男装監督生に片思いするジェイド先輩のラブコメ。長い片思いが報われる日は来るのだろうか…。

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ジェイド先輩×男装監督生

[chapter:1章:先輩は山を愛してる]

 名門魔法士養成学校「ナイトレイブンカレッジ」。

 優れた能力・家柄の子息が集まる名門男子校に、ひとりの異質な新入生が召喚された。魔力も保たず、所属する寮も決まらなかった主人公はオンボロ寮に居場所をもらい、監督生として生活しつつ元の世界に帰る方法を探し始める──。

 

 

 

「ふな〜〜。腹が減ったんだゾ」

 オンボロ寮の一室で情けない声がする。監督生は本を読む手を止めてベッドに目をやると、腹ばいになったグリムが口をへの字にしてこちらを見つめていた。

「オレ様、ツナ缶が食いたいんだゾ……」

「そんなこと言われても、お金がないからなんにも買えないよ。朝になったら外にご飯を探しに行こう」

「もうタンポポは食べたくねぇ〜! 黄色を見るのもうんざりなんだゾ……」

 グリムのひげが水の足りない植物のようにしょんぼりと下がった。

 監督生はお金がない。

 異世界・ツイステッドワンダーランドに体ひとつで飛ばされて、うさんくさい学園長の気まぐれな温情でどうにか生きてる状態だった。一応、一定額はもらっているが、そこはグリムと「ふたりで一人前」状態。入学直後の物入りな時期だし食費を削ってどうにか日々を過ごしていた。

 ぐぅぅ……とお腹がなる。監督生は今年で16歳。ただでさえ食べざかりなのだ。タンポポと水だけで腹がふくれるはずもなかった。

「ごめんね。グリム。もう少し我慢をしてね」

 ゴーストにわけてもらったしけったクッキーも底をついている。

 切実に、なるべく早く、お金が必要だ。もしくは食料。

(食堂で働けないかな。明日、聞きに行ってみよう)

 空腹をごまかすためにグリムの後頭部を吸うととろりとまぶたが重くなる。健やかな寝息が聞こえるまでに時間はかからないだろう。

 

 

 

 翌日。

 授業が終わったあと、監督生はグリムを連れて食堂を訪れた。カウンター越しに何人かのゴーストが明日の仕込みをしているのが見える。

(あぁ。美味しそうなにおいが漂ってくる……。ランチはタダだけど、今の時間は有料なんだよなぁ)

 バイトを紹介して貰う前に食べ物を恵んでもらえないだろうか。

 そんなことを考えていると、監督生の真横をカゴいっぱいの山菜が通り過ぎていった。

「アイツが持ってるの、食べ物じゃねーか?」

 肩に乗っているグリムが黒い鼻をひくつかせながら訪ねてきたので、監督生はうんとうなずく。みずみずしいツヤがまぶしい新鮮な山菜である。土がついているところを見ると採って一時間も経っていないと思われた。

「多分、この近くに生えていたんだと思う」

「なぁ。あんだけあるなら、ちょっと分けてもらえねーかな。アイツそんなに食いそうに見えねーんだゾ」

「そうだね。もらえたらラッキーくらいのノリで聞いてみようか」

 山菜の人は白い手袋に中折れ帽、質の良さそうな黒いジャケットを羽織った長身の男性だ。ジャケットのすそからは丁寧にアイロンがかけられた紫色のシャツがのぞいている。帽子には貝が飾られているのでオクタヴィネル寮の先輩だろう。品のいい香りがする人だった。彼は自動販売機より背が高い。同級生にあんな長身がいたら流石に覚えているはずだった。

「すみません、そこの紫の山菜の先輩」

「僕のことでしょうか」

 振り向いた先輩と目が合う。金と黒の瞳と視線がぶつかり、無意識に一歩後ずさる。脳内でランチ中に聞いたエースとの会話が再生された。

 

『オクタヴィネルにはやべー双子の先輩がいるんだって。金と黒の目の先輩がいたら気をつけとけよ。取り立て屋なんだってさ。えーと名前は確か*#%’』

 

 不思議なもので、その会話を思い出したら目の前の先輩が急に物騒に見えてきた。上品そうに見えていた白手袋が人を殴っても拳を傷めないための装備に見えてくる。

 急に山菜をくれなんて言ったら、殴られてしまうだろうか。

「なぁ。アンタ、その山菜どこで採ってきたんだ? オレ様もそれ食べたいんだゾ!」

 グリムが山菜先輩(名前を覚えていない)の背中に飛びつく。あ、これやっちまったな……と目の前が真っ暗になりかけたが、予想に反して先輩は機嫌良さそうに口角を持ち上げ私の肩に手をおいた。

「あなた、山に興味がおありですか?」

「え。あ、はい。食べるものがあるなら。お金がなくて、今週は野草しか食べていないんです」

「ふむ。それは大変お気の毒です」

 緊張してなんだか早口になってしまった。

 先輩は背が高すぎて見上げるだけでも首が辛い。あと距離が近すぎて離れたいんだけど、肩に置かれた手がびくともしなくて若干命の危機を感じていた。

(あ、やば。地面がグラグラする)

 空腹か。貧血か。先輩の顔が二重にぶれる。

(そういえば、タンポポ探しが癖になってて下を向いてばかりだったなぁ)

 先輩の肩越しにグリムがなにか叫んでいたが頭に入ってこなかった。

「おや」

 膝から崩れそうになった監督生をジェイドが支える。ずいぶん華奢である。体に腕を巻き付けるようにして支えると、手袋越しに浮いたあばらに触れそうだった。

 ふわりと甘い香りがジェイドの鼻をくすぐった。

 切れ長の目が意外そうに見開かれる。

「どうしちまったんだゾ!?」

「まずは運びましょう。グリムくん、背中から降りてもらっていいでしょうか」

「お、おう。わかったんだゾ」

 ジェイドは山菜カゴをカウンターに預けて上着を脱ぐと、監督生に被せて抱き上げた。

「あれっ。オレ様、お前に名前言ったっけ?」

「立場上、新入生の名前くらいは把握してます」

 そう言って、スタスタと歩き始める。置いていかれないようにジェイドの肩に飛び乗ったグリムが慌てた声を出した。

「おい。保健室はそっちじゃないんだゾ!」

「ええ。知っていますとも。知っているからこそですよ」

 磨き抜かれた床にコツコツと上質な足音が響く。

 ジェイド・リーチは嗅覚に優れたウツボの人魚。

 

(オンボロとはいえ寮を与えた理由は、なるほどこういうことだったのですね)

 海のハンターは片手にすっぽりとおさまる希少な獲物を見ると愉快そうに目を細めた。

 

 

 

 オクタヴィネル寮に向かいながらジェイドは抱えている監督生を見下ろした。小さく胸が上下している。温かい生き物だった。

(人間のメス……いえ、女性とはずいぶん柔らかいものですね)

 その昔、陸の世界に憧れた人魚姫は溺れた王子を助けたのがきっかけで恋に落ちたと聞いている。人魚であれば誰もが知ってる恋物語。古くからある物語のせいか終わり方には様々なパターンがある。

 だが、所詮は異なる場所で暮らす生き物の恋愛だ。

(死ぬまでめでたしとはいかないでしょう)

 自室のベッドに監督生を下ろし、彼女のタイの結び目をゆるめる。部屋が静かなせいだろうか。シュルリと衣擦れの音がやけにハッキリと聞こえる。寝苦しいだろうと第一ボタンを外してやった。

「なぁ、ジェイド」

 鼻にかかったような声がして、背後から控えめにシャツを引かれた。

「コイツのこと、黙っててやってほしーんだゾ……」

「おや、僕はまだ何も言っていませんが」

「コイツが倒れたのは、きっとオレ様のせいなんだ……。

 あのな、オレ様が腹へってるといつもこいつが自分の分をわけてくれるんだ。いつもニコニコしてるからわかんなかったけど、きっとほんとは腹が減ってたんだゾ……」

 グリムはぴょいとベッドに飛び乗ると監督生の枕元で丸くなった。耳を伏せた様子がイカに似ている。両耳の青い炎が淡く小さい。

「そちらのご事情はわかりました」

 ジェイドはいつもの笑みを浮かべると仕事用の書類が入っている引き出しをあけ、一枚の書類を取り出した。

「グリムくん、私と契約をしませんか。こちらの紙にサインをいただければ僕は秘密を守ると誓いましょう」

「ふなっ。契約ってなんなんだゾ! オレ様、渡せるものなんて何もないんだゾ!」

「グリムくん。この書類は……」

 背中の毛を逆立たせながら警戒するグリムに、身長190cmの巨大な影が落ちる。

 

「入部届けです」

 

 カサリ。グリムに丁寧に渡された用紙はたしかに普通の入部届だった。

「私はあなたがたを『山を愛する会』にお招きしたいのですよ。今なら入会記念にこちらのツナ缶と先程の山菜を──」

「なんじゃそりゃー! 入るんだゾー!!」

「ありがとうございます。サインが難しい場合は肉球で結構です。こちらの朱肉をお使いくださいね」

 ポン!っと勢いよく肉球が押される。グリムはひったくるようにツナ缶を奪うと両手で持ったそれに愛しそうに頬ずりをした。

「んん……」

「あっ。ジェイド、起きたんだゾ!」

 グリムの耳が嬉しそうに天を向く。

 監督生はグリムの頭をなでながら、なんとなく状況を把握した。この部屋は先輩の香水の香りがする。おそらく先輩の部屋だろう。

(お腹がへって倒れたみたいだ。恥ずかしいところを見られちゃったな)

 気まずさが顔に出そうなのをどうにか堪えて監督生は笑顔を作った。

「先輩が助けてくれたんですよね。ありがとうございました」

「お礼を言われるようなことはなにも。山を愛する会の仲間同士ではありませんか」

「ん? え、いまなんて?」

「先程話がまとまりまして、監督生さんたちは今日から私が主催する『山を愛する会』の所属となりました」

 監督生の周りから音が消える。

 『彼女』の表情は前髪に隠れてグリムからは見えない。緊迫した空気に耐えきれず、グリムはキュッとツナ缶を抱きしめた。

 

 ジェイドは香り高い紅茶を人数分淹れながら一人と一匹に視線を向ける。死んだ魚のような目をして説教をする監督生と涙目で正座をしているグリムがいた。

 もうすぐフロイドが帰ってくる。フロイドも鼻がいい。彼女のにおいは自分の香水でごまかせるだろうが、鉢合わせは避けたいところだ。

「おふたりとも、お腹がすいているのでしょう。まずはこちらをどうぞ」

「ふなっ! 貝の形をしたおやつなんだゾ!」

「あっ。マドレーヌですね。なつかしいなぁ」

「そちらは試作品ですから。遠慮せずに召し上がってくださいね」

 山を愛する会に人を増やしたいのは本当だった。

(しかし、誰でもいいわけではありません)

 

 監督生は仲間を大事にし、仲間からも大事にされている。

 お人好しで能天気。率直に言えば少し馬鹿。

(監督生さんは悪くない人材です)

 

 彼女の秘密を握っている限り、どんな契約をしたところで自分の優位は揺るがない。どれほど自由に泳いでいても見えない鎖が背びれについている。

 相手の弱みを握っていればこそ余裕がうまれるものだった。

 

 

 

「今日はつっかれたー!」

 オンボロ寮のベッドにぼふんと背中を預ける。掃除をしたとはいえ元は廃墟同然の建物である。板がきしむ不穏な音がして天井からわずかにホコリが落ちてきて、グリムがくしっとくしゃみをする。

 ジェイドはカフェ『モストロ・ラウンジ』の定例ミーティングがあるとのことで部屋に長居はしなかった。

(予定があるのに面倒を見てくれたなんて、いい人すぎる。噂はあてにならないな。明日エースたちにも教えてあげなくちゃ)

 上半身を起こし、制服にシワがつかないようにと上着を脱ぐとふわりとジェイドの香水が漂う。落ち着いた上品な香り。急にジェイドの腕に支えてもらった記憶がよみがえり、監督生の顔が熱くなった。

(いや、一瞬しか覚えてないし! 覚えてないんだけど……)

 年はひとつしか違わないはずなのに。華奢なように見えたのは縦に長いからで、実際はがっしりした大人の男の人だった。

(私も来年はあんな風に……無理だないろんな意味で)

 浮上していた気分がすっと冷え込む。

「おい。マドレーヌ、食ってもいいか?」

「ああうん。お好きにどうぞ」

 生返事をしながら上着をハンガーに掛けスラックスを吊るした。視線をずらすと木製の鏡にタンクトップと下着姿の女の子が映っている。男子のふりをすすめたのはクロウリーである。名門とはいえここは男子校だ。クロウリーが性別を隠すように助言するのは当然のことだった。

「グリム。先輩、私が女だって気付いてなかったよね?」

「む!! ぐっ!! き、気付いてないんだゾ……」

 マドレーヌを喉につまらせながらグリムが手をふる。勢いよく振りすぎて残像が見えた。

 ジェイド先輩はとても優しい人なのだろう。入部届の件は驚いたが一応グリムに説明はあったらしい。山を愛する会はハイキングを楽しむような会らしく、会員はジェイド先輩おひとりなのだとか。海から出てきた人魚の先輩が山に興味を持つのは自然なことだと思うし、言葉は悪いが……山を愛する会に会員がいないのもなんとなく理解が出来た。まずネーミングが悪い。

「ごくごく、ぷはっ! マドレーヌ、最後のいっこ食っていいか?」

「ああうん。お好きにどうぞ」

 グリムがなにか言っていたがあまり覚えていない。

 監督生も女子なのでかっこいい先輩に優しくされたらそれなりに意識はする。ただ、そのあと落ち込んでしまうのだ。自分を偽って過ごすのは苦しい。この学園で暮らしていく以上、我慢しなければいけない自分らしさがある。

 これ以上考えても暗くなるだけだと、監督生は頭を振った。

(明日は早速山の会だっけ。早めに寝たほうがいいかな)

 グリムを歯磨きさせなければいけない。

 よし、と顔をあげた監督生の目にテーブルの上でぽんぽこりんのおなかを見せて満足そうに仰向けに寝ているグリムと、空になったマドレーヌの菓子箱、それと大量の食べかすが飛び込んでくる。

(……明日片づけよ)

 言いようのない疲労がどっと押し寄せてきて、はあ、と深く息を吐いた。

 

 翌朝、早めに教室についた監督生が授業の準備をしているとバタバタと廊下を走る音が近づいてくる。勢いよく扉が開いてエーデュースコンビが入ってきた。

「いた! よかったぁ。マジで心配したし」

「無事だったか。監督生!」

「えっ。無事だけど。ふたりともどうしたの?」

 事情のわからない監督生。何かやらかしただろうかと不安になりながら尋ねると、エースがスマホの画面をぐいっと鼻先に押し付けてきた。スマホの画面にジェイド先輩にかかえられた監督生の姿が映っている。

「これ、監督生だろ。昨日、ケイト先輩が教えてくれたんだよ」

「学食で眠り薬をかがされた後、ジェイド先輩に誘拐されたと聞いていたが……」

「ゆ、誘拐なんてとんでもない!」

 自分でもびっくりするくらいの大声が出て、監督生は「あ、ごめん」と小さく謝る。

「ジェイド先輩はお腹が減って倒れたところを助けてくれたんだよ。お菓子をたくさんくれたし、山菜も届けてくれるって言ってた。すごくいい人だよ!」

 身振り手振りを交えながら説明する。途中で気を失っていたのでたいした説明はできなかったが、親切にしてもらったことは伝わったようだった。

「そうか。ならよかった……。悪い。頭に血が上っていた」

「だから言ったじゃん、落ち着けって。なあ、監督生。こいつ、ピンクの服を着てフラミンゴにエサをやる当番だったのに、寮を抜け出そうとして暴れたんだぜ」

 一方的に責めてしまったことを詫びるようにデュースが頭を下げる。一方、エースはなーんだと明るく笑い飛ばしてその場の雰囲気がしんみりしないようにしてくれた。デュースの真摯さ、エースの気配りが嬉しい。

(秘密を話せないのが申し訳ないな)

 窓の外から春特有の温かい光がさしてくる。

 ひとりぼっちでこの世界に来たときは心細かったけど、二人と友達になってからは毎日がとても楽しかった。監督生にとってふたりは大切な友達だった。

「エース、そういえばフロイド先輩とは同じ部活じゃなかったか?」

「あー。そうなんだけどさ。あの人、やる気にムラがあるから部活に来たり来なかったりなんだよ」

 エースはジェイド先輩の双子の弟・フロイド先輩と面識があるらしい。

「性格はジェイド先輩と違いそうだなぁ。顔は似てるの?」

「うんー。そっくりらしいよー」

 春の日差しを影がさえぎり、どこからか間延びした声が聞こえてきた。

「ぅえっ!? せ、先輩!?」

 エースとデュースが監督生ごしに誰かを見ている。監督生の席は窓際、つまり窓の外には空しか無いはずなのだが……。

 振り向くとだらしなく口を開けた宙吊りの男性と目が合う。ジャージを着ているからおそらく授業中だろう。

 ホウキにかろうじて足が1本ひっかかってるような男性はジェイドによく似た顔をしていた。

 宙吊り状態のフロイドと目が合う。ジェイドとは左右が逆の瞳をしていた。

「どーもぉ、フロイドでーす。監督生ってー、お前?」

「は、はい!」

 独特の抑揚をつけて尋ねられ反射的に後ずさりながら頷いた。ビビりまくってる監督生を見てフロイドはケラケラ笑ってる。笑いすぎてジャージがずり落ち、よく鍛えられた腹筋がむきだしだ。

「なぁに、エビみたいにビクッと後ろに下がっちゃって。俺が気になってたんじゃなかったの?」

 フロイドが耳まで届きそうなくらい大きく口を開けて笑うと、のこぎりのようにするどい歯列が見えた。ご機嫌そうに笑っているのに威嚇されているみたい。監督生にはフロイドが何を考えているのかさっぱりわからなくて、ひどく不安な気持ちになった。どんな顔をして立っているのが正解なんだろう。

「フロイド。下級生に絡むな!」

 1年が冷や汗を垂らしていると窓の外からするどい声が響いた。聞き覚えのある透明感のある声。

 赤い光が彗星のように尾をひいてフロイドの隣に並ぶ。

「寮長!」

 助かった、とばかりにエースとデュースが声を揃えた。リドルは1年のクラスを一瞥すると宙吊りのフロイドを怒りを隠さない目で見下ろした。

「金魚ちゃん。どーしたの?」

「……当番をサボって後輩のクラスに行ってはならない。こんなのハートの女王の法律以前の問題だ。体育倉庫の鍵をあけるのはキミの役目だっただろう!」

 顔を真っ赤にして怒るリドルだが、フロイドは「あはは、怒った怒ったー」とリドルに人差し指を向けて笑っている。

「すげえな、フロイド先輩」

「怖いもの知らずどころではないな。あ」

 エースにデュースが返事をした瞬間、体を揺らして笑っていたフロイドがホウキから足を滑らせて落ちた。

「「「あー!!!」」」

 3人で窓の下を覗き込む。フロイドは手近な木の枝を掴んで衝撃を減らすと難なく地面に着地していた。そのままリドルに引っ張られるようにして校舎を離れていく。去り際「またね。小エビちゃーん」と手を振られる。

「嵐のようなやつだったんだゾ」

 要領よく避難していたグリムがひょいと現れ難しそうに眉根を寄せてつぶやく。なんか腹が立つ。両手で挟んで顔をつぶした。

 

