三十三話 報奨【艦娘side】
早朝、マルロクマルマル。
かの作戦後からたったの数日しか経っていない現在、
「おはようございます、大淀さん」
「あっ、鳳翔さん、おはようございます」
その中でも空母の面々は龍驤の活躍に競争心を煽られたようで、非番であるというのに起き抜け一番に食堂ではなく、訓練場のある方へぞろぞろと向かっているのが見えた。
まだ涼やかな風が吹く時刻、空母の成す列から立ち昇るような陽炎は目の錯覚であろうと思いたいほど。
通りすがりの私に声を掛けてきた空母のまとめ役たる鳳翔は嫋やかな笑みこそ浮かべているものの、何をしているわけでもないというのに私を圧する雰囲気を背負っていた。
「今日は私が秘書艦を務めますが、注意事項などがあれば――」
先日『提督の補佐をしよう』と会議された秘書艦制度は、私を中心にして日替わりで行われることが決定された。
情けない話ではあるが、私の事務処理の能力を遙かに凌駕する提督の業務速度を補佐するには一人の艦娘では足りないと満場一致であった。
そこで、連合艦隊旗艦を務めた経験のある私を常任秘書として、もう一人、提督と私の補佐という形で交代制の秘書を設ける事になったのだった。無論、それ以外の意味もある重要な軍務だ。
本日の秘書艦は鳳翔だったか、と食堂へ歩を進め、歩きながら話そうと促した私についてくる彼女に対して口を開く。
「提督室での業務は機密保持のため、秘書業務以外での口外は原則禁止です。それは例え同じ鎮守府の艦娘であっても、ですが……ここまでは知ってますよね?」
「はい。赤城ちゃんや加賀ちゃ……んんっ、ごめんなさい」
元祖一航戦である鳳翔は、現在前線を任されている一航戦の二人の母のような存在でもあるためか、こうしてポロリとちゃん付けが口からこぼれてしまうようで、恥ずかしそうに咳払いをして前を見る。
「赤城や加賀から基本的なことは聞きました。全艦娘が日替わりで行うから、今後は全員がどのような業務内容であるのかを把握できるだろう、とも……少し、時間がかかり過ぎなような気もしますが」
気掛かりとでも言いたげな顔をしてみせる鳳翔に、もっともです、と頷いてみせるも、私は一言補足する。
「在籍する艦娘の数からして半年を見越した計画となりますが、それに値する機密ばかりであるとだけ言っておきましょう。鳳翔さんはラッキーですよ」
「らっきー……?」
食堂に到着し、扉の前で立ち止まった鳳翔に代わり扉を開いて中へ入るよう身体をずらしてから私は言った。
「今日の業務はたんまりとありますよ、という意味です。知りたい事は、凡そ知る事が出来るでしょう」
食堂の中に入れば、艦娘が整然と――という事も無く、ごちゃごちゃと雑多に賑わっていた。
まだ朝日が昇って数刻もしていないのに、賑やかさで言えば昼下がりを思わせる。
今日のメニューは何だろうか、とカウンタ―の上に立てかけられたホワイトボードを見れば、間宮か伊良湖が描いたであろう可愛らしいイラストと共に『本日のメニュー:五航戦にぎり』なんて文字が目に入った。ボードの隅に書かれた日付を見て、ああ、と声が出る。
「今日は金曜でしたか」
鼻息を洩らして言う私に、鳳翔は口元をおさえて笑みを零した。
「感覚を失うほど多忙、ですか」
「えぇ……まぁ……」
否定はしない。いや出来ない。
多忙? そんな一言で済ませられるならどれほど救われるか。
提督は鎮守府と泊地の管理のたった二つだと事もなげに言って業務にあたっているが、細分化されたそれらは二つどころか三つ、四つ……一人で処理しきれるようなものでは無い。大袈裟でも誇張でもなく、この鎮守府に在籍している艦娘全てに業務を割り振ってようやく均衡がとれるレベルである。もちろん、朝から晩までみっちりと働いて、だ。
タイムスケジュールの管理だけで言えばバラバラではあるが、提督は自らの業務に加えて非番の艦娘のもとへ赴いて世間話をする余裕さえ見せている。龍驤の言葉を借りれば、本当に化け物としか形容出来ない。
「五航戦にぎりって、瑞鶴さんはさっき、訓練場に行きましたよね?」
朝食後の業務を今この時だけは考えなくともいいようにと話題を変えた私に、カウンターでせっせとおにぎりを配っていた間宮が気づいて言う。
「あら、おはようございます大淀さん。これ、瑞鶴さんが塩昆布のおにぎりが食べたいって言ったから作ったんです。ただの塩こぶむすび、なんて名前ではつまらないかなあと思って、ね?」
