弓道場に残された空母達は、提督が出て行った方面を向いたまま固まっていた。
その中でも唯一、鳳翔だけが動き、提督の放った矢が刺さったままになっている地面へ向かう。
妖精が見える人間。それだけならば、海軍に長くいれば鳳翔でなくとも見たことくらいはある。話を聞くに呉の大佐や中佐も妖精が見えるようになった、というのだから、自分達艦娘とかかわった人間には少なからずその可能性があることも、理解している。
しかしながら海原鎮は違った。アレは、見える、という次元を超越している。
自由気ままながら言うことを聞いてくれるものの、姿を殆どあらわさない故に妖精と揶揄されている存在でもあるのに、提督は妖精を従えている。
私達艦娘を従えるのと同じように、まるで変わりない存在であるかのように。
提督の働きを知っている鳳翔をして、衝撃的な光景だったのは言うまでもない。
矢を放とうと弓を構えた提督に向かって、どこからともなく現れた妖精。
その妖精が渡した矢は、鳳翔の見間違えで無ければ、訓練に使われるものでは無かった。
発艦に弓を使う空母の戦闘法とは弓道と似て非なる。
それは――艦娘式弓術、または、空母式弓道と呼ばれ、艦娘の中でも限られた空母にしか扱えない特殊な戦術である。
そして精神性を重んじる訓練は、海上の戦闘において冷静さを失わないためのものである。
故に、訓練の様式は弓道と共通点も多い。
戦後に制定された射法八節に限りなく似ているが、それは動作訓練においてのみであり、どの流派にも属さない。
徒歩か、騎馬か、長距離を通す堂前か――否、彼女らの主戦場は海である。
強いて言わば堂前に近いものがあるが、通す、では無く、発艦を目的とするために、射るための的は《一点に集中する意識を持つ》ための目標というわけだ。
使用される矢も発艦用の兵装を模してはいるが、ジュラルミン製の安価なものだ。
重量こそ発艦訓練用に調整され、通常のものより重くしてあるが、ただその程度。
鳳翔をはじめとする初期型の空母が積み重ねてきた技術の粋は一朝一夕で会得できるものでもなければ、矢が変わったとて揺るぐものではない。
戦闘で培われ、生き残り、伝わってきた空母の技――それを、たった一矢で、あの男は塗り替えた。
鳳翔は見定めたかっただけで、決して、試したかったわけでは無い。
いかなる戦場でも顔色一つ変えず淡々と指揮し、拳銃を向けられ死に直面しても、彼は一歩も引かなかったという。
山元大佐や清水中佐に銃を向けられているのを、いくらかの艦娘は直接目にしている。それは誇張でも何でもなく、事実なのだろう。
しかしながら果たして本当に彼の心は凪を維持し続けているのか?
