柱島泊地備忘録   作:まちた

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七十五話 腰【提督side】

 腰の痛みが時間の経過とともに変化していく。今は、痛みが引いている。

 綾波を受け止めてから神通のダイブを食らって、あれからどれくらい経ったか。

 一時間か二時間、いや、三時間くらいだろう。

 

 武道場を出てからすぐに、俺は大淀へ「一人にしてくれるか」と言って別れた。

 昼の時間は疾うに過ぎており、俺は昼食を食べる事も出来ないまま――柱島鎮守府にある波止場に来ているところである。

 俺を探しに来たであろう大淀が波止場のビットに奇妙な恰好で座っているのを見つけて話しかけてきたが、俺は海の向こうで演習をしているいくつかの小さな影を見つめることで再び痛みが襲ってくる前に腰を落ち着け回復に専念しつつ、脂汗をしきりに親指で拭うばかりだった。

 

「提督……その、食事を、済ませてまいりましたが……」

 

「……そうか」

 

「提督はよろしいのですか? 間宮さんや伊良湖さんが食事を用意しておいでですよ」

 

「今は……すまん、ちょっとだけ、待ってくれ」

 

 んんんんん! これはやっちまってるぜェッ!

 

 俺は過去に二度、ぎっくり腰というものになった経験がある。故に慌てていない。

 だがこの痛みは三度目の経験となれど慣れるものではない。外という事もあって横にもなれず、最短距離で休める場所を探した結果が――ここ、波止場だったのだ。

 

 ぎっくり腰で下肢の痺れや異常な痛みが数日続く場合などは病院に行くべきだが、今回の痛みは案外すぐに引いてくれたので、腰回りの周辺の筋肉が攣っただけの可能性もある。社畜は腰回りの知識が案外深いのである。

 

 だが……少しでも動けば違和感もある上に、腰を攣った瞬間、すぐに動きを止めたりせずにダイブをかましてくれた神通をそっとおろしたり――艦娘を地面に放り投げるなど選択肢にない――怪我をしていないかどうか、しゃがみ込んだ格好でぐりぐりと腰を捻るような動きも厭わず調べてしまったものだから、追加ダメージが酷い。

 ぎっくり腰だか腰の筋肉が攣ったのだか素人の俺には判断できないが、唯一分かる事は、痛みがあるのに動かしてしまったという間違いを犯したということだけだ……ッ!

 

 ひぃん……痛いよぉ……。

 

 大淀が俺の斜め後ろに佇んだまま、あの、とか、その、と何かを言いかけては、すみません、と謝るような奇怪な行動をとるものだから、俺は軍帽を被り直しながら言った。

 

「どうした、言いたい事があれば、言ってくれ」

 

「……私では、ダメですか」

 

「何がだ」

 

「提督が、お話ししてくださらないのなら、私は待ちます……でも、私でダメなら、鎮守府の、誰でもよいですから……話してくださいね」

 

「……うむ?」

 

 別に話すことは無いけども。大淀でもいいなら話すとかではなく、ちょっと腰を揉んでくれマジで。

 大体お前がスケジュールを変更しなければ鬼教官の神通にジャンピングアタックされなくて済んだんだぞ! 揉め! 優しく揉めオラァッ!!

 

 ……そうだね。これはただのセクハラになるね。ダメ、絶対。

 

 くだらない事を考える俺への天罰なのか、じわり、と腰に痛みが戻る。

 またも、っく、と声を漏らしてしまった俺は、誤魔化すように左の拳を口に当て、右手でさらに目深に軍帽を被る。痛すぎて涙出そう。いや出てる。

 

「……っ」

 

 待って待って、本当にごめん大淀。全部俺が悪くて、大淀様が正しかったです。

 だからほんっとうに腰の痛みどっか行ってく――んんぁぁあああああッ!!

