さ〜てさてさて、そろそろ矛盾と意味不明と理解し難いものが始まるよ〜。
樹から落ちていく中でも、勇儀は大きな玉やレーザーもどきを撃って来ている。
けれども彼女は私に近付いて攻撃はしてこない。まぁ、迂闊に攻撃してくれれば私も反射するのは当然だから、私に対する攻め方としては正解っちゃあ正解ではある。
とは言え、『あの勇儀が』そういう攻め方をする。そういう事が私にとっては大きく驚く事ではある。
私の知っている勇儀なら、そういう小癪な事をして自分を守る奴を、そのまま真正面から叩きのめす、あるいは彼女の拳のよってその壁をぶち壊してやるって感じなのだけれども……やはり私のその性根が腐った部分よっぽど頭に来ていたのか。
「アンタは自分がやっている事に対していつも正直じゃない!! 自分の行いが正しくないと知っていて、それで周りが反感を持つだろうという事も知っていて、それでもその行為を愚直に徹している!!」
「……」
まぁ、返す言葉もない。
返せる程、私は自分が正しいとは思っていないし、自分が返せる程の立場にあるとも思っちゃいない。
その点で言えば、確かに勇儀の言う事は全て正しいと言える。
飛んで来る大玉を避ける為に樹の幹を蹴って、森の奥へと跳ぶ。
先程文と彩目が戦っていた樹の少ない盆地からは離れてしまうが、彼女の攻撃を避けるにはこうでもしなければ避けきるのは難しいだろう。
そこまでこの場所を離れる気もないけど、大きく移動しなければあの攻撃は避けられない。
「さっきだってそうじゃないか! 遠くから見ていたがあんな方法で彼女達を仲直りさせようなんて、他にも方法があっただろう!?」
「おや、随分と初めの段階から見てたんだね」
「ッ!」
口調から察するに、彩目が文を襲った直後辺りからもう気付いていたのかな? 何にせよ、それに気付けなかったとは残念。
まぁ、私は文が私達に話を始めた辺りで鬼達に気付いたけれど、それよりも早く私達を見ていたのか。意外や意外。
そんな事に驚きを示し、先程まで閉じていた口を開いた私に対して勇儀は怒ったように、いやもう怒ってるんだけど、更に猛攻をしようとしてくる。
これまではちょこまかと逃げる私に対して先んじて道を防ぐような弾幕を撃って来たが、今度はどうやら違うようだ。
飛行を止めて左手を上に掲げ、その真上に力を集めてかなりの量の大玉を作っていく。その大玉は彼女の左手から放出された後は上空で止まっていて、後で一気に落とすつもりなのだろう。
まだ攻撃は放たれていないけど、彼女の周囲では弾幕を作る為に集まっていく妖力の流れが目に見える程だ。私には到底出来ない真似だね。恐ろしや。
更に距離を取ってとある枝へと跳び移り、彼女の弾幕を躱す為に視界を一定の場所へと留める。
高速で動きまわって全体の様子を確認しつつ跳んだ方が良いのかもしれないけれど、生憎とそんな気分にはならなかった。既に勇儀の頭上には大量の弾幕が待機している。
そんな風に、見極めて真正面から避けてやると言うような体勢の私を見て、勇儀がニヤリと口の端を上げるが、それもすぐに元の怒った顔に戻ってしまった。
恐らくはこう考えているのだろう。『そう見せても結局はそうじゃないんだろ』と。
「『
遂に技まで出てきたよ。力を司っている鬼と言ってもいい勇儀から、技というものを引き出した私はある意味素晴らしいのかしらねぇ、と叫ぶ彼女を見ながらぼんやりと考える。
左手を投げるように振り下ろして大量の弾幕が一斉に落ちてくる。
ぼんやりと考えながら眺めているとはいえ、視界目一杯に広がる弾幕の中でどう避けるのかのルート見極め自体はちゃんと思考の裏で考えられている。
