柱島泊地備忘録   作:まちた

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八十五話 濶ヲ縺薙l【豬キ蜴滄式side】

【次は――次は――降り口は右側です――足元にご注意――】

 

「……んぉ」

 

 仕事疲れから寝ていたようで、ぐらぐらと揺れる電車の中で響くアナウンスの声に目を覚ました。

 既に電車内に乗客の姿はなく、俺は座り直しながら取り落としそうになっていた鞄を抱えてもう一度目を閉じた。深呼吸すると、空調から香る独特の匂いが、今日の終わりを告げるように感じられた。

 

 ピリリリッ

 

 再びまどろみかけた意識が瞬時に浮上し、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出して画面を見た。上司の名……ではなく、そこには、母と表示されていた。

 時間は既に二十三時も近くなっており、実家で何かあったのかと心配した俺は、乗客もいないし構わないだろうと通話の表示をタップする。

 

「もしもし、母さん? どうかした?」

 

 電車の中で電波が悪いのか、ノイズが酷かったが、声は聞き取れた。

 

『ザッ……ザザッ……まもる? あんた、お盆は休み取れるの? 戻って来られそう?』

 

「え? あー……」

 

 もうどれくらい実家に帰っていないのだったか。

 仕事、仕事、仕事。悲しいかな、好景気とは程遠い現代で一流大学や専門学校などを卒業したわけではない俺は、名も知らぬような企業に就職して、労働基準法とは縁のない仕事をしていたため、両親とはめっきり連絡を取らなくなっていた。

 稀にこうして、生存確認をしてくれる母の電話には出ていたが、俺の口から出るのは決まって、

 

「ごめん。難しいかも……その、忙しくて」

 

 という、定型文だった。

 申し訳ない気持ちはあったし、正直言って、実家に戻ってしばらくはニート生活でもしたいと考えているくらいだ。

 しかし現実というのは甘くない。一人暮らしの俺は多くの税金を払い、家賃や光熱費などの固定費を払って、あとは少ない残金で日々の食事をまかないながら殆どを会社で過ごしている。

 

 高校、大学の頃の友人は地元で就職した者達ばかりで、俺だけが地元を飛び出して新天地を目指した。結果、泥沼の広がる世界しか無かったのだが。

 

 ブラックな仕事というのは不思議なもので、ブラックであると分かっていながら、ネットなどで愚痴る癖に、抜け出せない。抜け出す気力すらない。

 上司から理不尽な量の仕事を押し付けられ、スキルだけは一丁前に上がっていくものの、やはり、スキルが便利に、かつ正しく使われることなど無く、往々にして他人が楽をするために消費されていくばかり。

 そういった事が一度でもループすると、あと一回、あとこれだけ、今回だけ……と、無限螺旋へと足を踏み入れる事となる。それが、今の俺だ。

 

『……もう。ご飯は食べてるの? ちゃんと洗濯や掃除はしてる?』

 

「してるしてる。食べてるし、大丈夫だよ。俺もオッサンなんだから心配する事じゃないでしょ」

 

『それなら、まぁいいけれどね……お盆は一日でも難しそうなの? おじいちゃんの墓参りもあるし、せめて線香だけでも――』

 

「無理だって。休めないよ」

 

 俺が休めば仕事に穴があく。迷惑を被る人が出てきてしまう。そんな事は無いと頭では分かっていても、感覚的にそれを避けてしまうのもまた、ブラック企業ならではの思考というか、日本人的思考というか。

 いい歳したオッサンが母親に心配されるのも切ないものだが、今更になって顔も見たことのない祖父の墓参りなど、祖父も困るだろうと冗談めいて言ったところ、母は少し悲しそうな声で言った。

 

『そういう理由が無いと、帰ってこられないでしょう、あんた』

 

 母は分かっているのだろう。忙しい事も、それが正しい意味での忙しさで充実しているわけではない事も、こんな時間に疲れた声で電話に出る意味も。

 

『まあ、いいわ。ちゃんとおじいちゃんに挨拶しときなさいね。わかった?』

 

「わかったわかった。挨拶ね、はいはい」

 

 適当に返事してから、また、と言って電話を切った。

 すると電車は丁度駅に着いたようで、窓の外に滑り込むように駅の景色が流れた。

 

 がこん、と一拍の振動の後に電車が止まり、俺は立ち上がって自動ドアの前に立つ。

 自宅近くの駅は、この時間になると俺以外に誰もいないのが常だったが、今日は珍しい事に一人だけ男が立っていた。

 その男は不思議な恰好で、なんというか――冬場でも無いのに首元にファーのついたつなぎを着ており、きょろきょろと辺りを見回していて、かかわると面倒そうな雰囲気があった。