「あー……そういう……」
間宮や伊良湖は給糧艦であるが故に気遣いの出来る艦娘であるというイメージはあったが、ここまで細やかなところまで頭を回すなんて、と感心した。それまでは食堂で美味しい食事を提供してくれるだけ――だけ、というのは物言いが悪いだろうか――のイメージだったものの、最近になってこういった小さな楽しみを作っては私たち艦娘の気力をも気遣ってくれる。
特に可愛らしいイラストはとある駆逐艦から学んでいるとかで、艦娘達からは概ね好評であるとか。
「だから瑞鶴が張り切っていたのですね」
鳳翔は笑みをより一層柔らかくして目を細めた。
「空母の皆さんは、訓練後に朝食を?」
配膳された五航戦にぎりとお茶を受け取って席について問えば、鳳翔は私の隣に腰を下ろして、えぇ、と肯定を示す。
「龍驤に負けていられない、と……皆張り切っています。訓練することが悪いわけではありませんから、支障のない程度にしなさいとは言っているのですけどね」
短くそう言って食事を始める鳳翔に、なるほど、と頷いたあとに両手を合わせてからおにぎりに手をつけた。
しかしすぐ、うん? と手が止まる。
「訓練は提督の指定した訓練とは別の訓練、ですよね」
「はい、そうですよ」
小動物のように頬を膨らませておにぎりを頬張る鳳翔は、それがどうしたのですか? といった風に私を見た。
私たち艦娘は毎日訓練をしている。それこそ軍人であるのだから当然の行為であり、日常の一端だ。常日頃から脅威に対して警戒を怠らず、全力を尽くせるよう、それ以上の能力を発揮できるように成長し続けなければならない。訓練と艦娘は切っても切れないものだ。
提督もそれを理解しているからこそ、毎日朝から昼までに演習を五戦、昼から夕方にかけて五戦、夜間に二戦の合計十二戦の演習表を作成なさっているのであろうと理解している。
朝から昼までの演習はマルキュウマルマルからヒトフタマルマルまでの三時間という短さで実施されるため、駆逐艦や潜水艦を中心とした小型艦で組まれており、ヒトヨンマルマルからヒトキュウマルマルの五時間の間は、軽巡、重巡、戦艦や空母といった中型から大型艦の演習が行われている。
朝から昼は短期決戦を想定した演習。
昼から夕方は複雑な戦略性を想定した演習。
そして夜は空母を除く全艦がまんべんなく夜戦に慣れるための演習。
まだたかだか数日しか行われていない訓練であるものの、一切の無駄を感じられない日程に、前鎮守府で感じていた疲労とは違う心地よいものが常に艦娘たちにあった。
いや、いやいや、問題はそこじゃない。
朝と夜の演習について空母は参加していないので、必然的に訓練の密度は高くなる。それ以外にも近海警備と訓練を並行するようにと初日からの言があるため、空母はみな朝から夕方までみっちりと発着艦を行っているはずなのだ。それとは別に訓練ともなれば、文字通り夜間以外は全て訓練していることになるのだが……。
「提督に見合う艦娘であるためには、これでも不足なくらいです」
「……」
ここ最近になって激しく、強く思う。
一致団結していると。
海上に出ることこそ少ないままの私は先程までの現実逃避している自分を恥じて、おにぎりを頬張ってお茶で流し込んだ。
手早く食事を済ませ、いち早く提督の業務を補佐せねば、と。
「私も負けていられませんね」
そう呟いた私に、鳳翔は「そんなことありません。今だけでもゆっくり食べてください」と言ってお茶のおかわりを注いでくれた。
「空母の中でも大淀さんはよく話題にあがるのですよ? あの提督の常任秘書艦を務められるのは大淀さんしかいないと」
「い、いや、そんな事は――」
私の知らぬところで話題になっているなんてと気恥ずかしさを感じているなか、鳳翔は続ける。
「着任二日目に実施された作戦もそうですが、機密保持のためとは言え何も説明されないまま決行された作戦で艦娘たちの意思疎通が滞りなくできたのは大淀さんの通信統括があってこそ……それに、初日から提督とともに行動している大淀さんでなければ提督の機微は察することが難しいでしょう。ほら、仕事中はずっと同じ表情をなさっている、ともっぱらの噂ですし」
「そう、でしょうか」
提督の表情が同じだなんて考えたこともなかった、と思いを馳せる。
