柱島泊地備忘録   作:まちた

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四十五話 過【元帥side】

 大本営から呉までの数時間、移動中の車内は井之上がぽつぽつと話しては山元が短い相槌を打ち聞くという静かなもので、運転手をしている軍服を纏った妙齢の女性は呉鎮守府に到着するまで一切口を開かなかった。

 

「戻るのは怖いか」

 

「正直に申しますと、少し」

 

「血反吐を散らす訓練と元の鞘とであらば、どちらを選べば楽であろうと考えておる」

 

「それは……」

 

「っくく、前者じゃろうて。顔に出とる」

 

「……」

 

 傍から見れば井之上が部下を虐めているようだが、その実、井之上は彼を労わっていた。

 山元が大佐になる前、艦娘という存在が出現し始めた頃、彼は《反対派》などでは無かったと知っているからだ。

 

 それがどのようにして反対派となってしまったのかを知る事になったのは、山元が呉を握って既に手を出せなくなってからだった。

 

「勝てぬ勝てぬと延命を望んだお前が、今になってどうして立ち上がろうと考え直したのか……」

 

「……」

 

「やはり、海原か」

 

「っは」

 

 移送され、一度は大佐という立場を失いかけた山元に対する何度目かの同じ問い。

 井之上の言に山元はゆっくりと手を組み、助手席からちらりとバックミラーを見た。

 ミラー越しに目が合った井之上は不敵な笑みを浮かべて見せたが、山元にはどうにも、申し訳なさそうにも見えて不思議だった。

 

「お前は、海原に会ったこと無かっただろう」

 

「はい。柱島が初めてです」

 

「一目見て手のひらを返すほどの男だったか」

 

「いえ……」

 

「うん? 何を否定する。お前は現にこうしてワシに手綱を握らせたじゃろうに」

 

「手のひらを返すほども、無かったのです」

 

 山元はミラー越しに井之上と視線をかち合わせていたが、ふいに前を見た。

 高速道路を駆け抜ける一定の速度の中、篭り切ったごうごうとした音に混じる声。

 

「井之上元帥は紛うことなき上官であります。実権で言わば最高指揮官であり……私は井之上元帥のお言葉ならば如何様な命令をも実行いたしましょう。しかしながら、私の手綱を握っておられるのは――海原少佐であります」

 

「ほぉ……目下の少佐がお前を握っておると。くっく、良い冗談を言えるくらいにはなったか」

 

 井之上の脳裏に浮かんだのは一種の陶酔だった。

 きっと彼は海原という男の勢いに、力強さに、底抜けの誠実さに胸を撃ち抜かれたのだろうと察する。

 自らの立場を顧みても山元の言動は軍において非常識と言わざるを得ず、はっきり言って有り得ない。

 さりとて今は群衆の前にあらず、運転手を除き男二人の空間である故に、あえてそれを咎めはしなかった。それよりも何よりも、海軍が再編成され、その中でもずば抜けて能力の高かった男が深海棲艦にズタボロにされたプライドを取り戻したことが喜ばしく、喉に引っかかるような笑い声が漏れるのだった。

 

 井之上は座席に放り投げていた鞄に手を突っ込んでいくつかの紙切れを取り出すと、それを眺めながら思い出を語るように話す。

 

「自衛隊の頃は若きにして一等海佐。海将補も見えると言われたお前が海軍として再編され大佐になった時は冗談のように笑ったが――今は……《らしい》顔になっておる」

 

「過分なお言葉、光栄であります」

 

「慇懃な奴め」

 

 冗談交じりに嫌味を返す井之上。高速道路を滑るように走る車が呉に差し掛かった頃、山元はようやくぎこちない笑みを浮かべた。

 

 

* * *

 

 

 呉鎮守府に到着すると、山元はたったの数日しか離れていなかったというのに感慨深げに正門から向こうにある建物を見つめ、井之上は久しぶりの呉鎮守府に変わらんな、と洩らす。

 

 鎮守府にほど近い場所に陸軍の基地もあるため、反対派と疑わしい加担者を探るのも難しいとして大規模な異動が起こった。呉鎮守府に至っては、艦娘をおいそれと大量異動出来ないため言わずもがな。

 現在は各地から集められた人員で再構成された憲兵隊が門の前に立っているが、山元がいた時よりも物々しい雰囲気が漂っていた。

 

