艦娘として生を受け、遠い未来に目覚めた時――私は心が躍った。
また戦える。今度こそ守れるのだと。
「第一攻撃隊、全機帰還を確認しました――補給艦隊は大丈夫ですか?」
「はっ……はい!」
「速吸も問題ありません!」
第一艦隊の上空援護として加賀や五航戦の翔鶴、瑞鶴と共に発艦させていた攻撃隊は全機無傷で帰還を果たしたが、状況は一切の好転を見せなかった。
『ザッ……こちら大淀。第二艦隊へ、状況の報告を』
柱島にいる大淀からの通信にこめかみを押さえながら、私はゆっくりと深呼吸して答える。
「こちら第二艦隊旗艦赤城。第一艦隊、敵深海棲艦の撃滅を確認しています。しかし、島風さんを追っての乱戦……救助海域から随分とずれてしまいました」
未だ第一艦隊には追いつけず、やっとのことで私達と合流した補給艦隊にも緊張による疲労の色が窺えた。
それに、通信で大淀に報告したように、救助対象である呉の艦娘を確保した地点から南東方面へと流れるように移動してしまっている。
島風の見せた速度に頼りきった回避には目を見張るものがあったものの、それを追跡しながら砲雷撃戦を繰り広げた第一艦隊は本来ならば安全であるソロモン諸島の周辺にまで到達してしまっており、このまま戦闘を続けてしまえば諸島に損害が発生しかねないという緊迫した状況だ。
我らが師である鳳翔から託された艦載機に搭乗している熟練の妖精達は疲労こそ見せてはいないものの、状況を理解してか小さな額に小じわを寄せて甲板の上で私を見つめている。加賀や瑞鶴の甲板に乗っている妖精達も同じような表情をしているのだろう。
『そう、ですか……結界の方は、どのように』
「いえ、結界が発生しているとは伝えていません」
『どうしてです!? 正確に報告をしなければ、いくら提督だって戦略を練られません! せめてあきつ丸さんか川内さんに――!』
「一応、伝わるようには報告してあります。晴れない、と」
『そんな報告では――っ』
伝わらない。そんな事は理解している、と私は奥歯をかみしめた。
結界――深海棲艦の生み出す異常気象とも呼べる現象。
計器は狂わされ、海は赤黒く染まり、空は暗く淀む。それらはまるで異界に呑み込まれるかのようなもの。戦闘経験が豊富である艦娘であればあるほど、この結界は範囲や異常を極める。
――前線で酷使され続けていた私達を覆う結界は、見たことのない範囲となっている。
結界を知る艦娘でも練度的な意味で若い者が経験するのは、凡そにして海域の一部を覆う程度のものだ。それは私や加賀も経験している。
その場に存在する数隻の深海棲艦を撃滅してしまえばあっさりと結界は消え去り、海はいつもの顔を取り戻すという事も知っている。
それが今はどうだ。
「……提督のいる呉鎮守府には、提督以外の上長官がいるんですよ? それどころか、元帥まで――結界などという妄言と一蹴されそうなものを、どうして信じてくれましょう。提督に報告すれば通信記録として残る事は確実です。大淀さんならばその限りではないと、報告しているじゃありませんか」
私の言葉に、大淀の慌てたような咳払いに数秒間のノイズが入りこむ。
『っ……私の通信制御も絶対とは言い切れません、あきつ丸さん達にも伝えられるように通信を繋いでいますが、切ったり繋いだりと簡単なわけではないんですよ。そう言う事は、もっと先に……!』
「分かっています」
短く返して、第一艦隊を追うべく前進を続ける。
その間にも大淀と私の声は結界を介しても届くものだから、やはり連合艦隊の旗艦であった彼女の能力は……などとぼんやり考えた。
「救助対象の――」
私が口を開いたのと殆ど同時に、その救助対象たちの姿が目に映る。
丁度第二艦隊の前方からこちらに向かってきており、安堵の表情を浮かべていた。
険しい表情で不安にさせてはいけない、と私は微笑んで見せる。