速度もバラバラ、進行方向も流れはあるもののそれぞれの角度は微妙に違っている弾幕。
とある流れは似たような速度、とある流れは猛烈に速い速度で流れているなど、見ている限りでは何か大通りでの人間の流れみたいな感じだなと思いつつも、観察から行動へと切り替えて跳び出す事にする。
彼女の弾幕は彼女の気質を受け継いでいるのか、大玉自体は樹の幹などに命中してもそこから弾かれてまた流れに乗って動き出すか、はたまた爆発して流れを大きく変えたりしてくる。
避ける側のこちらとしては避けにくいにも程があると言える弾幕・技ではあるが、まぁ……やはりそれが目的なのだろう。
回避に自信がある私に対しての技、と言った所だろうか。
まぁ、そんな余裕に考え事をしている場合でもないし、『私だけの〜』みたいな特別対応を考えてお馬鹿な花畑を披露するのも阿呆らしい。
樹の幹を蹴って真上へと跳び出す。もう山颪は目の前に迫ってきているが、その流れに巻き込まれるなんて事は当然ながらしない
登って辿り着いた枝を平手で打って、斜め前へと跳び出す。今は弾幕がまだ及んでいない場所へと飛んでいるが、その内に周囲をすべて弾幕が埋め尽くすという状態になるだろうね。
そうやって流れが及ばないように跳んでいる中でも、勇儀の声はキチンと私へと届く。
「昔から人をおちょくって騙して! そして傷付くのも自分のくせにその行いを止めようともしない!! 一体なんだってそんな自分を傷付けたがるのさ!?」
「……」
私は……どうしようもなく、変われない性格だ。
駄目な事だと分かっていても、それをやめる事が出来ない。依存性の高い物事への耐性が弱いと言った感じなのか、とにかく自分から変わる事がどうもうまくいかない。
そのくせ楽しそうだと思った物事には躊躇なく首を突っ込むものだから、結果的に色々と自分を縛っていく事になってしまった。
結果これまでの人生は後悔ばかりだし、それでも救われるような事もあったのも事実。
今は後悔の念がやや強い傾向だけども、それでもこうして良かったと思った事はあるし、私の行動で誰かを助けれたと思える事もある。
私の頭の中は『今は』楽観的だけど、明日の朝になれば後悔に襲われるかもしれないのは事実だ。それほど私はあっちこっちへ気分が動く。
けれども、今の私は『これで良いと思える行動』をしている。それは今現在はれっきとした真実でもある。
……ほら。
今でさえ、先程とは気分の方向性がこうも変わっている。
我ながら気分屋だねぇ、と自分でもうっすらと笑っている事に気付く。
遂に木のてっぺんまで到着。それとほぼ同時に、先程根っこが
辺りを一斉に揺らし、森が揺れれば山も揺れる。
それほどの『衝撃』は当然、私の元へと訪れる。
ズン、と縦の方向へと響く波は私が居る樹の上へと辿り着いた瞬間に瞬く間に消え、私が立っている樹だけがその揺れの中で動かずに静止していた。
ここまで来た衝撃は既に私の手の中にある。
「確かに勇儀の言う通りだよ。私はどうしようもない馬鹿者さ。自分を振り返って自分を傷付けるなんていつもの事になろうとしているし、それを押し留めようとしてないようにしか見えないだろうさ。行動なんて結局何もしてないしね」
「ッ! なら!」
「それでも、止めようともしないなんて事は言わせない」
「……!」
そう言い切ると勇儀も私の言い分を聞こうとしたのか、操っていた弾幕がスッと消えていった。
あれほど大量の弾幕が消えた事で視界が一気に開いた。けれども視線が勇儀からは決して離さない。
後悔だけが先んじて身に伴っていない、まさにそれは私を指していると言えると思う。
