だけなのである。
「ぁッ! ……何が、どうなって……ぇ!?」
ザリザリと身体を削られる音が幻聴として聴こえてくるような痛みの中、必死に紫へと念話を繋ぐ。
『……なッ、にが起きたのさ……!?』
『今の所、術式は順調よ?』
『……ッう……んなッ?』
……そんなバカな……。
そう続けつつ痙攣が止まらない身体を動かして、先程見えたスキマの向こうに見えたモノがハッキリと視界に入ってきた。
次元を超えるスキマの向こう。
その奥で詩菜と同じように痛みを抑えている、三人目の『私』が、
――――――――《私》がそこに、いる。
「「っ、ァッ!!」」
先程、能力で抑え込んだ筈の激情が、また溢れ出てくる。
突発的な感情が痛みを超えて、強制的に肉体を動かそうとする。
「ぅ……な、るほどねえッ!! ……『アイツ』があっ……!」
「ァァあッ!! お前は……ッ!?」
『……ッそう、いうゥ、事かッ!!』
『詩菜!?』
詩菜は、ようやく理解する事が出来た。
今見えている者が誰なのか。
私はどうして転生したのか。
これから、自分が何をすべきか。
「……《オマエ》がッ!! ッ《私》かぁぁ!!」
「ア゛ア゛ア゛ア゛アあアアぁァァッ!!」
《ドッペルゲンガーは、互いに殺しあう》
能力を解除。
押さえ付けていた激情の、《殺意》を解放する。
「「ア゛あアァあ゛あアア゛ア゛あアア゛アア゛アぁ!!!」」
互いに聴くに耐えない、汚ならしい叫び声を挙げて、相手の世界に突っ込んでいく。
『彼』が眠るベッドを越えて極彩色の、吐きそうな程ケバケバしい色彩のスキマに、その境界の世界に飛び込む。
不思議と殺意を抑えるのを止めた途端に、身体を蝕んでいた激痛は消え去り、思うままに動くようになっている。
「「死ねえぇ!!」」
『向こうの彼』が、随分と不格好な右拳を振り上げて、詩菜を殴り殺そうと襲い掛かって来ている。
だが、そんな鍛えてもいない肉体で奮う暴力など、妖怪である詩菜に対しては何らダメージを与えれる筈もなく、当然のように弾き飛ばされる。
「『オマエ』は『私』でッ、『私』は『オマエ』だ!!」
「モガッもぅえ■■■■■!!?」
腕を弾き、がら空きになった胴を狙わずに、詩菜は自身の右手を『向こうの彼』の口内に突っ込んだ。
今の詩菜と『向こうの彼』の状況は、奇しくも詩菜が彩目を襲い妖怪にした時とほぼ同じ状況であった。
口の中に小さな詩菜の拳を突っ込まれ、一瞬驚きの表情をしていた『向こうの彼』だったが、眼を拳から詩菜の方へと向けた事により再度殺意が沸き上がってきたのか、顎に力を込めて拳を喰い千切ろうとする。
当然、妖怪である詩菜の手首はそれほど簡単に千切れたりはしないが、それでも顎の力というものはかなり強大である。
虹が何重にも重なりそれを水で溶かしたような、上も下も解らない世界。
手首を噛み砕かれそうになりつつも、詩菜はその噛まれたままの腕と共に『向こうの彼』を持ち上げる。
身長差により、持ち上げて相手の身体を浮かせるような事は出来なかったが、それでも相手を立たせる事は出来た。
その間、相手は必死にかじりつつ拳で殴っているのだが、詩菜の能力によって阻まれ、衝撃を与えれずに駄々をこねているようにしか見えない。
「……」
「■■■■■!!」
詩菜は『向こうの彼』を哀れなものを見るような目付きで、それを見ていた。
見たままの状態で、『向こうの彼』に気付かれぬように左手の爪先を動かして、新たなスキマを開く。
この次元と次元との境界にあるこの世界は、非常に物事の境界があやふやになっている。
その為、能力を単に借りているだけの詩菜でも、比較的簡単に『過去の世界』へと、スキマを繋げる事が出来た。
そしてそのまま、向こうの彼……本当の意味での『過去の自分』を、地面に叩き付けてスキマに落とした。
ブチィッ!! と何かが千切れた音。自分と自分の顔に飛び散る、紅い水滴。
「……存分に、向こうで、血に飢えてきな」
「■■■……! ッ……」
自由になり、先がなくなった右腕で過去へ繋がるスキマを閉じて、気分が悪くなってくる極彩色の世界から、『こちらの世界』へと帰ってくる。
右腕の断面からは絶えず血が染み出て、『彼』のベッドや地面に染みをつくっていく。
『彼』は、まだ眠ったままだった。
「……暢気だね。こっちはとんでもない目に遭ったっていうのに……」
『……! ……ど……たの!? ……し……!! ……詩菜!?』
完全に他の次元へと繋がるスキマが閉じた所で、紫からの念話が届くようになってきた。
いつ頃から念話が使用出来なかったのか。それは詩菜には解らなかったが、彼女が自身の衝動を抑えるのを止めた時から、詩菜は自分自身で念話を『無意識の内に』聞こえなくしていたし、『他の次元へ繋がるスキマ』の中で『過去へ繋がるスキマ』を開く事によって、境界や結界が入り乱れて回線が混乱、連絡が全く取れなくなっていたのだ。
『詩菜!? 大丈夫なの!? 返事をしなさいよ!! それに今貴女何処にスキマを繋げたの!?』
『……何とか、大丈夫……』
『ッ、何があったの!? 生きてるのね!?』
『厳密に言えば妖怪は生きていないと思うんだけど……今の気分で言うならば……うん、生きてるよ』
