リドル先輩がやる気のない監督生と偶然知り合って、少しずつ惹かれていく話です。

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世界を動かすものは、ほかならぬ愛である

 人間があまり好きじゃない。

 漫画や小説、映画にドラマは好きだけどリアルな人間は好きじゃなかった。不快感を顔に出さないように毎日苦労していた。もちろん嫌いな人間ばかりではない。気の合う人もいる。

 しかしずーっと一緒にいるのは厳しい。私は昼休みは静かに過ごすのを好んだ。わざわざ校舎から遠い購買でパンを買い近くの森で食事をする。無表情で過ごしても咎められることのないこの時間を私は大切にしていた。

 

 シロツメクサを踏みしめながらいつもの場所に向かう。

 アンパンとパックの牛乳が入った袋を揺らしながら目的地に到着すると、いつも私が腰掛けている切り株にリドル先輩が乗っかってソイジョイみたいなやつを食べていた。パッケージの色的に多分イチゴ味。私の存在に気付いてはいないらしく、澱んだ目を遠くに向けながらもぐもぐとソイジョイもどきを頬張っている。口の中に棒が吸い込まれていく感じ。食事をする姿はハムスターに似てなくもなかったが、かわいい光景ではなかった。どちらかと言えば公園でうなだれているキアヌ・リーブスに近い。疲れてんのかなって感じ。

 人間はあまり好きではないが、私にも情はある。

 リドル先輩はデリカシーのある人だ。嫌いではない。私は短い間考えて、彼に声をかけることも避けることもせず、いないものとして過ごすことにした。無視とは違う。目が合えば軽く頭を下げた。

 まあ、たまにはそんな日もあるわな。

 リドル先輩は疲れているんだろうし放っておいてあげればいいやと思っていた。

 

 しかし次の週もリドル先輩はやってきた。

 リドル先輩が澱んだ目で「ねるねるねるね」をかき混ぜているのを見て、私は(マジかよ)と思った。昼飯、それだけ? 深い闇を感じた。別になにを食べたっていいんだけど学校で見かける時とのギャップがすごい。構ってほしくてあえてそんなものを食べているのか、単純に頭がやばくなっているのか見分けがつかなかった。

「先輩」

「なんだい」

「可愛い動物の動画一緒に見ません?」

「……………………数分だけなら」

 クロウリーにスマホを契約してもらってよかった。

 動物は好きだ。お気に入りの動画を頭の中で思い浮かべながら「先輩の好きな動物教えt」と尋ねると、言い終わる前に「ハリネズミ」と返事が来た。早押しクイズかよ。

 ていうかハリネズミか。

 微妙にマイナーな動物だな。可愛いけど。

 ハリネズミの動画はよく知らなかったので、適当に検索してランキング上位のやつを一緒に見ることにした。リドル先輩は死んだ目をしながらぼーっとハリネズミ動画を見たあと、すっと席を立ち、一口も食べていない「ねるねるねるね」を私のひざに乗せると無言で去っていった。作って満足したから押し付けたのか、お礼のつもりで置いていったのかはわからない。せっかくもらったので食べてみた。化学の味がした。

 変な味。知育菓子にしては美味しいと思う。子供の頃はよく食べたけど……。

 そこで「あー」と声が出た。多分わかったと思う。

 みんなにとって『食べたことがあって当たり前』のでも、リドル先輩にとっては『いつか食べたかったもの』だったりするんじゃないか。

「そっか。先輩、こういうもの食べてみたかったんだ」

 しかしハーツラビュルの長たるもの、寮や校舎でこういうものを食べるわけにもいかなかったんだろう。年頃の男子なんて見栄を固めて出来ているようなものだし。

 私は走った。

 いた。彼の赤い頭はよく目立つ。

「先輩」

 振り向いた彼の口にスプーンに限界まで巻きつけた「ねるねるねるね」を突っ込む。リドル先輩は私の奇襲に白目をむいた。

 私は先輩の喉が知育菓子を飲み下したのを確認してスプーンを引っこ抜く。きゅぽん。

「感想は」

「……見た目通りのふざけた味だね」

 リドル先輩はまつげを伏せて口角を吊り上げた。

「次、欲しいのあったら代理で買ってきてあげますよ」

 彼の作り笑顔を見ていたら考える前に言葉が飛び出していた。リドル先輩はわずかに目を見開いたあと「これは独り言だけど」と前置きをして「……シャボン玉で遊んでみたい」と呟いた。

「ああ、いいですねえ」

 シャボン玉かぁ。

「私も久々に遊んでみたいなぁ」

「3日後、晴れたらまた来るよ」

「事前に言ってくれるの助かりますね」

 学校が見えてくると、リドル先輩は憑き物が落ちたかのようにまともになった。私は立ち止まった。私のような日陰者と一緒に歩いているところを見られるのは、先輩の輝かしい経歴に傷をつけるように感じたのだ。

「……? どうして立ち止まるんだい」

「ここから先、ご一緒するのは恐れ多くて」

「つまらないことをお言いでないよ……ああいや」

 リドル先輩は首の横に手を当てて「訂正が必要だね」と眉を寄せる。

「キミさえ良ければ一緒に戻ろう」

「…………」

 私とリドル先輩は無言で歩いた。

 存外、悪くない沈黙だった。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 プラスチック製の細長いパイプをラムネのビンみたいな容器に差し込み、口にくわえた。肺の半分くらいまで溜めた空気を細く吐き出すと、淡い虹色をまとったシャボン玉がいくつも宙に舞う。

「さ、先輩も。どうぞ」

「うん」

 リドル先輩は少し緊張した面持ちでパイプをくわえ、背筋を伸ばした。シャボンが風に乗って身長よりも高く浮かんだ。

「上手いじゃないですか」

「ふふ」

 先輩は小鳥がさえずるように微笑むと、もう一度パイプを容器に浸して今度は先ほどよりも大きなシャボン玉を作り始めた。肩の力が抜けた姿は実年齢より幼く見える。

 私はアンパンを牛乳で流し込みながら、先輩が作るシャボン玉が風に流されるのをぼーっと見ていた。平和な日曜日の公園みたいだった。実際はバリバリの平日だし、このあとはクルーウェル先生の授業なんだけど。

「キミは吹かないのかい?」

「もう満足しました。見てるほうが好きです」

 よければどーぞ。私はシャボン液の入った容器を先輩が好んで座る切り株に置くと、りんごの木を背もたれにして昼寝を始めようとした。

「戻る時間になったら起こしてください」

「構わないけど……」

 リドル先輩は少し戸惑ったような素振りを見せたあと、おもむろに上着を脱いで私のスカートにそっと被せる。

「すまないが、少し預かってくれるかい」

 紳士的な人だ。育ちの良さとはこういうところに現れる。

「……私、はしたなかったですかね」

 下着が見える心配はなかったと思うが油断しすぎだったかもしれない。呆れられたかと思ったが、リドル先輩は小さく首を振るだけだった。

「昼寝は脳にいいらしいよ。ゆっくりお休み」

 ……甘やかされていた。

 根性なしのため、先輩がどんな表情をしているのかは確認しなかった。目を閉じて葉擦れの音に耳をすませる。丁寧にアイロンがかけられた上着からは、わずかに薔薇の香りがする……気がした。

 

 規則正しい寝息が聞こえた。

 彼女がくつろいでくれるのは嬉しい。

 音をたてないように注意しながらマジカルペンを振るう。監督生が安心して眠れるように人避けの魔法をかけた。

 シャボン玉の容器を置いて高い空を見上げる。秋の気配がした。秋は四季のうちでも好きな季節なのに、木々が鮮やかに色づくのができるだけ遅くなればいいと願ってしまう。

「…………時間だよ、監督生」

 できるだけ優しく呼びかけると彼女のまつげが僅かに震えた。

「もうですか? あっという間だったなぁ」

「本当にね」

 彼女がぴょんと立ち上がり、礼を言って上着を返す。

 リドルは上着を腕に引っ掛けて彼女と並んで歩き出す。

 手放したくないな、と思った。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 我が寮は赤いバラの壁紙が鮮やか。

 制服姿のリドルが廊下を歩いていると談話室のほうから馴染みのある声が聞こえた。監督生の声は小さいがよく通る。エース・デュース・グリムは三者三様にかしましかったが、リドルの耳には彼女の声が浮き上がって聞こえるように思えた。

 10月に控えたマジフト大会の調整が忙しく、今週は彼女に会えていない。顔が見たかった。

 彼女は元気にしているだろうかと、黒い手袋で包んだ指先を真鍮のドアノブに伸ばし――。

「だーっ。もうそのへんでやめとけって! 寮長に首をはねられるぞ!」

 ピタリ。リドルの指先がノブの数センチ手前で動きを止めた。

 エースの声が聞こえた瞬間、経験則から厄介な気配を感じたからであった。そこまではいい。いつものことだ。問題なのは彼女の前で寮長の顔をすることを一瞬ためらったことである。

