以前発行した同人誌『ヒカ』に収録した作品。ほかにも4編ほど書いたのですが、同誌に掲載したなかでは唯一マシな出来かと思われます。だってほかのぜんぜんアイマス関係ないんだもん。
あまり公言したくないのですが、もりくぼの趣味はポエム作りです。
公言したくない、というのは別にやましい気持ちがあるからというわけでなく、アイドルという仕事をやっていると「趣味を活かした活動路線」とか「趣味は公開すべき」みたいな風潮がそこかしこに漂っているからです。
実際もりくぼも以前、凛さんと出演したラジオ番組で危うくポエム帳を公開されてしまうところでした。まあ、代わりに即興ポエムを披露という形に追い込まれて、結局もりくぼのポエムが公共の電波に乗ることからは逃れられなかったんですけど。
趣味は趣味なので、ひっそりと個人でやっていければ。
人に見せるとかでなく、自分の中だけでやっていければ、それでいいのです。
ポエム帳だって、この先誰にも見せることはないと思います。
というか、絶対に見せたくありません。
見せられるものではありません。
まだ裸を見られる方がマシです。
前に上条さんが「眼鏡を取るぐらいなら服を脱ぐ」なんて言ってた時にはドン引きしましたが、置き換えられてみればもりくぼも案外、人のことを言えないものです。
このポエム帳には、もりくぼの詩がいくつも綴られています。
今までの積み重ねの数々です。
積み重ねられてできた山が高いほど、崩れた時の被害は甚大なものになります。
今さら人に見せるには、色んなものを詰め込みすぎました。どの詩も、例外なく人に見せたくないものです。
「見せてはいけない」ものすらあります。
これだけは、もりくぼの中の、奥の奥に、しまっておかねばならないこと。
もりくぼが一人で、生涯、向き合っていかねばならないもの。
ここだけの話、今回だけは、吐き出してしまいましょう。もりくぼ以外に、ここで語ることを知る人はいないのですから。知ったところで、誰も信じなどしませんから。
さて、というのももりくぼの書いた詩には、人を不幸にしてきたものがあるのです。
言い換えるなら、森久保乃々は人を不幸にする詩を、書くことができるのです。
*
眉唾な話もいいところです。荒唐無稽ですらあります。超現実的というより、ファンタジーやメルヘンとか、子供騙しのように捉えられるでしょう。
しかしそう言いきれるほどに至るだけの所以を、もりくぼは重ねてきたのです。順を追って話していきましょう。
第一は、小学六年生の春のことでした。
悪夢の学校行事、修学旅行の到来です。
大多数の人々は、楽しい思い出のひとつとして小学校時代の記憶を彩っていることでしょう。でもそう思えるのは日頃の学校生活がいかに充実していたかという大前提があるからです。そうでなければ、どうして親許を離れて慣れない県外まで来て、それも赤の他人なクラスメイトたちと二泊三日を過ごさねばならないのでしょうか。
そうです二泊三日も!
二泊三日もです!
何よりもりくぼを憂鬱に沈めていたのは、グループ分けがこれまた劣悪な結果にあることでした。
元よりそこまで親しいクラスメイトがいたわけではなかったのですが。しかしよりにもよってこの人たちと、班行動から寝泊まりまで、二泊三日、四六時中、朝も昼も夜も一緒にいなければならないのかと、絶望に絶望を重ねる組み合わせでした。
率直に言って、クラスの中でも苦手な人ばかりだったのです。
会うのも、話すのも、一緒に何をするのも、同じ空間にいることさえ。
全てがもりくぼと息の合わない、合わせる気のない人たちでした。
どうしてそんなグループに放り込まれたのか。全てはくじ引きのせいです。仲間外れの出ないようにとか、仲良しだけで固まらないようになんて先生の計らいらしいですが、正直余りもので組まされる方がどれほど慈悲深かったというものでしょう。
当日までのホームルームで、グループごとに準備の時間が設けられていました。自由行動ではどこに行くか、グループの発表会ではどんな出し物をするか、その他、雑談諸々。
どれをとっても、そこにもりくぼが介入できる余地はありませんでした。必要最低限の意見すら求められませんでした。いるだけどころか、いる扱いをされたことがありませんでした。
どうして修学旅行に行きたいと、思うことができるでしょう。
病気になればいいのに。事故に遭えばいいのに。災害が起きればいいのに。修学旅行に行かなくて済む理由ができればいいのに。
どれだけ願っても、もりくぼの体は嫌になるほど健康でした。街は交通安全が徹底され、治安が行き届いています。当日の天気予報は全国的な快晴で、地震雲らしいのも見当たりません。
とうとう出発が翌日に迫ったその夜。奇跡でも起きなければ、明日休むことが叶わないと悟ったもりくぼは、もはや現実逃避に至るほか、精神の安息を見出せなくなっていました。
机の上に、ポエム帳を開きます。
真っ白なページを、それと同じような心持ちでもって眺めます。ぽけーっと、意識をその白い平野に投げています。
ふとすると、感情を形に表したいという欲求に気付きました。少しばかり思考を働かせると、それが文字へ変換されます。後はシャーペンを走らせ、ノートに文章として書き起こすだけ。
あっと思うと、そこに短い詩が書かれていました。
まわるまわるわたしのいしき。
どうかあしたがきませんように。
いまあるへいわをかみしめる。
きょうというひのしあわせのなか。
それさえあれば、わたしはしあわせ。
書いてから、輪をかけて悲しい気持ちになりました。救いを求めたはずなのに、かえって惨めで、自ら苦痛を再確認したかのようです。
そりゃ、行きたくない要因ははっきりしていました。けどそれで誰それを恨むとか、いなくなればいいのにとか、そういう暗い内容の詩を書くつもりはありませんでした。元より「落ち込んでもうダメだ」みたいな激しいものは好きじゃないのです。
ただ、願っただけでした。
本当に、ささやかな幸せです。
特別でも何でもない、ただ平穏であるというだけの時間が、どうか続きますようにと。
私は誰の不幸も願ってはいませんでした。
求めていたのは、自分の幸せだけです。
そんなものが得られるはずもなく、翌日は狂おしいほどの青空と、邪魔する雲がないことにけたたましく笑うような太陽が、絶好の出発日和であると高らかに告げていました。
親に急かされ、重い旅行鞄を引きずって学校まで行きました。道中何事もなく着き、バスに乗り、ほかに誰も遅れることなく、修学旅行は予定通りのスタートを切りました。