 

 仕事で疲れてんだこっちは、とそのまま電車を降りて改札へ向かおうとしたところ、目ざとく俺を見つけた男は野太い声で言った。

 

「おい! そこの!」

 

「うわ……もう、くっそ……」

 

 思わず漏れる声。男は無遠慮な足音をさせて俺に近寄って来ると、辺りを見回しながら大きな声で喋る。

 

「迷ってしまったようでな、すまんが道をお尋ねしたい」

 

「はぁ、どちらに行かれるんですか?」

 

 道案内をするつもりは無いが、教えるくらいなら時間もそう取られまいと答えれば、男は一言、駅の看板を指さして言った。

 

「きさらぎ、という場所を探している。俺はどうやらそちらに向かわねばならんようなのだが、ここはきさらぎでは無いだろう」

 

 見りゃ分かるよ。きさらぎってどこだ。木更津じゃないのか?

 木更津なら電車に乗り継げば行けるだろうが、この時間では無理だ。

 

「木更津じゃなく?」

 

「……失礼、耳が悪いのか」

 

 悪くねぇよッ! 失礼なオッサンだなこいつはよぉ!

 

「いえ、聞こえてます。すみません、その、きさらぎ? という場所はこの近くには無いと思うんですが……」

 

「なんと――では、困ったな」

 

 俺も困ってるよ。暑苦しいおっさんに話しかけられてよ。

 勘弁してほしかった。身体はだるいし、昼も夜も食べていないからか腹は痛いし、普段とは比べ物にならないくらいに足元も重く感じている。

 仕事に疲れているのだからと理由をつけて無視するべきだったかと後悔するも、時すでに遅し。男は顎に手をあてて呻っているし、俺は鞄を持ってぼんやりとした顔のまま、どうすんの……と突っ立ったまま。

 

「暫く飯も食っていなくてな……二日か、三日か……」

 

 嘘つけぇっ! そんな食ってなかったら倒れるわ!

 

「え、えぇ……交番とか……」

 

 ここまで言って、あ、と言葉が途切れてしまう俺。

 交番がないわけではなかったが、いかんせん距離がある。

 

 徒歩で行けば数十分で着ける距離を、どうしても案内するのが億劫で、仕方が無いかと鞄を開いて紙切れとペンを取り出して地図を描こうとした。

 

「どうした」

 

「ここから交番までの簡単な地図を描きますから、それで交番に行けばきさらぎってところも分かるかもしれません。簡単なもので申し訳ないですけど……」

 

「地図か、それは助かる! 礼を言うぞ」

 

 変な喋り方だなこのオッサン。季節の変わり目にはおかしな人が湧きやすいというが、その類だろうかと考えた矢先に、いや失礼だなそれは、と思い――ふと、笑ってしまった。

 なんだか矢継ぎ早の思考が、遠く、懐かしく感じられたからだ。

 

 仕事をしているときは、こうやって感情的なことは考えられなかったから。

 

「なんだ? なにか面白いことでもあったか」

 

「いえいえ、すみません。ちょっと疲れてて、変な事を考えちゃって。はい、これ地図です。分かりますかね……ここが今いる駅で……改札を抜けて、北東の方に向かって――」

 

 説明している間、男は俺と地図とを交互に見て相槌を打ちながら頷き、説明が終わって紙を手渡したところで、わかった、と返事した。

 

「手間をかけた、この恩は必ず。では、失礼する」

 

 左手に地図の描かれたメモを持ち、右手を額に添えて敬礼した男に対して、また、ふ、と笑う。敬礼って、今どきのオタクでもしないぞ、そんなの。

 そういえば彼は食事もしていないと言っていたな、と思い出した俺は、仕事で疲れているのに笑わせてくれたお礼に何かコンビニで食べ物でも奢ろうと、背を向けて去ろうとする男に声をかけた。老婆心である。オッサンだけど。

 

 ……これは老婆なのにオッサンと言う高度な――まあいい。

 

「あの!」

 

「む、伝え忘れか?」

 

「いや、ご飯、食べてないんですよね?」

 

「う、うむ……情けないが、この駅の近くをずっとうろついていてな、来る者もおらず困り果てていたところだったのだ。金も無い」

 

 やべぇじゃん……ホームレス、には見えんが……。

 俺の自宅近くの駅は人が少ないというわけでも無いが、偶然、声をかけても答えてくれる人はいなかったというところだろうか。

 妙な恰好をした古のオタクみたいな敬礼をするオッサンの相手なんざ誰もしたくないだろうが、それでも無視することはないだろうに、と憐れみを覚えてしまい、あらあ、なんておかしな声を出してしまう。

