どうやら今日は、ミレニアム自治区で夏祭りが催されるようでした。昨日ユウカと買い物に行った際に見た準備風景は、どうやら今日のためだったらしいのです。昨日の夜にユウカから送られてきたモモトークで私はそのことを知りました。一緒に行きませんかと誘われましたが、昨日は仕事が進みませんでしたし、何より私は人の寄り付くイベントを避ける習性がありますから、遠慮しました。
机仕事に疲れたので立ち上がり、ブラックコーヒーの入ったマグカップを片手にキヴォトスの風景を眺めておりました。夜の八時。恥ずかしがり屋な夜行性の虫たちが密かに演奏しだす時間帯ですが、ここにいては聞こえません。鑑賞会に行こうと思ったのですが、クーラーの効いた部屋から出るのは嫌だなと考え直しました。太陽が沈もうとも、八月の風は熱風です。
私はガラス窓の向こうに見える、特段明るい場所に視線を向けました。おそらく祭り会場でしょう。ここからなら花火が見えるかもしれません。満天の星空に咲く花は、さぞ美しく見えることでしょう。
一人で見る花火は、思い出となるのでしょうか。
花火を一人で見たと記憶するだけなのでしょうか。
コーヒーを口に含みました。慣れ親しんだ苦味が、今は私の心を闇へといざないます。孤独を痛感する苦味でも、現実の苦味でもありました。マグカップを円を描くように回すと、黒い渦巻が出来上がりました。私の思考は大抵こんな感じなのでしょう。
私はしばらく、キヴォトスの街を見下ろしていました。
「はい、あーん」
聞こえた声に条件反射で口を開くと、何やら熱い球体が口に入りました。味でたこ焼きだと分かりました。
ゆっくりと咀嚼しながら、私は声のしたほうに顔を向けます。ユウカは、私が安心感を覚える笑みを浮かべて、小首を傾げていました。何を問われたわけでもありませんが、私は飲み込んでから、おいしいですと答えました。笑みを深めたユウカは、
「それならもう一個」
爪楊枝でたこ焼きに少しだけ穴を開けて、三回息を吹きかけたユウカ。爪楊枝でそれを刺して、八個ほどのたこ焼きが入った容器ごと私に近づけてきます。鰹節とソースの香りがしました。そう言えば私は、昼食を抜いて、夕食もまだでした。
ユウカの言いなりになってたこ焼きを平らげたあと、私は後ろで何やらビニール袋を漁り始めたユウカに問いました。
「なぜここに来たのですか?」
「なぜって……先生と花火を見たいと思って。今日が忘れられない日になれば、それって立派な思い出になると思って」
振り返って見ると、ユウカが浴衣姿であることに気づきました。
髪は結ばれておらず、ユウカの一挙手一投足に沿ってさらさらなびきます。岩肌のような灰色と茶色を混ぜた渋い色を基調とした生地で、所々に、ユウカの髪色よりも淡い青色や水色の朝顔の花が描かれていました。紫色の帯がユウカのすらりとした体のラインを強調していました。腰から尻にかけての曲線美もありました。
と、ユウカが振り返ったので、私は慌てて目をそらしました。疑問を滲ませた声が上がりました。
「どうかしましたか?」
「いえ、何も。浴衣なのだな、と、思いまして」
「お祭りだから、着たほうがいいとハレに勧められて。似合ってますか?」
「はい、とても綺麗ですよ」
「……先生、目をそらして言わないでください」
人生で最も美しいものを直視したら、人は呆けてしまうと思うのです。金魚のように瞬きすら忘れた顔で、口をパクパクさせるのです。先ほどの私がそうです。
見惚れて、ましたので。小さく漏らした言葉は、しかし静かな室内に響きました。こちらに歩を進めていたユウカがピタリと止まりました。手には渦巻ポテトの入ったプラスチック容器が握られていました。
「買ってきてくれたのですか?」
「え……? ああ、はい。先生は、お祭りは嫌いでも、屋台の食べ物は嫌いじゃないだろうと思って。ほら、お酒によく合うイメージがありますし」
考えたことはありませんでしたが、確かに、しょっぱいものにお酒は合います。
「あっ、だからって今日は飲まないでくださいね? ちょっと歩くのやめてもらっていいですか?その、今日はちょっと、したいことがあって来たので」
「……したいこと、ですか」
「はい。あの、それはもうちょっと後でいいので……ええと。今はお腹を満たしませんか? さっきの様子だと、先生は夕食はまだですよね?」
