ロケ帰りの車中で催してしまった飛鳥。折悪く車が渋滞に捕まってしまい、いつもの斜に構えた言動もどこへやらテンパりまくる彼女をPはトイレまで送り届けることができるのか。

 初同人誌に載せようとしたものの諸事情でお蔵入りとなったSS。
 pixivに投稿したもの(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12197754)と同一内容です。
 しぶりんが親愛度振り切れてるパターンにつき悪しからず。

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いつかどこかで読んだ響がおもらししちゃうSSが大好きです。


秘密のしたたり

 シートを隔てて、彼女の息遣いが聞こえてくる。忙しなく、やや平静さを欠いた吐息。

 

 後部座席に座る二宮飛鳥の目線は、車内と窓の外とを行き来している。自身のエクステをもてあそぶ、細くしなやかな指つきに、彼女が抱える焦りと不安とが表れているようだった。

 顔色こそ異常ととれるほどではなかったが、しかし余裕を失いつつあるのは明白であった。運転席に座る俺はたまらず問いかける。

 

「……そんなにトイレ我慢できないか?」

「その一言がどれだけ思慮と礼節に欠けているのか思い知らされたくないなら黙っていることだ」

 

 苛立ちを隠そうともしない鋭い目と尖った声で反論された。むしろ待ってましたとばかり俺を非難して少しでも気を紛らわそうとしているところもあるのかもしれない。

 

いや、デリカシーに欠ける発言だったとは否定しないけども。

だがそうして返してくるくらいには、まだ余裕が残されているということでもあるらしかった。

 

「……先から、ちっとも進む気配がないね」

 

 窓の外、スクロールをやめて久しい景色に一瞥を投げて飛鳥が言う。ロケ帰りの高速、ここを抜ければじき事務所というところで、渋滞にはまってしまったのである。

 

「実際かれこれ十分は経ったが……ほんとに大丈夫か?」

「十分なんてどころじゃないだろう……!? 人間、いかに苦痛に苛まされる体感時間が長く感じるとしても、すでに三十分は立ち往生させられている現実が見えていないのか」

「いやトイレに行きたいって言ってから十分ってつもりだったんだが……」

「キミ、おいキミ。あとで覚えておけよ」

 

 少なからぬ殺意を含んだ目をもって睨まれた。飛鳥にこんな目で見られたのは初めてかもしれない。いやデリカシーのない発言だったとは思うけどさ。

 

「だいたい、キミにも責任の一端があると言わせてもらうよ。暖を取るために手持ちのコーヒーを飲み干してしまうくらいには、身に染みる寒さの中を待たせてくれたんだからね」

「それはその、すまなかった。収録の後ディレクターさんがなかなか離してくれなくてな。次の仕事の話もあったから……」

「……そういうことなら、ボクにキミを非難する道理はない。すべてはボクのこの先を、未来を想ってのことだったのなら」

「いやでも、話が長引きそうなら先に車に戻ってろなんて言うんじゃなかったな。俺も気が利かなかったのは確かだよ」

「まあ、いいさ……。お互いに、相手への思慮が不足していた。そういうことにして、ここは学ぶものがあったとしておこうじゃないか。次があるなら、その時に活かせばいい」

 

 瞳に含まれていた殺意は瞬きとともにかき消えていた。許してくれたというか、それほど根に持つつもりはない、らしい。

 むしろ十分前に飛鳥自身の口から催している旨を伝えられたあたりから、俺は彼女の担当プロデューサーとして一定の信頼を築けているのかなと思うところもあった。

 いや、そんなことからアイドルとの絆を認識するのも無粋というか、何というかだが。

 

 とはいえ初対面当時、それからプロデュース開始間もない頃といえば、飛鳥の俺に対する態度は今より明らかに硬いところがあったし、「女性が男性に催していることを伝える」という行為は、まず彼女のプライドが邪魔をしてできなかったことだろう。

 おおよその立ち振る舞いや言葉遣いそのものは今と大差あるわけではないが、あの頃の飛鳥というと、やや大人を小馬鹿にしたような節があったというか。

 大人というより、自分の周りにある世界から、距離を置こうとしていたというか。

 慣れない環境への警戒の現れだったのかもしれない。

 

 そうした一面が薄れたことは、何より彼女が俺にある程度の信頼を預け、認めてくれたことでもあると、そこは素直に喜ばしい事実としておきたかった。

 

「プロデューサー、前」

 

 促されふと気づくと、先行車がゆるゆるとだが動き出していた。

 

「ごめん、もう一度聞くけど、本当に大丈夫か? 無理してないか?」

「どうであろうと、キミにできるのは車を運転することだけだ。今できることに集中さえすれば、ボクもそれ以上を求めることはない」

 

 そうは言っても、と出そうになったが、高速を抜けないことにはトイレにありつけないあたり、実際俺にできることは運転しかなかった。

 

「ほんとに辛くなったら、我慢しないで言えよ」

 

 

   *

 

 

 五分後、何か強敵と対峙しているかのごとく険しい表情で中空を見据える飛鳥がいた。

 いや実際対峙しているのだ。この華奢な体を内側から決壊させようとする生理現象、猛烈な自然の摂理という強敵と。

 

「だ、大丈夫か……?」

「それより、あとどのくらいで抜ける……」

「え、ええと……距離的にはこのペースならあと十五分ってとこかな」

 

 俺の答えに飛鳥は何も言わなかった。すでに殺意の色しかなくなった瞳で睨むことで、促してくるのみである。

 

 早くしろ、と。

 

 渋滞を俺がどうにかできるわけはないので理不尽というものだが、ここで反論したとて進展することがないのも確かなので、結局黙って運転に専念することにした。

 

 飛鳥の荒い息がはっきり聞こえるようになったのはそれから三分と経たぬうちである。

 

「ふーっ……ふーっ……」

 

 血の気の引いた顔色、そこを伝う脂汗。食いしばった唇の隙間から荒い吐息が繰り返し噴き出ている。

 明らかに、マズい。

 

「お、おい。ほんとに……」

 

 大丈夫か、と言いかけたところで、さらに殺意を増した眼光によって、それより先を紡ぐことを許されなかった。

 凄絶とすら言ってもいい。

 その目の色だけは、戦う意思を失っていなかった。

 あまりの形相を前に固まっていると、飛鳥は小刻みに声を絞り出した。

 

「無駄な、音を、発して、いる、暇が、ある、なら、先に、進んで、くれ、ない、か」

「でもあの、渋滞」

「関係ない、行け」

 

 ここが一般道なら歩道が広いではないかとでも言い出しかねない気迫に恐怖すら覚えた。

 今の俺にできるのは、一秒でも早く彼女を安息の地へ送り届けることばかりである。

 

 

   *

 

「ぐっ……ぐぅぅっ……」

 

 三分後、瞳の端に涙がにじみ始める。

 

「はぁっ……は、ぁっ……」

 

 さらに三分後、下腹部を抑えて顔を伏せる。爪を突き立て、わずかでも感覚を紛らわそうとしているのが見てとれた。

 

「あ、飛鳥……! もう少し、もう少しで抜けられるから……」

「……る、な」

 

 数分ぶりのはずだが、あまりに沈黙が重苦しかったために、永劫に近い時間を経て彼女の声を聞いたように感じた。だがあまりにか細く、何をしゃべったかまでは判別できない。

 

「……何て?」

「頼むから、み、見る、な……ボクを……」

「そんなこと言ったって……」

「見られたく、ない、からっ……キミに、だけは……ボク、が、もしも……そう、なった、ところを……」

 