 

 これが自業自得というものです。

 

 大淀に落ち度は無い、と心の不知火もお怒りである。

 普段からきちんと運動をしていれば、あの程度のことで腰を痛めることなど無かったのだ。仕事が忙しいからと椅子に座りっぱなしならば誰だってこうなる。まもるも、こうなる。

 

「っぐ、ぅ……」

 

「提督……?」

 

「……すまない、今は、少し、待ってくれないか」

 

 震える声でそれだけ伝えて、痛みを逸らす方法を考えねばと仕事をしている時よりも高速回転する思考。多分、この思考速度で作業をすればいつもの半分くらいの時間で仕事は終わるだろう。

 

 別の事を考えろ、痛みから意識を逸らすのだ、まもるぅッ……!

 

 そ、そうだ。訓練! 訓練の事でも考えよう! 本はと言えば俺が見回りを始めると言い出したことなのだから神通は悪くない! 綾波も訓練して吹っ飛ばされただけだ! それが既におかしいわけだが、いやいやおかしくない! 身体を鍛えておかなかった俺が悪いのだ! いやぁ、それにしても、向こうで訓練をしてる艦娘達は一体どんなことをしているんだろうか? 遠くにいても、祭りの時に響くような断続的に聞こえてくる、ドン、ドン、という砲撃音。懐かしいような、それでいて迫力がある不思議な感覚である。艦娘だってあんなに頑張っているのだ。俺のような社畜こそもっともっと頑張って愛する艦娘のために生きねばならないのだからこんな腰痛程度で弱音を吐くわけには――

 

 ――あっ、ダメだ……これ……。

 

 痛ぁいッ! 説明不要ッ! 思考中断ッ!

 

「く、くそっ……くそぉっ……どうして、こんな時に……」

 

 痛いの……。

 

 人間に備わっている、我慢という機能。それらはかなりの広範囲をカバーできる素晴らしいものだ。我慢しよう、と意識しただけで大抵の感覚はどうにかできる。

 もちろん、感覚を消す、なんていう魔法のような機能では無いが、表情に出さない、声に出さない、人に悟られないようにするには十分過ぎる機能である。

 

 しかし、我慢できないタイプの感覚だっていくつか存在する。そのうちの一つが、痛みである。

 大抵の痛みは我慢の範囲内にあるが、やはり人間は完璧な存在では無い。範囲外の痛みだって存在する。それらの中で誰にも身近であろうものが、歯痛と、腰痛である。

 

 現代医学によってあらゆる痛みを薬などで凌ぐことが出来るようになった人類だが、逆を言えば薬が無ければ我慢は出来ない。当然の摂理である。

 俺の手元に薬は無いし、柱島に腰痛に効く薬がありますか? と聞いても答えはノーだろう。訓練で怪我をしたときの艦娘は入渠をすれば修復が出来るのだから、そもそも医務室にある俺専用のものはちょっとした怪我に対応できる程度のものばかり……そして、今、言うべきでは無いが……俺はもし薬があったとて、使いたくなかった。

 

 何故か? 簡単だ。入渠で済むとは言え、艦娘がどんな怪我を負うか分からないし、俺にその方面の知識がないため、万が一のために残しておきたいのである。

 

 提督だからね。艦娘が優先なのは当然だね。

 

 以上の事から、ぎっくり腰で再起不能であると確信に至るまでも無い状態ならば、俺は耐える以外の選択をしたくなかったのだった。

 

 ――……もう、大の大人が泣いてるわけだが。

 

「てっ……い、とく……?」

 

 大淀が驚いたような声で駆け寄り、片膝をついて俺の背中に手を当てる。

 背中じゃねえんだ大淀……腰、腰なんだよ……!

 

「すっすまな、い……幻滅、したろっ……は、はは……ぐっ……ぅぅ」

 

「い、いえ! そんな……そんな事ありませんッ!」

 

 大声を出すなァァアアッ! 腰に響くだろうが眼鏡っ娘がァァッ!

 

「っ……」

 

 びくりと震えただけで腰がぴきぴきと痛みを訴える。

 大淀はそれを見て「す、すみません……!」と謝罪した後、また、あの、と言葉を探すように口をもごもごと動かした。

 

 後ろにいたから見られていなかったというのに、すぐ横に来たものだから、大淀にはおっさんが号泣した情けない顔を見られたことだろう。

 たかが腰痛と侮るなよ大淀、お前が艦娘であったとしても、事務を基本とするならばいずれは訪れるかもしれん未来なのだ、これはッ……。

 

「その、どう、して……提督は、泣いて……――」

 

 腰が痛いからだよッ!