 車が停まると、門に立っていた二人の憲兵が近づいてくるも、すぐさま見当がついた様子で敬礼した。

 運転席から降りた女は後部座席のドアを外からそっと開く。鞄を引っ掴んでのっそりと井之上が車を降りると、憲兵は緊張をあらわにして全身を強張らせた。

 

「暑い中ご苦労。執務室まで願えるか」

 

「「はッ!」」

 

 きびきびとした動きで正門を抜けていく憲兵たちに連れられ、井之上一行は執務室へと歩む。

 鎮守府内に人気は殆ど無く、遠目に艦娘らしき影がいくらか見えただけで無人と言っても良い様相だった。

 海原から連絡を受け数時間――今は柱島から南方の海域へ救援が向かっているはずだが、作戦行動中とは言えどよその鎮守府をここまで統率出来るのか? と疑問が浮かぶ。

 

 通りすがりに艦娘と直接遇うような事も無く、井之上達はあっさりと執務室の前へと到着した。

 

 憲兵の一人が扉をノックすると、電話越しでしか聞いたことの無かった声が返ってくる。

 

「入れ」

 

 山元の全身が一気に硬直した。井之上はそれにあてられることも無く、堂々と扉が開かれるのを待つ。

 憲兵が大きな声で「失礼いたします」と扉が開かれた時――山元の喉がごくりと鳴った。

 

「大本営より井之上元帥、山元大佐がお見えになられました!」

 

「うむ」

 

 うむ、だと? 井之上は訝しむ。

 執務室に入った直後、二人は瞠目した。ついてきていた無反応を極めていた妙齢の女もまた、息を吞む。

 

 提督として椅子に座っている細身の男。目深に被った軍帽から覗く眼光は海図に注がれており、その横ではまるで魔法のようにペンがひとりでに踊っている。

 否、常人の目には見えない妖精という存在がそこにあるのだろうと知識で理解するも、作戦行動のさなかで目の当たりにするのは井之上も初めての経験だった。

 

 山元は口を半開きにして驚愕していた。胸中で、そんな数の妖精、この鎮守府には存在していなかったはずなのに、と。

 

 不眠不休で戦い続けている兵士と思えないすらりとした体躯に、少しこけた頬。その頬に走る一筋の赤い線は、一見して銃創には見えなかったが、室内に残る硝煙の匂いが意味を頭に叩き込んでくる。

 それら全てを跳ねのける不屈の精神が宿っていると確信させる目の光は、並の兵士、いや、粒ぞろいの特殊部隊をもってしても委縮させるに十二分な威を醸していた。

 兵士として戦えるのかと不安しか浮かばなかった井之上は、電話で飯を食え、飯を食えと再三言っていたが、前言を撤回しても構わんだろうと眉をひそめる。

 

 ――彼に、隙というものが見当たらなかった。

 

 戦争の中で武を語るのはお門違いかもしれないが、例えるならば井之上も山元も剛である。

 強さこそなければ何者をも守れぬと己を苛め抜いて戦争に耐え得る身体を作り上げた。そして精神を養い、最後まで戦い抜く気合を手にした。

 

 それを彼は、たった一言さえ無くして井之上と山元に理解させた。

 

 狂気を感じるまでに愚直さ。剛でもなく、柔でもない。

 

 正義と正義のぶつかりあいである戦争の中で異質と思しきものこそが、彼にはあった。

 

「ご足労いただき、ありがとうございます。井之上元帥」

 

 車から降りた時の井之上と同じくゆったりと、堂々と椅子から立ち上がった海原は軍帽を脱いで頭を下げた。

 山元は慌てて敬礼する。井之上も思わず、敬礼をしていた。

 海原は頭を上げると、敬礼している二人をしばし見つめ、厳かに敬礼をしてみせた。

 

 三人が腕を下ろす。そうしてようやく、井之上と山元、そして付き人の女は海原以外の人物が室内にいることに気が付いたのだった。

 

 壁際には井之上のもとで世話をしていたあきつ丸が。そして隣に目を伏せて直立不動の艦娘が一人。横須賀鎮守府の切り込み隊長とも呼ばれた那珂という軽巡洋艦の姉と呼ぶべき存在の川内。そして、横須賀に所属している艦娘とは別の、不安そうな表情を浮かべて目を泳がせる呉鎮守府所属の那珂に、井之上と山元の部下にあたる清水中佐。そして、憲兵隊隊長の松岡。

 