 彼女には以前、一緒にいるのが恐れ多いと言われたことがあった。

 萎縮させてしまうかもという恐れが、眉間に皺を刻ませる。

 

「……バカバカしい」

 まばたきを、2回。深呼吸を1回。

  数秒の後にはいつもの冷静な顔を取り戻すことが出来た。

 

「へえ。ボクがいるとまずいことでも?」

「ロ、ローズハート寮長。帰ってきていたんですね」

 デュースがギクッとした様子で背をのけぞらせる。リドルは「今しがたね」と言いながら場を眺めた。テーブルの上には3つのティーカップと小さなに盛られたスミレの砂糖漬け。そしてなぜか、その場の全員が銀色のスプーンを握りしめていた。ヘコんだ部分を上にしている。手鏡のような持ち方だ。

 意味がわからない。なにかの呪術の最中みたいだ。

「これはなんの集いだい?」

「監督生がスプーンを……ぐっ!?」

「スプーンに曇りがないか見ていただけですよ。ほんとそれだけ!」

 エースがデュースの口に砂糖菓子を放り込み、取り繕うような笑顔を浮かべた。

「それは結構だね」

 明らかになにかをごまかしていたが、この場において破られているルールはない。ならば状況確認はここまでだろう。

「日が落ちるのが早くなった。帰りは誰かが送ってあげるといい」

 命じると彼女の両脇が立ち上がり左足を引いた。

「「はい、ローズハート寮長!」」

 快活な声が響く。

「普段は略式でいいんだよ。それでは、ごゆっくり」

 リドルは軽く口角を持ち上げ、トランプ兵に着席を促す。

 これ以上は場にいる理由がない。リドルはメトロノームを連想させるようなリズムで足を動かし部屋を出る。ドアごしに談話室が再びにぎやかになったのが伝わってきた。

 

 少しばかりうつむいたあと、自室に向かう。

 寮長は場の空気をひきしめる存在であるべき。

 自分は絶対に間違っていない。

 

 だが、それでもせめて。

 彼女に挨拶のひとつもできれば嬉しかった。

 

「先輩」

 振り向くと先ほどのスプーンをにぎりしめた監督生がいた。リドルが立ち止まり、監督生が駆け寄る。先日、リドルは監督生にスプーンを思い切り口に突っ込まれたばかりである。警戒心は隠せなかった。

「ボクに用事かい」

「そんなところです。先輩、あのーもしもの話なんですけど、私がうっかり寮のルールを破っちゃうとどうなりますかね」

「規則に従って処罰を与えるよ」

「最悪死にます?」

「そのような前例はないね」

「じゃあいいや。えー、今から魔法使いまーす」

「は?」

 リドルの頭上にたくさんの「?」が飛んだ。話の流れがわからない。もしかして今のは謎かけだったのか?

 監督生は「よく見ててくださいね」と言いながら、スプーンのヘコんだ部分に指をかけた。

「えい」

「…………」

 スプーンがうなだれている。絞首刑を待つ罪人のようだった。

「さっきね。みんなでスプーン曲げて遊んでたんです」

「……なにが面白くてそんなことを?」

「わかりません。おしゃべりするネタが欲しいだけかも」

 そんなものなのだろうか。幼少期に友人と外を駆け回った経験が少ないリドルには理解し難い話だった。

「それ貸します。次会った時返してください」

 じゃあ、と監督生が手を振り廊下を戻る。

 リドルが視線を左下に向けると胸ポケットに、マジカルペンと並ぶようにして曲がったスプーンが入っていた。手にとって眺める。この寮のものではない。オンボロ寮のものだろうか。

 ステンレスの安物で表面には細かい傷が入っている。魔力の残滓はない。カレーを食べるのに丁度いいありきたりなスプーンに見えた。

 

「……借りたものは返さないといけないね」

 

 監督生の気持ちがわからぬリドルではない。

 古ぼけたスプーンを、一輪のバラのように見つめた。

 

 

 

 様々な面倒事を調整し、ようやくリドルは昼休みに森を訪れることが出来た。

 草を踏みしめながらあたりに目をやると、季節の移り変わりと共に森に咲く花々の顔ぶれが変わっているのがわかった。日当たりの良いところに紫の色が鮮やかなノハラアザミが咲いている。森に咲く花々は寮に咲く薔薇とは違った趣があった。

 季節を受け入れて咲く花もいいものだ。

 リドルは芸術や流行というものがよくわからない。彼にとって詩は作るものではなく暗記するものだった。それでも何度もこの森に通ううち、美しいと感じるものが少しずつ増えていって心が豊かになるのを感じるのであった。

 

 

 日光がちらちらと気まぐれに降り注ぐ中、監督生は切り株に腰掛けてアンパンを食べていた。あいかわらずやる気のなさそうな佇まいをしている。

 挨拶をしてステンレスのスプーンを返却し「最近はどうだい?」と尋ねた。寮で「どうだい?」と訪ねるときは必要事項の確認であることがほとんどだけど、彼女に対する「どうだい?」は世間話なので気が楽である。

「ぼちぼちなんですが、最近動物をモフりたくて仕方がないんです」

「モフる……? 動物に触れたいという意味かい」

「はい」

「ハリネズミかフラミンゴでよければ、うちの寮にいるけれど」

 リドルは善意から提案した。監督生は提案された2種類はモフるのに向いていないように思ったが、犬・猫・ウサギ程度しか触れたことがないのでなんとも言えないところである。

「触っていいんですか」

 2種類への興味はあった。尋ねるとリドルの口元がやわらかくほころぶ。

「構わないよ。世話を手伝ってくれるのならね」

「じゃ、お願いします。先輩と一緒なら世話も楽しそうです」

 監督生が何の気なしにかけたであろう言葉がリドルはとても嬉しかった。あたたかい感情を一方的に受け取っているのではなく、交換しあっているように思えた。

 リドルは友人を作るのが難しい時期が長かったため、遊ぶとか、なんとなく一緒にいるというのがよくわからない。しかし彼女といるときはそれが自然にできるので、監督生はリドルにとって特別な存在になっていた。

 

 友達と呼べるほどの気安さはない。恋とも違うと思う。

 強いて言えば、お気に入りだ。

 リドルは彼女を気に入っていた。それは間違いがなかった。

 

「そういえば初めに会ったとき、キミはボクに動物の動画をすすめてくれたね。動物が好きなのかい」

「そうですね。率直に言えば人間よりも動物のほうが、一緒にて気が楽なところがあります」

「なるほど、そんな風に見えるね」

「ああ。でもリドル先輩と一緒にいるのが疲れるとか、そういうことはないんです」

 失言を取り繕うかのように慌てる監督生に、リドルは品よく微笑んでみせる。

「ボクもね、そういうところはあるよ。人より動物に囲まれているときのほうが気が楽だね」

「無理に喋る必要がないのも、いいですよね」

「そうだね」

 そうして一瞬、やわらかい静寂が流れた。

 あ、まただ。とリドルのまつげが震える。彼女と話していると、たいていは数秒程度なのだがこうした静寂が流れることがあった。油断しきってしまうのだ。そうして静寂が終わったあと、平静を装いつつも、自分をこんな気持ちにさせる女の子は自分にとって特別なのだろうなと思うのだった。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 放課後、リドルが教室を尋ねてきてエースとデュースは「首をはねられる!」と震えあがった。エースは素行、デュースは成績でこころあたりがありすぎたのだ。しかしリドルが会いに来たのは監督生だと知り、今度は「えっ。なんで!?」と視線を素早く監督生とリドルの間で往復させた。忙しいことである。

「彼女が動物に触りたがっていると聞いてね。ハリネズミたちの世話を手伝って貰うかわりにふれあいを許可したんだよ。飼育施設の鍵はボクが持っている。それで彼女を迎えに来たんだ」

 リドルは端的に事実を述べた。

 しかし、わかっていない。そっちじゃない。エースとデュースが気になっているのは、いつの間にそんなやりとりをする仲になっていたのかである。

 周囲の人間はザワついた。

 学内一の優等生。規律の鬼。あとはウギったり赤くなったり泣いたり首をはねたり……。クラス中の人間がリドル・ローズハートという人間のこれまでを思い出していた。

 それはなぜか。意外すぎたからである。

 まさかあの、おかたい寮長が監督生(女の子)と仲良くなるなんて。と。周囲が目を剥いていた。

 監督生は学内唯一の女子であるからして狙いにくる男子は今までもそれなりにいた。軽い調子で「デートしようよ!(CV:ケイト・ダイヤモンド)」と誘われることはしょっちゅうである。しかし、監督生は面倒くさがり屋のため一度もそういった誘いに応じたことはなかったはずだ。なのに……。