 放課後。監督生はグリムと共に「山を愛する会」の活動に参加するべく、運動着に着替えて指定の森に向かった。ジェイドが木の幹に体を預けて本を読んでいるのが見える。監督生たちが近づくと左手を胸に添えて頭を下げた。

「リドルさんから聞きました。フロイドがご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 言葉は丁寧だがそれほど申し訳なさそうでもない。実際、フロイドには少し驚いただけ。「いいえ。フロイドさんて元気な人なんですね」と流しておくことにする。

 グリムは監督生の肩から降りるとキョロキョロとあたりを見回した。

「なあ、ジェイド。ここって森じゃないのか? 山に行くんじゃないのか?」

「ふふ。本日の活動場所はこの森です。初心者がいきなり山にいくのは危険ですし、監督生さんたちの目的は食料調達だと事前に聞いていましたから」

 そう言って、先程まで読んでいた本、いや、図鑑の表紙を見せる。鮮やかなキノコの写真の上に『おいしい森の幸』とロゴが載っていた。

「ふなっ。うまそーなキノコなんだゾ!」

 グリムが本を受け取りパラパラと写真を眺める。ところどころに付箋がはられていた。

「今日はキノコ狩りなんですか?」

「ええ。過去に収穫したことのあるものに付箋を貼っておきました。今回はこちらのキノコを収穫しましょう。調理まで行いますので楽しみにしていてくださいね」

「メシにありつけるのか!? オレ様、やる気出てきたんだゾ!」

 グリムがクリームパンのような拳を作り、えいえいおーと太陽にパンチをする。その後は図鑑の情報を参考にしながらキノコを集め、携帯コンロでホイル焼きの準備をした。

「うわー。美味しそうですね。このキノコ、全部食べていいんですよね!?」

「もちろんですよ。こちらのキノコはイソギンチャクに食べさせて、安全性も確認済みです」

「先輩、イソギンチャク飼ってるんですね! おしゃれだなー」

「ふふ。飼ってるというより、そこにいたと言ったほうが正しいかもしれません」

 金色の油に様々なキノコが沈んでる。じーっとホイル焼きを見ているグリムの口元からよだれが地面に垂れていた。食欲を誘うバターのにおいがなんとも悩ましい。

「お食事の準備が整いました。遠慮なく召し上がってくださいね」

「「いただきまーす!!」」

 監督生は両手を合わせたあと、ジェイド持参のバゲットの上にホイル焼きを乗せる。夕陽が沈みかけた時刻でお腹はペコペコだ。大きく口を開けてバゲットを頬張ると塩気の利いたキノコの味わいが口いっぱいに広がった。

「お口に合いましたか?」

「とっても美味しいです!」

「はふはふっ。おかわり欲しいんだゾ!」

 ジェイドは食事になる監督生とグリムを満足そうに眺めている。食後の紅茶をいただく頃にはすっかり日が暮れて空には星がまたたいていた。

「ふな〜〜。もう食えないんだゾ!」

「私もおなかパンパン……先輩、今日はありがとうございました。こんなに美味しい晩ごはんは久しぶりです」

 監督生は貧乏ゆえに朝晩タンポポしか食べていなかった。

 感謝を込めて頭を下げると、紅茶を飲んでいたジェイドが「とんでもない」と目を細めてくれる。いつもは無機質な印象のあるジェイドだがランタンに照らされた顔は穏やかで、監督生は心の距離が近づいたのではと錯覚しそうになる。

「僕の方こそ楽しい時間を過ごさせていただきました。今まではひとりで山を愛していたので」

 そうして、ジェイドは空を見上げる。監督生も夜空を見上げた。墨を溶かしたような空に砂粒ほどのダイヤモンドを惜しみなく散りばめたかのような見事な星空が広がっている。

「監督生さん。契約上、あなたの所属は『山を愛する会』になりますが、活動を強制する気はありません。山への愛を義務化するのは僕のポリシーに反しますので。ですが、もし……」

 声が消えてしまったかのようにジェイドの声がすぼまる。利害関係のない提案は慣れていなかった。監督生にメリットを提示するのは簡単だ。毎回食事をごちそうすると約束すれば高い確率で首を縦に振ってくれるだろう。しかし、それではジェイドの望む結果は得られないのだ。

 山への愛は強制できない。

 しかし、にぎやかな時間を知ってしまうと……ひとりは寂しい。

 ジェイドは視線のやり場がなくて、監督生のひざの上で腹を出して眠っているグリムを見つめた。

「先輩。次の活動日はいつですか? 次は先輩がやりたいことをやりましょうよ!」

「え」

 明るい声に顔を上げると監督生が笑顔を向けてくれている。

「私、山初心者だからまだ愛するとこまではいってないんですけど……。今日、先輩が色々教えてくれて山がすごく好きになったんです! またグリムと一緒に遊びに来てもいいですか?」

「え、ええ。それはもちろん歓迎ですが……」

 瞬間、ジェイドは心臓を掴まれたように感じた。

 道具を片付けるふりをして監督生から目をそらす。妙な気恥ずかしさがあった。しかし不快ではない。

 

 ああ。そんな可愛いことを言われると、心が乱れてしまいますね。

 

 暗くて冷たい海で育った人魚の心に何かが芽生え始めていた。

 

 

[chapter:2章:先輩は監督生に恋しかけてる]

 『山を愛する会』で食事をしてからジェイドは監督生が気になっている。どうすれば偶然を装って会うことができるのか、何をすれば喜んでくれるのかつい考えてしまうのだ。

 彼女に少しでもよく思われたい。

 けれど同好会の仲間として近づいた上、彼女の性別は知らないことになっている。厄介なことに今のジェイドは監督生を男性として扱わないといけない。非常にやりづらかった。

(監督生さんはうっかりしたところがおありですから、フォローしてさしあげたいのですが)

 この感情が親切からくるものではないと理解はしていた。

 

 

 

 数日後。

 その日は1日ついていなくて、朝から面倒事に巻き込まれてばかりだった。今はフロイドが横領(という名のつまみ食い)したフルーツをなんとかするため植物園に向かっている。

 視界の端に監督生の姿が映った。エース・デュースと一緒に移動している。3人とも課題図書を抱えているから、これから図書館で勉強でもするのだろう。彼女が自分以外の異性に笑いかけている。

 どす黒い気持ちが沸き上がってきた。無性に彼女に話しかけたい。

(声……。あなたの声を聞かせてください)

 そう思い、一歩踏み出したタイミングでジェイドの肩に手が置かれた。

「よっ。おっかない顔してどうしたんだ」

「トレイさん。よかった、あなたを探していたんですよ」

 こんなに簡単に背後をとられるとはまったく自分らしくない。

 よそ行きの笑顔で苛立ちを隠しながら商談を始めた。トレイは頭の回転が早く話が早い人物。思ったよりもあっさりと問題ごとが解決し、少しだけ気分はよくなった。

 

「お疲れさまです、アズール。それでは失礼しますね」

 今日は散々な一日だった。早く自室に帰りたい。

「待ってください。預かりものがあります」

 『モストロ・ラウンジ』の仕事が終わり自室に帰ろうとするとアズールに呼び止められ、小さな手提げの紙袋を渡される。軽い。わずかに甘いにおいがする。中をのぞきこむと簡単にシールで閉じられたすきまから、手紙と菓子らしきつつみが見えた。

「これは?」

「監督生さんからです。廊下で渡そうと思ったけど、忙しそうだったから渡しておいてほしいと言われましてね」

 ひととき呼吸を忘れた。

 なんでも無い風を装って自室に戻り、ひどく落ち着かない気分で紙袋のシールを剥がす。普段ならハサミで切ってしまうところだができなかった。手紙には日頃の感謝が綴られている。

『いつも美味しいごはんをありがとうございます! クッキーをたくさん作ったので、よかったらもらってください』

 あきらかに手作りの品。食費に困ってタンポポしか食べられないような人物が暇つぶしでクッキーなど焼くはずもなかった。

 監督生が自分のことを考えてくれたのが嬉しい。

「ふふ。これは星……いえ、ヒトデでしょうか」

 文字のひとつひとつを愛しく思いながらクッキーを前歯でかじりとる。ひどく幸福な味がした。

 

 

『山を愛する会』で食事をしてから監督生とグリムの食糧事情はずいぶんマシになった。1回の活動につき1食浮くし、『モストロ・ラウンジ』で余ったパンや食材をわけてくれるので助かっている。

「しかも、忙しいのに寮まで届けてくれるんだよ。すごく優しくしてくれるんだ」

「『モストロ・ラウンジ』でドリンクが飲める券もくれたんだゾ!」

 教室移動のために廊下を歩きながらエースとデュースに、ジェイドのよさを語る監督生とグリム。話を聞いたエースは頭をかきながら小さくうなっている。

「いや、優しくしてくれすぎじゃね? そこまでいくと逆にこえーんだけど」

「そうか? 面倒見のいい先輩じゃないか」

「フロイド先輩と喋ってるとこ見てると、とてもそうは思えねーんだよなぁ」

 エースはジェイドと直接話したことはないが、フロイドに用事があってバスケ部に来る姿を何度か見ている。

「私も最初に会ったときはちょっと怖いなって思ったけど……。すごく気づかいが出来て、頭がよくてかっこいいんだよ」

 うなだれる監督生。エースの言っている意味もよくわかるのだ。ジェイドのよさを上手く伝えられなくて少し落ち込んでしまった。(あっ、やべ)とエースが焦る。監督生の考えを否定したいわけではなかったのだ。

「身内に甘いタイプなのかもな。僕も似たような経験がある。顔中に安全ピンをつけた先輩でかなりのコワモテだった。集会に顔を出すこともほとんどなくてな。だが、僕がマジカルホイールで峠を攻めた帰り──」

「話が長くなりそうなんだゾ」

 要約すると縄張り意識の強い先輩ほど身内に甘いということだった。

「ま、ずっと1人でやってた会に後輩が増えたんだ。かわいくなっちまうのはあるんじゃね」

(かわいい……)

 エースが何気なく言った一言にむずがゆい気持ちになる。照れを隠すように笑いながら、監督生はデュースのそでをひいた。

「ねえ。お世話になっている先輩にお礼がしたいときはどうしたの?」

「ケンカの助っ人は基本だな」

 それはちょっと無理そうだった。

 迷った末、監督生はお菓子を作ることにした。登山用の行動食にチョコを持っていったと聞いたので、甘いものが嫌いではないはずだ。

(無難だけどクッキーにしよう。材料少ないし)

 クッキーは向こうの世界にいたときに何度か作ったことがある。少し不格好ではあるが星の形のクッキーが出来た。

「むぐむぐ。うまいんだゾ!」

「あっこら。全部食べちゃダメだよ」

 急いで形がマシなものを何枚か確保しておいた。

 

 

 翌日の放課後。エースたちと廊下を歩いていた監督生はトレイと話しているジェイドの姿を見つける。仕事の話をしているようだった。先輩は背も高いし話し方も大人っぽくてかっこいい。それにくらべて自分はどうだろう。

 着飾ることのひとつもできない。

 ひどくみすぼらしい気持ちになった。こんな姿を見られたくはない。泡になって消えてしまいたくなった。

「ふなー。渡さないのか?」

「うん。忙しそうだから、あとで寮まで届けに行こう」

 頭の上にいるグリムになるべく明るい調子で声をかける。クッキーは『モストロ・ラウンジ』に届けておいた。あとで誰かが渡してくれるだろう。

(作らなきゃよかったかも)

 先輩はどんな出来でも笑顔で受け取ってくれるだろう。笑顔しか見たことがない。ちょっと怖い笑顔のときはあるけど。

 グリムをぎゅーっと抱きしめて胸毛に顔をうずめたかった。しかし、やめるんだゾ!と拒否される。顔に押し付けられた肉球からはポップコーンのにおいがした。

(なんにも返せない)

 先輩の親切への対価がクッキー数枚とは。

 また落ち込みそうになったので、その日は早く寝た。

 

「よいしょ。よいしょ……」

「ふな〜〜。前が見えないんだぞ」

 監督生とグリムが教材を運んでいる。授業が終わった後、クルーウェル先生に魔法薬学室まで運ぶように命じられたものだった。それほど重くはないのだが、丸められた錬金術用の資料などかさばるものが多い。腕も少し疲れてきた。

「お困りのようですね。監督生さん」

 突然腕が軽くなり、前につんのめりそうになるが「おっと、失礼」と軽く肩を支えてもらい事なきを得た。

「すみません。声をかけてからお持ちすればよかったですね。お疲れに見えたもので」

「アズールさん! いえ、ありがとうございます。助かりました」

 素直に感謝して頭を下げる監督生。聞けばアズールも魔法薬学室に用があるらしい。監督生はグリムが持っていた資料を受け取ったあと、一緒に魔法薬学室に向かうことになった。

「先日のクッキーはジェイドに渡しておきましたよ。監督生さんはお菓子作りもされるんですね」

「ええ。少しですけど。渡してくれてありがとうございます」

「お気になさらず。甘いものがお好きなんですか?」

「大好きなんだゾ!!」

 頭上のグリムがギザギザの歯を見せて元気に答える。監督生がグリムのストレートな物言いに苦笑しながら魔法薬学室のドアを開けると、白衣姿のジェイドが窓の近くでキノコの世話をしているのが見えた。

(ここ、ずいぶんキノコが多いと思ってたけど先輩が育てていたのか)

 妙に納得してしまう。

「ジェイド。またキノコを栽培しているんですか!」

 資料を置いたアズールが忌々しそうにキノコをにらみつける。

「そんなに育ててどうするんです。食堂に売るにしたって限度というものがあるでしょう」

「そう言われましてもキノコの研究は僕の生きがいです。それに、今は監督生さんが貰ってくださるので引取先には困っていませんよ」

「なんですって。押し付けているの間違いではないんですか?」

 アズールが監督生に振り向く。急に話の矛先が向けられ緊張した監督生はごくりとツバを飲み込んだ。

「お気の毒に……監督生さん。ハッキリ言って構わないのですよ。ジェイドのキノコには僕もフロイドもうんざりしていたんです。毎日毎日キノコキノコ! キノコに罪はありませんが限度というものがあります」

「ふな……。めちゃくちゃ怒ってるんだゾ」

(喋りながらヒートアップするタイプみたい。とりあえず同意した方がいいのかな)

 そう思いながらちらりとジェイドを見る。じーーっとこちらを見て微笑んでいた。

(感情が読めない……)

 キノコの差し入れに対して肯定も否定もできず「はい」「ええ、そうですね」と適当に流すうち、アズールの感情も落ち着いてきたようだった。

「──というわけですから、ジェイドは監督生さんのご厚意に甘えすぎないように。あと監督生さんには『モストロ・ラウンジ』の優待券を差し上げます。4名様まで同時に使えるお得な内容です。お客様としていらしたことはありませんでしたよね。これを機にぜひご贔屓を」

「いいんですか!? こんな素敵なもの!」

「いいんですよ。僕たちをキノコから解放してくださった対価です! ではジェイド、片付けが終わったらそちらのメモの品を買い出ししておいてくださいね!」

 どうやらアズールはメモを渡すために魔法薬学室まで来たらしい。監督生に優待券を押し付けるとキノコに対する不満を漏らしながら部屋を出ていった。

(アズールさんて瞬間湯沸かし器みたいな人だったんだな。もっと冷静な人かと思ってた……)

 にぎやかなアズールが出ていってしまったからだろうか。部屋がとても静かだ。

「なあ、ジェイド。なんでおんなじキノコをいっぱい育ててるんだ?」

「実験に必要だからですよ。異なる環境で栽培するとどうなるかを確かめているんです」

 グリムがキノコをつつくと教室の中に胞子が舞った。

「監督生さん。先日はクッキーをありがとうございました。とても美味しくいただきましたよ」

 きれいな笑顔を向けられ、監督生は「とんでもないです」と無難に微笑む。

 美味しかったと言われても心に響かないのは、ジェイドがそれ以外言わないことをわかっていたからだ。本音がわからない。

 なんとなく一緒にいるのが気まずくて、監督生は挨拶したあとグリムを連れて部屋を出ようとする。しかし「待ってください」と呼び止められてしまった。

「もらっていただけるのが嬉しくて、つい毎日のようにキノコや山菜をお届けしてしまいましたが……アズールの言う通りご迷惑だったでしょうか」

「そんなことありませんよ。本当に助かっています!」

 ジェイドはしばし沈黙した後、監督生に近づいて目線を合わせた。

「こちらを見て……『かじりとる歯』」

 監督生の焦点がわずかにぼやける。やがて悲しそうにうつむき、ぽつぽつと話し始めた。

「返せるものが何もないのが申し訳ないんです。

 先輩がごはんを届けてくれて本当に助かっています。でもひとりで頑張らなくちゃいけないのに全然できてなくて情けなくなるんです。大好きだから一緒にいたいのに、優しくされたいから会いに行くみたいで苦しくなります。先輩はなんにも悪くないのに」

「…………あ」

 監督生が泣いている。

「ジェイド……」

 頭上のグリムが非難を含む声をかけるがジェイドは何もしゃべれない。ものすごい後悔と歓喜が洪水のようにわきあがって言葉をまとめることができなかった。

 監督生が自分に対し、ここまでの申し訳なさを感じているなんて思っていなかったのだ。同時に喜びもある。監督生が申し訳なく思っているのは、それだけ彼女の中でジェイドの存在が大きいからだった。

(抱きしめたいのに……)

 その気になれば簡単にできるだろう。でも、触れたら今までの関係がすべて壊れてしまう気がする。ジェイドはポケットからハンカチを取り出して、そっと監督生の涙を拭った。

 

 しばらく経った。

 ジェイドは買い出しを行いながら、監督生とのやりとりを思い出していた。

 もう大丈夫ですと目尻を赤くして笑ってみせる彼女。痛々しくて健気でたまらなくなる。

『迷惑なんかじゃありません』

『監督生さんのお役に立てればと』

 たくさんのありきたりな言葉が浮かんでは感情の波に揉まれて消えていった。それらの言葉はもう伝えているものだ。今更言ったところで何になるのだろう。

(僕は何がしたいのでしょうか)

 『山を愛する会』で会うだけの仲ならこんなことにはならなかっただろう。

(彼女に愛されたい)

 甘い息が漏れた。

 

 

 監督生はオンボロ寮の自室で宿題をやっている。グリムは珍しく静かにしていて監督生の足元にしっぽの先だけつけて眠っていた。

(泣いたらスッキリした)

 窓から外を眺めると見事な星空が広がっている。初めて参加した『山を愛する会』を思い出した。監督生は涙と一緒に吐き出した本音がジェイドのユニーク魔法によるものだとは気付いていない。普段感じていたことが勢いで口から出たとしか思えていなかった。

 なので、疲れてあんなことを言ってしまったんだと考えている。

(今のやり方ではもう限界なんだろうな。でも、ジェイド先輩に頼ってばかりは嫌だ!)