 海原という存在があまりに強大で、異質で、この面々に気づけなかったなど有り得ようものか。否。否である。

 井之上は込み上げてくる笑いを抑え込みながらも、応接用のソファへと歩み寄り、腰を下ろした。それから、山元へ座れと顎をしゃくると、失礼しますという声とともに山元が正面へ座る。

 

 海原は机に広げられた海図の上で踊るペンに向かって「あきつ丸の報告の通りに書き込んでくれ」と言ってから井之上の正面、山元の隣に腰を下ろした。

 

「まずは作戦の進捗を聞かせてくれるか」

 

 井之上が低い声で言う。態と威圧を込めて。

 

 南方海域へたったの二隻で遠征に向かわされた艦娘達。付近にある基地、泊地で討ち漏らされた深海棲艦が漂う地獄のような場所に艦隊を向かわせた男が、この数時間で何を知り得て、察し、事を進めているのかを確かめるべく。

 誰かの喉が、またごくりと鳴った。

 

 井之上の鋭い眼光に射抜かれた海原だが、一切の動揺は見せず。

 ああ、と洩らして立ち上がると、机に広げられた海図を手に取り、戻ってくる。

 

「えー……現在、柱島鎮守府から二艦隊、呉鎮守府から一艦隊の計三艦隊を向かわせています。二隻の捜索のために先行させている第一艦隊の島風という駆逐艦からの報告を待っている最中です」

 

「それで?」

 

 あえて切り込む。

 単純明快、簡潔に状況を説明した海原を試すような物言いを隠すことなく口にした井之上に、山元はおろか、室内の全員の空気が張り詰めた。

 

 では、海原は?

 

 やはり微動だにせず、井之上の思惑など歯牙にもかけない口振りで言う。

 

「帰還中にも危険が生じる可能性がありますので、島風を追跡させている第一、第二艦隊には深海棲艦の撃滅を指示しています。島風は接敵しても交戦しないように言ってますので、発見した深海棲艦の種別を後続に報告させ、柱島にいる大淀を通して全艦と共有させ、対応しています。目標地点に到達する前に第一と第二を追わせている補給艦隊を合流させ、補給後に待機……島風の捜索次第で、発見後には二隻は深海棲艦撃滅済みの航路で呉へ戻って来られるかと」

 

「……これは、海原、お前が考えた作戦か?」

 

 もう井之上の中に懐疑心は欠片も残っておらず、あるのはただ、興味。

 かつての《海原》とここにいる《海原》は同じ名をした違う男だと分かっているのに、どうしても重ねてしまう。山元や清水はこの男を間違いなく元海軍大将の海原鎮だと思っているだろうが、井之上は違う。

 

 故に、全身が粟立つ程に興味が湧いた。

 

 どこで訓練を受けたのか。どこで学び、戦場を知ったのか。

 一切不明の男、海原鎮。

 

「はい」

 

 短い返答に、井之上は心して問う。

 

「作戦終了の目途はどうだ」

 

「呉所属の二隻が出て半日以上経過していますので、それと同じか、もう少し掛かるかと思います」

 

「作戦行動中に話すべきではないかもしれんが、少し時間を貰いたい」

 

「は、はぁ……それは、もちろんですが……」

 

 己の立場を利用して邪魔をしているような気がしない事も無いなとバツが悪かったが、一方でこれは海原の立場を明確にすべく必要な事なのだと心の内で均衡を取りながら、井之上は海原と山元以外の退室を求めた。

 清水中佐は松岡隊長に睨まれており、逃げ出すような馬鹿な真似はしないだろうと思われるものの、艦娘達は海原を気にかけているようで、中々部屋から出て行こうとしない。

 

 井之上が「全員、別室で待機していろ」と再度声を上げた時、ようやく退室していく。

 

 全員が出て行ったのを見届けた後、海原はたっぷりと数十秒黙り込んだあとに、大きくため息を吐いた。

 

「はぁぁぁ……す、すみません井之上さん……私が頼りないばかりに、艦娘にも、皆さんにも迷惑を……」

 

 ころりと変わった口調に山元は驚いていたが、井之上は一安心したように微笑んだ。

 

「様になっておるじゃないか。頼りないなどと卑下するな」

 

「いえいえいえ、本当に、井之上さんがいて下さったから何とか……」

 

「そうかそうか。だが気を抜くな、作戦中だろう」

 

「あ、は、はい、すみませんっ」

 