 

「痛いのだ……こんな痛みは、もう二度と、味わいたくないと、思っていた……」

 

「痛み……」

 

「情けないが、医者を呼べるなら、この痛みを、どうにかして欲しいくらいに、痛いのだ……」

 

「……」

 

 俺の背に添えられた手が震えている。あぁ、大淀……分かっているとも……。

 たかだか女の子を受け止めた程度で腰をやるなど、俺は提督失格さ……。

 

 でもこれはどうしようも無いってぇ! 愛する艦娘が相手でも不可抗力じゃんかこんなのよぉ! んんんんん! 痛いデース!

 

 だめだハイテンションで誤魔化そうとしているが無理だこれは。

 

 しかし、痛みから意識を逸らさねばならない、と話し続ける。

 そうすることで多少は楽な気がしたのである。

 

「昔も、あったんだ……こういう事が……私がまだ、働き始めてそれほど経っていない頃に……同期が片付けられない仕事を頼んできてな、私は、この程度どうってことないと思って、それを引き受けた……かなり時間はかかったが、どうにか、その仕事を終える事が出来た……ふふっ、これを、慢心というのだろうな」

 

 軍帽を目深に被ることでは既に誤魔化しきれない程、ぼろっぼろに泣く俺。痛いです。

 

「同期も言っていたよ、痛い、痛いと。もう嫌だと言っていた……医者にかかろうが、これは職業病のようなものだ……慢性的に麻痺した感覚でも、身体は正直なものでな……ふとした時、襲ってくるのだ……まるで、悪夢だ」

 

 大淀は黙ったまま話を聞いていたが、横で、ぐす、と鼻をすする音が聞こえてきて、首を動かすのも怖かった俺は視線だけをそちらに向ける。

 よく見えないものの、大淀が眼鏡を外し、目元を拭っているのだけは分かった。

 

 ごめんて……腰痛だけでこんなに弱音吐くような奴いなかっただろうが、社畜にとっては切っても切れない問題なんだよこれは……。

 

「お前に聞かせる事では無かったな。すまない、忘れてく――」

 

「そんな、こと、ありませんっ……わ、私、ちゃんと、聞いていますから……提督のお気持ち、聞いてます、から……」

 

 うーん、女神かな。

 

 いや待て。大淀は艦隊これくしょんで実装されるまで任務娘と呼ばれ立ち絵だけの存在だった――ともすれば、彼女はそれまで事務仕事ばかりしていた可能性も……。

 

 ここまで考えた俺は、止められない涙を拭う事もせず、そうか、と言った。

 

「お前達の苦しみとは違うだろう……こんなもの、お前達の境遇と比べるまでもない……だが、だがな大淀……私は、弱い……」

 

 特に腰……。

 

「ちょっとした衝撃で身体が思い出したのかもしれん。私が忘れたと思い込んでいるだけで、身体は、忘れていなかったのかもな」

 

「はい……はいっ……」

 

 待て、これでは艦娘のお前らが重たいせいでぎっくり腰になっちまったじゃねえか! うわーん! と情けなく泣いている男に見られかねんではないか。

 決してそんな事は無い、訂正せねばッ!

 

「お前達の、は、羽のように軽い、身体が……」

 

 普通の健康体の女性くらいの重さはあった気がするが、いいやここはもう、大袈裟なくらいに軽いって言っとけ! と、俺は半ばやけくそになりながら言葉を紡いだ。

 

「……書類一枚で片づけられるような、身体が、私には、痛くて、痛くて」

 

 支離滅裂である。自分でも分かっているが、痛みというのは往々にして正常な思考を乱すものだ。

 流石に我慢云々の問題では無くなってきたところで、俺は諦めて大淀に頼み込んだ。

 

「二日、いいや一日でいい、休ませてくれないか」

 

