彼の第一印象は、恐ろしい、の一言に尽きる。
私が初めて見た時の彼の目は怒りに染まっていた。それも、烈火の如き怒りでは無い。一時的に燃え盛る怒りは砂でもかけてしまえばすぐに消えてしまう。
彼の怒りは、ぐつぐつと煮え滾る溶岩だった。
何に対しての怒りなのかは分からないが、それでも、私が見た中で一番軍人らしい軍人だったと思う。
鼻血を流しながら痛みに顔をしかめて呻く事など無く、血に濡れようともただ目的を成さんと歩みを進める姿は私の中にある名も知れぬ感情を大きく揺さぶった。
あれから私達は、私が舵を取る船に乗り柱島泊地へ向けて出港した。
時間にして数時間にもなろう道すがら、適当に押し付けられた小型漁船にしては質の良い自動操舵装置を見つけ、おぉ、と小声で喜ぶ。
船(艦娘)が船(小型漁船)を操縦するなんていうややこしい事を避けられるのはありがたい。ここまで来るのに落ち込み過ぎて気づかなかったのが悔やまれる。
艦娘ならではの無自覚の知識から自動操舵装置の設定をし航行に問題が無いのを見届けた後、私は操舵室から出て提督の姿を探す。
提督は船の後方、投縄機の付近に腰を下ろして、ぼうっと今来た海路の向こうを眺めていた。
どう声をかけたものか……と逡巡するも、言葉が見つからない。
なぜなら、海を見つめる提督からは先刻の怒りなど感じられず、ただ、どうにも悲しそうな雰囲気が漂っていたからだ。
何を悲しんでいるのですか?
ご気分が優れませんか?
私に何かできる事はありますでしょうか?
いいや、全部違う。でも、声をかけてあげたいというジレンマが募った。
そうしてたっぷり数分間提督の背を見つめた私から出たのは、機械的でどうしようもない報告だった。
「失礼します。提督……操舵室より自動操舵装置が発見され動作を確認できましたので、使用しております」
「あぁ」
短い返答のみ。それ以降、私は声をかけ続けるのも躊躇われ、操舵室に戻ろうと踵を返す。
その時だった。
「どうして、こうなった……」
「はい……?」
どうしてこうなった……というのは……?
私が漏らした声に、はっとして振り向く提督。
どうやら私が声をかけた時は気づいてなく、生返事だったらしい。
しかしこうして振り向いてくれたのだから、その理由でも話題になれば何でもよいと、私は問うた。
「提督。どうしてこうなった、とおっしゃいますのは……?」
提督は暫し気まずそうに私の目を見つめて数秒固まる。
まずい事を聞いたのだろうかと自問するも、当たり前だろう、不躾だと自答が返り、すぐさま頭を下げる。
「申し訳ありません、その――」
「全部だ」
「全部……?」
全部というのは、なんだろう。
いや、言葉通りなら、全部とは、その通り、環境、そして状況、現状。何もかもをひっくるめた事を指しているのであろうことは分かる。
「俺はな、大淀、俺はな?」
唐突に頭を抱え語り始める提督に、ごくりと唾を呑んだ。
先刻見せた軍人らしい姿は何処にもなく――
「働いていただけだ。本当に、ただ働いていたんだ。良かれと思って。それがどうしてこんな事になる?」
――ああ、否、彼は軍人だ。どうしようもない軍人だと思いなおす。
艦娘の大淀としてではなく、私は軽巡洋艦そのものだった頃を思い出していた。
国の為、国民の為、そして家族の為に散っていった桜たちが今を見れば、きっと提督と同じような事を言うだろう。
どうしてこうなったんだ、と。
かつての若人たちは、彼と同じように働いていただけだ。それこそ、全ての為に。
「提督……」
私の口から洩れた言葉は、憐憫の色が滲んでいた。
提督と状況こそ違えど、働いていただけの私も同じように、捨てられたが故に。
「業績だって悪くなかった。残業だっていくらでもした。休みが無くても従った。でも、変わらなかった……」
提督の独白に、ぐっと口が引き締まった。
これは、私が聞いてよいものじゃない。しかし、その場から動けない。