 初めから分かっていたことではあった。文化の違いすぎる土地で1人で頑張り続けるのは難しい。毎日、銀のフォークを髪梳きと間違うようなミスばかりしていた。

(出来ることを探さないと)

 帰る方法探しはクロウリーに任せている。食糧事情はジェイドのおかげで改善された。あのキノコたちは本当にいらないもののようなので貰ってしまっていいだろう。残りの問題は単位だった。普通に考えて進級できない者を生徒として在籍させるのは無理がある。色々免除されているとはいえ、魔法が使えないまま単位をもらえるほど甘くはないだろう。サバナクローの寮長は何度か留年しているようだが、家が金持ちなので参考にはできない。

(学園の事情に明るい人に相談が必要だな。誰に聞くのがいいだろう)

 エース、デュース、ツノ太郎……何人かの顔が浮かぶ。

「先輩で顔がわかるのはリドルさんと……あー!!!」

 監督生は慌てて少しゆがんだ勉強机の引き出しの中から、先日アズールにもらった『モストロ・ラウンジ』優待券を出した。優待券をめくる。この優待券1枚でスペシャルドリンクと限定フード付きメニューが最大4人まで無料になるらしい。数えると3枚あった。ノートの端に数字を書き込みながらブツブツつぶやく。

「スペシャルドリンクが1ポイント、限定フードが3ポイント。合計4ポイント、かける4人で3枚だから全部使うと48ポイント! ジェイド先輩からもらったスペシャルドリンクのチケット分も合わせると50ポイント超える!!」

 『モストロ・ラウンジ』では50ポイントためると支配人のアズールになんでも相談ができるサービスがあった。

「これだー!!!」

「ふな゛っ!? どどど、どうしたんだゾ!?」

 監督生の声にびっくりして机に頭をぶつけるグリム。

「グリム! 明日からしばらくごちそう食べに行くよ!」

「ほんとかー!? にゃっはー!!」

 らんらららん、と監督生はグリムの手をとって踊りだす。

 オンボロ寮の夜はにぎやかに更けていった。

 

 

 その日の『モストロ・ラウンジ』も大盛況だった。

(売上は3倍ほどの見込みでしょうか)

 南国のフルーツを載せたタルトやクリームソーダをトレーに乗せて、ジェイドは客席を回遊魚のようにまわっていく。

(……!)

 クラゲの泳ぐ水槽のガラスに監督生の姿を見つけたジェイドは、注文の品を届け終わると足早に彼女のもとへ向かった。監督生はグリムを胸にかかえて、エース、デュースと席の順番待ちをしているようだ。

「『モストロ・ラウンジ』へようこそ、監督生さん。こちらでお会いするのは初めてですね」

「みんなで遊びに来ました! この優待券使っていいですか?」

「もちろんですよ。ちょうど少しいいお席がキャンセルになったのでそちらにお通ししますね」

 予約表を適当に操作してジェイドは眺めのいい席に監督生たちを案内した。オーダーはスペシャルドリンクと限定フード付きメニュー4人分だ。監督生は店の雰囲気や味に満足してくれたようでずっとニコニコしている。

 昨日は自分が至らないばかりに監督生を泣かせてしまったので、彼女が笑顔でいてくれて本当にホッとした。

 

 閉店後、ジェイドがカウンターを磨いているとフロイドが「ねー」と言いながら、そばにあるカウンターチェアーに腰掛けた。長い足をだらしなく放り出してカウンターに突っ伏し、頭だけジェイドに向けている。

「小エビちゃんてさー。ポイント貯めてるんでしょー。アズールになんの相談すんの〜?」

「………………はい?」

 聞き間違いであればいい。そう思いつつ(4ポイント×4人×優待券3枚で48ポイント、差し上げたスペシャルドリンクのチケット5枚で5ポイント。合計53ポイント)と一瞬で計算が終わってしまう。

「はいじゃなくて〜。オレの話聞いてた〜?」

「聞いていましたよ。監督生さんがポイントを貯めている件ですよね」

「うん〜。あ、アズールが呼んでる〜」

(……行ってしまいましたか。残念、もう少し詳しい話を聞きたかったのに)

 フロイドが座っていたカウンターチェアーの位置を戻しながら、ジェイドは静かな焦りを感じていた。本当にポイントを貯めているのかはわからない。しかし指摘されてみるとポイントを貯めに来ているように思えてならなかった。

 それにアズールのチケットから使ったのも面白くない。チケット自体はジェイドのほうが先にあげていたのに。どうしてアズールのチケットから使うのか。面白くない。非常に面白くない。

(ふふ。僕にもこのような繊細な感性があったのですね。新しい発見です)

 眉を下げて笑うと、のこぎりのような歯が見える。ジェイド・リーチはどう猛なウツボの人魚。善人には程遠い。気に入った獲物を逃す気などなかった。

(誰かのものになる前になるべく早く手に入れないといけません。とはいえ、監督生さんの思考は僕とは違いすぎます。まずは監督生さんを理解するところから始めましょう)

 サンプルになりそうな人物に意見を聞きたかった。

 それなりに情が深く、あまり経済的に豊かではなく、コミュニケーション力のある人物が望ましい。候補が1人いた。

(以前、この時間帯に夜食を作っていらっしゃいましたね)

 いない可能性も高いがそれならそれでいい。交渉に使えそうな品をいくつか用意してジェイドは食堂に向かうことにした。

 

 人のいない廊下を歩いていると暗い海の底を思い出す。

 心がささくれる。

 

 差し入れを持ってオンボロ寮に向かうのは楽しかった。

 闇に紛れるようにして存在するオンボロ寮は秘密の隠れ家めいたところがあったし、監督生がすごく笑ってくれるから「いいことをした」気分になった。ジェイドは監督生を甘やかしているようで甘えていた。彼女の気持ちなど本当はちっとも考えていやしなかったのだ。やりたい親切をやっていただけ。善意の押し売り。

 何がしたいとか、何がほしいとか、何が好きとか。聞いたこともなかった。

 

 そのことを、今すごく後悔している。

 ジェイド・リーチは善人には程遠いが、大事な人が笑顔だと幸せな気分にはなったから。

 

 今回の獲得ポイント:16

 監督生がアズールに相談するまで、残り34ポイント

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 オンボロ寮の一室ではグリムがごきげんな様子で勉強机に寝そべっていた。

「ふなー。『モストロ・ラウンジ』のメシはうまかったんだゾ」

「うん。それにすごくオシャレなお店だったね。お客さんも大人っぽい人が多かったな」

「明日も行くのか? オレ、またスペシャルドリンク飲みたいんだゾ!」

「うーん。効率を考えると明日も行きたいところなんだけど……」

 今日の食事で16ポイントたまった。残りは34ポイントだ。

 監督生は勉強机に置いたクッキーの缶を見た。可愛らしい模様が描かれたクッキー缶である。ゴーストたちにもらったクッキーを食べ終えた後、見た目が可愛いので取っておいたものだった。

 この缶の中には大切なものがしまわれている。監督生がフタを開けるとジェイドからもらったドリンクチケットが出てきた。

(使うと無くなっちゃうんだよなぁ)

 チケットを両手で持って眺める監督生。

 基本的にジェイドは食べ物しか差し入れなかったので形が残るいただきものはドリンクチケットしかなかった。だから監督生はチケットが使えなかったのだ。監督生にとって、このチケットは「ドリンクを飲むためのもの」ではない。これは大好きな先輩からもらったプレゼント。思い出の品なのだ。

「…………」

 グリムは机にぺたんとしりをつけて監督生の顔を見ている。

「お前、その缶いつも見てるな」

「うん」

「見てると楽しいのか?」

「ううん。でも元気は出るんだよ。グリムもツナ缶見るとちょっと元気になるでしょ」

 監督生は軽く微笑むとグリムを抱き寄せ、モフモフとした頭ににあごを預けた。

(このチケットは特別なものだから、普通に使ってしまうのはやっぱり嫌だな)

 どう使うのが、自分にとって一番いいだろうか。

 

 翌日。監督生とグリムは昼休みの時間に2年E組を訪れた。

(ジェイド先輩いないなぁ)

 タイミングが悪かったようだ。出直そうとしたところで教室内にいたリドルと目が合う。エースたちの寮の寮長ということもあり、リドルとは何度か話をしたことがあった。

「キミがここに来るのは珍しいな。どうしたんだい?」

「部活のことでジェイド先輩に用があったんです。でも、いないようなのでまた来ます」

 リドルは伝言があれば伝えておくがと申し出たが監督生は直接言いたいらしい。なぜか少し安心した様子で帰っていった。

 ほどなくしてジェイドが教室に現れる。リドルはジェイドを呼び止めて、さきほど監督生がジェイドに会いに来たと教えてやる。

「……どういったお話か聞いていらっしゃいますか?」

「いや。部活の話としか。だが緊張していたようだし大事な話か──」

「すみません。用事を思い出したので少々失礼します」

 ジェイドは早口で告げると監督生の姿を追った。教室を出て左右を見るが監督生の姿がない。ゾッとした。いま捕まえておかないと二度と会えない気がする。

「失礼。猫をかかえた生徒がいませんでしたか?」

「その子ならあっちに行ったけど」

「ありがとうございます!」

 走りながら、ジェイドは昨日の会話を思い出す。

 

 監督生と距離を縮めるヒントを探してジェイドは食堂で夜食を作るラギーを訪ねた。ラギーはジェイドの周りにいる人物の中で一番監督生に状況が似ていた。経済的に豊かとは言えず、猫の世話に追われている。非常に参考になりそうな人物だった。

 偶然会った体を装い世間話をする。

『ラギ―さんは年上の方との交流が多そうですね』

『まー、そうッスね。レオナさんのお世話してますし』

『人付き合いがとてもお上手な印象ですが、苦手な先輩などはいらっしゃるのでしょうか』

『唐突ッスね。そんな弱みになりそうなこと簡単には話さない……って言いたいところなんスけど』

『おや。ずいぶんとお疲れのご様子。どなたかにお困りで?』

『あの先輩だけは疲れるんスよね……。好みの獲物だかなんだか知らないスけどずーっと弱点を調べてる先輩がいるんスよ』

『それは物騒な先輩ですね』

 気が合いそうな人物だなと思いつつ、ジェイドは愛想よく相槌を打つ。よほどストレスが溜まっていたのだろう。ラギーは『そう。物騒なんス』と大きな耳をピコピコさせながら深いため息を吐く。

『もーね。全然人の話聞かないんスよ! ずーっと自分の話! おまけに欲しくないモン押し付けてくるし、勝手に体さわってくるし、いつも笑ってて何考えてっかわかんなくってほんと疲れるんスよ』

『…………』

 自分の行動にも思い当たる節がありすぎて沈黙するジェイド。しかしラギーの勢いは止まらない。レオナの夜食であろうスープをの鍋を大きなさじでグルグル回しながら日頃の鬱憤をジェイドにぶちまける。

『でも先輩だから邪険にできないじゃないッスか。きっと向こうもそれをわかってやってるんスよ。しかもまいてもまいても追いかけてきてしつこいのなんのって。この前なんかついに教室まで来たんスよ。いつか寮まで来そうで気が気じゃないッス。そういう先輩ってどう思います?』

『非常に……癖のある先輩でいらっしゃいますね』

『そんな可愛いもんじゃないんスよ。は〜、関わりたくないのにあっちから来るんだもんなぁ。ちょっとはこっちの都合を考えて欲しいわ』

『…………』

 今度こそ、完全に黙るほかなかった。

 

 グリムを胸に抱えた監督生が自分の教室に向かって歩いていると、背後からタタタと足音が近づいてきた。

「監督生さん!」

「ジェイド先輩……?」

 振り向くと離れたところからジェイドが駆け寄ってくるのが見える。これほど慌ただしいジェイドを見るのは初めてだ。ジェイドは監督生に追いつくとひざに手をついて息を整え監督生と目線を合わせる。よほど急いできたらしく肩が大きく上下していた。

「見苦しい格好ですみません。先程、教室に来ていただいたと聞いて追いかけてきました」

「えっ。そのために走ってくれたんですか? すみません、そんなにたいした用事じゃなかったんです」

 監督生は制服のポケットから淡い紫色の封筒を取り出した。その封筒はジェイドにも見覚えのあるものだった。

「そちらは以前僕がお渡ししたチケットの封筒でしょうか」

「そうです。あの、それで先輩がもしよければなんですが、次の部活のミーティングは『モストロ・ラウンジ』でやりませんか?」

 恥ずかしさのあまり、監督生はグリムの頭にあごをうずめた。きれいに磨かれたジェイドの革靴が目に入る。視線を感じるだけでもこれだけ顔が熱くなるのだ。目を見て話すなんてとてもできない。

「素敵なお店だから、先輩とお茶しながらミーティングできたら楽しいかなって……」

「もちろんオレ様も行くんだゾ! 今度はカウンターに座りたいんだゾ!」

 元気にひげを立てて笑うグリムを抱えながら監督生の心臓はバクバクしっぱなしだった。まるでデートのお誘いだ。いやいや、カフェでミーティングなんて珍しい話じゃない。様々なコメントで脳内が埋まっていく。

「………………」

「………………」

「……?」

 長い沈黙。

 流石におかしいと思った監督生が顔を上げると口元を手で抑えたジェイドが顔を真赤にしていた。恥ずかしそうに目をそらしている。

「ジェイド。タコみたいだゾ」

「失礼いたしました。自分の勘違いに恥ずかしくなりまして。

 お誘いありがとうございます。喜んでご一緒させていただきますよ」

 監督生の目を気にして無理やりいつもどおりを装うジェイド。しかし、その口調や瞳には監督生への愛しさが溢れていた。

「実は、監督生さんが部活をやめてしまうのではと心配していたのです。あなたの優しさに甘えすぎていて、愛想を尽かされてしまったのではと」

「えー!? そんなわけないじゃないですか! なんでそんな風に思ったんですか?」

「それは……」

 

 言ってしまうのもいいかな、と思った。

 あなたが好きだからと。

 

 でも、同時にジェイドの本能めいた部分が警告した。

 彼女は自分に恋をしていない。だからこんなに油断をしている。

 心がほしいなら気持ちを伝えるのはまだ早い。

 

 もどかしい。もどかしい。

 せめて気持ちに気づいて欲しい。

 ジェイドは長い指で監督生のほほのラインをなぞると彼女の顎を持ち上げる。やわらかい肉の感触。わずかに浮いてる喉の骨。シャツの隙間から見える無防備な白い肌。

 

「秘密です」

 込められるだけの想いを声に溶かして耳元でささやく。タイミングよく予鈴が響いた。ジェイドはニコッと笑って監督生から離れる「お時間をいただきありがとうございました。それではまた」と一礼し、何事もなかったように歩いていった。

「…………」

 今度は監督生が真っ赤になっている。「おーい。次はクルーウェルの授業だゾ」とグリムが服を引っ張るが、石化の魔法にかかったようにその場を動けなくなっていた。

 

 

 

 今回の獲得ポイント:3

 監督生がアズールに相談するまで、残り31ポイント

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 目指せ、50ポイント。

 アズールに単位の相談をしたい監督生は、その日も誰かを誘って『モストロ・ラウンジ』に食事に行きたいと考えていた。昼休みに食堂でエースとデュースを誘ってみる。しかし二人は用事があるようで……。

「わりい! 今日は部活!」

「僕も錬金術の補修があるな」

「そっか、じゃあ仕方ないね」

 では日を改めて……と考えた瞬間、監督生の肩にぐるりと腕が巻かれる。「ふな゛っ!?」というグリムの声がして、頭にズンと重みが加わった。

「じゃー、オレが行く〜」

 監督生の頭上からフロイドの声が聞こえた。……重い。首の骨にすさまじい圧を感じる。エースが呆れた表情で「あの、先輩ってオレとおんなじ部活っすよね?」 と尋ねるが、退屈そうな表情で「今はバスケの気分じゃないなー」と遠くを見るだけだ。

「く、苦しいんだゾ……」

「あははっ。つぶれたナマコみたい」

 グリムが苦しそうな声をあげると、フロイドはようやく監督生から離れてくれた。

「小エビちゃん。ポイント貯めたいんでしょ? 今日はオレがついっていってあげる」

「それはありがたいですが……。16ポイントほしいので4人いないとダメなんです」

「だったらコバンザメちゃんを連れていけばいいじゃん。それで4人でしょ?」

 だれだ、コバンザメって。

 知ってるか?と視線をエースたちに向けるが、2人の目が知らないと言っている。詳細は不明だがコバンザメ氏は『モストロ・ラウンジ』を時々手伝っている人らしかった。

 まあ、あのアズールやジェイドが一緒に働いている相手ならそう悪い人ではないだろう。監督生が「そういうことなら……」と歯切れの悪い返事をすると、フロイドは「じゃあ決まり」と眉を下げて喜んだ。

「おい。本当によかったのか?」

「なんとかなるでしょ。うん……」

 心配そうに尋ねるデュースに対し、自分に言い聞かせるようにして返事をする監督生。その瞳には不安しか無い。

 

 

 

 悪い予感ほど当たるもの。それでも監督生はこのとき──。

「王様の命令はー?」

「「ぜったーい!!」」

 

 放課後の『モストロ・ラウンジ』で起こる闇のゲームに巻き込まれるなんて──。

「1番を3番が締めて〜」

 

 想像もしていなかった──。

「黙りなさい」

 

 次回、『グリム散る! 無敵の黄金の契約書(イッツ・ア・ディール)』 デュエルスタンバイ!

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 ジェイドはもう疑いようもなく監督生に恋をしていた。

 しかし、今の状態では「先輩と後輩」以上の関係なんて望めるはずもなかった。監督生には大きな秘密があるからだ。

(まさかとは思いますが)

 嫌な可能性を思いつき、ジェイドは飲みかけの紅茶を置いて深く息を吸い込む。

(アズールに相談したいのは性別の件では?)

 無い話ではなかった。いや、むしろありそうだった。

 監督生はアズールに相談するために50ポイント貯めている。先日、山を愛する会のミーティング時に確認したので間違いない。しかし何を相談したいのかはついに聞き出せなかった。グリムにもユーモア魔法を使って尋問したが有益な情報はゼロ。おそらく監督生は悩みの内容を誰にも話していないはず。

(深刻な悩みの可能性が高い)

 厄介なことに、人は重大な話ほど他人に話したがる傾向がある。占い師がいい例だ。大金を払って、恋や仕事、親子関係……重大な秘密をペラペラ喋る人間の多いこと!

 ジェイドは両手の指を交差させ思考の海に沈んだ。

 ……仮に監督生がアズールに性別のことを相談したとする。アズールは守秘義務を守るから秘密が外部に漏れることはない。心配すべきはそこではなかった。

(優待券を3枚も差し上げるくらいです。アズールは監督生さんを気に入っている)

 そんな状態で監督生が「実は女性なのだ」と自分だけに相談してきたらどう思うだろう。しかも狭い個室で、よく見ると可愛らしい顔の女の子が、健気に50ポイントも貯めて、自分しか頼れないと相談してきたら……。

「困りましたね」

 策が必要だった。

 

 

 

「王様の命令はー?」

「「ぜったーい!!」」

 『モストロ・ラウンジ』に監督生たちの明るい声が響いている。今回のメンバーは監督生・グリム・フロイド・ラギーの4名である。明るく社交的なラギーはすぐに監督生とも仲良くなれた。

 監督生たちはフロイドの「なんか面白いことしたい」という無茶振りがきっかけで、サバナクロー寮で最近流行っているらしい百獣の王様ゲームに挑戦している。基本的なルールは監督生の世界と変わらない。トランプでキングをひいた人が王様だ。

「王様はだれなんだゾ!」

「がおー。オレ―」

 フロイドが嬉しそうにキングの柄を見せてくる。

「命令。1番を3番が締めて〜」

「私は2番」

「オレが3番ッス。グーリームーくーん」

 手をワキワキさせながらグリムに近づくラギー。

「な、なんなんだゾ……ふな゛〜〜〜っ!」

 グリムはラギーにつかまると、全身をくすぐられて身をよじらせた。

「あははっ。いいじゃん、このゲーム。もっかいやろー」

 体を揺らして面白がるフロイド。グリムも次こそは王様をやると息巻いている。はいはい、いいッスよ〜とラギーがカードを配ってくれて2回戦が始まった。さて、次の王様は。

「がおー。オレが王様ッス! 命令は……2番がジェイドくんにウィンク! 2番はだれッスか?」

 監督生が片手を上げる。

「私です。2番多いな」

 この命令なら簡単だ。ラギーが常識人でよかったと心のなかで拝みながら、監督生はジェイドの姿を探す。少し離れたところでドリンクのオーダーを取っているのが見えた。働いている先輩もかっこいい。見とれていると目があった。どうかしましたか?と微笑みながら首を傾げてくる。

(……えい!)