 俯いているので表情はわからない。だが声色だけでも、いかに彼女が肉体・精神ともに限界を迎えていたかを悟らせるには十分すぎた。

 そして彼女が懇願してきているのなら、俺もそれを裏切るわけにはいかない。

 飛鳥であるとか以前に、少女が他人に、それも男に失禁する場面を目撃される未来を許容できるはずもない。

 考えるまでもなく、当然のことであった。

 

   *

 

 

 五分後、ついに高速を抜け、一般道へ出た。

 さらにその十分後、小さな公園と、その敷地内の公衆トイレが目についた。

 

「飛鳥、公園にトイレがある! あそこに寄ろう!」

 

 返事はない。荒く早い呼吸が響いてくるのみである。下手に声を出すことすらままならないらしい。

 だが鼻孔にアンモニア臭と思しき刺激はない。まだ漏らしてはない、はず。たぶん。

 

 公園の入り口近くの路肩に停車する。中までは乗り入れることができないので、ここから先は歩きである。

 

 今の飛鳥に、歩く気力と体力が残ってさえいればであるが。

 

 トイレまでほんの少し、目測でも二十メートルあるかどうか、といったところか。

 だがしゃべることすらやっとの今の飛鳥にとって、その道のりは千里にも等しいことだろう。

 

「……か、抱えていこうか?」

「い、や……結構、だ……」

 

 だが俺のその申し出を彼女は拒絶する。なりふり構う余裕など、とうになくしているはずなのに。

 

「手段を選んでる場合か! この際人目につくかもしれなくたって……」

「抱えて、もらって、いる、うち、に……もし、そう、なったら……。だ、から、一人……で、行く……」

「無茶言うな! その体じゃ、まともに歩くことすら……」

 

 言った矢先、ドアの開く音が響く。飛鳥はその満身創痍、もとい失禁寸前の体で、外の世界へと降り立ち、歩を進め出していた。

 

 すごい内股で。

 ペンギンみたいに小刻みな足取りで。

 

「ついてくるなぁッ……!」

 

 俺も後を追おうとするや、振り向きもせず飛鳥はそう叫んだ。激烈な尿意に抗いながらもそれだけの声を出そうとするほどに、最悪の事態への恐れを抱いているらしかった。

 

 まさに失禁する瞬間を、俺には見られたくないと。

 

 苛ます尿意はもはや激痛ともなって膀胱を圧迫していることだろう。そんな状態の彼女を見送るしかないという現実に、歯がゆさと無力さを覚えるほかない。

 だがそれ以上に、飛鳥の名誉を遵守しなければならないことから、俺は後を追うばかりか、そのたどたどしく進む背中を見つめることさえ憚らねばならないのであった。

 

 運転席に戻り目を伏せ、しばらくののち顔を上げたときには、飛鳥の姿はもうそこにはなかった。

 彼女はたどり着き、その尊厳を守り通すことができたのである。

 

 

   *

 

 

 それから三十分ほど待ったが、一向に飛鳥が戻ってくる気配がない。

 

 間に合った、にしてはいくら何でも時間がかかりすぎている。もしとすれば「かかる方」もついでに催したのかもとひらめくが、さすがにそれ以上の想像はあまりに無粋というか、破廉恥が過ぎるのでやめておいた。

 だが先はあれだけ苦悶に呻いていたのである。用を足せてもトイレから動けないほどに疲弊しきってしまったか。最悪、体調に異変をきたしてなお苦痛に苛まされているのかもしれない。

 何にせよこのまま待ち続けるには限界が来たというところで、不意にスーツのポケットに入れたスマートホンが振動した。もしやと取り出してみれば、相手はやはり飛鳥である。

 

「飛鳥、どうした!? 何があったんだ!?」

 

電話の向こうの飛鳥は答えない。ほかに何の音もない。先までのような荒い息も聞こえない。

 あるいは、倒れてかすかな呼吸すら覚束ないほどとなっているのかもしれない。

 

『……プロデューサー』

 

 だがやがて口を開いた彼女からは、そうした最悪の事態の気配は窺えなかった。平静さを取り戻した、いつも通りの、飛鳥の声。

 

『何も聞かずに、事務所の更衣室からボクの着替えを取ってきてくれないか』

 

 いつも通りの声の、その囁きで、俺はこの世の全てに絶望したかのような心持ちを抱かされた。

 

「……あ、飛鳥……おま、まさか……」

『何も聞くなと言っただろう』

 

 電話越し、十四歳女子中学生の凄みに気圧される。気圧されて、言う通り何も聞かずに従っていれば、凄惨な現実を直視せずに済んだのかもしれなかったが、しかし三十分と待たされた挙句そう来られて、はいわかりましたと二つ返事というわけにもいくまい。

 

 要するに、結局は間に合わなかったということなのか。

 

「いやその、あの、もし『そういう事態』になったのなら、その、気持ちは察するが」

『察しなくていい』

「いやでも、てっきり間に合ったものとばかり……だってトイレまではたどり着けたんだろ?」

『ああ、たどり着けたさ。あの永劫にも感じた苦痛と絶望の波に、ボクは打ち勝ったんだ』

「そ、そうだな。偉いぞ飛鳥」

『茶化すな』

 

 そんなつもりはなかったのだが下手に相槌すら打てない。

 

『……絶望が去って、後に何が来たのかわかるかい?』

「尿意?」

『黙れ』

「ごめんなさいわかりません」

『……希望、さ。絶望の深淵にまであって、ボクが歩みを止めなかったのは、その先に一筋の光を見ていたから。その光だけを頼りに、諦めることはなかったから』

 

 要するに、トイレへたどり着くという希望にすがる、その気力に支えられていたと。

 

『だが絶望に打ち勝ち、まさにその「希望」が目前に現れた時、そこまでボクをつなぎとめていた何かが、崩壊した。絶望に抗い続けていた精神は、希望の光に安堵したことで堕落し、破綻してしまった……そこから先は、どうすることもできなかった』

 

 つまりはついにトイレへとたどり着いた瞬間、一瞬の気の緩みからそれまで膀胱をせき止めていたモノが決壊してしまったと。

 やっぱり間に合わなかったのである。

 

 そして電話越しにその事実をいつも通りの口調で、遠回しに表現している飛鳥は、今。

 その下半身を、自身の排泄物で濡らしたままでいる……。

 

『おい、何を黙っているんだ。いやその沈黙は何を思いめぐらせているんだ。やめろ、想像するな。ボクのことを考えるな』

「い、いや、なんというか……し、しかしだ飛鳥」

『何だい』

「事務所までは車でまだ三十分はかかりそうなんだが……それも片道だから、往復となると……」

『それがなんだと言うんだ』

「いや、その間お前をここに置いてくのはまずいというか、それも濡れてるんだったら体も冷え」

『濡れてない』

 遮るように、あるいは自分に言い聞かせるような声色でぴしゃりと言う。

「濡れてないって、お前……」

『いや濡れてないということはない、ないが、そんな気化熱で深刻に体温を奪われるほど、水びたしになったということはない。憶測で勝手に状況を判断しないでくれ』

「だからってな、公園のトイレにアイドルを一時間も置き去りにするのは……」

『いいから』

 

 しかし彼女は再び、その声で遮って。

 

『黙って』

 

 声色には殺意を込めて。

 

『言われた通りに』

 

