満身創痍のフロイド・リーチがズボンの裾をひきずるようにして歩いている。本来は17歳だが、今の彼は5歳くらいにしか見えなかった。
悪い薬を盛られたのである。5分ごとに1歳若返る薬のようだった。いくら彼が強いといっても5歳児が高校生に勝てるわけはない。奥歯をかみながら逃げるしか無いのが悔しかった。
10分経った。フロイドは3歳児の姿になっていた。
服もマジカルペンもどこかにいった。この姿になってから、ひどく眠い。目を閉じたらおしまいだと理解はしているが、子供が睡魔に抗えるはずもなかった。
「あいちゅら、ぜってぇゆるしゃねぇ……」
身体は稚魚に成り果てたが、殺る気が衰えることだけはなかった。しかし、眠い。やがてモノを考えることもできなくなり、フロイドは青緑の身体を丸めて可愛らしい寝息を立て始めた。
目が覚めたとき、フロイドはティーカップの中にいた。女性が好みそうな淡い水色のティーカップである。カップの7割くらいのところまで塩水が張られていた。
丸いテーブルの上に稚魚が入ったティーカップがぽつんと置かれている。なんとも奇妙な光景だった。
詳しい状況はわからないが、誰かが助けてくれたのはわかる。
フロイドはカップのふちに両手をかけて部屋の様子を観察した。物が少ない部屋だった。この部屋には誰かが暮らしているみたいで生活感はある。
どこかから拾ってきたかのような、傷んで角が丸くなっている家具しかない。ベッドに机、タンスにカーテン。それと脚立に使えそうな小さな椅子。それだけしかなかった。
軽い足音がしてドアが開いた。
可愛らしい女の子が部屋に入ってくる。男子の制服を着てはいるが、胸の膨らみや肩のラインで女性とわかった。
「あっ。目が覚めたんだね!」
フロイドに少女が親切なまなざしを向ける。少女は水の入ったブリキのバケツを地面に置くと、フロイドの入ったティーカップに近づいて傍らにあった小さな椅子に座った。
「ここ、どこ? おねーさん、だーれ?」
身体が子供になった反動かフロイドは考え方や口調も幼くなっていた。記憶もぼんやりとしている。難しいことはわからなかった。
「ここはオンボロ寮、私は監督生」
監督生は人差し指の腹で優しくフロイドの頭をなでた。彼女の指先からは慈愛が感じられる。フロイドは彼女に優しくされるのが気持ちよくて、うっとりと目を閉じた。
「私からも聞いていいかな。あなたは誰? どこから来たの?」
「おれ、にんぎょ! うみからきた!」
「そっか、人魚か。どうして学校にいたのかな。誰かとはぐれちゃったのかな?」
「えっとぉ……」
問われた内容はわかる。しかし、頭に霧がかかったようで何も思い出すことが出来なかった。
「わかんない」
わからないことで不安になった。ただ、たくさんの兄弟とどこかに捨てられたような気がする。気がするだけで正解かはわからないのだが。
「……おうち、ない」
金と黒の瞳に涙が溜まり、やがてしゃくりあげる声が聞こえた。焦ったのは監督生である。慌てて椅子から立ち上がると「大丈夫だからね!」と言って引き出しを探り、飴玉の入ったガラス瓶を取り出した。
「おうちが無いなんて大変だったね。頑張った子にはご褒美だよ」
何色が好きか問われて、フロイドは紫と答える。
監督生から貰った飴玉はブドウの味がした。
監督生は何も言わずにフロイドを置いてくれた。
それだけではなく、たこ焼きが好きだと言ったら購買で買ってきてくれたし、ひとりで寝るのが寂しいと言ったらテーブルを枕元に近づけてくれた。とても優しくしてくれたのである。
「小エビちゃん、ひとりなの?」
「そうだね。ゴーストはいるけど」
「そーなんだ。じゃあ、さびしいね」
「うん。でも今は人魚ちゃんがいるから平気だよ」
「おれ、おっきくなったら小エビちゃんをおよめしゃんにしてあげる! そしたらさびしくないよー!」
「ふふ、ありがとう。大きくなったら迎えに来てね」
和やかな時間が過ぎた。