バスの席も、件のグループで固められていました。もりくぼ以外の彼女たちは、各々楽し気に話をしています。もりくぼにはちっとも楽しいと思えないようなことで、けらけら笑っています。細めた目からは、この世の全てを見下し、嘲笑うような色が見えます。
もりくぼはすることがないので、俯いてじっとするばかりです。視界を自分の膝だけが占めています。この期に及んで呪わしいほど血色のよい肌。私がこんなに不幸せなのに。
やがて先生が席から立ち上がって、バス中に聞こえる声で宣言します。目的地に着くまで、レクリエーションで場を盛り上げようというのです。
しなくていいのに、そんなこと。
でも先生の思惑通りか、周りはとても楽しそう。
運ばれたのは、みんなの幸せだけ。
私だけに、その引き換えの不幸がある。
一番幸せを願っていたのは、私のはずなのに。
ふと短く、野太い悲鳴が聞こえました。ずっと前の方から。運転手のおじさんだと思います。どうしてそんな声が聞こえたのでしょう。それも一緒にレクを楽しもうという声色ではありません。
疑問に思うより早く、猛烈な振動と衝撃がバスを襲いました。
*
結果を言うと、修学旅行は中止になりました。
行きがけにバスが事故を起こしたからです。突然タイヤがパンクしてスリップし、塀にぶつかったのです。
バスの中はひたすらの悲鳴と、底に漂うような呻き声に満たされていました。
先生はぶつかった際の衝撃で転び、腰の骨を折りました。もりくぼが卒業するまで、先生は担任に復帰できませんでした。
クラスメイトが何人も怪我をしました。みんな肌を恐怖のため蒼白に染めて泣き叫び、この場にいない親の名前を呼んでいました。
耳元で聞こえたのは、隣の席の彼女の叫び。誰を呼ぶでもなく、自身の苦痛を訴えるばかり。
窓際に座っていた彼女には、無数の割れたガラスが刺さっていました。おびただしい血を流しています。目だけでは飽き足らず、全身から涙を流そうとしているかのようです。けれどもその血の赤々しさといったら、彼女が生きていることを、その命が燃えていることをこれでもかと誇示するようで、実に健康的な色合いだったのです。
その健康的な赤が、とにかく恐ろしかったことしか、もりくぼはほかに思い出せません。
この怪我のために、もりくぼの苦手だった彼女は、とうとう卒業まで学校に来ませんでした。
顔にまで、一生消えない傷を負った彼女。
もし彼女ともりくぼが逆の席に座っていたら、ガラスの破片を浴びたのはもりくぼの方でした。そんな傷があっては、今こうしてアイドルなどしていなかったことでしょう。
ともすれば、もりくぼは彼女に感謝すべきだったのでしょうか。
もりくぼの代わりに、ガラスを浴びてくれたと。
学校に来なくなってくれてせいせいしたと。
けれど、もりくぼは感謝などしませんでした。そのどちらの感情も、抱いたことはなかったのですから。
ただただ、事故が起きたことが恐ろしくて。周囲を襲った阿鼻叫喚から、自分が紙一重で助かっていたことに、かえっておののいていました。
ポエムのことなどそれどころではなくて、この時は書いたことすら忘れていました。
*
翌年、小学校を卒業したもりくぼは、今も通っている中学校へと入学します。
小学校でもそれほど芳しくなかった人間関係ですが、ここに来て環境が激変し、もりくぼは襲い来る一日一日のストレスからいかに目を背けるか、苦心したものです。
二年生になった今でこそ、一応クラスでは一緒に行動する友達もできはしたのですが(余りもの同士と言われたらそれまでですけど)。入学間もなかった当時は、誰かに話しかけるどころか名前を聞くだけでも、未知の存在がそこにあるというように思えて震えたほどです。
誇張していると言われそうですが、日頃もりくぼが他者に抱く印象、心構え、警戒心みたいなのはそういうものです。気心の知れた相手ならともかく、世の中には赤の他人と分類できる人間の方が多くて、その中には人を害することを何とも思っていないような人種もいるのですから。
その「害意」が自分に向けられることがあるかと思うと、下手に関わり合いを持つのは避けたいと願うのが当然の防衛反応でないでしょうか。
入学して三か月が経った頃、もりくぼはクラスの中にあるその「害意」に気付きました。
授業と授業の間の一〇分休み。もりくぼの左斜め前の席に、男子が座っています。何をするでもなく、無防備な背中を晒していました。武器も、抵抗の意思もない、無力の塊。
また別の男子が、後ろからもりくぼとすれ違っていきます。席に座る彼の死角から近づき、その頭髪を鷲掴みにしました。
間もなくもう二人の男子も集まり、席に座る彼を取り囲みます。取り囲んだ中で、何をしているかまでははっきりと窺えません。ただ何を言っているのか、どんなひどい言葉を浴びせているのかは聞こえてきます。一字一句思い出して書く気にはなれないような言葉です。
彼は縮こまり、震えることすら許されないように身を固くしています。手足と頭を引っ込めた亀のようでした。けれど彼に甲羅はありません。三人の暴力を弾き返すことも、暴言を遮断することもできないのです。
次の授業のチャイムが鳴ると、三人は散り散りに自分の席へ戻っていきました。残された彼はのっそりと首をもたげ、平静を取り戻します。あるいは、装っています。けれども次の包囲まで五〇分ほどの猶予しかありません。もう五〇分で、また同じことが繰り返されるのです。
みんな、そこにいじめがあるとは、見ようとしていなかったのかもしれません。いじめがあるとは、思いたくなかったのかもしれません。
仮にあっても、それで自分がどうこうしようというつもりになれる人はそうそういないでしょう。
いつあの「害意」が自分に向けられるんじゃないかと、内心震えていたのは、もりくぼだけではなかったはずです。
昼休みになると、彼は三人に囲まれ、どこかへ連れていかれます。その間だけ、教室の空気は後味の悪さを残しながらも、平穏を取り戻します。
ここで起きていないなら、いい。みんなそういう風に、各々の昼休みを過ごすことに努めていました。
教室に彼らがいたらいたで、そこで繰り広げられる光景をいかに無視できるかに、全力が注がれているのですけど。
とまあ、そういう最悪な空気にあったわけです。
見て見ぬふり。知らんぷり。
いじめを見過ごす方も、いじめているのと同じ。どこかで誰かが、そう言っていました。いっそディストピアに片足を突っ込んだ相互監視社会なくらいの方が、まだ幸せなのかもしれません。
けどもっと幸せで、なおかつ楽なのは、知らないままでいることでしょう。
世の中には知らない方がいいこともあるのです。
さすがに今から得るのは、諦めるほかない幸せなのですけど。
ある日、廊下を歩いていると誰かと誰かの話を小耳に挟みました。
彼、やばいんじゃない?
