鎮守府を発ちどれだけ経った頃か。
島風は未だかつて経験したことのない速度を全身で受け止めながら、ただひたすらに海上を駆けた。
艤装についてきた妖精も飛ばされないように器用に隙間に入り込み、頭だけを半分ほど出して周囲を警戒している。
艦娘は《艦》であった時とは違う。姿も違えば意思もある。それらを示すことの出来る新たな身体を持っている。
艦であった頃では出来なかった事が何でも出来るようになった。
温かな食事を食べ、移り行く景色を見た感動を分かち合い、時に笑い、時に泣き、時に咆える声を持った。
悲しいかな、それらが喜びや嬉しさといったものに割かれることは殆ど無かったが、それでも島風は艦娘であって良かったと思っていた。
そう、自分に言い聞かせていた。
「――……っ! 駆逐、四隻……イ級ですっ! うち一隻は後期型、その先にロ級が一隻っ」
『――ザザッ……――了解! 島風さんの現在地は確認出来てるけど、だ、大丈夫なのその速度!?』
提督からの命令通り、任務通りに高速航行を続けながら発見した深海棲艦を伝達する。
島風が予想していたよりも深海棲艦の数は多く、ここが本当に日本のEEZであるのかと疑いたくなる。
深海棲艦は派手に直線移動する島風を発見するや否や攻撃を加えようと動くも、そこは艦娘最速と謳われる島風、易々と照準さえ合わせられる速度では無い。
敵艦がどれだけの迅速さを持とうが、精密さを持とうが、風の前には無意味。
明石が開発、改良した機関も相まって口や鼻から空気が叩きこまれるような感覚がとても苦しくもあった。
「だい、じょうぶ……っ」
『雑音が酷い……島風さん! 大丈夫なの!? 応答を!』
島風と後続の艦隊を繋ぐ通信が雑音だらけであるのが、その航行の無茶を物語っているかのようだった。
心配する扶桑の声が、よく聞こえない。
(提督が……私を、選んでくれたんだもん……!)
前提督は島風を鬱陶しいガキと呼んだ。
周りに馴染めず、資材に見合う戦果も挙げられない役立たずだと一蹴し、果ては捨て艦作戦と呼ばれる特攻作戦に彼女を迷いなく投入した。
幸か不幸か、島風はその捨て艦作戦にて本領を発揮した。
(提督は、どうして私に魚雷を持たせなかったんだろう。艦娘を助けてあげて……敵を撃滅するなら、ひとつくらい……)
駆逐艦に見られる回避能力の高さは、島風の持つ速度からして言わずもがな。それに加えて、かつては現状にそぐわず余力を割く必要無しと判断されて量産を打ち切られてしまった高コストに見合う攻撃力、航続距離、運用コストを持っていた。
故に、捨て艦という見習うべくもない決死の作戦において高水準の能力を持つ島風は適当ではなくも【艦娘としてならば】経済性に優れていた。
(第一艦隊の皆に任せて、島風が突っ込んじゃえば、勝てるかもしれないのに)
燃料が無かろうが、弾薬が枯渇していようが、艦娘が持つ本来の能力さえ発揮できれば良い弾丸となったのだ。
随伴艦とともに目標へ放てば、他の駆逐艦よりも確実に打撃を与えられる。そんな胸糞の悪くなる理由であれ、狂気の戦争のさなかでは正当となる。
得体の知れない敵に、得体の知れないものをぶつける、ただそれだけの話であると前提督が言ったのを、島風は忘れていない。
放った弾丸がタダで帰って来るのだから経済的だと笑ったあの顔を、忘れてはいない。
(でも、この速さなら――ぶつかっただけでも――)
だからこそ、提督は――海原鎮は、そのような理由で自分を推薦したのだと心の隅で疑っていた。