それが、鳳翔は気になっただけだった。
弓道場にやって来て、指導中の葛城に声をかけて無理をしていないか心配していたのも、別に気にしてはいない。
彼自身が艦娘――葛城の発艦方法を知っていたというのもあるが、そこまで集中せねば放てないのかと言ったのが、引っかかっただけ、ただそれだけだった。
はず、なのに。
陰陽と弓術の複合式。葛城の特殊を極めた発艦方法は鳳翔のみならず、龍驤も指導を考えあぐねていた程である。
他鎮守府の葛城が会得している、素早く、正確に、かつ大量に艦載機を放つ術は共有されるべき事項であるというのに、戦果を多く挙げんとして、それさえ秘匿されている。
しかして、鳳翔は彼に――葛城への指導を見た。
足袋のままに砂利の敷かれた矢道へ降り、提督の放った矢の場所までくると、それをじっと見下ろす。
「……出来んものは、出来ん、ですか」
ぽつりと呟く鳳翔の視線の先にある矢は、矢じりが二股に分かれた、
別名――
かつての日本で武将が戦の合図に使用したとされるそれは、放つと大きな音を立てるという。
しかし、一切の音は無かった。弓のしなる音も、弦も鳴らず、ただ、静かに放たれ地へ刺さった。
確りと。
鳳翔の行動が目に入らないのか、他の空母達はきゃあきゃあと話す。
飛龍の甲高い興奮に満ちた声。
「提督にも出来ない事ってあるんだねぇ……でも、見た? あの速さ……打起こしたと思ったらもう離れてんだもん、びっくりした」
それに対して蒼龍が何度も頷く。
「驚くよそりゃあ! しかも鏑矢って、音鳴らさずに飛ばせるんだね……」
一航戦に次ぎ実力派である二航戦は、放たれた矢がどのようなものであったのか、そして放つまでの一連の流れが如何に異様であったのかを理解している様子だった。
それらが異様である事は雰囲気でこそ伝わったが、どこがどのように異であったのかまでは詳しく言葉に出来ない五航戦の瑞鶴と翔鶴は、奇怪なものでも見たと言わんばかりに訝し気な顔を見合わせる。
「翔鶴姉は、どう思う……?」
「どう、って……瑞鶴も見たでしょう? 足踏みも無かった……胴作りどころか、弓構えも、初めて弓を触ったみたいに見えたわ……」
「だ、だよね!? 離れも、小さい動きで……」
先ほどまで静寂に満ちていた弓道場が声に満ちる。
それを制したのは、赤城だった。
「あれは……弓道では、ありません」
正座したまま、鳳翔の立つ矢道、提督の放った矢のあった場所をじっと見つめながら言う赤城に対して、祥鳳が恐々とした様子で問うた。
「弓道では、ない……?」
赤城はじっと見開いていた目をそこでようやく閉じてから、ゆっくりと首を横に振る。
「艦娘が敵の気配を探ろうとする時のように……感じていました。そのままの意味で。電探も無ければ、レーダーすらも無い人間である提督に備わっている、第六感、とでも言えばいいのでしょうか。私も全ては、分かりませんでしたが……空母が夜の海を往くとき、発艦が出来ない分、気配に敏感になるものと同じ雰囲気を、感じたんです。動きを見ていましたか? 最小限にとどめられた動き、決して弓を離さず、落とさないよう、残心無く次の動作へ移るように、抱えていました。あれは間違いなく――私達の弓術と、同じものです」
そう語る赤城だったが、瑞鶴が「流石に無いですよ赤城先輩! 提督は人間ですよ?」と苦笑いする。
だが赤城は至極真面目な顔のまま、鳳翔に向かって言った。
「ただ……落ちただけなのでしょうか」
その言葉を耳にして、鳳翔は初めて矢に指をかけ、地面からすっと引き抜く。
特に抵抗も無く砂利から抜けた矢の先端には――何もない。
「ほら、やっぱり! 提督さんにも出来ない事くらいありますって!」
瑞鶴の言葉を無視して、鳳翔はそのまましゃがみ込み、砂利を矢じりでかきわけた。
すると、そこには――
「ですよね鳳翔さん? 出来なくっても別に――」
「鏑矢とは、音を発して合図するための矢であり、殺傷力など考慮されていません……ましてや、
「え、っとぉ……鳳翔さん……?」
――両断された、百足の姿があった。
鳳翔は全員を呼びつけ、それを見せる。
「ひっ……!? 気持ち悪い! なんでこんなのが弓道場に――!」
「うぇ……!」
瑞鶴と蒼龍が口を押さえ、しかめっ面をする。
赤城の言っている事が理解できたのであろう翔鶴、祥鳳、瑞鳳は、真っ青な顔でそれと鳳翔を交互に見た。
赤城と加賀は顔を見合わせ、何度も瞬きした。通信もしていないのに、興奮を伝え合うかのように。
混乱しながらも現状は分かっている様子だったが、いや、ありえない、そんな事を延々と考えた。
葛城に至っては――集中していた時よりもじっとりと多くの汗を額に浮かべていたのだった。
そして鳳翔に、こう問うた。
「こ、これ、偶然です、よね……? こんな事、出来るわけ……」
鳳翔は目を伏せ、こう返す。
「出来ないものは、出来ない。提督が仰っていたじゃありませんか。これが、答えです」
全員が言葉を失い、再び、地面に視線を向けた。
いかに矢が強いとはいえ、これを、本当に一撃で、あの、一瞬で……?