 憤怒と焦燥とをないまぜにしたように醸して。

 

『して、くれないか』

 

 懇願してくるのだった。

 

 

   *

 

 

 結局、近場の衣料品店で簡単な着替えを調達してくるということに落ち着いた。

 

「……あそこでいいか」

 

 車を走らせて五分、適当そうな店を見つけた。老若男女が入れる雰囲気の、有名チェーン店。ユニシロだったか、むらしまだったか。

 

 飛鳥はああ言ったものの、しかし着替えが必要になるからには、現在トイレの個室で待つ彼女はその半身に何も穿いていないことと思われる。

 

 そう、何も穿いていない。

 そりゃあ、自分の排泄物にまみれた衣服をいつまでも着ていたくはない。誰だってそう思う。俺もそう思う。

 

 だが担当アイドル、それも十四歳の少女が公園の薄汚れたトイレの個室で、下半身を露わにしたまま一人でいる。

 その異常さというか、非日常感というか、ふと今の飛鳥が置かれている環境を想像すると、得も言えぬ心持ちに苛まされる俺がいた。

 

 十四歳。子供から大人へと変わりつつある時期。

 そりゃ成人した俺からすればまだ子供と分類できるだろうが、しかしステージの上に立つ姿、レッスンで汗を散らす様、それから水着グラビア。思春期と成長期のただ中にあるその体は、時として確かな女性的魅力を醸して、こちらの劣情に訴えかけてくる。

 

 そういうことにしてほしい。

 いや、違うもん、ロリコンじゃないもん。

 彼女スレンダーだけど幼女体型じゃないもん。

 

 無論性愛の対象になるかと、恋愛感情を抱いているかは、また別の話であるが。

 もっと言うと、そこは俺とてプロデューサー。何であれ一線を超えることは許されないし、弁えているつもりである。

 

 さて、駐車場に車を置いて店に入る。着替えと言っても事務所に戻るまでなので、何もここで仕事のようなコーディネートセンスを求められることはない。適当にジャージと、替えの下着を一着ずつチョイスするだけである。

 

 下着。

 そう、下着。

 

 今回の事件において、彼女の身に着けていた衣服の中で最も深刻な被害を受けたのは、ほかでもない下着なのである。水源からダイレクトに、くまなく染み渡ったのだろうから。

 俺はこの店に陳列された商品の中から、飛鳥が代わりに身に着けることとなるパンツを選んで買わなければならないのである。

 

 ここが「そのスジ」の店とかなら、まあ「そういう性癖」のつもりということにしてまだ諦めもついただろうが、しかし悲しいかなここは普通の、一般的な量販店である。男性が女性用の下着を買うことの抵抗感というのをどうか察していただきたい。

 もっと言うと、人目につきかねない店内で、どの商品を買うか選び、レジで会計してもらい、それを飛鳥に渡す。ここまでが俺に課せられた羞恥、いや試練である。

 

 それでも彼女をノーパンでいさせるわけにはいかなかったので、諦めて俺は女性用下着のコーナーの前に立っていた。

 まず、どんなパンツを買うかであるが。

 例えばこの、いかにも女の子のパンツ、といった具合のものを手に取ってみる。一面の純白に、小さな桃色のリボンが一輪の花のように添えられている。

 

「……キミのセンスがここまでとは思わなかった」

 

 パンツを手渡された時の飛鳥の反応を思い浮かべる。その声色と表情とに表れているのは感嘆か、底なしの侮蔑か。十中八九後者だと思われる。

 だってさ、女の子のパンツのコーディネートなんてやったことねえですよ。女の子の気持ちにもなれねえですよ。

 ステージ衣装選びの経験とセンスなど及びようもない。

 

 いや何も、飛鳥に気に入ってもらえる下着を選ぼうという話ではない。俺のセンス、ともすれば異常性癖を持っていると疑われかねない選択をしなければいいだけだ。

 つまりは限りなく無難なものを選べば済むのである。何かしら小言は言われようが、しかしその結果から俺と彼女との関係に修復しがたい亀裂が入るような事態にはなり得まい。

 

 しかし無難なものとは、と視線を動かしていたところで、スポーツ用の黒いスパッツが目に留まった。同時に、これしかない、という衝動に打たれたような感覚すら覚えた。

 うちの業界風に言うなら「ティンときた」というやつだろう。

 薄手で一切の余計な装飾を持たず、衣服として求められる実用性にのみ特化した、潔いまでのシンプルさ。レジで会計する上でも、これならさほど人目を気にする必要もない。あくまでさっきのパンツよりはの話だが。

 

 ともあれ思い立ったが吉日と俺はそのスパッツを手に取り、レジへ足を運ぼうとする。瞬間、目の端に試着用の鏡に映る自分の姿が目に入った。

 

 ……ぱっと見、変態には見えない。はず。たぶん。恐らく。

 

 そもそも女性用下着の売り場に男がいる時点で、周囲からは奇異の目で見られてやしないかとも思ったが、現状そのような露骨な視線が刺さる気配もなかったので、先ほど抱いていた不安は存外杞憂というものだったのかもしれないとも感じた。店内にはちらほらすれ違う程度にはほかの客もいるのだが。

 

「あれ? プロデューサーじゃん。何してんの?」

 

 鏡の前で足を止めていた自分の、その背中に澄んだ声がぶつかる。その振動は壮絶なまでの衝撃をもって、俺の心臓を打ち震わせた。

 

 振り返らずとも、目前にある鏡の中の世界、その奥に、担当アイドルの一人である北条加蓮の姿が見えていた。

 そしてその手前には、小脇にジャージ、手にスパッツを握りしめ立ち尽くしている男。彼女の担当プロデューサー、つまり俺。

 

「い、いやあの、あのだな。あれ加蓮? 加蓮ナンデ?」

「何でって、買い物だけど。凛ー、奈緒ー、こっちこっち」

 

 加蓮は仲間を呼んだ。渋谷凛と神谷奈緒が現れた。

 

「え、プロデューサー? 何でこんなところに……」

 

 同じく担当アイドルの、神谷奈緒と。

 

「お疲れさま、プロデューサー。仕事帰り? それジャージと、女の人の下着?」

 

 渋谷凛までが目にしてしまった。

 彼女たちのプロデューサーが、女性用下着を買おうとしている姿を。

 

「え、ちょ、下着? おい、その手に持ってるのってまさか……」

 

 凛の台詞から俺の手元、握りしめられたスパッツへ視線を移した奈緒が後ずさる。ほかでもなく、俺という存在から距離を取ろうとする、本能と直感に基づいた行動が表れていた。

 

「い、いや待て違う! これは誤解だ! 誤解なんだ!」

「よ、寄るなっ! 男がそんなもん握りしめてて何が誤解だ!? へ、変態! 変態がここにいるぞ!」

 

 変態。奈緒の口から飛び出したその四文字が、俺の精神を絶望の底へ突き落とす。女子高生にこんなこと言われてむしろ興奮する、なんてことがないあたり、真に俺は健全だということを読者諸兄にだけは信じていただきたい。

 

「いやまあ、言い訳だとしたらちょっと見苦しいというか。ふ、ふーん……そういう趣味が……みたいな?」

 

 奈緒のように物理的に引きはしないが、侮蔑と苦笑いとが入り混じった複雑な表情を浮かべつつも、しかし目線を俺と合わせようとしない加蓮。ある意味、こっちの方がくるものがある。

 