 

 ここで会ったのも何かの縁だし、コンビニの弁当程度なら奢っても構わんだろうと、俺は男へ提案する。

 

「自分もまだ飯を食っていないんですよ。弁当かなにか買って帰ろうかなって思ってたんですが――どうです?」

 

「その、良いのか?」

 

「良いも何も、何も食べてないなんて言われちゃ放っておけないじゃないですか。ここで会ったのも縁ってことで、ひとつ」

 

「……かたじけない」

 

 うーん、古風。

 

 それから足早に改札を抜けて駅を出たところまでは良かったが、困ったことに、俺の住む街もお疲れのようで――店という店に電灯は灯っておらず、シャッターはしめられているし、光る看板のひとつさえ無かった。

 我らが社畜の味方、二十四時間いつでも頼れるコンビニエンスストアすら改装中という張り紙が自動ドアに貼ってあり、ガラスドアの向こう側に見える冷蔵庫すらも動いていない様子だった。

 

 なんだよマジでよぉ……えぇ……!?

 

「どこもやっておらんようだが……」

 

「やってないですね……いや、おかしいな……何で……」

 

「ふむ……夜半ともなれば店じまいも当然か」

 

 当然なわけないだろ現代なめてんのかオッサン。

 ……俺もオッサンだったわ。

 

 どうです? と恰好をつけた手前、残念でしたねえ、では古のオタク(仮)に申し訳が無いと、普段ならば絶対にしなかったであろう提案をする。

 

「あー……仕方が無いか……! あの、自分の家が近いので、何か食べていってください。食べた後にでも交番に行きましょう」

 

「何? 俺を家に、あげると……?」

 

 そうだよ。文句あんのかよ。飯やらねえぞ。

 見るからに持ち物は無いし、強盗などでは無さそうだ。

 

 警戒するに越したことはないのだろうが、強盗ならば俺が間抜け面で地図を描いているときにでも鞄をひったくっていけただろうに、彼はそうしなかった。

 ひったくったところで財布には三万くらいしか入っていないのだが。それはいいか。

 

「食べ物を奢ると言ったのにやっぱり無かったですなんて、いい大人が情けないでしょう。助け合いですって、これも」

 

「そうか……助け合い、そうかぁ……!」

 

 笑顔のオッサンプライスレスです。

 俺の家にはレトルト食品くらいしかない気がするが、許せよな!

 

 そうして、俺はオッサンを連れて……いや、おじさん?

 古のオタク……我ながら全部失礼だなッ!

 

「そういえば、お名前をお聞きしても?」

 

「俺か? 俺は海原鎮という。うなばらを、しずめると書いて、海原鎮だ」

 

 

* * *

 

 

 道すがらに、同姓同名に出会った事に妙な感動を覚えた俺は興奮気味に自分とまったく同じだと彼に話して、いつのまにか仕事の愚痴を聞いてもらっていた。

 

「ふむ……同じ名の男がそのような境遇にいるのは、聊か気に入らんな」

 

「ほんっとですよぉ! 俺の代わりにもっと言ってやってください!」

 

「お前の代わりに俺が言うのか? 自分で言わんか、それくらい」

 

「無理ですって……上司めっちゃ怖いんですから……」

 

 彼は聞き上手で、俺がどのような話し方であれ興味深そうに聞き入り、反応を示し、言葉を返してくれた。

 多分俺は、誰かにこうして話を聞いてもらいたかったのだと思う。

 

 何年も独りで過ごし、仕事での会話も少なく、毎日あるのは上司の怒鳴り声だけだった。

 彼もまた上司によく怒鳴られていたというのだから、話も盛り上がるというものである。

 

「上席が怖い事は、どこも同じだな。お前が先ほど言った、物を投げられるという、アレな、投げられるのは中々に怖いものだろう」

 

「あっつあつのコーヒーを投げられた時は流石に泣きそうになりましたね。いい歳して俺何やってんだろう、って」

 

「俺もな、こういう、長い棒でな、ケツを、ばしん! としばかれた事がある。何度もしばかれていると座るのもつらくてなぁ……」

 

「うっわ……えぇ? それ流石にヤバイんじゃ……」

 

「それを言うならお前もコーヒーなどという高級品を投げつけられて侮辱されているのだから変わらんだろう。火傷もしかねん」

 

「高級品っていうか、まあ、火傷はしましたけど……」

 