その疑問に答えられる男は既におらず、ただあるのは、全員の背にかかる戦場と同じ緊張感。
「訓練を続けます。葛城さん、いいですね」
鳳翔が言うと、全員がぞろぞろと元の位置へ戻りだす。
葛城もまた、頷いて元の位置へ。
「集中を――今度は、発艦の極致まで、ゆっくりとではなく、一瞬で意識を持っていくのです」
「――はいッ!!」
弓を構えた全員の瞳は――燃えていた。
まだ、自分達の力量が足りるわけなど無いのだ、と。
* * *
皆の様子を見て回る、と言って大淀と共に鎮守府を歩く提督が次に訪れたのは、弓道場からさして離れていない場所にある武道場であった。
弓道場とは違い、十分な広さのあるそこでは演習を行っていない艦娘が白兵戦の訓練を行っているはずだ、と大淀は提督へ説明する。
「現在は軽巡と重巡の方達が訓練なさっているかと思います。見て行かれますか?」
自分で訊いておいて、行かないわけがないだろう、と思っていた大淀であったが、それはあっさりと裏切られた。
「いや、私が行っても邪魔になるだけだ。練習はしているようだから、問題は無い」
武道場の外から中の様子をちらりと覗いただけで過ぎ去ろうとする提督に違和感を覚え、大淀は思わず「よろしいんですか?」と呼び止めてしまう。
「……邪魔になるかもしれんだろう」
どうにも、邪魔、邪魔、という提督が気になり、それでは、と大淀は提案する。
「提督が見学しても問題無いか、聞いてきますが……? もちろん、邪魔になるようであれば遠慮なく言うようにと伝えます」
「うむ……しかし、弓道場でも、邪魔になったであろうからな……」
私達が提督を支え、提督が私達を支える、と昨夜に言っておきながら、邪魔になるなどと何度も言われると流石に傷ついてしまう。それが表情に出てしまい、大淀はしょんぼりと顔を伏せてしまった。
すると、提督は先刻まで矢を放っていた凛々しい顔を崩し、狼狽しながら言った。
「そ、そんな顔をするな。決して大淀の予定に問題は無いだろうと思っているからこそ、みなには私の事を気にせず訓練をして欲しいだけなのだ」
「……はいぃ」
一度タガが外れて大泣きしてしまった弊害か、提督に否定されてしまったのではと考えるだけで心が不安に揺れてしまう。
かつて信じた提督に裏切られ、暴力まで振るわれた艦娘なのだから、仕方が無いと言えばそれまでだが、大淀はどうにも落ち着けず、提督を見つめてしまう。
「……わかった。一応見に行くとしよう。ほら、だからそんな顔をするな」
「……」
まるで子どもをあやすような言い方をするものだから、大淀は顔が熱くなってしまう。
別に大丈夫です、とふてた子どもみたいに言ってしまって、これではあやすように言われるわけだ、と自己嫌悪。
だがしかし、一方では、こうして感情の起伏が激しくなっているのに驚く自分と、それを嫌な顔をするわけではなく、正面から受け止めてくれる提督にどこまでも安心を覚えてしまう自分がいるのだった。
「失礼する。訓練の様子を――」
「提督、あぶな――きゃぁっ!?」
扉をガラリと滑らせると、武道場では丁度、綾波と神通が組み手を行っていた。
入るタイミングが完全に悪かった。
神通に投げ飛ばされたのか、綾波が宙を舞い、先頭になって入った提督目掛けて飛来。
投げ飛ばした格好のまま、顔をこちらに向けて叫ぼうとする神通が言葉を言い切る前に、綾波は提督と衝突した。
頑丈な艦娘の心配は無いが、問題は提督である。
艤装を付けていなくとも相応の質量を伴ってぶつかったのだから、衝撃はかなりのものであるはずだったのだが――提督は綾波を受け止めるように両手を広げ、腹部をくっと曲げて衝撃を殺すように臀部から落ちた。
神通の目は、そこからさらに足で地面を蹴って残る衝撃を逃がしていたのを見逃さなかった。