「えっ……?」

 

 大淀の上げた声に、俺は何も言わず。ただ、ほんっとすみません、一日だけ安静にさせてください。という想いを込めて目を閉じた。

 

「わかり、ました」

 

「……すまない」

 

 渋々といったところか……そらそうよね……。

 しかし柱島の頭脳大淀に許可がもらえたのだから、素直に休ませてもらおうと、俺は腰に出来る限り刺激を与えないようにそっと立ち上がり、その場で静止。

 すぐに動いては再び激痛が走る可能性もある。

 

 手の甲を腰に当てて支えながら、三度浮かぶ脂汗を軍帽の内側で拭うようにして深く被り、子どもかお前は、というレベルでぐずぐずと鼻をすすった。痛い。

 

 遠くで演習をする艦娘に心の中で謝罪する。ぎっくり腰で休みます、と。

 

「大淀……執務室まで、傍に、いてくれないか」

 

「……はい」

 

 少し落ち着いた腰に痛みが走らないよう祈りながら、ゆっくりと振り返り、首を若干下に向けて歩き始める俺。

 幸い、執務室まで痛みが襲ってくるようなことも、道中で他の艦娘に会うことも無かった。

 到着した執務室に入る前に、大淀に言いつけておく。一応ね、仕事だからね。

 

「今日と明日については、お前のスケジュールに任せたい。問題が起こった場合は、すぐに知らせてくれ」

 

「了解、しました……」

 

 ベッドで休んだ方がいい事は分かっているが、今はもうソファでもいい、早く横になろう……。

 

「あ、あのっ! 提督っ!」

 

「っ……ああ」

 

 ドアノブに手をかけたところでかけられた声に驚いて、身体がまたもびくんと跳ねる。痛みは無かった。セーフ。

 

 もおおおお大声を出すなお前はヨォオオッ!

 

「私は――わ、私達は! あなたの傍にいますから! 決して、お一人には、しませんっ! だからっ……――」

 

 そら同じ職場なんだから一緒に決まってるだろいい加減にしろ連合艦隊旗艦!

 それ以上訳の分からんことで呼び止めたら大泣きしながらお前の眼鏡に指紋つけるぞ! オラァッ! 嫌だろうが! さっさと休ませてくださぁいッ!

 

「……ありがとう」

 

 でもありがとう大淀。優しいね。

 艦娘は提督に対して特効ダメージを持つので仕方が無い対応である。

 まもるがチョロいわけでは無いのだ。

 

 

* * *

 

 

 そして、執務室に鍵をかけ――万が一ソファに寝転がっているのを見られては気まずいので――俺は唸り声を上げながらうつ伏せになっていた。あれからまた、二時間後のことである。

 

「うぅぅっ……痛い……何年振りだこんなの……」

 

『まもるひんじゃくー』

『ひんじゃくひんじゃくぅ!』

 

「やめろ! うるさい!」

 

『やーいやーい!』

『つついちゃお。つーんつーん』

 

「っぐぉぁあああッ! や、やめろ! やめてくれ! 頼む!」

 

 そして妖精にいじめられていた。流石に酷いのではないだろうか。

 しかし、それに対して俺が言い返すにとどまっているのには理由があった。

 

 ぎっくり腰のため立ち上がって捕まえ、デコピンをお見舞い出来ないから、という理由以外に――つついちゃおう、と言った妖精を筆頭に、どこからか持ってきた湿布を貼ってくれているのである。

 

 いじめながら労わるとかこいつらほんとブラック企業の上司みたいだな……。

 

 しかし可愛いので、まもるは大丈夫です!

 

「フーッ……フーッ……! 貼るだけなら普通に貼ってくれ、頼むから……!」

 

『えへへ』

『ごめんね』

『いっぱいがんばったね』

『ようせいじるしの、とくせいしっぷです!』

 

 許した。

 

 って、いかん! これでは俺が本当にチョロ提督になってしまう!