けれども後悔だけならしてきたと言いたい。逐一振り返っては自分に幻滅するし、思い出してアレは良かったとかこうするべきだったかなとか、そういう事はずっと考えてきたと思う。
だから、私が居る事を否定するのは別に良い。私の人格や性格を否定するも別に良い。
けれども私が行った結果に対して、その当事者達が満足しているその場に水を指すのは、怒るべき事だと、私は思っている。
私と勇儀との間で起きている戦いは、戦いというよりも主張の言い合いのようなものだ。
元々文を視察しに来ただけだろうに、目的がいつの間にかすり替わって私へと向いている。
捻くれ者だとしか言えない私を見て、勇儀が遂に我慢出来なくなったんだろうね。
まぁ、そんな事はどうでもいい。今の私は気分が良いのだ。
こんなにも気分が良いのに、そんな勇儀の主張で私の主張がズラされてはたまらない。
こんなにも気分が良いから、そんな勇儀の主張も私の力技で逸らしてしまおうと思う。
例えそれが後に後悔へと変わってしまおうとも、今私が心に思っている事は後悔した時に必ず思い出す事の一つの筈だから。
「まず始めに、私はいつまでも逃げ続けるよ。誰が何と言おうと、私に劇的な何かが起こらない限りそれは変わらない。そしてその劇的な事は勇儀じゃあ起こせない」
「……へぇ、随分と言い切ってくれるね」
彼女では役不足とまでは言わないけれども、今、その時ではないのだと思う。
そう感じた勘を、今はただ信じるだけなんだけどね。
言い切った私に対して、勇儀はこれまた一段と身に纏っていた力を強めていく。
「次に、私が正直者じゃないって話だけど、そりゃあ私は勇儀みたいな鬼じゃないしね。嘘も吐くし騙しもする。その何かを
「ちっ……その部分が一番許せないね」
正直に生きれば辛い。それが過去生きてきた中で学んだ事だ。
鬼は正直に生きすぎて、その辛さを知らないだけなのではないかと思っている。まぁ、逆に正直に生きすぎてもう辛くないだけなのかもしれない。まぁ、どっちでもいいけど。
「勇儀は優しいよね。姉御って感じでさ」
「……何さ、いきなり」
「いや……私の間違いを指摘する為にそこまで体を張ってくれるからさ」
「でも……さ」
ああ、ダメだ。
折角の清々しい気分だったのに、高揚感がそれをどんどん追い越してしまっていく。
多分勇儀の目に映る私は、禍々しい雰囲気になりつつあるんだろうな。私の眼も真っ赤になっていく姿が見えるんだろうな。
……なんて、そんな冷静に考えている自分すらもどんどん消え去っていく。
「そんなんじゃあ私の信念は揺るがないよ?」
「ッッ!? 詩菜っ!!」
何かが、駆け上っていく。
一体何が体の中を駆け上って行くのかは私にも分からないけど、全身を巡るその感覚は私のこの高揚感と共にだんだんと早く駆け上っていく。
もっと速く、もっと素早く、もっと壊してしまえ。
そう身体が要求しているようにも感じる。
右手を上げて、その先に力を集中させる。
先程の勇儀とは左右逆の格好になっているけども、その手の先に集まっていく力は彼女とは全く異なる力。
彼女のが破壊をもたらす怪力だとしたら、私のは破壊をもたらす衝撃だろうか。なんてそんなどうでもいい事を考えて、ふっと笑いをこぼしてしまう。
その笑みすら、もしかすると人から見れば禍々しい物かもしれない。いや、恐らくそうだろうな。
私の元へと集まった衝撃を、全て手の中へと
妖力で蓋をして、空間圧縮でさらに封をして、更に紫の能力も借りてキツく禁を施す。
今ので紫に何かあったのかとバレてしまうかもしれないが、まぁ、今はそんな事はいいや。