女性に対しては形無しになり初々しいばかりの提督だが、そう言われてみれば確かに業務中は口を一文字に結びっぱなしな気もする。裏を返せば、提督は中四国の重要拠点である呉鎮守府を守るための盾である柱島を担っているのだから気の抜けないお立場であるが故のこととも考えられるが、果たして鳳翔の言うように機微を察するのが難しいほどだったろうか。
それもこれも、今日の業務の時にでも見れば分かることか、とおにぎりをもう一つ食べる。
「提督から下される任務についても、大淀さんでなければ即時通達は難しいだろう、とか、色々と話しています。勝ち負けではありませんが、大淀さんの仕事ぶりにも応えられるように訓練しているんです」
「そう言われては、もっと頑張るしかないじゃないですか」
思わず、ふふ、と落ちた笑い声。
本日の業務も、頑張らねば。
* * *
「失礼します――本日もよろしくお願いします、提督」
「よろしくお願いいたします。本日の補佐を担当します、鳳翔です」
朝食後、軽く談笑を済ませた私と鳳翔は提督室へとやってきた。時刻はマルナナサンマル。
提督は演習が始まる前にでも来てくれたら良いと仰るものの、初日を含め軍務に従事する提督を差し置いて自分達だけのんびりもしていられないと予定時刻の一時間前には提督室に来るようにしていた。
「……うむ。よろしく頼む」
しかし、これでもまだ遅い。
既に昨日の遠征報告書や資材の在庫の確認であろう書類がうずたかく積まれたデスクを見て、私はすぐさま提督のデスクの横に新たに設置された秘書艦専用デスクへ着席した。鳳翔も同じく、もう一つあるデスクへと着席する。
本日が初の秘書艦業務となる鳳翔はここから驚きの連続となるだろう。
もしくは、呆れの連続か。
「本日の――」
私が口を開くと同時に、提督はデスクに積まれた書類の中からさっと数枚を抜き出して私に差し出す。
ぽかんとする鳳翔だが、既に私はこのやり取りを繰り返しているので動じない。
「今日の演習は潜水艦隊が最初だったな。従来の演習用魚雷では実戦的では無いとの意見もあったので明石に改良してもらったものを用意してある。既に妖精によって配備されているが、報告書とは別に使用感を聞きたいとのことだ。朝の演習後、入渠前にでも明石に報告しておくようイムヤ達に伝達を頼む」
「っは。了解しました」
「あ、あのっ、私は……」
小声で仕事を求めた鳳翔に気づいた提督が顔を上げ、ああ、と声を紡いだ。
「今日が初めての秘書業務だったか、すまない。では……そうだな……」
鳳翔の驚愕、第一となるであろう一言。
「ある程度は済んでいるのでな。次の仕事はあきつ丸の報告を受けることなんだが、それまでに鳳翔の話でも聞かせてもらおうか」
「えっ……えぇっ!?」
目を見開いて、でも、デスクには書類がまだ、ともごもご言った鳳翔に対して、提督は続ける。
「これは気にするな。私の仕事はお前たちの話を聞いて運営を改善し続けることだ。ということは、鳳翔の仕事は私に気に入らないことを正直に話すこととなる。何か異論はあるか?」
秘書艦――多くは提督の業務を補佐することであると認識されている仕事だが、この鎮守府、この提督の前では意味を変える。
「て、提督に異論など! 滅相も、ありません、が……でも、お話なんて、何のお話をすれば……」
「気負う事は無い。気に入らないことが無ければそれに越したことは無いのだからな。戦場に立つお前たちには我慢ばかりを強いているのだから、鎮守府の中でくらい少し我儘を言っても構わん、というだけのことだ。過日の作戦においては右も左も分からない私を支えてくれたお前たちへの褒賞も兼ねている、遠慮はいらんぞ」
提督に手渡された演習表に組まれている潜水艦たちへ裏で通信をしつつ、横目で提督と鳳翔のやり取りを見る。
鳳翔は「私は鎮守府に待機していただけで何もしていませんので、そんな」などと胸の前で手を振り、首をも横に振って見せているが、提督の困ったような笑みにたじたじの様子だ。
「お前たちが鎮守府に待機しているという事実こそ、私を安心させていたのだ。それも立派な任務だから、何でもいいので話を聞かせてくれないか? もちろん、話したくないのであれば無理強いはしない」
「……うぅ」
食堂では提督の機微を察しづらいと言った鳳翔だったが、今しがた目の前にいらっしゃる提督の困ったような、気遣うような笑みを見て混乱甚だしい様子を見せた。
私に助けを求めるように視線を投げかけてくるのに気づいたものの、胸中で『鳳翔さん、ごめんなさい……』と謝罪しつつ、ふい、と目を逸らす。