それから、がしゃん、と扉に肩をぶつけながら背を地面に打つ音。
ここまで、三秒にも満たなかっただろう。
「っ……綾波! 怪我は無いか!?」
「て、提督っ、あ、あのっ、すみ、すみま、ませ……!」
綾波と神通、そして武道場で一連の流れを見ていた摩耶、鳥海、天龍、龍田が走り寄って提督へ手を伸ばす。
「だ、大丈夫ですか司令官さん!?」
「おいおい、気を付けろって提督」
「摩耶! 気を付けようが無いでしょう、今のは!」
「ここは武道場だぜぇ? 何が起こるか分かんねえんだから、気ぃ張って入るだろ」
「なっ……もう!」
提督は綾波をそっと離し、手を伸ばす艦娘達に掴まって立ち上がる。
大淀はその背を押して支え、軍服についた砂を払った。
「驚いたわぁ、急に入ってくるからぁ。大丈夫ですかぁ?」
「今のナイスキャッチだったな、提督!」
大淀は、流石にこれは怒られる、と目を閉じてしまうが――。
「う、うむ。綾波に怪我が無いのならば、それでいい。しかし、どうして飛んでいたのだ……いつもこのような訓練をしているのか……?」
――杞憂に終わる。
これは心が広いなどという言葉では足りない。一言くらい気を付けろと怒鳴っても誰も言い返せないだろうに、この人はどうして平気そうな顔で立てるのだと大淀は顔を青くしたり白くしたりと大忙しである。
投げ飛ばした本人たる神通が何度も頭を下げながら謝りつつ歩いてくるという器用な登場をしたところで、提督はまた「問題無い」と片手を振った。
「それで、いつもこのような訓練をしているのか? どうなんだ?」
その問いに、全員が当然だと頷けば、提督は「はぁ……そうか」と溜息を吐いた。
何を意味する溜息だったのか、大淀を含めた全員が分からず。
しかし続けて提督が「怪我の無いようにだけ気を付けてくれ」と言った事で、鳥海が反応を示した。
「白兵戦における訓練に、怪我をするな、と?」
提督は鳥海に顔を向け、当たり前だろう、と一言。
「訓練に多少の怪我はつきものかもしれんが、あんなに投げ飛ばされては軽い怪我では済まないぞ」
提督は艦娘の頑丈さについて知っているはずである。知らないはずもない。
例え神通が綾波を投げ飛ばしたとて、訓練にはよく見られる光景で、おおよそ、綾波が力いっぱいに神通へ向かっていったところをいなされ、その力を返されて飛んだだけ。
地面に落ちようが、玄関に強くぶつかろうが、怪我らしい怪我などしないだろう。
だが、軽い怪我では済まない、という表現は妙に引っかかった。
鳥海はさらに問う。
「実戦を想定して、仰られていますか……?」
提督はまた、当たり前だろうと一言。
「実戦を想定して行うのが訓練だろう」
当然たる答え。そのため、誰もぐうの音も出ない。
そして提督は「やはり私がいては邪魔だろう。執務室へ戻る」と言って背を向けたが――神通が、待ったをかける。
「お、お待ちください提督!」
「どうした」
「提督は、このような訓練は、したことが……?」
「……無いが」
無い――? あり得ない。
海軍にいる以上、訓練兵だった時代もあるはずで、その訓練が受けられないほどに戦闘が激化した時代など、私達が現れるまで無かったはずだ。
全員が訝し気に提督を見る。
その中で、神通が提督を見て、さらに問いを投げかける。
「では、訓練無しで、戦闘を?」
「……訓練も戦闘もしたことなど無い。私をなんだと思ってるんだ。仕事しか出来ん男だと言っただろう」
その言葉で、全員が確信した。
戦闘とは兵器を用いて攻め、時に防ぎ、相手を制圧する事だ。
往々にして、それは――どちらかが息絶えるまで行われる。
特にこの時流において、それは重く意味を持つ。
では提督の言う戦闘も訓練もせず、仕事しか出来ないと言って現在の地位にいる理由は?