一〇万取られてるってマジ?
先生気付かないとかどんだけよ。
あの出来事は噂話として囁かれていました。
出典不明の噂。もしかしたら流言飛語。
けれど、火のない所に煙は立たぬ。
そこに風が吹いたなら、もしかすれば煙は天を焦がす大火に化けるかもしれません。
火事だけは話が別だと、誰かが言いました。放っておけば自分たちまで焼けてしまう火を知覚するところまでいかなければ、この空気は淀んだままでしょう。
誰かが、そのためのその風を起こさなければいけないと思いました。
*
思っただけで、まさかそれを実行できる度胸がもりくぼにあるわけがありません。その日も最悪の空気にあるクラスで、五〇分の猶予の片手間に授業を聞き流していました。
五〇分は彼の本当の救いにはなり得ず、じわじわと次の一〇分休みへ迫っていきます。その度に、もう何度目になるか知れない最悪の光景をもりくぼは傍観することでしょう。
傍観するしかできないのです。
誰に言う勇気も、ましてや割って入り異を唱える覚悟も、ありはしません。
あるのは願いだけ。
この最悪な空気を消してほしいという祈り。あの三人以外の誰もが抱いているだろう、みんなの幸せの願い。
ノートの片隅に小さな字で、潰れてるんじゃないかというくらい小さな字で、思うままを書きました。
へやはしっけとほこりにまみれて、
よどんだみずのそこのよう。
きれいなくうきはがらすのむこう。
まどをひらいてよびこもう。
かぜがふくのがまちどおしい。
書いてから、すぐに消しました。ポエム帳でもない勉強用のノートに何を書いてるんだと。うっかり誰かに見られでもすれば、そういう弱みに付け込まれることから、それこそいじめに火が付くんじゃないかと。軽率だったと反省しました。
やがて授業終了のチャイムが鳴り、先生が教室から出ていきます。次のチャイムまでの一〇分間、いつもの最悪の光景がもりくぼの左斜め前の席に再現される、はずでした。
三人が取り囲むより早く、彼ががたんと音を立てて立ち上がりました。脇目も振らず、教室の外へと飛び出していきます。
もりくぼの頭上で、下卑た笑い声が聞こえました。ちょうど彼のもとまで行こうとしていた三人が、もりくぼの席のすぐ横に立っていたのです。
三人もまた駆け足で、教室を出ていきました。彼を追うつもりでしょう。どこまでも、追いつめるつもりなのでしょう。
三人とも、愉悦に顔を歪めていました。細めた瞼の隙間からは、いつかどこかで見た、この世の全てを嘲笑う色が覗けています。
結果として、空気の淀みのもとはいなくなりました。ですがそれも、一〇分の束の間のことです。
そう思っていたのに、次の授業のチャイムが鳴っても、三人は戻ってきませんでした。
三人だけでなく、彼もです。
やがて始まった授業は静かでした。別に彼と三人がいても騒がしいということはなかったのですが、どこかいつも以上に静かな気すらします。空気が軽くなったぶん、何かが足りないような感じさえ。
あるいは、不気味なほど。
嵐の前の静けさ。
先生の声と、チョークが黒板を打つ音だけが響きます。ほかに何か聞こえそうなものだと、もりくぼは耳を澄ませました。聞くのは授業だけでいいのに、不真面目なものです。
どこかで、誰かが言い争っているような声が、聞こえるような気がしました。
無論、教室の中ではありません。もっと遠いどこかで、そんな空気の振動が起きているようなのです。
やがてそれはひとつの発音の連続へと変貌しました。それも二つの、異なった声色が混ざり合い、絡み合うように。
二つの声は急速に接近してきました。上からでした。窓の外からでした。えっ、と思ってその方を見ます。
「ああああああああああああああああああああ」
「ああああああああああああああああああああ」
男子生徒が二人、最期の声を遺して落下していきました。
目指す先は、冷たく無情なアスファルト。
人工の大地は彼と一人を差別することなく、物理法則にのみ則った現実をそこに示します。
*
屋上から転落した彼と一人は、即死でした。
残った二人曰く、逃げた彼を追った先の屋上で、突然暴れ出した彼と一人がもみ合いになったとのこと。その末に、彼と一人は転落してしまったとのこと。
残った二人もさすがに居づらくなったらしく、程なく転校していきました。
以後、いじめはありません。
あの詩で願った通りというべきか、最悪の空気は窓の外へと消えていったのです。
もっともそのクラスでは残りの数か月、毎日がお通夜のような空気に支配されたのですけど。
しかし詩で願ったことが現実になったのです。
はっきりと、こうなってほしいと妄想したわけではありませんでしたが、結果を見れば確かにあの詩を書いた時の気持ちが、叶ったのです。
バス事故の時にはそれどころでなかったその実感を、私は認識していました。もっとも、これで「自分にはそういう能力がある」と思い込めるほど自惚れるというか、超現実的な現象を信じることはできなかったのですが。
これは偶然なのだろうかと、引っかかるところに気付いただけです。
それが、今から一年前のことです。
その一年の間に、私はその偶然という可能性を否定することになります。
*
一年生も終わりに近付いた頃、親戚に乞われて一度切りのつもりで、アイドル活動のようなことをしました。
それすら嫌で嫌で仕方なく、金輪際こんなことはもうしないと思っていたのに、気が付けばプロデューサーさんに目を付けられ、押しきられる形で今の事務所に入らされています。
ここまできて言うのもなんですが、今でももりくぼはアイドル活動をやめたい気持ちでいっぱいです。どうして人と話すことさえ苦手なのに、人前に立って、歌って、踊って、愛想を振りまこうと思えるのでしょうか。
それでも何だかんだ続けているのは、やめたい気持ちを阻むくらいには、憧れのような気持ちもあるからだと思います。
アイドル活動そのものにというより、それを通して輝いている人への尊敬と、羨望のような感情。
特に凛さんなんて、あんなに美人で、スタイルもよくて、歌もダンスもできて、かっこいいのに。比べるのもおこがましいようなもりくぼを、同じアイドルと呼んで、優しく話しかけてくれます。
一生かけても、もりくぼは凛さんのようにはなれませんけど。
それでも、この人のできるだけ傍に、できるだけ長くいたいとは、思ったりします。
そのくらい優しくて、居心地がいいのです。
傍目からはおんぶにだっこ、もしかしたら寄生してるようにさえ映るかもしれませんが。
アイドルではありませんが、プロデューサーさんにもまた、もりくぼは尊敬とある種の好意のようなものを抱いています。
好意といってもラブではありません。ライクの方です。あの人を恋愛対象として見ることはできません。そういう話ではありません。
では何かというと、彼もまた何だかんだでもりくぼを見離さず、よく面倒を見てくれることに惹かれているのです。
