空はどんよりと曇り、陽光が濁っていた。
物の影も判然とせず気が滅入る。
保健室のベッド周りは洗浄力の強い洗剤のにおいがした。金はかかっていないが清潔で、アズールが監督生に抱いているイメージによく似ていた。本音を言えば嫌いではない。
監督生が頭部に怪我をしてから1時間が経とうとしていた。監督生が怪我をした瞬間、彼女の一番近くにいたのがアズールだった。頭を強く打った場合、脳を揺らしてはいけない。アズールは周囲に指示をして教師を呼ばせ、担架を準備させ、彼女が保健室に運ばれてからも片時もそばを離れなかった。常に視界に入れていた。
目を離した瞬間、何者かが彼女を連れ去ってしまうと固く信じているようだった。
「ん……」
吐息が漏れるような音がして、思わずアズールは座っていた背もたれのない椅子から立ち上がった。監督生のまつげが揺れ、けだるげにまぶたが持ち上がる。彼女は自分が仰向けになっていることに気が付くと視線を左右に揺らし、やがてアズールに気付いた。
「すみません。ここは……」
「学校ですよ。監督生さん、ご自分の名前が言えますか?」
監督生はゆっくりと上体を起こしながら自分の名前を告げた。正しい名前だった。アズールは心底安堵したが、感情を素直に表現するのは彼のプライドが許さなかった。機嫌の良さを使い慣れた笑顔で隠しながら次の質問をする。
「よかった。なら僕の名前もわかりますよね?」
答えられて当然の質問のはずだった。彼女に名前を読んでほしくて聞いたのもあった。
しかし、彼女は戸惑ったような視線を向けたあと――。
「どこかでお世話になりましたっけ」
と、よそ行きの笑顔を見せるだけだった。
アズールの視界が固い拳で強打されたように揺れた。冗談じゃないかと思った。思いたかった。が、彼女の態度に偽りは感じられなかった。
彼女の声に反応した友人や教師たちが彼女のベッドの周りに集まる。彼女と親しい人々は、彼女とアズールを隔てる壁の役割を果たした。
「エース、デュース、クルーウェル先生」
透明感のある美しい声が響き、彼女が周囲に親しみのこもった笑顔を向けていく。アズールはその光景を呆然と見ていた。喉の奥から鉄の味がした。
監督生の記憶からアズールが消えていた。
アズールとの思い出・情報、なにもかもが無くなっていた。
オルトに脳の検査をしてもらったところ異常は見られなかったので、監督生はオンボロ寮への帰宅を許された。一時的な記憶の混濁はよくあるらしい。アズール以外でもなにか忘れていることがあるかもしれないが、それも含めいずれ思い出すだろうと言われた。ひとまずは様子見というわけである。
与えられた寮に帰り、頭の怪我をからかうゴーストたちを適当にあしらう。鬱陶しくて邪険にしているのではない。ゴーストたちと監督生の間には家族のような関係性が生まれつつあったので、互いが傷つかない距離感を心得ていた。
監督生は本来招かれざるものだが、それにしては、みんながよくしてくれた。
さて、問題はアズール氏である。
監督生は自室のベッドにブレザーを脱ぎ捨てると、学習机の引き出しをスライドさせ1冊のノートを取り出す。表紙には何も書き込みがされていないが四角が丸みを帯びている。定期的に触れなければこうはならない。
このノートは監督生の日記帳である。
大きめの予定帳とも言える。彼女は年頃の女性にしては落ち着いていたため、夜中にポエムを書くような趣味はなかった。感情を書き留めるような習慣がない。彼女が書くのはその日聞いた誰かの誕生日や好物、もしくは美味しかった食堂メニューの感想などが主である。
監督生はアズールの記憶だけが抜けているのには理由がある気がしていた。そして、ヒントは日記に書いてあると確信していた。
昨日は一言「アズール先輩に告白する」とだけ書かれていた。
その日はそのためだけに生きるのだという若い女性特有の清廉な覚悟があった。
「私はアズールさんが好きだったのか」
意外には思わなかった。むしろ趣味がいいと感じた。