簡単な事である――どれだけのエリートであれ必ずや行われる戦闘訓練を経験していないと言ったこの男は――仕事と表現したのだ――経験したのは、全て任務での【一方的制圧】――。
「提督、先ほどの無礼に並び、無理を承知でお願いします」
「どうした神通、何故頭を下げ――」
「どうか私と、一戦を」
「……無理だ」
「何故ですっ! 提督は、私達を支え、私達は提督を支えるために、訓練を――!」
神通は根っからの努力家である。
その性格は広く知れ渡っており、鎮守府ごとに違う性格を持つ艦娘であっても神通という艦娘は努力家、という面は必ず持っていた。
ここ、柱島における神通も多分に漏れず、そうであるように。
神通とてなにも本気で組手をしようとは思っていない。
どれだけ強靱な肉体を持つ相手だろうが、人と艦娘である。
本気を出してしまえば、反応さえ出来ず大怪我することは必至。
提督が顔をしかめて断るも、神通は食い下がる。
「それは分かっている。私自身が頼んだ事なのだ、感謝もしている。しかし訓練となると私は役に立てんのだ……分かってくれ。きっと相手にならん」
相手にならん、と言った瞬間、まずい! という顔をしたのは、天龍と摩耶、そして鳥海。
龍田はすぐに一歩引き、綾波は神通の前に立ちはだかる。
「……い、今、なんと」
「相手にならんと言ったのだ。時間の無駄だ。お前達を邪魔しに来たわけでは無く、私は大淀が早めたスケジュールに問題が無いか確認したいだけなのだ」
「私が、あい、てに……ならないと、仰いましたか……提督……?」
「神通さん、落ち着いてください! きっとそういう意味では――!」
そして、この柱島に集められた艦娘は、欠陥と呼ばれた者ばかり。
神通が欠陥と呼ばれる理由は――飽くなき強さへの探求、などと生ぬるい表現では足りぬ――
「御免ッ――!」
――負けず嫌いである。
前鎮守府では捨て艦作戦にて突貫し、駆逐艦が討ち漏らした深海棲艦を撃滅せんと立ち向かった。それこそ、轟沈寸前まで。
しかし多くの仲間を失い、その上で前提督に罵倒され、弱いと言われた。
生きて帰って、褒められもせず、罵詈雑言を浴びせられ、日々積み重ねた努力さえ否定されてきた神通には、我慢のならない言葉である。
神通が目にもとまらぬ速さで綾波の脇へ片腕を滑り込ませ、綾波の片足に自らの片足をかけて力いっぱい腕を振りぬく。すると、強制的に軸足で回転させられた綾波は木の葉のように横へ吹き飛ばされてしまう。
一歩。
天龍と摩耶がとびかかった。同じ軽巡洋艦の天龍ならばまだしも、馬力の違う重巡洋艦の摩耶でさえ――歯が立たない。
先ほどと同じ手順で地面へ転がされる天龍。逆側から手を伸ばす摩耶の手首をつかみ、神通は流れるように懐へもぐりこんだ。
一呼吸さえも許されない刹那、神通の小柄な背中が摩耶の胴体前面を強く打つ。
衝撃はあっという間に全身へ広がり、摩耶は肺から空気が押し出され、う、という声しか出せず、地へ伏す。
二歩。
鳥海が神通の背後から右腕を掴んだ。続けて後ろへ引っ張ろうとした時、神通の身体は驚くべき反射神経で腕を掴み返し、ただ、半回転させる。
人間の構造とは複雑で、様々な方向へ力を入れる事が出来る。しかし、関節は別である。一方にしか曲げられない関節を多く持つ事で、人の身体は全方向へ対応しているにすぎず、関節自体は一方にしか曲がらない。