「じゃあ行こうか」

 リドルが優しみのこもらなくもない調子で声をかけると、監督生が「はい」と微笑むではないか。

 動揺する周囲をよそにリドルと監督生は淡々とした様子でクラスを出ていき、クラス中のみんなの視線がエースとデュースに集まった。状況の説明が求められている。しかし、エースとデュースにも事情がわからない。わからないが……。

「なんかさ。動物触りて―んなら、まずはオレらに相談すればよくね?」

 というエースの言葉に寂しさがにじんでいたことは確かであった。デュースは「そうだな」と静かに同意し「少しどこかに寄ってから寮に帰るか」と提案した。

 エースもデュースも部活のない日だった。本来であればリドルたちと一緒に帰ればよかったのである。しかし、わざわざ監督生を迎えに来たリドルに「じゃあオレたちも!」と言えるだろうか。無理である。

 仲のいい男女の横にいるほど、みじめなことはない。

 

 

 

 自身が治める寮に向かう道すがら、リドルは堂々とした態度を崩さなかったが、教室に直接監督生を迎えに行ったのは思慮が足りなかっただろうかと反省していた。リドルと監督生は先輩と後輩の関係でしか無いのだが、周囲はそうは考えなかったらしい。彼女を好奇の目に晒してしまったことを申し訳なく思う。

 鏡を抜けると、白薔薇の甘い香りが秋の風に乗って漂ってきた。

「この寮は華やかそのものですね」

 監督生が咲きかけの薔薇のツボミに触れながら感嘆する。庭園の見事さを感心されればリドルも悪い気はしない。正直に言えば、彼女が寮を気に入ってくれるのは嬉しいことであった。

 寮長にとって寮を褒められるのは自身を褒められるのと変わらない。結果に誇りをもつリドルの性質ならば、尚の事である。

「気に入った薔薇があるのなら少し持って帰っても構わないよ」

「ありがとうございます。殺風景な寮が明るくなります」

 言われて、リドルはオンボロ寮がどういった場所かよく知らないことに気づいた。人が住めるくらいだからボロいと言ってもそれほどではないとは思っていた。

 エースたちは何度かオンボロ寮に訪れているはずだ。

 今度、それとなくオンボロ寮の様子を聞いてみるのがいいだろう。

 

 リドルはハリネズミたちがいる場所に向かいながら、彼女が荒れ果てた場所で暮らすのを想像してみた。風が吹けば揺れ、雨水を金ダライで受け止めているような場所だ。

 考えただけでたまらない気持ちになる。

 リドルはいつの間にか彼女を手元に置いておきたくなっていた。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 寮服に着替えたリドルは森で会うときよりも凛々しく見える。マントや王冠を外した状態でも、彼の両肩に大きな責任が乗っているのが見えるようだった。

 

 動物の世話を終えたリドルと監督生は寮内にあるガゼボを訪れた。ガゼボとは屋根のついた休憩用の施設だ。景色のいい公園に行った際、柱の上にポンと屋根が置かれて、その中に椅子やテーブルが並べられているような建物を見たことがないだろうか。それである。

 ハーツラビュルのガゼボは赤い屋根と、屋根の上にあるハートの飾りが可愛らしい。ドーナツ状の白いベンチがあり、中央には丸いテーブルが置かれていた。

「さあ、お座りよ」

 リドルが自分のハンカチを敷いて監督生に座るようにうながす。監督生は、男性が女性をエスコートするときにそういうことをするらしいと聞いたことはあったが、実際にされたのは初めてだった。普通の男性がやるとやりすぎに見えそうだが、リドルが当然のようにやってくれるのでこの世界では当たり前なのかもしれない。

 が、例えそうでも照れるものは照れる。

「えっと、それじゃあ失礼します」

 監督生は緊張しながら座らせてもらった。

 そういえば廊下を歩くときも人通りがあるほうを歩いてくれていた。あまりにも自然で気が付かなかったがかなり女の子扱いされていたのだ。心臓が早鐘を打つ。女の子扱いされるほど、相手が男性だと意識してしまうものだ。

 監督生はリドルのよいところをたくさん知っている。

 これからも増えていくだろう。

「紅茶は何がお好みだい? 贔屓の茶葉は決まっているかな」

「いつも安いものしか飲まないのであまり種類は知らないんです」

「ではダージリンの秋摘みにしよう」

 リドルは慣れた手付きでティーセットを準備した。お茶請けは中央にトランプのマークが入ったクッキーだった。手軽に食べられるものが出てきて監督生は安心した。アフタヌーンティーでよく見る3段重ねのケーキスタンドが出てきたらどうしようと少し心配だったのだ。マナーに厳しいこの先輩の前で失敗はしたくなかった。よくしてくれる先輩をがっかりさせたくはなかったのである。

 リドルが琥珀色の液体をカップに注いでいる間、監督生はきちんと爪先をそろえて待っていた。両手は膝の上にある。

「口数が少ないね。どうしたんだい。ハリネズミたちとはあんなに喋っていたじゃないか」

 緊張を見抜いてか、少しからかうような調子でリドルが尋ねる。監督生は何を言ったものか迷った挙げ句、正直に「緊張してしまって」と打ち明けた。

「もしかして場所がよくなかったかい? ふたりきりでいると周りがあることないこと考えるようだから、屋外のほうが気が楽かと思ったのだけれど」

「いえ、違います。ここはとても素敵な場所です。綺麗に晴れた空の下でお茶を飲むなんて滅多にできないので、それで少し緊張していたんです」

 本当はふたりでいるから緊張しているのだが監督生はごまかした。

「あぁ、庭でティータイムをする習慣がなかったのか」

「……庭?」

 リドルが納得してくれたのは嬉しいが、なんとなく「庭」というワードが引っかかる。

 監督生はオンボロ寮の様子を思い出した。庭、あれは庭なのか? 薔薇の咲き誇る見事な庭園を知ってしまうと、建物の周りにただ広がっているだけの土地を庭とは思えなかった。

「うちの寮に庭と呼べるような場所はないです。どちらかといえば墓地ですね。墓石みたいなものならありましたから」

「墓地? 穏やかじゃないね」

 リドルが相槌をいれると「そうなんですよねー」と脳天気な声が返ってくる。

「しかも、うちの寮の周辺はいつも曇っているんです。雨が降ることはそれほどありませんけど、いつも木枯らしが吹いていますし、見えるものと言えば木の枝に張った蜘蛛の巣くらいなんですよ」

「…………」

 リドルは耳を疑った。話を聞く限り殺風景どころではない。廃墟のそれである。

 色々と聞いてみたいことが溢れたが、無遠慮な質問は監督生を傷つけてしまう可能性があった。しかし掘り下げたい話題である。彼女のことをもっと知りたいし、困っているなら力になりたい。

 監督生はハーツラビュル寮の寮生ではないが特別な人だ。実のところ、リドルは彼女が自分を頼ってくれないことに物足りなさを感じ始めている。勉強だってかなり上手く教える自信があった。去年、留年や退学した生徒がいないのはハーツラビュル寮だけなのだ。ノートを渡してはい終わりのどこかの寮より、面倒見には自信がある。

「ひとつの可能性として考えてみて欲しいのだけれど」

 リドルはティーカップをソーサーに置いた。

 

「キミさえ良ければ、我が寮に転寮しないかい」

 

 自分の庇護下にいてくれたら、どんなに嬉しいだろう。

 間違っても他の寮なんかに彼女をやりたくはなかった。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 なんでもない日のお茶会が近いため、ケイトは寮内にあるパーティー会場の下見に来ていた。ガーデンテーブルがぐらついていないかなどを確認するためである。

「ねじれーたーリズムで踊ろう♪」

 流行りの歌を口ずさみながら歩いていると、見慣れたガゼボに人影を見つける。あれはリドルと監督生か。仲良くお茶をしているらしい。ケイトは挨拶をしようとして片手を上げ――。

 

「キミさえ良ければ、我が寮に転寮しないかい」

 

 真剣なリドルの声を聞いてピシッと固まった後、驚嘆すべき俊敏さで植え込みの陰に身体を滑り込ませた。ケイトは姉にこき使われた経験が長いため場の空気を読む能力が非常に発達している。今出ていくのは非常にまずいと本能が訴えていた。