「だろうが。いつまで経っても消えん風潮とは、納得しがたい」

 

「そうですねぇ、本当――あ、ここです、ここ」

 

 話しているとあっという間に自宅に辿り着いた。

 家賃五万のワンルーム。殆ど寝るためだけに帰る場所で――俺の唯一の癒しの場である。

 

 そんな場所に初めて会った男を招き入れるなんて、面白い日もあったものだな、なんて考えながら男とエレベーターに乗り込み、ボタンを押すと、彼は「おぉ!」と面白い反応を見せた。

 田舎出身か――いやいや、エレベーターくらいは乗ったことあるだろうに、と思った矢先に、彼は面白い例え話をした。

 

「飛行機が離陸する前にな、こう、少しだけ足元が浮くのだ。それにそっくりだぞ」

 

「飛行機ですか。あれにも似てます、ジェットコースターとか」

 

「じぇっと……? いや、二重反転式のプロペラだが」

 

「プロペラでジェットコースターが走ったら怖いでしょ」

 

「そりゃあ乗るのは誰でも怖いだろうが、仕事なんだから仕方が無い」

 

「うん?」

 

「うむ?」

 

 話が嚙み合ってないが――ぽーん、という音とともにエレベーターの扉が開いてしまい、会話は中断されてしまう。

 それよりもさっさと飯を食って、彼を交番に送り届けよう。

 

 短い廊下を渡り、部屋の前に来ると鍵を開けて彼を招き入れた。

 汚くも無いが綺麗でもない室内には、ぼうっとしたPC画面の明かりだけがあり、そういえば艦これを起動したままだったのかと、それを横目に明かりをつけて冷蔵庫を開ける。

 

 冷蔵庫の中身も寂しいもので、栄養ドリンクが数本と、食べかけの総菜がいくつか。コンビニで貰ったはいいが使わないまま放置されたわさびだのからしだの、調味料の小さな袋が散らばっていて、興味深そうに冷蔵庫を覗き見る彼から隠すように身体を動かして栄養ドリンクを二本取り出し、冷蔵庫の扉を閉めた。

 

「……ちょっとだけ待ってくださいね。飲み物がこれで申し訳ないんですけど」

 

「これは?」

 

「栄養ドリンクです。水の方がよかったですか?」

 

「いや、これをいただこう。いやはや、面白いな、ここは」

 

「面白いっていうか、汚くてすみません」

 

「なに、宿舎と比べれば一流の旅館みたいなものだ。なあ、鎮、あれはなんだ?」

 

 オッサンも鎮だろうが、と心の中でツッコミを入れつつ、彼が指さす方向を見れば、PCがぽつりとデスクの上に置かれていて、俺が「ノートパソコンです」と答えると不思議そうな顔を向けられてしまう。

 

「あれが、ぱそこん、か。向こうで何度か見たが形が違うな」

 

 パソコンを触ったことが無い、という人は珍しいが、いないわけではないため、俺は便利な機械ですとだけ言って、台所の戸棚をばたばたと開ける。レトルトのカレーくらいあったろ……? あれぇ……?

 

「おい、鎮、来てくれ」

 

「はい? ちょっと待ってください、カレーをレンジに――」

 

「カレーか! ……んんっ、いいから、ちょっとこれを」

 

「なんですか、また気になるものでも?」

 

 戸棚にひっかきまわしてやっとのことで見つけたレトルトカレーとレトルトの白米。

 レトルトカレーを袋から出して皿に盛りつけると、キッチンラップをかけてレンジに突っ込み、同じく、常温保存されたレトルトの白米を二つレンジに入れて、ボタン操作してからようやく彼の方を見た。

 

 彼はPCの前に座り――図々しいなオッサン――画面を食い入るように見つめていた。

 画面には艦隊これくしょんのログイン画面が映っており、俺の所属しているサーバーの名がボタンの上に表示されている。

 

「これ、吹雪だろう? なあ?」

 

「え? 知ってるんですか?」

 

「知ってるぞ! この右のは大井で、上のは赤城だ! はは、覚えているぞ! 懐かしいな……!」

 

 オッサン……艦これプレイヤーかよぉッ!!