それでも自分を必要だと真正面から言ってくれた。そんな人の命令ならば、前提督のように暴力をふるい、罵詈雑言を浴びせるようなこともなく、お前が必要だと言ってくれた人のためならば、私は喜んで敵陣に飛び込んでみせよう。
そんな心持で駆け抜ける島風の速度は、艦であった頃の速度を大きく超えていた。
『ザザッ――代われ扶桑! おい、島風! 聞こえるか! 重巡那智だ! 先行が過ぎる、少し速度を落とせっ』
艦娘になるまえから通信設備が充実していた島風ではあるものの、艦娘になってそれが活かされたのは、悲しくもやはり捨て艦作戦の時だけであった。
島風は多くの悲鳴を聞いていた。沈みたくないと叫ぶ仲間の声を。
その通信能力さえ、今は心許ない。
艦娘の中でも随一を誇る島風の高速移動に追いつけないのである。
頭の中に響くのは雑音とも声ともつかぬ音ばかり。
「はや、く、見つけなきゃっ……」
そんな島風の中に響く数多の音の中に、全身が硬直してしまいそうなほどの恐怖に塗りつぶされた音が混ざる。
確かに、聞こえた。否、聞き逃すことなど出来なかった。
『このままでは後方支――も間――ザザ……合わん――島風! おいっ しま――ザザッ……』
『ダメだ、ノイズがひど――ザッ――届いてない可能性が高――このまま追跡を続行す――しか――……ザザッ……ザー……』
『……たす……ザザッ……け……――ザッ……て……ザー……誰か……』
「い、今の……妖精さん! 今のは!?」
* * *
島風の豪速に荒々しく波が立ち上がる。
こまごまとした波を切り裂く島風の速度は限界に達していた。
それを維持しようとする機関は異音ともつかぬ絶叫を上げながらもうもうと煙を立ち昇らせ、海上に一筋の線を描く。
「どこ……どこに……うぅっ……!」
旋回するにも小回りの利かない速度であるためか、島風は大きな弧を描くようにして周囲でノイズに交じった声の主を探す。
柱島を発った時は快晴だった空模様も、今や曇天。
不気味な静けさの中、艤装からの音だけがいやに響き渡る。
こんな事になるならば照明の一つくらい装備するべきだったのでは?
当然のことを考えるも、探照灯を持とうものなら文字通り良い的になってしまいかねない。この作戦は救助なのだ、とかぶりを振る。
そんな時、場違いにも、あ、と声が漏れた。
「そ、うだ……救助……助けに、来たんだ……」
提督に選ばれた喜び。戦場に再び立たねばならない恐怖と不安。
救援せねばという使命感。それらが交じり合って生まれた疑心から、目標を見つけたら、その救助対象を逃がして突貫せねばなどと本来の命令を見失いかけていた事を思い出し、今度は先程よりも大きくかぶりを振る。
艤装から顔を出している妖精が視界の端に映った。
とても、不安そうな顔をしている。
「――……そうだよね。助けなきゃ、だもんね」
妖精が力強く頷くと、島風は先程よりも少し鋭い目つきで周囲を探索し始めた。
通信が傍受できるようにと、頭にリボンとして装備されているアンテナを振る。
過ぎていく時間は、たったの数分、数十分だけではあるものの、永遠に感じられた。
「わ、私が通信を飛ばしちゃ、まずい?」
ざざん、とゆっくり減速しながら妖精に問えば、妖精は艤装から完全に身体をぴょこんと出してから、うーんと唸り声が聞こえてきそうなほど悩んでみせる。
第一艦隊とは秘匿された通信でのやりとりだ。たとえ深海棲艦であれ容易に傍受はされないであろうが、救援信号として発されている通信がどのようなものであるのか定かではない。