 立ち去ろうとも思ったが、どう考えても面白い場面に違いなかった。

 恐る恐る物陰から顔を出す。監督生が驚いたり赤くなったりしているのが見えた。ケイトにはリドルと監督生の関係性がわからないが、親密な雰囲気が漂っているのは確かだった。

 

「そんな、急に言われても――」

「すまないね。もしかしてキミは転寮制度があることを知らないかもと思ったんだ。他ならぬボク自身がそういった制度があることを忘れていたくらいだから」

 リドルの声の響きには優しい甘さが含まれていた。監督生とケイトは、リドルがそんな声を出せることを知らなかったため妙に気恥ずかしい気持ちになった。

 

「リドル先輩はどうしてそんなによくしてくれるんでしょう。あの、私、自分のことはどうにかできるつもりです。もし、可哀想だと思っているのなら――」

「そんな感情じゃない」

 監督生の戸惑いをリドルが否定する。ハートの女王を尊敬し、どんな些細なことでも相手の主張を聞き漏らすまいと心がける彼が瞬時に否定をするのは珍しいことだった。彼女のことになると冷静では居られないようだった。

 

 ケイトは混乱した。頭上にたくさんの「?」が飛んだ。

 監督生の口ぶりからふたりは付き合っていないようだった。え、じゃあリドルくんが監督生ちゃん好きってこと?? あの、生真面目を規則でコーティングしたようなリドルくんが??

 

「キミに対してどう思っているのか答えるのは……少し難しいね。ただ、そうだな。キミと一緒に時間を過ごしているとき、ふと、よくこんなに穏やかな時間を知らずに生きていられたものだな。と、思うことがある。

 会えない時間が長いと寂しいよ。キミが元気かと心配になるし、心がどこか寒くて、あのときもっと話をしておけば良かったかなと考えてしまうんだ。改めて考えをまとめてみると、やはりキミを寮に招きたいのは哀れみの気持ちからではないね。朝起きて、一番最初に会うのがキミであったらいいなとか、そういうことは考えるけれど」

 

 そこまで言うと、リドルは紅茶で舌をしめらせた。

 監督生の顔はもう、庭に咲くどの薔薇よりも赤かった。

 

 ケイトはこれ以上ここに居ては行けないと判断し、抜き足差し足でその場を離れた。あの調子でリドルの言葉を聞かされ続けていたら恥ずかしさで死んでしまうと思ったのだ。そうして安全なところまで移動して「それは恋だよ……」とツッコミを入れた。あそこまで自分の気持ちをまとめておきながら、恋をしている自覚がないのは才能だと言えた。

 ケイトは走った。

 ひとりで抱えるには重すぎる事案だった。

 ケイトはトレイの部屋をバーンと開き、先程見た出来事を話した。仮に監督生が転寮するのであれば部屋の確保が必要だったので、もしかして副寮長のトレイはこの話を既に知っているのではと考えていた。そうであって欲しいと願っていた。

 しかしトレイにとっても本件は晴天の霹靂であった。

 トレイは最初、リドルに好きな女の子が出来たのを喜んだ。それはもうお父さんのように優しい瞳で喜んだ。そして転寮の話が出ると「ん?」と真顔になり、恋の自覚がないらしいのを知ると頬杖をついて深刻な顔をした。

 育て方を間違ったかもしれない。

 そんなことないわよ。あなた、頑張ってたわよ。

 ……と、大体そんなようなやりとりがあった。

 トレイとケイトはあーだこーだと意見を交わし、リドルのにぶさに頭を抱え、監督生の立場に同情した。そうして最終的に、今すべきは部屋をひとつ整えておくことだと結論づけた。トレイとケイトは優秀で人の気持ちがわかる男だったので、リドルと監督生のことに口を出すことはせず見守ることにした。

 

 決して、問題を先送りにしたわけではない。決してだ。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 リドルから転寮の誘いを受けた後、監督生の心はこれ以上ないほどに乱れていた。どのようにしてオンボロ寮に戻ってきたのか全く覚えていないが、多分ひとりで帰ってきたのだと思う。ベッドにうつぶせになり、枕に顔を押し付けると本日あった様々な出来事が頭の中で再生され、そのたびに考えた。

 リドル先輩は、私のことが好きなんじゃないの?

 いや、そうでなければ逆にびっくりだ。何度「それって告白ですか?」と確認したかったことか。彼の情熱的な転寮の誘いは彼なりの駆け引きなのかとも考えたが、それもしっくりこなかった。

 監督生は最終的に、リドルはおそらく自分のことが好きだが、恐ろしいことに自覚がないのだろうと考えた。結果的にそれは正解だった。

 

 転寮しますと返事をするのは、リドルの求愛に応えるのと同じ意味を持つのだろうか。監督生は深い溜め息をついた。リドルに対する自分の感情をいったん置いておくとすれば、ハーツラビュル寮への転寮は悪い話ではなかった。エースとデュースがいる寮だし、規則さえ守れば怒られないというのは魔法が使えない身には悪くない条件だ。スカラビア寮も過ごしやすいと聞くが知り合いがいないので内情はわからない。

 続いて、自分がリドルをどう思っているかを考えた。

 情熱的な告白にも似た転寮の誘いを聞いて、どうだったか。

 監督生はごろんと仰向けになった。

 本心を打ち明ければ、とても嬉しかった。

 これまで監督生は自分のことも含めて、だれのこともたいして眼中になかった。でもリドルとただ一緒に時間を過ごすうち、厳しい印象の強かった彼のいい面が見えてくるようになった。リドルは自分の役に立つとか、自分を愉快にするとかで人の価値を決めなかった。自分を追い込みやすいところはあるが、基本的には冷静で、意見が違う相手の訴えにも耳を傾ける器の広さがあった。嫌なものから適当に逃げる人生だった監督生にとって、リドルの実直さは危うくも見えたし、まぶしくもあった。いい人では終わらない何かがあった。

 そういった人に情熱的に求められて嫌な気になるはずがなかった。

 と、言うよりも今回の件がきっかけで監督生は強くリドルを意識するようになってしまっていた。なんだかあべこべで、ちぐはぐだった。

 リドルは転寮について、いつまでに答えを出せとは言わなかった。転寮したくなったらいつでも歓迎するよ、という誘い方をしていた。

 監督生は回答をしなくていいことに心底安堵をしていた。

 監督生は今の状態では決してハーツラビュル寮には行けないからだ。

 うぬぼれに聞こえるかもしれないが、監督生はリドルが恋心と親切心の区別がついていない状態に思えた。そんな状態での誘いを受けてしまったら、後々ややこしい事態になることは目に見えている。だから回答はせず、うやむやにしておくのが一番いいと考えたのだ。

 

 古い窓枠を北風が強く揺らした。

 厳しい冬の影が見えて、監督生は憂鬱そうに目を閉じる。 

 

 

 12月の森は静まり返っていた。虫の声も、葉擦れの音も絶えて久しい。

 リドルが森を訪れるのは久しぶりのことであった。帰省に備えてやらねばならないことが多くて、足を運ぶことが出来なかったのだ。監督生がここにいる保証はなかった。スマホで聞けばいいとも思ったのだが、自分が相手を想い過ぎなのではと思うと聞くことが出来なかった。

 それに元々、この森は彼女の場所だ。

 客人としてある程度はわきまえなければならない。彼女の秘密基地をふたりの待ち合わせ場所のように扱うのは違う気がした。

 

 森には誰もいなかったが、切り株の上にメモが置いてあった。雨よけのビニール袋に入れられたそれを手に取る。監督生の字で「冬が来たので、しばらく来ません」と書いてあった。リドルはビニールからメモを出すとそっと胸ポケットにしまった。メモが冷えていて気の毒になったからである。

 転寮の誘いをしてから半月経った。

 監督生とはあれから会えていない。避けられていた。

 リドルが深い溜め息をつくと、たちまちのうち白く染まった。それほどに気温が低い。魔法でクッションを出し切り株にそれを置いて座った。本当はクッションはふたつあった。もし彼女がまだここに来ているようであればひとつ渡して「冬の間は別の場所で過ごさないかい」と提案するつもりだったのだ。

 見上げた空は鈍色だが、帰る気にはなれそうもない。

 リドルはティーポットとカップを出して温かい紅茶を淹れた。自分の髪の色に似た明るい色の紅茶、秋摘みのダージリンをリドルは好んだ。

 

「この切ない気持ちが、恋なのだろうか」

 

 紅茶を一口飲んでつぶやいた。

 そうではないかと疑ってはいた。

 

 悲しいことにリドルは愛というものが、よくはわからなかった。親から与えられたことがなかったからである。リドルが親から与えられたのは、愛ではなく、支配と教育だった。

 それでいて愛が得られないと心がきしむのはよく知っていた。心の暗い面についてはそれなりに理解が出来るのだ。

 