 思わず歓喜して駆け寄り、座椅子に座った彼の横にしゃがみ込んで画面を指さして言う。

 

「その横が戦艦伊勢で、下にいるのが最上です! なんだぁ、鎮さん、提督だったんですねぇ! こんなに長く続いてるけど、近くにプレイヤーなんていないもんだと思って……案外近くにいるもんだなあ」

 

 このゲームを知ったのは偶然だった。ネットで広告が出ていて、試しに見てみただけだったが、ある時から急に人気が急上昇し、一時期サーバにログインできない状況が続いたほどだ。

 俺はそうなる前にプレイし始めており、シンプルかつ深いゲームに魅了された。

 

 ただ女の子の立ち絵が動いて、喋って、ピコピコとエフェクトが出るだけのゲームだったが、俺にとってそれは――色鮮やかな出会いだった。

 

「ふふ、提督か。そうだな。……艦隊これくしょん、か」

 

 俺はそのままマウスを操作してログインする。

 

『か・ん・こ・れ!』

『提督が鎮守府に着任しました。これより、艦隊の指揮に入ります』

 

 艦娘の声が古くなってきたノートパソコンのスピーカーから響いた。

 ワンルームに同じ名前のオッサンが二人、PCゲームにかじりついている……ホラー映画かな? そうだね、紛れも無いホラーだね。

 世に言う腐った方々にも遠慮されそうなむさくるしく意味不明な絵面である。

 

「今の声、早霜か……?」

 

「鎮さんすごいですね、声で分かるって」

 

「間違えるわけもなかろう。私の、部下だった」

 

「嫁ですか?」

 

「嫁だと!? 馬鹿を言うな! 彼女は、立派な艦娘であり、自慢の部下であって――! 嫁は別にいる!」

 

「ははは、まぁまぁ、分かりますよ。でも鎮さん……正直になりましょうよ、提督同士……嫁艦はいくらでもいるものだって……」

 

「やめんか軟派者が! ま、まったく……」

 

 俺は、へへへ、と笑いながら「提督なんですから、これくらいはね」と言った。

 

「お前も、提督なのか……?」

 

 え、そこ? 早霜ちゃんの前髪きゃわわ! きゅんきゅんきゅい! っていう話じゃなくて?

 

「そりゃ提督ですから艦これやってるんですよ。ほら、ここ」

 

 母港画面、いわゆるメインメニュー画面の左上を指し示す。そこには、海原鎮、と思いっきり本名が表示されていた。

 かつて登録する時、ゲームで使用される名前であるのか登録するだけの名前であるのか分からなかったため本名を入力したのだが、それがそのままプレイヤー名となってしまって今に至る。少し気恥ずかしくもあったが、同姓同名の彼にならネタにもなるだろうと思って見せたのだった。

 

「柱島泊地……これは、お前の所属する泊地か?」

 

「そんなところですね。あー……全然攻略進んでないな……艦娘いっぱいいるのに、宝の持ち腐れだこりゃ……」

 

 編成画面を開いて、所持艦を一つ一つ確認しながら呟く俺に、彼は言う。

 

「お前、これ、大艦隊ではないか……」

 

 そんな言い回しするほどのものでもないが。持ってるだけだよこれ。

 難しいゲームでもあるまいに……。

 

 いや、突き詰めてプレイすれば相当に小難しいゲームでもある、と言った方が正しいか。艦娘や装備に設定された数値を計算し、作戦海域に出現する深海棲艦の数値と比べて、わずかな調整を繰り返しながら何度も何度も攻略する、物好きでも匙を投げるようなゲームだ。

 昨今ではギミックも複雑化し、攻略情報を見ずにプレイしようものならばあっさりと大破撤退に追い込まれる程度には、難しい。

 

 彼にそれを懇々と説明したところで、彼もまた提督なのだから同じ苦しみを味わっているのだろうし意味も無いか、と、母港画面に表示されている軽巡洋艦大淀を見た。第一艦隊の旗艦にしたままだったか。どこを攻略してたんだっけ?

 

「鎮、貴官はどこを攻略しておられたのだ」

 

 急に堅苦しい口調になった彼に驚きながら、えー、と言葉にならない声を前置いてから言った。

 

「確か、南方海域の一部を開放したばっかりで、今はイベントも無いんでゆっくりと資源の貯蓄を――あれ?」

 

 ぶぅん、とレンジの音が大きく聞こえた。

 出撃のボタンを押してどこまでクリアしたか確認しようとしたところで、画面はエラーとなる。少女が転んでいる姿に、猫が背を向けて座った画像が表示されてしまい、俺は「あれ、すみません」と口にしながらブラウザを更新する。

 問題無くログイン画面は表示されるが、ログインしてもう一度出撃を選ぶと、エラー画面が出てくる。二度、三度と試すも上手く繋がらず、かといってネットの問題でも無さそうで原因が分からず、俺は唸った。

 

「うーん……? 向こう側のエラーですかね」

 

「……で、あるかもしれんな。いいや、こちら側の不具合かもしれんぞ」

 

 彼は硬い表情のまま立ち上がり「飯を食おう」と言った。

 ゲーム出来ないなら仕方が無い――っていうかゲームをするために招いたわけじゃねえッ! そうだよ、飯を食って交番に送り届けるんだった!