結局優しくされればなびいてしまうのかと思われそうですが、逆に言うならこれまでもりくぼの周りにいた人々は、そのことごとくが優しくなかったのです。優しくしてくれなかったのです。
意地悪というより、付き合っても手がかかるばかりでメリットのなさそうなもりくぼに、わざわざ優しくしようという物好きがいなかったと見るのが正しい気がします。
それに、学校で本当にいじめに気付かなかったのか怪しい先生のような、日和見のつまらない大人ではありません。
凛さんやプロデューサーさんは、そういう打算だけではなく、純粋にその人格からもりくぼを受け入れ、接する時は優しくあたってくれるのです。
わざわざ、もりくぼなんかのために。
前に凛さんが言っていました。
「私たちのために、プロデューサーが頭を下げて仕事を取ってきてくれるんだから。そのぶん期待には応えなくちゃ」
期待に応えられる自信はありませんが、もりくぼのために頭まで下げてくれたとあっては、さすがに机の下に引きこもってばかりでいられません。せめて、プロデューサーさんには迷惑のかからないように、やることをやらねばいけません。
それなのに。
プロデューサーさんのもとで仕事をするようになってから、三ヶ月ほど経ったある日。もりくぼは収録で失敗をしてしまったのです。
初めてのテレビ出演でした。とあるバラエティ番組で、大物のタレントさんがゲストの新人アイドルや俳優、芸人とトークするというものです。
そのゲストの一人としてもりくぼは出演させられたのですけど。これがまあ、目も当てられないほどガチガチで、噛み噛みで、ボロボロの結果に終わりました。オンエアでもりくぼの出演部分がどれだけカットされたことでしょう。よく知らないのは、怖くて本放送など見ていないからです。
そうしてもりくぼが足を引っ張っても、ほかの出演者の機転や演出で多少はごまかせたのかもしれません。ディレクターさんも後でどうとでもできると判断したのでしょう。
ただ、それでその人がもりくぼのことを許容できたかどうかは、また別の話だったようで。
収録後、楽屋で抜け殻のようになっていたもりくぼでしたが、そこへプロデューサーさんに声をかけられ、はっと身を起こしました。
「お疲れ様。今日はもう予定ないから、直帰できるぞ」
帰れると聞いて、一刻も早くここから逃げ出そうとばかりに荷物をまとめます。ふとプロデューサーさんの顔を見ますが、その面持ちはいつも通りの優しさをたたえています。
思い出したように、鞄を持った手が震えました。あれだけの失敗をしておいて、まず言うべきことがあるんじゃないかと。
「あ、あの……プロデューサーさん」
「ん?」
「その……あの……ご、ごめんなさい。せっかくの、テレビのお仕事だったのに……私がダメなばかりに、全然うまくいかなくて……」
「そうか? 俺は結構よかったと思うぞ。ちゃんと乃々のキャラが立ってたじゃないか。最初だし、あれだけできれば上々さ」
絶対、お世辞だと思いました。下手にもりくぼを傷付けて後々に支障をきたすまいという、打算的配慮かとも感じました。
けれども下げた頭を上げてみれば、彼の表情には先と変わらぬ優しさばかりがあるのです。
苛立ちも、悲嘆も、諦観もありません。作り笑いだと思わせるような素振りも見受けられません。彼は心から、もりくぼを認め、励ましてくれていたのです。
他人の心など読み切れるはずもないのに、断言するのもおかしな話ではありますが。しかし少なくとも彼のその屈託のなさは、疑念を向けることさえ申し訳なく思えるほどの眩しさを放っていました。
彼のその笑顔を信じよう、次こそはもう少しだけでもうまくやってみせようと、もりくぼは鞄を持つ手を握り直しました。彼に連れられ楽屋を出ます。
出た直後、廊下で一人の男性に声をかけられました。先の番組の、ディレクターさんです。声が大きく気のいいおじさん、といった感じの風貌で、明るい雰囲気があります。
「乃々、悪いけど外で待っててくれないか」
プロデューサーさんに促されます。これから仕事の話をするのでしょう。脇でもりくぼが聞いていても仕方ないような、難しい話を。もりくぼは頷いてディレクターさんに会釈すると、言われた通りに建物の外へ行こうとしました。
行こうとして、廊下の角を曲がったところで、ディレクターさんの声を耳に拾います。
「舐めてるよね、お宅」
気のいいおじさん、という勝手なイメージが瞬きと共にすり替わるような、意地悪く刺々しい声でした。
よせばいいのに、もりくぼは曲がり角に隠れてその先を窺います。
「今まで色んなの見てきたけどさ、あそこまでのは初めてよ、実際。お話にならないもん。まだ滑り芸やってくれた方がネタにできるのに、しゃべんないし、言葉になってないし」
「すみません」
「いるだけならまだいいよ、でも悪目立ちするんだよ、あれ。いかにも帰りたさそうな顔してさ、居づらいですよって。笑えないじゃん、そういうの」
「すみません」
「あれだよね、プロ意識とかないよね。金もらってんでしょ? ていうか、あれでも金出してんだよ、こっち」
ここまでピンポイントに、自分のことを悪く言われたことが、かつてあったでしょうか。いや知らないところで言われたことは幾度もあったかもしれませんが、こうしてはっきりと耳にしたのは、初めてでした
。
けれども、それ自体には不思議と何の感情も沸き起こってきません。恐れも、悲しみも、ましてや怒りなど、とても。おおよそ図星でしたから、なおのこと心に刺さりそうだったのに。
それらの批判をどこか他人事のように捉えていたのは、そこでもりくぼに代わって頭を下げているのが、もりくぼではなかったからでしょうか。
もりくぼではなく、プロデューサーさんが、それらの批判、あるいは罵詈雑言に近い声を浴びていました。
もりくぼなんかのために。
どのくらい、それが続いたでしょうか。途中から、何をディレクターさんが言っていたのか、よく覚えていません。覚えきれないくらいたくさんの、嫌なことを言っていました。
でも最後のやり取りだけは、はっきり記憶しています。忘れたくても、忘れられない光景でした。
「ご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ありませんでした。彼女にも徹底させますので、今後また機会を恵んでいただけるようでしたら……」
「使うわけないでしょ、二度と」
その時、ディレクターさんが笑いました。細めた瞳にはあの、この世の全てを見下したような色が浮かんでいました。嘲笑っていました。
その歪んだ笑顔をたたえて、ディレクターさんは踵を返していきます。残されたプロデューサーさんは、やれやれ、といった感じに頭を掻いていました。
あれだけ不変の優しさに満ちていたその表情が、何の感情も表しておらず、能面のようでした。