 監督生が軽く片目をつむる。それを見たジェイドはくすりと笑い人差し指と中指を口元に当て、軽く放って手をふってくれた。ファンサを正面から受けて監督生は死んだ。

「小エビちゃん、体当りされたウミガメみたいにふっとんだ」

「おい。起きるんだゾ!」

 グリムが監督生を揺さぶっているが返事がない。

「ジェイドくんは案外ノリがいいッスね。シシシッ」

 にぎった手を口に当てて笑うラギー。楽しい時間が過ぎていく。

 

 

 

 今回の獲得ポイント:16

 監督生がアズールに相談するまで、残り15ポイント

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 運動着姿の監督生とジェイド、そしてグリムが元気に山道を歩いている。今は『山を愛する会』の活動中。山は素敵なものであふれている。綺麗な羽に、珍しい植物。グリムはいい感じの棒を拾って満足げだ。

 山の中腹に学園を見下ろせる景色のいい場所があり、監督生たちはそこでおやつを食べることにした。串に刺したマシュマロを火で炙るとこんがりしたキツネ色になる。外はカリカリ、中はトロトロ。

「おひとつどうぞ」

「ありがとうございます! わぁ、おいしそうですねぇ!」

 ジェイドが焼けたマシュマロをビスケットに挟んで監督生に渡してくれた。大きなお口でパクリと食べると口いっぱいに幸せが広がった。

(あれっ。まただ……)

 ジェイドが監督生をじっと見ている。でも、目が合うとフッとそらされてしまう。言いたいことがあるのに言い出せないような雰囲気だった。

(私が部活をやめるかもって勘違いしていた話と関係があるのかな?)

 初めて部活に参加した時から最近までの間で、ジェイドが心配するような出来事はあっただろうか。

 監督生がハッとする。

(食料事情の改善?)

 思い返すと山に来た時、食べ物の話しかしなかった。しかもジェイドが部活をやめると心配していたのはアズールから優待券をもらった時期と一致している。もしや私を腹ペコキャラと認識していて、食べ物の心配が無くなった途端に部活に来なくなると思われている? グリムのツナ缶から始まって、マドレーヌ、山菜、キノコ、ドリンクチケット、キノコのホイル焼き、マシュマロと、数えだしたらきりが無いほど食べ物をいただいているのはそういうことなのか?

(先輩は対価を気にするからなぁ)

 

 私の気持ちに不安があるから、物で補おうとしているのかもしれない。

 だとしたら私にも問題がある。

 気持ちは言葉や行動にしないと伝わらないのだから。

 

「先輩」

 監督生はマシュマロを紅茶で流し込むと、いま用意できる中で1番の笑顔をジェイドに向けた。月と夜空の色をした瞳が不安げに揺れるのが見える。

「私ね、名前に先輩ってつけるの、ジェイド先輩だけなんですよ」

 困ったな。明るく話すつもりが、声が震えてしまって。

 グリムが心配するように前足を私の膝に乗せてくる。応えるように黒い毛並みの背をなでた。

「……いつの間にかこの世界に飛ばされてきたからでしょうか。いつも、なにかの拍子に向こうに戻ってしまうんじゃって思うんです。そうすると部活にも入れないんですよね。ほら、『明日試合なのにいなくなっちゃった』とかじゃ困るじゃないですか」

 困ったな。先輩の姿がゆがんで見える。

「なのに、エースたちがリドルさんに困っているのを見ると、大変だなーって思う反面、先輩がいていいなとも思ってて。うちの寮はグリムと私だけだから、先輩に憧れはあって」

 

 ああ。私の本音はこんなにも重いのだから。

 聞いたら困らせてしまうのはわかっているのに。

 

「だから、先輩が、強引に部活に入れてくれて。嬉しかったなぁ」

 知っていてほしいと思うのは、わがままなのだろうか。

 

 強い風が吹いた。

 反射的に目を閉じると、監督生がためていた涙がぎゅっと瞳の左右に広がった。少し涙が出たのは砂埃が目に入ったから。そういうことにしたいのに勢いがついて止まらない。

 急に視界が暗くなり大好きな香水のにおいがした。

 

「僕はもう、あなたがいない世界なんて考えられません」

 

 ───先輩の心音が聞こえる。早くて熱い。

 

 ジェイドは監督生に愛されたかった。

 監督生はジェイドに見返りを求めない愛情を与えた。

 彼女がくれた愛情は兄に対する親愛の情に近く、求めていた形とは違ったものの、美しい愛情であることに変わりはなかった。監督生が胸の内をさらしたのはジェイドの不安が減ればいいと思ってのこと。無理やり本音を聞き出したときとは違う。本音を話すことと、相手を思いやって心を開くことは似ているようでまったく違うのだ。

「……先輩?」

 監督生はジェイドの顔を見ることができない。体の距離が近すぎて聞こえる心音がだれのものかもわからなくなりそうだ。

 静かにジェイドの体が離れた。

「監督生さん」

 姫君に忠誠を誓う騎士のようにジェイドが監督生に片膝を立てて向き合う。凪いだ湖のように澄んだ瞳が監督生に向けられていた。

「ひとつ、お願いを聞いてはいただけませんか」

「いいですよ」

 できることならなんでもしてあげたかった。

「どうか、最後には僕を頼ってください。どんな内容でもサポートします。いつでも備えは万全ですから」

 ああ、ダメだ。こんな言葉じゃ足りない。先程監督生が見せてくれた身を削るような優しさに及ばない。ジェイドは膝の上に置いた手がやけに汗ばむのを感じながら、心の奥にしまっておいた監督生のためだけの特別な言葉を探した。

「『だれも頼れない』とあなたが泣いているなんて、僕には耐えられないのです」

 もし、自分以外の誰かの助けを借りて解決するならそれでいい。もう誰に相談するとか、そんなことはどうでもよかった。1人で頑張ってつぶれてしまうほうが恐ろしい。

「わかりました。約束します」

 監督生はしゃがんでジェイドに目を合わせ右手の小指をかかげた。互いの小指を絡める。

「私が最後に頼るのは先輩です」

「ありがとうございます。決して後悔はさせません」

 指を切って笑いあった。

 

 山散策が終わったあと。ジェイドにオンボロ寮の前まで送ってもらった監督生は、グリムをかかえながら「今日もありがとうございました」と頭を下げる。ジェイドは監督生が寮に入るまで見送るつもりのようだった。ならば遠慮せず帰ったほうがいいだろう。監督生は背中を向けてドアまで歩き、夕飯は何にしようかなと考えながら入り口のノブを回そうとして……。

 ひび割れた寮の窓ガラスに映る、置いていかれた子供のような顔をしているジェイドを見つけてしまった。

「ジェイド先輩。うちでご飯食べていきませんか?」

 来た道を戻って手をとり引っ張る。手をつなぐのは初めてだった。

 ジェイドは自分に比べて小さすぎる手を包み込むように握り返す。

(あなたが好きです)

 恋は残酷で美しい。

 

「ラギ―さん、ちょっといいですか?」

 廊下を歩いているラギーの背中に監督生の声が飛ぶ。

「ん? どうしたんスか?」

 ラギーとはフロイドの紹介?で知り合ったばかりだが一緒にゲームなどしてかなり打ち解けていた。聞けば、ラギーは学園内でなんでも屋のようなことをしているらしい。グリムの監視も1時間1000マドルで引き受けてくれるのだとか。

「今度グリムを預かってもらえませんか? もうすぐ50ポイント貯まるんです」

「ふな゛っ! オレ様、預けられるのか!?」

「そりゃそうだよ。秘密の相談なんだから」

 監督生はグリムの抗議をナチュラルに流した。拗ねたグリムはしっぽでぺしぺしと監督生を叩いている。ラギーは監督生のポイント達成予定を祝ったあと考え事をするように宙を見つめた。

「アズールくんの相談なら1時間くらいかなあ。この前おごってもらったし今回はタダでいいッスよ」

「本当ですか? やったー!」

「オレ様は全然よくなーい!!」

 ラギーは無邪気に喜ぶ監督生を見ながら前回の『モストロ・ラウンジ』のことを思い出す。

(なんにも気付いてなさそうッスねぇ)

 監督生のウィンクに対するジェイドのパフォーマンス。あれは周囲への牽制だ。公の場でわかりやすく監督生への好意を示すことで、監督生は「オクタヴィネル寮ナンバー2のお気に入り」と認識される。縦社会の組織において序列は絶対。ジェイドと監督生の関係を知っているオクタヴィネルの寮生や、他寮のチンピラ崩れが監督生に手を出すことはまずなくなるのだ。

 スラムで育ったラギーは後ろ盾の重要さを理解しておりジェイドの意図にもすぐに気付いた。しかし監督生には伝えない。

(おしゃべりは長生きできないッスからね)

 去っていく監督生に手を振りながら、ラギーはシシシッと人の悪い笑みを浮かべた。

 

 

 

 今回の獲得ポイント:16

 合計51ポイント達成(相談日時予約済み)

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 ついにアズールに相談する権利を手に入れた。

 グリムをラギーに預け、相談の予約時間に『モストロ・ラウンジ』を訪れた監督生。店に近づくと大好きな先輩の姿を見つけた。監督生が訪れる時間にあわせて店の前で待っていたようだ。

「50ポイント達成おめでとうございます、監督生さん。お待ちしていました」

 ジェイドは胸に手を当て優雅に頭を下げると「ご案内しますね」とアズールが待つ部屋に連れて行ってくれる。深い海のような店内を抜け特別感のあるフロアを2人で歩く。グリムがいないせいだろうか。妙な緊張感があった。

 カツカツカツ。2人の足音だけが響いている。

 ジェイドも監督生も喋らなかった。

「こちらです。アズール、お連れしましたよ」

 ジェイドがドアを開けてくれるとアズールが革張りのソファから立ち上がるのが見えた。

「失礼します」

 緊張した声で挨拶をし扉の中に進む監督生。

 ジェイドは監督生が部屋に入ると静かに扉を閉め近くの壁に背中を預ける。そのまま力が抜けたように座り込んだ。

(結局、相談してはいただけませんでした)

 扉を閉める最後の一瞬まで、もしかしたら相談してくれるかも知れないと期待を捨てきれなかった。しかし結果はご覧の通り。大切に育てていたひな鳥が空に飛び立ってしまったかのようだ。

(結んだ契約は果たしてくださいね)

 小指を眺めながら息をはいた。

 

 

 パチパチパチ……。

「ようこそおこしくださいました」

 アズールが緩慢な動作で手を叩く。

 テーブルには女性が好みそうな可愛らしい茶菓子と、ジェイドがいつも淹れてくれる紅茶が並んでいた。紅茶を一口いただくと馴染みのある味がする。監督生の心がホッとやわらいだ。

「アズールさん。早速ですが相談してもいいですか?」

「ええ、もちろん。そのための時間ですから。監督生さんがどんなことにお困りなのか個人的にも興味があります」

 アズールがメガネを押し上げ、どうぞと監督生に手のひらを向け話を促す。

「…………あの。アズールさんてグレート・セブンの海の魔女のように慈悲深いんですよね?」

「気まずそうに目をそらしながら言われると返答に困りますね。怒ったりしませんから早く言ってください」

 それならと監督生は大きく息を吸い──。

 

「飛行術でいい成績を取る方法を教えていただきたいんです!!!」

 

 腹の底から声を出した。

 監督生はホウキに乗れなかった。だから飛行術で単位をもらえる見込みがすこぶる低かった。

「はじめはエースたちにホウキの乗り方を相談しました。でもあの人たち飛べないのが逆に不思議みたいな顔するんですよ。もうねー飛べたら飛んでるんですよ。こっちだって努力してるんです。でもダメなんですよ。無理なの。もうほんと困ってるんでどうにかしてください。アズールさんやジェイド先輩が飛行術苦手なのは知ってます……」

 監督生はジェイドが相談されたがってるのは、よーーーくわかっていた。でもできなかった。できるわけがない……。そこでアズールに相談したのだった。

 アズールは監督生の渾身の叫びを聞き届けたあと、おもむろにメガネをクロスで拭いてかけなおし、紅茶でくちびるをしめらせて「同情します。運動神経のいいやつらに僕らの気持ちなんてわかりませんよ」と低い声でつぶやいた。

「アズールさん。そういうわけでなんとかなりませんか! 私、絶対に留年したくないんです!」

「お任せください。とっておきのプランを教えて差し上げましょう。監督生さんは『ハッピービーンズデー』をご存知ですか?」

「知らないです。教えて下さい!」

 ハッピービーンズデーはNRCの伝統行事。全校生徒が寮・学年関係なしに農民・怪物の2チームにわかれて勝敗を競い合うスポーツの大会だ。ここでの結果が飛行術の成績に反映されるらしい。

「特別に監督生さんを僕と同じ陣営にして差し上げましょう。一緒に行動すれば優勝は確実です」

「いいんですか!? アズールさんやジェイド先輩と一緒の陣営だったら絶対勝てますね!」

「ジェイドは別の陣営です。寮長と副寮長は一緒の陣営になれませんので」

「えっ。じゃあいいです。やめておきます」

 監督生は手のひらを返した。

「…………」

「…………」

「僕をからかってるなら、その勝負、言い値で買って倍にして返しますよ」

「あああ。すみません、違うんです! アズールさんにケンカを売っているわけじゃありません!」

 アズールの背後に修羅の影が見え監督生は命の危機を感じている。

「この前、ジェイド先輩に『最後は先輩を頼ります』って約束したんです。アズール先輩と同じチームになったら約束を守れなくなる」

「事情はわかりました。しかし、あなたの望みは飛行術で好成績を収めることでしょう。私ならあなたを助けてあげられます。勝率の高い方を選ぶのが賢い選択です!!!」

「本当にごめんなさい破格の提案をしてもらっているのはわかっているんですそれでもできません申し訳ない。大事な勝負だからこそ負けた時に後悔しない人を選びたいんです!!!」

 アズールは理解した。アズールと監督生では後悔する条件が違うのだ。

「アズールさん。私をジェイド先輩の陣営に入れてもらえませんか」

 お願い、と手を合わせて拝む監督生。

 アズールは呆れた顔でため息をつきながら契約書に条件を書き込んだ。

「内容に問題がなければこちらにサインを」

 監督生は契約書を目を通しペンを持つ。書き心地のいい万年筆が紙の上で踊った。

 

 放課後の図書館。ジェイドは図鑑でテラリウムに使えそうな植物を探していた。しかし内容がまったく頭に入ってこない。向かいの席に座っている監督生の視線が気になるからだ。なぜかじーっと笑顔でこちらを見ている。アズールとの相談が終わってから妙に機嫌がいい日が続いているのだ。

 木漏れ日を浴びながら昼寝をしているグリムの小さないびきと、ページをめくる音が一定のリズムで繰り返されている。こんなに心穏やかな日は久しぶりな気がする。

 山の一件からだろうか。監督生は以前よりジェイドに懐いてくれるようになっていた。かつては部活以外だとジェイドから会いに行かなければ顔を合わせることはなかったのに、監督生のほうから声をかけてくれることが増えて嬉しい。今も本の返却のために廊下を歩いていたら偶然会って一緒について来てくれた。

「ジェイド先輩」

「はい」

「私、先輩が卒業するまでこの学校で頑張るって決めました。向こうの世界に戻るチャンスが来てもここに残ります」

 静電気に触れたかのようにジェイドの指先がぴくりと震える。そんな重大なことをどうして明るく言えるのか。動揺を隠したいのに心が熱を持つのを止められない。明日消えてしまうかも知れない女の子が卒業までは残ると宣言してくれた。実際にそれが可能なのかはわからない。大切なのは彼女がその気になったということだ。

「僕が卒業した後のご予定は?」

「これから考えます」

「ずっといてくれていいのですよ」

「居心地よかったら残っちゃうのもいいですね」

 あははと気楽に笑う監督生。

 

 綺麗な人だな、とジェイドは目を細めた。

 今は難しくても。いずれ必ずあなたの心を手に入れる。

 

 

 

[chapter:3章:先輩は監督生を勝たせたい]

 明日はNRCの伝統行事・ハッピービーンズデー。

 ジェイドは教室でクラスメイトたちが組分けのくじを引くのを眺めていた。副寮長であるジェイドはあらかじめ農民チームになることが決まっている。組分けが決まった者から帰っていいのに残っているのは、明日のゲームでやる気を出すための小さな賭けをしているからだ。

「ジェイド先輩まだいるかなぁ」

「あっ。奥にいるんだゾ!」

 名前を呼ばれ振り向くと教室と廊下の境目にいる監督生と目が合った。グリムを抱えた監督生が「よかった。いた!」と嬉しそうに瞳を輝かせている。こっちに来てくださいと手招きされた。

「先輩は農民チームですか!?」

「ええ。そうですが」

「やった。同じチームですね!」

「おや、素敵な偶然ですね。明日は一緒に頑張りましょう」

 すっと目を細めるジェイド。

 実はジェイドは監督生を待っていた。監督生はスマホを持っていないためジェイドの組が知りたかったら直接確認する必要がある。これだけ懐いてくれているのだ。2年E組で待っていれば会える確率は高かった。

(とはいえ実際に来てくれると嬉しいものですね)

 こんな風に素直に好意を見せてくれると庇護欲が抑えられなくなる。

 今回のハッピービーンズデーでジェイドは監督生を勝たせるために動くと決めていた。ジェイドにとってこのゲームは「監督生とそれ以外」で構成されている。たとえゲーム上は敵対してようが関係ない。むしろ味方を討つことにためらいがない分、敵対組織に身を置くほうが監督生を守りやすいかもしれない。

 もちろん側で守れるのも嬉しい。ジェイドは卒業までに監督生を落とすと決めている。絆を深めるには組が同じほうが都合がよかった。

「監督生さん、グリムくん。これから対策勉強会をしませんか」

「勉強会〜? 豆を怪物にぶつけりゃいいんじゃないのか?」

 きょとんとするグリムにジェイドはにこりと微笑む。

「ハッピービーンズデーは毎年の行事ですから、ある程度ゲームの流れは決まっています。定石をいくつか覚えておくのがおすすめですよ。序盤でリタイアしづらくなります」

「ふーん。そういうもんかぁ」

 わかったようなわからんような顔をするグリム。

「勉強会ぜひお願いします! このイベントは絶対負けたくないんです」

 対して監督生は積極的で素直にジェイドを頼ってくれる。

「任せてください。あなたの力になりますよ」

「ありがとうございます! 先輩と一緒ならアズールさんにも勝てちゃいますね!」

 

 好きな女に頼られてやる気を出さない男はいない。

(今のはかなりグッと来ました)

 世界を敵に回しても必ずあなたを勝たせてみせる。

 

 

【監督生のマル秘メモ・先輩との約束】

1:事情を知らない1年はおとりに使う

2:マジカメ好きとは一緒に行動しない

3:学園裏の森にあるりんごの木の近くでジェイド先輩と合流する

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 翌日。ジェイドの言いつけを素直に守った監督生はケイトと行動はせず、途中で出会ったデュースをおとりにして補給物資を得ることに成功した。中身はビーンズシューターSと豆袋、それから魔法の迷彩ジャケットが2着に『30秒だけ身体を小さくできる』薬だ。

「ニャッハー! いいものばっかりなんだゾ!」

「本当だね。じゃあ早速着替え……」

 監督生はシューターを試し打ちするグリムの頭をなでたあと、迷彩服に着替えようとして気付いてしまった。

(ここで着替えて大丈夫なのかな)

 監督生は性別を隠している身である。着替えやお手洗いは人がいないのを確認しグリムを見張りに立ててやってきた。しかし今は森の中。周囲に人の気配はないが実際はどうだかわからない。迷彩服を着ていたり木の上で様子を見ている可能性も……。

(まずは先輩と合流して……いやでも服を手に入れたのに着てないのは不自然かな)

 着替えを見られたら流石に女とばれてしまう! 監督生は焦った。

「いたぞ!! つかまえろ!!」

 眉根を寄せて服を睨んでいると突然激しい足音が。振り向くと怪物2名がこちらに向かって突進してくるのが見えた。

「に、逃げるんだゾ!」

「わかった。私が走るからグリムは撃って!」

 監督生はシューターを持ったグリムと物資を抱えて全力で走る。目指すは学園裏の森にあるりんごの木。敵を引き連れた状態で向かっていいのか迷ったが、ここは先輩がなんとかしてくれると信じて進むしかなかった。振り返らずに必死で走り、どうにかりんごの木が見えてくる。

「ふな゛っ! ジェイドがいねーんだゾ」

 シューターで応戦していたグリムが耳元で大きな声を出す。

 待ち合わせの場所には誰の姿も見えない。場所を間違えた!? それとも先に行ってしまった? 脳内で様々な憶測が飛び交うが追手が迫っている以上足を止めるわけには行かなかった。

 だが、りんごの木までが限界だ。呼吸は荒くこれ以上走れそうにない。捕まるのは時間の問題に思えた。

「も、もうダメだ〜」

 グリムが涙目になりながら監督生にしがみついてくる。

(落ち着くんだ私。先輩の性格を考えろ。計画的な先輩が場所を間違えたり勝手に行動するもんか!)