「プロデューサーに、そういう嗜好があったのなら、まあ……驚いたけど、それは私が知らなかっただけだし。私は受け入れるよ。プロデューサーの、全てを」

 

 凛だけはまっすぐこちらの瞳を見つめ返し、引くどころかむしろ一歩前に出てきている。俺が変態ということを許容されてしまっていた。

 

「変態……俺変態だった……」

「そんなの、何も悪いことじゃないよ、プロデューサー」

 

 凛が慰めてくれる。あくまで俺の潔白を信じてくれているのではなかったが、しかし残り二人の侮蔑と憐れみの視線が激痛と表現できるまでに突き刺さる中にあっては、何であれ彼女の柔らかな声と、菩薩のような微笑みに癒しを覚えるのも致し方ないことか。

 

「言ってくれたなら私も、プロデューサーのしたいことに付き合ってあげられるんだから」

 

 そう言って、右手で俺のスーツの袖を掴んで引っ張りつつ、左手で何やら自身のスカートに手をかける凛。彼女の足はすぐそこの試着室へ向かおうとしていた。

 

「何やってんだーーーッ!」

 

 そう叫んだのが先か、俺を突き飛ばすような形で凛から引き離すのが早かったか、幸いなことに顔を真っ赤にした奈緒によってそれは制止された。

 

「何って。プロデューサー、下着が欲しいんでしょ? 女の子の」

「渡すな! 渡すんじゃない! あんたもたかるな! たかるんじゃない!」

「欲しがってねぇーよ!」

 

 担当アイドル・渋谷凛は、何をこじらせたのか色々と危ない子であった。

 ここ最近は何かと俺に付きまとってくるというか、迫ってくるというか、襲ってくるというか。

 プロデュース始めたての頃はあんなにいい子だったのに。

 

 ともかく。

 ともかく。

 

「だ、だいたい何でお前らこそこんなところにいるんだ! 仕事はどうした!?」

「今日レッスンだけだったから。スケジュール組んでるのプロデューサーじゃん」

「ア、アイドルがむらしまで買い物なんてするのか!?」

「いやしてもいいでしょ普通に」

「少なくとも男が女の下着を買い漁るよりは全然普通だっ! うわこっち来るな!」

 

 瞳にむしろ親しみのような色を込めて見つめてくる凛はとにかく、加連と奈緒に与えてしまった不信感からは逃れようもないらしかった。

 いやまずい、ここで彼女たちに変態のレッテルを貼られてしまおうものなら、今日まで培ってきた信頼関係諸々が水の泡になる。なんとしても誤解を解かねばならない。

 

「と、とにかく! お、お前たちが想像してるような、そんな趣味で買おうとしてるんじゃないんだ!」

「やっぱり買うことは否定してないんじゃないか! 嘘をついてるんだ!」

「じゃあ何でそんなものを後生大事そうに握りしめてるのか、納得のいく説明を聞かせてほしいかなって」

 

 加蓮に問い質されるが、ある種釈明の機会を与えてくれたともとれる。何だかんだこの子が一番まともな反応をしてくれている気さえした。

 

 しかし、釈明。即ち俺がなぜこのスパッツを買おうとしているのか、俺が変態だと誤解させないために相応しい理由を、齟齬と違和感なく述べなくてはならない。

 無論、飛鳥の粗相のことなどおくびにも出すことなく。

 何を話せと言うんだ。

 

「ええと……えっと……」

 

 落ち着け、俺。今こそ日頃の営業で鍛えたトーク力とアドリブの真価が問われる時だ。

 

「つまりその、誤解なのであって、その……目に見えているものだけが真実ではないというか、だからお前たちも……」

「ほ、ほら変態だ! やっぱり変態だ!」

 

 言葉の詰まりを嘘と即断した奈緒が声を荒げながら後ろに飛びのく。いや嘘をつくことには違いないんだけどさ。

 

「自分の……そういう趣味のため、とかじゃないなら、何?」

 

 加蓮の追及。呆れ切った表情が心に痛い。それに俺は悩んで、悩んで、悩んで……。

 

「そ、そう! お、お、俺のものじゃなく、人に頼まれて買いに来たんだ!」

 

 依頼主の名前をぼかしただけで、概ね事実そのままの答えを口走ってしまっていた。

 

「誰に?」

 

 先までの柔らかな雰囲気を彼方へ放り捨て一転、凍てつくような瞳と声色の凛に問い質される。

 

「いやそれは、俺の知り合いとしか……」

「誰?」

「それはプライバシーの保護ということで、ひとつ……」

「プロデューサーに、女の、下着を、買って、くるよう、頼んだ、のは、どこの、誰? 男じゃ、なさそう、なの、は、確定的に、明らか」

 

 どこかで聞いたような言葉の刻み方で、凄みを効かせ迫ってくる凛。誤解以前に彼女の納得のいく返答をしないことには、この先つながる首もつながらなさそうだった。

 同時に、俺に詰め寄る凛の後ろから視線を投げてくる加蓮と奈緒もまた、話の真偽を判断しかねるのもあってか、その顔にどこか興味の色を浮かべている。

 

「誰? 誰? 誰?」

 

 いよいよ凛がこちらのネクタイを掴んで窒息させにかかる勢いだったので、とにかく俺は言葉を紡ぐことに思案を巡らすほかなかった。

 

 ……そう、自分でなく人に頼まれたのなら、誰の頼みかということで。

 

 無論飛鳥の名前は出せない。

 適当に、ちひろさんあたりとしてごまかしてみるか?

 ほら、あの人コスプレ趣味らしいし、その関係でどうとか。

 ダメだ、間違いなくコロされる。いやコロされて済めばまだ幸いなくらいの目に遭わされる。ちひろさんに。

 

 どうあっても、実在の人物を挙げて乗り切るのは無理がある。ならば架空の人間をでっち上げてしまうのが早いか。

 俺に、スパッツを買ってくるよう頼んでくる人間?

 

 もしいるとすれば……。

 

「じ、実は……か、彼女がいるんだ……それで……」

「……は?」

 

 ネクタイを締め上げかけていた凛の手が緩む。と同時に、そう告げた俺の口元を信じられないといった色の目で見つめていた。

 

「か、彼女がいたのか!? プロデューサーに!?」

 

 無論いた試しすらないが、しかし奈緒はわかりやすく大きいリアクションを返してくれた。その勢いなら信じてくれそうか。

 

「そんなわけないじゃんッ!」

 

 俺か、あるいは奈緒の言を否定したのか、ともすれば自分に言い聞かせるような叫びを凛が上げる。彼女のここまで必死な表情を見るのも久しぶりの気がした。一時期仕事がうまくいかずごたごたしていた時以来かもしれない。

 

「……彼女がいたとして、何でそれをプロデューサーが買ってるわけ?」

 

 加蓮はまだ不審さを拭いきれない様子でなお追及を重ねてくる。いいとも、俺が「彼女」の下着を買いに来た訳は……。

 

「あいつがコーヒーを飲みすぎて……」

 

 バカ、違う。そうじゃない。飛鳥の名前をぼかしていてもそっくりそのまま真実を伝える奴があるか。

 

「……じゃない、あいつにコーヒーを渡そうとしたら、手を滑らせてこぼしちゃって」

「こぼしたって、プロデューサーが? その彼女さんに?」

「あ、ああ。それで下着まで濡れちゃったみたいで、着替えを持ってこなきゃってことで……」

「プロデューサー、今スーツだけど。仕事中に彼女さんと会ってたの?」

「い、いや、さっき凛が聞いてきた通り仕事帰りだったんだ。仕事が済んだらちょっと会おうって話になってて……」

「それってデート?」

「デート!?」

「デート!? ふざけないで!」

 