しかし、危険を取ってでも迅速に発見するためにこちらから周囲へ通信を試みるべきか否か、島風は判断しかねる。
妖精が悩んでいる間に、島風の航行速度は荒い波にのまれない程度にバランスを取るほどの鈍足となり、ついにはその場に立ち尽くしてしまう。
「……ごめんっ」
島風は提督にとも妖精にともつかず謝ると、瞬時、周囲に向けて通信を開始する。
「こちら柱島鎮守府所属、第一艦隊の島風ですっ! 応答願います! こちら――!」
『……ザッ』
『ザザッ……』
返って来るのはノイズばかり。しかし島風は諦めず呼びかけ続ける。
「こちら、柱島鎮守府所属の、島風です……!」
いつだったか、思考というものは案外抽象的なものであると聞いたことがあった。
前提督か、いや、それよりも以前、艦娘になってすぐの頃だったか。
「呉鎮守府より救援要請を受けましたっ……応答を……!」
その思考を整理し、形にする一番簡単な方法が言葉である。
どれだけこんがらがった頭の中であろうとも、たったいくつかの言葉を口にするだけであっという間に理解出来てしまう事があるという。往々にして、そのような事にあふれているのが、世界である、とも。
「こちら、柱島鎮守府、所属……」
通信を続けていた島風が何度も発する、柱島鎮守府所属、という言葉。
思い出されるたった数日しか過ごしていない、同じ場所にいて、ただ遠くから眺めていただけの同所属の面々。
その中でも、二つの顔が鮮明に浮かんだ。
島風を気にかけ、ただ通りすがりに構ってくれただけであろうが、優しい声が鮮明に思い出される。
【島風か。お前はやはり目立つな】
【提督、何か用……?】
【用が無ければ声を掛けてはいかんのか……あ、いや、それもそうか……おっさんに声かけられても困るもんな……】
眉根をひそめて何やら独り言を洩らす顔。
【島風、かけっこは好きか】
【か、かけっこぉ……? なに、それ……】
人なんていうのは、大体最初だけ優しい。そして戦場に駆り出し、私が使えないと分かると途端に手のひらを返す。
戦場を恐れた私を前提督は役立たずだと言った。
敵前にして腰が引けてしまった私は一瞬にしてボロボロにされ、命からがら帰還すると、罵倒された。
玉砕も出来ない兵器があるものか! なんて。
【かけっこを知らんのか? お前は速さが売りの艦娘だったように記憶していたんだが。どちらが速く走れるか競争する……というのが、かけっこだ】
私の速さはなんのためにあるんだろう、提督。
【速くても、別に……いいことなんて……】
敵を前にして走り回るだけの私に、何の意味があるんだろう、提督。
【何を!? 馬鹿な……お前は速さの重要性を知らんのか……島風……!】
【えっ?】
敵にどれだけ早く損害を与えられるか、とか?
一息も入れさせずどんどん駆逐艦を突っ込めば、同じくらいの損害は出せるよ。
【速いという事は艦である上で外せんだろう。火力、装甲、装備、そのどれも大事だが……お前はどれをとっても高水準の駆逐艦だ。雷装、火力、お前が海を駆けるだけで戦況がひっくり返る事も十分、十二分にありうる。その中でも速度に特化したお前など、想像するだけで……わくわく……んんっ……心強いだろう】
速いだけじゃ、ダメだって……前提督は……。
どうしよう……島風……頑張るって、決めた、のに……やっぱり、怖い……。
頭の中でリフレインしていた会話も捜索するために広げた通信から流れ込むノイズに霞んでいく。