彼のことはよく知らないが身なりがきちんとしているのは好感が持てた。綺麗にアイロンされたハンカチを自分の意志でポケットに入れていそうな男性だった。彼のことが気になったので日記の過去ページを確認する。たいしたことは書かれていなかった。ただ、雨の日に傘を貸してくれたことがあるらしい。二人で傘には入らずあちらは走って帰ってしまったのだとか。どうやら、それが好きになったきっかけらしい。
情景を想像してみると口元がほころんだ。
借りた傘は返したのかと考えてハッとする。いや、それ以上に気にすることがあるだろう。自分はアズールに告白をしたのだろうか。アズールによると、たまたまアズールと監督生が運動場周辺にいて世間話をしていたらしい。そこにマジフト部のノーコンディスクが飛んできて監督生の頭を直撃、今に至ると言う訳らしいが……。
この日記を読んでしまうと、アズールの証言をそのまま信じる気にはなれなかった。少なくとも、たまたま同じ場所にいたのは嘘だろう。普段の生活を振り返っても監督生は運動場に用事なんて無いのだし。
それからの数日、監督生はさりげなくアズールの評判を調べて回った。驚くほど悪い噂しか無い。一般的には長所と讃えられそうな能力や行動も多いのに、彼を好意的に褒める生徒はいなかった。正確にはひとりいたが、彼は生きているだけで美しいと褒めてくれる博愛主義者なのでカウントは控えている。
放課後、監督生は外廊下の柱のひとつに背中を預けていた。
小鳥たちが舞い上がるのを眺めながらアズールの人柄について考えた。本当に意地の悪い人なら雨の日に傘を貸してくれるのだろうか。どういうやりとりがあったのかは知らない。どうして、ひとつの傘をふたりで使わなかったのかはわからない。でも、当時の監督生にとって『何度も思い出したい記憶』だったのは間違いなかった。でなければ日記に書いたりしないだろう。
「監督生さん」
芝居がかった響きの声がして、監督生は背中を柱から離した。
外廊下は柱と西日が見事な縞模様を作っていた。アズールが模様の下を泳ぐようにしてこちらに向かってくる。影と光が交互に彼を染める。
「こんにちは。アズールさん」
監督生は目の前の人を見た。青みがかった銀髪の洗練された人だった。幼少期から満たされた生活をしていただろうに安穏としたところがなかった。
アズールも監督生を見ていた。観察しているようにも、こちらが言葉を発するのを待っているようにも見えた。もしくはただ監督生を眺めたかっただけなのかも。彼の沈黙には意味があるように思えた。少なくとも彼にとって監督生はどうでもいい存在ではなさそうだった。
「私はまだ、あなたのことを思い出せません」
彼が黙る理由をひとつ減らすと、アズールは「そうですか」と呟いた。そのまま監督生の目の前を通り過ぎてまっすぐに歩きだそうとする雰囲気があった。事実、彼が監督生から引き出したい情報はその1点のみだったのだろう。
しかし監督生はそうではない。
「アズールさん。私に好かれていると感じたことはありましたか」
ぴた、と彼の革靴が動きを止める。
「私は日記をつけています。記憶はありませんが、記録はあります。あなたの名前が何度か載っていました。運動場で私と偶然出会ったというのは嘘ですね」
「……日記にはどのように書かれていましたか」
「黙秘します」
今の段階では情報があるとだけ知らせておけばいい。どのような情報を持っているかをすべて伝えたら、会話で相手を探ることができなくなってしまう。
しかしアズールは監督生の答えにムッとしたようだった。
監督生は少し反省した。相手は先輩だし、生意気な態度が過ぎたかもしれない。
「気を悪くされたのでしたらすみません。簡単に言えば、私のほうからあなたに会いに行くと書かれていたのです。会えたときに話したい内容がいくつか書かれていました。その内容がとても個人的なことだったので、黙秘できるとありがたいのですが」
「ああ。そういうことですか」
礼を尽くして言い直すとアズールの態度はずいぶん柔らかくなった。今なら教えてくれそうな気がする。監督生ははやる気持ちを抑えて、じっとその瞬間を待った。