 

 泣くのはまだ早い。

 追い詰められたときに浮かんだ顔を信じよう。

 監督生は限界まで息を吸い、不安を吹き飛ばすように大きな声で叫ぶ。

 

「助けてー!! ジェイドせんぱーーーい!!!!」

「仰せのままに」

 笑みをこらえた声がした。

 

 バラバラッ。

「あいててっ!」

「頭の上から豆が!?」

「はい、怪物さん2名、失格です」

 葉擦れの音がして迷彩服を着たジェイドが木の上から飛び降りてくる。監督生を囲んでいた怪物たちがぶつくさ言いながら退場するのを見届けると、腰が抜けている監督生の前に片膝をついた。

「助けが遅くなって申し訳ありません。お怪我はありませんか、監督生さん」

「…………」

 監督生の目がジェイドに釘付けになる。

 

『どうか、最後には僕を頼ってください』

『『だれも頼れない』とあなたが泣いているなんて、僕には耐えられないのです』

 

 急にあの日の言葉や抱きしめられたときの熱、真剣な瞳が蘇る。

 目の前の優しく頼れる先輩が急に「男の人」に見えてきた。

 

 

 ジェイドと合流した監督生とグリムは、ジェイド用のビーンズシューターを手に入れるためスミスという人物を訪ねることに。順調に植物園で氷柱キノコを収穫し、カリムらに余っている迷彩服と30秒だけ身体を小さくできる薬を交換してもらった監督生一行! 意気揚々とスミスがいる購買部に向かいたいところだが……。

「…………」

 どうも監督生の様子がおかしい。先程からジェイドに探るような視線を向けている。ジェイドは視線に気づいているが視線の意味がわからない。

(悪い印象を与えるようなことはしていないはずですが)

 視線の意味は気になるが怒っているわけではなさそうだった。

 ならば様子見でもいいだろう。今は監督生たちを守るためにもシューターの入手を優先するべき。ジェイドはそう結論づけて自分から理由を聞くのはやめておいた。監督生が自分に興味を持っていると前向きに考えておくことにする。

 

 一方、監督生は……。

(ジェイド先輩、私が女だって気付いているんじゃないか?)

 関係性に関わる重大なポイントに気が付きつつあった。

 

 

 

 少し時間を戻す。

 ジェイドによって鮮やかに助け出された一件は、監督生に先輩が異性としても魅力的であると印象づけるには十分すぎる出来事だった。しかし自分は性別を偽って生活している身、女性として扱われているわけではないと冷静になろうとして──。

 

 よく考えると──。

「人前で肌を晒すのは抵抗があるでしょう。僕が見張っていますからあちらの影で着替えてください」

 

 これって男性同士でも言うのかな?と──。

「足場の悪い山道が続きます。よろしければ、お手をどうぞ」

 

 気付いてしまったのだ──。

「可愛らしい花ですね。あなたによくお似合いです」

 

(いやでもジェイド先輩なら言うかも。うーーん、でもアズールさんやフロイドさんには絶対言わない。リドルさんにならギリ……いや絶対言わないな。ポムフィオーレの寮長さんになら言うかな。グリムには言わないような)

 悩む監督生。考えれば考えるほど気付いている気がする!

 監督生はこれまでジェイドに性別を打ち明けようなんて考えたことがなかった。やっとできた大切な先輩なのだ。自ら関係性を壊しに行く理由がない。

 でも、もし先輩が自分の性別を知っていたのなら。

 先輩がこれまでにくれた言葉の意味が変わる気がした。少なくともいくつかは確実に。

(先輩は私のことをどう思っているんだろう)

 あなたの気持ちがわからない。

 

 

 

【現在の物資】

・魔法の迷彩ジャケット ×2

・ビーンズシューターS ×1

・30秒だけ身体を小さくできる薬 ×2

・豆袋 ×1  ※豆は使うと減る

・氷柱キノコ

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 購買部に到着した監督生一行。アズールを警戒したジェイドは監督生たちを外で待機させ、トラブルを機転で乗り切りつつ氷柱キノコとビーンズシューターLの交換に成功した。想定以上に強力な武器が得られたのは嬉しいが喜んでばかりもいられない。

(時間がありませんね)

 ジェイドは壁にかかった時計を見ながら頭の中で作戦を組み立て始める。

 農民チームは制限時間内に竪琴を手に入れなければならない。アズール・ジャックは存在を確認済み。生粋のハンターであるルークも残っているだろう。ジェイド・監督生・グリムだけで勝てるとは考えにくかった。せめてもう1人仲間が欲しいところだ。スマホを操作し目当ての人物の位置情報を把握する。追いかければ間に合うだろうか。

(そろそろお暇しないと)

 店を出ようとするジェイド。しかし、ある商品が目に留まり思わず手にとってしまった。ジェイドが手にとったのはグリムを連想させるような黒猫の顔を模した小さな手鏡。監督生に似合いそうな品だった。

(プレゼントしたら喜んでいただけるでしょうか)

 それほど高価なものでもないしきっと受け取ってくれるだろう。義理堅い性格の監督生はきっと使ってくれると思う。彼女の部屋に自分のプレゼントが並ぶと思うと心が浮き立つようだった。本当はもっと高価なものを贈りたい。両手いっぱいの薔薇の花束、流行りのドレス、綺麗な石のついた髪飾り!

 心を寄せる人に贈り物をするのはとても楽しい。愛を表現できるのだから。

 やりすぎは相手の負担になってしまうが偶然見つけたものを贈るくらいはいいだろう。使ってもなくならないものを贈るのは今回が初めてなのだし。

 

 さりげなさを装って贈るものほど受け取って欲しい気持ちが強く出る。

 受け取ってほしいから受け取りやすいものを選ぶ。

 プレゼントとは「贈る側の好意」そのものだ。

 だから渡す方は断られるのを恐れる。

 幸せな夢から覚めてしまうから。

 

 だから。

 

「監督生さん。こちら、よかったら使ってください」

 好意を忍ばせて贈った手鏡に監督生が一瞬追い詰められたような顔を見せたあと「もらえません」と微笑んだとき、ジェイドは背骨につららを流し込まれたような心地になった。ジェイドは頭がいいし勘もいい。遠慮と拒絶の違いがわかる。

「すみません。私がそれをもらっていいのかわからないんです」

 監督生は穏やかだがはっきりした口調でジェイドの好意を辞退した。

「先輩」

「はい。なんでしょう」

 最悪な気分だ。彼女の声を聞きたくなかった。

 

「ハッピービーンズデーが終わったら聞いてほしいことがあります」

 その言葉だけで何を伝えたいのかわかってしまう。

 危ういバランスで成り立っていた曖昧であたたかい関係が終わろうとしている。

 出会ったばかりのころ、彼女の秘密は使える交渉材料だった。

 しかし、いつの間にか秘密は守るべきものになり、今では失うことを恐れていた。

 

 好きだから側にいたいのに。

 

 

 ジェイドはグレート・セブンの像を囲む木々に紛れるようにして農民と怪物の戦いを観察していた。ふたりの副寮長が補給箱に近づいたケイトを狙っている。実力者のふたりに追い詰められたケイト。万事休すと思われたものの監督生が高台から放った鋭く狂おしい一撃によって事態は好転。副寮長は残りひとりに数を減らした。

「なんてことだ! 薔薇の騎士(シュヴァリエ)〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」

「いや、だからそれ、本当にやめてくれないか……?」

 盟友の脱落を惜しみつつ愛のハンターがコロシアムに向かって駆けていく。ジェイドが彼を見逃したのはわざとだった。彼にはアズールにビーンズシューターLで襲われたと報告してもらう必要がある。すべては目論見通りに進んでいた。

「ケイトさん、ご無事ですか?」

 ケイトがひとりになったのを確認して声をかける。監督生が高台から狙撃したことを伝え、怪物チームを倒すため協力しないかと持ちかける。竪琴を奪還するには彼の力が必要だった。

「いいよ。農民チームはまとまってたほうが有利だしね♪ で、オレに何をしてほしいの?」

「コロシアムの外でビーンズシューターLを持った写真を撮って、マジカメにアップしていただきたいんです。最低ひとりは怪物をおびき寄せていただきたい」

「オレってばおとりなのね。オッケー、その役目引き受けちゃうよ。特別サービスでこれもあげちゃう♪」

 ケイトがウィンクしながら小瓶を渡してくれる。初めて見る小瓶だ。ラベルを確認すると嬉しい効果が書いてある。

「『10秒間だけ早く走れる』薬ですか。素晴らしいですね」

「でしょ。長距離スナイパーが持ってても仕方ないからさ。有効活用しちゃってよ」

 この薬は切り札になり得る。勝率が大きく変わるのを感じた。

 

( 交渉は終わりました。下りてきてください)

 ジェイドが合図を送ると高台から返事をするように豆がひとつぶ飛んでくる。

 彼女が来るまでの間に平常心を取り戻さないと。顔を合わせるのは少し気まずいが、そんなことを言っている状況でもない。取り乱したところは見せたくなかった。

「監督生ちゃんて、ジェイドくんには懐いてるよね〜」

 監督生の到着を待つ間、暇だったのかケイトがマジカメであたりを撮影しながら話題を振ってくる。コミュ力の高いケイトのことだ。ジェイドが監督生を気に入っているのを知った上で、場の空気が壊れないような話題を選んでくれたのだろう。しかしタイミングが悪かった。

「そう見えますか?」

 否定も肯定もしづらく、はぐらかすような言い方をしてしまう。しかしケイトは気にした様子もなく「あっはは! 懐きまくりでしょ〜」とノリよく白い歯を見せた。

「オレ、朝に監督生ちゃん見つけてさ。一緒に行動しよっかって誘ったのに断られちゃったんだよね」

「おや。そんなことがあったんですね」

 ケイトが監督生を誘っていたとは初めて知った。

「『ごめんなさい。ジェイド先輩が寂しがるから』だってさ♪」

「おやおや」

 監督生が自分との約束を守っていたと知り頬の筋肉がゆるんでしまう。約束を守るなんて当たり前のはずなのに、姿の見えないときも大切にされている気がしてひどく嬉しくなってしまうのだ。

 

 同時に色々腑に落ちてしまった。

 監督生はジェイドが考えているよりずっとジェイドのことを見てくれている。

 

 ジェイドは、叶うなら監督生を独り占めしたかった。ハッピービーンズデー前日に交わした3つの約束には独占欲が混ざっている。

 ジェイドが恋をしたのは優しい人だ。他の人と行動しないでほしいと言えば、しょうがないなぁと笑って受け入れてくれるかもしれない。でも、それはできなかった。彼女には常に「かっこいい先輩」と思われたい。しかし自分以外とは行動して欲しくない。相反するふたつの思いが混じり合い、結果的に守れる範囲で守ってねとゆるい約束を交わした。

 彼女は約束を守る。どうして約束を守るのか。

(僕が『寂しがるから』ですか)

 相手の感情を尊重した所でなんの利益も生まないはずなのに、監督生はジェイドから好かれているのを知った上で気持ちを利用しないのだ。そこが物足りなくて愛おしい。時々、優しい先輩をやめたらどんな表情を見せるか知りたくて仕方なくなる。

 

 そこまで考えてジェイドは肩を落として苦笑する。

(これ以上考えるのはやめておきましょう。優しい先輩ごっこができるのも今日が最後かもしれませんし)

 

 こちらに向かってくる監督生に手を振りながらジェイドは再び覚悟を決める。彼女を勝たせる。自分の身勝手な気持ちを受け入れてくれた彼女に、これ以上格好悪いところは見せたくなかった。

 このイベントが終わるまで優しくて強い先輩を演じきる。彼女のために。

 

 

 

【現在の物資】

・魔法の迷彩ジャケット ×2

・ビーンズシューターS ×2 (SとLをケイトと交換)

・30秒だけ身体を小さくできる薬 ×2

・10秒だけ早く走れる薬 ×1

・豆 20粒程度

 

* … * … * … * …* … * … * … * …* … * … * … * … * …

 

 空を覆う雲が地上に影を落としている。

 フィールドでは監督生とジェイド、アズールとジャックが竪琴を巡って攻防戦を繰り広げていた。ジェイドがビーンズシューターSを両手に一丁ずつ持って敵を奇襲し、戦闘開始30秒でアズールを撃破。動揺するジャックにさらに揺さぶりをかける!

「今です。監督生さん!」

「任せてください!」

 『30秒だけ身体を小さくできる薬』を飲んでこっそりジャックの後ろに回り込んでいた監督生が姿を表し、『10秒だけ早く走れる薬』を使い竪琴に向かって駆けていく。手持ちの豆はすべてジェイドに預けてきた! ジェイドがジャックを撃破するか、監督生が竪琴を奪還したら農民チームが勝利する。

「ジャックくん、僕と遊んでいただけませんか」

 姿勢を低くして駆け出しすべての豆を使って怪物を仕留めにいくジェイド。射程距離県内に入ったと同時にトリガーを引き、ジャックの足元、肩、心臓、あらゆる急所を正確に狙い撃つ。

「舐めんな、おらあああっ!!!」 

 しかし銀色の狼はひるまない。すべての豆を超人的な身体能力で交わすと、空を飛ぶような身軽さで監督生に襲いかかった。監督生が竪琴に届くまであと10メートル。一般的な身体能力しかない監督生ではジャックの攻撃を躱せない!

(このままでは……!)

 豆を使い果たした以上自分がジャックを仕留めることはできない。ジェイドの心を諦めが覆い始めたそのとき──。

「僕の忠告に耳を貸さないからですよ。残念でしたね、監督生さん」

 勝利を確信したアズールがつぶやいた内容を聞いて疑問が生まれる。

 アズールは監督生にハッピービーンズがらみの提案をして断られたようだ。しかしチーム決定のくじを引いてから監督生とアズールが接触するような機会はなかったはず。どこでそんな話ができたのか。

(ああ。そういうことでしたか)

 いくつかの疑問点がひとつの線でつながった。

 監督生が50ポイントと引き換えに何を願ったか理解した。アズールに相談してから機嫌がよかったのも、チーム分けが自分と一緒か確認したのもそういう経緯があったから。

 

 心に風が吹く。彼女を絶対に勝たせたい!

 強く願った瞬間、雲の合間から太陽の光がこぼれだす。幾筋かの金色のきらめきがスポットライトのようにフィールドを照らしだした。

(役に立ってください。彼女のために!)

 ジェイドは監督生に渡すはずだった手鏡を取り出し、天にかかげて怪物の瞳に光を集める。視力を奪われたジャックの攻撃を転がるようにして躱す監督生! 監督生が竪琴に届くまであと3メートル!