 それぞれ誰の反応か察しがつくだろうか。

 

「ふーん、デートか……。その最中に彼女さんにそんなことしちゃうなんて、やらかしちゃったね? プロデューサー」

「あ、ああ……そりゃもう、あいつカンカンでさ……そういうわけで早いとこ戻らないといけないから、このへんで……」

「はいはい、ご機嫌取り頑張ってね」

 

 加蓮の口元はどこか緩んでいる。本当に信じてくれたのか定かでないが、この場ではそういうこととして済ませてくれるらしかった……内心ではやはり変態と見なされているのかもしれないが。

 

「か、彼女……いたのか……知らなかった……」

 

 一方の奈緒も顔を赤らめながら、何やらぶつぶつと呟いている。信じた信じないはともかく、こちらに気が向いていないうちにこの場を離れる隙は作れたらしかった。

 

「逃げないでよ!」

 

 だが一名、どうあっても俺を逃がす気のないらしい凛が、悲鳴にも似た叫びで腕を掴んで離さない。どうしろというのか。

 

「凛、そういうことなんだから。諦めなって」

「認めない! こんなことがあっていいはずがない!」

 

 埒が明かない。すがるつもりで加蓮と奈緒の方を見やる。

 

「ほら凛、離れなってば。奈緒、手伝って」

「し、しょうがないな……ほら行くぞ凛」

 

 呆れ顔の加蓮と、何やら複雑そうな表情の奈緒とが、両側から凛を引きはがす。いや引きはがそうとした。

 

「やめて! 離して!」

 

 俺から離れまいとする凛が、掴んだ俺の腕に力を込める。女子高生の発揮するものとは思えない、恐ろしいまでの怪力で。肉が裂け、骨がひしゃげるような激痛が襲った。

 

「あだだだあいだだあいっだあいっだいいいいいい!」

「ほら凛、プロデューサーも痛がってるから」

「私の心はもっと痛いんだよ!?」

「いいから離れろって!」

 

 激痛がふっと和らいだのはてっきり腕をもがれ痛む部位自体が欠損したからかと思ったが、よく見れば加蓮と奈緒が凛を引きはがしてくれていたのだった。あの怪力を引きはがすあたりこの二人も相当な剛腕なのではなかろうか。将来この三人と結婚するだろう男性が夫婦喧嘩において露ほどの勝ち目もなさそうなことに同情する。

 ともあれ加蓮と奈緒に羽交い絞めにされる凛だったが、油断するとなおも向かってきかねない勢いだったので、俺はそそくさと店を後にすることとした。

 

「プロデューサー! 私はコーヒーこぼされたくらいで怒るような女じゃないよ! なのにそんな女のところに戻るの!? ねえプロデューサー!」

 

 レジで会計を済ませている間、いもしない俺の彼女を罵り続けてくる凛の怒号に、スパッツを買うことの気恥ずかしさなど彼方へ忘れ去るほどの戦慄を覚えさせられるのだった。

 

 

   *

 

 

 ジャージとスパッツを購入し、車で公園まで戻ってきた。先ほど飛鳥との通話を切ってから、おおよそ二十分少々。着替えを買うにあたり時間を使いすぎた。主にあの三人のせいである。

 その三人との遭遇は想定外の事態ではあったが、ともあれ後はこの着替えをトイレで待つ飛鳥に渡せば、それで当面の問題は解決することになるだろう。

 

 トイレで待つ、飛鳥に渡せば。

 

 飛鳥は女子トイレの個室で、俺を待っている。

 

 トイレに入ろうとする一歩手前ではたと気づいて、少し悩んで、周囲を見渡して、もう一度悩んで、結局俺はスマホで飛鳥に連絡を取ることとした。

 

『……何かあったのかい?』

「いや、今着替えを持ってトイレの前にいるんだが」

『それなら話は早い。いくらボクでもこの際、キミの服選びの感性に不平を垂れるつもりはない。用意してくれたのなら、何であれ受け取らせてもらうよ。さあ、それをこちらに渡してくれ。それで全てが解決する』

 

 全て解決かはわからないが。まだ事後処理とかアフターケアがあるというか、なんというか。

 

「いやでも……そこって女子トイレなんだよな?」

『……まあ、そういうことになるけど』

「俺、男だよな?」

『今、この中にいるのはボクだけだ。そしてキミを待っている間も、ほかに人の入ってくる気配はなかった』

「でも男が女子トイレに入るのはまずいっていうか……」

『おい、頼む、キミしかいないだろう!? この際誰に見られるなどと人目を気にしている猶予はない。構わないとも入りたまえ、ボクが許す。かかるとしてほんの数秒、着替えを個室に投げ入れてくれるだけでいい』

「いやでもいやでももし出てくるところを目撃されたら下手したら通報案件というか」

『キミが無理ならほかに誰がやるというんだ。まばらな通行人の中から見ず知らずの女性を見つけて頼むのか? この着替えを中にいる人に渡してくれと。一般人の感性に則るならその方が不審者極まりないね』

「いや女子トイレ入っちゃう男のがカンペキ不審者だろ!」

 

 まるで埒が明かない。いや、飛鳥の言う通り公園の中も、その近くを通る人影もほとんど見受けられなかったが、しかしほんの数秒、女子トイレに侵入し、出てくるまでの間とてそうだという確証はどこにもない。

 

 もし通報されたとして。

 

 警察は、怖い。

 

 路上でアイドルをスカウトしてた頃、それこそ不審者と間違われて通報された経験がトラウマとなっているらしかった。

 

 もし今回の件でそうなったとして、なおも飛鳥の存在を秘匿しながら女子トイレに侵入する正当な理由、齟齬のない嘘八百を並べ立てることなど、俺には到底できそうもなかった。

 

『キミがそこまでくだらないことにこだわる人間だとは思わなかった。ボクも人を見る目がないな』

 

 本気で呆れているのか、あくまで俺を中に入れさせようと煽っているのか定かでないが、電話越しの飛鳥の罵倒。けれどもその言葉は俺に歩を進ませるほどの決定力をなさなかった。

 しかし、このまま渋っているばかりでは一向に事態は進まない。俺が入るわけにいかないなら、ほかにどうやって着替えを渡す手段があるか……。

 

「……じ、じゃあ飛鳥の方からこっちまで取りにくるってわけにはいかないか?」

『気は確かかい?』

「いやでも外に人もいなければトイレに入ろうとする人もいないわけだし、別に見られる心配は……」

『そこにいるこの地上屈指の変態に見られるだろう!? そうか、キミはつまりそんな奴だったんだな』

「ちょ、違う! そんなつもりはない! 俺は目つむってるから! その間飛鳥が着替え取りにくればいいだけだから!」

『だとしても、こ、こんな格好で外に出れるわけがないだろう! キミはボクを何だと思っているんだ!?』

 

 こうまで声を荒げる飛鳥も珍しい。年相応というか、女性としてごく当然の羞恥の価値観を持っていることに、ふと安堵とどこか意外さのような感情を感じる俺がいた。

 いやまあ、いつもの飛鳥の調子なら……。

 

「素肌を晒すことに羞恥を覚えるなど、大衆の作り出した価値観に踊らされているに過ぎない。一枚二枚の布切れを隔てているかで人が人に抱く感情はかくも変化する。滑稽だと思わないかい?」