「――漣さんと朧さんが、丁度合流しました。お二人にはこのまま呉鎮守府へ帰還をしてもらえばよいのですか?」
『夕刻を過ぎる前に合流出来ましたか……! で、では! お二人は呉鎮守府へ帰還を。呉へ帰還できるだけの燃料を補給してください』
「了解。帰路は安全でしょうから、お二人の装備でも問題無いと思います」
『了解です。では、第一艦隊の戦況報告が上がり次第、そちらに』
「はい」
良かった、良かった、生きてる。しきりに言い合う二人の装備を見ながら大淀に伝えると、神威と呼ばれる給油艦が、ざざん、と波を切って二人に近づいて正面から抱きしめた。
「漣さん、朧さん――! 良かった……間に合ったようで……」
「神威さぁん……! 良かったよぉ……もう、皆に、ご主人様に会えないんじゃないかって……っ」
「うっ、ぐすっ……あれ、さっき止まったのに、あれ……? また、涙が……」
二人は神威に抱きしめられた状態で声を殺して涙を流した。漣は生きているのを実感するかのように両手を強く握りしめ、朧は手を握りしめる代わりに、神威の胸へと顔を埋めて鼻をすすっている。
神威は二人を離さないまま器用に二人の艤装部へ手を伸ばし、静かに給油を始めた。速吸もそれに倣う。
「帰りの航路は安全です。柱島の艦隊の皆さんのおかげで」
速吸が給油をしながら言えば、朧が顔を上げて私達を見た。
涙に濡れる瞳の中には、言い知れぬ感情が見えるようだった。
ごくごく小さな声で神威に向かって「柱島って……盾って言われてた……」と言ったのが耳に届くも、私も、加賀や他の者も聞こえないフリをして視線だけを逸らす。
私達は柱島鎮守府がどのように呼ばれているのか知っている。海原鎮という提督が着任するまで、柱島は《墓場》であった。
もしかすると、この状況を見るに、今もそうなのかもしれない。
きっと漣や朧の目にはこう映っているのだろう――墓場の艦娘が救うためだけに突貫してきたのだ、と。
捨て艦作戦を遂行するためにありとあらゆる鎮守府、警備府、支部から集められた練度の低い艦娘達が海域攻略のために鎮守府の波止場を発ったと言われているのは、ある程度の艦娘ならば殆どが知っている。
そんな場所から救助が来たのだから、助からない事を前提に、自分達と交換するかのように突撃する、そう思っているに違いない。
漣達の考えを読むなど出来ないが、少なくとも私ならばそう考える。
だから、例え捨てられたのだとしても、欠陥品だと罵られたとしても、墓場と呼ばれる鎮守府へ異動した後に戦い、守って散れるのであれば、私は本望だと思った。
海原提督が講堂で演説したあの一瞬でも希望を持てた。
それだけで私の心は大きく揺れ、諦めという暗く湿ったような感情が、肯定的な意味へと傾いた。
艦娘として沈む。ミッドウェー海域という越えられなかった運命を、別の形で辿るだけ。
そこに今度は誰かを救えたという希望がある。安心がある。それでいい。
「――よしっ! 補給完了です! では……また呉で」
神威の声にハッとして目を向ける。
「赤城、さん……?」
「どうかしましたか……?」
漣と朧の不安げな声。聞かれただろうか? なんて考えているのだろうか。
私は首を横に振り、腰に手を当てて笑った。
「いえ、この先の戦闘について少し。一航戦の誇りを持ち、必ずや帰還します。ね、加賀さん?」
話を振れば、加賀は無表情のままではあったが、頷いて見せた。
口癖のようなそれを声に出す。
「問題無いわ。鎧袖一触よ」
私の考えが伝わったか、瑞鶴や翔鶴も笑顔を見せて二人を元気づけるようにして言った。
「幸運の空母たるこの瑞鶴がいるのよ! 安心なさい!」
「それを言ったら私は……んんっ。でも、心配はいりません。一航戦の先輩に負けないくらい活躍して、帰ったら自慢しちゃいますから!」