「クソッ! そんなへなちょこフォームでこの俺から逃げられるかぁッ!」

 

 監督生は頑張っている。それでもこのままでは爪先1個分届かないかと思われた。だが。

「オレ様のこと、忘れてるんだゾ!」

 迷彩服の中からぴょこんとグリムが顔を出す。監督生の頭を発射台にして黒い毛玉が飛び出した。

 

「本年度の『ハッピービーンズデー』……勝利したのは怪物チームだ!」

 メインストリートにバルガスの声が響く。監督生は少し気落ちしながらも、特別賞をもらったアズールとジャックに惜しみない拍手を贈った。

「ふな゛ーーーーーーっ! 悔しいんだゾっ!!!」

「時間切れ、残念でしたね」

 全身で悔しさを表現するグリムと苦笑しながらアズールたちに拍手を贈るジェイド。結果は残念だったが後悔はない。最後まで戦い抜いた姿勢が評価され、飛行術の成績は少しよくなるらしかった。

「ジェイド先輩、お願いがあるんですけど」

「なんでしょう。僕にできることなら、なんなりと」

「もらえないって言った猫の鏡、やっぱりもらっていいですか」

 監督生はジェイドから異性として好かれている可能性を考え始めていた。普段冷静な先輩が感情的な行動をするのは……気のせいじゃなければ、自分が離れてしまうと先輩が不安になったとき。

 そう考えると、あのとき鏡をもらうことはできなかったのだ。気持ちに応えられるかわからなかったから。

「……理由を聞いてもいいでしょうか」

 ジェイドは監督生の心の動きがわからない。ただ、物事がいい方向に進んでいる予感がする。急に離れた彼女の心が再び戻ってきたかのような。

「先輩が鏡で私を助けてくれたとき、すごく嬉しかったんです。絶対ダメだと思ったのになんとかなっちゃった。あのときの先輩とってもかっこよかったなぁ!」

 目を見てニコッと微笑まれる。

 言葉も表情も反則だ。それ以上は目を合わせられなくてジェイドは視線を横に流した。冷静にならなければと思うのに感情を制御するのが難しい。

「あなたを勝たせてあげられませんでした」

「はい。でも先輩がいてくれたから実力以上にがんばれました」

(……かないませんね)

 初めは冴えない人間だと思っていたのに。惚れた弱みとは恐ろしい。

「んで。結局、鏡はどうすんだゾ」

 会話の流れに飽きてきたグリムが退屈そうな声を出す。

 今日は監督生の言動にペースを乱されてばかりだった。普通にあげてもいいけれど少し意地悪したくなる。意地悪と言ってもじゃれるようなもの。甘えの延長だ。

「タダで差し上げるわけにはいきません。取引しませんか」

 そうくると思っていなかった監督生は意外そうな顔をしたあと、ニッと微笑む。

「先輩と取引するのは初めてですね。条件は?」

「ささやかなお願いです。一緒に最後まで残った記念に写真を1枚撮らせてください」

「いいですよ。喜んで」

 監督生はグリムを抱えてジェイドに肩を寄せる。「はい、チーズ!」の合図と共にパシャッ!と軽快な音が響く。

(そういえば、彼女が僕になにか欲しいと言ってくるのは初めてでしたね)

 写真の礼に手鏡を手渡したとき少しだけ触れた指先が愛おしかった。

 

「先輩。今度のお休みにオンボロ寮でお疲れ様会やりませんか」

「嬉しいお誘いですね。もちろん参加いたします」

「……久しぶりに前の学校の制服で過ごそうと思うんですけど、どう思います?」

「女性らしい格好もお似合いなのだろうなと」

「やっぱり知ってたんじゃないですか!」

 

 赤くなりながらジェイドを見上げる監督生。

 彼女といると安心するしとても楽しい。

 素敵な人に恋をした。

 

 

 

[chapter:4章:監督生は先輩に贈りたい]

 ハッピービーンズデーが終わってから数日が経過。

 性別カミングアウトも無事終わり、監督生は平和な日々を過ごしていた。

 

 オンボロ寮のカレンダーには2月14日にハートのマークが付いている。

(来週はバレンタインかー)

 監督生は腕を組みどうしたものかと考え込んだ。

 エースやグリムに確認したが、こちらの世界にはバレンタインがないらしい。ならば何もやらないほうがいいのかもとも思ったが、バレンタインは毎年行っていた行事。無視は気分が悪かった。

(女子同士だと、バレンタインってお歳暮みたいなところあるしね)

 監督生にとってバレンタインとは「お世話になっている人に感謝の気持ちを伝える行事」なのである。そのためいつも一緒にいるエース・デュース・グリムと、部活の先輩であるジェイドには感謝の気持ちを贈りたかった。

(アズールさんにもお世話になってるよなー)

 頭の中を整理するため、チョコをあげる人をメモに書き出していく監督生。ジェイドとアズールに渡すならフロイドも加えたほうがいいか。あとはチョコを用意してバレンタイン当日に渡せばいい。一般的に女性から男性に渡す行事だなんてみんなは知らないのだから、ただの差し入れとしか思わないだろう。余計なことは言わない。ただ差し入れとして受け取ってもらえればいい。

(こういうのって自己満足だからなー)

 一応、アズールが甘いものが好きかだけ確認しておこう。

 

 

 

「アズールはチョコが好きか、ですか?」

「はい。今度プレゼントしようかと思って」

 部活のミーティング後に監督生から質問をされたジェイドは素直に答えていいのか迷ってしまった。

 2月24日はアズールの誕生日。おそらく監督生はアズールの誕生日を祝いたいと思っており、お菓子を作ってプレゼントしようとしている。そう考えて間違いない。

(彼女がアズールに手作りのお菓子を……)

 想像しただけで非常にモヤッとしてしまう。

「アズールは食べ物のプレゼントを好みませんね。珍しいコインやボードゲームが好きですよ」

 絶対に渡してほしくなかったのでさりげなく軌道修正を試みる。監督生は素直に納得してくれた。それ自体は喜ばしいのだけれど、無邪気な横顔を見て少し考えてしまう。

 アズールの好みをジェイドに尋ねるのは自然だ。しかし想いを寄せる相手から、自分以外の男に何を贈るか相談されると非常にモヤつく。

(……彼女にとって、僕は先輩でしかないのでしょうか)

 異性としてのアプローチが足りないのかも。

 

 元々、愛情表現したくてたまらなかった事情もある。

 この日を境にジェイドの猛アプローチが始まった。

 

 

 ジェイドは考えた。客観的に見ても自分と監督生は仲がいい。

 一緒に何度も山に登って、手料理もごちそうされている、あちらから手もつないでくれたし、なんならそれ以上もしている。なんかもう、逆にこれで付き合ってないってなんなの?ってところがある。

(先輩・後輩から関係性を変えるには──)

 ひとりの男性として彼女を誘うべきかもしれない。

 

 翌日。ジェイドは監督生の教室を訪れ、彼女を廊下に呼び出した。グリムは教室内でエースたちと遊んでいるらしい。彼女とふたりで話ができるのは都合が良かった。

「突然すみません。博物館のチケットをいただいたので、興味があれば一緒にどうかと思いまして」

「面白そうですね。どこにあるんですか?」

「海の中ですよ。陸で生活する方には面白い場所かと思います」

 ジェイドが誘ったのはアトランティカ記念博物館だ。海の中では有名な場所で社会科見学の定番スポットでもある。海の中にあるが薬を飲めば呼吸ができると説明すると、監督生は瞳をキラキラさせてくいついてきた。

「楽しそうですね! しかも先輩が子供のときに行った場所なんでしょう?」

「ええ。館内には僕やフロイドが子供時代に撮った写真が飾られていますよ」

「見てみたいなぁ。きっと可愛んでしょうね!」

 ここまで話が弾めばもう行くのは決まったようなものだった。

 順調だ。なのに少し悲しくなってしまう。彼女はデートに誘われていると思っていない。彼女にとっては仲のいい先輩から遊びに誘われただけなのだろう。ジェイドが下準備しているなんて微塵も考えていない様子だ。本当は彼女が気に入ってくれそうなデートスポットをこれでもかと調べてある。チケットだって偶然手に入れたものじゃない。

 スマートに見せてるだけで結構必死だ。でも、それがいけないのかもしれない。

 あなたに本気なのだとわかってもらえないときっと先には進めない。

「……監督生さん」

 ジェイドはスマホを取り出して文面を打ち込み監督生に画面を向けた。

『僕はデートのつもりです』

 ここは廊下だ。男子生徒の笑い声や足音が周囲に満ちている。けど、この瞬間ジェイドの目には監督生しか映っていなかった。音も聞こえない。

 文章はもっと無難にできた。デートみたいですねとか。逃げ道があれば余裕が生まれて格好いい先輩を演じやすくなる。でも、それではダメな場面もあるのだ。必死さを見せないと掴み取れないものもある。

 格好いい先輩から、ひとりの男性として見てもらわないといけない。

「もちろんグリムくんも一緒で構いません。ふたりだと緊張してしまいそうですしね」

 一秒がひどく長い。監督生はスマホの画面を見たまま動かない。身長差がありすぎて彼女の顔が見えなかった。覗き込むわけにもいかず、ただ沈黙に耐えるしかない。

 もう、こんなの。好きって言っているのと変わらないのに!

(……僕の好意はあなたを困らせてばかりなのでしょうか)

 すっかり振られたような気分になったそのとき、顔を上げた監督生と目が合う。耳まで赤くなった彼女。大きく見開かれた目にジェイドの顔が写ってる。

「私、制服しか持っていないです。それでもいいでしょうか」

 少し困ったような顔で言われ心臓を貫かれた。

「学生ですからなにもおかしくないですよ。一緒に制服で行きましょう」

 気遣いで言ってるわけじゃない。彼女は男の服を着ているけれど世界で一番可愛い女の子だ。

 

 あなたの表情ひとつで報われてしまう。だから努力をやめられない。

 

『僕はデートのつもりです』

 文字の羅列を見たとき、うれしいと感じてしまった。

 

 放課後。どうしてもひとりの時間が欲しかった監督生はグリムをエースたちに預けて植物園を訪れる。植物園に用事はない。知り合いがいない場所を求めて歩いていたらたどり着いてしまっただけだった。

 大きな鳥かごのような建物内で、四季を忘れた植物たちが競い合うように咲いている。人工的に作り出される美。山とは対照的な環境だ。

 監督生はベンチに腰を下ろすと切なげに目を伏せる。

(先輩は私に好意を持ってくれている)

 そうではないかと感じた場面はいくつもあった。ジェイドの親切は先輩後輩の域を超えていたし、特別優しくしてくれているのも理解している。ジェイドの黒い噂は出会う前から聞いていた。出会ってからも、実のところ大きく印象は変わっていない。先輩は善人ではない。本来は優しい人ではないはずだ。

 その意味がわからない監督生ではない。

 では、監督生は何に対して頭を悩ませているのか。それは──。

(先輩は私とどうしたいんだろう)

 どう接すればいいのかわからない、ということだった。

 監督生にとってジェイドは恩人でもある。気持ちを弄ぶようなことはしたくない。しかし、異性として意識するほど昨日までは当たり前だった先輩後輩の関係が維持できなくなる。期待させるようなことを言ってはいけないと気をつかってしまうのだ。とてもやりづらい。

「ボン・ジュール、トリックスター。ご機嫌いかがかな」

 歌うような声がした。

 監督生が顔を上げると白衣姿のルークがジョウロを持って立っている。学年が違うためあまり会話をしたことはないが、ハッピービーンズデーが縁で挨拶程度はする仲だ。こんにちはと返事をしてふと思う。

(ルークさんてジェイド先輩にちょっと似てるよな)

 副寮長。いつも笑顔。物腰はやわらかいがどこか物騒でつかめない性格。

 話がしたくなってしまった。

「ルークさん、少し話を聞いてもらってもいいですか。考えがまとまらなくて」

「ウィウィ。私で良ければ相手になろう。君の真剣な表情はとても美しいからね」

「……これは友だちの話なんですけど」

 我ながらベタな相談の仕方だと思うが仕方ない。

 監督生は適当にフェイクを混ぜながら自身がジェイドにどう接していいのか迷っていると打ち明けた。

「興味深いね。僕は逃げればいいと思うよ、追いかけるのが楽しいから」

 両手を広げながら目を細めるルーク。対して監督生は困惑顔だ。

「逃げられたら悲しくないでしょうか」

「そうかい? 本当に悲しいのは無関心さ」

 恋は自分と相手が登場人物の美しい物語。

 形の違うものが寄り添う以上、逃げる側と追う側、愛する側と愛される側がうまれるのは自然なこと。互いが一目惚れするような恋など珍しい。片方が追いかけて、追いかけて、追いついたとき。想い人が見せた顔がエンディングだ。

「自分の心を見つめてごらん。いつ、どこで、どんな風に感じたかよく考えて、気持ちに名前をつけてあげるんだ」

 はじめに感じたのは感謝。次が申し訳なさ。少し前は頼りがい、そして今は──。

(好き)

 

 恋と呼ぶには淡い。情で済ますには深い。

 物語は始まったばかり。エンディングはまだ遠い。

 

 

 明日は2月14日、監督生とデートをする日だ。

 ジェイドは自室で紅茶を飲みながら、ハッピービーンズデーに撮影したスマホの画像を眺めていた。ジェイド・監督生・グリムの笑顔が写っている。

(今までの関係も嫌いではありませんが)

 一緒に山に登り、美しい景色やおいしい食事を楽しむ関係。価値観を共有できる相手は貴重だ。ジェイドが自分の想いにフタをしていれば、少なくとも卒業するまでは今の関係を維持できる。卒業時に告白するほうがいろんな意味でリスクがないのは明らかだった。

 でもそれは逃げなのだ。

 必要なリスクを負えない人間は何も得ることができない。

(監督生さん。あなたが欲しい)

 万が一、監督生が誰かのものになったら。考えるだけで気が狂いそうになる。そうなる前に彼女の心を手に入れたかった。

 ジェイドは自身がどうしたいかよく理解していたが、その一方で、それが実現不可能なことも理解していた。特別な関係性になろうが身体の結びつきを持とうが、「心」という見えないものを手に入れることなど不可能なのだから。

(胸が苦しいですね)

 歪んだ愛情が彼女を傷つけないように気をつけないといけない。

 恋をしてから不安定だ。良くも悪くも彼女が望む姿になってしまいそう。能力上できてしまうし必要とされたいから。彼女の人柄を信じていないわけではない。性質の話だ。与えて喜ばせたい。

 

 明日のデートがふたりの節目になるのは明らかだった。

 ジェイドはもう、彼女のためにできることはほとんどしてしまった。もう打てる手がない。これでダメならもうダメだ。悪い想像が膨らむくせに、フラレたらどんな気持ちになるのかまったく想像ができない。

 でももう限界だ。きっと言わずにはいられない。

(監督生さん。あなたが好きです)

 切なさを込めて、そっとくちびるを落とした。

 

 ついに2月14日!!!

 放課後。ジェイドは窓ガラスを見ながらため息をついた。

 クマがすごい。

 ゆうべは緊張のあまり一睡もできなかったのだ。何度も眠ろうと努力はしたのだが、目を閉じると念のためあれも調べておいたほうがいいか、当日の持ち物に間違いはないかなど気になってしまい、いつのまにか夜が明けていた。

(情けない姿を見せないようにしなければ)

 ネクタイを整え表情をキリッとさせる。よし、身だしなみは完璧だ。

 迎えに行くと約束した時間ちょうどを狙って監督生の教室に向かうと、廊下で彼女が前髪を直しているのを見つけてしまう。ジェイドが贈った手鏡を見ながら一生懸命前髪を調整していた。

(……本当に可愛い人ですね)

 こみあげる感情を隠しながら余裕のある笑顔で声をかける。グリムはエースたちと一緒にホウキで遊ぶらしく、今日は監督生とふたりきりだった。うれしいような、落ち着かないような。

 彼女の歩幅に合わせてゆっくり歩く。永遠にこのままでもいいのに。

 

「すごい。本当に海の中に博物館がある! 人魚のお客さんもいっぱいいますね」

「気に入っていただけたようで何よりです。海の世界では定番の観光地なんですよ」

 海の王様の彫像の前ではしゃぐ監督生。無邪気な横顔を見ると心が和む。アトランティカ記念博物館に彼女を連れてきたのは自分の故郷の文化を彼女に知ってほしいのもあった。海の文化に興味を持ってくれてとても嬉しい。

「先輩も人魚なんですよね。この王様より大きいんですか?」

「そうですね。僕はウツボですから、全長で言えば倍はあるでしょう」

 なるべく、なんでもない風に言った。海の世界では当たり前のことのように。

 ジェイドはまだ人魚の姿を見せていない。隠しているわけではなかったが、見せる必要がなかったし怖がらせてしまう恐れがあった。仲良くなるほど、そういった恐れは増えていく。怖いと思われるのが怖い。

「ふふ。いつか背中に乗せてくださいね」

 でも、いつも彼女はすんなりとジェイドを受け入れてしまう。そのたび想いが深くなり、この人ならどんな自分でも受け入れてくれるのではと淡い期待を抱いてしまうのだ。

「いつでも喜んで。ホウキより速く泳いでみせますよ」

「それはすごい」

 くるくる変わる表情が愛しい。あっちにこっちに興味を持って、花を飛びまわるミツバチのように移動してる。けど、いつもジェイドがどこにいるか気にしてくれている。すごいですね、楽しいですねと声をかけてくれる。同じものを見て楽しんでくれている。

 いつも追いかけていたはずの彼女が近くにいてくれる。物理的な距離はいつもと変わらないけれど、心の距離がとても近い。手を繋がなくても触れているみたいに温かい。

「こっちの絵も綺麗ですね。ボートに乗っているのって人魚のお姫様ですか?」

「ええ。一緒に乗っているのが彼女の恋の相手です」

「素敵なシーンですね」

「本当に」

「少し憧れます」

 彼女の視線は人魚姫に注がれている。ジェイドは監督生をデートに誘ったとき、服装を気にしていたのを思い出し胸ポケットに手を伸ばした。

「あなたの望みを叶えてさしあげます……怖がらないで」

 美しいものを思い浮かべながらマジカルペンを振ると、監督生の周囲に細かい光の泡が集った。光の泡は足、胸、首、腕、そして頭上に集まり、熱帯魚のヒレのようにはためいた。

「わあ。お姫様と同じドレス!」

 水色のスカートに大きなリボン、黒いハイヒール。

 ジェイドの魔法は監督生をお姫様にした。監督生は初めて足を手に入れた人魚姫みたいに、スカートのすそをつまんでくるくると回っている。

「ありがとうございます。こんな可愛い服着たの初めてです!」

「喜んでいただけてよかった。お好きなデザインでしたか?」

「はい、すごく!」

 監督生はガラスに自分の姿を写してニコニコ微笑んでいる。

「先輩とのデートで可愛い服が着れて嬉しいなあ」

 ジェイドは監督生を純粋な人間だと思っていたが、案外悪女なのかもしれない。いけない人だった。

 

 魔法の対価は飛び切りの笑顔。

 与えるつもりがいつも与えられて。

 近づけば苦しく、離れれば寂しい。

 僕の大切なお姫様──どうか気持ちを受け取って。

 

「監督生さん」

「はい」

「あなたが好きです」

 

「あなたが好きです」

 何度口にしたいと願ったことだろう。

 自然に想いがこぼれてしまった。覚悟もなにもない。星が綺麗ですねとか、空が青いですねとか、それくらい当たり前のことだった。ジェイドは目の前にいる女の子をすっかり愛していた。彼女のすべてが愛おしい。

「ありがとうございます……」

 監督生はスカートのすそをにぎりしめながら真っ赤になってうつむいている。同時に次に来る言葉を待っていた。言葉にされる前から、ジェイドからの愛情は十分すぎるほど伝わっている。計画的な彼がなんの目的もなく愛を告白するとは考えにくかった。

 ジェイドがひざまづき、うつむく監督生の表情をうかがう。

「僕はあなたにとって、ただの先輩でしかありませんか?」

 懇願するような声色で尋ねると監督生はふるふると首を横に振った。

「ただの先輩と呼ぶには思い出が多すぎます。先輩はとても大切な人です」

「僕はあなたを恋人にしたい」

 黒い手袋に包まれた指先が監督生のほほに伸びた。一瞬、触れてもいいのか迷うように揺れたあと、彼女の顎を軽く上向ける。ジェイドは彼女の顔が見たかった。

 愛の告白は関係性の確認作業。彼女の答えを確認したい。

「返事をください」

 いくらでも待てますとは言えなかった。

 なぜなら彼女は特殊な人だから。彼女は不思議な世界から来た人。卒業まではいてくれると約束してくれても、彼女の意思とは別の理由でいつ消えてしまうともわからない。そんな不安定な状態でいくらでも待てるなどとは言えなかった。短気な男だと思われてもいい。今の時点での評価で構わない。

 監督生にとって自分はなんなのか。それだけが知りたかった。

「お返事は言葉でなければダメですか」

「……? いえ、そんなことはありません」

「先輩。魔法で私のカバンを出してください」

 予想外の切り返しに戸惑いつつジェイドはマジカルペンを振る。光の粒子とともに出てきた彼女のカバンを手渡した。監督生はカバンの中から金のリボンのかかった箱を取り出し両手に持ってジェイドに渡した。

「私の気持ちです」

 わずかに震える彼女の指先。

 今日は2月14日、特別な日ではないはずだ。少なくともジェイドの誕生日ではない。受け取ると軽い。カサッと髪がこすれるような音がして、いつか貰ったクッキーを思い出す。

「察しが悪くて申し訳ありません。こちらは特別な意味があるものですか」

 中身を見てもいいものなのかわからない。

「……秘密です。自己満足なんです。でも、今年はあなたにしか贈りません」

 心臓が早鐘を打つ。よくわからないが、特別な対応をされていることだけはわかった。

「先輩。私は恋がわかりません。けれど、あなたの言葉がとてもうれしい」

 愛しい人が顔を上げる。熱のこもった瞳に自分の顔が映っている。

「これから好きになるのでは遅いでしょうか」

「ふふ。いいえ、ちっとも。片思いも楽しいですから」

 微笑みがこぼれる。甘い痺れが背骨を駆け抜けた。

「僕を恋人にしていただけますね?」

「返事がわかってて確認するのやめてくれませんか」

「やはり言質を取りたくて。不安なのです」

「めちゃくちゃ笑顔じゃないですか」

「つれないことを言わないで」

「……私に恋を教えて下さい」

 

 今日は最良の日。あなたを愛してる。

 

 

 監督生とジェイドが付き合い始めてから数日が経過した。

 ジェイドは優しく、気が利き、連絡がマメ。女性が恋人に求めてる条件をパーフェクトに満たしているといっても過言ではない。近頃は監督生に惚れてもらおうと躍起になっているため不意打ちで甘い言葉を囁いてくる。ウブな監督生が恋に落ちるのは時間の問題に見えたが──。

 

 甘い時間の一方で、監督生はジェイドに優しくされるたび「僕を置いていかないで」と言われているような気がしていた。ジェイドが好きなものに執着してしまうのを知っているから尚更そう感じるのかも。正直に言えば、監督生はジェイドの寂しそうなところにほだされつつある。オンボロ寮でひとりで頑張ってきた期間が長いこともあり、他人が寂しそうにしていると気になってしまうのだ。

(先輩を好きになるなら覚悟もしなくちゃいけない)

 いつか元の世界に戻れることになったとき、自分はどうしたいか。

 『優しくしてくれるから元の世界に戻るまでは一緒にいる』なんて考え方は相手を下に見ている。ジェイドを慕っている監督生にはできそうもない。

 

 監督生はジェイドをすっかり愛していた。

 彼女の愛は恋とは違うもの。監督生はジェイドの幸せを心から願っているから、自分の存在が彼を苦しめてしまうようなら心を殺して身を引くだろう。彼女の誠実さが恋に落ちるのを防いでいた。

 ジェイドもそれに気付いている。自分の気持ちが監督生を追い詰めている可能性も考えている。だけれど逃げられるほど燃えてしまって追いかけるのをやめられなかった。

 

 相手を思いやる気持ちと求める気持ちが競い合っている。

 この恋は甘くて切ない。

 

 

 

[chapter:5章:先輩は監督生を愛してしまった]

 ジェイドと監督生が付き合って2週間が経過した!!

