人類を脅かす深海棲艦という化け物が現れてから、世界は一変した。
二十世紀、いや、もう少し先に訪れるであろうと議論され続けていた技術特異点――それは人類が思っているよりも早くに我々の目の前に現れた。
化け物――Abyssal Fleet――を伴って。
人という種が発展させてきた科学技術を以てしても傷つかず、人類の持つ最悪の技術とも呼べる核爆弾、核爆雷、核砲弾を母なる海へ撃ち込み汚してもなお、深海よりぬるりと現れては恐怖そのものとなって昼夜問わず人々の営みを脅かした。
犠牲となった者達を数で表せば、然したる大きさにはならない。
それがまた油断を生み、深海棲艦に有利を与える事となったのは、今や言うまでもない。
――制海権の半分を喪失。
我々に突きつけられたものは、あまりにも大きかった。
空を奪われなかっただけでも幸運と呼ぶべきか、縋るべきか。
しかしながら、我々人類が世界中に種を広げられる一手であった海という存在を奪われた事実は、数百、数千という年月をかけて積み上げられた歴史をあっけなく崩すのに十二分の威力であった。
それらはまるでパンドラの箱を開いてしまったかのような現実。
事実として、一部の人々の間では化け物をパンドラと呼称しているらしい。
地獄から顕現したかのような化け物は時として人の形をとり、我々に語り掛けてくるという。私がその意味を知ったのは、化け物を倒すための術を研究するための機関へ異動してからすぐの事だった。
『シズメ シズメ』
私も聞いたことがある。直接ではなく、研究資料として映像を見たことがある。
日本が自衛隊という機関を海軍という名の武力に変え自国を防衛しながら、各国へ映像として提供されたものの一つだ、と聞いた。
奇しくも、化け物は恐怖と圧倒的力をして世を一つにした。何とも、皮肉なものだ。
各国の協力体制のもと、化け物の研究は続けられたが、その脅威は依然として人類に牙を剥き続け、もう反撃の余地は無いかと思われたが――その化け物と対となるかのような存在が発見された、という情報が一足遅れで通達された。
それが、化け物を唯一殲滅出来る存在――fleet girls――であるというのは、発見された時からすぐに分かったという。
何せ、人類が全戦力と言っても過言ではない武力で攻撃を加えてもびくともしなかった存在が、今にも波にのまれてしまいそうなほどの少女の姿をした存在が放った砲弾により沈められたからだ。
日本では、艦の娘と書いてカンムスと呼称しているそうだ。
そうして、海のどこからか現れる化け物を深海からやってきているのではと仮定し、シンカイセイカン、と呼んでいるのだと。
そこから人類の反撃が始まるかと言われたら、実はそうでは無い。
愚かしくも、人類は反撃の余地があると見るや否や、化け物を打ち倒す力を持った少女を武力そのものとして見て内戦が始まったのだ。
なんとも愚かしい。なんとも嘆かわしい。
一つの国だけではない。世界中の国々で内戦が起こるなど、もう人類の未来も何もあったものじゃない。
人生を賭して人を救わんと決意し研究職へ就いた私でさえ呆れてものも言えない。
では、世界に混乱がもたらされたか? と問われたら、そうでもないと言うのも歯痒く情けない話である。
科学は人々に伝える力というものを与えた。そして人はこの期に及び、助かる目的ではなく、自分自身の影を隠蔽するために使った。平たく言えば、印象操作と言ってよいだろう。
軍という集まりが威信を失墜させないままに、国をかき回し、人を騙し、そして国は軍を掌握せんと情報戦を繰り広げ、全てのしわ寄せがか弱き民へ。