「っはん……せいぜい私の足を引っ張らないでちょうだいね、五航戦の七面鳥の方」
加賀の言葉に瑞鶴は笑顔のまま固まり、口元を歪める。
「へ、へぇぇ……《ここの鎮守府》の加賀さんもそう言うわけ……? へぇぇ……まぁ、どっかの焼き鳥製造機さんよりはマシだと思うけどさぁ……!」
「私は体温が高いだけです」
「加賀さんのことを言ったわけじゃないんだけどぉ? 自覚があるんだぁ?」
「……頭に来ました」
「ちょ、ちょっとお二人とも! やめてくださいよこんな所で! 任務中ですから!」
……瑞鶴と加賀は仲が悪い。どこの鎮守府でも、基本的性格を持った艦娘であれ二人はこうだった。
本気で嫌いあっているわけでは無いにしろ、まるで犬猿の仲であれとでも定義づけられているかのような二人の関係性は、普段ならば苦笑して宥めるのも面倒だと放っておくものだが、この場において冗談めいた口喧嘩は不穏な事を考えずに済む良い薬となった。
翔鶴が二人の間に割って入り「やめてくださいー!」と顔を真っ赤にしているのを見て、私はふふ、と声を洩らす。
「……ね? 大丈夫そうでしょ?」
漣達に顔を向けて言えば、ぽかんとした表情を見せる。
「は、い……」
「空母って、こんな喧嘩するんだ……」
先程の涙はどこへやら。気が抜けたような喧嘩に二人は幾分か元気を取り戻したように背筋を伸ばした。
「あの、ご相談なんですが!」
そう言ったのは朧だ。
「相談ですか? 何を……?」
「救助してもらっておいて、変な話ですが……基本兵装ですから、最低限戦う事は出来ます! ですから、その、島風……さんと再度合流させてもらえないでしょうか!」
「え、えぇ……!?」
突然の申し出に困惑していると、隣の漣も同じように「行かせてください!」と言う。
流石に私のみならず、他の面々も唸った。
「せめて提督に確認をしなければ……損傷は、ないようですが……」
二人を見ながら大淀へと通信を繋げば――
『――こちら大淀。なにか動きが?』
「いえ、その……呉鎮守府所属の漣さんと朧さんが、戦闘の参加を希望しており……」
『――』
しばしのノイズと無言の間。
『……提督が、そのつもりだ、と』
「えぇ!?」
私の大声に、漣達がびくりと震える。
通信が届いていた第二艦隊の面々からも、同じような声が上がった。
「ちょ、ちょっと待ってよ大淀さん! 提督さんの作戦じゃ、二人は救助対象なんでしょ!? なんで戦闘に参加なんてさせるの! それに、こんな――!」
瑞鶴がその先を言う前に、加賀がそれを制した。
「瑞鶴――口が過ぎるわよ」
「でも……っ」
瑞鶴の言いたい事は理解しているつもりだ。
一目見ただけでも……漣と朧は、練度が高いように思えない。
航行に問題は無いだろう。戦闘も、駆逐イ級と呼称されている深海棲艦が相手ならば難なく勝利出来る程度。
だが、その程度。
私達空母が発艦させた攻撃隊が支援した第一艦隊の戦っている深海棲艦は、それ以上の戦力を有している。
一歩間違えば、それは轟沈を意味する選択だ。
「提督に意見具申を……お二人では、危険です、と」
『……低練度でも砲撃支援ならば問題無いとの事です。それに加えて、指示が』
「新たな任務ですか」
『海図は携行していますか?』
「一応……でも何故――」
『これから言う場所へ印を。提督の戦略をお伝えします』
「は、はいっ」
『第一艦隊が移動してしまったというソロモン諸島周辺での作戦です。南緯――時――分――秒――東経――』
大淀の声はあきつ丸の通信を通しているのか、途切れ途切れだった。
言われた通りに海図へと印を付けていく。全てを印をつけたあと、浮かび上がった作戦海域は――
「諸島への被害が出ない、ギリギリの範囲……!」
