花虫がふたり、少し話すだけのはなし。

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花に溺る

 雨の匂いなどしない、春の日和だった。

 花が舞う。風が光る。そこかしこで名残を惜しむ卒業生の群れが、桜吹雪の下を闊歩する。すっかり板についた会釈と控えめな笑顔でその合間を縫って、わたしは人を探していた。

 ようやく着丈の合ってきた制服に、胸元に文字通り華を添えるコサージュ。誰も彼もが晴れがましい今日この日でも、その人はやっぱりひときわ目立つ。なにせ背が高いし、彼のまわりにはいつだって人が集まるから。

 早瀬凛太朗、というのがその人の名だ。三年間をわたしと同じクラスで過ごした唯一の生徒であり、今のわたしの探し人。彼に、伝えるべきことがあった。

「早瀬くん。……ちょっといいかな」

 がやがやした男子生徒たちの声が一瞬止んで、それから探るような勘繰るような視線がわたしたち二人に注がれる。別に無礼とも思わないが、少し不毛だと思った。軽口のひとつふたつを叩いて場を辞する意を伝え、少し早足で歩きだすその背中を、わたしは黙って追いかけた。

 

 わたしたちの通った中学校はやや高台に位置する。正門を出てから、グラウンドをぐるりと迂回する形で続く坂は、今日は花道と名を改めたようだった。満開のソメイヨシノが彩る中を家族や学友と連れ立って、惜しむようにゆっくりと歩む人の群れ。スマホ禁止の校則から逃れた皆々が一様に写真を撮り合って、今日という晴の日を能う限り焼き付けている。

 その本道から脇に逸れていく二人を気に留める人などいないようで、わたしたちはすんなり喧騒を抜けることができた。

 学校の裏手にはちょっとした山が鎮座していて、そこまでの勾配も急なものになっている。常なら運動部が坂道ダッシュに使うだけあり、登りきる頃には息が上がっていた。三年間をバレー部で過ごした早瀬も少しだけ汗をかいていて、二人とも道中は無言だった。

「ここでいいか」

 わたしは頷いた。坂の上は平坦な一本道になっていて、ここを跨ぐとすぐに裏山が口を開ける。賑わいは木々に吸われて、ここには届かないようだった。道脇の両手に設置された柵にそれぞれ背を預けて、私たちは向かい合う。

 甘い、と早瀬が呟くのが聞こえた。なにが、と視線を向けると、早瀬は目の前に舞っていた薄桃色のひとひらをつかみ取ってみせた。確かに、こちらの桜は表の道よりも甘い匂いがする。

「何か、言ってたか。詩歌は」

「……まぁ」

 わたしの瞳は早瀬の顔を映さず、その後ろの体育館とプールのあたりをふらついていた。水面にはふやけた花弁がまだらに広がるだけで、錦を織るような満面には程遠い。山桜はまだ散らないのだ。

 落ち着かなくて外したコサージュを弄びながら、わたしはゆっくりと言葉を選ぶ。昨日のあの子の顔を慎重に思い浮かべて、

「泣いては、いなかったよ」

 突き放すような声音。それがわたしの口を衝いたものだと気付くのに、少しだけ時間を要した。

「……そっか。よかった」

 別れる、と。能面のような顔で、あの子は言っていた。そう返事する以外に、選択肢などなかったのだと思う。縋ったのはあの子で、早瀬はそれを受け入れただけ。拒絶したのはあの子で、早瀬はそれを許しただけ。傷ついたのもあの子で、早瀬はそれを見かねただけ。わたしはそれを、見ていた、だけ。

 目の前を横切った桜色は、わたしには一度も掴めなかった。

 

 江野詩歌というひとつ下の女の子は、手折れそうに脆く、危うい美しさを湛えていた。父がなく、母も滅多に帰らないあの子を、わたしは妹のように思い、事実そう接してきたはずだ。

 半年ほど前のあの日に起こったことを、詩歌がどれくらい語ったのかは知らない。ただ、いやに冷えた九月の夜、誕生日にひとり彷徨っていた詩歌を偶然見つけだしたのが早瀬で、彼は詩歌の慟哭に黙って耳を傾けたのだという。たかだか中学生に過ぎないわたしたちには人ひとり救うような力なんてなくて、それでもこの男の子は以降ただじっと、とめどない少女の感情の受け皿であり続けた。強いひとだと思った。

 確かに惹かれ合ったふたりだった。ふたりは恋人になれなかった。詩歌はずっと切実に温もりを求めていて、しかし触れ合うたびに傷ついたから。知らない男と絡み合う母の面影がちらつくのだと、一度だけわたしの胸で泣いた。わたしは何を言うこともできず、その背に視線を落とすだけだった。

 触れたい、と愚かにも思ったことが、ひどく鮮明に蘇る。

 覚悟も勇気もありはせず、わたしの手はただ藻掻くように空を泳ぎ、去る。

 妹のように思い、だなんて我ながらよく言えたものだ。

 友達にも、家族にも、もちろん恋人にもなれはしないまま、いつまで彼女に付き纏うのだろう。毎度そんなことを思うたび息が詰まって、溺れているような心地がした。

 

 風が吹いた。少しだけ湿った香りが鼻腔をくすぐって、わたしを今に引き戻した。

「……甘いね」

「さっき言ったぞ、それ」

「これさ、花の匂いじゃないんだって。落ち葉」

 わたしの口は、いつまでも回り道をやめようとしない。

 本題なんてただのひとことで終わる。「別れる」と、詩歌がそう云ったのだと伝えればそれで、早瀬が頷いて、カーテンコールはそれだけでいい。

「クマリンだろ、桜餅の葉の匂い」

「さすが、よく勉強していらっしゃる」

「嫌味言いに来ただけなら帰るぞ。おまえの方が成績は良かったろうに」

「ちがうよ。……虫害への防衛機構なんだって。虫が嫌がる匂い。傷ついたり枯れたところから出すやつ」

「虫か」

「うん、虫」

 死んだ桜の甘い毒。山桜は花期の間にも葉をつけるから、辺りにはいつもこの匂いが漂う。この毒が染みるから、桜の下には草が茂らない。噎せ返るほど薫り立つこの桜に、わたしたちは惹かれて已まない。

「ねえ、今でも好き?」出し抜けに問えば、

「……ああ」確かめるような声音で、早瀬はそう返した。

「そっか」

「ああ」

「詩歌ね、頷いたよ。別れ話」

 声が掠れた。わたしが泣いてどうするんだろうと心底思う。

「ああ」

「泣きそうな顔、してた」

 泣いていいのはあの子だけだ。悲しみひとつも背負えないわたしが流していい涙なんて一滴たりともありはしないのに。言伝は済んだのだから、何事もなかったみたいに立ち去ればいいのに。どうしようもないくらい息が詰まる。いっそ雨でも降ってくれたら。この匂いも涙も洗い流してくれたらいいのに。

 生憎と眩しい春の日和に、雨の気配はしなかった。

 


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