アズールは眼鏡のブリッジを指で押し上げたあと、監督生と目を合わせた。
「好かれていました。そして、僕も貴女が大切だった」
悔いるようにほほ笑んだ。
アズールは今の監督生を通して、過去の監督生を見ていた。写真を見て過去を思い出すのと同じだった。監督生もまた、アズールが自分に愛の言葉を向けているとは感じなかった。
記憶がない以上、監督生とアズールは他人だった。
『先輩のことが好きです』
はにかみながら教えてくれた彼女に、お前はなんと返した。
『どうせ元の世界に帰って、僕のことなんて忘れてしまうくせに』
それを聞いた彼女は、どんな顔をした。
「ああああああああああ!!!!!!!」
アズールは自分の悲鳴で目を覚ました。寝間着がぐっしょりと重い。嫌な汗が首筋を伝っていた。両目を手で覆いながら「違う。そんなつもりじゃなかったんだ」と懺悔をした。
アズールはずっと監督生のことが好きだった。
監督生はとんでもない女だった。
なんの力もないくせに物怖じせず、こぼれ落ちそうなものがいたら救い、気が付いたら輪の中心にいた。悪の中にいながら人に愛されていた。
アズールも惹かれていた。
道から外れそうなとき、見捨てずに手を引いてくれて好きになってしまった。色々と理屈をこねながらプレゼントをした。一緒に出かけたかったけど、ついに誘えなかった。それでも、おせっかいな双子のおかげで何枚か一緒に写真を撮れた。
好かれる努力を自分なりにしていたが本当に好いてくれるなんて思っていなかった。だから彼女が気持ちを教えてくれたときは舞い上がってしまって、なにを言えばいいのかわからなくって、ずっと言うまいとしていた本音がポロッと出てしまったのだ。
忘れませんよ。どこにも行きませんよ。
そう言ってほしかっただけなのだ。
心のどこかで、彼女は強いから何を言っても傷つかないとも思っていた。
少なくとも自分なんかの言葉では。
でも、そうじゃなかった。
アズールの言葉は鋭利な刃物となって彼女の心臓を刺してしまった。
彼女の目は大きく見開かれていた。ひねったら血がこぼれて、抜いたらあふれる。致命傷だった。もう少しで幸せになれるところだったのに。
取り返しがつかないことをしたと悟ったが、アズールは反射的に「今のは」と言い訳をしようとした。普段はよく回る舌がもつれて、できるなら先程の発言を無かったことにしたかった。忘れてほしかった。もし違う出会い方をしていれば、先程のように意地を張ることなんか無かったのにと恨んだ。
いつの間にかアズールのほうが追い詰められていた。
背後に気を回す余裕など無かった。
突然彼女が動いて、アズールの腕を引いて、鈍い音がした。
地面に赤い血が付いたディスクが落ちて、アズールが立っていられなくなった彼女を支えて、彼女はアズールが無事なのを見ると少しだけ笑って目を閉じた。
あの日から、毎日同じ夢を見ている。
アズールのあの発言を覚えている人はだれもいない。彼女ともう一度やり直したいという願いも叶った。アズールが考えてしまったことは、すべて現実になった。
あの日から、毎日同じ夢を見ている。
彼が彼女を殺してしまったあの瞬間を何度も夢に見る。
たったひとりの記憶だけが抜け落ちた状態は、その人物に対してなんの気持ちもないのであれば不便がなかった。これが血縁や友人であれば話は別だろうが、周囲に聞く限り監督生とアズールにそこまでの接点はない。
監督生が彼を取るに足りない存在と判断するか、アズールが彼女との縁を切ってしまえばおしまいの関係であった。監督生とアズールの共通点など『同じ学校に通っている』くらいのもので、互いへの興味がなければ会釈で終わる間柄なのである。
しかしアズールの側は縁が切れるのを望まなかった。
それどころか積極的だった。監督生がなにかで困っていると、どこで知ったのかその日のうちにオンボロ寮に届け物がくる。試験対策ノートにモストロ・ラウンジから流されたらしい食材、寒い冬を暖かく過ごすためのブランケットにマフラーなどが手紙もなく、ポンと届く。送り状のご依頼主の欄を見るとアズールになっているが、贈ったものに対してなにかを要求されることはなかった。