鳥海が上から神通の腕を取り、神通が後ろ手を右側へ回転させるだけで、鳥海の腕の関節は全て逆側へ曲げられ、痛みから逃れんと反応すれば――まるで魔法のように地面へ身体を打ち付ける結果となる。
三歩。
もう提督は目の前にいる。大淀は提督の後ろにおり、神通を防ごうにも間に合わないだろう。
しかして伏兵は常に背後にいるものである。
そう、提督の背後では無く、神通の背後には、鳥海の他、龍田が残っていた。
龍田は天龍譲りの戦闘センスを持っているためか危険を察知する能力に長けている。仲間であれ、これは危険であると判断すれば最大限の武力で制圧を試みる。
仲間にして頼もしく、敵にして絶対に相対したくない艦娘は誰かと問われたら、多くの艦娘が龍田の名を挙げるだろう。
神通を一瞬でも無力化するならば足だ、と判断した龍田が足払いをかけようとすらりとした右足を突き出すも、神通は意識の外から来た攻撃さえ予測していたかのように跳躍。
もう、間に合わない――誰もが悲惨な未来を想像してしまったが――
「あっ……ぶない! 何をしている神通!?」
――神通が跳躍したのに合わせて、提督はたった一歩、進んだだけである。
しかしその一歩で跳躍した神通の真下へ移動し、落下した神通を、事もなげに受け止める。
「ぇ……?」
何をされたのか、一番理解できていないのは神通本人なのは言うまでもない。
「くっ……!」
抱きすくめられるような、いわゆる、お姫様抱っこされた状態であっても一撃を与えんとする神通がもぞもぞと動くが、提督はまたも「危ないだろうが!」と怒鳴って神通の背と足に手を回した状態で、折りたたむようにその場でしゃがみ込んだ。
こうなるともう反撃どころでは無い。
武道場にいる誰もが、相手にならないという言葉が、そのままの意味であったと理解する。
「うっ……く……なん、で……動きが、読まれ……ッ!」
神通は絶望していた。
しゃがみ込んだ提督が、腕を開いて神通を離し、地面へ座らせた後も、顔を真っ赤にしたまま。
「神通、怪我は無いか!? お前、どうして突然……!」
「一戦を――!」
一戦を交えたかった。そう言う前に、提督の怒号が飛ぶ。
「遊びではないんだ! 怪我をしないようにと言っただろう!」
「ぁ……」
そして――神通は、静かに謝罪した。
強制的な権力でもなければ、自らを圧し潰すような物量でもなく、ただ一人の男に向かって、拳もなく、足もなく、まして、痛みも無く――完全に敗北した。
「申し訳、あり、ま……せ、ん……」
その敗北は――神通の未来を決する。
「う、くぅぅっ……」
敗北の涙は、華の二水戦と呼ばれた艦の魂を揺り起こす。
大淀はここでやっと気づくのだった。
これは見回りではなく――提督直々の指導なのだ、と。
故に、直接的に怪我をする可能性のある武道場に足を運ぶのを躊躇ったのかと納得するも、時すでに遅し。
神通が涙を流してしまった事により、指導どころでは無くなってしまった提督は、地面に座り込んだ神通の背を何度も擦りながら「やはり怪我をしたのか!? どこだ!? どこが痛む!?」と聞いているし、吹き飛ばされた綾波達は顔を真っ青にして提督を見ているしで、滅茶苦茶である。
事の発端は自分の我儘であることを自覚している大淀は、頭を抱えてしまうのだった。