俺の知っている艦これの大淀はもっとこう、眼鏡をくいっと指で押し上げながら「艦隊の規律が――」などと言いそうなイメージだったのだが、今しがたやっと泣き止んで目尻を擦る姿は新鮮だった。
「お見苦しい所を、申し訳ありません」
「気にするな」
誰が泣いていようが気にしない。俺がいた職場では毎日誰かが泣いていたぞ。
それはさておき、食事だ。ここに来てから何も食べてないし、腹が膨れれば気分だってなおるだろうと立ち上がって船上を見回す――が、流石に食べ物があったりはしないか。
目的地に着いた時にでもどうにかするか、と考えていると、むつまるが耳元で言う。
『まもる、ご飯食べたいの?』
最優先で! という程に腹が減ってるわけじゃないが、口寂しいのはある。
曖昧に、まぁ、と返した矢先、目の前で大淀が立ち上がった。
「しょ、少々お待ちください! すぐに何か食べられるものを――!」
『でも、ご飯ないよー?』
両方同時に喋らないで。分からなくなるから。
というかそんなに腹が減ってたのか……すまん大淀……。
俺は咄嗟に大淀に待てと命じて、むつまるの言葉に小声で返す。
「ふむ。なら釣りなんてどうだ? これ漁船だろう?」
『できないよー……それより、はしらじまに行くんでしょ? 早く行けるようにしたほうがいいよ!』
「……それもそうか。よし、そうしよう」
『むつまるも手伝えるよ! まってて!』
「うん?」
むつまるはぴゅんっと一直線に飛んでいく。それからすぐに何かを持って戻ってきた。
その何かを見た瞬間、俺の中に様々な感情が去来した。
ルート……逸れ……うっ、頭が……。
一瞬だけ顔をしかめてしまった俺だったが、すぐさま無表情を装う。
妖精の持ってきたものは羅針盤だった。艦これをプレイしていた頃に嫌という程見てきたものだ。
羅針盤――艦これでは攻略をする際、海域を進めるのに使っていたもの。双六のようなマップは初期こそ単純だが、後半になってくると多くの分かれ道が発生し、左右どちらに進むのかを決定するのに用いられていた。
最初は攻略サイトなど見ずに進めていた俺は何度も羅針盤に泣かされてきたのだ……。
羅針盤を持つ妖精むつまるに、それを見る大淀。目の前に広がる艦隊これくしょんな風景。
むつまるに羅針盤を手渡され、大淀に見せてみる。
「大淀、これが何か分かるか?」
「羅針盤、でしょうか」
そうだね。羅針盤だね。
やっぱり知っているよなあ、と頷きかけた時、大淀が慌てたように言いなおす。
「ただの羅針盤、では、無いのですよね……妖精が持ってきたのならば、何らかの能力が……?」
えっ……知らないの……?
いやいやいや、そんなはずは無い。魔女っぽい服装をした妖精とめっちゃだるそうな顔をしている妖精がくるくる回してただろう!
『これはねー、艦娘が進むための航路を決めるための道具でねー』
俺の横で大淀に向かって説明するむつまるだが、大淀は妖精ではなく俺をじっと見つめている。
むつまるも気づいたようで、ちょんちょんと俺をつついた。
あぁ、代わりに説明しろと……。
「これは艦娘の航路を決定するための道具で……」
『戦わなきゃいけない相手をみつけるためのものだよー』
戦わなきゃいけない相手……深海棲艦の事だよな。
「戦わねばならない者と的確に接敵するためのもの……だ」
多少それっぽく変えて伝えているが、大淀にはこちらの方が理解しやすいだろう。
『ほかにもね! あるの!』
「他にも?」
『わたしたちが行かなきゃいけないところがわかるよ!』
「……向かうべき場所を示してくれる」
やはり俺が知っている艦これとは違うことが多いようだ。ただルートを決定するための道具というわけではないらしい。
むつまるは俺が代わりに説明したことに満足気に頷いていた。
それにしても――俺は本当に艦これ世界にやってきたんだな……。
羅針盤を見て確信するあたり、もの悲しさを感じるが、これも提督(プレイヤー)の性よ……。
この世界で俺はプレイヤーとしての提督ではなく、本当の意味での提督――俺を殴ったあの野郎が言うにはだが――なのだから、あまり無知を露呈すべきではないのかもしれない。部下である大淀を無駄に不安がらせることも無いし、多少知識が違っても堂々としておくべきか。
それに俺は――もう、ブラックな企業で働く戦士ではないのだ――!
大淀と言えば任務を管理してくれる艦娘で、大勢の艦娘を束ねる司令塔でもある。
ならば、だ。この大淀に任せておけば万事オッケーで俺は夜を徹して死に物狂いで働かなくて済む……これは、でかい……!
起き抜けから朝食すら摂らずに家を出て、満員電車に押しつぶされなくてもいいんだ。だって電車乗る事無いもの。
会社に到着して社内の掃除をしなくてもいいんだ。だって会社が無いもの。
怖い上司に怒鳴り散らされて胸倉掴まれなくて――いやこれはさっき経験したな。クソ。
と、感慨に耽っていると大淀の様子がおかしいことに気づく。
羅針盤と俺を見てわなわな震えているあたり、もしや俺が攻略サイトを見て艦これをやっていた素人プレイヤーとバレたか?