ただの一研究者である私もまた、か弱き民である事は、現状が物語っている……。
* * *
深海棲艦研究者――名も無きただの研究者であった私は、あの日、本物の艦娘を見た。
私は元々、アメリカの西海岸はシアトルの出身だった。
ローレルハーストというちょっとした海に面している場所に生まれ、育ち、独り立ちしたが――シアトルから離れる、いいや、両親から離れて生活するというのに及び腰だったために近所のコーヒーショップで働いて生計を立てていた。
たまの休日には両親を訪ね、近況を報告して一日過ごして、翌日には家に帰る……そんな普遍的で幸せと呼べる日常を送っていた。
私の生活が一変したのは、未確認生物がアメリカ西海岸を襲撃したというニュースが入って数日が経った頃だ。
アパートにやってきた
『ミズ……あー、ミズ・ソフィア。先日、我が国が未確認生物に襲撃されたのはご存じで?』
『えぇ、知っているわ。ニュースで。それよりもこれは何? 突然連れ出してこんな場所に閉じ込めて……こんなの人権侵害よ』
『それは分かっていますが、我が国は未曾有の危機に瀕している。今は何としても力を借りられる者を集め危機に対処しなければならないのです。ミズ・ソフィア、あなたは大学在学中、生物学を専攻していらっしゃった』
数枚の紙切れを手にした軍人らしき男は、それらと私とを見比べながら話した。
無機質な部屋の中にぽつりと置かれたベッドの上に座ったままの私は、目の前の男に対して警戒するよりも前に、嫌な予感が胸中を埋め尽くしていくのを感じていたのだった。
生物学を専攻していたという言葉通り、私はシアトルにある大学である生物を研究していた。
なんのことはない、海洋生物全般――主に、深海生物について。
この地球という星について、私達人類というのはあまりにも無知である、とは私の師の言葉だ。
地上についての殆どを知識として蓄えている人々だが、こと、深海となると私達の知識というものは無力だ。同じ星ながらに環境は全く違う。想像だに出来ない事象が毎日平気で起こり続けているのが、深海。
データ、予測、予想、培ってきた全てで深海を知った気になっているだけだ。その実態は、たったの数パーセントしか解明されていない。いや、数パーセントであるというのも、また仮定に過ぎない。
――話が逸れたが、海軍が欲しているものの理由は理解出来た。だが、どうして私なんだ?
『博士号を取得したような覚えなんて無いのだけれど』
『えぇ。存じています。ミズ・ソフィアは真面目であったが、向上心とは別だ、と』
『あら、コーヒーの一つも出さないのに文句はあっさり出てくるのね?』
『……失礼。しかし、あなたのお力が必要なのです。あなた以外にも深海を研究していた者をアメリカ中から集めています。事が事ですから、選定する時間は無く……無作為と言って良い状態なのが現状です。人権侵害だと言われても無理はありません。ですがステイツの危機である事実は揺るぎません。どうか、お力を』
男は私に持っていた紙を一枚手渡す。見て見れば、そこにはつらつらと長ったらしい条文。
要約すれば――徹底的に守秘を行うため、この契約書にサインしそれを確約しろ、というものだった。
対価は一般人である私では一生をかけても手に入らない大金。それが毎年のように入って来る。
これならば私以外に連れてこられたという者達は契約しているかもしれない。だが、アメリカ中から連れてこられたというのだから人数だってそれなりにいるはずだ。払えるのか?