申し訳ないが、提督から手渡された演習の予定表にびっしりと書き込まれている艦娘たちの装備を通信にて本人たちに相違ないか確認しなければならない上に、それが五組も控えている。提督が間違えるわけも無いのだが、使用予定の演習用弾薬の量もきっちりと確認しておかなければならないのだ。
これだけで溜息が出てしまいそうになるのに、提督はこの他に昼、夕、夜全ての演習組の確認を済ませているというのだから、やはり秘書艦二人では足りない……と頭を抱えてしまう。
とは言え、何人も室内に詰め込んで仕事を手伝わせてくれなどと言おうものならば、逆効果にしかならないのは明々白々。それを理解してか、提督も出来る限り気負わせないようにするためか、妖精をいくらか連れて仕事を手伝ってもらっているようだった。可愛い。 ……ん、んんっ、何でもない。
「提督はただでさえお忙しい身ですし、私も困ったことは何もありませんから、お気遣いだけいただきます」
「ふむ。しかしだな……」
二の句を継ぐ前に、提督の前にふわふわと飛んできた妖精の一人が身振り手振りで提督に何かを訴えているのが目に入った。鳳翔も私も何事かと顔を向けるも、提督は「なっ……わ、わかった、わかったから、落ち着け……まったく」と呆れ顔で机の引き出しを開き、何かを取り出す。
「提督……そちらは……?」
「うん? あぁ、これは金平糖だ。伊良湖に用意してもらったのだがな、妖精たちが好んで食べるので、仕事を手伝ってもらう駄賃がわりだ」
「駄賃……」
妖精と提督の顔を交互に見る鳳翔。私の目も同じように動いた。
数日のうちに見たことの無かった妖精と提督のやり取りは、あまりにも――
「~~~? ~~~?」
「ダメだ。それは朝食分、残りは昼にな」
「~~~!」
一人の妖精が提督の机に降り立ち、ぴょこぴょこと小さな両腕を振り回して抗議するよう地団太を踏む。
すると、その妖精に加勢するようにして棚の上から、はたまた半分開かれた執務室の窓から飛び込んできた妖精たちも同じように提督の机の上に並び、ぴゃあぴゃあと聞こえてきそうな抗議活動を始めてしまった。
「やめないか! 今は大淀も鳳翔も来て――」
「~~~!!」
妖精の存在だけでも珍しいというのに、声の聞こえない私たちにさえ伝わってきそうなほどの信頼。そして、甘え。
艦の魂とも呼ばれる妖精があそこまで人間に懐くことがあろうか? 私の知識にはそんなもの無かった。
「あー……わかった。その代わり、一人一つだ。いいな? それを食べたら、仕事を手伝ってくれ。約束出来るな?」
「!!」
提督も提督で――また、甘い人だ。
妖精たちは喜びに最敬礼をしつつ綺麗に列を成し、一つ一つ、提督から手渡しで受け取ると、即座にキャビネットから書類を持ってきたり、提督の使っていたペンを交換したりと働き始める。
「ふぅ。失礼した。それで、だ。気遣いだけとは言わず、鳳翔もなにか……」
「ふっ……ふふ、ふふふっ」
「むっ、な、なんだ鳳翔。何がおかしい」
「いえ、すみません。でも、ふふふっ、てっきり、提督はとても、厳しいお方なのかと」
「そのようなことは、無いと思うが……」
「はい。今のでよくわかりました。ふふっ」
妖精に囲まれて腕だけが別の生き物のように動き続けている提督の姿を見て微笑む鳳翔は、提督の次に私を見て、全てを察して言葉を紡いだ。
「機密性の保持。同僚とさえ話題に出さない秘書艦制度……これは、提督のお考えを酌んで、大淀さんが制定したのですね?」
「……流石、空母の母、ですね」
提督のただ一つのやり取りを見ただけで察することの出来た鳳翔は、空母のみなが言っていたらしき、大淀さんでなければ務まらない、などというような枠組みに入るのではと思わせた。
そう、この秘書艦制度はただのポーズである。
名目上、というやつで、本来の目的は――提督による聞き取り調査、及びカウンセリングなのだ。
この場で起こったこと、話したことは守秘義務によって守られる。提督が椅子から立ち上がらずとも艦娘が守られる、提督が初日より考案なさっていたであろう柱島鎮守府における最重要軍務。
その時、窺っていたかの如きタイミングで執務室の扉がノックされる。
提督の「入れ」という声と共に入室してきたのは――この最重要軍務の中核を担う艦娘――
「おはようございます、少佐殿。っと……既に到着しているとは。おはようございます、大淀殿、鳳翔殿」