『第二艦隊、及び補給艦隊は漣さんと朧さんの二隻を加え、第一艦隊の支援へ向かってください。ソロモン諸島の海域にて第一艦隊が警戒態勢で待機しています』
危険な状況であるというのに。
一切の予断を許さない状況であるというのに。
『各地点の呼称をアルファベットで統一してあります。第一艦隊は現在A地点とB地点の頂点となる島の周辺にいます。全速力で向かってください』
何故か、全て提督の手中にあるかのような錯覚に陥る。
「……了解しました。第二艦隊赤城、補給艦隊と二隻を率いてそちらに」
『――ご武運を』
* * *
「どうして奴らは途中で逃げ出したんだ……!」
第一艦隊の那智が忌々し気に吐き捨てる。
島風はぜぇぜぇと肩で息をしながら私と妹分である山城に支えられ休んでいた。
「島風さんを追えば私達に砲撃される。かといって、私達と砲雷撃戦をすれば島風さんが手薄になって隙になる……危険ですが、最良の判断であったと言わざるを得ません」
私は島風の背を撫でながら言う。山城は島風の頭をリボンの上から撫でながらしきりに「よく頑張ったわね……偉いわね……」と言っていた。
「それは、否定できんが……ここまで大きく移動した後だ、深海棲艦を捜索し撃滅しようものなら、消費は無視できるものじゃないぞ」
あれだけの手勢に追われ、さらには艦載機にまで追われていたというのに、彼女は全て回避しきって見せた。これは過分などではなく、間違いなく偉業と言ってよいだろう。
数多の深海棲艦のみならず、途中から第二艦隊の航空支援があったとは言え多くの艦載機にさえ追跡されたというのに、島風は諦めることなく回避し続けた。一切の損害無く、だ。
島風の艤装から駆逐艦とは思えない排熱が行われているのを見て分かるように、彼女は限界を超えて走り続けたのだった。
がむしゃらに回避して航路もめちゃくちゃだったおかげで詰まれた燃料は第一艦隊の全員がギリギリである。だが、それを見越しての補給艦隊の編成が成されている。
那智の言うように補給をした後に見失った深海棲艦を見つけ出して追撃するとなれば、相応の消費は免れない。最悪の場合は、見つからず資材を消費するだけに終わる可能性だってあるのだ。
「不幸だ、と言う暇がないわね……山城」
「お姉様……そう、ですね」
自嘲気味な私の言葉に賛同する山城は、心配そうに島風を撫で続けた。
補給艦隊の到着を待機している間、夕立と神通が周囲の警戒を行っている現在、那智は呉鎮守府にいるあきつ丸へ向かってがなり声を上げ続けていた。
「何? 海図? 今更なにを……! ――分かっている。待て」
少しでも通信の負担を減らすべきだろうと私や山城、島風は通信を那智に任せていたが、海図を広げたのを見て気になり、傍受だけでもと通信を試みた。
通信からは、あきつ丸が戸惑っているかのような声が聞こえてくるのだった。
『――と、印をつけた地点において指示するであります。航路を絞って深海棲艦を捜索し、発見次第撃滅とのこと。中破した時点で撤退するようにと仰っておられます』
撤退の許可は出ているのか……。
それだけで安心できるというものだが、それはそれで歪んだ認識をしているのだろうか? と私は暗雲の立ち込めたままである空を仰ぎ見た。
深海棲艦の生み出したであろう結界は空を覆ったままで、夕日さえも見えない。光度こそ多少あるため艦載機が飛行するのに支障は無いと思われるが、それもいつまで飛ばせるかは分からない。
結界内は時間の経過が曖昧で分かりづらく、まだ昼だ、まだ夕方だと思っていたら突然暗くなって夜になっていた、なんて異常な現象も平気で起こるのだ。
油断は出来ないが――提督は、どこまで見ているのか。
「撤退させてもらえるだけありがたいが、深海棲艦が発見出来なかった場合はどうする。提督ではなく、貴様ならば」
