ちょっと待ってくれよ……。
俺が好きだったあの平穏の日々はどこに行った……。
かわいくて兄想いのやさしい妹。
代わり映えのしない、少々退屈だけれど安全だった毎日。
意識していなかったけど、俺が好きだったのはそんな「当たり前」だった。
失って初めて気づく「当たり前」の素晴らしさ。
こんな風になってから学習したって、なんの役にも立ちはしないよ……。
そういえば、昔もこんなことがあったっけ。
中学生の頃、大好きなロックバンドがあった。
そのバンドはネットで有名になった音楽プロデューサーとメンバーで構成されたグループで、他の誰にも創れない彼ら独自の音楽を貫いた最高のバンドだった。
特に作詞作曲を務めていたボーカルは、その世界観の根幹だった。
一度耳にしたら病みつきになるメロディ。
時に直球で時に技巧がふんだんに盛り込まれた絶妙な歌詞。
俺は彼の楽曲が好きで、家に帰ると常に聴いているくらいだった。
それだけ、大好きなバンドだった。
しかし――俺は、彼らのライブに一度も行ったことがなかった。
中学生がロックバンドのライブに行くというのは、思ったよりも大変なことだ。
特に、俺みたいに地方の中学生にとっては障害になることが多すぎる。
電車代の問題もある。一人きりで都会に行く不安もある。
それに、時間だって夜遅ければ参加不可能になるし、クレジットカードがないとチケットが取れない。更に、当日の都合も家族や学校、部活の関係で変更されやすい。
それらのネガティブな要素を考えてみた結果¬¬――俺は、結論を出した。
それは、高校生になったらライブに行こう、という決意。
中学生だと難しいけど、高校生になれば行動範囲が格段に広がる。
高校生になったらチケットを取って、ライブ会場に足を運んで、物販でグッズを買って、生で彼らの演奏を聴いて、見て、感じて――
でも、それは叶わなかった。
中学三年生のある日、父親のパソコンで検索エンジンを開いてみたらそのニュースが一番初めに表示された。
――ボーカルが、亡くなった。
作詞作曲、ボーカルを務めていたバンドのリーダーが、急性心不全で永眠したのだ。
その記事を見た俺は、画面を見つめたまま動けなかった。
信じられない。信じたくない。
ずっと大好きだった人。ずっと当たり前に聴いていた声。
それが、当たり前じゃなくなってしまう。
呆然としたまま、俺はSNSのタイムラインを開いて事実を確認する。
すると、溢れるように表示されたのはたくさんの追悼のメッセージ。
『ライブに行っておけばよかった』『死ぬ前に歌声を聴きたかった』
――じゃあ、行けよ。
なんで行けるのに行かなかったんだよ。
今日以前ならいつだって行けたのに――なんで、行かなかったんだよ……。
沢山の哀悼の投稿を見ながら、俺は呟く。
こみ上げてくる怒りと悔しさを、口から少しずつ漏らしていく。
しかし、それらの言葉は画面の向こうの相手に発しているようであって、そうじゃない。
吐き出した言葉の全部が、自分に刃を向けて容赦無く刺してきた。
それらの言葉は――自分に対する、戒めの言葉だった。
「お兄様、どうされたんですか? 顔色がすぐれないようですが」
そして、今。
状況は違うけれど、似たような後悔を繰り返している。
生きているけれど、変わり果ててしまった刺身。
変わり果てる前の素直で可愛かった刺身は、死んでしまったようなものだ。
当たり前のような日々は、消え去ってしまったのだ。
だから――もう、あの刺身に伝えたかったことは伝えられない。
俺がこの気持ちを伝えたい相手は過去の刺身であって、目の前にいる刺身とは別人なのだから。