――白い肌と対照的な真っ黒な軍服に身を包む、あきつ丸だった。
彼女ともう一人、軽巡洋艦川内は艦娘たちの安全を裏から守る柱である。
秘匿名、暁――名づけに迷ったものだとあきつ丸がごちていたが、提督から提案してもらった名をそのまま使っているらしい、艦娘保全部隊だ。
「空母各員は訓練場にて確認しました。駆逐各員は現在食堂にて朝食を……軽巡、重巡は演習参加艦以外、全員が自室にいる模様であります。戦艦各員は空母と同じく、訓練場を使用中であります」
「……うむ」
鳳翔はあきつ丸の報告を聞きながら、どんどんと頭の中で状況と予測を繋げていることだろう。
その全てが寸分の狂い無く繋がれば、それは確信となる。
「さ、て……少佐殿。鳳翔殿は何と?」
「あ、いや、特に、問題は無いとのことだ」
鳳翔を見つめた提督の言葉に、あきつ丸の目が動く。
「で、ありますか。ならば良いのでありますが……鳳翔殿、本当に、何もないので?」
守秘義務、機密性の高さから、常任秘書の私とて知らないことの多いこの任務。全てを知っているのは提督ただお一人であり、私よりも多くを知るあきつ丸でさえ全ては知らないのだろう。
しかし、それでも不審は抱かない。提督の一挙手一投足には意味があるからだ。
「はい。何もありませんよ。この鎮守府で粉骨砕身し、戦争に勝利すべく前進あるのみです」
「……ほう」
あきつ丸は鳳翔をじっと見た後、提督をちらりと見る。
提督はあきつ丸の視線を受け、一瞬、悲しそうな表情を見せた。それも、すぐに真顔となったが、鳳翔は提督の一瞬の表情に気づいたのだろう。ぐっと喉を詰まらせたように声を洩らしてしまう。
歴戦の空母の中でも古参も古参たる鳳翔が、動揺している。
提督の為せる人心掌握の術は、たった一つの表情でこうも容易く鳳翔を崩すのか、と息を呑んだ。
空気が歪む中、あきつ丸が持ってきていた薄い鞄から一枚の紙切れを取り出した。
何かの書類だろうか? と考えている私の耳に、鳳翔の「そ、それはっ……何故、あきつ丸さんが……!」との驚愕の声が飛び込む。
「確かにこれを入手したのは自分でありますが。自分はこれが一体どういう意味を持つもので、何が記されているものなのか、知りません。少佐殿に誓って中身も見ておりません。ですが、鳳翔殿はこれを何か知っている様子でありますなぁ……?」
「……っ」
あきつ丸は決して敵などでは無い。が……笑みが、どうも、怪しすぎるというか、怖いというか……。
提督は軍帽を目深に被りなおし、書類に目を落としてさっさと手を動かし始めてしまう。
まるで、お前が決めて良いのだと鳳翔の背中を押すように。
「何も、無いというのは、う、嘘です……! 提督……どうしてあれを、ご存じなのですか……!」
あきつ丸と、あきつ丸が持つ紙切れを指さして震える声で提督に言う。
提督は書類から顔を上げず「私は何も知らん」と短く言った後に、かつん、とペンを置いて右手で額をおさえ、下を向いたまま小さな声で問うた。
「鳳翔にとって大事なものなのか?」
「……はい」
「そうか……あきつ丸」
「っは。では、鳳翔殿……もう二度と、なくさぬよう」
デスクまで歩んできたあきつ丸から座ったまま紙切れを受け取った鳳翔は、はらりと裏返した。
それは、一枚の写真だった。ただの、写真だ。
横目に見えたそれには、鳳翔らしき女性と、もう一人……軍服をまとう男が一人。
「あ、ぁ……あぁっ……どうし、て、提督、どうして、これを、あきつ丸さん、どうして、どこで、知って……」
鳳翔の目からぽろぽろと涙が零れはじめ、押し殺したような泣き声が室内にこだまする。
あきつ丸はすぐさま執務室の扉の鍵をかけ、そこから数分、ただ沈黙した。
「うっ、うぅぅぅっ……どこで、どうやって見つけて……もう、何も、無くなったかと……全て、無くなってしまったかと……っ」
数分経って、未だ泣き止めない鳳翔の口から洩れた言葉に、あきつ丸は追撃でもするかのように、また鞄から小さな箱を取り出す。
開かず、ことん、と鳳翔のデスクに置かれたそれを見て、鳳翔は震える両手を伸ばし、開く。
ここまで見て察せないほど私も愚かでは無い。それは――指輪だった。
鳳翔は恐らく、ここに来る前に想い人がおり、愛の約束を交わしたのだろう。しかし、悲しいかな、戦火に気遣いなど無い。感動も、感嘆も、情緒も何もない。
戦争がもたらすものは、ただ一つ、悲しみだけである。