 井之上の中にある海原を勝手に柱島へと送り込んだ申し訳なさと、軍部という体裁をギリギリの所で持ちこたえている情けなさ。

 海原から漂う井之上への無防備なまでの信用から生まれる砕けた口調や雰囲気が相まって、まるで互いが旧知の仲のような空気を生み出す。

 

 山元はそれを見て思う所があるような顔をしてみせたが、二人に悟られないようにと顔を伏せた。

 

「さて……まずは海原、お前を軍人としてではなく、海原個人として見て言わせてほしい」

 

 井之上は頭を深く下げた。

 

「あっ、えっ!? 井之上さん何ですか急に! ちょっとちょっと!」

 

 狼狽する海原に構わず、井之上は山元の前で言う。

 

「此度は《君》に汚名を着せてまで柱島に送りつけた事を、謝罪したい。全ては海軍を統率しきれず手を揉んでいたワシの不徳の致すところ。如何様に言われても返す言葉も無い」

 

「井之上さん……俺は……」

 

 海原から洩れた一人称に、山元は口を挟まず耳を傾けた――

 

「海原鎮――同名である君を利用した罪は、老い先短いワシの人生の全てで償わせてもらいたい。どうか許してはいただけないだろうか」

 

 ――が、しかし、同名という言葉に山元は「なっ!?」と声を上げてしまった。

 すぐさま声を潜め、扉の向こうに聞こえていないかと気遣うように声を挟み込む。

 

「井之上元帥、どういう事ですか」

 

 海原は顔を伏せて目頭を押さえていた。

 山元の問いに井之上は大本営で首を括ってもらうと宣言した通り、話し始める。

 

「山元よ。この目の前にいる海原鎮は、海軍大将の海原鎮では無い」

 

「なん、ですって……!?」

 

「ただの同姓同名――下手をすれば、一般人であったかもしれん」

 

「元帥、それはその、徴用したという事でありましょう……?」

 

 罪を重ねた山元であるからこそ、井之上には潔白でいてもらいたかったという思いがあったのか、縋るように言う。

 妙な思惑に民を巻き込んでしまっていたのならば、何をどう言い訳しようとも井之上も山元も、目の前の御仁に二度と顔向け出来ない、と。

 

「見方を変えれば、徴用とも言えよう。じゃがワシは違う。彼が何者であれ、戦争の中に起こる無用な賛成だ反対だという内紛を一瞬でも凌げたらという葛藤に負けた。魔が、差した」

 

「う、海原少佐! 違いますよね!? 何らかの作戦でありましょう!? い、言うなれば、そ、そう! 反対派であった私を含め、内紛を収めるために大将から降格し、末端から正していこうと、そういう……!」

 

 何とか理屈という形を作り出そうとする山元だったが、海原の口から零れた一言で、閉口する。

 

「井之上さんの、言う通りだ。私は元々、軍人では無い」

 

「海原……少佐……」

 

 下げ続けていた頭を上げた井之上は、やはりそうか、と言いながら海原を、山元を交互に見る。

 

「清水中佐の件は後に回す――ワシの用はもう一つある」

 

 持ってきていた鞄の中から取り出される書類。井之上は手に取った二枚の書類のうち片方をテーブルに置き、話した。

 

「海軍大将、海原鎮――反対派によって殺されたと思しきあの男もまた、軍人では無かった。いや……軍人ではあるが《この世の軍人では無かった》と言う方が、正しかろう」

 

「井之上元帥、それは?」

 

 大本営で聞いた全てを話すという井之上の言葉はこれか、と察した山元は続きを促すように問うた。

 海原は目頭を押さえていた指をそのままに、さらに顔を強張らせる。

 

「海原鎮は……艦娘が存在していない頃の男だったらしい。ワシと海原の間でのみ、軍部の最高機密を超えたワシらしか知らぬ。あの男は――かの戦争の渦中におった兵士の一人じゃった」

 

 かの戦争――艦娘が存在していない頃――導き出されるものは一つだけ。

 

「荒唐無稽も甚だしい……痴呆と思われても仕方のない事じゃが、誓って嘘では無い。事実、海原鎮という戸籍は存在しておったが、遠い昔に死んでいるはずの男が現代に現れたなど、到底信じられまい。調べたとも、隅々まで歴史を辿ってな。その中に一人、確かに海原鎮は存在しておった」

 

 テーブルの上にある書類は、戸籍謄本だった。

 だが山元の知る書式では無く、どこか古ぼけており文字も掠れている。

 