……それは無いか。
「大淀……大淀? 大丈夫か?」
「はっ……! し、失礼しました。その、羅針盤というものを、初めて目にしまして……」
初めて目にした? 一緒に海に出てクルクルしてたんじゃないのか。
それじゃあ、羅針盤が役に立たない。
むつまるが言うには『艦娘が進むための道を決定する道具』なのだ。俺には使えない。
向かう場所が分からなければ、だだっ広い海を漂流するのと変わらないじゃないか。
「大淀はこれから向かう場所が分かるか?」
俺がそう聞くと、大淀はさらりと答える。
「柱島泊地でしょうか? それでしたら、およその海域まで行けばすぐに。そこまで到達しましたら、哨戒中の艦隊にも遭遇するかもしれません」
良かった。柱島泊地への方向すら分からなければ路頭に迷うところだった。
大淀は艦娘だからどうにかなるかもしれないが、俺はただの人間なのだ。遭難なんて御免こうむりたい。
「およそ、かぁ」
言いながらむつまるを見る。大丈夫だよな? およそでも羅針盤は機能するよな?
『だいじょーぶ! まかせて!』
頼もしくも、小さな拳でぽすんと胸を叩いて見せるむつまるに安堵する。
だとさ、と大淀に視線を流せば、何故か頭を下げかけており――。
『道をおしえてあげる道具だから! 迷子とか、そういうことにならないよーに!』
あぁ、と納得する。
大淀は「およそ」しか分からずに申し訳ないと頭を下げようとしているのか。
問題無い。俺だって分からないから。羅針盤が無ければ漂流決定だった。良かった。
「そういう事が無いようにするための道具……だ、そうだ、これは」
念を押して言うと、大淀はほっとした表情――ではなく、怪訝そうな顔で俺に問う。
「提督は、ご存じだったのですか……?」
え? 航路の事? それとも羅針盤か? どっちも知らんよ。
あ、いや。羅針盤の事は知っている。元の世界では深海棲艦よりも羅針盤に泣かされた回数の方が多かった気がするが、敵では無かった。
……と、思う。
こうして手に取って見るのは初めてだけど、知ってると嘘を言うのも気が引けた俺は素直に答える。
「俺が知っているのは妖精の操る羅針盤だからな。実際に手に取って見るのは初めてだ」
「よ、妖精が操る羅針盤……!?」
そうだよ。妖精が『えー? らしんばん、まわすのー?』と面倒そうにクルクルしてたろ。
艦これの最大のボスは深海棲艦じゃなくて羅針盤だと言われてたくらいだぞ。
大淀は考え込むように顔を伏せ、ぶつぶつと呟き始めた。
波の音によって全ては聞こえなかったが、素質だの失踪だのと不穏当な言葉が耳に届く。
何それ、俺の知らない新要素が増えたりしたの? 提督の素質機能とか実装されてたの?
「提督。そちらの羅針盤を、どのように使うのでしょうか」
顔を上げた大淀は、物凄い形相をして俺を見つめてきた。
なんだよ……! 上司の次はお前が俺の敵になるつもりか……!?
いつも「提督、作戦を実施してください」って任務画面で微笑んでくれたじゃないか……!
待てよ? そうか、大淀は腹が減ってたんだったな。寄り道するのかってことを聞きたいんだろう。
しかし残念ながら俺は艦娘じゃないので、大海原を見渡して「あっちに何かいいものがあるかも?」なんて答えられないのである。
ならば返答は一つ。
「鎮守府に行くんだろう? なら、さっさと進もうと思ってな」
ポケットに突っ込まれている紅紙にもあったように。俺は新規鎮守府とやらの提督に任命されているのだ。鎮守府に行けば食堂もあるだろうし、他の艦娘にも出会えるに違いない。
どうせ生まれ変わったのなら楽しまなければ損である。
俺を縛り付ける会社も無ければ、世界すら違うのだ。
へこへこと頭を下げ続けていた頃を捨て、俺は――自由に過ごすッ!
日がな一日食っちゃ寝なんてことはしないが、無理は絶対にしない。死ぬから、マジで。
艦これの事ならば覚えている。素人ながらもやるべき事さえ分かっていれば問題無い! はずッ!
朝から晩まで艦これが出来ると仮定してみれば分かりやすいじゃないか。やる事なんてたかが知れている。
デイリー任務として1-1にさらっと出撃させて、後は建造、開発を数度行うだけ! なんて簡単なんだ……。
艦娘のレベリングなどもあるだろうが、それこそレベリングに最適なマップは頭にある。
2-2-1とかぐるぐるさせておけば何とかなるだろ。まぁ、実際の艦娘を目にしてしまっては疲労度無視でがん回しは気が引けるので、それも数度行う程度でいい。他に経験値を稼ぐ方法などいくらでもある。演習とか。
……いや待てよ? リアルの艦これだから練度の確認とかどうすればいいんだ?
異世界転生もののように目の前にステータス画面が表示されているわけでもない。感覚が違う……これが、能力……! みたいな状態でもない。それは殴られて確認済みだ。痛かったし力も変わってない。許さんあの野郎。
「よろしいの、でしょうか」
おっといかん。大淀を放って自分の世界に入り込みそうになっていた。
俺は適当にへらへらと笑って「行かなきゃだめだろう。腹も減ったし、な?」と答える。
「どこまでも、御伴します――提督――!」
大淀は俺に向かって、出会った時よりも綺麗な敬礼を披露し、目尻に涙を浮かべていた。
え、えぇ……そんなに腹が減ってたのか……ごめん……。
「そんなに腹が減ったのか? まあ、俺もだけどな」
感情豊かな大淀だなぁ。
むつまるを見れば、大淀を真似るように俺に敬礼していた。お前もお腹減ってたんだな……柱島に着いたら何か食べような……。