 

 いや言わない。少なくとも下半身丸出しでそんなこと言わない。

 というか下手したら露出狂じゃねえかこれ。

 飛鳥とて少々こじらせた性格をしているだけで、普通の女子中学生相応の価値観と常識を持ち合わせているはずである。それに則るとすれば、やはり人に見られるリスクを冒してまで個室から出る見込みはないらしかった。

 

 となると、いよいよどのようにして着替えを渡すか。それこそ人に頼むくらいしか手立てがないのではないかと思い始めた矢先である。

 

「やあ、プロ、デュー、サー、奇遇、だね、こんな、とこ、ろで、会う、なんて」

 

 耳に押し当てたスマホの奥からではなく、俺の背中にぶつかるその声。飛鳥とも違う、しかし聞き慣れた声。つい先ほどまで俺を逃がすまいと罵っていた声。

 

 振り向くとそこに、肩で息をし、頭から水をかぶったかのような大汗をかいた凛が佇んでいた。

 激しい息切れと共に発した白々しい挨拶の一方、その瞳は得物を狙う猛禽類のごとく鋭い光をもって、こちらを睨み続けていた。

 

「おま、お前……何でここに……」

「ちょっと、ハナコの散歩にね。そしたら偶然、プロデューサーが」

 

 無論、偶然の遭遇というわけがない。

 こっちは車で来たのに、どういうわけか追ってきたに違いないのである。

 ただ、恐怖するしかなかった。

 

「加蓮と奈緒はどうした? さっきまで一緒に買い物……」

「急にハナコの散歩したくなったから、二人と別れて来たの。いいでしょ別に、私がいつハナコの散歩したって」

「……そのハナコは、どこに?」

 

 飼い犬の散歩と言い張っておきながら、凛はその近辺に犬を従えている様子はない。

 

「ああ、逃げられちゃったみたい」

 

 臆面もなくそんなことを言ってのけた。もっとも飼い犬の散歩に来たということ自体が真っ赤な嘘もいいところだが、しかしつくにしてももう少し健全というか、飼い犬に逃げられて平然としているような人間だと思われないような嘘をついて欲しかった。

 して、ここまでして俺を追ってきた所以となると。

 

「で、プロデューサー。その手に持ってるの、さっき買ってた着替えだよね? ということは、その女っていうのが、この近くに?」

 

 あくまで、このままで済まそうという気はないらしかった。

 

「ち、近くにいたとして、どうするんだ」

「どうするって……どうかする。とにかくこのまま引き下がるなんてできないよ」

 

 もし俺に本当に彼女がいたとして、この目の前の少女は何をしでかそうというのか。頼むから法に触れない範囲のことであってほしい。

 

「さあ答えて、プロデューサーの彼女はどこ? 会って話がしたい」

 

 着替えの調達を依頼した人物を彼女としているため、下手をするとトイレの中にいる飛鳥の存在に気づかれる恐れがある。

本当は俺に彼女などいないということ自体はばれようがどうでもいいのだが、もし弾みで飛鳥の粗相のことまでが知られようものなら、彼女の俺に対する、いや今後の人間関係の全てに対する支障としかなりえないことは想像に難くない。

 断固として、飛鳥につながる恐れのある事柄を口にすることはできなかった。俺は目前に対峙する、この悪鬼のごとき担当アイドルと戦う決意を固める。

 

「ほらプロデューサー、素直にしゃべった方が身のためだよ」

「あばばがぐごごごがばばばば」

 

 ネクタイを引き絞られ首が締まる。苦しいですサンタマリア。もうさようなら飛鳥。

 

 いや落ち着け、何か手立てがあるはずだ、まだ諦めるには早い。薄れゆく意識、赤く染まる視界の中、酸欠のため停止しかかる思考を動かし、打開策を練る。

 凛は俺の「彼女」に会いたがっている。だがここで「彼女」としている人物は飛鳥である。飛鳥に会わせることは俺のついた嘘と、そこから彼女の粗相を秘匿していることを気づかせてしまう。だが会わせないことには凛は引き下がらない。というかまず俺が死ぬ。コロされる、この少女に。

 

 ……少女。

 

 ふと、ひらめいた。

 

「な、なあ凛……ものは相談なんだが……」

「話す気になった?」

「話すから……先に放してくれないか……」

「いいけど、逃げないでよ?」

 

 この状況で彼女に背中を向けられるほど俺とて命知らずではない。

 

 ともあれ締め上げていたネクタイから手を放してくれる凛。途端一気に喉の奥へと酸素が行き渡る。空気がうまい。

 

「で、どこにいるの? 嘘をついたら許さないよ」

「じ、実はそこのトイレにいるんだ。中の個室で、持ってきた着替えを待ってる」

「三分で戻るよ」

 

 聞くが早いかトイレへ向かおうとする凛を慌てて引き留める。個室のドアなど蹴破りかねない勢いだった。

 

「待った待った待った! それで中にいるあいつにこの着替えを渡さなくちゃいけないんだけど、ほら俺男だろ? だから女子トイレに入れなくて困ってたからさ……」

「……代わりに、私に届けてこいって?」

「そ、そう。察しが早くて助かる……」

 

 凛が引き下がるかはともかく、飛鳥に着替えを届ける方法として、これしか手立てが浮かばなかった。

「敵に塩を送る真似を、黙って私が引き受けるとでも?」

 

 お前から先に始末してやろうか、といった面持ちでこちらに向き直る凛。ほかに形容したくないくらいにはおぞましい表情だった。

 とにかく、凛を丸め込まないことには、俺と飛鳥の未来はない。

 

「い、いやその……ほんとのこと言うとだな、さっきのコーヒーの件なんだが、手が滑ってこぼしたとかじゃないんだ」

「その人にコーヒーかけたって話?」

「実は……ここ最近、彼女とはうまくいってなくて……今日も、向こうから別れ話を切り出されてさ。それについ、カッとなっちゃった俺が、手にしていたコーヒーを……」

 

 そこに来てふっと、凛の表情から憎悪の色が薄れ始めていった。

 ……お、もしかしてこの流れならいけるかも?

 

「幸い、冷めてたから火傷とかはなかったんだけど、あいつそのまま逃げ出しちゃって……それで俺が追いかけたら、ここのトイレに閉じこもった感じで……」

 

 嘘とはいえ自分を悪者に仕立て上げる形にはなるが、飛鳥の名誉には替えられない。

 

「そう、だったんだ……そんなことが……」

 

 出まかせながら信じてくれたのだろうか、面持ちは暗く複雑な色を浮かべている。俺が女に、そんなことをする男だと知って、失望したことだろうか。

 

「一応、着替えを持ってくるからってことで待たせてはあるんだけど……正直、俺たちはおしまいだと思う。俺にはもう、彼女に会わせる顔もない。でもせめて、これぐらいのけじめは果たしたいんだ。どうか俺の代わりに着替えを渡してきてくれないか」

「……ふぅん」

 

 凛の澄んだ瞳がまっすぐこちらを見据えてくる。目前の俺を品定め、いや俺が犯した(という設定)の罪を推し量るように。

 少しの沈黙の後、凛は片手をこちらへ差し出した。

 

「……いいよ、行ってあげる。これから別れるならね」

 

 口元の微かな緩みからは、どこか安堵のような情も見て取れた気がした。幻滅した相手に向けるそれとしては、優しすぎる表情にも映る。

 