『……情けない話、自分は海戦の経験は殆ど無しと言って差し支えないであります。故に発見できなければそのまま撤退する、とは簡単には考えられません。陸であれ海であれ、敵を見つけて倒してこいと言われたら、敵を見つけて倒さねばならないのでありますから。ですが、少佐殿は……その』
「なんだ、言わないか」
那智が眉根を寄せて急かすと、一瞬だけ、ぷつりとノイズが入る。
『あまり詰めないでいただきたい。元帥閣下の手前、記録には残るのでありますから……。自分が言おうとしたのは、少佐殿が一切迷っておらず、今しがた印をつけていただいた箇所のどこかに、必ず潜んでいると睨んでいるということでありますよ』
「何? そんなもの、どうしてわかる」
『それこそ自分が聞きたいでありますよ! ……あ、いえ、何でもないであります。いえ、はい――』
あきつ丸は那智ではなく別の誰かに言い訳するような遠さで言う。
提督だろう。そこには元帥もいるというではないか。柱島から第二艦隊と補給艦隊に向けての指示を大淀へ一任したように、あきつ丸に通信をさせているのだろうが、丸投げしているような行動とも受け取れる。
だが、それに対して元帥がいるという事実が別の事柄を私達へ提示する。
【暁の水平線に、勝利を刻みたくはないか】
数日前に講堂でそう豪語した提督の目には――光があった。
私達を見る目に、愛があった。
私達を包む忌々しい結界と同じように、例えそれが幻想であったとしても、私はどこか、彼の目に灯る光に縋りたい気持ちを隠せずにいた。
ただでさえ欠陥戦艦と呼ばれた私だ。山城も、その他の艦娘達も欠陥艦娘と蔑まれ捨てられた身。言い方は悪いが、傷心を癒そうとする行動を誰が責められようか。
責任と言う責任を投げ出せる。いや、責任という責任を持ち、私達を受け止めてくれる存在がいる。それだけで、十分に思えた。
『んんっ……失礼。先ほどのこと、さらに言わせてもらえば……妖精も否定するような素振りをしていないのでありますよ』
「妖精が否定していないと言われてもだな……!」
『では、言い換えましょう。反対派の上官を黙らせた上で改心させ、さらにはその男が妖精さえ見れるようになった、と言えば……如何か』
「は……――?」
那智の声に、恐らくは全員が声に出さずとも傍受していたのであろう。同じく、は、と声が上がる。
那智は何故傍受などと言う事は些末であるとでも言わんばかりに目を見開き、第一艦隊の面々を順に見る。信じられん、と。
私も、同じだ。
『少なくとも、自分は少佐殿を疑うなどしていないであります。そんな事をして少佐殿の手を煩わせ作戦行動に支障が出れば、それこそ本末転倒でありますから。それで、那智殿。貴艦はどうするのでありますか』
あきつ丸の問いに呼応するようにして、那智の艤装からふわりと妖精が飛び出した。その妖精は腕に羅針盤を抱えていた。
「羅針盤……? これ、を、どうやって……」
『少佐殿が仰るには、その羅針盤は全ての地点へと安全に導いてくれる道具だそうで。妖精の持つ道具の一つであると――』
「ま、待て待て! 事が性急過ぎる! 妖精の道具は見たことあるが、こんな羅針盤など作戦で一度も使ったことがない! どのように使えばいいと言うんだ!」
那智の手にひょいと渡された羅針盤。
針はクルクルと回り続けており、通常の羅針盤とは思えないものだった。
『……んんっ、通信、記録に戻ります』
那智の問いに答える前に提督が動いたのか、あきつ丸の声がかたくなる。
「なっ……くそっ。それで、深海棲艦を捜索し、撃滅だったな。どれだけの数を撃滅してくればいいんだ」
『……ザザッ……那智か。私だ』
提督の声。
『深海棲艦の数は未知数だが、本隊と確認できる敵艦が出現する可能性は大いにある。油断するな』
「っ……貴様はどれだけの数が出ると予想しているんだ」
また、しばしの無音。