「……鳳翔殿。もう、大丈夫であります」
あきつ丸は軍帽を脱ぎ、胸に抱いて鳳翔を見ながら言う。
「途方もない道でありましょうが、我々は同じ釜の飯を食った仲間であります。たとえ綱渡りになろうと、身を削ごうとも、仲間の幸福のために戦うことに厭いはありません。故に、どうか……心を捨てぬよう、信念と復讐を違えぬよう、お願い申し上げる」
絶えず笑みを浮かべ、時に鬼となって海上を駆ける空母が母――軽空母、鳳翔。
その内側は、深海棲艦のみならず、軍部さえも味方してくれないという現実に壊れかけた心を抱える、一人の艦娘。
私の頭に浮かぶのは、鳳翔の来歴だった。
前鎮守府にて深海棲艦の襲撃に遭い、半壊まで追いやられるという悲劇を生き抜いた艦娘。奇跡的にも戦う術を持つ艦娘たちに轟沈は出なかったものの、不可思議なことに、そこにいた提督だけが命を落としたという。みな一様に深海棲艦が攻め込んできたのだと口を揃えて言うものの、たった一人、深海棲艦などでは無かったと言った艦娘がいた。それが、鳳翔である。
調査をしても深海棲艦が攻めてきた痕跡以外は何も見つからなかったの一点張りで、特警の調査はそれ以上行われず、妄言を吐き散らすばかりの鳳翔は戦意に問題アリとして除名となった。
だが、いくら性能が劣ろうとも、経験を持つ艦娘をおいそれと処分も出来ず、この柱島鎮守府に閉じ込めるためにと送られたという。後半は私見も交じっているが……この状況を見れば、あながち間違いでは無いのだろう。
あきつ丸の言葉からして――鳳翔は――
「鳳翔。何か、したいことはあるか?」
写真と指輪を抱きしめたままに泣き続ける鳳翔は、提督の声にはっとして顔を上げた。
それから数十秒、提督を見つめる。
私たちから見た提督は書類にかじりついたまま顔も上げず、ただ静かに執務をし続けていた。
「したい、こ、と……」
「何でもいい。したい事があれば、尽力しよう。私にできることであれば、何でも言え」
提督は、選択を迫った。鳳翔にとって究極かつ、苦痛の選択を。
全てを知った上で言っている。そして――我が手を存分に使っても良いとも。
それらは悪魔のような囁きにも聞こえたが、一方で、まるで両腕を広げて止めるかのような言葉でもあるように聞こえた。
「少佐殿……お言葉ですが――」
「なんだ」
瞬時、あきつ丸の言葉を両断する声。さしものあきつ丸であれど言葉を失い、いえ、失礼しました、と口を閉じた。
あきつ丸が鳳翔を見る。
鳳翔は迷うように、提督にこう言った。
「もし……全てを巻き込んでも、成したいと言ったら……してくださるのですか……」
「何をだ」
提督はそこでやっと顔を上げて、まっすぐとした瞳で鳳翔を見た。
私がいつしか船上で見た暗い暗い水底のような瞳ではなく、さざなみの音とともに昇る暁を彷彿とさせる光をたたえた瞳で。
「っ……何故そのような目が出来るのですっ!」
「エェッ!? 鳳翔、落ち着――」
「このようなことをして! 私に、この、私にまだ選択を迫るのですか! 今度は何を失えというのですか! この身を海に沈めろとでも言うのですか!」
「なっ……」
提督は目を見開いた。次の瞬間には、鳳翔の言葉を遮り、びりびりとした大声を上げた。
「あの人は……あの人は私に生きて良いと教えてくれたのです! だからこうして、心を殺してでも生きようと、している、のに――」
「――誰が沈めなどと言った!!」
「っ」
提督はデスクをばんと叩いて立ち上がり、デスクを回り込んで鳳翔の前に行こうと動いた。その途中、腰をデスクにぶつけ、書類が音を立てて崩れ落ちる。
しかし気にすることもなく鳳翔の前までやってくると、正面から両肩を掴んで言う。
「鳳翔、泣いてもいい、だが聞け!」
「やっ……!」
身をよじって提督の瞳から逃れようとする鳳翔だったが、再び「聞け!」と言われ、固まる。
「お前は何を求めているんだ? 泣くほどに難しいことを求めているのか? 沈んでしまいそうなほどに困難なことなのか?」
……厳しすぎる。そしてやはり、優しすぎる提督の言葉。
何故言わせなければならないのか。何故自覚させなければならないのか。私には理解しがたい。きっと鳳翔は想い人のために復讐したいという暗く恐ろしい気持ちを持っている。その火種となった海軍、ひいては深海棲艦までをも巻き込んで滅茶苦茶にしてしまいたいという破滅的願望を持っているに違いない。