 

 丁度良く、レンジが温め終わったと音を鳴らし、俺は彼にスプーンを手渡して一人用の小さなテーブルの上にカレーと白米のプラスチック容器を置いた。

 二人分のカレーを並べただけでいっぱいになったテーブルを前に床に直に座り、いただきます、と声を合わせて言えば、あとは黙々と食事の時間が続く。

 

 カレーを食べながら、彼はどこからやってきたのだろうと、今更になって問うた。

 

「そういえば、鎮さんは……って、変ですねやっぱ、同じ名前なのに」

 

「そうだな。それで?」

 

「あの、どちらからいらっしゃったのかな、と」

 

「柱島だ」

 

「いえ、ゲームの話ではなく――」

 

「俺が居た場所の事だろう? わかっている。だから、柱島だ」

 

「え、まさか本当に柱島に住んでいらっしゃった、とか……? あそこって人住んでるんですか?」

 

「住んで――まあ、住んでいるようなものだったな、しばし世話になっていた」

 

「へぇ……じゃあ、ここにはどうして? きさらぎに行かなきゃいけないっていうのは分かってますけど、どなたか家族でも?」

 

「家族の所在は分からん。だが、元気にしている事は知っている。もう一人の所在も、分かる」

 

 俺をじっと見つめる彼の視線に耐え切れず、目を泳がせた。

 聞いてはいけない事情があったのか、と俺は小さな声で謝罪する。

 

「……なんか、すみません」

 

「うむ」

 

 先ほどまでフレンドリーだと思ってたら情緒不安定なオッサンである。

 しかめっつらでカレーを食べる彼に対して振る話題も思いつかず、また黙々とした食事が続いた。

 そうしてカレーを半分程度食べた頃、彼から話題を振られて顔を上げる。

 

「鎮、お前は――祖父を知っているか?」

 

「祖父、ですか……? あー、俺もいい歳ですからね、そんな覚えてないんですよ。会ったこともなくて……祖母からよく話は聞いてましたけど」

 

「ほう、なんと」

 

「おじいちゃんは戦争に行ったんだ、と……祖母もかなり高齢ですから、どこまでが本当なのかは知りませんが、結婚して子も生まれたばかりだったのにといつも言っていました。母方の祖母なんですけどね」

 

「その祖母は――」

 

「施設にいると思います。実家近くの――なんて言ったかな。母と父が顔を見せに来いと言うんですが、仕事にかまけて帰ってなくて、祖母の顔も久しく見てないんです」

 

「……そうか」

 

 彼はしばし黙り込んだあと、カレーをのせたスプーンに視線を落としたままぽつりと言った。

 

「男というものは、どうしようもないものだ」

 

「え?」

 

「……ちょっと思い出したことがあっただけだ」

 

 そうしてカレーの残りをかきこみ、かちゃんとスプーンを置いてから手を合わせ、頭を下げる。

 

「ごちそうさまでした。さて――思い出したついでだ。鎮、一飯の礼に一つ教えよう」

 

「はい?」

 

 スプーンをくわえた俺に対して、彼は手を付けていなかった栄養ドリンクを開封して匂いを嗅ぎ、一口飲んでしかめっ面をする。

 そして一気にそれを飲み干したあと、かつん、とテーブルに置いて言った。

 

「……お前は戻れ。我々は親不孝だが、やるべき事があろう」

 

「実家の話なら――」

 

「違う。もう、実家には帰れんだろう、俺も、お前も」

 

「え、えぇ? あの、どういう意味ですかそれ? すみません、要領悪いっていうか、頭悪くて……鎮さんは何の話を――」

 

「我々のいるべき場所の話だ。俺はもう、事を終えてしまったが――お前はまだ、終えていない。ここで終えようというならば、それこそ本当に親不孝者になるぞ。俺とて怒る」

 

 えぇッ!? なんでオッサンに怒られなきゃいけないんですかァッ!

 カレーあげたじゃんかよぉ……くっそぉ……。

 

 迷子になった上に飯も食ってないっていうからオッサンだけど老婆心を見せてご飯くらい食っていけよと高度なダジャレ……は、言ってないな……。

 優しさを見せてやったというのに! なんて奴だ! 比叡のカレー食わせんぞ!