 ここはぎっくり腰にかこつけて、真正面から何でも言ってやれ、と口を開いた。

 

「大淀から一日は休みを貰えたからな、悪いが仕事は無しだ。この痛みが引くまではとてもじゃないが動けん」

 

『えぇ……』

『サボリじゃぁん……』

 

「病欠だろこれはッ!?」

 

 なんて厳しい……! しかし俺は妖精へ言い返す。

 

「い、いいんだな……無理に働かせれば、大事なものを失うぞ……」

 

『な、なに!?』

『まもるいなくなるの!? やだやだ! ごめんね!』

『やだよー! まもるー!』

 

 腰の上でぴょんぴょんと跳ねていた妖精達がふわふわと俺の眼前まで飛んできて、頭を下げたり、頬にぴったりと抱き着いてきたりするものだから、面食らってしまう。

 

「えっ、あっ、いや、金平糖を伊良湖に作ってもらわないぞ、と……」

 

『いらない! まもるがいればいいから! だからいなくならないでー!』

『うわぁーん! やだやだぁ!』

 

 な、なんだこいつら……俺がいればいいなんて、可愛い事言うじゃないか……。

 へへっ、馬鹿だなぁ、俺はいなくなったりしないさ……。

 気恥ずかしさを感じながらも、冗談だ、と笑った。

 

「冗談だ、私はここにいるとも。妖精と艦娘がいなきゃ、私が提督でいる意味も無くなってしまうだろう? 金平糖だってちゃんと伊良湖に頼んでおいてやるから、な?」

 

『あたりまえでしょうがー! このー!』

『こんぺいとうのうらみー!』

 

 妖精は泣いていたかと思えば、またふわりと飛んで俺の視界から消え、腰に衝撃が走る。

 

「いぃぃッ!? 金平糖の恨みっておま、お前ぇッ! 結局それかよぉッ!」

 

『今日と明日はがまんしてあげます』

 

「……すみません、助かります」

 

 妖精にさえ負けるまもるです。本当にお疲れさまでした。

 この鎮守府のヒエラルキーは、頂点から、大淀、あきつ丸と川内、他の艦娘達と妖精、最下層が俺、という構図だろう。切なさが炸裂しそうである。

 

 と、ここであることに気づく。

 

 妖精がぴょんぴょんと跳ねていた腰から、いつのまにか痛みが消えていたのである。

 

 横になって時間も経っているし、どうやら湿布が効いてきたらしい。妖精がいなければ数分で治まっていたかもしれんが。ま、まぁいい。

 

「……ついでに、寝ようかな」

 

 まだ日は高い。

 こんな機会もなかなか無いだろう、と俺はそのまま目を閉じた。

 

 妖精は相変わらず俺の腰を公園か何かと勘違いしてるのか、おままごとを始めたが、それがまるで、窓の外で遊んでいる子ども達の声を聴きながら労働にくたびれた身体が溶けていくような、あの頃のようで、意識はゆっくりと落ちていった。

 

 

 

 ジリリリリン――ジリリリリン――!

 

 

 

 黒電話のベルがけたたましく鳴り響き、部屋を劈いた。

 はっとして意識が急浮上し、身体を起こそうと腕を立てた瞬間、腰に若干の痛みが走り、一時停止。

 

「電話が――! いっ……てぇ……ふぅ、ゆ、ゆっくり、ゆっくり……」

 

 いつのまにか妖精達はいなくなっているし、窓の外を見れば、既に太陽は無く、代わりに満月が昇っていた。

 

 ベルは絶え間なく鳴り続けており、そうだった、と俺はそろそろとした足取りでデスクまで行くと、受話器を上げる。

 

「……こちら柱島鎮守府、執務室」

 

 寝起きで声がガラガラである。すみませんね。

 

『鹿屋基地、清水中佐であります! 夜分に申し訳ありません、閣下!』

 

 声うるっさ!? 耳キーンなるわ! 清水お前ェッ!