 しかし、これまでと特に変わらなかった!!

 

「…………はぁ」

 自室の机で書き物をしながらジェイドは深い溜め息をついた。

 結論から言おう。監督生と恋人っぽい雰囲気にならない。

 仲はいいのだ。お昼を一緒に食べたり勉強を教えたりするのが当たり前になっている。しかし……これはジェイドが一方的に感じているだけかも知れないが、いやむしろそうであってほしいのだが……恋人同士を通り越して、家族のような安心感がうまれてしまっているのだった。

(以前より距離が近いのは嬉しいのですけれど)

 ふたりで教科書を見るときなど彼女のほうから近づいてくれるようになりスキンシップも増えている。しかし無防備が過ぎるのだ。襲われるなんて微塵も思っていないだろう。彼女の穏やかな瞳から「先輩は絶対に自分が嫌がることをしない」という絶大の信頼を感じてしまう。

 複雑だ。そう思われるように仕向けたのは自分なのだが。

(陸の恋人は何をするのか調べ直してみましょうか)

 有名な恋愛ものの映画を参考にするのもいいかもしれない。

 念のために言っておくと今の状況も嫌いではないのだ。ふたりっきりの時は彼女から手をつないでくれて愛情も感じている。彼女はことあるごとに、先輩が好きですよと行動で示してくれていた。恋人から大切にされているのを感じるたびに胸の高鳴りが抑えられない。幸せすぎて言葉数が少なくなってしまう。

 ジェイドはそんな現状が少し悔しい。

(……僕ばかり心が揺れているようで面白くありません)

 淡く耳が染まる。対価を求めない優しさには中毒性があった。日ごとに彼女に依存していく。

 美しいもので溢れた部屋に彼女を閉じ込めてしまいたい。彼女の世界に自分しかいなければ、きっと彼女も自分に依存してくれるだろう。

 愛の形は色々だ。相手を深く愛するほど相手が幸せならそれでいいタイプもいれば、相手からの愛情を強く求めるタイプもいる。ジェイドは後者だ。自覚がある。

 愛されたい欲求には終わりがない。この欲求は度が過ぎると病的で相手を追い詰めてしまいがちだから、気をつけなければいけなかった。

 ジェイドは監督生との穏やかな日常も愛している。

 彼女との時間を守るためには暴力的な欲求はコントロールしないとならない。それがたまに苦しい。

(この気持ちを「切ない」と呼ぶのでしょうか)

 再び深いため息をつく。

 恋人同士なのに自分ばかりが彼女を愛しているようで胸が苦しかった。

 

 

 監督生がジェイドと付き合ってから2週間が経過して、いくつか気付いたことがある。

(私は女子力が低すぎる……)

 授業中に大鍋をかき回しながら深いため息をついた。

 

 事の発端はエーデュースと教室移動中にエースが発した何気ない一言である。

「オンボロ寮はいいよな〜。化粧しなくていいから楽そう」

「え?」

 監督生は一瞬、なにを言われているのかわからなかった。

 男子から化粧というワードが出て脳が理解を拒んでいたのだ。

「え? じゃなくてさ、寮服のときとか化粧しなくていいなっつってんの」

「聞こえているよ。ごめん、私の世界だとあんまり男の子は化粧をしないから少し驚いちゃったんだ」

 監督生が両手を合わせて謝りながら返事をすると、傍らにいたデュースが「こっちでも普通はしないぞ」と返事をする。やっぱりそうだよね!と喜びかける監督生だったが……。

「最初はどうなることかと思ったが慣れるものだな。アイラインを引くのもずいぶん早くなった」

 と続けて言われて沈黙した。胸に抱えたグリムまでもが「そういやエペルもセベクも目の周りに色々やってたんだゾ」と言い出す。

 監督生の首筋を嫌な汗が伝った。この世界に来てからというもの1度も化粧をしていない。せいぜい眉を整える程度だ。

「あの。私、お化粧の道具を一切持ってないんだけどこれってまずいかな」

「「ええっ!?」」

 おずおずと切り出すとエーデュースがギョッと目を見開いた。エースが気まずそうに後頭部をかく。

「教科書持ってないくらいやべーな」

「そんなに!?」

 どうやら化粧道具は持ってて当たり前、化粧はできて当たり前らしい。

「式典服を着るときに化粧は必要だろう。どうしていたんだ」

「入寮式の日にこっちに飛ばされてきたから。式典服を着たことないんだ」

「すまない。そうだったな……」

 今度はデュースに(しまった)という顔をされ逆に申し訳なくなってしまう。すると気まずい流れを変えるかのように、エースが監督生の肩をパーンと叩いた。

「ま、深刻に考える必要ねえって! 次に式典服着るまでにどうにかしとけばいーって話なんだからさ」

「そ、そうだね。あはは。あははは」

 エースのフォローにかわいた笑い声で応える監督生。しかし心中おだやかではない。こんな考えは時代錯誤かも知れないが──女子である自分より男子たちのほうが化粧が上手いという現状に、結構な悔しさを感じていたのだった。

(最低限、いや人並み程度には化粧を覚えよう!!)

 力になってくれそうなのは……あの人だ!

 魔法薬学の授業が終わると監督生は教科書をまとめてクルーウェルの元に向かった。

「どうした仔犬。はしゃいでいるな」

「実は先生にお願いがありまして」

「ほう。聞いてやろう、手短に話せ」

 監督生は拳を握る。

「私を綺麗にしてください!」

 ファッションの鬼にこれを言うのはかなりの覚悟が必要だった。

 

 放課後、監督生はクルーウェルに呼ばれて魔法薬学室を訪れた。化粧を教わるためである。グリムは「放課後は遊びたいんだゾ!」と言ってエペルの元に行ってしまった。箒に乗せてもらうのだろう。

 コンコンとノックをしてドアを開ける。

「失礼します……って、うわ! すごい量の化粧品ですね!」

 監督生はギョッとした顔で立ち止まる。

 机の上にはクルーウェルが持ち込んだと思われる化粧品が所狭しと並べられており、有名ブランドの新色リップやアイシャドウが華やかさを競いあっていた。

「ビー、クワイエット。これだからよちよち歩きの仔犬は困る」

 クルーウェルは指揮棒をビシッと監督生の鼻先に突きつけた。

「貴様は美しくなりたいのだろう?」

「は、はい! 野暮ったいのをどうにかしたいです!」

「ならば己に似合うものを知れ。そしたらもっと輝ける」

 クルーウェルはふっと目元を和ませ赤い手袋に包まれた指先を椅子に向ける。座れということだろう。

 教師陣は監督生の性別を知っている。そういうわけで監督生はクルーウェルを頼ったのだった。クルーウェルも年頃の女子生徒が装えない現状に思うところがあったようで、あっさりと化粧の指導を引き受けてくれた。

「瞳の色を見せてみろ。次は肌質のチェックだ……素材は悪くない。貴様の肌ならこのリップが──」

 クルーウェルの左手が監督生の顔に添えられた。手袋越しに感じる骨ばった指先とグレーのアイシャドウに囲まれた銀色の瞳が監督生をとらえる。妖しい色気に当てられそうになり、監督生は思わず背中を反らした。

「先生、顔!! 顔が近くありませんか!?」

「騒ぐな仔犬。緊張するなら目を閉じていろ」

「んぐっ!!」

 口紅を乗せた化粧筆が唇に当てられる。この状態では流石に喋れない。監督生は目をつぶって時がすぎるのを待った。

「……バランスが悪いな。眉も整えるか」

(ひい。刃物が肌をすべっていくのがわかる!!)

 興が乗ったのかクルーウェルは眉、まぶた、髪と次々に手を入れていった。監督生は何をされているのかわからない。ただ、ここで騒いだら先生の機嫌が悪くなることだけは確実だった。

「グッガール。いいぞ、仔犬。もう少しだ」

 顔にいい香りの粉をはたかれる。おそらく仕上げの粉なのだろう。

(ようやく終わる……)

 そう安堵しかけたタイミングでドアが開いて──。

 

「おやおや。こんなところで2人きりとは」

 と、ゾッとするほど冷たい響きの声がした。

 

 

 モストロ・ラウンジのシフトに入るまでわずかに時間があった。

(ふふ。かわいい恋人に会いに行きましょうか)

 楽しいアイデアにジェイドの口元がほころぶ。

 彼女がどこにいるかは知らない。言葉をかわす時間より探す時間のほうが長いだろう。だがそんなことは問題ではなかった。恋をしている人間は例外なく狂っている。効率など些細すぎて問題にならなかった。

 しかし運動場で遊ぶグリムたちに監督生が魔法薬学室でクルーウェルに化粧を習っていると聞いてジェイドの感情がさっと焦りに塗り替えられる。教師は彼女の性別を知っている。説明し難い感情が胸の中を走った。

 嫌な予感でいっぱいのジェイドが魔法薬学室に扉を開けるよ、部屋の奥に目を閉じて薄く唇を開いた恋人と恋人のあごを人差し指ですくうクルーウェルの姿があった。

 

 呼びかけると監督生が驚いたように目を見開いた。

「あれっ、先輩どうしたんですか。今日はシフトって言ってませんでしたっけ」

「時間があったのであなたの顔を見に来たのです。化粧を教えてもらっていたのですね」

 彼女には少し大人びた化粧が施されていた。ため息が出るほど愛らしい。なのに手のひらに爪を立てることしかできないのだった。恋人が他の男に綺麗にされているのが許せない。

 ジェイドはカツカツと靴音を鳴らしながらクルーウェルに近づく。流れるような動作でおしろい用のパフを奪った。

「先生はお忙しいでしょう? 続きは僕が引き受けますのでお戻りいただいて結構ですよ」

 口調こそ穏やかだが目が笑っていない。

「ふん。お気に入りのおもちゃを取られて気が立っているな。迷惑な話だ」

 クルーウェルは好戦的なジェイドの視線を真っ向から受け止めたまま形のいいくちびるを吊り上げる。

「貴様は思い違いをしていないか? 躾けて欲しいとせがんできたのは仔犬の方だぞ。そうだろう、仔犬?」

「はい。私からお願いしました……」

 背後から聞こえる監督生の声には戸惑いが含まれていた。

 わかっている、部外者はジェイドの方だ。しかし正論なんてどうでもいい。ジェイドは勝手に監督生の荷物をまとめると、挨拶もそこそこに監督生の背中を押しながら魔法薬学室を出ていった。

 

 外廊下を無言で歩くジェイドと監督生。運動場からマジフト部の掛け声がやけにはっきり聞こえてくる。

「先輩、怒ってるんですか?」

 少し後ろを歩いていた監督生にブレザーの裾を引かれる。こうなると立ち止まらないわけにはいかなかった。ジェイドは浅く息を吸い「自分に対してですけどね」とつぶやいて身体の向きを変える。前かがみになり監督生と視線を合わせた。

「化粧、よくお似合いです。けれど貴女の顔に僕以外が触れたと思うと、言葉にできない気持ちになります」

 ジェイドが監督生の顔を持ち上げる。親指で彼女のくちびるに触れると手袋越しにやわらかい感触があった。手袋に付着する口紅が忌々しい。ここに触れるのは自分が先であるべきなのに。

「妬いてくれてるんですね」

「ええ。これ以上ないほどに」

 もう嫌われても構わない。

 ジェイドは監督生の腰を抱き寄せる。監督生の爪先が少し浮いて二人の距離が近づいていく。

(すべて奪ってしまいたい)

 

 

 え……? えっ、え!?!?

 監督生の頭は情報処理が追いつかずオーバーヒートしかけていた。腰に手が回されたと思った瞬間、息がかかるほど近くにジェイドの顔がある。反射的にジェイドの肩を押して距離を取ろうとするが腰に回された手がそれを許さない。

「先輩!? 急にどうしたんです!?」

「優しい先輩のふりをするのが馬鹿らしくなってしまいまして」

「答えになっていないんですけど!?」

「僕は貴女に嫌われないように遠慮をしていました。僕がどれだけ自分の気持ちを抑えていたか、貴女には想像もつかないでしょう」

「そんなことないですよ! 先輩がいつも私のことを考えてくれているのはよく知っています」

「ええ。しかし何を考えているかが問題なのです。僕の心の中は、きっと貴女が考えているより暗くて冷たい」

 ジェイドの顔が一瞬歪む。強く奥歯を噛み締めて痛みを堪えるように笑った。

「……貴女の理想でいたいのに心が追いつきません」

 無理に絞り出した声には絶望が混ざっていた。

 彼女に優しくして穏やかな愛を得たいのにこれ以上自分の心をを殺せない。『理想の先輩』を演じ続けるための見返りが足りないのだ。

「うーん?? よくわからないけど、無理をしているってことですか」

 監督生は(しょうがない人だなぁ)と少し呆れたように微笑んだ。

「苦しいならやめてしまいましょうよ。そのままでいいじゃないですか」

 ジェイドの首に監督生の腕が巻かれわずかに体重がかかる。必然的にジェイドの頭の位置が下がった。

「……んっ」

「え」

 ジェイドの頬にやわらかいものがあたる。

 何が起こったのかわからない。いや予想はついている。脳が事象を受け止めきれていないだけだ。

「奪っちゃった♪ なーんて……あ、すべっちゃいましたか」

 照れくさそうに微笑む監督生に対し、ジェイドは「あ、いえ」と歯切れの悪い返事しかできない。

「先輩。理解されるのを怖がらないで」

 監督生は自分の気持ちが届くようにと願いを込めてジェイドの体を抱きしめる。自分はここにいる、あなたから離れないと言葉以外でも伝えたかった。

「お互いに考え方が違うから共感できない部分はあると思います。でも先輩の考えが私と違うのは当たり前です。違う生きものなんですから。私は、もし考え方が先輩と違っても『そういう一面もあるんだな』って受け入れていきたいんです。先輩とずっと一緒にいたいから」

「………………」

 ジェイドは何も考えられなかった。

 監督生のシンプルな愛情がジェイドの心を照らしている。その光は深い海の底で暮らしていた身にはまぶしすぎた。目に染みる。光には触れることが出来ない。けれど確かに存在していた。

「先輩、なみ──」

「見ないでください」

「わぷっ」

 彼女の後頭部を自分の体に優しく寄せて、空いている手で目元を拭った。

 ジェイドは目の端を少し赤くしたまま、自分のおなかのあたりに押し付けている監督生の頭を指でいじった。薬指や中指にやわらかい監督生の髪が少しだけ巻き付いて、すぐにほどける。形の良い頭の骨をなぞり頭と首の付根の少しヘコんだ部分まで指を滑らすと「……っ」と、監督生がわずかにびくりと背中を反らして可愛い悲鳴を聞かせてくれた。

「ちょっと、なにをやっているんですか!」

 茹でたエビのように真っ赤になった監督生を見ていると張り詰めていた心が少しゆるんだ。口元に手を当ててクスクスと微笑んでしまう。

「申し訳ありません。今なら何をしても許されるのではないかといたずら心がわいてしまって」

「全然申し訳無さそうじゃない……。まあ、元気が出たなら良かったですよ」

 咲きかけの花のつぼみのような微笑みを向けられて、ジェイドの胸に甘い痛みが走る。世界が鮮やかに見えた。彼女を想う気持ちが心にびっしりと根を張っている。無理やり引っこ抜いたらきっと死んでしまうだろう。

「モストロ・ラウンジでお仕事なんでしょう? もう行かないと」

 照れ隠しだろうか。するりとジェイドの腕から逃れると監督生は移動用の鏡につながる道を歩き出す。けれどジェイドはその場を動けなかった。というか動きたくなかった。

 なにか言わなければならない気がしたのだ。

 この雰囲気でしか伝えられない想いが心の棚にたくさんしまわれている。

(僕を置いて行かないで。帰らないで。ずっとここにいるって約束して)

 初めに浮かんだのは自分勝手な思いだったが、さざなみのような悲しみがこれらの気持ちを心の端に押し流してしまう。彼女を困らせるようなことはとても言えそうになかった。

 都合のいいことを考えていると命を落とす世界で生きてきたジェイドは、常に最悪を想定しながら行動していた。最悪な展開さえ回避できれば大体の問題には笑える余地があった。いま、彼にとっての最悪は監督生の喪失だった。

「監督生さん。僕の気持ちを聞いてはいただけませんか」

 だいぶ前を歩いていた監督生が「なんです?」と言って振り向き、彼女の足音がジェイドに向かって一歩ずつ近づいてきた。呼べば戻ってきてくれることにジェイドは少し安堵した。実を言うと、離れたくないという理由で彼女を呼び止めたのは今回が初めてだった。甘えたり弱みを見せることに慣れていないのだ。