 

 そう言えば柱島にいる比叡のカレーは食べてないな。いつも間宮と伊良湖の美味しいご飯ばかり食べていたから考えたことも無かった。まあ、まだ死にたくないから頼んだりしないが――。

 

 うん? いやいや、ゲームの話だよなこれ。

 どうして柱島にいる比叡のカレーだの、間宮と伊良湖の飯だのと……。

 

「……あれ」

 

 痛い。

 

 腹が、熱い。

 

「鎮。戻れ、今すぐ」

 

「ぅ……い、った……え……? なん、だこれ……痛……!」

 

「痛かろうが、今ならば戻れる。戻るんだ、お前のいるべき場所へ」

 

 彼は立ち上がり、腹を押さえて痛みに目を白黒させている俺を一瞥し、玄関へと歩んでいく。

 待って、という前に彼が玄関を開くと――そこに広がっていたのは、普段見ていた街並みではなく、暗く、冷たい岩や砂にまみれた風景だった。

 

 混乱し、それが一体どういったものであるのかを思考するよりも先に、彼は誰ともなしに呟く。

 

「なるほどな……きさらぎ。きさらぎか。死してなお敵地で戦えと言うのならば、戦ってみせようではないか。お国のために、愛する者が生きる未来のために」

 

 彼が右手を突き出せば、玄関の外にその手が出た瞬間、とぽん、と水面を叩いたような音が部屋に響いた。

 それから――多くの真っ白な手が彼の腕を掴んだのが見えた。

 

「う、ぐっ……何が、起き……待っ――!」

 

「六年ぶりか、深海棲艦ども――今度は俺だけじゃないぞ――我が子孫の大艦隊は必ずや貴様らを撃滅し、暁の水平線に勝利を刻むだろう! それまでは俺が遊んでやるッ!」

 

【アハハ……ハハ……テイトク、アァ……テイトクモ、ウミノ、ソコヘ……シズメ――!】

 

 ずるん、と白い腕が彼を引っ張る瞬間、彼の言葉がはっきりと聞こえた。

 

「動け――鎮――!」

 

 室内の電灯が明滅し、薄暗くなった室内は冷たく、息苦しく感じた。

 ネクタイを外そうと首元に指をかけたが、そこに感触は無く、代わりに、ぱちん、と留め具が外れたような音が聞こえ、頭からぱさりと何かが落ちた。

 

 桜に、錨のマーク――それが軍帽であると気づいた瞬間、俺は全てを思い出したと同時に――玄関へ這いずって向かった。

 

「そう、だ……ぐ、ぅぅっ……し、仕事……」

 

 俺が玄関に近づくと同時に、再び多くの白い腕が伸びたが、扉を強くしめ、鍵をかけた。

 

 これで終わり? いいや、違う、なにか、行動を起こさねば。

 

 俺はどうして家にいるのか。彼は一体誰だったのか。それは、おおよそ考えがつく。

 では、俺はここで何をしているのか、混濁する意識を無理矢理に整理しようと腹を押さえてよろよろと家を徘徊し、最終的にノートパソコンの前に座り込む。

 

 そうだ、阿賀野の艤装が爆発を起こして、それに吹き飛ばされたのだったか。

 

 ならばここはあの世か? 思い切り自宅だけれども――自宅があの世とは皮肉がきいているじゃないかと痛みを誤魔化すために笑い、無意識にパソコンを操作した。

 艦隊これくしょんの画面で、何度出撃を選ぼうとも、エラーを吐き出す。

 

 では、と編成画面を見ても、ただ変わらず艦娘の表示があるだけ。

 

 演習も、遠征も機能していなかったが、母港画面に立つ大淀の立ち絵にカーソルを持って行った時、パソコンからノイズ雑じりの声が聞こえた。

 

『本隊はそのままトラック泊地へ向かってください。道中の深海棲艦とは戦闘行為を控え、後方の航空支援に任せ――ザザッ』

 

「大淀……一体、向こうで……何が……」

 

 再び母港画面から出撃画面に移行を試みた時、そのまま画面がフリーズし、数秒してから――南方海域と思しきマップが表示された。

 だが、見たことのないマスの配置で、艦隊であろう印が三つも表示されている。

 

 南方、トラック泊地に近いマスと、日本から南下している長い長い線でつながれたマス、さらに、パラオと思しき場所にも一つ。

 

 接敵してもいないのに、深海棲艦の絵がゆらゆらとマップ上に揺れていた。

 

 何度も戦ってきた、忌々しくも懐かしい敵の姿。

 