術式が完成した。
構成そのものは緋色玉とほぼ変わらないけど、それよりももっと壊滅的な術式になっただろうと思う。
後はこれを真下に落として開放すれば、恐らくはこの盆地は消し飛ぶだろう。
いやぁ、盆地は盆地でも、もっと大きくなるだけか。自然がなくなると言った方が正しいかも。
「勇儀さん!! それを使わせるな!!」
高揚してついそんな物を作っていると、声と共に刃物が飛んできた。
槍のようなそんな刃物は私の右手首へとまっすぐ飛んできて、私の左手の甲によってあらぬ方向へと弾かれて飛んでいき、蒸発するかのように霧散した。
そんな事・攻撃が出来るのは、知り合いだと一人しか居ない。
「っ、アンタ詩菜の娘の……!」
「詩菜は今正常な状態じゃない!! 抑え付けてしまわないと此処ら一帯が破壊される!」
そんな事を言う彩目が下の方から飛んできた。その後から萃香と文も飛んできている。
やぁねぇ、破壊されるってんならさっきの勇儀の技もそれなりに辺りを破壊しただろうに、と思わなくもない。
未だに右手は上へと挙げたままで、その珠を握り込んでいる。私の少ない妖力は今も手の周りをグルグルと回っている。
少しでも力を緩めてしまえば、その珠はするりと指を抜けて落ちていくだろう。たかが数センチの大きさの珠だ。一度自由落下して見失ってしまえば再度見付けるのは至難の筈だ。
視界を下げれば、全員がこちらへと臨戦態勢をとっている。
いやぁ、やっぱりあたしには敵の役っていうのが相応しいね! とか思いつつ、それぞれの表情まで見ていく。
相も変わらず不機嫌で立ち向かう顔。止めれなかったと言うかのような厳しい顔。少しばかりの苦笑いが見える挑戦的な顔。変わっていないとでも言うような悲しそうな顔。
それぞれの表情を見て、一瞬だけ疑問が頭の中に沸き起こった。
しかしそれは、それぞれの表情を見てつい笑ってしまいそうな顔を抑えようとする事によって、頭の中から消えてしまった。
「ハハッ」
抑えきれなかった。
「……何がおかしい? 何が笑える?」
「いやさ? やっぱり私はこうでなくっちゃあ、って思ってさ」
「ッ、やっぱりお前は理解してねぇ! それがどれだけ周りを傷付けてると思ってるんだ!?」
「ん? 悪役には悪役の美学ってのものがあるでしょ。それと同じでしょう? 悪役にどうしようもない事情があるっていうのは、それはもう悪役じゃなくて哀れなヒロインっていうのさ……ああっと、
彩目はその時、またか、と考えていた。
また狂気に取り憑かれたか。どうしてそう簡単に意識を手放すんだ……と。
文も、その時はまたかと思っていた。
自分で自分の行為を止められない彼女を考えて、そして今朝話した事を思い出して『結局貴女は良かったと想えても、それを振り出しに戻そうと言うの?』と。
勇儀は怒っていた。
すべて気付いている癖に、自分が何を行っているかを裏では気付いている癖に自分で自分を止めようとしない。
卑怯者とか捻くれ者だとか言っておいて、自分を止めようとする意思が弱いだけの人間のような奴だ。それでも仲間で自分を助けてくれたろうに、自分を救おうとしないのが腹が立つ。
萃香は単純に焦っていると同時に楽しんでもいた。
妖怪の山での時に戦った事があったけど、あれとは比べ物にならないであろう狂った詩菜との戦いねぇ。
初めて逢った時に紫と戦った時以上の詩菜が見れるんだろうけど、この山も無事で済むかねぇ? 紫もどうやら気付いていそうだし、天魔ももうすぐ来るだろう。詩菜が抑え付けられるのもある意味は時間の問題。
けれどもそれまで、私達はあの手を抑えられるのか?