 うっ、と顔をしかめ、一瞬、受話器を耳から離す。

 

「静かにしろ、夜だぞ」と俺が言えば、清水は『し、失礼しました……』と謝罪したが、それより、と言葉を続けた。

 

『申し訳ありません閣下、その、本日、南方海域開放についての記者会見と事後の報告のために軍議がありまして――』

 

 寝起きに聞かされる仕事の話ほど頭に入らないものは無い。

 あーはいはい、と片耳をほじりながら話を聞いているようで聞いていない俺はおざなりな返事をする。

 

「うむ。そうか、ご苦労だったな」

 

『いえ、そんな、自分は何も……』

 

「それで、軍議がどうした」

 

『その、軍議と言えど、要するに褒章を与えるという話を井之上元帥自らが周知させるための形だけのものであったのですが、国内の鎮守府間にある軋轢が自分が予想していたよりも酷くなっている様子でありまして……――その原因が、南方海域なのだろう、というのは分かったのですが……』

 

「閉鎖されていたのが開放されたのだ、悪い事はなかろう」

 

『それはもう、閣下の仰られる通りで……しかし、その、舞鶴と佐世保に至っては憤慨しておるところでして……そのぉ……えとぉ……』

 

「……はっきり言わんか」

 

『は、っは! 佐世保の提督、八代元少将が大本営に二日滞在の後、佐世保に戻る際に、呉と、柱島を見てみたいと……視察とともに、柱島との演習を、望んでおられます』

 

「断れ」

 

 即答である。演習の申し出はありがたいが、今はそんな場合ではないのだ。

 明日は丸一日休むつもりな上に、その次の日にすぐ演習など無理だ。

 

 いくら限界社畜のまもるであっても出来る事と出来ない事ぐらいあるんだぞ!

 

 寝起きの頭が覚醒しはじめ、清水の立場もあるのだろうが、と俺は言った。

 

「お前の立場もあろうが、明日は諸事情で一日空けられん。二日後になると言っても、こちらも用意が出来んのでな……清水に押し付けるようで悪いが、どうにか断ってくれんか」

 

 相手は少将――階級的に部下と言えど俺にとっては大先輩である。

 話したことも無いような上司、もとい大先輩に対して断りを入れるのは気が引ける……人に押し付けるというのも失礼この上ないが、分かってくれ清水ゥ……。

 

『し、しかしぃ……』

 

「どうにか、頼めんか」

 

 うーん、とお互いに唸っていると、執務室の扉がノックされた。

 清水に一言断り受話器を置いて、扉まで歩いて鍵を開けてみれば、大淀がお盆に料理をのせてやって来たようだった。

 

「すみません、電話中でしたか……」

 

「構わん。そうか、もう晩飯の時間だったか……わざわざすまないな」

 

「……いえ」

 

 何だか暗い雰囲気の大淀に「大丈夫か?」と問えば、はい、と返事されるが、明るい声に似合わない引き攣った笑顔だった。

 腰痛如きでダウンしてしまった俺を情けないと思っているに違いないが、取り繕ってくれてるだけでもありがたい限りである。

 

「そこに置いておいてくれ。食器は後で持っていこう。……っと、すまないな清水。それで、どうだ、やはり難しそうか」

 

 デスクに戻ってから受話口に向かい改めて問えば、清水は申し訳なさそうに『自分では、どうにも』と言う。

 

 うーむ、これは困った。演習自体は構わないが、大淀のスケジュール変更がかけられたのは今日で、その二日後には他の鎮守府と演習をするから予定を変えてくれないか、とも頼みづらい。

 だが清水だって上司の相手をしていたわけで、伝える先である俺も清水の上司にあたるのだからさらに心苦しいことだろう。

 

 今日だけで大淀に何度謝罪したか分からないが、ここは俺が折れて清水を助けてやらねばならないか、と、食事を置いてお茶をいれてくれている大淀に声をかける。

 

「清水、少し待て。大淀、少しいいか」

 

「はい、どうしました?」

 

 受話口を手で押さえた状態で、端的に事を伝えれば、大淀は逡巡するような様子を見せていたのだが、それも十数秒のことで、わかりました、と短く答えた。

 

 わ、わかりました? え? いいの?

 

「……い、いいのか、私が言うのもおかしな話だが、二日後だぞ?」

 

「はい。スケジュールを調整するのには問題ありません」

 

 お、大淀ぉ……! やっぱ女神じゃぁん……!