提督はその綱の上で、敢えてそれを断ち切ろうとしている。お前が望むのならば、どこまでも一緒に落ちてやろう、と。
背筋に汗が伝う。
ぴりりとした空気の中からでも、提督と鳳翔の背後、あきつ丸から明らかな警戒が見て取れた。
何かあらば、仲間を手にかけることになっても提督を守ろうとするあきつ丸の雰囲気。
「提督……どうして……私を、追い詰めるのですか……」
「追い詰めてなどいない! 私はお前の力になりたいのだ! 望みがあれば、それを叶えるために尽力する、ただそれだけだ! それがどうして沈む沈まないの話になる? 難しい話ではないだろう!?」
提督はゆっくりと鳳翔の肩から手を離し、目頭を指でおさえて溜息を吐き出す。
すまん、と言って背を向け、床に落ちた書類を拾い上げながら話した。
「……世界で初めて、最初から空母として設計され、世界で一番最初に竣工した。覚えているか、鳳翔」
「……」
「人々はお前の小さな身体に、全てを詰め込んだ。希望を、夢を、想いを。そうしてそれらを一身に背負い、役割を終えてたった一人で、静かに解体されただろう」
提督が話しているのは、空母として小型も小型である鳳翔が艦娘となる前のこと。
比喩でも何でもなく、提督の頭脳には艦娘のみならず、艦全ての情報が叩きこまれているのか。
ただ、静かに耳を傾ける。驚きこそすれ、恐れこそすれ、私は提督の全てを信じると決めた時から、ただお傍でお力になるのだと決めたのだ。故に、私は口を閉ざしたまま、仕事を続ける。
場違いに響く、私が書類にペンを走らせる音。
「そんな、昔のこと、など……」
「みなを守り、誰一人おいていかれぬようにと、お前はずっと戦い続けただろう。たった一人となってもだ」
その次、提督から零れ落ちた言葉に、私はほんの少し、本当にほんの少しだけ嫉妬してしまう。
「なのに……お前は、私を置いていくつもりか」
「ていと、く……?」
「私を置いて、一人で沈もうと、そう言うのだな」
「っ……私はっ、私にはっ……!」
「私は無力だ。そして無能だ。だが、お前たちを支えるためならばなんだってするつもりだ。私の力不足が故にお前が沈みたいなどと言ったのならば……私は、どうすればいい」
「っ……! ち、違っ……私はそんな意味で言ったのでは――!」
「一蓮托生なのだ。お前も、私も。お前の望みは私の望みであり、仕事であり、全てだ。だから、教えてくれないか。鳳翔、お前が何を求めているのか」
私の全て……か……。
かりり、とペンが動きを止めてしまう。
「……考えさせ……て……いや、考えても、仕方がない、のでしょうね」
鳳翔は力なく椅子に腰を下ろすと、あきつ丸を見て、私を見て、最後に提督を見つめ、小さな唇から声を紡いだ。
「誰も、いなくなって欲しくないのです……誰一人も、欠けて欲しくないのです……それが、それだけが、私の望みです。何があっても、守り通してくださると、ここで言えますか、提督」
うつろな目で言う鳳翔に、提督は拾った書類をまとめてデスクへ置きなおして振り返り――ぽかんとした顔を向け、言う。
「そ……――」
それは難しい。これは、戦争だ。味方がどこにいるかさえ、不明瞭な。
一瞬だけ浮かび上がった予測は、簡単に振り払われた。
「――……そんなの、当たり前だが……?」
「え……?」
今度は鳳翔がぽかんとした表情を返した。
「私の仕事はお前たちを守ることなのだから、当然だろう……? 誰かが欠けるなど有り得んが……。い、いやいや、いや、な? 鳳翔、私はな? お前に褒美を与えようと、そういう話をしているのだ。別に当たり前の事を求められても困るだろう。無論、私が無能であってお前たちに不安を与えているのは承知している。しかしだ、私の力不足が故にお前が自分から沈みたいなどと言われては私とて立つ瀬が無いではないか。せめて私が提督らしくあらんために、何かを与えさせてくれと言っているだけだ」
……こういう人なのだ、提督は。私は安堵とも呆れともつかぬ鼻息を洩らした。
ぐっ、と変なうめき声をあげた提督に一瞬だけ顔を上げるものの、提督と目があった瞬間、大丈夫だろう、とまた視線を書類へ落とす。
「……こ、ここには私だけでなく、大淀もいる。あきつ丸も、その他にも大勢いる。お前は一人じゃないのだ。私もな。私に出来ないことでも、全員に頭を下げてでも望みは叶えてやる。だから……」
大淀もいる、という所に妙に力を込めて言う提督に、ほんの少しだけ笑みが零れそうになるも、堪える。