 事態の把握に努めようとするも、痛みがそれを邪魔してしまう。

 まるで悪夢の中で意識を取り戻したようなおぞましい感覚に、何度も口汚く、くそ、と言葉を吐き出す。

 

 そんな時、マウスを握っていた右手に、ぽんと何かが乗った感触がした。

 見てみれば、そこには――

 

「お、ま……むつまる……!」

 

『まもる、ごめんね……まもるを、たすけられなくて……!』

 

「俺は死んだのか! なぁ!?」

 

 むつまるは砂粒みたいに小さく光を放つ涙を流しながら俺の手に縋りついて何度も謝罪していたが、俺の言葉には首を横に振った。

 

『まだ、しんでない、けど……でも、もう……大佐も頑張ってくれてるけれど、私達だけじゃ無理かもしれない……っ! 提督を、守れない……!』

 

 瞬きをした瞬間にむつまるの姿は消え、代わりに俺の手を握ってさめざめと泣く陸奥が目の前にいた。

 驚くよりも先に、自分の部屋に陸奥がいるという事に妙な違和感を覚えてしまって、は、と喉を掠めるような笑い声が出た。

 

 痛みを誤魔化すでもなく、陸奥を元気づけるわけでもない、純粋な感情だったように思う。

 

「守るも何も、それは……()の仕事だ。今何が起きているか説明してくれ」

 

 むつまる――陸奥はしゃくりをあげながら、阿賀野の爆発に巻き込まれた後に、何が起こったのかを話した。

 八代少将が連れて来た艦娘、阿賀野の艤装に不審な札を仕込んでいた事。深海棲艦の艤装の一部を用いて、深海棲艦を呼び寄せた事。事態の収拾に山元大佐が艦娘を指揮している事。見たことも無い深海棲艦から俺の艦娘が逃げながら戦っている事。

 

 ――山元大佐や、協力者である郷田という少将では、あと一歩力が足りないかもしれないこと。

 

『ごめんなさい、提督……私、私ぃ……!』

 

「泣くな陸奥! いや、むつまる……あぁ、もう、どっちでもいい! とにかく泣くな! 何とかする!」

 

『何とか、って……』

 

「わからん! 分からんが、これ、この状態なんだろう!?」

 

 パソコン画面をこつこつ叩いて示せば、陸奥は目元を擦りながら頷いた。

 

「……少し待て! ほんの少しでいい!」

 

 じっとマップを睨み――俺は多くの提督達が積み上げて来た知識の全てを思い出しながら唸った。それも、たったの数分で、俺は痛みに腹を押さえながら立ち上がる。

 

『て、提督! 待って! ここから出ないで! 外は危険なのよ! 私達が、守れるのは、この部屋だけで……!』

 

「動かないといけないんだよ! 今、ここで! ()()()()に情けない姿なんて見せられんだろうがッ!!」

 

 玄関へ行って扉に手をかけた俺を後ろから引っ張る陸奥だったが、俺は構わず扉を開いた。

 

『待って! 提督、やめ――!』

 

 

 ぶわりと、服を翻すほどの強い風が吹き込む。

 

 潮の香りがする、海の風だった。

 

 

『――う、み……何で、海が、広がって……』

 

「仕事に戻るぞ。しっかり手伝ってくれよ、提督とは言っても、私はただの社畜なんだからな」

 

『ま、待って! 私も、私達も一緒に行くから――!』

 

 陸奥の手を掴んだ瞬間、彼女は小さくなり、それを手の平に包んだ俺は、大海原へ一歩踏み出した。

 

 

* * *

 

 

「破片の除去は完了していますが、輸血量が相当――」

 

「熱傷もなぁ……これ、こんなもの、見たことが無いぞ……艦娘の艤装からだろう?」

 

「ああ。こりゃ、三か……」

 

「一部が二……どちらにせよ運が良かったですよ。制服のおかげでしょうかね。吻合、そっちは間に合うか」

 

「はい。あとは――」

 

 声が鈍く聞こえる。

 瞼に光を感じてゆっくりと開いた。腹のあたりがもぞもぞと動かされている感覚にじわりと意識が戻ってくると、数名が俺を囲んで立っている事に気づき、からからに乾いた口を開く。

 

「こ、こ……は……」

 

「っ! おい麻酔! 術中覚醒だ!」

 

「えぇ!?」

 

 慌ただしく声が飛び交う中で、逆光にもかかわらず、全員が顔を青くしたのが見えた。

 俺の声は酷く低く、室内に反響していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「艦隊の指揮を、執る……はや、く……済ませろ……ッ!」


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