「こちら、柱島鎮守府所属……第一艦隊、旗艦……しまか……ぜ……」
ざざ、ざざ、という波の音に立ち尽くす。
ざざ、ざざ、というノイズの音に絶望が湧く。
通りすがった深海棲艦が追ってくる気配は無い。後続が片づけてくれているのだろうと冷静になって考えるも、やはりその傍らに潜む恐怖は徐々に心を浸食してくるのだった。
「通信、拾えない……」
その時。
『ザッ……こ、こちら呉鎮守府所属! 遠征艦隊、朧です! 柱島鎮守府所属、島風さんへ! 聞こえてますか! こちらザザザッ……――』
「!」
ぴん、と背筋が伸びた。
すぐさま通信と、周囲への大声との両方で呼びかける。
「通信、確保してますっ! こちら島風! 救援にきました!」
『繋がったぁっ……! もう、燃料が殆ど無くて、下手に動けなくて……!』
「先に合流を! 後から補給艦隊も来ます!」
『補給艦隊も!? 清水中佐は、何を考えて……』
* * *
たったの二隻で遠征という名目で危険海域へと駆り出された朧と漣は、すぐに発見に至った。
あとは第一艦隊後続との通信を回復させ、第一艦隊と補給艦隊が到着するのを待ってから、呉鎮守府へ向かうだけに思われた。
「よかったよぉ……! 通信は切っておけって言われたから、捨てられちゃったんだって思ったよぉ……!」
ぽろぽろと零れる涙を拭う朧にあてられてか、目尻から今にも涙をあふれさせそうになりながら漣が歯を食いしばる。
「おかしいよ……清水中佐も、ご主人様も……! ご主人様は突然いなくなるし、龍田さんや陸奥さん達も異動になったって言うし……何が起きてんのさっ」
二人から発せられる嗚咽と不安、混乱の言葉に島風は返す声が出なかった。
救助して帰還する、たったこれだけの事で頭がいっぱいで慰める余裕などない。
「……あの」
《アァァアアァァアッ――――!》
「っ!?」
それでも一声かけなきゃ、と口を開きかけた瞬間の事だった。
周囲が一瞬にして薄暗くなり、海が暗く、赤くなる。
深海棲艦と接敵したのは、言うまでもない。
「残りの燃料は!?」
咄嗟に二人にそう言った島風の目は、恐怖に染まっていた。
朧も漣も、ああ、逃げるのだなと察して「もう少しだけなら、走れるけど……でも、逃げ切れるほどじゃ……!」と言う。
「――逃げて」
「「え……?」」
「この海域から逃げるの! し、しま、島風が、お、おお、おと、おとりに、なるから……っ」
言いながら、どんどん声が震える島風の顔を見た二人に恐怖が伝播する。
同じ海に立って同じ状況でありながら、可哀そうになるくらいに怯えた島風の顔。
「だ、だめだよ! 一緒に逃げよう! 怒られるかもしれないけど、漣達も一緒に謝るから! っていうか、漣達が、悪いんだから……!」
朧が漣に賛同して首を縦に振るも、島風はゆるゆると首を横に振ってぎこちなく笑った。
「か、考えてみてよ。二人と、一人……どっちが大事か」
「何を……」
「損害を、考えたら……ほ、ら……二人が帰らなきゃ、いけないんだよ……だから、行って」
怖い。 私は、ここで沈むんだ。
島風の恐怖に呼応したかのように、周囲の海面が揺らめく。
遠くに、駆逐級の深海棲艦が見えた。少なくとも、一、二……数えるべくもなく、多数。
二隻を放っておけば撤退は可能だろう。自分の速さがあれば、振り切るだけならば。
だが提督は言った。二人を救えと。
「提督が言ったんだ……二人を助けろって。し、島風はそのために……来たんだよ……」
航行途中に過ぎてしまったが、自分が沈んだのはフィリピンの海だったろうか。