 胸の奥がひゅーひゅーと寒い。

 彼女を想うこの気持ちが、恋なのか、執着なのかわからなかったが、こんな気持ちは消えればいいとは思えないのが厄介だった。小さな灯火のようなこの気持ちが誰に対しても持てるものではないというのはわかるのだ。

 きっと一生にひとり。そんな気がする。

 

「会いたいなぁ」

 

 皮肉の混じったほほ笑みを浮かべ、飲みかけの紅茶にミルクを注いだ。味も色もすべてが塗り替えられる。少し渋かったのが飲みやすくなる。

 少し冷めてしまったことだけが残念だった。 

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 監督生とはもう話もできないのかも。

 冬の寒さも手伝って悲観的になっていたリドルだったが、きっかけはある日突然やってきた。

 

 薔薇の植え込みの向こう側で、太陽が紫色と金色の華やかな光につつまれて沈みかかっていた。夜の気配が近付いている。リドルは日が落ちるのが早くなったと考えながら、フラミンゴとハリネズミに「今日はもうおしまいにしようか」と声をかけた。

 リドルはクロッケーの練習をしていた。

 ハートの女王を尊敬している彼は、一打で全てのフープにハリネズミを潜らせるのを目標としている。そのためには練習は欠かせなかった。クロッケーは動物たちとの交流が大切なこともあり、リドルは彼らとのふれあいを大切にしている。協力してくれた動物たちにおやつを与え、彼らがいるべき場所に連れていき、おやすみを言って鍵をかける。何度か引っ張り施錠の具合を確認して寮に向かった。そのまま練習後の疲れなど感じさせない足取りで寮の入り口まで来たが、ピタリと足を止める。

 ドア越しに小さな女の子の笑い声がした。

 すぐにピンときてしまう。

 ここは男子校だが女子がひとりいて、1年の魔法薬学の授業には「若返りの薬」があった。薬の効果はラットで試すよう厳しく言われているのだが、ここはナイトレイブンカレッジだ。面白そうな薬を前にして黙っていられるはずがなく、毎年何名か不幸な犠牲者が誕生している。

 はたしてドアを開けると、水色のエプロンドレスを来た小さな女の子が楽しそうにパタパタと寮内を駆け回っているのが見えた。間違いない。監督生である。確信があった。

「エース、これはどういうことだい」

 静かに問いかけると、抜き足差し足で階段の影に隠れようとしていたエースがびくりと背筋を正した。

「あーー。これには深い訳がありまして」

「へえ。どんな理由がおありだい?」

 勿体つけていたが、蓋を開けてみれば単純な話だった。

 魔法薬学の授業中になんやかんやあって監督生が「若返りの薬」を被ってしまい、しばらくはこの状態で過ごさざるを得なくなってしまった、ということだった。通常なら解毒薬を飲めば元に戻るのだが、魔力のない監督生が飲むと副作用がひどいらしい。幸い明日と明後日はお休みなので、自然に回復を待つほうがいいと先生方は判断していた。

「なあ、リドル。監督生が戻るまでうちの寮で面倒を見ないか?」

 トレイが監督生を高い高いしながら提案した。弟妹が多いトレイは幼い監督生が可愛くて仕方がないらしく、先程から機嫌良さそうに監督生を猫可愛がりして楽しんでいる。

 気楽に言ってくれる、とリドルは眉間にシワを寄せた。

「部屋はどうするんだい。子供の姿とはいえ彼女は女性だ。レディーにふさわしい部屋をすぐには用意できないだろう」

「あ、それなら大丈夫♪ 偶然、空き部屋を綺麗にしたところだったんだよね。そこを使えば問題なし!」

 ケイトがくるっと振り向きながらリドルに横ピースをする。ちらりと見えたスマホのアルバムには監督生の写真がびっしりと並んでおり、彼もまた幼い監督生の存在を楽しんでいるのが伝わってきた。

「ローズハート寮長。僕からもお願いします!」

 今度はデュースが「この通りです!!」と両手を体の横に添えて90度の角度で頭を下げだす。「なんでそこまで」とリドルが呆れた。寮長の義務として話を聞いてみると、デュースの調合ミスで薬品が爆発し、一番近くにいた監督生が薬を被ってしまったとのことだ。

 ……そういうことなら仕方がない。

 

「ハーツラビュル寮生の失態で迷惑をかけたなら、責任をとらなくてはいけないね」

 リドルが腕を組み、重々しい口調で監督生の滞在を認めると、わあっとデュースたちがバンザイをした。

 

 もう説明もいらないと思うが、本当はリドルも監督生が来てくれて嬉しくてしょうがない。姿も考え方も幼くなっているようだが彼女は監督生には違いないし、好きな人の幼少期が見れるのは嬉しいものだった。

 失礼でない程度に監督生を眺める。子供時代の彼女は活発だったのだな、とほほえましい気持ちになっていると彼女と目が合った。可愛い女の子だった。少しほほ笑んでみると、監督生は目をぱっちりと見開いてサッとケイトの影に隠れてしまう。ひらひらとしたエプロンドレスのすそだけが、手招きするように揺れていた。

 リドルはちょっと傷ついた……。

 談話室で新聞でも読もう。そう思って部屋から出ていこうとすると「ねー、リドルくーん!」と後ろからケイトのにやついた声がする。

 

「監督生ちゃんがねー。リドルくんが1番かっこいいってー!」

「……そう。光栄だね」

 

 これは、かなり嬉しかった。

 いま文字を追ったところで何も頭に入ってこない。予定を変更し夕食前にシャワーを浴びよう。背後で監督生が「言わないって言ったのに!」と言いながらケイトを蹴っている気配がしたが、約束を破ったのならケイトが悪い。咎めることはしなかった。

 

 本当はケイトには礼を言いたい気持ちも……いや、言うのは止めておこう。

 なんでも明らかにしたがるのは、野暮がすることだ。

 

 監督生の面倒は基本的にデュースとトレイが見ることになった。エースは面倒臭がったし、ケイトは監督生を裏切ってからというもの彼女に嫌われていたからである。

 リドルも監督生と遊んでみたかったのだが、彼の紳士的な良心がこれを咎めていた。最後に会話をしてから監督生は明らかにリドルを避けていたので、そんな状態で記憶のない彼女に話しかけるのは卑怯な行いに思えたのだ。

 しかし彼女になにかしたい気持ちは止められない。

 そのため、リドルは「寮長」として監督生が快適に過ごせるように気を配ることにした。彼女が使う部屋の家具を子供が使いやすい高さのものに変え、彼女が着ているエプロンドレスに真紅の薔薇を模したピンブローチを飾ったのである。

 

「かわいいお花!」

 監督生は小さくて可愛らしいものが好きだったのでリドルからの贈り物を喜んだ。リドルは片膝を付いて監督生に目線を合わせながら、彼女が寮の象徴を気に入ってくれたことを誇らしく思った。

「この寮にいる間は、これを見える場所につけてくれるかい」

「うん! ……じゃなかった、はい!」

 幼い監督生は、幼いなりにこの寮の規律を守ろうとしていた。デュースからこの寮で一番偉いのはリドルだと聞かされていたのだ。偉い人には敬語を使わなければいけないので、監督生はリドルにだけは敬語を使うように気をつけていた。

「ふふ。礼儀正しいレディーだね」

「こーえいです」

 ふふん、と監督生は胸をそらした。監督生は光栄の意味はよくわかっていなかったが、褒められたらこう言い返せばいいのだと学習していた。昼にリドルがそんな使い方をしていたので覚えてしまったのである。

 リドルは自分の振る舞いが彼女に影響を与えたのに気付き、ますます彼女を可愛く感じてしまう。彼女を落胆させるようなことは決してするまいと心に決めた。

 

「リドルりょうちょう。しつもんしてもいいですか」

「構わないよ。どうしたんだい」

「このキラキラは、ここにいるときしか、つけちゃダメですか」

 

 どう答えたものか、少し迷った。

 真紅の薔薇を模したピンブローチはハーツラビュル寮の寮長が友好の印として贈るものである。この装飾品が彼女を守る。監督生がこれを身に着けていれば、彼女になにかあった際に「監督生とは友好関係にある」と主張して物事に口を挟むことが出来るのだ。しかし、そのあたりの事情を幼い彼女に説明するのは難しい。

 彼女に分かるように説明するにはどうすればいいだろうか。

 