「お前のその考えを周りは認めないって分かってるだろ!? 何故それを止めない!? それともまだ分かんないのか!!」
「分かんないね。ヒトの理解を超えた所に他人はいる。だからこそ他人を理解しようとして面白がるんじゃないのさ?」
「お前の場合はそれが異常すぎるんだよッ!!」
もう何を言っても無理だろう。と彩目と萃香は思っていた。
実力行使で動きを止めて、紫を呼んで意識を戻さないと無理だろうと考えていた。
それに対して、勇儀は何とか言葉で止めれないかと行動していた。
狂気だ何だと言っても、初めて逢った時だって言葉で謝ってきて態度で示した。思考が外れていてもそれは元に戻す事が出来ると信じて。
文はどうするかを考えていた。
私はこの場で、どうするべきなのかを考えて、彼女の主張を聴いて、上司の勇儀の話を聴いて、私はどうすべきなのかを必死に考えていた。
「……」
「萃香殿、あの右手を圧力で封じる事は出来るか?」
「出来る……けどそうすればアイツは多分右手ごと全部斬り裂いて開放するよ? ……それに、この会話も聴かれてる」
いくら勇儀と言い合いをしている最中にこちらが会議をしても、こちらの
萃香と彩目が会話をしている最中に視線がこっちに向いてニヤリと笑ったのを見れば、それも分かる。詩菜には全て聴こえていると。
詩菜があの珠を開放出来ない状況にしてしまえばいい。それは分かる。
それに向いている能力を持っているのは、この場では萃香の何でも吸い込む攫鬼か萃鬼。
もしくは文ではるか上空に吹き飛ばすか、彩目の謂れのある刃物で消滅させるか位だ。
どちらにせよ、今こうやって言い合っていても届かない距離だ。ここからどう攻撃したとしても相手が詩菜だ。全て避けられてしまう。
問題なのは、彼女の手の中にあるあの珠が、どうやって発動するのかが分からないという事。
何かに触れる事で爆発するのか、はたまた時間制で爆発するのか。
どちらにせよ、彼女の手から即座に離して遠くへと飛ばさなければならない。
しかしこの場から行動したとしても、彼女の方が先に行動してしまう。どうしても詩菜は先手を取ってしまう。
何かしなければ状態は動かない。けれども何かすれば状態は動いてしまう。
(ある意味こうやって勇儀が時間稼ぎをしてくれればある意味助かるんだけど……)
待っていればそれだけ、天魔や紫が来てくれる可能性は高くなってくる。
そう考えた萃香は、ちらりと勇儀を見るも彼女はまだ詩菜と言い合いをしている。恐らくこの切羽詰まった状態に、彼女は気付いては居ないのだろう。
けれども、彼等が来たとして彼女を止めれるか?
彼女の行動を阻止して山を守れるか? もし『あの珠』の攻撃に直撃してしまったら私達は無事で済むのか? 彼女を止めて彼女の暴走を私達は止めれるのか?
そんな『けれども』、『もしも』や『しかし』という考えが萃香の頭の中に次々と浮かんでくる。
「……何じゃ、これはどういう状況なんじゃ?」
場が完全に膠着している時に、突如として現れたのが天狗の頭、天魔だった。
誰もが詩菜から視線を外せずに居て硬直している所へ、天魔はあろう事か、詩菜の真上の『何もない空間から』現れた。
いや、突如として現れた、というのは間違いではあった。
いきなり現れたのは天魔ではなく、八雲紫の使う『スキマ』であって、そこから出てきたのが彼なのだから。
しかしその場に居た者達は、スキマから出てくるのが天魔だという事もあって、一瞬の事ではあったが確かに混乱した。
何故、スキマから出てきたのが天魔で、八雲ではない?