監督生はこれらの品をプレゼントとは思えなかった。
謝罪の品の気がした。
監督生は図太い女だったので、とりあえず貰えるものは貰っておくことにした。実際問題、アズールが送ってくるものは切実に必要なものばかりだったのだし。礼くらいは言うべきだと思ったが、記憶を無くす前の関係性がわからないのでどのように感謝を伝えればいいかわからなかった。迷った末、監督生はなるべくアズールからの貰い物を身に着けるようにした。
気付いてくれればいいなと思いながらマフラーを巻いた。
アズールが監督生を大切にしているのは間違いがなかった。
「けれど」
監督生は新たに届いた宅配便の箱を膝に乗せながら、眉間に細いしわを寄せた。大切にされているのは過去の監督生で、自分ではない。
苦しかった。
彼に優しくされているうちに、なにかのきっかけで過去を思い出すのではないかと期待していた。あちらもそれを期待している気がしていた。でも、そうはならなかった。きっと監督生の想いが足りないのだ。もう、確信していた。監督生は自分の意志で記憶を忘れている「ふり」をしているのだ。本当は忘れているわけじゃない、記憶が非表示状態になっているだけなんだろう。
想いがあれば、心から強く願えば、私はきっと彼とのことを思い出せるのに!!
過去の自分が憎い。どうして忘れようとした。
お前がきちんと覚えていれば、こんな苦しさを知らずにすんだのに。
監督生はアズールに惹かれていたが、惹かれるほど彼との対話を恐れた。あの目が恐ろしいのだ。彼の目は自分に注がれない。彼が見ているのは昔の私だ。過去の連なりに今がある以上、それは当然のこと。しかし今の監督生には受け入れがたかった。
夜にひとりでいると、衝動的にオンボロ寮の屋根に登った。高いところから地面を見下ろすと暗い魅力が手招きをしてくる。監督生の頭の位置が少し下がった。吸い寄せられる。
ここから飛び降りて頭を打てばすべてがもとに戻るのではないか。
そう思い体重を支える手を片方離すのだが、悲しいことに、馬鹿にはなりきれなかった。そんなことをしても何も得られないとわかっていた。だからいつも何もできず、丸めた膝に額を押し付けるのだった。
鈍色の雲が空を覆っていて、身体にまとわりつくような霧雨が視界をぼやけさせていた。アズールは図書館の入口に立って空を見上げて陰鬱な気持ちになる。あの日から鈍色の雲は嫌いだった。凶事が背後から迫っているようで、気が滅入る。
調べ物は終わったし、借りている本もない。カバンには折りたたみ傘があるが肩を湿らせる程度の雨ならば傘をさす必要も感じなかった。
アズールは両手が空いたまま鏡舎に向かおうとして、図書館に向かって歩いてくる監督生に気が付いた。彼女は何冊かの本を胸元で抱えていて、空いている方の手で傘をさしていた。いつだかアズールが押し付けるようにした、あの傘だった。
まだ持っていたのかと、しばし見つめてしまった。
やがて監督生がアズールの視線に気づき、足を止めた。ふたりの間には距離があったが、かろうじて声は届きそうだった。天候の影響もあり周囲に人がおらず、とても静かだったから。
初めに動いたのはアズールだった。軽く手を上げて彼女に近付いた。
「傘をお持ちしましょうか?」
笑顔はなく目をわずかにそらしていた。言葉をかけていいのかためらっている風だった。監督生もまた、目を合わせることができなかったが「お願いできますか」と応じた。
黒い手袋が傘の柄を取り上げる瞬間、わずかに互いの指先が触れた。
「この傘は元々アズールさんのものなのでしょうか」
「そうですよ。以前に差し上げたものです。女性の貴女には少し重いでしょうね」
「……私はこの傘が好きです。あなたのものだと聞いてから好きになりました」