「これをどこで手に入れたと思う? っくく……役所などでは無いぞ」

 

 山元が言い淀んでいると、井之上は冗談みたく言う。

 

「資料館じゃよ。いまや昔の戸籍など、そこにしか残っておらん。死した者の籍であらばなおの事、電算化はされておらんでな。そしてこれが――」

 

 古ぼけた書類の横に、山元も良く知る書式の戸籍謄本が置かれる。

 

「――海原を大将とすべく作り出した《新たなる身柄の証明》じゃ」

 

 海原鎮、出身地、神奈川県横須賀市。連なる文字の全てが真実でありながら、現代では有り得ない内容。

 

「戦時で戸籍が消失するなどという事はかの戦争を思えば無い話ではあるまい。嘘はついておらん。じゃが、これを認知させる必要も無い。ワシらよりもはるかに戦争に詳しいあの男に保険を持たせる事こそワシが出来る誠意じゃった」

 

 話の途中、山元のストップがかかる。

 

「井之上元帥。その、も、もう一人の海原大将とやらは、いつ、どうしてこの時代に……?」

 

 当然の疑問。井之上は「それも話す、慌てるな」と鼻息をふうと鳴らした。

 

「……海原は、艦娘に保護されたのだ。太平洋上でな」

 

「太平洋上で……」

 

 井之上は古ぼけた戸籍を指で撫でながら話す。

 

「元々は船乗りではなく、飛行機乗りだったと聞く。半ば錯乱状態だった男の話を聞き不審に思った医者が、精緻を極めた話の内容をワシの元へ届けたのじゃ。深海棲艦と世界中が戦争しておる今、ワシは男の話に深海棲艦という名が出ないのが気にかかり、会うことにした」

 

 ごそり、と煙草を取り出した井之上は、一本咥えて火を灯す。

 紫煙の中に今でもその光景があるかのように目を細めて語った。

 

「昔、タイムトラベルを題材にした映画があったんだが、男の話は不謹慎ながらも不思議で、興味深いものでなぁ。まさに時空を飛んでこの世に現れた軍人だった。あいつはしきりに日本が戦争に勝利したかを気にしていたが、敗北したと知るや否や今度は民の心配をしておった。ワシはてっきり怨敵を討つのだと騒ぎだすものとばかり思ったが、平和になったか、人は笑っているか、国は豊かになったかと何度もワシに聞いてきた……」

 

 ちりり、と火種の燃える音がはっきりと聞こえるくらいに静寂に包まれる室内。

 海原はさっと立ち上がり、机の上に置かれていた灰皿を取ると井之上の前にそっと置き、小さくどうぞと言う。

 

「艦娘という存在がある今、あの男が過去の軍人であることを認めるのにさして抵抗は無かった。何より、あいつは頭が切れた。既に敗戦が濃厚であったと自覚していたあいつは、どうすれば勝てたかもしれんとワシと深く話したりしての。じゃがワシとてずっと時間があるわけでは無い。海原に現状を伝え、まだ世界は戦火に包まれておること……今度の敵は得体の知れぬ化け物である事を話した。海原は混乱するかと思いきや……国のためにまだ戦えるならばと、ワシに詰め寄ってきよったんじゃ」

 

 かつて飛行機乗りであったという海原大将。

 空から見下ろしていた海で、風の中で聞いた声で、彼は考え抜いたという。

 

 如何に勝つか。如何に出し抜くか。如何にして退けるか。

 

 熟考に熟考を重ねて導き出された戦術を試した井之上の戦果が皮切りとなり、海軍は一時的に深海棲艦を遠くへと追いやり、奪われ続けていた多くの海域を取り戻した。

 それを機に元帥という立場を使って井之上は男を軍に据え、籍を与え、戦友として迎え入れた。

 

 男は艦娘を正しく兵器として利用し、奇しくも井之上の目の前にいる海原と同じく、南方の海域にまで足を延ばした。

 危険が伴ういくつもの作戦を成功させた海原の名は海軍内で都市伝説のように囁かれ、表舞台に出ずとも名が残った。それを快く思わない虚実の栄光を求める者達は戦争の陰で内紛を過激化させ、しまいには……この現状を導いた。

 

 時に人のせいにして、時に戦争のせいにして、時に艦娘のせいにして。

 

 無情なれど、人の性であると井之上は言う。

 争いを起こすのはいつだって人であると。

 