『これが嘘では無いという証拠は?』
『ミズ。何度も言いますが、ステイツの危機です。こんなジョークをナプキンに書いてばらまく暇など海軍にはありません』
『……』
ふと頭を過るニュース。海岸線に現れた謎の生物とやらが一瞬だけ映ったテレビ画面。
ただ、気になった。私はたったそれだけの理由でペンを要求した。
考えずとも、サインせず拒否したところでただで帰してもらえるわけが無い、とどこか冷静に思えたから、というのもあった。
私からのサインを受け取った海兵は満足気に頷くわけでもなく、その場でどこかに連絡を取って私をまた連れ出した。
そして、次に連れてこられた場所は、無菌室だった。場所は分からない。宿舎らしき建物から車で移動して一時間程度、といったところ。
即席の研究所のような場所の無菌室は部屋というには大きく、厳重な扉がいくつも部屋を隔てていた。
室内には私と海兵、それから私と同じように連れてこられたであろう研究者のような人が数名。数は多くなく、あの紙を信じずに帰った者の方が多かったのであろうことに驚いたのを、覚えている。
それから、その中で見たものは、生涯忘れられないだろう。
黒く光り、青い目をしていて、てらてらとぬめっていて、それから……それから……。
『これが西海岸を襲ったの……?』
『襲うのに便利そうなものが口から出てるだろう?』
私の呟きに、別の研究者らしき男が口を開いた。
言われた通り、私の目に映った通りのものが、その部屋を半分以上埋め尽くす巨体の先端についた生々しい口から突き出ている。
成人男性の大きさをゆうに超え、体長は数メートル。まるで鯨だ。
銃身……いや、あれは、砲身だった。
忌々しそうに剥き出した歯が砲身を嚙みしめるように固定しているのが、一目で分かる。
『――ネイビーではこれをデストロイヤー、と呼称している。これを見て欲しい』
海兵がリモコンをどこかから取り出し、操作する。
すると、部屋の壁の一面に天井から吊るされたプロジェクターで映像が投影された。
ニュースでも見た西海岸が襲撃された映像だが、テレビでは流れなかったその先が流れている。
海岸から離れた位置で煙があがり、黒い点が放物線を描いて海岸に迫る。黒い点が海岸へ到達すると、爆発。一度のみならず、二度、三度とそれが続き、ビーチにはパラソルの数よりいくらか少ないほどの赤い点が広がった。
『あ、ぁ……なん、て、これ、嘘でしょ……あぁ、神よ……』
私の呟きに重なるように、周囲からどよめき。
『これが三日前の映像だ。だが、神は我々を見放したりなどしていなかった、とも言っておこう』
ピッ、という音とともに映像が切り替わる。次に映ったのは、別の海岸線。
そこにも目の前に横たわる化け物と似たような存在が映っていたが、それとは違う影もあった。
『デストロイヤーは西海岸以外にも確認されている。現状では、日本、中国、それからロシアはオホーツク、イエメン、オマーン、インド、ノルウェー……同時多発的に襲撃されたとの事だ。各国との連携のもと情報収集を行っているが、現状把握されているのは、この化け物には一切の攻撃が効かないことだ』
『それ――』
『あぁ、映像の通りだ』
映像には、轟音を立てて空を切り裂く戦闘機が映っていた。そこから放たれる火球が化け物をとらえるも、黒煙の向こうでは動きを一切緩めない化け物の姿があった。
『……ここだ、これ、ここを見て欲しい』
ぴたりと映像が停止する。
海兵が壁に歩み寄り指さすそこには、海面にぽつりと、一人の女性が映っていた。
最初は目を疑った。おかしいじゃないか。そこはビーチで、確かにブロンドの美女がいておかしいことは無いだろう。
問題なのは、彼女が水着などではなく、機械で身体を覆っていた事だ。まるで、どこかの兵器開発を生業とするエゴイストのヒーローのような。
『……鋼鉄の男などでは無いと言っておくよ。ここに映っている彼女は彼のように空を飛んだりしなかったし、話を聞くにインダストリーは営んでいないそうだ』
映像が再開される。海上に立つ彼女は怒涛の勢いで化け物と戦っていた。身体を覆う機械――私達の目の前にいる化け物の持つ砲身よりも細いそれから噴き出す火はあっというまに化け物を薙ぎ払った。
それから、空を飛ぶ戦闘機を見上げ――間違いなく、笑っていた。それに、何かを言っているような。
『まずは紹介をしておこうか。ミズ!』
海兵が部屋の奥へ向かって声を掛けると――そこには――ブロンドの女。
『ハーイ! ……って暗いわね? んんっ。アイオワ級戦艦、ネームシップのアイオワよ。USAが生んだ最後の戦艦である私を知らないなんて人は、いないわよね?』