確か〝あの時〟もこんな風に多くの敵に囲まれて、どうしようもなかったんだっけ。
『ザザッ――島風! 聞こえるか! 那智だ! おい! 応答しろ!』
「ぁ……」
通信を開いたままにしていたからか、それとも立ち止まっていたからか、島風に届いた第一艦隊の重巡那智の声にはっとする。
『島風! 二隻を捜索中か!?』
「ぇ、あ……」
『島風――おい――ザ……――島風ッ! またノイズが……!』
怖い。
助けなきゃ。
状況を伝達しなきゃ。
すごく、怖い。
沈んじゃうかもしれない。
また、痛いのかな。
どうしよう。怖い。怖いよ。また、あんな暗くて、寒いとこに、沈んでいくなんて。
いやだ。
でも、任務を。せめて、二人だけは。
『こっ、こちら島風っ! 二隻は確保しました! 繰り返しますっ! 二隻は! 確保!』
『も、もう発見出来たのか!? っく……全力でそちらに向かうが、もう少しだけ耐えろ!』
『……二隻の燃料の残りで、海域から離脱可能です! 二人を先に離脱させます!』
『なっ……何を言っている馬鹿者! お前は火力兵装を積んでいないんだぞ!?』
わかってるよ、そんなこと。でも、助けなきゃいけないんだもん。
こんな海の真ん中で、二人っきりで、心許ない燃料で帰る事も出来ないなんて嫌だよ。
だから助けに来たんじゃない。
一種の自暴自棄にも似た愚痴を胸中で零す。その正体も分からずに。
「他の艦娘が来てるの……?」
朧の声に振り返り頷いて見せる島風。歪んだままの口元で「ここを抜ければ、大丈夫」と言う。
顔に幾分か生気が戻ったような漣に視線で頷きを示し、短く「行って」と言えば二人は迷いを見せたが、背中を押すように島風は言った。
「大丈夫。島風のことは、心配しないで」
朧の「ごめんなさいっ」という声。
漣の「補給艦隊が来るなら、またここに戻って来られるってことっしょ!? そ、そしたらすぐに――!」という声。
「……うん」
島風は今にも崩れそうな顔で笑って二人を送り出し――
『ザッ……ザザッー……』
「……?」
『ザザ……やっと繋がったであります。島風殿、状況は?』
「あきつ丸さん……?」
話した事は無いが、声であたりをつけて名を言えば、その声はそうだと返事した。
『二隻の発見と離脱、聞こえていたのでありますが……こちらからの通信が中々上手く届かず、申し訳ないであります』
「あっ、その……えっと……」
『先に二隻を離脱させた判断、少佐殿が褒めておいででした。判断の速さも一級でありますなあ』
緊張感の無いあきつ丸に肩の力が抜けそうになるが、そうものんびりしていられない状況である島風は漣と朧とは逆方向へ進み始める。
深海棲艦は賢い。既に二隻よりも一隻――島風を目標として不気味な鈍足さで近づいてくるのが見えた。
砲撃戦をするには遠すぎる距離だったが、不安や恐怖を煽るのに不足は無い。
『あのっ、多数の深海棲艦に、囲まれて……先に二人に逃げてもらって、私が、時間を稼ぐから……それで……』
『……――ふむ』
「っ……て、提督!?」
あきつ丸の声から、一転。低い声が島風の全身に降りかかるように聞こえた。
バランスを崩しそうになるのを堪え深海棲艦を連れるようにしながら直進を続けるも、意識は完全に提督の声に持っていかれていた。
『二隻の確保がここまで早いとは、恐れ入った。島風、深海棲艦に囲まれていると言ったな』
「は、はいっ」
『そうか――ならば――』
役立たずの駆逐艦になりたくないのなら、沈んででも突貫しろ!