「だから見限ったんだ、やってられるかって……適当に次の仕事を見つけるまでは休んで、それからのんびり働けばいいだろって……それが、なんでこうなったんだ……」
そうか……提督は……軍を見限ったのか……。
しかし、海軍省はそう甘くない。辞めたいから辞められるのならば、これまでどれほどの軍人が辞めたか想像したくも無い。それに、艦娘を指揮出来る人材は限られている。
私達艦娘を指揮するのには、特別な条件が一つだけ存在する。
それは〝妖精〟が見える事。
一言だけでは頭がおかしいと思われがちの条件だが、これは必須であり、無くとも艦娘に命令を下したり指揮したりは出来るが、根本的な違いが発生する。
妖精を宿していない装備は、宿した装備の十分の一も能力を発揮できない。
同時に、妖精が見えていなければ、艦娘に下す命令に『共鳴』出来ないからだとされている。
共鳴とは、言葉通り艦娘と指揮する提督との感情、意思が同調する事だ。
そうする事で命令に強制力が発生し、私達艦娘の能力は飛躍的に向上する。
前提督は妖精が見えなかったために命令に強制力は無く、ただ言われた事に従う艦娘ばかりだった。
戦時中が故に希少な物品で釣られる者の多かったこと……。
「心中お察し申し上げます……」
「大淀……」
形だけでも、と声をかけた私を、提督は座り込んだ格好で見上げた。
そして――私は再び、目を疑う。
「て、提督、そ、その肩に乗っている、のは……!?」
大本営から鎮守府に異動し、そこから十数年、数度しか見たことが無い存在が、提督の左肩に乗っていた。
手のひらサイズの、ほんの小さな存在だが、それは私にとって、ひいては艦娘にとって重要な存在――。
「こんな所に、何故妖精が!? ここに来るまで、いなかったのに、なんで……!」
狼狽する私をよそに、提督は「こいつは話が分かるんだ」と言いながら妖精に手のひらを差し出す。
すると、妖精はぴょこんと提督の手のひらに飛び乗って、米粒のように小さなハンカチを持って提督に腕を伸ばす。
「こいつはこんなにも優しいのに」
親しげに『こいつ』と呼ぶ提督。
腕を伸ばす妖精を手のひらに乗せて顔に近づければ、声こそ聞こえないがえんえんと泣き声を上げるかのような表情をしながら、提督の血で汚れた口元を拭っていた。
とは言え、小さなハンカチが真っ赤に染まっても口元の汚れは変わらないまま。
「提督、あの、その妖精はどこから……!?」
「この船に乗ってたんじゃないのか?」
「そんなの見てませ――」
妖精を見て、私は気づく。
ねじり鉢巻きに、作業員のような服装をしている小さな存在……工廠にいた妖精とも見えるが、数度見ただけでも間違えようのない妖精たちの中でも、それは見たことのない妖精だった。
私は急いでその場から船のへりまで走り、殆ど飛び込むような勢いで船外へ半身を乗り出し、小型漁船の側面を見る。
そこには掠れた字で【むつ丸】とあった。
すぐに提督の下へ戻り、妖精の小さな作業着の背を見る。
そこには――間違いなく同じ名があった。
「こんな漁船から妖精が……い、意味が……」
艦娘が、かつての艦の魂を宿した人なのだとすれば。
妖精とは、艦の魂そのものである。
かつて海軍省で出回った教本に書いてあった文言を思い出す。
だがそれは間違いだとして上層部が撤回し、艦娘や妖精に関する事は極秘事項として周知されなくなった。私も見たのはたったの一度だけで、本当にそう書いてあったかさえ定かではない朧げなもの。
しかし、確かに私の目の前には、葬り去られた教本通りの光景があった。
「暁の水平線に、勝利を刻みましょう……か」
今にも崩れ去ってしまいそうな程に脆く、そして優しい表情をする提督を見て、全身に雷で打たれたような衝撃が走る。
初めて艦娘として目が覚めた時と同じ、かつて人類を救わねばと妄信していた時と同様の感情だった。
彼の口から落ちた言葉に、心臓が痛い程に鳴る。
彼と、海を守りたい。
私は感情を抑えきれず、口元を手で隠して嗚咽が漏れないようにするも、両目からは止めどなく涙が流れた。