『はっ……?』
私の声以外にも、いや、ここにいる海兵と、アイオワと名乗ったブロンドの女以外の声が重なった。
『――ここにいるデストロイヤー達を倒せる兵装を持った、同じ未確認生物――』
『ヘイ! ミスター。未確認生物なんてエイリアンみたいな呼び方をしないでちょうだい。私は、戦艦アイオワ。オーケー? 何度言っても未確認、未確認って、私を見てるでしょう?』
『ミズ・アイオワ。これは形式上だ。彼、彼女らに理解してもらいやすいようにする、呼称だ。ニックネームみたいなものだから、気に入らないだろうが少しだけ我慢してほしい』
『んん……』
納得いかないように口を歪ませたアイオワと名乗った女は、その場で腕を組んで私達を見回す。
『デストロイヤー(破壊者)じゃなく……じゃあ、これは……デストロイヤー(駆逐艦)……?』
誰かの呟きに、アイオワが『Exactly(えぇ、その通り)』と答える。
混乱にぐるぐると脳みそが回る感覚。眩暈を覚え、その場で額に手をつく私に、アイオワが近づいてきた。それから、背をとんとん、と優しく叩く。その感触は人間そのものだった。
場違いにも、私が何か悲しいことがあると、母がこうして慰めてくれたなと思い出してしまう。
『あー、ん……ミズ……ミズ……』
『……ソフィア』
『オーケー、ミズ・ソフィア。混乱するなという方が無理よね、でも、安心して。私がいるわ』
励ますような声音に顔を上げると、アイオワと目が合った。
彼女は微笑み、それから――。
* * *
「……っ」
轟音に驚き、私はびくりと身体を震わせた。
私がこの島に連れてこられたのは、一昨年ほど前になるだろうか。
死なない程度の食事を与えられながら、昼か夜か決まっていないものの、砲撃音を合図にドラム缶や鉄クズを持って現れる化け物の言う事を聞きながら過ごす生活を送り、死を待つばかりの毎日を過ごしていた。
とある朝、昔見た鯨のようなものじゃなく、人の形をした黒く、そして青白い顔をした化け物がふらりと海岸線へ現れた。
私と同じ性別のように見えたため、ここではあえて彼女としよう。
彼女、あるいは彼女らは異国の言葉で――日本語だったろうか、私には分からないが――私に向かって何かを言う。おおよそ、持ってきたガラクタを運べ、という事なのだろうが、既に私はこれらを拒否する気力を持っていなかった。
数年前、コーヒーショップの店員から研究者という不可思議な転身を遂げた私が見た化け物とは違う個体であろう、知性を窺わせる相貌を持つ彼女らは時折こうして島にやってきては、ガラクタを運ばせ、一定の場所へそれを集めさせる。
危害という危害こそ加えられていないものの、逆らえばいつか見たニュースのように、ビーチに広がる赤い点に変えられてしまうのは馬鹿な私でも理解していた。
同時多発的に世界を襲った深海棲艦と言う化け物と人類との戦争は――いつ終わるのだろうか。
そんな事を考えながら、故郷の両親はもう私を死んだと思っているのかな、とか、ネイビーは私を見捨てたのだろうか、とか、数年、毎日ずっと思っている。
――また、轟音。
ガラクタを早く運ばなきゃ、早く、早く。
海岸から離れた位置で威嚇するような、戦闘でもしているかのように化け物たちが砲撃音を上げ続ける。
ネイビーは何をしているの、アイオワは? そんな事を当てつけのように思うことも無くなった。
生きなきゃ。こんな場所で死んじゃだめだ。狂気の中でこの二つだけを考えた。
食事――ただの海藻や、生魚ばかりだった――はある、火だって起こせる。なら、助けが来るまで生きることを諦めちゃだめだ。
海岸へと打ち捨てられるように流れ着いた重たいガラクタを両手いっぱいに抱えて、島の奥へと運ぶ。何往復かすれば、砲撃音は止み、また嘘のような静寂が訪れる。今回の砲撃音は、長かったな……。
「はっ……はぁっ……はぁっ……」
着の身着のまま、二年かそこら働いた研究所からホノルル、スパと経由してニュージーランドにある研究所へ異動する事になった私は、飛行機では化け物の操る攻撃機に墜落させられるとのことで輸送船で移動した。
アイオワの他に、サウスダコタやワシントンと呼ばれる艦娘に護衛されていたのだが、ニュージーランドに到達する前に深海棲艦に襲撃され、私を含む数十名に及ぶ研究者や海兵は海へと投げ出された。
戦闘の衝撃に気を失った私が目覚めた時には、既にこの島だ。ここがどこかさえ分からない。深海棲艦が私を働かせているのだから、ここまで運んできたと仮定して――ニューカレドニア? バヌアツ?