前提督の声が島風の胸の中心を鷲掴みしようと手を伸ばす。
『――そのまま逃げ続けろ。お前の速さならば攻撃も回避出来るだろう』
「え……ぁ……どう、して……」
『燃料の残りに気をつけろ。第一艦隊が到着したら周辺を一掃し、補給をしてから改めて作戦の継続を判断する。第二艦隊の航空部隊の方がそちらに到着するのが早いかもしれん。何か質問はあるか』
「どうして……提督……なんでぇっ……」
海原鎮――島風の新たな主人として柱島に就いた提督の声は、あっさりと島風を抱き寄せた。
逃げ続けろなんて、戦いの場において決して有り得て良い言葉じゃない。なのにそれを臆することなくどうして口に出来るのか、島風は理解出来なかった。
故に、船速を上げながら金切り声で怒鳴る。
「ここで、沈んじゃうかもしれないのに! 逃げろなんて! 何で……!」
『沈めないために艦隊を組み、お前を選んだのだ』
「分かんない……分かんないよそんなのっ……!」
『問題無い。お前はただ――速く走れ』
「……!」
きぃん、とタービンが音を上げる。
次には、降りかかろうとした波が切り裂かれ、ごう、と風が吹いた。
《オォォオオオォォッ――!》
《――ァァアアアアアア》
深海棲艦が島風の速度に驚いたように急発進するも、追い付けるわけが無い。
速すぎる船速に旋回も満足にできない状態ながら大きく弧を描き、島風はただ、がむしゃらに走った。
「なんで……なんで……なんで……っ!」
私は、フィリピンで沈んだんだ。
そしてまた、あのくらい、さむいばしょに――
『フィリピンはもう過ぎただろう? お前は今、その先にいる』
「……ぁ」
通信が繋がったままで、声が出ていたらしい。
島風の「なんで」という心からの問いに返ってきた提督の声は、心底不思議そうだった。
フィリピンはもう過ぎた。それは状況を指しているんだろう、きっと、ただ事実を述べただけ。
そう思おうにも、島風はどこか希望を探すように思考を巡らせる。
『障害物も無い海洋だ。お前の速さを存分に発揮できる』
あぁ……やっぱり。彼は、提督は、私に言ったんだ。
狭苦しい、あのオルモック湾という過去を越えたんだと。
この人のためなら、怖くたっていい。
この人のためなら、沈んだっていい。
いや――
『島風――走れ』
――この人の為に、私は速くなったんだ。
刹那、島風から迷いが消える。
「うん……任せて! スピードなら誰にも負けません! 速きこと、島風の如し、です!」
その次に、深海棲艦は初めての状況に統率が乱れ、追跡の隊列が崩れてしまう。
それもそのはずだった。
《――ォ……ァ……!》
ただでさえ追いすがるのに空母型の深海棲艦が持つ恐ろしい速さを誇る艦載機が欲しいという場面であるのに、あの艦娘は――瞬きしただけで別の場所にいると錯覚するほどの速度となっている。
遠くから空を突き抜けるような速度で現れた艦載機――軽空母ヌ級のものだ――に笑い声のようなおぞましい音を上げるも、急転直下。艦載機の放つ弾丸が――
「っ! 当たらないんだから!」
――掠りもしない。
遠くから聞こえていた、島風の何故、という問いを、今度は深海棲艦たちが抱くこととなる。
それは何故か。
解はあまりにも、どうしようもなく、単純明快だった。
彼女が欠陥艦娘と呼ばれた最たる理由は、戦闘に臆して満足な戦果を挙げられないからだった。
ある一面では、突貫させても戻って来られる便利な鉄砲玉としか見られていなかったが、今ここで、その真価が発揮された。
「私には誰も追いつけないよ!」
放っておけば燃料が尽きて勝手に止まる、当然のことさえ、もしかすると彼女には当てはまらないのではないかという荒唐無稽な考えすら浮かんでくる。
暗く、赤黒い海の中で、島風がうっすらと光を帯びているかのような錯覚が深海棲艦たちを包む。
当の彼女はと言えば――不敵に、笑っているのだった。
島々を吹き抜ける風。それらは波が起こすものである。
であらば、深海棲艦たちが今見ているのは、島風そのものが生まれ出る瞬間なのかもしれない。
艦載機がわたわたと島風に集中しているあいだにも、追随を試みる多数の深海棲艦とヌ級の艦載機。
その状況こそ、自らの首を絞める事となるのに気づくことも無いままに。
『――こちら第二艦隊航空部隊、旗艦赤城! 敵機確認、制空権を取り戻しますよ!』
『航空部隊、加賀……島風を確認。そのまま走りなさい、駆逐艦』
『アウトレンジで決めちゃうから、当たらないように避けなさいよね! 島風!』
『ず、瑞鶴! 当てちゃだめよ!? 聞いてるの瑞鶴!?』
『あ、はは……じゃあ、僕らは対空警戒かな』
『補給艦隊の護衛も、ですね。早く皆を追いましょう』
久しぶりの更新になりました。遅くなってしまい申し訳ありません……。
一応生きています……許して……許して……。