 海原大将は《平和》を求めた。何物にも代えがたい人々の目指すべき道はそこにあると信じて疑わず、自身に危険が及ぼうとも突き進み続けた。死した者を代弁する気が無い井之上とて、彼に後悔は無かっただろうと考える。恥ずべき人生などでは無かったと胸を張っているだろう。

 

「ワシはあいつと共に戦って後悔はしておらん。戦艦達が艦娘として蘇り戦う今、あの男も蘇っただけだったのだと割り切っておるつもりだ。……お前と同じ名を持つ者は、そのような男だった」

 

 まだまだ気になる事は残っている井之上だったが、話すべき事はこれが全てだと煙草を咥え沈黙することで示した。

 そうですか、と呟いたのは海原で、彼は山元と井之上を交互に見て、テーブルに置かれた書類を見て、重たい声を落とす。

 

「お話、ありがとうございました、井之上さん」

 

「必要と思ったまでじゃ。礼を言われることではないとも」

 

「それでも、俺の前でこうしてお話をしてくださって、誠意を見せてくださった。それの、お礼です」

 

「……ふふ。そうか」

 

 目元をくしゃりと歪ませて笑った井之上の耳に次に飛び込んできた言葉は――その目尻に水滴を生み出す。

 

「――俺……いや、私も、この世界の者では、ありません」

 

 すっと頭を下げた海原に、山元は、ぐ、と変な声を洩らす。だが、口を挟めないでいた。

 

「やはり、そうか」

 

 井之上の相槌に頷く海原。

 

「私は、その、なんと申したらよいか……飛行機乗りでも無ければ、船乗りでも無く、ただの、人です」

 

「……続けてくれ」

 

「頼りなく、力もなく、頭も切れるわけではありません。ですが、し、仕事は出来ます……!」

 

「……」

 

「平和を願うほど高潔な人間では無いかもしれません! ですが……ですが! 私は提督です! 柱島のみならず、全ての艦娘を守りたく思っています! どうか……私にも、仕事をください……」

 

 立ち上がった海原は、その場で腰を曲げてより深く頭を下げた。

 

「仕事ならば、今しておるだろう。この作戦を成功させ、実績を作れ」

 

 井之上は海原の言わんとする事を理解しているつもりで言った。山元も井之上と同じように考えており、自らの部下であるはずの海原をさらに尊敬してしまう。

 騙されていたなどとは考えない。山元は最初から海原という男を知りもしなかった。ついこの間、その片鱗をみたばかり。

 

 今目の前にいる海原少佐の口から飛び出す言葉の数々が、想いの証拠として鼓膜を揺らす。

 

 それだけで、山元は、井之上は、信ずるに値すると互いを見て頷き合う。

 

 ただの人と男は言った。同時に提督であるとも。全てを口にせずともそれこそが井之上への答えであり、彼もまた時を超えて、世界を超えて蘇った軍人の一人である証左。

 井之上の胸中に浮かぶかつての海原が洩らした一言。

 

【軍人だの何だのと威張る気はありません。自分はただの、人です】

 

 偶然の一致かもしれない。しかし、そうは思えなかった。

 

「じ、実績を作れば、私にも籍を与えていただけるでしょうか……! 何でもします。艦娘を守れるならば、全てを差し出しても構いません! ですから……」

 

 山元はほころびかける口元を必死に一文字に結んでいたが、井之上はくすりと笑った。

 

「我々は今、軍人だ。そしてこれからも軍人として生きることになろう。戦争に勝つためではなく、仕事をくれとお前は口にしたのだ。ならば実績を作るのは当然のこと……もとより居場所が無いのが困るのはワシも同じだ、海原少佐」

 

 井之上は咥えていた煙草を灰皿に押し付けて立ち上がると、海原の前に歩み寄って正面から見る。

 

「初めに言ったように、ワシは老い先短い人生の全てを賭して罪を背負い続ける。目を背けたりするつもりは無い……お前はワシに騙され、良いように利用され、戦っているに過ぎん」

 

「井之上さん、それって――」

 

「仕事は変わらんとも。最初に言った通りの仕事を続けてくれ。小難しい事はワシが全て片付けておく……あの男が現れてから、泥を啜ってでも国を守らねばと決めたのはワシの勝手じゃからなあ。せいぜい、ワシの仕事を増やし続けてくれ、少佐」

 

「……はいッ!」

 

 

* * *

 

 