分かっているのは、小さな無人島ということだけ。連絡手段も、何もない。
「これで、最後……っと!」
がしゃん、と音を立てて金属片を島の中央へ投げる。
うずたかく積み上がった金属片や、小さな見た目からは想像できない重量をもつドラム缶の前にどさりと座り込み、荒い息を吐き出した。
「ここに来て、もう、七百……」
砂の地面に指で文字とも模様ともつかぬものを描きながら、疲れと狂気を紛らわすように声を落とす。
ここに来て何日経過したかなど、もうとうに興味は無い。ただ声に出して何かをしていなければ今にも発狂してしまいそうなだけだった。
私はとりとめもなく地面に指を這わせていたが、ふと立ち上がって海岸へ戻った。
深海棲艦がいなくなったかを確認したかったのだが、そこで私は初めて、記録映像以外で、アメリカ以外の艦娘を見た。
唐突で、突然で、急で、もう、声さえ上げられず、ただ――そう、ただ、彼女らの姿を見た時、助かったとか、もう大丈夫なんだと思うよりも先に――
『――殲滅完了だ! 扶桑、損傷は!』
『大丈夫よ。山城、夕立ちゃんも神通さんも、大丈夫ね?』
『はい、問題ありません。島風さんが敵をかく乱してくれているお陰で、砲撃も殆ど。漣さんも朧さんも損傷無しです』
『うー……! 夕立も! いっぱい頑張ってるっぽい!』
夕暮れ。空のかなたにある太陽が曇天を真っ赤に染め上げる中で、海を守る存在を見た。
『ふふ、そうね。さぁ……このまま進むわよ。進行方向は?』
『このまま……北北東だ。この先に本隊がいるとの見立てらしいが……ここまで来ると疑いようも無くなる。まったく、あの軟弱者の予測には恐れ入った』
『あら、那智さん。軟弱者だなんて……顔は笑っていますよ?』
『こっ、これは……! その、敵艦を打ち倒せる喜びだ! 帰ったらあの軟弱者には活を入れる!』
『でもでも! 提督さんはやっぱりすごいっぽい! 島風ちゃんに兵装を積まずに出撃させたのも、島風ちゃんが回避に専念してかく乱? いーっぱい走って敵を驚かせて、夕立が素敵なパーティーできるっぽいよ!』
『はぁっ……はぁっ……島風も! たーのしー! もっと速く走れそう!』
『げほっ……うぇ……島風ちゃん速くね? おかしくね……? マジヤバなんですけど……』
『漣が運動不足って、わけでも、ない、みたいだよね……はぁっ……はぁっ……しんっど……』
『朧もすっごい汗だよ……いやぁぁ、なめてた、島風ちゃんなめてた……』
何を言っているか分からなかった。でも、彼女達は、笑っていた。
傍らには、深海棲艦らしき残骸が沈んでいくのが見える。あの、砲身を噛みしめた恐ろしい存在が――。
ぶぅん、と音が降ってきた。
空を仰ぎ見れば、そこには深海棲艦が飛ばす恐ろしい異形の羽虫などではなく、美しい両翼を気持ちよさげに広げる飛行機が飛んでいた。いくつも、いくつも。
何故か視界が歪む。声が震える。
「あっ……あぁっ……!」
どうしてこんな絶望の海で笑っていられるの? どうしてこんな場所に、艦娘が?