「今から言うことは、ずっと覚えてくれると嬉しいのだけれど――」

 そう切り出すと監督生は「はい」と真面目な顔をした。

「そのキラキラは『キミを大事にする』という約束のようなものなんだ。だから、そうだね。この寮以外でも着けていてくれたら、ボクは、とても嬉しい」

「わかりました。じゃあつけます! ずーっと、しぬまで!」

「そこまでしなくて、いいんだよ」

 リドルは慌てた。自分が何気なく言ったことを、監督生が真面目に受け取りすぎてしまったように感じた。

「それに死ぬまでなんて、簡単に言ってはいけないよ。キミは年頃のレディーなのだから、それひとつをずっと身に着けるわけにはいかないだろうしね」

「わたしは、まじめよ? かんたんになんて、決めてはいません」

 監督生の声が冷ややかな落ち着きを備えていてリドルはぎくりとした。女性がこういう声を出すときはものすごく怒っているときだと、経験上知っていたからである。

「非礼を詫びよう、賢いレディー。考えが足りなかったのはボクのほうだったね」

「わかってくれれば、いいんです」

 監督生はにっこり笑って許してくれた。

 

 リドルは彼女の笑顔を見ながら不思議な気持ちに襲われた。

 今までの人生を振り返ると、大人からなにか貰ったり、用意をされたときは「感謝をしなければ」いけなかった。何が出てきてもだ。誕生日に甘いケーキやタルトが出てこなくて悲しい気持ちになっていても、お礼を言わなければいけなかった。

 そんな思い出が多いものだから、幼い彼女が自分があげたものを喜んでいるのを見て「気をつかわせた」かもと心配になってしまったのだ。彼女の笑顔を素直に受け取ることができなかったのである。好意で贈ったものを喜んでもらえたことが、にわかに信じられなかった。

 

 どきどき、と胸が高鳴った。尽くす喜びは甘くて癖になる。

 これ以上の甘味をリドルは知らない。

 

 監督生が来て2日目の朝、監督生がトレイたちに遊んでもらっているのを確認するとリドルはひとりで図書館に向かった。ホリデーでも図書館は開いており、朝の早い時間であるにも関わらず、勉学に励む生徒たちを何人か見かけることができた。

 このあたりだろうか。

 館内の蔵書マップを頭に浮かべながら目当てのコーナーを見て回る。幼少期の教育や育児の本を探していた。教育理論や心理学に関係しそうな本はこれまで読んだことがなかったが、何冊か初心者向けの蔵書を探すことができた。借りて寮で読むのがためらわれる内容だったため、館内で読んでしまうことにする。リドルは奥まったところにある椅子に座り、読書に没頭した。

 

 子供に対してどう接すればいいのか。

 リドルが知りたかったのはそれである。

 

 実は以前からいつかこの手の本は読まなければいけないと思っていた。母が自分に対して行った苛烈な教育は果たして正しかったのか確認したいと思っていたのだ。本当は専門家に相談できればいいのだが、身内に関しての相談だ。慎重になる。まずは自力で調べるのが適切に思えた。

 監督生が幼い姿で現れてくれたのは、現実に向き合ういいきっかけとなった。

 リドルはずっと母親に向き合うのを先延ばしにしていたのである。対話で何かが解決する相手でない以上、情報をかき集めても、自分の心を整理して来る日のために覚悟を決めておくことしかできないからだ。

 明るくまっとうな家で育った人にはピンとこないかもしれない。

 家族はみんな仲良く出来るとと心から信じている人が世の中には多いし、それは素晴らしいことだ。しかし事実を羅列してみるとリドルが幼少期に受けた教育は虐待と言い換えることができ、その言い換えはまったく大げさではなかった。

 両親から愛されていないと認めてしまったほうが幸せになれる人はいる。愛されないと認めることで、親と自分を切り離し、心を独立させることができる。それが不幸かどうかを決めるのは自分だ。自分の人生なので好きに決めていい。それだけ理解できていれば、本当は悩む必要なんかないのだ。

 

 リドルは2時間ほど読書をした。

 頭では理解したが受け入れられない内容が多かった。

「……今はそれでいい。焦らずやろう」

 言い聞かせるように呟いて、そっと本を閉じた。

 

 ハーツラビュル寮に戻ると、入り口のドアが空いた音を聞いて幼い監督生が駆け寄ってくる。明るい瞳で「おかえりなさい! 待ってました!」と出迎えてくれた。今朝、彼女と昼食を一緒にとると約束をしていたのだ。

「ただいま」

「……りょうちょう、元気ないみたい」

「少し勉強を頑張りすぎてしまってね」

 自分の様子を気づかってくれる小さな淑女が、たまらなく愛しかった。

 

 幼い彼女を眺めていると、自分はこのくらいの幼い子に対して分刻みで教育スケジュールを押し付けるなんてとてもできないと思った。初めて過去の自分に対して哀れみの情が湧いて、両親と自分は血がつながってはいるが、まったく別の人間なのだと納得することができた。

 

 世界が少し変わった。

 世界を変えるきっかけをくれたのは、彼女である。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

「それじゃ、お世話になりました!」

 元の姿に戻った監督生がハーツラビュル寮のみんなにペコリと頭を下げる。

 彼女の上着にはバラのピンブローチがついていた。

「寮まで送ろう」

 彼女が背中を見せる前にリドルが申し出ると、監督生は「嬉しいですね」と微笑んでくれた。

 オンボロ寮に到着するまでは日常の話、例えば古典詩の暗唱でハートの女王の国の詩が出るとか、そういった話をしていた。大切な話があったけど、気まずくなるかもしれない話題は別れ際にするに限った。

 

 鏡舎を抜けてオンボロ寮まで歩く。

 リドルはオンボロ寮を見たことがない。地図上だとオンボロ寮がどこにあるかは知っていたけれど、監督生がどんどん人気のない方向へ進んでいくので流石に心配になった。

 寮が見えたときは思わず「本当にここに住んでいるのかい?」と確認してしまった。オンボロ寮の外見はどう見ても廃墟だったのである。

「中はそれなりにキレイなんですよ。良かったら上がっていきません?」

「え。いいのかい、急に」

 仮にも女性が住んでいるところにお邪魔していいのだろうかとリドルは戸惑った。本当に送っていくだけのつもりだったのだ。

「どうぞ。談話室があるので、そちらにお通しします」

「……ではお邪魔しようかな」

 監督生に気にした様子はない。急な来客には慣れているようで穏やかな笑顔を崩さなかった。それならば厚意に甘えるとしよう。彼女がどういうところで生活しているのか知りたかったので、リドルはお茶を一杯いただくことにした。なるほど、たしかに寮の中は意外と清潔だ。造りもしっかりしている。

 

「すまないね。手土産のひとつもなくて」

「いいんですよ。いつも良くしてもらっていますし」

「手伝おうか」

「座っていてください。すぐにできます」

 

 監督生はキッチンでお茶を用意してくれていた。

 黄色い紙箱に20個入っているアールグレイだった。

 

「粗茶でーす。先輩、お砂糖やミルクはいります?」

「ありがとう。ミルクをいただけるかな」

「はーい」

 ふたりぶんの紅茶が運ばれてきた。彼女にお茶を用意してもらうのは初めてだった。ミルクはポーションタイプのもので、リドルが中身を出すために先端を上に向けるとパキッといい音がした。

「ハーツラビュル寮のおもてなしに比べると、お粗末でちょっと恥ずかしいですね」

「ボクはこういう紅茶も嫌いじゃないよ。それに、キミがどんな生活をしているか知れて嬉しい」

 監督生がマドラーを渡すのを忘れていたので、リドルはマーブル模様ができたままの紅茶をそのまま飲んだ。どちらかと言えばきっちり混ぜたい派だったが、もてなされている身で細かい指摘をするのも嫌だった。

「ホリデーのことなのだけどね」

 リドルは口火を切った。伝えたいことはふたつあった。

「我が寮の部屋のひとつを客間にすることにしたんだ。もしこの寮になにかあれば、客間を自由に使っていい。みんなには伝えておくから」

「もしものときの避難所があるのは嬉しいですね。お心遣い、感謝します」

「うん。それでね」

 リドルはカップをソーサーに置いて、監督生にほほ笑んだ。

 

「最近自覚できたのだけど、ボクはキミが好きみたいなんだ。言い方が曖昧で申し訳ないのだけれど」

 監督生は紅茶を吹きそうになったが、どうにかこらえた。

 

「それって、恋愛的な意味でですか?」

「恋愛的な意味だよ。キミに会えない日が続いて寂しくなって、ようやくこの気持ちを恋と――」

「あっ。大丈夫です!! 大丈夫、本当に大丈夫!! 伝わりました!!」

「そうかい? それなら、よかった」

 