『……私の経験から言えば、山城と扶桑がいる時点でこの海域の攻略は不可能だ』
「はぁ!?」
私と山城の名が出てきて、思わずぴくりと目元が痙攣する。
『この海域――ソロモン諸島の攻略には高速戦艦の編成が必要だろうと見ている。だが、今回は状況が違う。この作戦は扶桑と山城という低速の戦艦が本隊に辿り着けるか否かにかかっている』
不幸、という二文字が私の頭を埋め尽くした。
無理だ。やはり、私は――
『――私は、扶桑と山城が不可能を覆すと信じている。第一艦隊が第二艦隊の支援を受け、その海域へたどり着けたという時点で、私の中での不可能を一つ、いや二つ以上覆しているのだ。島風然り、お前達艦娘を見る私の目は……やはり狂っていない』
「な、にを言っている、貴様……この作戦如何によって戦況が変わるかもしれんのだぞ!」
『あぁ。そうだな』
「そうだな、だとぉ……!?」
憤りが頂点に達しそうになっているのか、那智は顔を真っ赤にして拳を握り、歯を食いしばっていた。
彼女の背景を、私は知らない。どうしてそこまで提督に噛みつくのかも分からない。だが、過去に上官と何かあったのだろうと思わせる口ぶりや感情の動きは、自分以外の艦娘を慮っての事であろうと推測できる。
それ故か、夕立や神通、山城や島風も、通信を聞いても口を挟まない。
『私の知る戦況と、今の戦況は違う。だから期待している……那智、お前にだ』
「っ」
提督は落ち着き払った口調で、あの日の講堂で語った時と同じ声で言った。
『お前達は、ただの鉄塊では無い。今なんだ。私も、お前も』
話しているうちに、第二艦隊と補給艦隊の影が遠くに見えた。きっと、同じ通信を聞いている。
『一つ、二つ、三つと不可能を覆し、過去を塗り替えた』
「きさ、ま……何が、言いたい……」
『那智……お前が次に見るのは、燃え盛る扶桑と山城か? それとも、柱島鎮守府の波止場か?』
『島風が見るのは、空を埋め尽くす敵機か?』
『赤城や加賀、瑞鶴や翔鶴が見るのは、沈みゆく仲間か?』
『違う。違うだろう――』
合流した第二艦隊と補給艦隊は、他に……救助して呉に戻ったはずの漣と朧を伴っており、二人は山城に抱かれて休んでいた島風に近づいて気合の入ったような笑顔を見せていた。
那智の瞳が漣達に向けられ、揺れる。
『全ての過去を塗り替えるのだ。今、ここで』
提督は……軍人として最高峰のお方だろう。扇動するその力は、戦地において決して捨て置けない能力だ。
だが、男としては……一流とは呼べない。
艦とて、艦娘という《女子》である今、彼の言葉はあまりにも――
『それに……お前達がいないと、私は何も出来んのだからな。頼むぞ』
――甘すぎる。
「ふ……腑抜けたことを言うなッ! 仮にも上官だろう!」
那智のがなり声に漣と朧が驚くが、その他の面々は違った。
何せ、別の意味で顔を真っ赤にしている那智など、どの鎮守府でも見たことが無かったからだ。
「軟派なのか硬派なのか、分からないお方ね」
口をついてでた言葉に、山城が思わず、といった様子で小さく笑った。
呼吸の落ち着いた島風が提督の声に気づき、ぐっと身体を持ち上げる。
「島風は、まだ、走れるよ……提督……まだ、頑張れる……!」
「し、島風さん! 無理しないで! 私もいるから!」
「そうだよ島風! 漣達と一緒に、ね!」
「二人とも……!」
周囲を警戒していた夕立と神通も戻り、手早く補給を済ませたのち、提督から正式に作戦の継続が発された。
『第一艦隊、及び、呉鎮守府所属の駆逐艦漣、朧に通達。ソロモン諸島周辺に潜む深海棲艦を撃滅せよ』
『第二艦隊は可能な限り補給を続け、第一艦隊を掩護せよ』
今年の頭より連載している本作品をご愛読くださり、本当にありがとうございます。
是非、来年もこの『柱島泊地備忘録』をよろしくお願いいたします。