嬉しいとか、悲しいとかでは表せない感情の頂点は、涙になるらしい。
それに気づいた提督はぎょっとして立ち上がり、妖精もふわふわと宙に浮いた状態で私に寄って来る。
「お、大淀、どうしてお前が泣くんだ!?」
「もっ、しわけ、ありまっ……せん……! し、かし、提督……!」
妖精は提督の血に濡れたハンカチを差し出しかけるも、はっとしてそれを収め、新しいハンカチを探すようにポケットを裏返したり、その場でくるくる回ったり。
提督はハンカチを差し出すどころか、両手を胸の前に上げた状態で振るばかり。
「泣くな大淀、あー、た、頼むよ……」
「いいえ、提督、頼むのはこちらです……!」
「ぁ、え……?」
全身をかき回す感情をそのままに、私は深く、いいやこれでは足りないとその場でがつんと音が鳴るほどに勢いよく両膝をつき、土下座した。
「どうか……どうか、この海を……守ってください……! 艦娘の指揮を……!」
涙ながらに殆ど絶叫のように言った私の言葉に、十数秒の静寂。
船が波を切る音だけが支配する場で、提督の声が後頭部へ落ちてきた。
「わかった。善処しよう」
軍人らしい重苦しい声に、ぱぁっと顔を上げた私の目に映ったのは、乾いた血をようやく袖で拭った姿だった。
帝国軍人たるもの、純白の軍服は賜ったもの。決して汚すことなかれ。
それは如何なる階級の者でも破ってはならないものとして存在する規律。
私と会ったあの時、既に血で汚れていた提督ではあったが、決して自ら血を拭って服を汚す行為はしなかった。それも規律を守っての事なのだろう。
しかし、彼は同時に軍を見限ったとも言っていた。そして今の行動。
それが意味するところは、私とて理解している。
「厳しいかもしれないが」
「どのようなご命令でも、必ずやこの大淀が遂行致します!」
「俺の出来る事も多くは無い」
「その時は、私や他の艦娘をお使いください!」
厳しいかもしれない。それはそうだ。軍部の一部は腐りきっている。
そうして、提督はその一部によって汚名を着せられ、陸から飛ばされた。柱島泊地という、呉鎮守府の監視下に置かれて。
出来る事も多くは無いなど、また恐ろしい事を仰る。
提督は呉鎮守府という巨大な拠点の監視下なのだから、何もできないはずなのだ。
なのに、多くは無い、と?
それは、動こうと思えばいくらでも動けると、そういう事だろう。
またも私の背に電流が走る。
感情で埋め尽くされた頭の中が澄み渡り、まるでないだ海のように明瞭となる。
元横須賀鎮守府所属、海原大将閣下――。
かの御仁は深海棲艦に埋め尽くされた鎮守府近海を瞬く間に攻略し、数少ない艦娘を駆使して敵深海棲艦の拠点とも予測された南方海域の一部をも攻略。
孤立していた南方沖の資源海域を奪取し、連絡路として開放せしめた。
それだけでも想像のはるか上を行く戦果であるというのに、勲章も賜る事なく、次々と深海棲艦に奪われた海域を開放し続けた。
しかし、海原大将をじかに見たという者は少ない。どれもが人づてで、記録のみが大本営に残っているだけであった。
大進撃を続けていた海軍は、ある日を境に深海棲艦に押し返される事となる。
海原大将が失踪してしまった日だ。
新たに横須賀鎮守府に着任した提督によって海域を全て奪い返されるという悲劇は避けられたものの、再び深海棲艦の猛攻が始まりいくつもの資源海域が火の海となった。
横須賀鎮守府にいた艦娘達も健闘したが、上手く能力を発揮できず……。
海原大将についてはかん口令がしかれ、かつて海原大将の部下であった艦娘達も彼の事を一切口にしなくなったという。
一説では、我々艦娘の装備などを開発している艦政本部によって記憶を消されたなどと眉唾な噂まである。
「まずは……大淀」
「はっ!」
これが初めての命令となる。私は立ち上がり、直立不動で提督を見た。
だが、私は提督の気遣いに、軍人らしくないなという感想を抱くのと同時に、また涙を流してしまったのだった。
なんて優しいお方なのだろう、と。
「一緒に飯を食おう」