 監督生はじんわりと頬を赤らめていた。そう遠くないうちに、リドルから告白してくれそうな予感はしていた。期待もしていた。

 なにか言ったほうがいい気もしたが、リドルの話はまだ終わってなさそうなのでひたすら黙った。体中を強ばらせている監督生に対し、リドルは落ち着いたものだった。

「もちろんキミを寮に誘ったのはやましい気持ちがあってのことではないよ。その、本当は寮の誘いの返事をもらってから言えればよかったのだけれど、すまないね」

「い、いえ。それはいいんです。寮のお誘いの返事を先延ばしにしていたのは私ですし」

 監督生は腹に力を込めた。嫌なことからは極力逃げ回るのを心情にしている彼女だが、リドルに関してはできるだけ彼のペースに合わせたいと思っていた。リドルは論理的な思考をしているが、それゆえに感情や流行みたいな答えがぼんやりした話題が苦手だった。それは短所ではなく、個性だった。

 監督生はあまり可愛いことは言えないが、相手のペースに合わせることは出来る。だからそうしていた。リドルが疲れないようにしたかったし、一緒に長くいたかったから。

 よし。時期が来た。伝えるぞ。

「まとめてお返事をしていいでしょうか」

「寮への誘いと、キミへの好意の返事かな」

「そうです」

 監督生は大きく息を吸い込んだ。こういうのは勢いで言ったほうがいい。人生なんて7割以上は勢いだ。大事なのは決めるべきポイントでバシーッと決めること!!

 と、頭では分かっているのだがまったく言葉にできなかった。

「〜〜〜〜〜〜っ」

「……急がなくてもいいんだよ?」

 赤い顔でオロオロしているとリドルが気をつかいだした。

「いえ。今、今がいいんです。ちょっと待って。もう決まってるんです」

 どうも言葉で伝えるのは無理そうだった。でもどうにかして伝えたかった。なんというか、自分にできるベストを尽くしたかった。監督生は助けを求めるように左右を見回した。メモ帳とペンがあった。

 

『私も好きです』と書いて渡した。

 慌ててちぎったものだから上が破けていたし、字も荒れている。

 

 リドルは彼女からメモ用紙を受け取ると熱っぽい瞳でニッコリとほほ笑んだ。心を許した人にしか見せることがない、可愛い笑顔だった。

「ありがとう。これでキミを気兼ねなくデートに誘えるよ」

 監督生は両手で心臓を押さえた。そろそろ死にそうだったが、まだ成すべきことが残っている。ふらつきそうになる上半身を気力で起こした。

「はい。その上でハーツラビュル寮へのお誘いはお断りします」

「そう、残念だ。そんな気はしていたけれどね」

 リドルが軽い口調で行ってくれたので監督生は少し気が楽になった。

 

 ちゃんと伝えよう。拙くても丁寧に話そう。

 この人を大事にしたいから。

 

「先輩とできるだけ対等でいたいんです。

 ハーツラビュル寮に行ったらそれができなくなるでしょう。だから寮生にはなれません。先輩が裁かなくてもいいポジションでいたいんです」

 温かい沈黙が流れてリドルの目元が淡く染まった。

「……我が寮には美しい庭園もあるし、飢えることもないのに」

「今の距離感が好きなんですよ。生活に困ったらたかりに行きます」

 

 毎日来てくれてもいいのだけど、とリドルは思った。

 目の前の女の子をギュッと抱きしめたかったが、自制心を総動員してどうにかこらえた。抱きしめるだけで終われる気が、しなかったからである。

 

 

 監督生とリドルは恋人同士となったわけだが、付き合い始めたからといってなにかが大きく変わるわけではなかった。ふたりとも穏やかな時間を好んでいたので、今までの状態に「恋人同士」と名前がついただけな気もした。

 

 12月の終わりには大きなテストが控えていたので、リドルがオンボロ寮に足を運んで勉強を教える事が多かった。今日もオンボロ寮の談話室で勉強をしていて、ふたりはひとつのテーブルを挟んで座っている。教科書を広げるにはその座り方がちょうどよかった。

 カリカリ。ペンがノートを引っかく音が響く。

 勉強の合間に、監督生はちらりとリドルを見上げた。集中しているリドルの顔を見るのが、監督生は好きだった。

「ねえ。最近はいつも先輩がこっちに来てくれるじゃないですか」

 声が聞きたくて話しかけると、リドルは気を悪くした様子もなく「そうだね」と穏やかにほほ笑んでくれた。

「うちから鏡舎までは結構遠いでしょう。次は私がハーツラビュル寮に行きましょうか」

「ボクは……できればこちらの寮で会いたいね」

「先輩がいいならそれでいいですけど……。それってレディーファーストとかそういう考えからですか?」

 ハンカチを敷いてくれたときを思い出しながら尋ねる。リドルは穏やかに首を横に振った。

「それだけじゃないよ。待っているより、会いにいくほうが好きなんだ」

 視線や口調に監督生への愛情が溢れていた。監督生が照れ隠しに「変わった人ですね」とペン回しを始めると「そんなにおかしいかい?」とリドルがいたずらっぽく首をかしげる。

 

「鏡舎を出てメインストリートを歩いて、購買に到着するだろう。そうすると遠くにこの寮が見えるんだ。足をすすめるごとに寮が少しずつ大きくなってチャイムを押すと、キミが『いらっしゃい』って迎えてくれる。ボクはその瞬間が好きだ」

 

「……いつもそんなことを思っていたんですか、あなたは」

「そう。だからホリデーが憂鬱だ。キミに会いに行けなくなる」

 少し部屋の温度が下がった気がして、監督生はひざにかけていたブランケットをたぐりよせた。

「キミは家が恋しいかい?」

 リドルが監督生の家族について尋ねるのは初めてだった。監督生は少し考えて「クリスマスプレゼントとお年玉がもらえないのはなんか悔しい」と答えた。

「お年玉?」

「ああ、こっちにはお正月がないんでしたっけ。私の地元では年明けに子供にお金をあげる習慣があるんですよ。たいていはお小遣い程度ですけど」

「ハロウィーンにお菓子を配るような感じかい?」

「近いような、遠いような」

 喋りながら監督生は、リドルは家に帰るのは嫌だろうなとためいきをついた。家族間の問題に口を出す真似はしないが、なにもできないのが歯がゆくもある。監督生にできるのは暗い顔をしないことくらいだ。

「……ホリデーに入ったら、ひとつお願いをしてもいいかな」

 リドルが寂しさの混ざった声を出したので、監督生は忠実な犬のようにパッとリドルの顔を見た。場を和ますために「ひとつでいいんですか?」とニヤッと笑ってみせる。思いつめやすい彼のために、喋りやすい雰囲気を作りたかった。

「キミは、ホリデーの最終日までは客間を使ってくれるかい?」

 監督生はホリデーの間、ハーツラビュル寮の客間を使わせて貰うことになっている。なので「そのつもりです」と答えると、よかった、とリドルが肩を下げた。

 彼のお願いは監督生がハーツラビュル寮にいることが前提らしい。リドルは気恥ずかしそうに視線を泳がせたあと、秘密を告げるように頬を染め口を開いた。

 

「ボクがハーツラビュル寮に帰ってきたら『おかえり』と言って欲しいんだ」

 

「はい……それで?」

「それだけだけど」

 えっ、と監督生は思わずのけぞった。

「いや、言うでしょ普通。帰ってきたら『おかえり』って」

「キミに言われたいんだよ。その、安心したいんだ。帰ったらキミが迎えてくれるって」

「そりゃ、全然いいですけど……ていうか、言われなくてもいいますし」

「よかった、ありがとう」

 監督生は複雑だった。リドルは感謝してくれているが肩透かし感がすごかった。あまりにもささやかすぎるお願いだったので、もっと困るようなことを言ってくれてもいいのにと思った。

 だって、ホリデーに入ったら会えなくなるのだから。

「あのー……私もお願いがあるんですけど」

 はしたない女だと思われるかもしれないと不安になりながらも、監督生は勇気を振り絞った。

「どうぞ。恋人からのお願いは嬉しいものだね」

 恋人……! 監督生の心臓が勢いよく跳ねた。よし、いい流れだ。よし。

 大丈夫。私は言える。言える。言える……。

 

「あのーーーーーーーーーーーーーー」

 息が切れるまで「ー」が続いた。

 

「言いづらいなら紙とペンを用意しようか」

「ああいや、いいです。そういうの癖になっちゃうとよくない気がする……」

「キミは妙な部分で真面目だね」

 監督生はこほんと咳払いをした。仕切り直す必要があった。

「あーその、私たちお付き合いをしていますよね」

「うん」

「私は、その、先輩のことが、とても好きです」

「ありがとう。ボクもキミが大好きだよ」

 

 監督生はリドルの言葉を受けて両手で顔を覆った。

 この人はもう……そういうとこ! あっでも、顔を覆ったらいい感じの暗闇ができた。この状態なら言えるかも!!