『……そう、っ……!!』
……当初の予定では、
『彼』は向こうの次元に行っている筈だし、
詩菜はこんな大怪我をする予定も無く、
詩菜が自分自身の始まりを知る予定でもなかった。
こんなに慌てている紫の声を聴くのも相当に久し振りだな。
「……さて、どうしたものかな……」
今頃になって、疲労と能力や妖力神力の使いすぎにより頭はガンガン痛み始め、千切った右腕は激痛が止まらない。
とりあえず、『彼』のポケットから手紙を抜き出して袂にしまい、紫の元へと向かう事にした。
▼▼▼▼▼▼
「ちょっと詩菜!? どうしたのよその右手は!?」
「あ~……ちょいとね。色々と遭ったの」
念話を頼りに八雲一家の待つ場所へひた走り、ようやく逢う事が出来たのだが、詩菜の右手は未だに血が滴り落ちており、ここまでの道路や屋根に血痕が続いている。
傷を治そうにも、手の再生に必要な妖力や神力が、今の詩菜には殆ど残されていない為に、彼女は回復が出来ない。
「……一体何があったのよ? 藍、包帯を取ってきて」
「……あまり、訊いてくれないと嬉しいなぁ……」
「……」
「……自分でも、何がな何だか……解ったような、解らないような……」
「……」
「……包帯、持って来ました」
「話す気は……ないの?」
「……あんまりね」
右手の砕けたような傷口に丁寧且つ手早く包帯を巻いていく藍。そしてその作業をじっと見ている紫と詩菜。
無言のまま包帯を巻き終わり、立ち上がる藍。それに遅れて詩菜が立ち上がろうとするが、少しふらついて後ろにそのまま倒れ込みそうになる。
崩れ落ちそうになる所を、紫に左手を引っ張られて何とか体勢を持ち直す。
「ほら。やっぱり危ないじゃないの!」
「ははは……ちょっと頑張りすぎたよ……」
力の使いすぎによる頭痛は先程よりも格段に増しており、視界もうまくピントが合わなくなってきた。
「……紫」
「何かしら?」
「……この後、スキマで幻想郷に行く予定だったけど、もうちょっと先延ばしにして……いいかな?」
ぼんやりとした映像しか見えない詩菜は、大まかに紫が居ると思われる方向に向けて名前を呼び、上司に『外泊延長』を願い出た。
詩菜には、『正真正銘の自分』が現れた事により、まだ現世でやるべき事が出来た。
「それは、その傷と関係ある事かしら?」
「……いんや、関係あったけど……今は何もないよ……もう、何もない」
「本当ね?」
「……私の、『嘘と真の境界』でも……調べてみる……?」
「……分かったわ」
紫が承諾し頷くのを見届け、詩菜は今度こそ気を失った。
身体を紫の方へ傾け、そのまま全体重を預けるようにして倒れる。
藍も慌てて駆け寄るが、詩菜は深く呼吸をしているだけのようだ。
「詩菜!?」
「大丈夫です紫様。気を失っているだけです」
「……」
相変わらず出血が止まらない右手首。
それによる大量出血と過度の疲労で、詩菜の顔はとんでもない程の蒼白さになっている。
「とりあえず、彼女を寝かす方が先です。術式は終わりましたから、今は余裕があります」
「……そう……そうよね……」
「……どうしますか? 紫様のスキマに寝かせます? 安静を重視して屋敷に連れて行きますか? ……それとも詩菜のスキマに?」
紫の開くスキマの中は、お世辞にも衛生環境が良いとは言えない。
気味の悪い手や眼が生えているし、精神衛生的にも良いとは決して言えない。
これは現世、『外の世界から見た幻想郷』を意味しており、紫がどれだけ幻想郷を愛しているかの証拠でもある。
では逆に、『詩菜の扱うスキマ』はどうなのかと言うと、そういった手や眼は生えていない。精神面ではかなり良いであろう。
しかし、気絶していて妖力神力もろくに残っていない詩菜が、スキマを維持出来る程の余力があるとは思えない……。
ようやく落ち着いてきた紫が素早く思考を走らせる。
「私の屋敷はダメよ。詩菜との約束があるわ……一度、私のスキマに寝かせましょう」
「……分かりました」
藍からすれば、何故、紫様はこの詩菜の約束を守ろうとするのかが解らない。
確かに詩菜は、弾幕を撃てない所や空を飛べない所などあるものの、速度や攻撃力は幻想郷でもトップクラスだろう。
けれどもトップクラスとはいえ、紫ほどの力を使えば簡単に倒す事は出来る筈だ。
詩菜を倒し、強制的に幻想郷へ連れ込めば良いのではないのか? ……と藍は考えていた。
何故、そこまでする?
そこまでの価値が、果たして彼女にあるか?
「……。……! ……藍!!」
「はいッ!?」
気が付けば、藍は詩菜を抱いたままスキマの前でずっと立っていた。
紫がそのスキマの奥で、藍を呼んでいる。
「何しているのよ。早くいらっしゃい」
「あ、はい!」
藍が詩菜を抱え、スキマの奥へと消えていく。
そしてそのスキマが閉じていき、完全にその姿を消した。
後には何もない。
▼▼▼▼▼▼
これにより、この街は色々と変わってしまった。
守矢神社という建物は存在せず、
それについて知っている人物も一部しか存在せず、
この街に、『東風谷早苗』という人物を知る人は居なくなったのだ。
…………彼等を除いて。