疑問が頭を埋め尽くす。
編隊を組んでいる飛行機のうち一機が、突然群れから幾何学的な動きで離れ、降りてきた。
それが私のもとへやってきたかと思えば、両翼の飛行機とは思えない動きで私の周りを器用に周り、それから……地面に降り立つ。私のつま先くらいしか無い飛行機から出てきたのは、もっと小さな存在。
「これは……いや、あなたは……!?」
操縦者――? でも、こんなの見たこと無い。明らかに、考えずとも人では無い。まるで、童話の妖精だ。
海岸で、妖精の前で跪いている私の耳に声が飛んでくる。
遠くから聞こえてきていた声がどうやって私の耳に届いていたのか。まるで夢の中にいるようだった。
小さな飛行機の中からも、声が聞こえてくる。
『こちら第一艦隊那智……赤城か。……何!? 海岸に人ぉ!? ま、待て! この航路だと砲弾は島に飛んではいないが……待て待て! すぐに捜索する! 島風、周りを見られるか! というか扶桑! お前が旗艦なのだから少しは通信を受けもて!』
『な、那智さんに突然怒られたわ……なんて不幸なの……』
『姉様……! 那智さん、通信よりも先に話が――』
『そんなものは後にしろッ! 島風! 夕立! 確認を!』
『ぽい! って、あ……! 島風ちゃん、あそこ! あそこぉ!』
『ほんとに、人だ……! すぐに助けなきゃ!』
――彼女達が、近づいてくる。
声を、なにか、声を。
「た、助け……助けて! 助けてー! 私は、ここ! ここに! 助けてー!」
『え、英語ぉ!? 夕立ちゃんパスぅ!』
『ぽい!? 夕立も英語は分からないっぽいよ! で、でも、へるぷって……』
『行こう!』
『うん!』
一瞬だけ立ち止まった二人の少女は、顔を見合わせた後に、手を振りながら海岸へやってきた。
濡れるのも構わずばしゃばしゃと海へ飛び込んでひざ下まで海水に浸かった私を、二人は強く抱きとめてくれたのだった。
『もう大丈夫だよ。島風が来たから! 分かる? 島風!』
『夕立もいるっぽい!』
「シマ……カゼ……ユー、ダチ……! ありがとう……来てくれて、ありがとう……!」
『そう! 島風! それに夕立!』
『ねぇ、島風ちゃん……提督に報告するっぽい。もしかしたら、他にも……』
『うん、すぐに報告しよ! ……あきつ丸さん、第一艦隊、島風です! あの、M地点にある島に人が……うん……英語を話してて……えと……』
耳に手をあてて話していた、露出度の高い服装をしたシマカゼという少女が私を見て何かを話している。しばらく話し込んでいたが、不意に頭につけたリボンをぽすんと触った次の瞬間――まるでスピーカーから発されているかのような音が鳴った。そこからは、男の声。
『あー、ハロー? ハロー?』
「……! ハロー! あなた、英語が話せるのね!?」
『あー……あーん、イエス。イエス』
「私! 随分と前にこの島に流れ着いて、それで、わた、私、私はその、シアトルの出身で、違う……えー、あー……!」
『オーケー』
「わかったって……あの……!」
『……問題無い』
「っ……!」
話しぶりを聞くに、きっとこの声の主は日本人だろう。拙い発音ながらに、そのきっぱりとした物言いは私を安心させるのに十分な温かさと強さがあった。
こんな状況で、訳の分からない島で聞く
「私は、ここから出られるのね……? 助かったのよね……!?」
『イエス。ノープロブレム。イッツオーケー』
「よか、った……うっ、ぐぅぅっ……うぅぅっ……!」
『……清水、私は先の作戦を見直す。代われ』
声の主は日本語で何かを話すと、今度は先程より幾分か低い別人の声がした。
『あー……こんにちは。私は、日本海軍の、シミズ、という者です。拙い英語ですが、伝わりますか?』
「えぇ、えぇ、分かるわ!」
『あなたは今、ウラワという島の付近にある地図上では確認できない島にいるようです。今、ソロモン諸島は危険海域として島々の住民が避難していたはずなのですが、あなたは逃げ遅れた人ですか?』