 

「しばらく会えなくなりますし……」

 顔を覆ったまま監督生は続けた。

「うん」

「もう少し、スキンシップがあっても、いいと思うのですが、いかがでしょうか……」

 

 言った―!! 言った!!! えらい!! 監督生選手、やりました!! 言葉の満塁ホームランです!!! ……というアナウンスが監督生の脳内に響き渡った。しかし、5秒くらい経っても返事がない。不安になった監督生は顔に当てた指の隙間からそっとリドルを見た。

 リドルは口元に手を当てて赤くなっていたが、監督生と目が合うと眉を下げて椅子から立ち上がった。

 なにか言ってほしいような、なにも言ってほしくないような!!

 コツ、コツ、と規則正しい足音が聞こえる。監督生はヒュッと息を吸った。これから何が起こるのかまったくわからなかった。怖い・恥ずかしい・前髪が変じゃないかな、などの感情があふれてめまいがしそうだった。

 リドルが手を伸ばせば届く位置まで近付いて止まり、両手を広げる。

 

「おいで」

 

 えっ。私が行くの!?

 と、監督生は思ったが喉がカラカラで何も言えなかった。今言葉を発したらなんか多分だけど面白い声が出てしまう。それは避けたい。

 監督生は背中に変な汗をかきながら立ち上がった。そのくせ手足が冷たかった。手汗をかいてないか心配でスカートでさりげなく拭いて、うつむきながらトコトコと歩いていった。いっそ殺してくれと思ったが、今死ぬのはあまりにももったいなかった。

 

「ふふ。つかまえた」

 

 監督生はその日、リドルの腕が自分とは全く違うことを知った。男の子の腕だった。監督生は口にはしないがリドルを小柄で可愛らしいと思っていた。しかし小柄とは目線が近いということで、今の状態は言ってみればゼロ距離。すぐ横にリドルの顔があり、お互いのシャンプーのにおいがなにもしなくても漂ってくる。それはもう大変な距離感だった。

 

「他にしてほしいことはないかい?」

 

 近い。声が近い!!

 ていうか今耳になにか当たった!! なにが当たったの!?

 

 監督生は息も絶え絶えに「えっと、あの、もう、大丈夫です」と伝えたが「ボクはもう少し、このままがいい」と返され(あっ、死んだな)と思った。

 

 

 リドルが鏡の間に到着すると帰省する生徒が列を作っていた。長距離移動用の鏡の前に並んでいるのだ。どの生徒の瞳も喜びで輝いている。憂鬱そうな顔をしているのはリドルくらいだった。

「リドルせーんぱい!」

 うなだれそうになっていると背後から声がかかった。監督生だった。彼女が来るとは聞いていなかったので少し驚いた。

「やあ。来ていたんだね。来るならスマホで教えてくれれば良かったのに」

「昨日まではここに来る気はなかったんですよ。でも今朝はたまたま寝起きが良くて用事もなくて暇だったし、先輩を見送りに行こうかなーって」

 彼女は本音を滅多に口にしない。いつも本音なのか、冗談なのかわかりにくい言い方をする。その癖、そばにいて欲しいときには必ず現れてくれる。本当に不思議な人だった。魔法が使えないのに、魔法みたいなことをやってのける。

 リドルはちらりと時計を眺めた。家に帰らなければならない時間までは余裕があった。リドルと監督生は通行の邪魔にならないところに移動して、互いの顔をゆっくりと見つめた。

「先輩、よく聞いてくださいね」

 彼女の瞳は冬の朝のように静かだった。

「あなたの寮長という立場、他の追随を許さない実績、周囲からの信頼。それらはすべて、あなたが努力をして手に入れたものです。あなたはハーツラビュル寮の王様。あなたには帰る場所があります」

 しばし言葉を失う。

 目頭が熱くなりそうになって、リドルは深く息を吸って止めた。

「……そうだね。キミの言う通りだ」

 勉強は学生の本分だし、自己研鑽は幼少期から叩き込まれていた。勉強は家での居場所をもらうために必要なノルマだった。でも今は自分の意志で勉強をしている。友人も恋人もいる。リドルはもう、子供よりは大人に近い。自分の力で生きていける未来も遠くない。

 リドルは軽く目元を押さえたあと監督生に微笑んでみせる。心には問題がないと見栄を張りたかった。

「緊急の用事があれば必ず電話をして欲しい。すぐに飛んでいくのは難しいけど、指示は出せるから。いいね?」

「あ、ええ。でも連絡して大丈夫なんですか? その、厳しいおうちなんでしょう?」

「いいんだよ。ボクが1番大切にしているのはキミだ」

 リドルはきっぱりと言い切った。

 家との関係が悪化しようが譲れないものができている。仮に今後、母が監督生との関係でなにかを言ってくるとして彼女を手放す気なんて毛頭なかった。

 リドルは監督生を愛している。

 彼女も自分を選んでくれているなら、迷うことなんてなにもない。

「では行ってくるね」

 監督生の手を取り口づけをする。監督生は驚いた猫のように目を丸くしたが、眩しそうに目を細めて「行ってらっしゃい」と微笑んでくれた。

 

 久しぶりに帰ってきた我が家は、前回見たときと同じくチリひとつなくなにもかもが整然としていた。ここに住まう人の特徴がよく出ている。

「ただいま帰りました」

 母に帰還の挨拶をする。母は油断のならない相手ではあるが、余計な恐怖や反発心はなかった。心の在りようが変わったのである。

 これまでのリドルは母をがっかりさせないよう死ぬ気で努力していた。そういう生き方を強制されていた。この家では能天気に生きていけない。外からの助けはあてにできないので、弱いときは耐えるしか無かった。

 しかし今は違う。大切な人ができた今、以前と同じように生きていくのはあまりにも勿体なかった。

 

 もう、だれが相手でも怯む気などない。

 

⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰

 

 ホリデーの最終日にリドルは鏡の間に到着した。実家では上手くやり過ごした。楽しい思い出はないが、必要以上に緊張することがなくなったので例年に比べてマシな年越しだった。

 さて、では鏡舎からハーツラビュル寮に移動しようか。

 リドルは学園を出てメインストリートを歩き、ちらりとオンボロ寮の方角を見た。いま、あの寮に愛しい人はいない。彼女がいるのは自分が治めるハーツラビュル寮だ。そう考えた瞬間、鏡舎に向かう一歩ごとに彼女への距離が近付いているような気がして落ち着かなくなった。

 凍てつく風がほてった頬をなでる。

 鏡舎へ到着してハーツラビュル寮の鏡を抜けた。

 

 同時刻、監督生はハーツラビュル寮でそわそわとリドルの帰りを待っていた。スマホで多少のやり取りはしていたが2週間ほど会えていなかった。早く会いたい。到着の時間は予め教えてもらっていたので、それまではゆっくりしていればよかったのだが、そんな気にはなれなかった。待ちきれなくなった監督生は玄関を出て、薔薇の咲き乱れる庭園を歩いた。彼がすぐ近くに来ている気がしていた。

 背筋を伸ばした人がトランクを片手にこちらに向かうのが見えた。彼は庭園の薔薇を眺めながら歩いていて、まだ監督生には気が付いていなかった。立ち止まり赤い薔薇に手を伸ばし、魔法でトゲを小さくしてから手折っているのが見える。

 いたずら心がわいた。久しぶりに彼の驚いた顔を見てみたい。誰も見ていなかったので彼女は大胆になり、スカートをひらめかせながら走って、リドルに真横から抱きついた。

「おかえりなさい!」

 やわらかい風が吹き、薔薇の花々が微笑むように花びらを揺らした。

 リドルはいきなりの奇襲に驚きつつ、彼女との初めての出会いを思い出し懐かしい気持ちになった。

「ただいま。ボクのかわいい人」

 ささやきながら抱きしめ返し、手に持っていた赤薔薇を彼女の耳元に飾る。手袋ごしに彼女のサラサラとした髪の感触があった。

 監督生がリドルに会いたくてここまで来てくれたのは明白だった。胸の内を甘い痺れが駆け抜けていく。リドルは彼女から体を離した。彼女の頬にてのひらを添え、彼女のくちびるに親指をあてる。

「少し、目を閉じてくれるかい」

 彼女は緊張した様子で目を閉じた。細いまつげが震えている。

 

 そこから先、なにがあったかは薔薇たちだけが知っている。

 幸せな瞬間があったことだけは、確かなようだった。(Fin)


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