「はい。お昼も食べていませんから、かなりお腹が空いています」
「えっなんでお昼を抜いたんですか?」
「……仕事に集中していまして」
大きなため息をつかれました。こめかみを押さえてやれやれといった具合に首を振るユウカ。
「いっぱい食べ物は買ってきましたから、とにかくそれを食べてください。飲み物もありますから」
ユウカが用意してくれた椅子に隣同士で座って、キヴォトスの光を眺めながら、時おり話をしながら、私たちは食事を楽しみました。フランクフルトやウインナーなどを食べたときにやはり酒が飲みたくなってしまったのですが、お願いですからとユウカに言われて、ウーロン茶を飲みました。
あと数分で九時になります。一時間も休憩をしたのですから、そろそろ執務に戻りたいところです。モモトークくらいなら、ここで見ても良いでしょうか。私はスマホを取り出しました。
「……モモトークの返信なら、ちょっとだけ後にしてもらってもいいですか」
「? なぜですか?」
「今は、その。私を見ててほしいっていうか。……あれですよ! あれ! 私はもっと先生と話がしたいんですっ!」
ここまで言われて分からぬ私ではありませんでした。けれど、心の八割は、疑いに染まっていました。私は中途半端を嫌いながら、そのくせ進展や破滅に怯えるのです。人と深い関係を築いてこなかったゆえの恐怖が、私を支配しました。
私は極力、平生を装いました。意識して呼吸を行っていた時点で、私は平生ではありませんでしたけれど、心臓の鼓動をゆっくりにすることや、体から変な汗が出ないように落ち着こうとしたことは事実です。
「先生は、その、私たちのことを、中途半端な関係って言ったじゃないですか。それは確かに、私もそうだと思いました。でも、私は」
次の言葉が、良い言葉でも悪い言葉でも、この関係に終止符を打つだろうと直感できました。卒業式のようにかしこまった座り方をして、私はそれ以上に緊張した面持ちで、ユウカが口を開くのを待ちました。
隣を見ることなどできませんでした。緊張を崩せばすぐにでも逃げ出したくなりそうで、私は一層姿勢を正しくしていました。
空に一筋の光が、重力に逆らって進んでいくのが見えました。遅れて、花火が空に昇っていく高い音が聞こえました。花丸みたいな花火が一つ、ぱっと星空に咲きました。赤、緑、黄色など、小学校の花壇みたいに色鮮やかな花でした。
不意に私に影が落ちました。ユウカが目の前に立ったようです。しなやかな腕が伸びてきて、両の手で私の頬に触れました。次いでユウカの顔が近づいてきました。何をするのか、されるのか悟った瞬間には、私の唇は瑞々しいそれに触れていました。
驚きのあまり私は目を瞠りました。ユウカは目を閉じていました。ぷるんとした彼女の唇に負けないくらい、色の赤い頬でした。
バードキスよりも貪欲で、ディープキスよりも慎みのあるキスだと思いました。長時間唇を触れ合わせるキス。
唇を離したあと、髪を耳にかけて、ユウカは私のことをじっと見つめました。私は、彼女の動作に釘付けにされていました。不思議さ、驚き、嬉しさ――色々な感情の渦に、マイナスの感情は見当たりません。
「先生、ずっと一緒にいてください。私も実は、好きとか分からなくって。でも、この感情だけは事実なんです。中途半端な関係かもしれないけど、でもこの思いは中途半端じゃなくって、ずっと一緒にいたんです。ダメなところも優しいところも、全部知りたいです。先生はこの関係が嫌ですか? ……嫌だから私を避けたりしたんですよね。でも、私は、これでいいと思います。これから好きになっていくことも、結婚することもできるんですから、二人で一緒に、愛を育てていきたいです」
もう一度唇を奪われました。
私が何かを言う前に、ユウカは再び口を開きます。
「一緒に生きていきましょう? 先生」
どうやら私は、この心優しい少女に、骨の髄まで魅了されていたようでした。深くなりすぎる関係を恐れて距離を置くなど、できないのでした。支えられて生きたいと、思いました。もちろんときに支えることはしますけれど、大半は支えられるのだろうと思います。
咲いた大輪はやがて、ゆっくりと、輝きを放ちながら落ちてゆくのでした。
私の中では、この物語はここで終わりです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。