その顔の方が、恐ろしくて、忘れられなくて、帰りの車で彼と一言も口を利けないままでいました。
*
その日、家に帰った私は、机の上にまたポエム帳を広げていました。
あの時の、プロデューサーさんの顔を思い出します。そりゃ笑顔以外も表現するでしょう。人間なんですから、時には怒ったり、呆れたり、悲しんだりもするでしょう。
けれど彼は、もりくぼには一度だってあんな顔を向けたことはなかったのです。
その彼に、そんな顔をさせた、あのディレクターさん。
彼の言葉が、態度が、嘲笑が、どれだけ彼を傷つけたことでしょう。あんな顔をさせるくらいに、責め立てたことでしょう。
胸が締め付けられるようでした。もりくぼが失敗さえしなければ。そもそも、あそこで責められるのはもりくぼであったはずなのに。どうしてプロデューサーさんが、もりくぼの代わりに頭を下げなければならなかったのか。
結局は、あの場で踏み出せなかった自分の臆病さと、身勝手な保身が招いたことなのです。いじめの時と同じでした。もりくぼは我が身可愛さが全ての、畜生のような女です。
この感情も、あのディレクターさんが憎いというものではありませんでした。ただひたすら、プロデューサーさんに申し訳なさすぎて。せめて報いようと思っても、それが一朝一夕で叶えられるものではないことが歯痒くて。
だから、すぐにでも彼の幸せに貢献できることはないかと渦巻く感情を、机の上の白い平野に放り投げていたのです。
つまりは現実逃避です。
どこまでも自分が浅ましい人間だと辟易します。
それでも気付けば、その感情は詩となってそこに現れていました。
あなたのえがおをまもりたい。
やさしいきたいにはげまされ、
あめがふってもかぜがふいても、
もえるゆうきでたちむかう。
さんさんかがやくあなたのために。
できた詩を前にした時、もりくぼはもしかしたらという思いに少しの恐怖と罪悪感を抱きました。
もしこの詩で願ったことが、あのいじめの時と同じように、現実となったのなら。
もりくぼが願ったのは、プロデューサーさんの幸せ。
幸せを願うと、その見返りのように、誰かに不幸が運ばれる。誰かの幸せが奪われる。
誰が不幸せになる?
不幸せになることで、引き換えにプロデューサーさんが幸せになれる、誰か。
脳裏に、あのディレクターさんの歪んだ笑顔がちらつきました。けれど慌ててその発想にかぶりを振ります。
あの人が不幸になることで、本当にプロデューサーさんが幸せを覚えるのかと。
彼は人の不幸を喜ぶ人間ではないという、思い込みからでした。
その一週間後、先日の番組を収録したスタジオで火事が起き、あのディレクターさんが亡くなったという知らせを、どこからか聞きました。
どこからか聞いた時、プロデューサーさんはこう言いました。
「人間、いつどうなるかわからないもんだな」
誰に向けるでもなくそう呟いた彼の表情は、しかし誰かに向けたような嘲りの色を、ほのかににじませた微笑を浮かべていました。
あの歪んだ笑みと、根幹が同じことを窺わせる色合い。
いや彼とて人間なのだからと、もりくぼは自分に言い聞かせます。
*
しかし、これで三回目となりました。
もりくぼが願った幸せの引き換えに、誰かが不幸となった回数。
たかが三回、しょせん偶然と片付けることもできたでしょう。そうする方が自然です。まさか詩に書いただけで、そんなことが起きるはずがないのです。名前を書くと人を殺せるノートじゃあるまいし。
殺せる。
本当にそんな能力があるのなら、もりくぼは詩を書くことで、死を運ぶことができるのです。
ピンポイントにではないけど、誰かに。
誰かを、殺せる。
というか、殺してしまったのではないか。すでに。
そういえばきっかけは小学校の時のあの詩だったかな、と思い出します。あの時の彼女は、死んでいません。けれど一生消えない傷を負って、その後の人生を大きく狂わされています。それまでの自分を、殺されたようなもの。
そしていじめの時に至っては、いじめていた人間だけでなく、いじめられていた彼まで死んでしまいました。
あの時もりくぼが願ったのは、いじめで最悪に淀んだ空気を消し去ってほしいというものでした。彼がいじめられることから生まれる空気を、窓の外へ追い出したいという詩。
その空気を生んでしまう彼がいなくなることが、前提であったのなら。
もりくぼは何の罪もない彼を、殺したことになる。
首を横に振ります。
その発想を否定します。
都合の悪い想像から、目を逸らします。
目を逸らすことができました。
だって、証明しようのない話なんですから。
もりくぼがこの手で直接、彼女や彼を血だるまにしたり、バラバラにしたり、黒焦げにしたわけではありませんでしたから。
要するに、殺していたとして、殺したという実感がこれほどもなかったのです。
そうしてこの現象は、もりくぼの中に「もしかしたらそういうことがあるんじゃないか」という不思議な体験として、心の隅に鎮座することとなりました。
そこに不安や恐怖はありません。
ただ漠然と、この世の不思議を垣間見ているような、夢現の気分でいるばかりでした。
*
二年生に上がって少しした頃、家庭科の授業で保育実習をすることになりました。近所の保育園に行き、園児たちと触れ合おうというものです。
気弱なもりくぼは手加減を知らない園児たちに蹂躙される未来しか見えません。なので前夜はあの修学旅行の時ほどではないにせよ、戦々恐々として震えていました。さすがに、ポエムに逃避しようとまではいきませんでしたけど。
迎えた当日、もりくぼの想像に反し、園児たちは程よく元気で程よく大人しいといったところで、少し安心しました。
とはいえ、それでもりくぼが園児たちと健全に触れ合えるかは別問題です。子供なんて何を考えているかわからなくて、ふとしたことで泣いてしまうんじゃないかと、どう接すればいいのかわかりません。そういう接し方みたいのを授業でやっていた気もしますが、そう簡単に実践できるほど甘いものではありません。
そういうわけでもりくぼは園児から逃げ回るように部屋をふらふらとして、早く実習の時間が終わるよう願っていたのですが、やがて先生に捕まってしまいました。
「森久保さん、あそこの女の子一人で寂しそうにしてるから、遊んできてあげて」
先生が指した先には、部屋の片隅に座って、つまらなさそうな顔でぬいぐるみをいじっている女の子。周りにはほかの園児も、クラスメイトもいません。
どこにでも、周囲に馴染めない子が一人はいるものだと思いました。もりくぼと同じ、とまで考えるのは、さすがに女の子に申し訳なかったのでやめましたけど。
でもあのくらい大人しそうなら、もりくぼでも何とかなるかもしれない。
そんな舐めたような思いを抱きながら、もりくぼは恐る恐る女の子へ近づいていきました。半歩ほどの距離まで来て、彼女の目の高さまで腰を落とすと、相手もこちらに気付いて顔を上げました。