しかし翌日。監督生が学校に行っている間にフロイドは元の姿に戻ってしまった。
しかも全裸で。
制服は学校に置いてきた。カーテンでも借りるしかない。
「っても、小エビちゃんの部屋のはなぁ」
元の姿に戻ってみると監督生の部屋は妙にいいにおいがした。この部屋に全裸でいるのはなにかとまずい。稚魚タイムの記憶もこれまでの記憶もあったため、彼女にされた親切がフロイドをお行儀よくさせていた。
廊下に出てカーテンを1枚かっぱらい身体に巻いた。埃っぽさにうんざりするが贅沢が言える状況ではない。改めてオンボロ寮を眺めるとひどいありさまだった。天井のすみには蜘蛛の巣が張っているし、窓ガラスにはひび割れが目立つ。ゴーストも見当たらない。寝ているのだろうか。
食べるものはあるのかと冷蔵庫を開けてみたが、調味料が目立つばかりでろくなものがなかった。
昨日くれたたこ焼きのことを思い出す。
元気がなくなったフロイドのために、無理をして買ってきてくれたのは明らかだった。
人に戻り、オクタヴィネル寮に戻ったフロイドはその日のうちに復讐を果たした。ギッタンギッタンにした。監督生と過ごした時間が楽しかったので、本音を言えばそこまで腹を立てているわけではなかった。しかし可愛い女の子に甘えたり、世話を焼いてもらった事実を思い出すと、恥ずかしさで身体が燃えそうになり、人を殴らないとやってられなかった。
その次の日は監督生の様子が気になった。
いきなりいなくなったのである。掃除はしたがティーカップも割ってしまった。置き手紙でも残せればよかったが、あいにくペンやメモ帳が見える場所になかった。女性の引き出しをあさるような真似はできなかったため、そのまま出てきたのである。
フロイドが紙袋を持って廊下を歩いていると「人魚ちゃん? いないの?」と声が聞こえた。監督生の声だった。そういえば、幼児化した際はこのあたりで記憶が飛んだ気がする。縮んだ時に見た壁の落書きが、同じ場所にあった。
「……もっと、ちゃんと見ておけばよかった」
自分の心配をしているのは明らかだった。
名乗り出るべきだろうか。いや、でも、どうしよう。実は幼児化している際に監督生の着替えをしっかり見てしまっていた。下着の色や形を鮮明に覚えている。これはまずい。これは嫌われる可能性が高い。
監督生に嫌われることは、フロイドにとって死を意味していた。
「人魚ちゃんならここにいますよー」
「えっ。な、なにをするんですか。手を離してください!」
フロイドが数字の8みたいに行ったり来たりして考え事をしているうち、監督生がテンプレみたいな不良に絡まれていた。あの不良たちには見覚えがある。オクタヴィネル寮の寮生で、ニュウドウカジカとウーパールーパーとサキャスティック・フリンジヘッドの人魚だった。多分、名前を聞いただけではどんな人魚かわからないと思うが、今はそんなことはどうでもいい。
監督生が絡まれているのが問題である。
なんとかせねばならない。
顔バレしたくないフロイドは紙袋を逆さまにして中身を空にした。袋に入れていた美容液が割れ、磯臭いにおいがしたがそれどころではない。目の部分に穴を開けそれを被ると、監督生の腕を掴んでいたニュウドウカジカを問答無用でぶっ飛ばした。汚い手で彼女に触れたことが、やつの罪である。
ニュウドウカジカは窓ガラスを突き破って吹っ飛んでいった。ここは2階である。少し痛いが死にはしないだろう。
突然の乱入者にフロアは沸いた。
「えっ、ちょ、おま……あっ! お前、フロ――」
「あんだーざしー!!!」
ウーパールーパーの声を遮るようにして大きく叫ぶ。ウーパールーパーも青空の向こうに消えていき、割れたガラス窓が2枚並んだ。最後のひとりは気が付いたら消えていた。逃げ足の早いやつである。
邪魔者は全て片付けた。
フロイドは紙袋の位置を直すと、呆然として立ち尽くす監督生に向き直った。監督生は紙袋の穴と目が合ってビクッとした。まあ、それはそうだろう。191cmの紙袋男だ。ホラーゲームかギルティギアにいるべき存在だ。