「違うわ……私は、アメリカ海軍の研究所に勤めている者よ。輸送船でニュージーランドに移動する前に襲撃を受けて、気づけばこの島にいたの。深海棲艦、分かるわよね? 深海棲艦にさらわれたみたいで……何か、ガラクタをずっと島に運ばされて……」
『そう、ですか。現在、私の部下……あ、いや、上官であるウミハラマモルという軍人が指揮を執り、ソロモン諸島の奪還作戦を遂行しています。今ここであなたを別の安全な場所へ逃がすより、周辺を掃討したためその島にいた方が安全です。もう少し、待てますか?』
『清水、いらんことを言うなよ。ただ大丈夫とだけ伝えて――』
『閣下、問題ありません。私の上司が助ける、とだけ伝えております』
『……ならいいが』
また日本語が挟まる。助けてくれる、という話し合いか、それとも。
『お名前をうかがっても?』
「ソフィア……ソフィア、クルーズよ。アメリカ海軍アビスフリート研究機関の、ソフィア」
『では、ミズ・ソフィア。もう暫くそちらで待機をお願いします。今は時間が無く、迅速に作戦を遂行せねばなりません。しかしご安心を。ここにはウミハラというコマンダーと、イノウエというアドミラルがおります。何も心配はいりません』
「コマンダーに、アドミラル……!? そんな大規模な作戦が……ソロモン諸島で……!?」
『これ以上は機密事項になりますが、ここまで言えばお分かりですね』
きっと、私の人生における幸運というものの大半はこの場で使われたことだろう。
全身から力が抜け、どうしようもない安堵が私の意識を持っていく。
『もう暫くお待ちを、ミズ・ソフィア。コーヒーの一つも出せないのが申し訳ないのですが』
シミズと名乗った日本人の男が精いっぱいのジョークで私を励まそうとしてくれている。
思わず笑みが零れ、私は返事をするのだった。
「私、私ね……元々は研究者じゃなくて、コーヒーショップの店員で……ふふ、ごめんなさい、突然。なんだか、力が抜けてね」
『そうですか。あなたが日本に来た時にはそのコーヒーを飲んでみたいものです』
「えぇ……必ず。とびっきりのコーヒーをごちそうするわ。ミスター・シミズ。それに、コマンダー・ウミハラにも」
『楽しみにしております。……予定では、あと数時間も待たせないでしょう。何か荷物があれば、今のうちにまとめておいてください』
軽口を叩けるまでに一気に精神が回復した私は、その会話の後、いくらか少女達が話してから、日本語でしきりに『すぐに来るから! 待っててね!』と残して海岸を離れるのを見送った。
日本の軍人……私に短く声を掛けただけの、強く、太く、それでいて優しい
波の音と男の声と、海を駆けていく少女達の声が重なるようで、私はボロボロの白衣の裾を波に揺らしながら夢のような光景を見た。
深海棲艦と対となる存在――艦娘。それらを統率する、日本のコマンダーの存在。
だめだ、こういう時に研究職は考え込んでしまう。今は、ただ待っていよう。
彼女らを指揮する男が言ったのだ。問題無いと。それを今は、信じよう。
そこから数時間――ソロモン諸島の上空に、綺麗な星が煌めいた。
雲は、無い。
あけましておめでとうございます。
本年一発目の更新です。今回は少し違った視点で書いてみました。
一昨年、去年と大変な日々が続きますが、体調を崩さぬよう、皆さまご自愛ください。
また、皆さまにとって素晴らしい発展と躍進の一年になるよう、心からお祈り申し上げます。
本年も海原鎮率いる勘違い艦隊と柱島泊地備忘録をよろしくお願いいたします。
追記:
作中に出てくる「ジェネラル」という表現が適切ではないとのご指摘がありましたので「アドミラル」に修正いたしました。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませんでした。
誤字報告も随時対応しておりますので、更新は今しばらくお待ちください。