勇儀や文、そして詩菜も一瞬だけ、混乱した。
その一瞬の隙を突き、誰かが詩菜の背後に現れて首筋へと触れた。
何者かが真後ろに出現した事に気付き、詩菜はすぐさま真後ろに振り返るも、先程の一瞬の混乱で出来た隙により、詩菜が攻撃するよりもはやく、彼女の指先は首筋へと伸びていた。
「いい加減に戻りなさい。それとも本気で何もかも無に帰すつもりかしら?」
「あ……っ」
まぁ、『今は』本気で思っているのかもしれないけど。
言わずにそんな事を考えつつ、八雲紫は能力を使用して彼女の理性の境界を操る。
紅に染まっていた彼女の瞳の色は、理性と共にだんだんと元の黒に近い色に戻っていく。
境界を弄った後に、振り向いてこちらを見ながら停止している詩菜を置いて、紫は彼女の首筋から手を離してそのまま後ろに開いたスキマへと帰っていく。
一度狂気を元に戻してやれば後は自分で境界を操るでしょうし、自分が何をしようとしていたのかという事で、
そして、スキマを通って場所を後にする。この後に起こる事は恐らく見る必要もない。
「……あれでよろしいのですか?」
「後は彼女の仲間がどうにかするわ」
スキマで控えていた藍は、疑問の表情をしていた。その感情と同時に浮かんでいるのは、彼女に対する少しばかりの敵意と恐れ、かしら。
そう言えば藍が詩菜のああいった状態を見るのは初めてだったわね。まぁ、ある意味仕方ないものかしら。
そこまで考えた所で、藍が言いづらそうにしながらも紫に進言してきた。
「彼女は……大丈夫なのですか?」
「……」
「私は紫様達と知り合って間もないですし、それほど皆様の関係性や深い所までは存じていませんが……詩菜の、アレは……あの『狂気』は」
藍のその言葉に、紫は少しばかり歩を止めて、沈黙してしまった。
……詩菜が、彼女の狂気が大丈夫かどうかですって?
「そんなの……危ないに決まっていますわ」
「やはりそうなのですか」
「ええ。簡単に人を殺してしまうし、その時の彼女は正しく妖怪だと言うべきね」
「……はい?」
「私が式にしなければ、彼女がいつ人里へ降りて衝撃の暴力を周囲に撒き散らしていた事やら……あらあら、恐ろしいわ〜。ねぇ藍、貴女もそう思わない?」
狂気なんて誰でも持っている。
妖怪達が持っているのは当然の事として、それは人間にもあればどんな生き物にもある。
だから、彼女は話の方向性を変える事にした。
その結論に至るまでの思考は、誰にも読み取れない。
「……私に詳細を話す気はない訳ですか?」
「あら、私はそんな意地悪ではありません事よ? ただ彼女がもし人間と敵対すれば、大いなる脅威となったでしょうね、という話をしているだけですわ」
「詩菜は人間に優しい方の妖怪と聴きましたが?」
「情報収集能力もまだまだのようね、藍」
「……そうですか。精進いたします」
必要以上に姿や名前を偽って生きてきた詩菜の足跡を辿るのは中々に難しい。
時と場合によってどちらの仲間もする彼女は確かに人間に優しいとも言えるが、偶に『色々と』散らかしたままで何処かへと向かう事もある。
今回は、藍が情報を収集出来なかった事に救われた。
私が意図的にはぐらかした事にも藍は気付いているでしょう。私の式達はどちらもそこまで阿呆ではない。
だからこそ藍には彼女の心の奥底には自分で気付いて欲しいし、結束するためにも彼女達には繋がりの縁が欲しい。
そんな理由も含めて、今回の事は次回の目的に対して大いに役立つ物ではあった。
故に、今は貴女の手助けは出来ない。
自分の矛盾に気付いているでしょう?
直そうとも思っているのでしょう?
自分の高揚が抑えられない、それも単なる言い訳の一つだと、
──貴女はやはり、気付いている筈でしょう?
「
「私ですか? ……それとも、詩菜がですか?」
「さぁ? 自分の内心と、自分への声。どちらが些細な事でおびえている臆病者なのかしらね?」
そんな会話を交わしてながら、スキマの主と従者は奥へと去っていった。
彼女達が起こした行動で、従者の一人は内心を大いにかき乱されているというのに、主はそれも試練の一つ、私にとっては些細な事にすぎないとばかりに、遠くへ行ってしまった
やられた彼女は、こんなにも茫然自失としているのに。
「………………私は……」
・風声鶴唳(ふうせいかくれい)
些細なことにおそれること。敗軍の兵が風の音や鶴の鳴き声にもびくびくおびえること。