「……俺がこんな人間で、失望したか?」

「ううん。言ったでしょ、私はプロデューサーの全てを受け入れるって。それにプロデューサーだって人間なんだもの、そういう時だってあるの、私もわかるよ」

 

 凛の瞳には一点の曇りもない。ふと飛鳥のためについた嘘だということを忘れそうになるくらい、俺は彼女にこれほどの信頼を寄せられていることを喜ばしく思いたくなった。

 差し出された凛の手に、着替えの入った袋を渡す。

 

「それじゃあ、プロデューサーを傷物にした落とし前、つけてこないとね」

 

 ところがこちらに背を向けトイレに向かおうとする凛からは、再度抑えようのない殺意が溢れ出ていた。

 

「いや待て傷物にとかされてないから! 向こうは何も悪いことしてないから!」

「そいつを庇うことなんてないよ」

「穏便に! 穏便に済ませてくださいお願いします」

「……そこまで言うなら、まあ……どうせ別れるんだし」

 

 残念そうに凛は殺意の色をどこかへ引っ込めた。

 これで中にいる飛鳥が勘違いからどうかされたりしないものと思いたい。

 

 ……待てよ。そう、飛鳥。

 

 飛鳥には凛が着替えを私に行くことを伝えていない。

 

「り、凛! その着替えなんだが、個室の中へ投げ入れるだけでいい!」

「え? でも……」

「その、せめてもの何というかだ! お前の気持ちを思いきりぶつけるつもりで叩き込んできてくれ!」

「……そういうことなら、わかったよ。プロデューサーの無念、私が晴らしてあげる」

 

 不敵な笑みを浮かべながら女子トイレへと消えていく凛。すぐさま俺はスマホの事務連絡用LINEから飛鳥へメッセージを送る。

 

〈凛が着替えを渡しに行った。気づかれないようにしろ〉

 

 三秒で返信が来た。

 

〈待て〉

〈どういうことだ〉

〈ふざk〉

 

 それが飛鳥からの最後のメッセージだった。賽は投げられた、後は飛鳥がいかに凛に気づかれないように振る舞ってくれるかを祈るばかりである。

 ……勢い余った凛に血祭りに上げられてたりしませんように。

 

 

   *

 

 

 渡して、戻ってくるだけにしては時間がかかった方だろうが、一応それから三分ほどして凛は戻ってきた。手には着替えを持っていない。やることはやってくれたらしかった。

 

「わ、渡してくれたか?」

「うん、思いきり。ついでにガツンと言ってきてやったよ」

「そ、そうか。ありがとう」

 

 飛鳥からすれば何を凛から言われているのか理解できないことだったろう。

 しかしこの素振りだと、凛は本当に飛鳥の存在に気づいていないのか。

 

「……彼女、何か言ってたか?」

「特には……あ、でも最後に一言だけ返事はしてくれたよ」

「しゃべったの!?」

「いや、しゃべるでしょ……何かおかしいことでも?」

「い、いや……」

 

 声まで発して気づかれなかったからには、普段と相当違う裏声でも使ったのか。飛鳥の裏声、むしろ俺が聞きたくなるレベル。

 ともあれ、これで凛の血の気を沈めることもでき、飛鳥にも無事着替えが行き届いた。後は飛鳥を伴って事務所まで帰るのみである。

 

「ところでプロデューサー、このあと時間、空いてる? ちょっとお茶でもできたらなって……」

「ごめん、今日はもう別の予定が入っちゃってて……また今度にしてくれるか?」

「予定、どんな?」

 

 あくまで俺が何をするのか把握しないと気が済まないらしかった。

 実際は飛鳥を送ってからまた事務所で仕事なのだが、先ほど仕事帰りと言ってしまった手前、本当のことを言うわけにもいかない。

 凛が俺について来ることなく、穏便に済ませられる「予定」となると……。

 

 あれ、どうしよう。思い浮かばない。

 どうしてこう何でもないはずの質問につっかえてしまうのか。先ほどアドリブを撃ちすぎてネタ切れになったとでもいうのか。

 

「どうしたの、プロデューサー? 予定、あるの?」

「い、いやその……」

 

 凛がこちらの瞳を覗き込むように近づいて来る。恐らく、そこに浮かんでいるだろう迷いの色を見透かされている。本当は予定などないことに勘付かれつつある。

 いやまあ、飛鳥のことがないなら凛に付き合ってあげてもいいのだが、しかし粗相をした挙句このトイレで散々待たせた飛鳥を放置するわけにはいかない。とにかくここさえ乗り切れば万事解決する、はずなのである。

 

「やあプロデューサー。それにもう一人は、凛か。奇遇だね、こんなところで何をしているんだい?」

 

 不意に後ろから声をかけられた。目前の凛からではなく、けれどもやはり聞き慣れた少女の声。

 ジャージ姿の飛鳥が、いつも通りの飄々と構えたような面持ちでそこにいた。

 

「たまには基礎体力作りの走り込みもいいかなと思って、特に当てもなくここまでやってきたわけだけれど。思いがけずキミたちと出会ったあたり、辺鄙に思えたこの場所にも、何かしらの意味とか、運命が込められているのかもしれないな」

 

 凛の注意が俺に向いている隙にトイレから出、なおかつ偶然を装って声をかけてくれたということらしい。そこはアイドル、日ごろのレッスンで鍛えた演技力の見せどころだった。飛鳥はいかにもいつもの調子を再現しようと試みていた。

 

「けれど凛がすでにプロデューサーとの先約を取ったようなら、それを邪魔するほどボクとて野暮じゃない。おとなしくランニングに戻るとするよ。それじゃあ明日、また事務所で会う時までしばしの別れだ」

 

 あくまでこの急場をしのごうと、そういうことにして飛鳥は立ち去るつもりらしかった。正直俺がうまく凛に言い訳できていれば、彼女を一人で行かせる必要もなかったのだが、そのあたり自分の不甲斐なさを感じずにはいられなかった。

 そう、このまま一人で行かせられるくらいに飛鳥は気丈に振る舞っていたし、その演技もまた違和感なく自然な素振りであった。

 

 ところが飛鳥は、なにも知らなかった。知らなさ過ぎた。

 

「……それ、さっきプロデューサーが買ってたジャージだよね」

 

 飛鳥を指してぽつりと言う凛。踵を返しかけた飛鳥が凍り付いた。

 凛の目前で立ち尽くすしかない俺など、生きた心地もしない。

 飛鳥が着ているジャージを、凛は先ほど俺が買っているところを目撃していたのである。

 スパッツだけの話ではなかった。

 ぎこちなく振り向いた飛鳥の瞳が、どういうことだとこちらへ問いかけてくる。同時に、何とかしてくれとも。

 

「そのジャージ、さっき、私が渡した……」

 

 凛の目からハイライトが消える。

 もはや三十六計を決め込むほかなかった。

 俺は全霊の力をもって大地を蹴り、少女から悪鬼に変わろうとしている存在から距離を取る。

 

「飛鳥走れ!」

 

 呼びかけて、俺もまた走る。向かう先は停車してある車。とにかく今は凛のいないところへ逃れるほか、生きる術は見出せなかった。飛鳥もまたそうするしかないと通じたか、俺に続いて走り出す。

 すぐ後ろから凛が恐ろしい叫びを上げながら迫ってきていた。振り向くこともままならない。

 幸いにして公園は狭く、路肩に停めた車までさほど距離が開いていなかった。もしあと十メートルと長く走らされていれば、間違いなく俺と飛鳥のどちらかが凛に追い付かれ、断末魔の叫びを上げていたところだろう。