瞼は眠たそうに垂れていて、何もかもを諦めたような、あるいはどうにでもなれというような顔色でした。
あ、これは軽々しく話しかけてはいけないやつだ、と思いましたが、ここまで来たら先生の目もあるので引き下がれません。話しかけるだけ、話してみます。
「こ、こんにちは……」
女の子は何も返しません。ぬいぐるみをいじり続ける片手間に、もりくぼを見つめ返してきます。その瞳にどんな感情が込められているかと思うと、直視できなくてつい視線を逸らしてしまいます。
「そ、その……げ、元気、ないね……?」
どの口がそんなことを言うんだという台詞を続けました。一応、日頃のレッスンで学んだ笑顔を作ろうと試みてはいるのですが、子どもの目にもぎこちないことは明らかでしょう。
「い、一緒に遊ぶ……?」
そう持ちかけてみますが、やはり彼女は何も返してくれません。いよいよ悲しくなってきました。
「カリンちゃん、お姉さんが遊ぼうって言ってくれてるでしょ」
見かねたように保母さんが声をかけてくれました。それでもカリンちゃんという少女は素直に頷かず、投げやりな表情ばかりを浮かべています。
「な、何か嫌なことでも、あったの……?」
つい、疑問が言葉となって出てしまいました。初めて、カリンちゃんがもりくぼから目を逸らします。図星のようですが、触れられたくないのでしょう。
けれどすぼめたその唇が、震えるようにして微かな声を漏らしました。
「パパとママが……」
口から現れたのは、それだけです。
それだけで、彼女に何があったのかを断言するのは早計というものでしょう。それなりに深刻な環境の家庭に身を置いているかもしれないけど、その実は単に親から怒られて拗ねているだけかもしれません。
何にしても、そんな状態の彼女をどうこうできるもりくぼではありません。諦めて早々に立ち去りたいところでしたが、やはり先生や保母さんの目もあります。カリンちゃんのためになるかどうかはさておき、せめて「何かする」ことが求められているのだと、感じました。
少し考えて、もりくぼは持ってきていたメモ帳を取り出しました。白紙のページを広げ、もう片手にシャーペンを持ち、願います。
彼女の、幸せ。
あおぞらにめをあげてくれたら、
ねずみいろのこころをてらせる、
すこやかなあかときいろにみちた、
たいようのげんきをあげます。
あなたのえがおとなりますように。
軽々しく願って、文章に起こしました。
書いたページをちぎって、カリンちゃんに差し出します。
「その、これは……魔法の詩、だよ。カリンちゃんが元気になれるように、幸せのおまじないをこめたから……」
誰が聞いても、胡散臭い台詞を言いました。それで受け入れてもらえるつもりはありません。けど黙ってポエムを書いた紙を渡すよりは、そういうキャラクターを演じるということにした方が、子ども相手の振る舞いとしては周囲の理解が得られたのではないでしょうか。
その証拠にというか、保母さんは微笑ましいといった面持ちをたたえていました。もりくぼの「何かする」という行為は、認められたようです。
目の前に差し出されたメモを、カリンちゃんはまじまじと見つめていました。平仮名で書いたとはいえ、園児にその内容が理解できるでしょうか。というか、書いた自分でもどういう意味の詩なのか、よくわかりません。
ただ、願ったままを形にしただけです。
感情を文字に直訳しただけです。
諦観に満ちた彼女が、どうか笑ってくれますようにと。
幸せになりますようにと。
代わりに、誰かが不幸になるけれど。
そのことを忘れていたわけではありません。こうして願ったことで、また誰かが不幸になったら。死んでしまうことがあったら。書こうとした時点で、その想定はしていました。
でも想定しただけで、それが確約されていたわけではありませんでしたから、それほど躊躇はなかったのです。
あったとすれば、子ども相手とはいえ自作のポエムを見せることへの抵抗ぐらい。
それにカリンちゃんが幸せになるのですから、誰かが不幸になったとしても、それはカリンちゃんの幸せに影響を及ぼさない人。
もりくぼにとってすれば、赤の他人に違いないのです。
仮に何かあっても、もりくぼは「偶然」の一言で、他人事として片付けられるでしょう。
やがてカリンちゃんが手を伸ばし、指でメモを挟みました。もりくぼが離すと、それは彼女のもとへ。カリンちゃんは何も言わず、手にした詩をじっと見つめています。
気に入ってくれたのか、その気になってくれたのか、わかりません。こんな紙切れ一枚で救われたというのなら、安いものです。しかしもりくぼはその「救った」というところに「救われた」という感情は見出しません。
この「何かする」という行為は、もりくぼがこの時間をどうにか潰せないかと捻出しただけの、自分のための行動だったのですし。
そうして、その日の保育実習は終わりました。
その翌週の家庭科の時間で、今度はもりくぼの学校に園児たちがやってきました。
名目は「先日のお礼をしに」ということで、再度の保育実習と、保育園側でも園児たちを外の環境に触れさせるという教育目的があったようです。
またも園児から逃げ回るようにふらふらしていたもりくぼでしたが、そこへ見覚えのある少女が一人、小走りで寄ってきました。
カリンちゃんでした。
先日は欠片も覗かせなかった、満面の喜色をたたえています。
「おねえちゃん、おねえちゃん!」
ほかの園児とクラスメイトの喧騒にも負けないくらいの大声で、カリンちゃんが呼びかけてきました。嬉しいことがあって、誰かに話さずにはいられないといった素振りです。
「きのうパパがママにさされて、けんかしなくなったよ! おねえちゃん、ありがとう!」
翌日、もりくぼの近所である男性が妻に刺殺される事件があったことを、新聞で知りました。
*
実際に起きてしまうと、偶然で片付けようという気になれなくなっていました。もりくぼにとっては、赤の他人なことには違いなかったのですが。
もりくぼの詩によって、彼女の父親が命を落としてしまったのなら。
彼女の家庭を崩壊させてしまったのなら。
たとえカリンちゃんが幸せだと言っても、それが生涯にわたって不変のものと、どうして言い切れるでしょうか。
これで、四度目なのです。
誰かが「偶然」と切り捨ててくれれば、もりくぼもそれに頷けたかもしれませんが、生憎とポエム作りを公言したくないことが合わさって、この話を知る人はほかにいません。
それが、よくなかったのでしょうか。
日を経るごと、今まで不幸にしてきた人たちのことを思い出すごとに、もりくぼの想像は確信へ、想定は確約へと変貌していきました。
もりくぼは誰かの幸せを願うと、誰かが不幸になる詩を書くことができると。