監督生が明らかにビビっていたので、フロイドは少し距離をとって「だいじょーぶ?」と尋ねた。監督生は「はい」とうなずいた後、「助けてくれてありがとうございます」と頭を下げた。
「あの。お名前は……」
「あ、えっと。紙袋マンです」
監督生の目が『なんて?』と言っていた。
その視線に耐えきれず、フロイドは腕をXのように交差させて窓ガラスをぶち破った。逃亡したのである。結果的に割れた窓ガラスが3枚並んだ。
フロイドは名乗るタイミングを完全に失っていた。しかし、紙袋マンとして監督生に親切が出来るようになった。フロイドは監督生に寂しい思いはさせないと言ったのを気にしていた。この気持ちは義務から生まれるものではなく、好意から生まれるものだった。
好きな人に親切にしたいという自然な感情だった。
そのため、彼女が重い荷物を持っている時や、高いところに届かなくて困っているようなときがあれば颯爽と現れてこれを解決した。周囲は紙袋マンがだれか気が付いていたが、あまりにも常軌を逸していたためだれも指摘できずにいた。
監督生も紙袋マンの名前を無理に尋ねることはしなかった。
彼女の場合は親切でそうしていた。人に痛いところがあるとき、そこに触れずにおいてやる優しさを持っていた。
フロイドは自室で人魚の絵が描かれたコーヒーショップの紙袋を加工していた。取手の部分をハサミで切って、目の部分に穴を開けていた。紙袋ならなんでもよかったのだが、女の子に人気のありそうな店の紙袋を利用するのがマイブームだった。
「さっき、監督生さんに声をかけられたんですよ」
「ヒュッ」
一緒にいたジェイドのいきなりの話題に、ハサミを持つ手が細かく揺れた。
「青緑の人魚を知りませんかって聞かれまして」
「まして?」
「僕がそうですよって答えまして」
「まして?」
「あの時の人魚ちゃんですかって聞かれましたから」
「たから?」
「そうですって答えておきました」
「キエー!!!!」
フロイドはハサミを持ったままジェイドに飛びかかった。先ほどまで加工していた紙袋は血しぶきがひどくて使えなくなった。
次に監督生を見たのは中庭でだった。監督生はひとりで教科書と格闘していた。彼女が諸事情で勉強の基礎も知らないことは知っていた。
フロイドはいそいそと紙袋をかぶって、驚かせないように注意して近付いた。
「勉強、教える?」
監督生はハッと教科書から顔を上げると「いえ、大丈夫ですよ」と微笑む。そう言われるとそれ以上話すことがない。フロイドは「そう……」としょんぼり肩を落とした。
「少し休憩しようと思っていたんです。話し相手になってくれると嬉しいんですが」
紙袋の下にある顔がパッと輝いた。少し緊張しながら彼女の隣に座る。並んで座るのは初めてのことであった。
「この前、可愛い人魚ちゃんを拾ったんです。その子が小さくて可愛くて」
「うん」
「でも翌日、いなくなってしまって……」
「うん」
「行方を探していたら、ある先輩がその人魚ちゃんだとわかったんです」
「……うん?」
「魔法薬の実験で失敗して幼児化してしまったらしくて。今度お礼にお食事でもって言われたんですけど……」
「うん(握った拳がプルプルと震えている)」
「なにか、どこかが少し違う気がして、迷っているんです」
「……そうなんだ」
「大人になると変わるのは、当たり前のはずなのに」
「小エビちゃんは間違ってないよ!」
フロイドは紙袋を脱いだ。監督生の目が大きく見開かれる。
「あなたが人魚ちゃんだったんですね」
「うん。ずっと名乗らなくて、ごめんね。急にいなくなったのも、ごめん」
フロイドは監督生と目を合わせた。
「この前は助けてくれて、ありがと。お礼に食事でもどうですか」
「ふふ。喜んで」
彼女の微笑みが自分に向けられている。
フロイドは拳を上げて「っしゃーー!!」と叫んだ。
空は青く澄み渡り、穏やかな風が吹いている。
この瞬間、フロイドは世界の全てに祝福されていた。
END