 

 俺と飛鳥が車に飛び乗る瞬間はほぼ同時だった。すぐさま鍵をかける。タッチの差で凛がドアをこじ開けようとし、叩き割らんばかりに窓ガラスを平手打ちしてきていた。その表情など、直視したが最後全身を麻痺させるかのごとき威力を醸しており、視界の端に入れることすら憚るほどである。

 

「プロデューサー! 早く!」

 

 後部座席の飛鳥の悲鳴。無我夢中でアクセルを踏んだ。思考の端にほんの一瞬だけ、凛を引きずりやしないかという不安がよぎったが、しかしこの瞬間の脳内の大半を占めていたのは、彼女をターミネーターかなにかと同一視していたことからの恐怖であり、これ以上の迷いを持つことを許さなかった。

 走り出す車。なおも凛は追いすがってくる。俺の意識にあったのはとにかく彼女の姿がバックミラーから消え去るまで逃げ続けることだけだった。

 

 

   *

 

 

 どこへ逃げたか、どれだけ逃げたか。事務所などとうに通り過ぎ、来たこともない田舎道にたどり着いていた。

 周囲を見渡せど、凛の姿はどこにもない。逃げ切れたらしかった。

 

「こ、コロされるかと思った……」

「ああ全く……あれほどの生命の危機を感じることも一生にそう、あるかどうか」

 

 俺も飛鳥も疲弊しきっていた。そもそも、どうしてこんなことになったのかも忘れてしまうぐらいに。

 けれどもバックミラーから後部座席にもたれるジャージ姿の飛鳥が目に入り、否応でも事の発端を思い出す。急に気まずくなって、紡ぐ言葉を失ってしまう。

 飛鳥もまた、俺の沈黙から悟るところがあったらしい。疲弊と安堵の表情がやがて硬く変貌するも、すぐに俯き、どんな顔をしているかさえ窺えなくなる。

 

 ……そう、この少女は先ほど、粗相をしたのだった。

 それもその事実を、男であり、大人であり、そして仕事のパートナーでもある俺に、知られてしまった。

 加えて、その後始末に手を貸されたのである。

 十四歳の少女にとって、その羞恥がいかほどのものか、想像に余りある。

 

「……一つ、確認したいことがある」

 

 俯いたまま言う飛鳥。先ほど凛の前で演技していたような飄々さはなく、熱を失ったように弱く、震えるような声だった。

 

「先の口振りからして、凛はボクが、その……つまり、粗相をしたことまでは、知らないんだな?」

 

 着替えを買っていたところを目撃されたとくれば、当然危惧して抱く疑問だった。

 

「あ、ああ。凛にはコーヒーをかけてしまった俺の彼女のため、ということで通した。まあ、最後は嘘だとバレたけど……」

「……ああ、そうだな。バレてしまった。ボクがそのやり取りを知らず、凛の前に姿を現してしまったがために。全て水泡に帰した」

「い、いや! その、粗相のことまではバレてない! ただ凛は俺に彼女がいると信じ込んで、それで突っかかってきただけで……」

 

 飛鳥は何も答えない。ただ俯むいているばかりである。

 俺は彼女へ向き直り、羞恥と絶望に震える小さな体へ語りかける。

 

「……誓って、飛鳥の名誉は守り通した。少なくともお前が凛をはじめ、ほかのみんなとの付き合いにこの先支障をきたすようなことはない。白々しいようだが、どうかこれだけは信じてほしい。だから安心しろ、なんて軽々しく言えないけど……」

 

 その先に紡ぐ言葉は見つけられなかった。しんと沈黙が訪れる。やはり何も言わない飛鳥を、俺は黙って見つめた。これまで積み上げてきた彼女の信頼が発揮されることにすがるつもりで。

 

 俺の言葉を信じてさえくれたら、今日の出来事は俺と彼女だけの秘密で済ませられる。

 

 しかしそう割り切ることができるだろうか。いくら俺が気にしないと言ったところで。長い長い無言を経て、視線を落としたままようやく飛鳥が口を開く。

 

「……許されない」

「え……」

「こんな醜態を晒しておいて、許されるものか」

「す、すまん! 元はと言えば俺が待たせたから……」

「違う! キミは何も悪くないんだ!」

 

 自身の膝に向かって、飛鳥が声を荒げた。張り詰めた空気が振動する。

 

「……キミが悪いわけないだろう。さっきはああ言ったけど、全てはボク自身の愚かさが招いた結果じゃないか。それも何だ、粗相? この歳にもなって? 羞恥を通り越して笑うしかないよ。はは、惨めだ。こんなにも惨めな気分は生まれて初めてだ。赤ん坊に戻ったようだよ。なあそうだろ? はは……」

 

 俯いているので、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。しかし声色はどんどん上ずってかすれていくようで、斜に構えた軽口さえ虚勢であるのは明らかだ。

 

 それが痛ましい姿にさえ見えて、思わず俺は両手を飛鳥の肩に置いた。はっと上げた彼女の顔はかつてないほど力なく、今にも消えてしまいそうな蝋燭のよう。

 肩に置いた手に力を込める。込めた力を、その細い体へ流し込むつもりで、俺は飛鳥の瞳に向かって言った。

 

「飛鳥。今日のことがあっても、いやこの先何があったとしても、俺はお前を見る目を変えるつもりはない。お前がしたこと、してしまったこと、全部ひっくるめて飛鳥だ。全部受け入れて、今まで通りに、いやそれ以上の関係を築けるようにやっていく。俺は絶対お前を見放さない、裏切らない」

 

 後になって思い返せば、歯の浮くような台詞の数々。けれど飛鳥は瞬きも忘れてそんな俺を見つめ返してくれた。

 

「だから……お前も俺を信じて、受け入れてほしい。今日の自分を、許してやってほしい。忘れろとか気にするな、とは言わないから、せめて胸を張っていてくれ。お前は決して惨めなんかじゃない。俺が育てた自慢のアイドルだ」

 

 ようやく、思い出したかのように瞬きを数度繰り返す飛鳥。それから再び視線を落としてしまう。けれども口元は緩やかにつり上がっていた。

 

「……全く、よくもそんな台詞を思いつくというか、口にできるものだ」

「そう言ってくれるな……冷静になると死ぬほどハズい……」

「笑わせるな。ボクが受けた辱めに比べればその程度。それより、いつまで触っているつもりだい。セクハラだぞ」

 

 まだ肩を掴んだままなことに気付き、慌てて手を離す。促してきた彼女の声色はいつもの調子を取り戻していた。

 

 それから間もなく顔を上げる飛鳥。飄々として涼し気な面持ち。

 

 俺の言葉をどう受け取ってくれたかは定かでない。けれど彼女なりに今日の出来事と、自身の感情に折り合いをつけてくれたのだろう。文字通り、前を向こうという風に視線を俺の肩の向こうへ送っていた。

 

「ぷ、プロデューサーっ!」

 

 途端、せっかく浮かべてくれたその表情が恐怖に激変する。何が彼女をそうさせた。よくも彼女をそうさせた。ただならぬ気迫に俺も飛鳥が指した先を見やる。

 

 車のフロントガラス。凛がいた。四肢をガラスに張り付かせ、みしみしと軋む音を立てている。

 浮かべた形相は、今日の出来事全てが彼方へ消し飛ぶほど恐ろしい。

 

 

 <了>


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