 全ての話が終わった後、作戦に戻る前にと一服を入れている中、海原が用意した茶を飲みながら山元が言った。

 

「自分も聞いて良かったのだろうかと、まだ不安であります」

 

 井之上はにやりと笑いながら湯飲みを置き、こう返した。

 

「言っただろう、一緒に首に縄をかけてもらうと。ワシかお前か、どちらかが倒れでもしたら、海軍は戦争どころでは無くなるぞ? 要するに……」

 

「共犯者が欲しかったと」

 

「……っくく、平たく言えばそうなる」

 

「そんな事をなさらずとも、自分は……!」

 

「分かっておる。皮肉は言う癖、冗談は受けられんとは堅物じゃのう。これはワシなりの……お前への答えだ、山元」

 

 海原がはっとして井之上に目を向けた。その視線を受けた井之上は頷き、山元に言う。

 

「ワシは仏では無い。許すのは一度だけじゃ。今度こそ軍人として、男として、戦い抜け()()()()

 

 山元は思い出す。そうだ、自分は戦場に、鎮守府に戻ってきたのだと。

 

「はっ」

 

 返事をして浅く頭を下げて見せる山元だったが、途端にそわそわと室内を見回したり、時計を見たりし始めた。

 その様子を見た海原は、ふう、と一呼吸置いて井之上に目配せをする。

 

 海原の口から紡がれる声は、海軍大将の海原鎮とは違う――不撓不屈の《柱島鎮守府提督、海原鎮》のもの。

 

「――山元。作戦行動中、お前は邪魔だ。現在この鎮守府の指揮権は私にある。作戦終了時まで、適当な場所で待機しておけ」

 

「え、あ……? し、しかし少佐、自分にも何か――」

 

「お前に手伝える事は無い。暇だと言うなら艦娘の様子を見てきたらどうだ」

 

「……っ!」

 

「ここからは私と井之上元帥のみで話をする。以上だ。質問は」

 

 山元は突き上げられたように立ち上がり、最敬礼したものの、これではまだ足りないという風に軍帽を脱ぎ、深く、深く頭を下げてから駆け出す。

 

「いえ、待機命令、了解しました! 失礼いたします!」

 

 井之上の前だというのに扉を乱暴に開け放って飛び出した山元の後ろ姿を見届ける二人。

 

「な、那珂! 皆はどこだ! 帰った……帰ってきたぞ!」

 

 軍人らしからぬ様相だったが、今だけは目を瞑ってやろうと茶を啜る井之上に、海原から早速仕事が一つ、舞い込んだ。

 

「井之上元帥。清水中佐についてですが」

 

「背負うとは言うたが、こんなに早くになるとはな。して、清水をどうしたい」

 

「……くすのき、という少将と繋がりがあるようです」

 

 情報と呼ぶには短くも、それに込められている量は尋常では無かった。

 長年軍人として生きてきた井之上をして頭がパンクしてしまいそうな情報を、どうして平気な顔で口に出来るのかと海原に声を荒げたくなる。

 

 そして同時に、やはりあの過去の海原が如き軍人なのだと興奮を禁じ得ず、喉を鳴らした。

 

「ふふ、楠木か。証拠もなく国に尽くすあの少将に目を付けたとは思えんが、清水を使っていたとなれば……話は艦娘反対派の前身が現れた頃から繋がっておるようじゃな」

 

「私には、分かりかねますが……井之上元帥ならば解決していただけるかと」

 

「内々で片づけられたら御の字と考えておいてくれ。清水中佐は、本作戦が終了した時点で鹿屋へ戻す。移送は無し……が良いのじゃろう?」

 

 海原は井之上から発せられる威を含んだ声に、何故か安心したかのように「はい」と答えた。

 己の威さえ通じない男に半ば呆れてしまうが、今の海軍に必要なのは海原のような異常、異質とも取れる仕事への愚直さなのだろうと感情を吞み込んだ。

 

「軍部に無理を押し付けて出てきておるので、明日の早朝までしか滞在できん。表に出れば憲兵が騒ぐであろうから、ここで作戦を見届けさせてもらうが構わんか」

 

「あー……それは、あの、はぁ……」

 

 仕事姿を見られるのが嫌だ、とでも言いたげな海原に愛嬌を感じ、井之上は「ならばそうしよう」と言い切ったあと、少し間を置いてこう続けた。

 

「お前の仕事ぶりに興味もあるからのお」

 

「……善処します」


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