「僕は、貴女が僕が卒業するまでここに残ってくれると言ってくれたとき、本当に嬉しかったのです。あのときにはもう貴女に恋をしていましたから、はじめの頃はあと2年は一緒にいられると喜んでいました」

 しかし、その喜びは長くは続かない。『あと2年』はジェイドの中で余命に変わった。彼女との関係に終わりの日がくると思うと2年は短すぎた。

「いつか貴女の心が僕に向けば、貴女がこの世界に残ってくれる未来があるのではないかと都合のいい夢を見たこともあります。しかし貴女の横顔を追いかけるうち、貴女にとっての幸せはなんなのか考えるようになりました」

 

 同じ寮の先輩もいない状態でずっと頑張ってきた貴女。

 男子学生と同じ条件でもくじけることなく勝利を目指した貴女。

 久しぶりの女性らしい服装に目を輝かせていた貴女。

 

 そして、僕の卑怯な気持ちを知った上で受け入れてくれた貴女。

 僕はもう貴女から一生分の愛情を注いでもらいました。底の抜けた水瓶(みずがめ)みたいだった僕の心は、貴女と一緒にいるうちにかさぶたのようなものが出来て、気がつくと昔よりも綺麗で頑丈なものになっていました。昔のような乾きを感じることが減った僕は、ようやく貴女の乾きに目が行くようになりました。

 

「監督生さんが自分らしく生きていける世界は、きっとここではないのでしょうね」

 

 ジェイドは監督生を愛してしまった。

 愛する人の幸せを考えたとき、彼女の隣にはいつも自分がいなかった。

 

「元の世界に帰りたいのでしょう?」

 身を引き裂くような悲しみを笑顔で隠しながら尋ねる。監督生はその問いに答えて良いのかがわからない。しばらくジェイドの瞳を見つめたがついに判断がつかなかった。しかし彼女の沈黙こそが答えになっていた。彼女は「元の世界には戻らない」とは言えなかったのだ。

「すみません。ひどい質問をしましたね」

「いいえ。むしろひどいのは私の方です。先輩がここに引き止めたがっているのはわかっていました。でもあなたがその願いを口にしないのをいいことに、自分からはなにも言わなかったんです」

「お優しいですね。でも僕だって『海に帰るな。すべてを捨てて自分について来い』なんて言われたら相手の良識を疑ってしまいますし」

「先輩、違います。私が言わなかった理由はそうではありません」

 監督生は覚悟を決めた。ジェイドに問われたとき答えられるように準備はしていたのだ。

「たしかに私は元の世界に帰りたい。でも先輩と一緒に過ごせる時間も捨てられませんでした。私は、その、この流れで伝えるのは卑怯だとわかっているんですが、先輩のことを好きになってしまったんです」

 最後の方はだいぶ早口になってしまったが、ようやく伝えられた。

 監督生はジェイドに恋をしてしまったのだ。恋をするきっかけはそこかしこに散らばっていた。監督生が恋をしてはいけないと自分に歯止めをかけていただけだった。しかしジェイドと付き合うことになり、彼の優しさや愛情を一身に受け続けいつの間にか気持ちを抑えられなくなっていた。

「帰りたいのに……。いま、帰れる準備ができたと言われてもきっと喜べないんです。先輩と離れ離れになりたくない!!」

 監督生の心からの叫びを聞いてジェイドは自分の努力が報われていたのを知った。

 

 彼の気持ちはちゃんと彼女の心に届いていた。

 一方通行の恋ではない。互いに想い、想われている。

 

「安心してください。僕が卒業する前に必ず貴女を元の世界に帰して差し上げます」

 かがんで監督生の涙をぬぐい頬に手を添えて上を向かせた。彼女の瞳に自分が映っている。存外晴れやかな顔をしていた。

「でも、それじゃ先輩が」

「ええ。寂しくなりますね。だから追いかけることを許してください」

「私の世界に来てくれるってことですか?」

「はい。あなたの許可をいただければ、少し時間がかかっても必ずそちらの世界に行きます。きっとなんとかなるでしょう」

 監督生の頬に添えられたジェイドの手はわずかに震えていた。

「私、ずっと待っています」

 彼女の澄んだ声があたりに響く。

「いつか元の世界に帰っても先輩が会いに来てくれるって信じます。いつ会っても大丈夫なようにお化粧もして、髪も綺麗に整えて、笑顔でいます」

「おや、これ以上可愛くなってしまうのですか。困りましたね、他の男に狙われてしまう」

「私が狙われたいのは先輩だけですよ」

 にっこりと笑う恋人。彼女の気持ちが自分に向いているのがとても嬉しい。

「監督生さん。目を閉じて」

 これからなにをされるか察した監督生の身体が緊張で固くなった。

(力いっぱい目を閉じていますね。ふふ、初めてなんでしょうか)

 貴女が好きです、愛しています。

 想いを込めながら甘い口づけを交わした。

 

 

 

 そして、いくつかの季節が流れた───。

 

 そんな日が来なければいいと思いつつ、ジェイドは監督生が元の世界に戻る方法を探し続けた。図書館にある本はほとんど読み尽くしたと思う。それでも彼女が帰る方法は見つからない。ここまで方法が見つからないと帰る方法がないことを裏付けるために研究をしている気になる。

 それでもジェイドは監督生のための努力をやめなかった。

 

 自室で召喚術の論文を読んでいると、部活動から帰ってきたフロイドがノックもしないで部屋に入ってくる。

「おかえりなさい、フロイド」

「ただいまー。てか」

 フロイドはジェイドの読んでいる論文のタイトルを見る。苦いものを食べたみたいに顔を曇らせた。

「まーたそんなの読んでる。ジェイドってさ。小エビちゃんのこと大好きじゃん。どーして帰らす手伝いすんの?」

「彼女が望んでいるからですよ」

「意味わかんね。小エビちゃん帰っちゃったらジェイド泣くじゃん」

「そうですね。でも、いいのですよ。追いかけますから。逃がすわけではありません。距離が離れるだけですから」

「……それ本気で言ってる?」

「ええ」

 ジェイドが論文を読みながら淀みのない返事をする。もうとうに覚悟を決めた問題だった。フロイドはポケットに手を突っ込みながら、うなるような声をあげて頭をかきむしる。

「イシダイ先生たちがさ、もうすぐ小エビちゃんが帰る準備が終わるって言ってた」

「…………」

「帰るためのでっかい鏡の準備が終わるんだって。壊すなら手伝うよ」

「できません。そんなことをしたら、もう頼ってもらえなくなります」

 ジェイドは論文から顔を上げて静かに微笑んだ。

 多分、監督生がもう少し不誠実な人間だったらジェイドはためらいなく鏡を壊せたと思う。一度でも不誠実な対応をされたら当時の思い出を免罪符のように持ち出して自分の行動を正当化することが出来たのに。

「彼女の前では優しい先輩でいたいのです」

「そ。ならプラン変更。モストロ・ラウンジ貸し切っておわかれパーティしよ」

「いい案ですね。たくさんごちそうを用意しましょう」

「オレ風呂いってくるー。そのあとアズールの部屋にいこっかな」

「わかりました。湯冷めしないように気をつけてくださいね」

「はーい」

 間延びした返事をして、フロイドはアヒルちゃんのおもちゃと替えのパンツを持って部屋を出ていった。フロイドはああ見えて心の動きに敏感だ。ひとりになりたいジェイドの気持ちを察してくれた。

 

 ナイトレイブンカレッジの教師は優秀だ。

 ジェイドが監督生のために努力をしてもしなくても、いずれは彼らが帰る道を用意しただろう。それはわかっていた。しかし──。

(彼女が帰る方法を見つけるのは、僕でありたかったですね)

 そう思わずにはいられなかった。

 

 監督生が帰るまで、あと少し──。

 

 クロウリーに呼び出された監督生はグリムを胸に抱いたまま大きな声を出した。

「私、帰れるんですか?」

「ええ。長くおまたせしてしまいましたがようやく準備が整いました」

 喜ぶべきはずの知らせなのにどんな顔をすればいいのかわからなかった。言葉が音として聞こえていても頭に意味が入ってこない。

「おや。あまり嬉しそうではありませんね」

「突然のことだったので驚いてしまって。ああでも、こちらの世界と私の世界を行き来できるようになったってことですよね。時々、遊びに来たりなんか──」

 動揺を隠すように笑顔を見せる監督生。しかしクロウリーが小首をかしげた瞬間、言葉が続けられなくなってしまった。

 

「それは無理でしょうねえ。なにせ移動用の鏡は知っている場所にしか繋がらないのですから」

 

「うそ」

「嘘なものですか。考えてもごらんなさい。移動用の鏡がどこにでも繋がっていれば新入生を黒い馬車で迎えになんていきません。あの馬車それなりにかかるんですよ」

「で、でも前に知らない場所に移動用の鏡で行ったことがあって──」

「同行者の中に目的地に行ったことがある人がいたのでは? だれか一人でも行ったことがあれば全員まとめて移動が出来ますからね。あなたは知らなかったようですが、この世界では常識ですよ」

 監督生は頭が真っ白になった。

 当たり前だが監督生の世界に移動用の鏡などないので、監督生は自力でツイステッドワンダーランドを訪れることは出来ない。戻る手段がない以上、ジェイドたちを移動用の鏡で監督生の世界に連れて行くことも出来ない。

「えーっと……それって、もうみんなと二度と会えないってことでしょうか」

「残念ですがそうなりますねえ」

 クロウリーは顎に指を添えながら、さして残念そうな様子もなく監督生の言葉を肯定した。

 

 クロウリーに頭を下げて別れたあと監督生は無言でとぼとぼと外廊下を歩いた。話す元気がない。

 無言でいると先ほどクロウリーから聞いた言葉が頭の中で蘇る。

 監督生は自分が元の世界に戻っても、いつかジェイドが追いかけてきてくれるものと信じきっていた。しかしクロウリーの話を信じるならそれは相当難しいようだ。一生かけて研究してもできるかどうかわからない。

 胸元のグリムが首をひねって監督生の顔を見上げる。

「おい、く、苦しいんだゾ」

「あ、ごめ」

 無意識のうちに力を込めすぎていたらしい。

 力をゆるめると、グリムはやれやれといった様子で瞳を半分まぶたで隠す。

「ねえ、グリム。ジェイド先輩は帰ったら二度と会えないって知ってたのかな」

「そんなのオレ様が知るわけないんだゾ!」

「……だよねえ」

 

 追いかけることを許してくださいと、どんな気持ちで言ったのだろう。

 あの言葉が本気なのか優しい嘘なのか、監督生にはわからない。

 

 監督生が帰る方法を見つけたと聞いてから、ジェイドは監督生を避けて避けて避けまくった。なぜか監督生がジェイドを探していたが木の上でやり過ごしたり、窓から飛び降りたりして忍者のように身を隠し、会話する隙を与えなかった。

 

「ジェイド先輩、購買にもいないのかー」

 ジェイドは暗闇の中で監督生の声を聞いていた。軽い足音とドアの開閉音が聞こえたのを確認して冷凍庫から出る。中にいたのは短い間なのに、もう髪の毛が凍っていた。

「小鬼ちゃんはかくれんぼが好きだね!」

 サムが両手を腰に当てながら愉快そうに笑っている。ジェイドは胸に手をあて「ええ。場所を提供していただき、ありがとうございました」と感謝の意を述べた。

「彼女、もうすぐ帰っちゃうんだろう? こんなところで遊んでいてもいいのかい」

 サムはジェイドにたくさんの書籍を販売している。ジェイドが監督生のために帰還の魔法を研究しているのはよく知っていた。

「よくはないと思います。でも僕より故郷を選んだ恋人に、笑顔でおめでとうを言えるほど僕は大人じゃないのです」

「……だってさ、子鬼ちゃん!」

 パンッとサムが手を叩くと出入り口から監督生が現れた。ジェイドは呆然としたあとサムに「裏切ったんですか?」という目を向けたが、サムは親指を立ててウィンクをするだけだった。

「サムさんに、ジェイド先輩を入荷したら教えてもらうように頼んでいたんです。さっきスマホに入荷のお知らせが届きました」

「小さなカエルから高貴な王子様まで、ご満足頂けるお品がIN STOCK NOW! リクエストには応えないとね!」

 やられた、とジェイドは天を仰いだ。この二人、グルだったのか。

 監督生はジェイドが逃げないように手を繋ぐ。サムに礼をいい、グリムのお土産用にツナ缶を買って購買を出た。

「もしかしなくても、僕とサムさんの会話を聞いていましたか」

「はい。全部」

 ジェイドは海の泡となって消えたくなったが、あいにくここは陸の上だ。大好きな女の子の手を振り払うこともできず、処刑場に向かう囚人のような足取りで監督生についていった。

 

「先輩は私が元の世界に帰ったら、おそらく二度と会えないことを知っていたんですね」

「……………………」

 ジェイドは何も言わない。口にしたくなかった。

 

「先輩。私、学園長にまだ帰らないって伝えましたよ」

 

 ジェイドは耳を疑った。監督生を元の世界に帰したくない気持ちが強すぎて、ついに都合のいい幻聴が聞こえるようになったのではと思った。確かめるために「もう1度言っていただけませんか」と頼むと、監督生は「帰らないって言ったんです」と繰り返す。

 ジェイドは監督生の両肩をつかんで「ずっと? 一生ですか?」とすがるような声を出した。

「あの、先輩」

 自分で尋ねたくせに、ジェイドは監督生の口から結論を聞くのが怖くなった。つい指先に力がこもる。

「どこにも行かないでください……。

 貴女を帰す準備が整ったと聞いてから、毎日気が狂いそうでした。帰還の鏡を壊してしまおうと何度も思いました。貴女に嫌われても憎まれても、いなくなる悲しみに比べれば些細な問題に思えたのです」

 聞かせまいとしていた言葉が溢れる。

 本当はずっと監督生に自分の気持ちも聞いてほしかった。でもできなかったのだ。ジェイドの想いは監督生を困らせる、というのは建前で──。

 本当は、自分が泣いて喚いたところで、監督生は結局元の世界に帰ってしまうのだろうという諦めがあった。自分は誰かの1番にはなれないという前提が幼い頃から常にあるのだ。

 

 ジェイドはこれまで本気で監督生を引き止められなかった。

 引き止めたのに帰ってしまったら、みじめじゃないか。

 

「じゃあ、この世界にずっといようかな……」

 

 監督生が情熱的な引き止めに顔を赤らめながらつぶやく。ジェイドの顔を見上げると、いつもは涼しい顔の先輩が必死になっていた。

 出会ったばかりの頃、監督生はジェイドがなにを考えているのかよくわからなかった。ジェイドは感情のコントロールが上手すぎて本音が見えなかったのだ。

 監督生は普通の人間だから本音が知りたくなる。

 特別に優しくされたり、寂しそうな目をされたら理由が知りたくなる。

 ジェイドが自分に本音を明かさないのは自分に至らない部分があるからだろうかと考えたこともあったが、多分違う。

 この人は人を信じるのが苦手なのだ。

 監督生はジェイドを愛している。

 ジェイドのことをたくさん考えて、よく観察したからわかったことだった。

 

「私、自分がどうしたいのか考えたんです。

 元の世界に帰りたい。でも先輩とは離れたくない。でもどちらかしか選べません。それなら私は後悔しない方を選びたい」

「貴女は、僕を選んでくれたんですか」

「はい。私が1番好きなのは先輩だから」

 

 ジェイドは愛する人の1番になった。

 それ以上の幸福が、この世にあるだろうか。

 

「あのー、私も先輩の1番だったらうれしいなー。なんて」

「監督生さんへの気持ちを言葉で表現するのは難しいです。身体で教えて差し上げましょうか」

「えっ! えーと、それはその、まだ私には刺激が強すぎるかも……」

「ふふ。冗談ですよ」

「で、ですよねー!」

 多分、結構本気だったよなぁと思いつつ監督生も「あはは」と笑った。

 

 監督生はジェイドを選んだ。

 幸せそうに目を細める彼を見て、自分の選択が正解だったと確信した。

 

 だって、こんなにも胸が温かい。

 

[chapter:終章:先輩は監督生を愛してる]

 ピピピピ、ピピピピ。

 アラームが規則正しい感覚で起床時間を知らせている。監督生は眠い目をこすりながらスマホの画面をタッチし、のろのろした動作で寝袋から這い出る。あたりを見回すがテント内にはグリムしか居なかった。監督生は先輩はアラームを使わなくても起きられるんだなぁと感心する。黒猫の手鏡を見ながら髪の乱れを整え、幸せな寝言をつぶやくグリムを抱えてテントを出ると「おはようございます」と優しい声がかけられた。

 

「コーヒーはいかがですか? 温かいですよ」

「いただきます。いい香りですね」

 山の朝は寒い。ジェイドは監督生の好みにあわせて砂糖をいれたコーヒーを渡すと、彼女が寝ぼけた顔でそれを飲むのをじっと見ていた。今朝の無防備な寝顔もいいが、寝起きのぼーっとしている彼女も愛らしい。

「あっ。先輩、あっち!」

 監督生のまぶたが持ち上がる。彼女が指差したの東の山陰から太陽が顔を出している。空の下側が濃いオレンジ色に染まって、風に流されている雲が光の加減で黒っぽく見えた。

「初めてこの場所で日の出を見たときはとても感動しました。世界が少しずつ朝になっていく瞬間など、深海では見ることができません」

「私はずーっと陸で暮らしていましたが日の出を見るのは初めてです。太陽は毎日昇っているはずなのに、ここから見ると特別な感じがしますね」

「ええ」

 確かにここから見る景色はなにもかもが特別に見える。

 せっかく見事な朝日が昇っているというのに、ジェイドは監督生の横顔から目が離せなかった。彼女の呼吸に合わせて白い息が幻のように浮かんで消える。少し寒いのか首をすくめていて、湯気の立つマグカップを身体に寄せている。

「よければこれを使ってください」

 ジェイドは使っていたひざかけを監督生の肩にかけてやり、自然な動作でほほに口づける。彼女の首筋が瞬時に桃色に染まった。

「ありがとうございます、先輩。でもグリムがいるとこでそういうのは禁止です」

「グリムくんなら眠っていますよ。それなら問題ないのでは?」

「ばれなきゃいいってことではないです」

 声を抑えながら狼狽する彼女が愛しい。口元を隠すようにして笑うと、監督生もしょうがないなぁと笑顔を見せてくれた。

 

「先輩はいろんな景色を知っていますね」

「ええ。ほかにもお連れしたい場所がたくさんありますよ」

「ふふ、そんなにですか」

「そんなにです。10年、20年程度ではご案内が終わらないでしょうね」

「素敵ですね。私の予定帳が先輩とのお出かけで、すべてうまってしまいそう」

 自分との未来を素敵だと言われて、ジェイドは魂を持っていかれそうになった。こういう不意打ちが来るから油断ができない。コーヒーを飲んでにやけそうになるのをごまかした。

 ジェイドはポケットに手を入れる。指先に固い感触があった。華奢な輪っか状の装飾品を手の中に閉じ込ると、すくうように監督生の左手を取って跪(ひざまず)く。監督生は右手にマグを持ったまま、ジェイドの急な行動に目を丸くしていた。

 予感がする。大切な話が始まる。

 

「監督生さん」

「はい」

「あなたを愛しています」

「……私もです」

 

 太陽の光がふたりを照らす。

 薬指が許されるまで、あと少し──。



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