アズールの淡い色の瞳が揺れた。監督生がなにを言わんとしているのか掴みかねて、思わず彼女の瞳をのぞいた。少し視線を下げるだけで、彼女が燃えるような瞳でアズールを見上げているのに気が付いた。
「この傘のことも日記に書いてありました」
彼女の瞳は苦しさをこらえていた。
「これはあなたが『私』に親切にしてくれたときの傘です。そうなんでしょう?」
「え、ええ」
切実な問いに気圧されながら答える。アズールはなぜ彼女がここまで切迫した様子なのかわからなかった。緊張感があったが数秒も経つとわずかに慣れて、彼女の視線を受け続けるのが切なくなってきた。視線を横に逃がす。落ち着かない。ここまで彼女に情熱的に見つめられたことなど、なかったものだから。
「アズールさん、私を見てください」
彼女は懇願するような声をあげて彼のネクタイを強く引っ張った。細い片腕が彼の首に巻かれた。空の上からでは傘に遮られ、何が起きているのかを見ることはできなかった。しばらくして監督生とアズールが離れる。唾液が糸を引いていたので監督生は指の腹でアズールの口元を拭い、自分の口元は手の甲でこすった。
「あなたが好きです。好きになってしまった……」
罪を告白するようだった。
彼女の訴えが耳に届くと、アズールは一瞬怯えるような表情をした。
「監督生さん、僕は――」
「わかっています! あなたが好きなのは過去の私で、今の私じゃない。
でもダメなんです。言葉をかわすことがなくても、日増しにあなたへの想いが膨らんでしまう。自分でもどうにもできません。こんな気持ち、また忘れてしまえればと思うけど、あなたが近くにいる限りきっとまた好きになってしまうんです」
監督生の声が涙でにじんでいく。雨が強くなる。
「私が思い出せばすべて解決するはずなのに、過去の思い出にあなたを譲ることが、どうしてもできない……」
アズールは一連の流れに呆然としていたが、監督生がなにを言っているのかは聞いていたし理解していた。彼女の肩が震えて涙が流れるのを見ると、ポケットからハンカチを出して彼女の目元を抑えた。「使ってください」と言うと、素直に受け取ってくれた。
ハンカチに染み込ませていた香水がわずかに漂った。
「……今の貴女も、少し前の貴女も僕にとっては同じ人物です」
言葉をひとつ間違えただけでも、この人は逃げてしまうかもしれない。
卑怯だとは思いつつアズールは傘を持っていないほうの手を彼女に伸ばした。彼女の背中を寒さから守るように腕を回し、彼女の肩を自分に寄せる。監督生はびくりとした。大胆な手を打てるくせに、人にされるのは慣れていないようだった。
アズールはそんな彼女を可愛いと思った。
「僕のそういった考え方は、貴女にとっては、その、浮気になってしまうのでしょうか」
いつも尊大な態度を崩さないアズールが甘えた声を出している。耳元でささやかれると、監督生の首筋が淡く染まった。
「わ、わかりません」
そう答えるのが精一杯だった。
「先程、貴女は『僕が近くにいる限り記憶を忘れてもまた好きになってしまう』とおっしゃいましたが――」
「復唱しないでください……」
こつ、とアズールの胸元に監督生の額が押し付けられる。アズールは「失礼」と目を細めた。
「僕も似たようなものなのです。貴女がどのような状態でも、視線が、気持ちが、貴女を探してしまう。僕は清廉な人間ではありませんから、一度欲したものは手に入れるまで求めることをやめないし、一生涯、手放す気持ちもありません」
ぽつぽつと区切るように喋った。
アズールは以前、自分の弱さが原因で彼女の心を殺してしまった。
彼女は魅力的な人で多くの人に愛されている。彼女を一番に幸せにできるのは、きっと自分ではないと思う。それでも彼女が欲しかった。完全にエゴだ。愛が自己犠牲を指すのであれば、自分に愛はない。
しかし、だったら何だと言うのだ。
「貴女が欲しい。何を犠牲にしてでも」
もう手放せない。
世俗的な名誉をすべてかき集めても彼女ひとりの価値には及ばない。
夕闇に明かりが咲き始めていた。
彼らの長い影が泥水を覆うように伸びている。(了)