けれど、カリンちゃんの例を思い出します。幸せはその時だけのものかもしれません。永劫不変が約束されたものではありません。
けれど不幸は、いつまでも続きます。それが起きたという事実は、拭いようもなければその価値観を変遷させることもなく、鎮座し続けます。
確かに約束されているのは、不幸せ。
そうなると、一時の幸せとはあくまで副産物でしかないとさえ思えてきます。
もりくぼは人を不幸にする詩を、書くことができる。
本当だとすれば、何と恐ろしいことでしょう。
忌むべき能力です。呪わしい才能です。
テレビをつけます。ワイドショーで最近の国会での問題が議論されていました。
司会のタレントが映りました。もりくぼが初めて出た番組でも司会をしていた人です。
何やら難しい肩書きの、評論家の方々が並んでいました。なぜか芸人や俳優もちらほら混ざっています。
国会の映像に切り替わると、時の総理大臣が映りました。
もし、もりくぼが彼らにも不幸をもたらせるとすれば。
言い換えれば、誰かの幸せを願うという経路をたどって、彼らに不幸を仕向けることができるのなら。
もっと、想像を広げます。顔も名前も知らなくても、そういう願いさえ抱けば、もりくぼはこの地球のあらゆる人間を、不幸へ追いやることができるのです。
苦手なクラスメイトも。
嫌いな仕事相手も。
テレビの向こうの有名人でも。
時の権力者さえ。
しかも、それを知っているのはもりくぼだけ。
誰にも知られることなく、世界だって滅ぼせてしまうかもしれない。
一歩間違えれば。
さすがに、そんな大それたことはできません。元より進んで人殺しをしようというつもりもありません。誰も不幸にならなくていいなら、それが一番いいのです。
けど、誰かの幸せの裏で、誰かが泣いたり苦しんだりしているのは、この世の理だとも思います。覆しようのない法則なのです。全員が笑っていられる世界などあり得ないのです。
この力を進んで使おうという気にはなれませんが、しかし使わねばならない時も来るだろうと、これまでの出来事を鑑みるに、思います。どうしようもなくなった時。誰かを不幸にしなければ、幸せになれない時。
こんなもりくぼでも、世の中を渡っていけるための贈り物。そうすることで釣り合いが取れている。そう考えることもできるでしょうか。
けどこれが神様からのプレゼントなのか、悪魔の悪戯なのかは、わかりません。
もし前者だとすれば、神様もずいぶん残酷な贈り物をするものです。
*
昨日のことです。
打ち合わせのため事務所に来たもりくぼは、プロデューサーさんの部屋の前に立ったところで、固まります。中から二人の言い争う声が聞こえてきたからです。
どちらも聞き覚えのある声。
凛さんと、プロデューサーさん。
二人とも、もりくぼの聞いたことのない声をしていました。
「……本気で言ってるの!? 信じられない! 私、そんなことするためにアイドルになったんじゃない!」
「でも、そういうことがある世界なんだ。俺も、これが初めてじゃないし……」
「私や乃々の前にプロデュースしてた子にも、そういうことさせたの!? 最低……最低だよ!」
「なあ、凛……落ち着いて考えてくれ。本当にアイドルを続けたいなら……」
「続けない、そんなことするくらいなら、アイドルなんて続けたくない!」
凛さんの怒鳴り声。感情を抑えきれない、抑える気もない大声。自分に向けられているわけではないのに、もりくぼは竦んで動けませんでした。
間もなく目の前のドアが開いて凛さんが出てきました。怒りと、失望と、やるせなさと、あらゆる負の感情を積載して、脇目も振らず走り去ってしまいます。
その姿を、もりくぼが呼び止められるはずもありません。開けっ放しのドアから、恐る恐る中の様子を窺いました。
プロデューサーさんが、やれやれといった面持ちで佇んでいます。いつか見たあの顔と同じ。不変だと思っていた笑顔を忘れて、諦観と呆れを浮かべていました。
そこにやはり、あの時と同じ恐怖を、もりくぼは覚えてしまうのです。
「……ああ、乃々か。打ち合わせだったな。いいよ、始めよう」
もりくぼに気付いたプロデューサーさんが、うっすら微笑をたたえてそう告げます。目が、笑っていません。
このドアをくぐって、部屋に入ろうものなら。得体の知れない何かに、引きずり込まれてしまうのでは。そう直感して、もりくぼは踵を返しました。
「おい。どこ行くんだ」
「お、お腹痛いので、帰りますけどっ」
レッスンやら打ち合わせやら、直前で逃げ出してしまうのは常習犯なもりくぼ。これだって、いつものことと言えばいつものことです。
ただ、彼がその「いつも」と違う顔でいる。そんな動機で逃げようと思ったのは、例のないことでした。
だからこの逃走も日常の行動ではなく、地獄の逃避行のようにして、もりくぼの足をかつてない速度で走らせるのです。
*
事務所の中庭にある噴水のところに、凛さんが腰かけていました。
先ほどのような激昂の色は鎮まっていましたが、その面持ちは暗く、悲しげに視線を落としています。
「あ、あの……凛さん……」
恐る恐る、声をかけました。はっとして顔を上げ、もりくぼの方を向く凛さん。何か思い出したように目を見開いています。
「あ、乃々……さっきは、ごめん」
「いえ、別に……謝られることなんて……」
力ない凛さんの微笑。日頃の優しい声色に近付いてはいましたが、日常のものに戻ろうとしているというより、無理やり似せようとしている感です。
意を決して、もりくぼは尋ねました。建前は、何があったのか知っておかないと、今後プロデューサーさんをどう見ていいかわからなかったから。
その実は、もしかしたらもりくぼがどうにかできることなんじゃないかと、自惚れたつもりで。
少しの間を置いて、凛さんは重い口を開きます。
率直に言うと、それは枕営業の話でした。
プロデューサーさん曰く、凛さんがとある失敗から共演したタレントの不興を買ってしまったとのこと。
そのタレントが、手を回して凛さんを干すとプロデューサーさんを揺すってきたこと。
けれど一晩、凛さんが「相手」をしてくれるのなら、目をつむるということ。さらには、今後のよい関係にも繋げられるとのこと。
おぞましいほど、汚い話でした。
けれど凛さんは言います。
「共演はしたけど、あの人にそう思われるようなことをしたつもりはない」
凛さんがそう思っても、相手はそう思わなかったかもしれません。気付いていないところで、失礼があったのかもしれません。
あるいは、そういう建前で単に凛さんに関係を迫っているだけかもしれません。
でも、ひょっとしたら、まさか。
「……私たちの前に、プロデュースしてた人にも、同じことさせたって言ってたし。あいつが最初から、そういう話を……」
つまり、失礼があったとか関係なしに、プロデューサーさんが、凛さんを売ろうとしているかもしれない。
あの人が?