「……罪なお人ですね、提督」
鳳翔が囁くようにそう言って、手に持った写真と指輪を抱きしめたまま、提督を見つめる。
「全てを知っていてもなお、あなたは私に沈むなと、そう仰るのでしょう」
「えっ、あっ、お、ぉぉん……そう、だが……? え……?」
「わかりました」
細指で赤くなった目を拭い、鳳翔は写真と指輪を机に置く。
「でも、私はこの人の事を忘れたりなどできません」
「忘れなくてもいいと思うが……」
「……男として、こう、そういうのは嫌、なのでは?」
「な、なんで男としての話になるのだ。お前が忘れたくないものを忘れろなど、そんな無茶な話があるか。お前の大切なものを守るのも、私の仕事だ」
その一言がまた引き金となったように、せっかく拭ったというのに、鳳翔の目から水滴が生まれる。
「し、しご、となんて、酷い言い方をする人、ですね……」
「え!? あっ、いや、うーん……! し、仕事だから守りたいという意味もあるし! わ、私個人としても守るべきだからと! そういう意味で! な!? す、すすすすまない。別に仕事だからしかたなくということではなくだな……!」
……私は何を見せられているのだろうか。いや、しかし、提督は『あの日、あの夜』に全ての艦娘に対して死ぬまで面倒を見ると言ったのだから、まぁ、いいのだろうか……。
それでも、私やあきつ丸のいる前で堂々と……はぁ……。
いつもならばすぐさま思い直し仕事に取り掛かるところだったが、私の手は止まったまま中々動いてくれなかった。
提督を呆れた目で見つめてしまい、目が合った提督は慌てて言葉を口にする。
「あっ、まっ……もちろん仕事もきちんとするつもりだぞ!? 大淀の負担は極力少なくするつもりだ!」
「提督……私が言いたいのはそういう事では無く……はぁ、もういいです」
この鎮守府に来るまで揺らがなかった感情が、こうも激しく揺さぶられるなんて、と戸惑いつつ、私は鳳翔を見る。
「解決の方向へむかえそうですね?」
様々な感情の渦巻く声で言えば、鳳翔は写真を大切そうに指先で撫でながら頷いた。
「……はい。少しずつでも、前に、進めそうです。今度はちゃんと目を開いて」
「それは良かった」
「ところで――正妻は、大淀さんになるのでしょうか?」
唐突に鳳翔が言うものだから、私は「げふっ!」と変な咳きを出す。あきつ丸は警戒の雰囲気を消し、ただ、くつくつと笑っていた。
「せっ、せいさっ……ま、まぁ? そうですね? わ、私は常任秘書で、常に提督のお傍にいなければならないですから?」
混乱してそう言えば、鳳翔は私に会釈し、今度は涙に濡れそぼった瞳のまま、しかし前を見て笑みを浮かべて、提督にも頭を下げた。
「今後とも、よろしくお願いします、提督……いえ、この場合は、あなた、でしょうか?」
「ほ、鳳翔? え、いやっ、ま、いま正妻と……?」
「? はい。大淀さんが、提督の正妻、では……?」
「まっ!? えっ、待て、大淀、す、すまない、待ってくれ、私に至らないところがあったのならば直接言ってくれたら直すから、落ち着いてくれ。正妻などと……」
正妻を決めたくない、皆を平等に扱いたいということを言いたいのか、提督はあーだこーだと言い訳していたが、そう言えば私は褒美をもらっていないなと思い、ちらりとあきつ丸たちを見た。
二人はニッコリと笑って頷く。
「提督……これから一人一人に褒美を与えると、そう認識しておりますが……私にも、いただけるのですよね?」
「それはもちろんだ!」
「では……正妻で」
「ぐっ、ぬぅぅ……」
一度言った事は覆さない。そんな性格の提督を逆手にとって……とは、言い方が悪いか。
それでも、嫉妬だのなんだのという煩わしい感情をともなった騒がしい日常が、これから先に多く待っているのだと考えると、我儘の一つも言ってみたくなるのだった。
提督は私達を見回してから、諦めたかのように椅子に座り、軍帽を深く被った。
「手加減はしてくれ……」
だいぶ長くなってしまいました……。
たくさんの方々から様々な評価をいただき、嬉しい限りです。
感想も全てに目を通しておりますが、返信が中々できず申し訳ありません。ですが物凄く嬉しいです!
不定期更新ながら、それでもこの作品を読んでくださっている方々に感謝を……!
拙い文章で読みにくいところもあると思いますが、温かい目で見ていただければ幸いです……。