 

「そうか。助かる。私も明後日には仕事に戻るから、調整は頼む」

 

「私は問題ありませんが……提督は、大丈夫ですか……?」

 

 俺の腰の心配まで忘れない。艦娘が俺を気遣ってくれている事実だけで大丈夫以外の答えが無いが? ありがとう! ……すみません。

 

「あぁ、それまでには、戻れるようにしよう」

 

「……はい」

 

 大淀がお茶を入れに戻ったところで、俺は清水に言った。

 

「何度もすまんな。スケジュールの調整を行うから、視察と演習の申し出を受けよう。二日後で間違いないな? 時間は?」

 

『閣下……! 二日後の、昼過ぎにはそちらに到着するとの事です。山元大佐も柱島に行くことになると思いますが……』

 

「ふむ、山元も来るのか。ならば山元も艦娘を連れてくるのか?」

 

『恐らくは。八代少将との演習ですが、軽巡洋艦一隻……阿賀野、という艦娘をご存じでしょうか』

 

「阿賀野……うむ。もちろん知っている」

 

『練度も極めて高く、今や前線に出ている艦娘の中でも油断の出来ない相手でしょう。自分がお伝え出来る情報は、これが精一杯で――』

 

 う、うん? 阿賀野が演習に来るのは分かった。他は?

 

「他は」

 

『ほ、他でありますか? 申し訳ありません。同じ提督と言っても佐世保の提督は少将でありますので、自分が調べる事は難しく、事前にお伝え出来るのも艦娘のことだけでして……』

 

「い、いや、そうではない。演習を行うのだから他の艦娘も来るのだろう。ならばその艦娘くらい分かるのではないかと思ってだな」

 

 当然の問い、だと思ったのだが、清水はそれだけでも十分な情報だろうと言わんばかりに驚いたような声を上げた。

 

『一隻のみでありますが……さ、佐世保の阿賀野ですよ!? 練度を差し引いても、戦闘能力の高さは現在の前線を引っ張っている海外艦と変わりません! 佐世保は見せしめに柱島の艦娘を痛めつけてやろうとしているのです! 閣下に銃を向けた自分が言うことでは、ないかもしれませんが……直接手を下すよりも、かなり、狡猾な手であると言わざるを得ません』

 

 そんな事もあったなぁ、とつい先日のことながら遠い記憶のように思い返す。

 必死になり過ぎて潮ビンタの方が痛かったと白状したことしか思い出せんけども。

 

 それに艦娘が艦娘を痛めつけるって。ないない。

 しかも一隻だけというなら、演習だってきっと簡単なもので、挨拶程度の形式的なものかもしれない。

 

「それについては、当日にならねば分からんが――最善は尽くす。心配はするな」

 

『……了解しました』

 

 重苦しい声で返事した清水は、電話を切る前に一言だけ俺に言った。

 

『これも、自分が言うことではないかもしれませんが――信じております、閣下』

 

「うむ? ……う、うむ」

 

 とりあえず任されました! 佐世保の提督と演習すればいいわけだろう?

 何かあったらきちんと謝るし、大丈夫だろ!

 

 俺の心の那智さんだって任せておけって言ってるから問題無い!

 

 それから、電話を切って、大淀が持ってきてくれた晩飯を食べ、食器を返しに行こうとしたら大淀に「私が持っていきますから、提督はお休みください」とまたも気遣われ、執務室に一人残った俺。

 

「はぁ……寝るか」

 

 数時間ごとに起きてしまう睡眠ばかりだったが――明日は丸一日、空いている。

 予定の調整は大淀に任せたし、今日は艦娘に腰を()()()()()以外はなんら問題はなさそうだった。ならば明日も大丈夫だろう、と楽観視しつつ、俺はまたソファへ身体を横たえた。

 

「あ、そう、か……明日……丸一日、寝られる……?」

 

 その時、改めてその事実を認識した瞬間――俺の意識は――

 

「やった――ぜ――……」

 

 ――社畜時代よりも早く落ちたのだった。


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