そんな最低なことを?
それはない、とかぶりを振りたいのは山々なはずなのに、あの時の彼の面持ちを思い出してしまうと、否定しきれない自分がいました。
でなくとも、私の代わりに頭を下げることだって厭わなかったあの人が、そんな脅しに屈してしまうのでしょうか。
それほど、芸能界とは恐ろしいものなのか。
もりくぼの、この力よりも?
「……凛さん、その……辞めちゃうん、ですか?」
軽々しく聞くべきでない疑問が、口を突いて出ていました。憚るべきだけど、しかし聞かねばならないことでもあります。
「……わからない」
消え入りそうな声で、凛さんが答えました。表情からは先の力ない笑みさえ忘れられていました。
「わかんないよ、どうしたらいいか、もう……」
凛さんは強い人です。こんなに追い込まれても、もりくぼと違って涙は見せません。
けどそんな強い人にさえ、こんな顔をさせてしまう人間が幸せになる権利はないと、もりくぼは脳内で宣言します。
代わりに運ばれるのは、不幸せこそ相応しい。
*
そして今、自室の机の上に、ポエム帳を広げています。
凛さんに関係を迫っているタレントとは、もりくぼも共演したあの人だそうです。業界でも大物、テレビで見ない日のない有名人でした。それだけ権力もあるのでしょうが、しかし知ってしまうと吐き気のする思いです。
その人が不幸になることに、もりくぼは何の感情も抱きません。それにその人がいなくなれば、プロデューサーさんだってもうこんな話を受けなくて済むのです。それから凛さんと関係を修復できるかは、また別問題でしょうけど。
今度は確信と確約のもとに、詩を綴ることで人が不幸になるとわかりきっていました。揺るぎなく思い込んでいました。けれど躊躇はやはり、ありません。
白い平野に、願いを投げました。
あおくかがやくりんとした、
あなたのひかりをとめないで。
わたしがねがってふくかぜが、
ふへんのしあわせをはこびます。
あこがれのえがおをまもるため。
書けました。
これで、凛さんの幸せは約束されます。私の憧れと安息という普遍の幸せが、守られます。
後は引き換えの不幸が、しかるべき人のもとへ運ばれるだけ。
風が吹くのが待ち遠しい。
*
翌日、もりくぼは凛さんと、プロデューサーさんの病室を訪れていました。
昨晩、車での帰りに脇見運転のトラックと、正面衝突したそうです。
奇跡的に、プロデューサーさんは一命を取り留めていました。包帯に巻かれ、生命維持装置に繋がれて、ベッドに横たわった彼の瞳は、虚ろな色で中空を眺めるばかりです。
お医者さんの話では、重度の昏睡状態にあるとのこと。植物状態となって、回復する見込みが絶望的とまで、聞きました。
植物状態。
何本もの管に繋がれ、じっとしているばかりのその姿は、言われてみれば根を張って動かない植物のようでもあります。
息を吸って、吐くだけの、動物として死んだ姿。
誰がそうした。
もりくぼでした。
もりくぼが、彼という動物を、殺してしまったのです。
初めて、ようやく、今さらのように、人を殺したという行為を実感し、その重さを理解していました。
凛さんに、ひどい話を迫ったということがあっても。直前に見せた顔が、恐ろしいものであっても。
しかし彼はもりくぼの日常を象徴していた、それこそ普遍の幸せの一部であったはずなのです。
もりくぼは自ら、その幸せを殺してしまった。
幸せを願ったはずなのに。
死ぬのはあのタレントだと思っていたのに。
けれどふと横を見れば、隣の凛さんは薄ら笑いを浮かべているのです。何も言いません。ただ恍惚にも似た表情で、ほのかに笑っていました。
これで、あの話を受けなくて済むという安堵。
この人に報いが与えられたという満悦。
もりくぼが願った凛さんの幸せは、確かに成就されていたのです。
不変のものではないかもしれませんが、この瞬間においては、とても幸せそうでした。
もりくぼはこんなに不幸せなのに。
もしこの不幸から逃れようと、もりくぼが幸せを願ったのなら。その詩を綴ったのなら。
それは誰の不幸をもって、運ばれるものなのでしょうか。
何となくですが、結末は想像できます。きっと悲惨な末路です。けどどうしようもないこの現実よりは、楽になれるかもしれません。
何にせよ、もりくぼにはその能力があると、もはや疑う余地はありません。
その力を抱えて、もりくぼは生きていかなければならないのです。もりくぼの手には余る、どうしようもない力と、そして呼び込んだぶんの不幸の数と、向き合っていかなければならないのです。
幸か不幸かと言われれば、やっぱりもりくぼは不幸です。
【了】